2023年8月31日木曜日

2023年8月31日の聖句

主は天からのパンで彼らを満ち足らせた。主が岩を開かれると水がほとばしり川となって砂漠を流れた。これらのことは主が聖なることばを覚えておられたからである。(詩編105:40~42)
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。(マタイ6:11)

新約聖書にカナの婚礼という話が出てきます。婚宴でワインが足りなくなってしまった。主イエスがその宴席ために水をワインに替えてくださった。そういう主イエスの起こした奇跡です。
古代教会の指導者アウグスティヌスがカナの婚礼について、このようなことを言っています。私たちは水が一瞬のうちにぶどう酒に変わると奇跡だと言って驚く。しかし、毎年、畑に雨が降ってぶどうが実り、その実を収穫して発行させワインに変化していくことを知っている。ここでも奇跡が起きているが、人々はそのことに気づかない。
とても面白い言葉だと思います。雨が降ってぶどうが実ること、それが発酵してワインになること。それが既に神の奇跡。しかし私たちはそれに気づかない。当たり前だと思っているからです。毎日食べるためのご飯があること、飲むための水があること、そのことは奇跡です。決して当たり前ではない。神様が私たちを養うために整えてくださっている。だからこそ、主イエスは「私たちに日ごとの糧を今日お与えください」と祈るように教えてくださいます。私たちに命を与える力をもっておられる方の憐れみに私たちがすがるために。
「主は天からのパンで彼らを満ち足らせた。主が岩を開かれると水がほとばしり川となって砂漠を流れた。これらのことは主が聖なることばを覚えておられたからである。」神様は砂漠でもパンを与え、水を川として流れさせる力をお持ちの方です。このお方の力と、そして慈しみを信じて、私たちも祈りましょう。「私たちに日ごとの糧を今日お与えください!」

2023年8月30日水曜日

2023年8月30日の聖句

あなたが大いなる業によって贖い出したあなたの民とあなたの嗣業を、主よ、どうか滅ぼさないでください。(申命記9:26)
私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)

私たちは、神様のしてくださった大いなる業によって、神様ご自身のものとされた。それが私たちの出発点です。神は私たちを贖い、ご自分の嗣業としてくださいました。旧約の民は、出エジプトの出来事としてその御業を知っていました。現代を生きる私たちはそれよりももっとはっきりと、主イエス・キリストの出来事を通して神のものとされたことを知っています。私たちは神の民、神の嗣業。神の取り分であり、神のものです。
ときに、そのことがよく分からなくなってしまうこともあるかも知れません。神様は自分のことを忘れておられる、神様は結局は何もしてくれない。そう思い込んでしまう日も私たちにはあるでしょう。しかしそのようなときにこそ、私たちは聖書の御言葉を自分自身に向かって語りかけましょう。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。」
聖書が私たちに教えるのは、神が私たちのために何をしてくださったのかということです。私たちにどういう良いところがあるのかとか、私たちがどうやったら神様と取引することができるのかとか、そのようなことは聖書には書いてない。神が私たちをご自分のものとするために御子をくださったこと、ご自分の独り子の命によって私たちをご自分の嗣業としてくださったこと。その事実が、神様と私たちとの関係のすべてです。だからこそ、私たちはどのようなときにも神を信頼して良いのです。御子をくださった方は、他のあらゆることにおいても私たちに恵みをくださいます。必ずくださいます。今、私たちにそれが見えなかったとしても。静かに、ひっそりと、キリストの恵みは与えられている。御子をくださった方は、私たちのために弱さを引き受け、傷を負い、十字架の死を耐え忍ぶことで私たちを救ってくださいました。この方の恵みは、私たちの弱さの日に輝きます。
今こそ、恵みの時です。今こそ、救いの日です。主イエス・キリストの恵みが今日もあなたにありますように。

2023年8月29日火曜日

2023年8月29日の聖句

私は主、あなたの神。私はあなたの益となることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。(イザヤ48:17)
マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。(ルカ10:39)

