「主こそ王」と高らかに宣言して始まる詩編。比較的新しく設定されたようだが、暦を重んじる教会ではアドベントが始まる前の日曜日を王であるキリストの主日と呼ぶ。教会暦の一年はこの週で終わる。最後に覚えるのは王キリストの前にひれ伏すことなのだ。それは私たちにとって喜びだ。「全地よ、喜び踊れ」と言うとおり。私たちは神が君臨する神の国の民だからだ。神に従う人よ、主にあって喜び祝え。そう唱えつつ、新しい年を迎える。
2017年11月30日木曜日
2017年11月26日日曜日
マタイによる福音書25:31~46「片隅で出会う王」
今朝の聖書の御言葉を、私はこれまでどこかで怖いと思ってきました。到底実現できないような無理難題をふっかける言葉だ、と。しかし、本当はそうなのではなくて、私たちを解放し自由にする御言葉なのだと気づきました。この箇所は、教会暦の最後である王であるキリストの主日に読まれることがあります。キリストが王でいらっしゃることを教えると考えられているのです。しかし、この世では私たちが王様です。特にお客様になったとき、私たちは王様になります。王様としてあらゆる権利を主張します。私たちは、お金を出す者があらゆる権利を主張できると思い込んでいます。先日、ある鉄道会社が電車が20秒早く出発したことを謝罪したそうです。私たちの社会は小さな王様たちの支配によって、かなりまずいことになっています。クレーマーという言葉はほとんど日常語になってしまいました。もう、私たちの社会は私たちのわがままに耐えられなくなっています。しかし、同時に私たちは「御国を来たらせたまえ」という祈りを主イエスから教えていただきました。神が王でいらっしゃる神の国が来ますように、と祈っています。私たちのわがままを聖書は罪と呼びます。わがままな王は怪物です。神に救っていただくというのは、神を王として迎えるということです。私たちは、本当に王としてあがめるべき方と出会うときに、人間らしさを取り戻すのです。神の国が来るときにキリストがなさるのは、今日の話によると裁きです。この裁きが私の心を重くしました。どう考えても、私は左側の羊の方にいるとしか思えないからです。祝福された人たちに該当するような愛の行いに生きてこなかった。でも、もしかしたら、その聖書の読み方は間違っていたかも知れない、と思います。王は言われます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」。これは、実はキリストが私にしてくださったことではないでしょうか。王は言われます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」最も小さい者の一人。私は、自分の小ささをよく知りませんでした。でも、本当は私は最も小さいのです。飢えていたり渇いていたりして、助けていただかないと生きられないのです。自分への過信を打ち砕かれる。しかし、それは実は救いです。使徒パウロはこのように言いました。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。(一コリ15:9)」自分の罪深さに震えている。いちばん小さな罪人、価値なき自分であることに気づいたとき、もうすでに私たちは救われています。怪物ではなくなるのです。主イエスのお姿を、私たちはそこで見ます。「『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。(ヘブ2:9)」低い者、これは小さいという字です。キリスト御自身が小さくなって、私のために死んでくださった。私たちの王は私たちのために十字架を玉座に、茨の冠を王冠に戴きました。このキリストを真似て、私たちは隣人のために小さくなる喜びに召されているのです。
2017年11月23日木曜日
詩編第96編「私たちの王を迎えよう」
この詩編は礼拝の招きの言葉として朗読されることもある。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。」全地というのは、国々も、世界も、諸国の民も、天も地も海も野も森も、そしてそこにいるすべてのものらも、ということだ。主こそ王だから、あがめられるべき方なのだ。毎週日曜日の礼拝は、王である方の前にひれ伏す場面だ。大いなる方の前に喜びと畏れをもってひれ伏そう。この方の輝きが私たちを照らしている。
2017年11月19日日曜日
イザヤ書6:1-13、使徒言行録15:1-21「教会の決断」
先週はファミリーサンデーの礼拝でした。礼拝の内容がかなり大胆に変わります。子どもの礼拝に大人が参加しているイメージですが、年に四回のファミリーサンデーでは、これをさがみ野教会の主日礼拝として献げています。礼拝式次第の大胆な変更なので、実は初めの頃は結構怖かったのです。しかし、教会が地域の子どもを迎えることを大切にしたいと、その点では確信も持って行っています。今朝の聖書の御言葉は、一見すると守旧派対革新派、あるいは保守対リベラルの対立のようにも見えます。しかし、あまりそういうレッテルを貼らないほうがいいかもしれません。問題は割礼です。割礼を受けると、神の民イスラエルの一員になれる。割礼を主張していた人たちはそう信じていました。ですから、異邦人でこれまで神の民でなかった人たちがイエスを信じ、神を信じるなら、喜んで迎え入れよう、神の民の一員として。そういう善意から、彼らは異邦人にも割礼を受けさせるべきだと主張していました。善意の言葉です。しかし、その善意が思わぬ結果を生むことになります。割礼という条件を満たしたものを、神は御自分の民として迎え入れてくださる。そうすると、決め手を持っているのは、神さまではなく人間の方ということになります。でも、本当にそうなのでしょうか?この会議にはいろいろな人が登場しています。例えば、ペトロはこのように言います。