2021年9月30日木曜日

2021年9月30日の福音

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐えましょう。(詩編130:3)
神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。(2コリント5:19)

なんとありがたい言葉なのでしょう!神さまは、キリストにあって私たちの罪の責任を不問に付してくださったのです!もしも神さまが私たちの罪を心に留めておられたら、一体誰が生きていかれるでしょう。まったく不可能です。私の全部を撮影したビデオとか、私の言葉を余すところなく録音したテープとか、そのようなものを突きつけられたら恥ずかしくて目を上げられません。ところが神さまは、私のすべてをご存じの上で、その責任を問うことなく、私のために和解の手を伸ばしてくださった。御言葉はそのように語ります。
ある人が、「神は私たちにとっては不倶戴天の仇だ」と言っていました。不倶戴天の仇。辞書によると「同じ天下には生かしておけないと思うほど、恨みや憎しみが深いこと。また、その間柄。」という意味だと説明されています。しかし少し不思議な言い方です。「神にとって私たちは不倶戴天の仇」というのであれば、さみしいですがよく分かります。私が神さまから御覧になって悪いから、神さまにとっては生かしておけないほどの罪深いもの、バチを与えるべきものということでしょう。しかし、この人はそうは言わない。神こそが、私たちの不倶戴天の仇だと言うのです。
これが「罪」ということではないでしょうか。あの善悪の知識の実を食べろと蛇に唆されたときも、それを食べれば神のように善と悪とが分かるようになると言われて、それを食べてしまいました。神のように、神を必要とせずに生きられる。あの弟息子が父親からもらった財産の分け前をすぐに金に換えて遠い外国に旅立ったのも、父親の姿に託された神さまのもとから離れたかったからです。神なしで生きていきたかった。そこに自由があり、そこに人間らしい生き方があると信じ込んでいた。ところが、そうではありませんでした。誰一人、彼のために豚の餌でさえもくれませんでした。あるいはあの木の実を食べた後、アダムとエバの夫婦の子どもたちは兄弟の間で殺人事件を起こしてしまいました。神さまを捨てたとき、隣人との間の愛も失われ、敵対者になってしまった。世の中全部が不倶戴天の仇になってしまいました。
ところが、そのような私たちの罪の責任を問うことなく、神さまがキリストにあって世を御自分と和解させたのです。私たちは、神さまと和解した。ここから新しい世界が始まります。神さまは私たちの仇ではなく、慈しみと憐れみに満ちた父であり、私たちを「愛する子よ」と呼んでくださる方なのです。和解の福音。これが神が私たちに託してくださった言葉です。

2021年9月29日水曜日

2021年9月29日の聖句

主は私を遣わされた。主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日を告知するために。(イザヤ61:1,2)
天使はマリアに言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいたのだ。」(ルカ1:30)

かつて、旧約の預言者たちが耳にした「主が恵みをお与えになる年」、主なる神様の救いの時。その時について、ヘブライ人への手紙を見るとこのように書いてあります。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。この人たちと書いてあるのは、アベルやエノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブのような、旧約聖書に名前が書かれている信仰者たちのことです。彼らは神の約束を信じ、それを仰ぎ望んで生きていた、と証言しています。まさに、イザヤ書に書いてある「主が恵みをお与えになる年」を仰ぎ望み、そのことを希望として、この地上の旅路を生ききったのだ、と言っています。
主が恵みをお与えになる年。この主の恵みの年、救いの日を告げるために、今まさに神から遣わされた天使が一人の女性のところに来て言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいたのだ。」ここから始まる神の恵みの偉大なドラマは、マリア一人のための恵みには留まらずに、私たちすべてのもののための大いなる恵みでした。私たちも、マリアと同じ神の恵みによって生かされています。
ですから、このマリアのための天使の言葉は私たちのための言葉でもあります。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいたのだ。」この「マリア」という呼びかけに、私たちは自分の名前を入れて聞くことが許されています。キリスト到来の恵み、神の子が来て私を救ってくださるという恵みは、この私のための恵みでもあるからです。
最近になって、コロナの検査で新規に陽性になる人の数が激減して、月が明ければ緊急事態宣言も解除と言うことで、社会の緊張感がずいぶんと緩まりました。みんな我慢を強いられていたので、当然だと思います。良いときは私たちの気持ちも晴れやかになるし、悪くなれば個々人の気分も塞ぎがちです。しかし、キリストの恵みは、私たちの気分には左右されません。良いときにも悪いときにも、キリストが私を救ってくださること、私たちが神の国の国民であることは、何ら変わりません。キリストの恵みが今日もあなたを生かしています。この恵みの圧倒的な事実によって、私たちは今日も旅を続けます。

2021年9月28日火曜日

2021年9月28日の聖句

神は言われる:お前は額に汗を流してパンを得る、土に返る時まで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に帰る。(創世記3:19)
キリスト・イエスは死の力を打ち破り、福音を通して不滅の命を現してくださいました。(2テモテ1:10)

今日の旧約聖書は、神が食べるなと命じた木の実を食べた二人に告げた、神さまの言葉です。「お前は額に汗を流してパンを得る、土に返る時まで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に帰る。」
最初、神さまは人間を土の塵からお造りになりました。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」このように造られたことは、もともと人間にとっては祝福の事実でした。人間は神さまが造った世界の一部であり、この体が土の塵から生まれたということは、世界と人間との祝福に満ちた一体性を表しているのだと思います。しかも、土の塵で形づくられた土の塊に過ぎない人間の鼻に、神さまご自身が命の息を吹き入れてくださった。だから、人は生きる者になった。これが祝福以外の一体何でしょうか。
しかし、命の息を与えてくださった神さまを裏切って、ないがしろにし、蛇の言葉を信じたとき、祝福に満ちていたはずの事実が呪いになってしまいます。「お前は額に汗を流してパンを得る、土に返る時まで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に帰る。」今や人間は塵に過ぎないと言われ、そこには大地とのつながりや、神の命の息というみずみずしい信頼関係が損なわれてしまったかのようです。神さまとの関係、大地との関係、アダムとエバという隣人同士の関係、それらがすべて壊されてしまった。祝福であるはずのものが呪いになってしまった。それが、死の力の急所です。
キリストはこの呪いから私たちを救うために、私たちのところへ来てくださったのです。「キリスト・イエスは死の力を打ち破り、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」キリストが、私たちを神さまと、大地と、隣人と、もう一度結びつけてくださったのです。だから、キリストの福音は和解の福音です。私たちをもう一度共に生きるように結びつけてくださった。このキリストの現してくださった福音が、私たちを死の呪いから解放する不滅の命そのもの。聖書はそのように言います。

2021年9月27日月曜日

2021年9月27日の聖句

苦しみに遭う前、私は迷っていました。しかし今は、あなたの仰せを守っています。(詩編119:67)
神の御心による悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせます。(2コリント7:10)

苦しみは、苦しいから苦しみなのであって、いやなことです。できれば遭いたくないし、ほかの人にも苦しい思いはしてほしくありません。苦しみは悲しみでもあって、美化できません。しかし、その苦しみにも意味がある。それは、すべてが神さまの御手の内にあるということを私たちが知り、また信じているからです。
ヘブライ人への手紙にこのような言葉があります。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、鞭打たれるからである。」子であるからこそ、主なる神さまが私たちを鍛え、鍛錬を受けているのだ、と言います。
今朝のコリントの信徒への手紙でも、このように言います。「神の御心による悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせます。」この言葉でも、悲しみを「神の御心による悲しみ」と受け止めなおしています。ただの悲しみ、ただただいやなこと、そのように受け止めるのではなく、神さまとの関わりの中で悲しみを受け止めなおしている。すると見えてくるのは、私たちの罪です。悲しみが私を悔い改めに導き、この悔い改めは取り消されることのない救いに通じるのだ、と言うのです。
私たちは、苦しみや悲しみのために迷います。どうしたら良いのか分からなくなります。ちょうど荒れる海で灯台の光に導かれるように、私たちは神さまを見つめます。すべては神さまの手の中にあるので、私たちは苦しみや悲しみをも善きものに変えてくださる神さまの奇跡を体験するのです。この不思議な祝福の世界に、あなたも招かれています。