今日の新約聖書の御言葉は、マリアと彼女の姉マルタ、そして主イエスとの話の一節です。マルタは主イエスとその一行をもてなすために忙しく立ち働いていました。ところが「マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた」ので、マルタは主に訴えます。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」すると主イエスがお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」
この話を聞くと、多くの人が思うのではないでしょうか。マルタがかわいそうだ。マルタの言うことはもっともだ。そして、確かにマリアは良いほうを選んだのかも知れないが、マルタも必要だ、と思いはしないでしょうか。私も、そう思ってしまいます。
しかし、主イエスは「必要なことは一つだけである」とおっしゃっています。マリアの態度もマルタの業も必要、とはおっしゃいませんでした。主は、マルタにもマリアと同じようにご自分の足元に座って、その話を聞いて欲しいと願っておられる。
今日の旧約の御言葉には「私は主、あなたの神。私はあなたの益となることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」とあります。主が教えてくださり、主が導いてくださいます。だから、私たちにとって神の言葉は絶対になくてはならないのです。主が私たちを導いてくださるのであって、その逆ではない。主が語り、私たちは聞く。その関係がまず大事です。
主イエスさまは、私たちに命を与える福音を語り聞かせてくださいます。キリストの言葉、福音の言葉こそが私たちの救いそのものです。この救いを得させるために、主は私たちのところへ来てくださいました。キリストの言葉に聞きましょう。主イエスの福音に耳を傾けましょう。それが私たちにとって最も大切なことです。マリアにとっても、そしてマルタにとっても。主は私たちを招いておられます。ご自分の足元へ、ご自分の御言葉の中へと。

2023年8月28日月曜日

2023年8月28日の聖句

人を正しく治める者、神を畏れて治める者は、
太陽の輝き昇る朝の光。(サムエル下23:3~4)
(イエスの言葉)私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。(マタイ11:29)

私は柔和で心のへりくだった者。主イエスのこのお言葉は、私たちにすばらしい平安を与えます。福音そのものです。主イエスの柔和が私たちを救うのですから。主イエスさまが柔和なお方だから、私たちは救われました。怒りを旨とするお方だったら、どうして私たちの救いが実現しうるでしょうか。主イエスは柔和なお方でいてくださいます。しかも心のへりくだる方でいてくださいます。そうであるからこそ、私たちはキリストの柔和によって、へりくだってくださったキリストのお陰で救われたのです。
そこで、と言って主イエスはご自身の軛を負えとお命じになります。キリストの軛。少し前に、絆という言葉が一種のブームになりました。絆はもともとは動物をつなぎ止めるための縄のようなものが語源なのだそうです。その話を聞いたとき、軛とよく似ているなと思いました。軛は家畜に仕事をさせるために二頭をつなぐ棒のようなものです。絆も軛も、どちらも縛り付けるものです。不自由にします。ところがそこに、本来はなかった積極的な意味が見出されています。
ただ、「絆」は単なるブームに終わりました。美しい言葉で飾っても、結局は人のために何かをしたり、自分のしたいことよりも人とのつながりを優先する窮屈さに疲れてしまったのでしょう。コロナもあって、他人との適当な距離を保つことが優先されました。それでは「軛」はどうなのでしょうか。キリストがお命じになった軛は、私たちの生き方を変える言葉になっているのでしょうか。
キリストは、柔和な方です。その柔和な方が私たちにご自分の軛を負えと命じておられます。私たちがキリストと共に柔和に生きることへの招きです。キリストはそのためにへりくだってくださり、神の子としての自由をお捨てになりました。私たちに縛られることを受け入れてくださいました。愛と言えばとてもきれいな言葉になりますが、共に生きることには軛と呼ばなければ表現出来ないものがあるし、それこそキリストが負ってくださった重荷です。しかしそれは柔和なキリストの招きであり、私たちを解放する自由の喜びへの招きなのです。

2023年8月27日日曜日

2023/08/27の聖句

今週の聖句:
傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消さず(イザヤ42:3a)

今日の聖句:
あなたの神、主は、あなたの手の業すべてを祝福してくださった。(申命記2:7)
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)