「神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて・・・。」あるいはパウロとバルナバは、自分たちを通して神が異邦人に行われたことを議場に報告しています。ヤコブは聖書を引用して話を進めます。つまり、彼らは皆、神が今ここで何をしておられるのかということに注目しています。異邦人は私たちと同じアイデンティティを共有しているのかとか、彼らは受け入れるにふさわしいのかとか、そういうことではなくて、神が何をしておられるのかを問題にした。それが、本当はいちばん大切なのではないでしょうか。神はこのさがみ野の地でも働いていてくださいます。私たちの周りにいる大人にも子どもにも、神は働いてくださっています。神は、今、何をしておられるのでしょう。私たちが問うべきは、その一点です。イザヤ書は、ちょっとショックを受ける言葉が登場します。神が預言者イザヤに言われます。「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」そんなことを言われて、やる意味あるのでしょうか?そもそも、人々の心を頑なにするのは、神さまなのでしょうか?ちょっと躓きます。しかし、私は思います。もしかしたら、本当は、こういう徹底した絶望こそが必要なのではないだろうか。私たちの社会を見つめるときに。神の言葉に決して耳を傾けないのです。高所から見下ろして絶望してみせるのではなく、独りよがりの「真理」に酔うのでもなく、しかし、絶望せざるを得ないのではないか。そして、それは神を見たら死ぬべき私自身の罪でもあります。私こそ一人の罪人に過ぎない。しかし、赦された罪人です。「私たちは、主イエスの恵みによって救われるのですが、これは、彼ら異邦人も同じです。」私もキリストに救って頂いた。それは、誰にとってもかけがえのない救いであり、福音です。この福音のために自分のスタイルをも新しくして頂く喜びを私たちは味わいます。
2017年11月16日木曜日
詩編第95編「今日こそ」
「今日こそ、主の声に聞き師が側なければならない。」今日こそ、というのは、これまでの自分たちの歴史をふり返っているから。それは心を頑なにしてきた歴史であり、主を試みてきてきた日々であった。しかし、主は「わたしたちを造られた方」であり、私たちは「主に養われる群れ」だ。それは当たり前の事実ではない。「今日こそ」と日ごとに自分に言い聞かせながら主に仕えよう。ルターが言った「日ごとの悔い改め」はそのことではないか。
2017年11月12日日曜日
ルカによる福音書第15章1から7節「よろこんだ羊飼い」
異常な話。私はこのたとえ話を読むといつもそう思う。100匹の羊の世話をする羊飼い。しかし、その内の一匹がいなくなってしまった。すると、主イエスはおっしゃる。「99匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」まるで、そうするのが当たり前だろうと言わんばかりだ。しかし、そうだろうか?この譬え話を耳にした多くの人の感想は、「野に取り残された99匹はどうなってしまうのだろう?」ではなかろうか。それに対して、「あなたは99匹ではなくて、いなくなった一匹の方かもしれませんよ」と説明してみせる言葉をよく聞く。しかし、それで話は済むのだろうか。たった一匹いなくなってしまった羊は私かもしれない、他の仲間たちにも羊飼いにも迷惑をかけ、迷子になんてなってしまう鈍くさい羊は私かもしれない。そうやって身の程を知ることには意味があると思う。しかし、改めて考えたい。話はそれで済むのだろうか。むしろ、私は、この話の異常さ、奇妙さをそうやって説明してしまわない方が良いのではないかと思う。この羊飼いは、異様な人だ。99匹を野原に残しておくなんて、どう考えてもおかしい。おかしいものは何と説明して見せても、やっぱりおかしいのだ。さらに言えば、この一匹が見つかったときの喜び方も異様だ。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」私は羊飼いの生活はよく知らないが、そこまで喜ぶものなのだろうか?家族の中で喜ぶということはあるだろうが、わざわざ近所の人を呼んできて一緒に喜んでくださいとまで言うものなのだろうか?少々、大げさすぎないだろうか。やはり、この羊飼いは、普通の人ではないのである。そして、この主イエスの譬え話は、これがある種異常な話だということが大切なのである。この話をなさった主イエスは、わたしたちの常識から推し量ることのできる「常」なる方ではない。常とは異なる。なぜか。神の子だからだ。神のなさり方は、わたしたちの「常」ではないのだ。わたしたちは一匹よりも99匹に価値を見る。一つには、経済的な価値が圧倒的に違う。羊飼いにとっての羊は愛玩動物ではなく、商売道具である。しかし、この羊飼い、つまりこの羊飼いの姿に託して語られている主イエスご自身は、そのような基準で羊を、つまりわたしたちのことをご覧になってはいない。経済的にしても何にしても、どの程度の価値があり、どの程度の見返りがあるかというところでわたしたちをご覧にはならない。たった一匹が、見つけ出すまで捜し回らなければならない特別な存在なのだ。あるいは、あの異様なまでの喜び方。これが神の御心なのである。主イエスがいなくなった羊であるわたしたちを見つけてくださった時、天が揺れるほどの喜びがある。神が喜ばれ、天使たちもそこで喜んでいる。羊飼いである主イエスがわたしたちを見つけてくださる、それは、わたしたちが主イエスと出会い、神の愛を知り、自分の罪を知って悔い改めるということだ。わたしたちの一人が洗礼を授けられるということだ。その時、天が揺れるほどに神は喜んでおられる。あなたも共に喜ぼう。主イエスは私たちを喜びへと招いておられる。
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