2021年9月26日日曜日

2021年9月26日の聖句

主は目ない人の目を開く。(詩編146:8)
あなたがたの心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているかを悟ることができますように。(エフェソ1:18)

主日礼拝のプログラムに「罪の告白と照明を求める祈り」というものがあります。二つの祈りが組み合わされています。罪の告白の祈り、そして照明を求める祈り。以前さがみ野教会では別々の祈りとして献げられていましたが、今は一つの祈りになっています。
照明を求める祈りというのは、初めて聞いた人には意味がよく分かりにくいかも知れません。もう少し正確に言うと「聖霊の照明を求める祈り」ということになります。聖霊というのは、神の霊。神様ご自身の私たちの内面に働く力は、聖霊なる神さまの力です。その聖霊なる神さまが私たちの照明になる。照明というのは、電気の照明と同じ意味です。英語で言えばイルミネーション。聖霊が私たちの心を照らして、明るくしてくださいますように、という祈りです。「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」(詩編119:130)という、御言葉の光を待ち望む祈り。すなわち、聖書の御言葉がよく分かるように私の心を照らしてくださいという祈り、それが照明を求める祈りです。
「主は見えない人の目を開く」と御言葉は言います。私たちの目が見えなくなってしまうのは、なぜなのか。それは、私たちの罪が目を見えなくしているからです。神さまの光の中で、私たちの目が曇ってしまっていることが顕わになる。神さまにこの目の曇りを晴らし、私たちの目に光を指して頂かなくては、私たちは見えません。だから、罪の告白と照明を求める祈りが一つの祈りとして献げられています。
今、さがみ野教会では主日礼拝の説教を動画にして配信しています。この状況下で礼拝堂に来られない方のために、動画を作っている。本来は礼拝全体を配信すべきであるのかも知れませんが、現在は一部分だけにとどめています。ただ大切にしていることは、説教だけではなく、その直前にあるこの祈りを収録するようにしていることです。大切な祈りだからです。私たちの一週間も、主なる神様に御言葉の光を求め、神さまご自身の霊の照明によって照らして頂くものでありますように。わたしの目を開いてくださいと祈りつつ、新しい日々への希望を頂きていきたいです。

2021年9月25日土曜日

2021年9月25日の聖句

他の神々に従って、それに仕え、拝んではならない。手で造ったものによって私を怒らせてはならない。(エレミヤ25:6)
世界とその中にある万物とを造った神は天地の主であり、手で造った宮などには住まわれない。また何か足りないかのように人の手によって仕えられる必要もない。神はすべての人に命と息と万物とを与えておられる。(使徒17:24~25)

他の神々従うなというのは、聖書の一貫した主張です。十戒でも、今日与えられているエレミヤ書を初めとした預言書でも、新約聖書でも、他の神々に従うことが強くとがめられている。こういうところから、一神教は不寛容だと言われることも多いです。確かに一面ではその通りで、神さまは、私たちが主なる神様と他の神々との間を行ったり来たり、フラフラすることを良しとはなさいません。考えてみればそれは不誠実な態度です。夫婦の関係で置き換えてみても、自分の夫や妻が自分とほかの人との間を行ったり来たりフラフラしていたら、嬉しいはずがないのではないでしょうか。
今日の聖書の御言葉には、もう一つ別の側面からその理由が書かれているように思います。「世界とその中にある万物とを造った神は天地の主であり、手で造った宮などには住まわれない。また何か足りないかのように人の手によって仕えられる必要もない。神はすべての人に命と息と万物とを与えておられる。」神さまがすべてのものを造り、命を与え、息を与えたのだ、と言っています。神さまがすべてのものを造ったのであって、神さまが人間にお願いをして不足を穴埋めするために、宮をこしらえたり命を吹き込んでもらったりする必要はないのだ、と言っている。これが大切なのだと思います。
他の神々は、人間が造ったものです。そこには何かの願いだったり、恐れだったり、いろいろな動機がある。いずれにしてもそれはその動機を反映した顔をもちます。病魔を退散させる怖い顔だったり、優しく包み込んでくれる慈悲深い顔だったり。その顔は人間の願望を反映します。その代わり、人間は自分の好きな顔を持つ神々を担いで運ばなければなりません。造られたものは、造られたものに過ぎないからです。
主なる神様と私たちとの関係はその反対です。神さまが私たちを御自分のかたちに造り、命を与え、そして私たちを神さまが担ってくださいます。神さまが私たちの造り主です。造り主の前に、私たちが本当に人間らしく生きられる場があるのです。

2021年9月24日金曜日

2021年9月24日の聖句

正しき者の待望は喜びとなる。(箴言10:28)
あなたがたが、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。(ヘブライ6:12)

今朝の新約聖書には「信仰」という言葉が出てきます。この「信仰」ということについて、ヘブライ人への手紙にはこのようなすばらしい言葉が書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」神さまが始めておられる新しい出来事に期待し、信頼して一歩踏み出すこと。それが信仰です。
旧約の預言者を通して、神さまはこのように言いました。「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(イザヤ43:19)。
神さまは、何もない荒れ野にも新しい道を敷かれる方です。死に満ちた砂漠に大河を流れさせることがおできになる方です。しかし、それは、まだ私たちの目には見えません。私たちの目の前にあるのは荒れ野であり、砂漠です。信仰は、砂漠に道を敷き、大河を流れさせるという神さまの御言葉を「この現実にもかかわらず信じること」です。「この現実のゆえに信じる」のではありません。この現実にもかかわらず。たとえ現実がそれに逆らっていたとしても、いやそうであるからこそ、神さまの御業に期待し、待望し、信頼する。それが信仰です。
正しき者の待望は喜びとなる、と聖書は言います。神さまを信じる待望は必ず喜びの実を結びます。神さまは必ず御自分の御業を果たしてくださるからです。それを信じることには忍耐が必要です。簡単なことではありません。忍耐して信じることこそが私たちの信仰の戦いです。何もないところに御業を果たしてくださる神さまを、私たちは信じます。

2021年9月23日木曜日

2021年9月23日の聖句

あなたがたは再び、正しき者と悪しき者、神に仕える者と仕えない者との区別を知るであろう。(マラキ3:18)
たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)