この方の満ち溢れる恵み。今日、神が私たちに注いでくださっているのは、ちっぽけな恵みではありません。私たちを満たすには全然足りない、けちくさい恵みではない。満ち溢れる恵みです。それだけではありません。「恵みの上にさらに恵みを与えられた」と言っています。「さらに」。私たちは、神様が備えてくださったこの事実に気づいているでしょうか。神様が与えてくださった溢れるほどの恵みに、さらに加えて与えられる恵みに、よく注意してみましょう。
柔らかく、注意深い心で、神様の恵みを捜して感謝する一日でありたいと願います。神さまが下さっている良いものは、私たちに必要な物ばかりですから、私たちには当たり前のように感じられて見過ごしてしまうことが多いのかも知れません。それは却って、神様がくださる恵みが私たちには必須だという事実の裏返しであるのだと思います。
キリストは「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消さず」にいてくださる、柔和な方です。それ自体が既に恵み深い事実です。主イエス・キリストのご配慮とお取り扱いに生かされる一週間。キリストが与えてくださった新しい日々は、もう、始まっています。

2023年8月26日土曜日

2023年8月26日の聖句

飢えた人にあなたのパンを裂き与えよ。(イザヤ書58:7)
善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。(ヘブライ13:16)

善を行うこと、そして分かち合うこと。神様はそれをご自分へのいけにえ、ささげ物として受け入れてくださる、と言われています。旧約の方でも「飢えた人にあなたのパンを裂き与えよ」とあります。思えば、聖書の本当にいろいろなところにこのような言葉が出てきます。それだけ、神様は私たちが隣人に愛を行うことは非常に大切なことだとお考えなのでしょう。
それはやはりほかの誰にも先立ってまず神様ご自身が憐れみに深く、私たちへの慈しみを決して曲げることのないお方であるからではないでしょうか。神は私たちのためにご自分の独り子をも与えてくださいました。神の子である方が私たちのために飢えてくださいました。貧しい人になってくださいました。
だから、私たちにとっては、他者と分かち合うというのは信仰の本質に関わることであるのだと思います。キリストがわたしにしてくださったように、わたしも隣人にする。それがキリストが私たちに求めておられることです。そして、そういう私たちの行いを、ご自分へのささげ物として喜んでくださるのです。
神様は、私たちの献げるものを独占なさいません。飢えた人が善いもので満たされることをお喜びになるし、貧しい人が安心して生活出来ることを望んでいてくださいます。私たちは神様の優しさで生かされている。だから、この神の優しさを映し出すものとなって欲しい。神が私たちに願っておられることです。

2023年8月25日金曜日

2023年8月25日の聖句

わたしは思った。
わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、
働きに報いてくださるのもわたしの神である。(イザヤ書49:4)
ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫たちは大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。(ヤコブ5:7)

「わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく力を使い果たした」。これは、私たち誰もが知っている思いです。骨折って労苦をするし、その労苦の実りが見えなくて空しくなり、力を使い果たして、うつろな思いしか残らない。私たちの誰もが知っている疲れです。空しさです。
その労苦の空しい思いを、今日の新約では農夫の譬えで語っています。農夫が畑を耕し、種を蒔いても雨が降らなければすべて無駄になってしまいます。雨は人間の力ではどうすることもできません。自分の力でどうこうすることのできないところで、自分の努力や労苦が水泡に帰すというのもまた私たちの誰もが知っていることです。
ですから農夫はひたすら雨を待ちます。初めの雨や後の雨が降るのをひたすら待ち望む。自分ではどうすることもできないので、耐え忍ぶしかありません。やがて雨が降れば、それによってすべてが報われる。ヤコブが言いたいのは農夫の話ではなくて、主を待ち望む私たちの話です。私たちの日々の労苦も、ただ耐え忍んで待ち望むことにかかっています。「主が来られる時まで耐え忍びなさい。」私たちは主イエス・キリストが再び来てくださるのを待ち望んで、主が来てくださる時のために今の労苦を耐え忍んでいます。主が来てくださることが私たちの希望だからです。
「(主は)再び来られて、生きている者と死んでいる者とを裁かれます」と、使徒信条に合わせて私たちは告白します。主イエスが再び来てくださる。私たちを裁かれる。今日の旧約の御言葉では「わたしを裁いてくださるのは主であり」と言っていました。私たちのすることがこの世においてどんなに空しい骨折りでしかなかったとしても、主がそれを覚え、裁いてくださいます。ですから私たちは世で報いを求めるのではなく、主の御前にいかなる意味を持つのかということに目を注ぎます。主が必ず来て、裁いてくださるから。主が私たちを救ってくださるから。そのことを信じて、今日も私たちのなすべき業をなすのです。

2023年8月24日木曜日

2023年8月24日の聖句

主は私に言われた。
「あなたは私の僕、イスラエル。
私はあなたの中で私の栄光を現す。」(イザヤ書49:3)
神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。このイエス・キリストこそ、すべての人の主です。(使徒10:36)

今日の旧約聖書に登場するのは、「主の僕」と呼ばれる一人の究極的預言者のような存在です。同じイザヤ書の第53章になると「苦難の僕」としての姿が描かれることになる。やがて新約聖書に至り、それが主イエス・キリストを預言する言葉として受け止められることになります。
今日のところでとても興味深いのは「あなたは私の僕、イスラエル」と呼ばれているところです。イスラエルというのは、民の名、あるいは国の名です。もともとはイサクの子ヤコブの別名でしたが、彼の名が民の名とされた。ですからイスラエルとは基本的には個人名ではなく信仰の民の呼び名です。しかし、ここでは主の僕に向かって「あなたは私の僕、イスラエル」と呼んでいることになる。主の御前にある究極的預言者、やがて主イエスがそれを成就した苦難の僕、この人こそ主なる神の僕であり、信仰の民イスラエルの究極的体現者だ、というのです。
本当は、私たち信仰の民が神の僕、信仰の群れとして神の前に生きるべきだったのです。しかし、旧約の民も、新約の民である教会も、神様の御前にとても欠けの多い、罪深い者です。そんな私たちの代表として主イエス・キリストが立ち、ただお一人で究極の神の民となってくださいました。
つまり、主イエス・キリストは、私たち信仰者の代表になってくださったのです。神は、キリストのお姿に表された信仰者としてのあり方を、私たちのあり方とみなしてくださいました。主イエスが体現なさった神への信仰を、私たちの信仰としてくださいました。キリストが私たちの代表として本当に人間らしく生きてくださったので、私たちは神の御前に人間らしい存在と数えられたのです。キリストが私たちに代わって神の前に生きてくださったからです。
このキリストが打ち立てた神との平和に、私たちは今日生かされているのです。

2023年8月23日水曜日

2023年8月23日の聖句

私は、主が私たちのためになしてくださったすべてのことの中に、
主の恵みと主の誉れとを思い起こそう。(イザヤ63:7)
あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。(1ペトロ2:3)

主が私たちのためになしてくださったすべてのこと。それを思い出して主の恵みを数えよう、と言います。私たちに今日も命が与えられていること、主イエス・キリストを今信じ、仰ぎ、祈っていること。キリストの福音に生かされていること。それら一つひとつが主なる神様の恵み深いお取り扱いです。「私は、主が私たちのためになしてくださったすべてのことの中に、主の恵みと主の誉れとを思い起こそう。」自分の歩みを振り返り、そこにある神の恵みを数え、主の誉を仰ぐというのはなんと幸いなことでしょう。
心配や悩みがあると、なかなか主の恵みが見えなくなってしまうこともあるかも知れません。しかし恐れや不安を数えるのではなく、主の恵みや愛を数えたい。事実として、今神が私たちを愛し、生かしてくださっているからです。
「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」とあります。この御言葉は、私たちの教会ではしばしば聖餐を祝う礼拝の招きの言葉として朗読されます。主の恵み深さを、私たちは味わっている。味わうことによって知っている。五感を総動員して、私たちは神の恵みを思い起こします。
テレビや何かでお笑いの人を見ていると、よくもそんなに毎日の生活の中に面白いことが起こるものだと感心してしまいます。日常の一コマを面白おかしく話してみせます。しかしよくよく考えてみると、彼らに特段おかしなことが起きているのではなくて、日常で起こったことをキャッチする感性が鋭いのかもしれません。同じことが起こっても、それを「笑い」として受け止め、言葉にする力がある。私たちは神の恵みに対する感性が磨かれているでしょうか。毎日の生活に潜む神の愛を感じ取り、言葉にすることができているのでしょうか。
神の恵みを指折り数える一日を、今日過ごしていきましょう。