たゆまず善を行いましょう、と言います。「たゆまず」は漢字で書くと「弛まず」と書く。この字は「弛む(ゆるむ)」とも読みます。緊張していたものがゆるんでしまって、だらけてしまう。続けていたことがいやになって、怠ってしまう。ここでは、善を行うことにおいてたゆんでしまう、と言います。善を行うことに疲れて、もう止めてしまう。「飽きずに励んでいれば」とも言っているので、善を行うことに飽きてしまうと言うこともできます。
なぜそのようなことになるのか。いろいろな理由があるでしょうが、一つにはいくら善を行っても成果が見えず、疲れてしまうということがあるのではないかと思います。いくら心を込めて善を行うことを心がけ、それに励んでも、誰にも認めてもらえない。いっこうに状況が改善しない。空しくなってしまう。モチベーションが維持できなくなってしまう・・・。
聖書は「時が来て、刈り取ることになります」と言っています。私たちの善を刈り取ることのできる「時」が必ず来る、と言う。しかし、そのような「時」は一体いつ来るのか?本当に来るのか?疑いだしたら、底なし沼にはまってしまいそうです。
このようなときにこそ、私たちはキリストのお姿を思い出しましょう。キリストこそ、隣人のための完全な善に生きた方です。隣人を愛し、神を愛し、そのためにご自身を献げました。それではキリストはその報いに何を受け取ったのか?キリストへの報いは、十字架にはりつけにされることでした。ところが神さまはこのキリストを死者の中から引き上げ、御自分の右の座につかせられたのです。つまり、私たちが善の実りを刈り取る来たるべき「時」というのは、やがて父なる神様の御許に引き上げられたとき、キリストの御前に立ったとき。すべてが完成する最後の時のことです。私たちは父なる神様が「よい僕だ、よくやった」と迎えてくださるその日まで、この世でなすべき善を献げていきます。
私たちは人間である以上、疲れてしまいます。いやになって、たゆんでしまうことがあります。そのようなとき、私が善くても悪くても、私のためにひたすら善いもの、つまり神の愛を与えてくださるキリストを見上げましょう。この方が私を迎えるために、今や手を広げて待っていてくださるのです。私たちの今日という一日は、キリストの御許へ至る歩みなのです。

2021年9月22日水曜日

2021年9月22日の聖句

慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。(イザヤ40:1)
イエスは群衆を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。(ルカ9:11)

主イエス・キリストは、父なる神様からの召命に応えて、人々を迎え、神の国について語り、治療が必要な人々をいやしておられた。どれも、溢れるような情熱がなければできないことです。人々を迎え、と書かれています。今日の新約聖書の聖句は5000人の群衆を五つのパンと二匹の魚で養ったという話の冒頭に書かれています。つまり、「群衆を迎え」といったときの「群衆」というのは5000人もの群衆です。いや、「男が5000人ほど」と聖書に書いてありますから、女の人を合わせれば一体何人でしょうか。すさまじい数の人々を、主イエスは迎えておられた。愛がなくては不可能です。
主イエスは、彼らのために神の国を語りました。福音を語り聞かせてくださった。これこそがこの群衆に一番必要なものだからです。これこそが、神さまが御自分の民を慰めよと言われた、その一番の慰めだからです。神の国は来た、実にあなたたちの間に来た。主イエスはそのように宣言し、この群衆ももうすでに神の国に生きていることを告知します。福音の出来事が、キリストが福音を宣言するここで現実になっていることを告げたのです。私たちに一番必要な言葉です。
そしてキリストは、治療の必要な人々をいやしてくださいました。キリストは一方的な振る舞いをなさらなかった。人々が痛んだり苦しんだりするのを無視して、私が言うことだけを聞いておけ、とはおっしゃらなかったのです。神の国がここに来ているしるしとして、人々の痛みや苦しみをいやしてくださいました。目の前の「一人の人」への愛と共感がなければできないことです。
「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」キリストは、私たちを慰めてくださる方です。私たちを迎えるために手を広げて駆け寄ってくださいます。あの失われた息子の父のように。私たちに福音を宣言するために、どんな反対に遭っても怯むことがありません。だから今も神の国の福音が響いて美しい調べを立て続けています。キリストは私たちの痛みに深く心を寄せ、共にそれを苦しみ、そしていやしてくださいます。キリストは私たちの痛みを代わりに苦しんで、私たちをいやしてくださいます。
このキリストは、今日も、私たちを離れてしまうことがありません。決してありません。キリストの平和が皆さんの内にありますように。

2021年9月21日火曜日

2021年9月21日の聖句

毎日私たちは神を賛美し、とこしえに、御名をたたえます。(詩編44:9)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。(1テサロニケ5:16~17)

今日の御言葉を読んで、わたしはルカによる福音書の最後の場面を思い出しました。このように書いてあります。
「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」
主イエスが手を上げて祝福しながら天に上げられるのを見て、イエスを伏し拝み、使徒たちは絶えず神殿の境内で神をほめたたえていました。復活したキリストと出会い、福音の喜びを知り、キリストの祝福の中に生きていることを喜んで、神をほめたたえて毎日を過ごしていた。
「毎日私たちは神を賛美し、とこしえに、御名をたたえます。」この詩編の「毎日」というのは、本当に良い言葉です。私たちも毎日神さまをほめたたえ、賛美しましょう。主イエス様の祝福の手は、今も下ろされていないのです!今日もキリストは私たちのために手を上げて、祝福してくださっています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい」と聖書は言います。聖書が私たちに命じることは、法律とか掟とは違っています。何が違うかと言えば、法律に「いつも喜んでいなさい」と書かれていたとしても、それは無理です。強制力を持って喜ばせることはできません。喜んでいる振りならできても、心から喜ぶことは、強いられてはできない。喜びには喜びの根拠が必要です。そしてその根拠があれば、喜びは内面からわき上がってきます。私たちは信じています。キリストは今日も祝福の手を下ろしていない!キリストの祝福の事実が私たちに喜びを与える。だから聖書は命じるのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい」と。キリストの祝福の手が、どんなときにも私たちを離れることは決してないから、私たちは今日も喜び、そしてそのキリストに祈ります。私たちの祈りは空しくない。天に昇ったキリストが、私たちの祈りを神に届けてくださるからです。

2021年9月20日月曜日

2021年9月20日の聖句

私は死ぬことなく、生き長らえて、主の御業を語り伝えよう。(詩編118:17)
生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)

今日の新約聖書の御言葉は、この部分だけではなく前後も一緒に読んだ方が良い箇所だと思います。このように書かれています。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」
律法にお陰で義とされるというのは、自分の正しい生き方に頼るということです。自分がちゃんとしているから、自分には価値がある。自分は努力しているから、自分を認められる。そういう考え方は、そういう自分を周りは認めて然るべきだとなるし、成果を残せていない人は努力をしていない駄目な人という周囲への傲慢を生みます。もし、人が、自分が、ちゃんとしているから価値があるのだとしたら、神の恵み、キリストの死は無意味になります。古いわたしはすでにキリストと一緒に十字架につけられました。自分の正しさを物差しにして優越感に浸ったり劣等感にさいなまれたりする古い自分はすでに死んだ。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。
だから、今キリストを信じる信仰によって生きているわたしは、無価値なわたしを無価値なままに受け入れ、愛し、わたしのためにキリストを与えてくださった神の愛を賛美します。神を礼拝するために、わたしは今生きている。それが私たちキリストを信じるものの確信です。今日、私たちは、キリストを与えてくださった神を礼拝し神を賛美するために、生きているのです。

2021年9月19日日曜日

2021年9月19日の聖句

怒りをやめ、憤りを捨てよ。憤慨するな、それにより悪を行わないためだ。(詩編37:8)
ご覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。(ヤコブ3:5~6)

なんと耳が痛い聖句!怒っているとき、憤っているとき、心を支配している確信は「絶対に自分が悪い」ということです。「確かに自分も悪いけど」と口では言っても、心のどこかで思っていても、その何倍も自分の方が正しい、あるいは自分は被害者だと思えるから、怒ります。相手が悪いと言って憤ります。
聖書は、憤慨は悪につながると言います。「悪につながる」というよりも、直結しているとか、悪の虜になっているということだと言った方が良いかもしれません。それまでの主張が例え正しかったとしても、怒っているということそれ自体が悪の誘惑に他ならないと聖書は言います。
その悪の火事は、舌を通して燃え広がります。「ご覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。」この言葉は深いと思います。この舌がどれほど悪を行い、どれだけたくさんの炎を燃やしてきたことか・・・。
罪は禍々しいです。ちょっと怒っちゃったとか、多少言葉を間違えたとか、誤解を与える表現だったとか、本当はそういうことではないのです。弘法も筆の誤りと言いますが、罪はそうではない。弘法も筆の誤りというのは普段すばらしい字を書ける人がした失敗ですが、罪を犯す私は、存在そのものが歪んでいる。怒りに支配される心、憤って口にすべきでない言葉を舌にのせる私は、存在の根本からねじれてしまっています。
主イエス・キリストに救って頂かなければ、私は救われようがありません。土台がくさってしまっては、リフォームではどうにもなりません。建て替えなくては。キリストの十字架は、私の存在を新しくしてくださいます。キリストの十字架の血で、私も洗って白くしてくださるのです。私はキリストに救って頂かなくてはどうにもならない。キリストの憐れみにすがりつつ、私はそのように告白します。

2021年9月18日土曜日

2021年9月18日の聖句

主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。(民数記6:25)
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)

今日の旧約聖書の御言葉は、アロンの祝福と呼ばれる言葉の一部です。礼拝の最後の祝福の言葉として用いられることもあります。祝福の宣言によって私たちの一週間が始まります。
大学一年生から二年生になる春休みに、アメリカへ行きました。牧師にお願いして紹介して頂き、カンバーランド長老教会の教会にもいくつか訪問させて頂きました。楽しい旅でした。教会に伺ったので、たくさんの牧師たちと出会いました。教会に行って、会って、しばらく話して別れるとき、牧師たちは大きな手で握手をして、私にGod bless youと力強く言ってくださいました。祝福を告げる言葉で別れる。とても嬉しい経験でした。また、この旅で教わったのはgoodbyeという別れの挨拶も、もとはGod be with you、神さまがあなたと共にいますようにという祝福の言葉だということです。いずれも相手のための神の祝福を求めて別れる。美しい別れの挨拶です。
「主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。」私たちの今日という一日も、この祝福をもって始まります。私たちは神の御顔の光の中で、神の恵みの光の中で、今日という一日を生きていきます。
キリストは「あなたたちに平和があるように」と言われました。キリストの平和、キリストが宣言してくださった平和が、私たちの一日の歩みを追ってきます。そして、キリストがこの平和を告げてくださったのは、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」という派遣の言葉と共に、キリストに遣わされる者への祝福の挨拶です。私たちの一日は、キリストに遣わされて歩む一日です。私たちは、キリストに派遣されて、人と出会い、今日するべきことをし、与えられた命を生きていきます。そのための平和の祝福を、キリストが今私たちに宣言してくださっているのです。

2021年9月17日金曜日

2021年9月17日の聖句

主に造られたものはすべて、主をたたえよ。主の統治されるところの、どこにあっても。私の魂よ、主をたたえよ。(詩編103:22)
人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国の宴会の席に着く。(ルカ13:29)

東から西から、南から北から。世界中のどこからでも、ということになります。あらゆる人々、言語も文化も歴史も、これまで背負ってきたものはさまざまであり、状況も事情も異なります。多様で、種々雑多で、本当にいろいろな人がいる。そういう人々が一つの色に染められたり、多様性を失ったりするのではなく、東から来た者も西から来た者も、南から来た者も、北から来た者も、それぞれの東や西や南や北から来た者として、神の国の宴会の席に着くのです。
「主に造られたものはすべて、主をたたえよ」と言っています。主に造られた者です。主が、私たちをこのように造ってくださいました。男に造り、女に造り、この時代に造り、この国に造り、このような私に造ってくださいました。なかなか人には分かってもらえない私を、どこかに隠し持っているかも知れません。その「私」も、神が造ってくださいました。そのような私として、神に造られた者として、私たちは神をたたえます。すべての造られた者が神を賛美しますように、と、私たちも神さまをたたえます。
私たちが一つになれるとしたら、それはただ同じ神の愛の中に生かされているという事実の中でだけなのではないかと思います。人間が考えたり造り出したりする「一つ」は、多くの場合、「東から西から、また南から北から」という事実をなくしてしまう一つです。あるいは、人間が生み出す多様性は、「一つ」を放棄した多様性になってしまいます。まるで神さまがバラバラにされてしまったかのように。私たちは、ただ神の愛と憐れみの中でだけ、一つであることができます。神の国の宴会の席、それは私たちの努力や可能性の延長にあるのではなく、ただ神様だけがもたらすことのできる奇跡です。神さまの御許に、私たちの最高のしあわせがあるのです。

2021年9月16日木曜日

2021年9月16日の聖句

主よ、あなたは人をも獣をも救われる。(詩編36:7)
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。(マタイ6:26)

この世界には、神さまの慈しみが満ちています。神さまは人も獣も救ってくださいます。神さまは、人間を愛し、大事にしてくださるのと同じように、獣や鳥や木々も、この世界のすべてを愛しておられます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」神さまが養ってくださるから、私たち人間も、この世界のすべても、保たれているのです。
従って、自然世界を闇雲に消費し、そこから収奪して好きに使うというのは、やはり罪といわなければならないのではないでしょうか。そうではなく、この世界は神が与えてくださった賜物であり、隣人や獣たちと分かち合うために私たちの手に預けられているものです。カンバーランド長老教会の信仰告白にこのような言葉があります。「クリスチャン・スチュワードシップ(キリスト者の管理の務め)は、すべての命と創造物は神から委託されたものであり、神の栄光と奉仕のために用いられるべきであると認知することである。それは、人間の技能や力を創造的に用いるだけではなく、天然資源を保護し責任をもって用いることでもある。これらの神からの賜物は、すべての人、特に貧しい人々と分かち合うものである。」
この点で、私たちの社会は間違いを犯してしまっていると言わないわけにはいかないと思います。貧しい人から奪い、自然から奪い、動物から奪い、自分が便利で豊かになることを追い求めて、ここまで来てしまいました。私たちは、この世界を好きなように使って、かなり壊してしまいました。将来の世代に責任ある仕方で世界を受け渡すには、かなりタイムリミットが迫っています。この責任を果たすためにも、私たちはこの世界を保持しておられる神さまの愛と憐れみに立ち帰る必要があります。この世界を造り、命を与え、今も保っていてくださる神さまの愛に、今こそ帰りましょう。

2021年9月15日水曜日

2021年9月15日の聖句

虐げから遠ざかれ、恐れなくても良いからだ。恐れからも遠ざかれ。それが近づくことはない。(イザヤ54:14)
イエスは言われる:私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:27)

「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。」主イエス・キリストは私たちに平和を与える、と言われます。「平和」という言葉は、平和と訳しても良いし、平安と訳すこともできます。キリストは私たちに平安を与えてくださる。しかも世が与えるように与えるのではなく、キリストにしかできない仕方で私たちに平安を与える、と言われるのです。
私たちにはどうしても平安でいられないことがあります。どうしても不安で心がかきむしられて、もうどうにもならないということが、私たちにはある。キリストはそんな私たちに平安を与えてくださいます。この言葉はいわゆる最後の晩餐の席上で語られたものです。翌日、イエスは十字架にかけられる。しかし三日目の日曜日のことです。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」主イエスは平安をなくした私たちのところへ来て、「あなたがたに平安があるように」と語りかけてくださいます。世が与えるように与えるのではない。それは、十字架にかけられ、復活したイエスが与える平安だ、ということに他ならないのです。
「虐げから遠ざかれ、恐れなくても良いからだ。恐れからも遠ざかれ。それが近づくことはない。」私たちは、虐げから遠ざかって良いのです。恐れから離れて良い。その点で無理する必要はありません。逃げていい。私たちを救ってくださるキリストのもとに、私たちは逃げていい。キリストの与えてくださる平安に逃げ込んで良いのです。