2023年8月22日火曜日

2023年8月22日の聖句

あなたがたの神、主はあなたがたを試し、あなたがたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたがたの神、主を愛するかどうかを知ろうとされてるからである。(申命記13:4)
神は真実な方です。あなたがたを、その力を超える試練に遭わせることはなさらず、試練には、それに耐えられるよう、終わりの時を備えてくださるのです。(1コリント10:13)

今日の新約聖書の御言葉に「試練には、それに耐えられるよう、終わりの時を備えてくださるのです」とあります。この「終わりの時」という言葉は、聖書協会共同訳では「逃れる道」と翻訳されています。こちらの方が私たちにとってはなじみがあるかも知れません。試練には、神が逃れる道を備えてくださっている。
今日の御言葉は、旧約も新約も、どちらも試練の時について語っています。試練に遭い、困難の中にあるとき。神はしかしそれに耐えられるように逃れる道を備えてくださっている。そのように言っています。慰め深い言葉です。試練に遭っていると、もう本当に八方塞がりでどうしようもないと思ってしまいます。苦しければ苦しいほど、今この時、この場所、この私、と視野が狭くなっていきます。周りが全然見えなくなっていく。逃れの道があると言われても、現実感が湧いてきません。
しかし、聖書は言います。「神は真実な方です」と。神が真実でいてくださるのですから、必ず、私たちが耐えられるように準備してくださっているに違いありません。苦しいときに私たちの目はどんどん見えなくなってしまうけれど、神の真実だけを見つめれば、それで大丈夫です。後は神様が逃れの道を準備し、終わりの時を備えてくださるからです。
「あなたがたの神、主はあなたがたを試し、あなたがたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたがたの神、主を愛するかどうかを知ろうとされてるからである。」私たちはただ、主イエス・キリストを愛する。神を愛する。そのことだけです。それだけに尽きる。主を愛し、主の真実に生かされていることを感謝し、神の御手の内に私たちは生きていきます。ここに必ず救いがある。私たちはそのことを信じています。

2023年8月21日月曜日

2023年8月21日の聖句

私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。(エレミヤ24:7)
(パウロの手紙)私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘儀を語ることができますように。(コロサイ4:3)

今日の新約聖書の御言葉は使徒パウロの書いた手紙です。コロサイの教会に宛てたこの手紙は、パウロの書いた手紙の中でも、フィリピの信徒への手紙と同じく「獄中書簡」と呼ばれるものの一つです。パウロが牢獄で囚われの身になっているときにこれを書いた。そのことを踏まえて、今日の箇所をもう少し後まで合わせて読んでみると、非常に示唆的です。
「私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘儀を語ることができますように。私は、このために牢につながれているのです。また、私が語るべきしかたで語って、この秘儀を明らかにすることができるように祈ってください。」
「私は、このために牢につながれている」というのは、今自分が牢にいるのは福音を宣べ伝えたためだということでしょう。その上でパウロが祈って欲しいというのは「神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘儀を語ることができますように」ということです。「私が語るべきしかたで語って、この秘儀を明らかにすることができるように祈ってください」と訴えています。パウロが求める祈りは、自分の困窮が解決されるようにということではなくて、キリストの秘儀である福音の言葉を明らかに語ることができますように、神がそのために門を開いてくださいますように、ということです。自分の困難が解決することどころか、その困難(投獄)の原因になった福音伝道をますますしっかりすることができるように祈ってください、とパウロは願ったのです。
私としては、本当に考えさせられる言葉です。私の願いはどういうものか?私の祈りはどういうものか?私は、何を祈って欲しいと願っているだろうか?
キリストの秘儀が明らかにされるように。御言葉の門が開かれますように。私たちの教会も、そのように祈りましょう。牧師も、信徒も、それぞれのあり方でキリストの秘儀を明らかにする共同体として歩めますように。このことを私たちの祈りとしたい。今日、そのように思わされています。