2021年9月14日火曜日

2021年9月14日の聖句

いかに幸いなことでしょう、弱いものを受け入れる人は。災いの降りかかるとき、主はその人を助けてくださいます。(詩編41:2)
憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。(マタイ5:7)

「いかに幸いなことでしょう、弱いものを受け入れる人は」と、聖書は言います。「弱いもの」というのは、どういう存在なのか?聖書にはその代表的な存在として、外国人寄留者、寡婦、孤児などが登場します。彼ら・彼女らは社会の中で生きる基盤が非常に弱く、貧しいことも多く、とても弱い立場にいました。それは、聖書の時代から何千年もたった今でも同じです。
新約聖書の時代になると、「弱いもの」として、徴税人や罪人と呼ばれる人々も数えられていると思います。徴税人の多くは金持ちでしたので、ある意味では強いものです。ところが社会の中では尊敬されていなかった。というよりも見下げられ、蔑まれて、つまはじきにされていました。あるいは「罪人」と呼ばれている人々がどういう人たちだったのか、の全貌はよく分かりませんが、そこには例えば売春婦も含まれていたようです。彼女たちも、とても激しく差別されていました。それも、現代でも同じです。
あるいは、今聖書を読んで徴税人や売春婦を差別するファリサイ派を眺めながら、「ファリサイ派っていやだな」と言っている私たちを御覧になって、主イエスは言われるかも知れません。私はファリサイ派のような弱いもののために来たのだ、と。私たちの正義感が叩き潰す人々、あの人は非難されて然るべきだとみんなが思い込んでいる「悪い人」、群衆の陰口の標的になっている人。彼らは一見すると弱いようには見えなくても、主イエス様の目には、救うべき弱い人と映っているのではないでしょうか。
「憐れみ深い人々は、幸いである」と主イエスは言われます。そのように言う主イエスさまこそが、本当に憐れみ深いお方です。キリストこそ、私たちへの無限の憐れみを見せて、哀れな罪人である私たちを救ってくださいました。キリストの憐れみが私たちを生かしてくださいます。私たちも憐れみの人として生きるようにと、主イエスが私たちを温めてくださっています。

2021年9月13日月曜日

2021年9月13日の聖句

天よ、上から水を滴らせよ。雲よ、義を降らせよ。地よ、開いて、救いを実らせよ。義を共に芽生えさせよ。私は主、私がこれを創造した。(イザヤ45:8)
蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。(2コリント9:10

天から降ってくる雨、雲から落ちて地を潤す雨粒。それは神さまがお造りになったものです。これによって地が植物を芽生えさせ、実りを結ぶ。それは神さまの恵みの業です。「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」私たちの働いて得た収入も、私たちの労苦の実りも、神さまが結んでくださった恵みの実りです。神さまの祝福によって、私たちは今日も命を与えられている。そのことを深く感謝したいと願います。
そして、それと同じように、雨のように天から降る義、救いの実りも、神さまが与えてくださる恵みの実りです。「それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えて」くださるのは、神さまに他ならない。
私たちの肉体も、心も、霊も、神さまが養ってくださいます。私たちは神さまの御前に、神さまに生かされて、今日という日を生きている。神さまが私たちを愛してくださって、私たちが生きるために必要な「実り」を与えてくださっている。私たちはそう信じています。
主なる神様は、「私は主、私がこれを創造した」と言っておられます。創造するという言葉は、何の素材も材料もないところ、まったくの無から造るという特別な言葉です。神さまは何もないところから雨を降らせ、地を潤し、救いを実らせ、義を芽生えさせる。私たちの営みがある程度良いからそれを使おうということではなく、あるいは私たちが悪すぎて何もできなくなってしまうというのでもなく、神さまが無から潤いを、救いを、義を建ててくださる。私たちを救うための神さまの御業は、すべて神様ご自身が成し遂げてくださる。そのように宣言しておられる。私たちは、この神様の救いの御業に与っているのです。

2021年9月12日日曜日

2021年9月12日の聖句

主よ、あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を、顧みてくださいます。(詩編10:14)
病気の子どもの父親はイエスに、「おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください」と言った。(マルコ9:22)

この子どもは汚れた霊に苦しめられていました。幼い頃からです。「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」と、父親は訴えています。どんなに苦しかったことでしょう。その子も、そして父親や、心配しながら待っていたのであろう母親も。子どもが自分を傷つけている姿は、本当につらかったに違いない。息子を苦しめる汚れた霊を、しかし、これまで誰も追い出すことができなかった。イエスの弟子にもできなかった。それで、父はわらにもすがる思いでイエスに言うのです。「おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください。」
すると、イエスは父親に言いました。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」すると父はすぐに叫んで言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と。
私は、信じるというのはこういうことなのだと思います。堂々と、胸を張って「信じます」ということではない。最後の晩餐の席上でのペトロは、そうだったのかもしれません。胸を張って「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。しかし、その自信はその夜の内に砕かれました。私たちには堂々とイエスさまに宣言できる信仰なんて、ないのかもしれない。しかし、主イエスは「信仰のない私をおたすけください」と訴える信仰を無下にはなさらないのです。イエスはこの息子をいやしてくださいました。
「主よ、あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を、顧みてくださいます。」それは、自分の不信仰さえも神さまにゆだねる人のことです。自身一杯に神さまの前に立てない私を、そのままに神さまにお委ねする人を、神さまは決して捨てません。あなたの労苦も悩みも、神さまが助けてくださいます。だから、大丈夫です。

2021年9月11日土曜日

2021年9月11日の聖句

あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神である。(イザヤ52:12)
イエスは言われる:行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。(ヨハネ14:3)

今日の旧約聖書の御言葉は、ぜひ聖書を開いてイザヤ書第52章全体を読んで頂きたいです。7節が特に印象深い言葉です。
「いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」
と始まっています。その良い知らせは、「あなたの神は王となられた」という救いの知らせです。預言者からこの御言葉を最初に聞いた人々は、とても厳しい状況に生きていました。虚脱と言えるような状況。救いが見えない。しかし、預言者は告げます。「あなたの神は王となられた」と、福音の言葉が今響いている、と。私たちはこの福音を聞き、喜び祝おう、主を礼拝し、賛美を献げて歌おうと呼びかけています。私たちの礼拝の原点は、まさにこれです。私たち自身の状況をいくら観察しても希望は生まれないけれど、私たちの神が王となられたことを喜び祝い、賛美する。そこに礼拝が生まれます。「地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」と言って神をほめたたえるのです。
今日の御言葉の直前である10節にはこうあります。
「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ
汚れたものに触れるな。」
これは、今イスラエルの人々がいる捕囚の地から、今こそ出てイスラエルの神のもとへ帰れ、という呼びかけです。私たちへの呼びかけでもあります。これは、この世界は汚れているから世捨て人になれということではなく、汚れたこの私が神さまの憐れみによって神さまの恵みに招かれていると聞くことができる御言葉です。そして、言います。「しかし、急いで出る必要はない。逃げ去ることもない。あなたの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」これは、私たちを救いに導く神さまの決意の表れです。先頭も、しんがりも、神さまがすべてを守ってくださる。必ず私たちを神の愛の中に連れ帰るという神さまの決意表明です。そして、続く13節以下が、有名な苦難の僕の歌に続いていく。神さまの救いの決意を成就するお方の姿が語られていきます。
私たちは、私たちのために場所を用意し、私たちを迎えるために断固たる決意をもって先頭も、しんがりも守ってくださるお方の憐れみと恵みの中で、今日の一日を歩んでいきます。だから、主に従って、安心して歩んでいきましょう。

2021年9月10日金曜日

2021年9月10日の聖句

我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。(詩編33:20)
私たちはこの希望のうちに救われているのです。(ローマ8:24)

「私たちはこの希望のうちに救われているのです」と使徒パウロは言っています。希望という言葉があります。希望とは、将来に寄せる期待のことです。希望という言葉には、今だけではない、過去だけでもない、将来が含まれています。今もうすでに実現していることを願っても、希望にはなりません。将来、よりよい存在になることを願うのが、希望です。
私たちは何を希望しているのか。聖書は何を私たちの希望と証言しているのか?今日、私たちに与えられている詩編はこのように言います。「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。」ここにも希望が言い表されています。「我らの魂は主を待つ」と言っている。待つことができるのは、必ず主が助けてくださると信じているからです。主が私たちの盾となって、私たちを守ってくださると期待しているからです。ここには将来があります。主を待ち望む。主が助けてくださることを信じて待っている。確かに、今は苦しいかも知れません。望みが薄いように感じるかも知れません。しかし、そうだからこそ、期待して待ち望むこと、希望を抱き続けること、それこそが信じるということなのではないでしょうか。
神さまが私たちを助けてくださる、救ってくださる、その究極の成就は、キリストが再び私たちのところへ戻って来てくださるときの出来事。主イエスさまご自身がそう約束しててくださいました。キリストは私たちのところへ戻って来て、私たちを父のもとへ導いてくださいます。キリストは私たちのところへ再び来て、私たちを罪と死から救ってくださいます。それはまだ私たちの目には見えていませんが、必ずその時が来ることを私たちは信じ、今日も希望を持って歩んでいきます。夜は更け、日は近づいたのです。希望を持って生きていきましょう。まるで希望を持たないかのように振る舞うのはやめて、キリストをお迎えする望みに生きる一日を、喜んで歩んでいきましょう。

2021年9月9日木曜日

2021年9月9日の聖句

安心しなさい、国のすべての民よ。そして、働きなさい、と主は言われる。私たちはお前たちと共にいるからだ。(ハガイ2:4)
パウロは書く:私たちは神のために力を合わせて働く者なのです。(1コリント3:9)

古代ギリシアでは哲学が生まれ、発達しました。ソクラテス、プラトン、アリストテレス・・・たくさんの哲人、知を愛する人たちが真理を求めて思考を重ねました。彼らの営みは尊いと思います。ギリシアで哲学を発達させた人々は自由人と呼ばれる人々でした。日々の生活のための労苦は奴隷がしてくれるので、自由人たちはものを考えたり、論議をしたりすることのためにすべての時間を使うことができたようです。
聖書の民は、そうではありませんでした。汗を流して毎日の労苦をし、生活のために踏ん張って生きていました。それはとても大切なことでした。そうであるからこそ、一週間に一日の安息日も定められました。「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」ここでは七日目を安息の日とすることと、それ以外の六日間は働くこととが定められています。働くことは、尊いことです。
ただ気をつけなければならないことは、例えば年齢を重ねて思うように働くことができなくなったとき、病気で以前のようにできなくなったとき、その人には価値がなくなったということではないということです。そういう状況を神さまからのものとして受け取り、周りの人の愛を感謝して受け入れるということは、本当に偉くて尊い仕事です。預言者ハガイを通して、神さまはおっしゃいました。「安心しなさい、国のすべての民よ。そして、働きなさい、と主は言われる。私たちはお前たちと共にいるからだ。」働くというのは、神さまの「安心しなさい」という呼びかけと、「私はお前たちと共にいる」という約束の下で営むことができる、神さまから贈り物なのです。
私たちは働くことを通じて、神さまの御業を「今・ここで」進めます。神さまは私たちの手を通して、足を通して、口を通して、今も御自分の御業を進めておられます。だから、私たちは共に力を合わせて神さまのために仕えます。キリストの愛の御業が、この世界で実を結ぶように。この私の小さな業を、主よどうか用いてくださいと祈りながら。だから、愛することも、愛を受け入れることも、キリストの愛を成就する尊い仕事です。

2021年9月8日水曜日

2021年9月8日の聖句

見よ、私が支える僕、私の魂が喜びとする、私の選んだ者を。(イザヤ42:1)
皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ4:22)

私たちはイエス・キリストが私たちに語りかけ、そして御自分が十字架にかけられ、復活させられたことで神が示してくださった福音を信じています。キリストの福音、キリストによって示された神の愛。これが私たちを生かしています。この福音をイエスの口から聞いたとき、人々はその言葉の恵み深いことに驚いて言いました。「この人はヨセフの子ではないか」と。
このように言って驚いた人々は、主イエスの少年時代を知っていたのでしょう。父ヨセフのこともよく知っていたに違いありません。直接ヨセフの顔を知らない私たちには、少し遠い驚きであるのかも知れません。しかし、この驚きの言葉が伝えられることによって、私たちは、イエス・キリストという方がある具体的な時代の、具体的な村の、具体的な人間関係の中に生きておられたことを知ることができます。抽象的に、昔々あるところに神の子がいました、というのではない。イエスの口から福音が明らかにされると「ヨセフの子ではないか」と言って驚く人たちに囲まれて、このお方の福音宣教は始まったのです。
これはとても大切なことです。聖書に書いてあることがどんなに真理であったとしても、すばらしい教えであったとしても、もしもイエスが抽象的な真理だとしたら、抽象的な良い教えだとしたら、私たちとは関係がなくなってしまいます。しかしイエスはヨセフという男の息子として生まれました。この人はナザレ村の大工です。マリアという許嫁がいました。イエスは、しかしマリアとヨセフの肉体的な結びつきを通して生まれた子どもではありません。神の力がマリアに働いて、マリアの胎に宿った。そうやって、イエスはヨセフとマリアという夫婦のもとに生まれ、ナザレ村で育ち、その口から出た恵みの言葉に驚いた人たちは「ヨセフの子ではないか」と言って驚く。このようにして、キリストの福音という真理は肉体をまとったのです。
神さまは、このようにして福音の言葉、その真理が私たちの間を歩くようにしてくださいいました。このイエスを神は「私の魂が喜びとする」と言われます。私たちが肉体となった御言葉に聞くこと、このお方の口から出る福音に生きることを、神さまは喜んでくださるのです。

2021年9月7日火曜日

2021年9月7日の聖句

あなたの神、主は、この広大な荒れ野を通るあなたの旅路を見守られた。(申命記2:7)
イエスはペトロに言われた:陰府の門も私の教会に打ち勝つことはない。(マタイ16:18)

8月から「日々の聖句」という聖書日課の小冊子に従って毎朝のメールをお送りしています。日本語版では見開きにページに一週間分の御言葉が収められています。スペースが限られていることと、毎日掲げられている御言葉が基本的に旧約と新約から一節ずつと短いので、言葉を補ったり省いたりすることがあります。また、新共同訳だけではなく新改訳など他の翻訳を参照して改めることもある。今日の新約聖書のマタイによる福音書の御言葉は、そういう補いが多いようです。特に注目すべきは、新共同訳が「陰府の力」と訳していたところを「陰府の門」としている部分です。確かに、門とか戸と訳せる言葉ですし、英語の翻訳でもthe gateという訳が見られます。陰府の門が私たちに迫ってきている。その門が開け放たれると、陰府の軍勢が私たちに押し寄せ、私たちを殺し、連れ去り、陰府の奴隷にしようとしている。そういうイメージでしょうか。しかしそのような陰府の門がもたらす力に、教会は対抗することができる。陰府の門はキリストの教会に打ち勝つことができない。キリストはそのように言われます。
旧約を見ると、ずいぶんと新約とは違うイメージであるように思います。「あなたの神、主は、この広大な荒れ野を通るあなたの旅路を見守られた。」エジプトを出たヘブライ人たちの40年にわたる荒れ野の旅路のことを言っている。広大な荒れ野、自分たちを守るものは何もない。しかし、その旅路の最初から最後まで、神が私たちを見守っていてくださった、と言います。この旅路には目的地があります。旅は永遠に続くのではなく、やがて目指す場所に着く。約束の地にやがて着きます。私たちの命の旅路にも目的地がある。天の故郷を目指して私たちも旅路をしている。ところが、私たちの目にはその故郷が見えないのです。陰府の門が立ちはだかり、扉を閉ざしている。私の力は小さすぎて、それに打ち勝つことができない。自分の死も、愛する者の死も、どうすることもできない。ところが、キリストは言われます。「陰府の門も私の教会に打ち勝つことはない。」私たちは非力です。しかし、キリストは陰府の門に打ち勝つ力を教会に与えてくださいました。それは、福音の言葉です。キリストの愛を告げる聖書の御言葉です。陰府の門を開け放って、キリストが私たちを神の家に迎えてくださるのです。だから、恐れなくていい。私たちの旅は必ず目指す地に着く。キリストはそのように語りかけてくださっています。

2021年9月6日月曜日

2021年9月6日の聖句

私たちは先祖もろとも罪を犯し、過ちを犯し、神なき者たちでした。(詩編105:6)
イエス・キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためだったのです。(テトス2:14)

「私たちは先祖もろとも罪を犯し、過ちを犯し、神なき者たちでした。」この詩編の言葉を祈る旧約の民にとっての先祖というのは、アブラハム以来の神の民の歴史そのもの、旧約聖書が伝える神の民の、神さまの御前での罪を数えている。私たちにとっての「先祖」も、同じです。私たちもキリストを信じて神の民の一員にして頂いた。旧約聖書や新約聖書の民の子どもになって、私たちもその歴史に生きています。そんな私たちは、先祖と共に罪を犯し、過ちを犯し、神なき者たちでした、と告白している。ここで気をつけたいのは、「私たちは・・・でした」と、過去形で話しているということです。私たちは罪深い者だった、過ちを犯してきた、神さまがいなくても大丈夫だと高をくくっていた。しかしそれは誤りだった。私たちは罪人だった。そのことに気付いたとき、それはもはや過去のことになります。私たちが自分の罪に気付けるのは、キリストの赦しの中だけです。キリストの圧倒的な愛と赦しの中で、私たちは初めて自分の罪を、過ちを、神ぬきで生きてきた自分の悲惨を知る。そしてそのことを知ったとき、すでに罪は過去に属している。今はキリストのものにして頂いた。今は神の愛の中に生きている。今は罪赦され、イエス・キリストが私のために御自分を献げてくださった愛の中に迎えて頂いている。私たちは福音のまっただ中にいるのです。
それは、キリストがご自分の者としてくださった私を「良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるため」です。キリストは私のようなものも新しくしてくださいます。
私たちは、罪人です。小さな存在であり、毎日が失敗の連続です。ところがキリストは私を愛し、罪と過ちを過去のものにして、キリストの恵みの今に生かしてくださいます。私は私の見所とか、良さとか努力とか、そのためにではなくて、キリストの憐れみのお陰で新しくして頂きました。ですからこの私の新しさは、ただただキリストの憐れみが生み出す新しさです。キリストの愛にすがって、今日という新しい一日を歩んでいきたいと願います。

2021年9月5日日曜日

2021年9月5日の聖句

主はこう言われる。あなたの泣く声を、目の涙を抑えなさい。あなたの労苦には報いがあるからだ。(エレミヤ31:16)
昼も夜も御自分に叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。(ルカ18:7)

本当にありがたい言葉です。神さまは私たちの叫びに耳を傾け、私たちを放っておかれることなく、私たちのための裁きをしてくださる。私たちの労苦には報いがある。聖書はそう宣言します。私たちは、泣くとき、涙を流すときにも、やがて神さまがこの涙を拭ってくださると信じます。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙21:3~4)と約束されているとおりです。
そのようにして神さまが私たちを気にかけ、私たちの祈りを聞いてくださるのはなぜなのか。その理由を、主イエスは「昼も夜も御自分に叫び求める選ばれた人たちのために」と、私たちのことを神さまが選んでくださったからだ、と言われるのです。
神さまが私を選んでくださった。それは、私の側には理由がないということです。私が神さまを選んだからではない。私に見所があったというのでもない。ただ神さまが御自分の憐れみのゆえに私を選び、御自分が選ばれたからというだけの理由で、私の祈りにさえも耳を傾けてくださるのです。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民族よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申7:7~8)。
だから、私たちは祈ります。喜びの日も、悲しむ日にも。神さまがこの涙を必ず拭い取ってくださると信じて、神さまが必ずこの祈りを聞いてくださっていると信じて、私たちは祈ります。
今日も、主イエス・キリストの祝福があなたにありますように。

2021年9月4日土曜日

2021年9月4日の聖句

助産婦たちは神を畏れていたので、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子たちを生かしておいた。(出エジプト1:17)
人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。(使徒5:29)

エジプトの王はどんどん増えていくヘブライ人たちを恐れ、嫌悪し、ヘブライ人に生まれた男児は殺害するように助産婦たちに命じました。ところが彼女たちはファラオの命令に従わず、男の子たちを生かしておいた。神を畏れていたからです。
助産婦たちは神を畏れました。神は、戦車をお使いにはなりません。軍隊も、砦も、政治機構も警察も、神さまはこの世には持ってはおられない。それに対してファラオにはあらゆる権力があります。たった一言で、男児の大虐殺という暴挙を企てることができる。助産婦たちだってファラオが怖かったと思います。命令に背いたら自分が殺されるかもしれないと考えたと思います。ところが彼女たちはファラオの命令に背きました。神を畏れていたから。自分が生き延びるために男の子たちを犠牲にしなかったのです。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」
ファラオは神を畏れませんでした。ファラオはこの世の権威も権力も持っていました。しかし神を畏れなかった。神を畏れることがなければ、人間は簡単に化け物になってしまいます。私たちは、神を畏れているでしょうか。
先ほど、神さまは戦車も軍隊も砦も、政治機構も警察もお持ちではないと書きました。確かに、この世にある戦車や軍隊などの力を神さまは振るおうとはなさいません。しかし、主イエスがユダに裏切られ、逮捕されようというとき、剣を持って抵抗した弟子をいさめてイエスは言われました。「剣をさやに収めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるだろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう(マタ26:52~53)」。神さまは天の軍勢を送ってくださる。しかし、主イエスはこの世のファラオたちが振るうような力を放棄して、逮捕され、十字架にかけられました。ただ神のみを畏れ、神を畏れぬ化け物になった人間に食い潰されることを選ばれたのです。
キリストは、神を畏れる者と共にいてくださいます。私たちが今日神に従う道は何か、祈りのうちにそこを歩んでいきたいと願います。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」

2021年9月3日金曜日

2021年9月3日の聖句

地は主の慈しみに満ちている。(詩編33:5)
自分の命のことで思い悩むな。(マタイ6:25)

これこそ、信仰者のまなざしです。「地は主の慈しみに満ちている。」私たちはこの言葉を信じ、この世界に満ちる主の慈しみに信頼します。この信頼は、私たちの自然の目からして当たり前のことではありません。この世界には私たちの知らなかった厄介なウイルスもたくさんあるし、自然災害もあります。それだけではなくて人間の欲が世界を変えてしまうし、自然からの収奪は止まらない。戦争の噂が絶えない世界です。権力闘争のために自国民を平気で犠牲にする政治が放置されています。それでも、私たちは信じます。「地は主の慈しみに満ちている」と。
「地は主の慈しみに満ちている。」これは、信ずべき事柄です。誰がどう見ても明らかな、当たり前のことではありません。主なる神様の慈しみは、例え私の目に見えるところや感情、常識的な判断に逆らったとしても、この地に満ちていると私たちは信じるのです。だから、主イエスは言われます。「自分の命のことで思い悩むな。」地に満ち満ちる主の慈しみがこの私にも向けられていることを信じよ、と主イエスは私たちに言われるのです。あなたはこれを信じますか?
キリスト者のフォトジャーナリストの桃井和馬さんが、御著書の中で、戦争や紛争はどうして起きるのかという話をしておられました。よく宗教が原因で紛争が起きていると言われるが、桃井さんはそれは間違っていると言います。いろいろな紛争地に行ってそこを見てきたが、紛争の原因は土地やオイルだった。それらはすべてもともと地球にあるものだ。宗教は謂わばこの土地に満ちている油のようなもので、油がそこにあるだけでは火事にはならない。ところが土地やオイルの奪い合いが火花を生み出す。するとオイルに火がついてしまう。地に満ち満ちる主の慈しみを奪い合うとき、大火事が起きてしまいます。それは海の向こうの話では済みません。
今こそ、主の慈しみがこの地を満たしているという事実に立ち帰る時です。私たちは神さまに新しくして頂かなくては、生まれ変わることができません。主は私たちをいつでも慈しみで満たしてくださいます。奪い合い、火花を散らす私たちを新しくし、主の慈しみに信頼し、平和を得させることがおできになるのは、神さまだけです。だから、この世界には私たちの悪にもかかわらず神の慈しみが満ちているのです。この慈しみこそが私たちの平和の道に他なりません。

2021年9月2日木曜日

2021年9月2日の聖句

主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。(詩編25:12)
パウロは書く:私は、あなたがたの愛が知識とあらゆる経験でますます豊かになるように祈ります。(フィリピ1:9)

私が学生の頃に聞かされたのですが、私がとても尊敬する牧師がこのような話をしてくださいました。その牧師はとても苦労してこられた方です。家庭環境があまりよくなく、全寮制の企業の高校に通いながら働いていました。とても苦労して大人になり、やがてイエスさまと出会って洗礼を受け、牧師になりました。牧師になるというときに、周りの方に言われたそうです、「あなたは苦労してきた分、いい牧師になるでしょうね」と。しかし、その牧師がおっしゃったのは「皆さんよくそう言ってくださった、それはありがたいことだけど、私は違う考えをもっている。しばしば苦労は人の心を固くする。何で自分だけがこんな目に遭うのか、と。妬みを引き起こすこともある。苦労してきたからといって、それで良い牧師になれるわけではないと思っています。」私もある程度その牧師の背景を知っていたので、とても重い言葉として聞きました。
パウロがは「あなたがたの愛が知識とあらゆる経験でますます豊かになるように」と言います。あなたのいろいろな知識や経験が、ほかの何よりもあなたの愛を豊かにしますように。愛の豊かさこそが最も大切なことなのだ、とパウロは言うのです。あの牧師が言っておられたことも、同じだと思います。自分のこれまでの知識や経験が愛を豊かにすることに働くのか、自分の苦労に固執する方向に働くのか。もしも私たちがいろいろな知識や経験を通じて愛を豊かにされるのだとしたら、それは私たちの内に働く神さまの霊、聖霊のお働きに他なりません。聖霊は私たちに愛を豊かに実らせてくださるのです。
愛は、最も偉大です。愛することを、キリストは私たちに願っておられます。ご自身が私たちにしてくださったように、私たちが隣人を愛することを。私たちが自分のこれまで積み上げてきた知識や経験から、今隣人は何を痛み、何を悲しみ、何を喜んでいるのか、そのことを想像する愛を私たちが抱くことができますように。そうして、私たちが隣人に寄り添い、喜ぶ者と共に喜び泣く者と共に泣く者になることができますように。そのような愛の奇跡を、聖霊が私たちの内に行ってくださいますように。アーメン。

2021年9月1日水曜日

2021年9月1日の聖句

主よ、わたしは恵みの時にあなたに祈ります。神よ、あなたの大きな善意であなたのまことの助けをともなって聞いてください。(詩編69:14)
イエスは言われる:あなたたちが私の名によって父に願うなら、父は与えてくださる。(ヨハネ16:23)

P.T.フォーサイスというスコットランドの牧師が『祈りのこころ』という名著を残しています。その冒頭で、フォーサイス牧師は言います。「最悪の罪は祈らないことである。」とても印象深い言葉です。祈りは誰にでもできますが、しなくても特に困らないし、しないことに馴れることはいくらでもできます。しかし、キリスト者が祈らないのは自己矛盾だ、とこの牧師は言うのです。この言葉に続けて、フォーサイスは言っています。
「キリスト者にさえ、わたしたちをしばしば驚かせるような、明白な罪、もしくは犯罪、もしくは顕著な矛盾があるのは、祈らないことの結果、もしくはそれに対する罰である。わたしたちは神を求めないので、神に捨てられるのである。」
私たちの犯す過ちは祈りをおろそかにしたことの結果であり、祈りに怠慢だから堕落するのだ、とこの一人の牧師は言うのです。
今日の詩編は「神よ、あなたの大きな善意であなたのまことの助けをともなって聞いてください」と祈っています。神さまの大きな善意に信頼し、神が必ず助けてくださることを信じて祈ること自体が、この人が祈りに生きてきた証しなのかもしれません。私たちは神を求めるほどになお一層神を求める者とされ、神を愛するほどに、神の愛を深く知るのです。主イエスは言われます、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マルコ4:25)。
だから、キリストは、私たちが祈ることを願っておられます。しかも御自分の名前によって祈ることを。私たちは、こんな祈りをしても良いのかな、神さまに迷惑じゃないかな、無駄なんじゃないか、罪深い祈りではないか、恥ずかしい祈りだ・・・などなど、いろいろな言い訳をしながら祈りをやめてはいないでしょうか。確かに、祈りの中で罪を犯すこともあるかも知れません。しかし、その罪は、祈らない罪に比べればずっと軽いのです。主イエスは、私たちのどのような祈りであっても御自分のお名前によって祈ることを求めてくださいました。私たちの祈りにはキリストの御名というリボンが付けられ、神さまへの美しい供え物にされるのです。

2022年1月19日の聖句

貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。(箴言17:5) 憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受けるからだ。(マタイ5:7) 今回のコロナのことで痛感させられたことの一つは、苦しむ人と私との差は何もない、ということです。いつ、どこで、...