2023年8月20日日曜日

2023年8月20日の聖句

今週の聖句:
神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5b)

今日の聖句:
神は言われた。「光あれ。」すると光があった。(創世記1:3)
光が結ぶ実は、ひとえに善と正義と真理なのです。(エフェソ5:9)

私たちは、この世界は、神さまの御言葉を待っています。神様の語りかけによって創り出された私であり、この世界だからです。神が「光あれ」とおっしゃったから、光が生まれました。神が「大空あれ」とおっしゃったから、大空が生まれました。そうやって、神の語りかけによって一つひとつのものが創られた。神の語りかけによって生まれた世界は、神を待ち望んでいます。
今日は主の日です。私たちは神を礼拝する。礼拝で、私たちは祈りや賛美を献げます。そして何より大切なのは聖書が開かれて御言葉が語られることです。私たちは神の言葉を待ち望んで神を礼拝する。神が語りかけてくださる御言葉が私たちを造ったからです。神の言葉によって私たちに命が与えられたから。神の言葉こそが、光を生み出すまことの光だからです。
「光が結ぶ実は、ひとえに善と正義と真理なのです。」この世界の善と正義と真理を生み出す光。神がお造りになった光。光を生み出すまことの光の言葉。私たちの世界を保つあらゆる秩序の源である方を、私たちは礼拝します。神の御許に帰りましょう。今こそ、神様をあがめましょう。今、この世界は怒りや正義感によって切り裂かれています。しかし混沌に光を生み出す神の言葉は愛と平和です。主イエス・キリストを仰ぎましょう。キリストの御許に、まず私たちが立ち帰りましょう。悔い改めの祈りをしましょう。主イエスさまの御前に、命の言葉を求めて、新しい一週間を始めましょう。

2023年8月19日土曜日

2023年8月19日の聖句

主よ、あなたは私をご存じです。あなたは私を見て、私の心があなたのもとにあるかどうか試されます。(エレミヤ12:3)
愛において真実であり続け、あらゆる点で、頭であるキリストに向かって成長して行こうではありませんか。(エフェソ4:15)

主イエスさまは私たちを呼び集めて一つの教会としてくださいました。私たちを、一つの体、キリストご自身のお体にしてくださいました。私たち教会は、キリストの体です。キリストご自身がこの体の頭です。「頭であるキリストに向かって成長していこう」と言っています。体にはいろいろな部位があってそれぞれ異なる特徴を持ちますが、全体としてバラバラでは体を構成することができません。頭のもとに全体が統制されていなければ体としては役に立たなくなってしまう。だから、頭であるキリストに向かって、と言っています。
今日の御言葉を読んで改めて思うことは、キリストの体である私たち教会にとっていちばん大切なのは愛なのだということです。「愛において真実であり続け」よう、と使徒は言います。いくら自分が「真実」と思っていても、愛がなければ意味がありません。むなしいだけです。愛において真実であるというのは、言葉を換えれば、キリストの憐れみに立ち帰ろう、ということではないでしょうか。主イエスさまの憐れみという真実を共有し、私たちは一つの体として成長する。
私たちにとっては、苦難の時を過ごしています。そういう今であるからこそ、キリストの真実に繰り返し、繰り返し立ち帰りましょう。「主よ、あなたは私をご存じです。あなたは私を見て、私の心があなたのもとにあるかどうか試されます。」主は、私たちの心が主の御許にあるかに注目しておられます。私たちの真心や、私たちの偽りのない愛を、神様は求めておられる。それは、神が私たちを真実に愛してくださっているからです。
主イエス・キリストの恵みと祝福が、今日もあなたにありますように。神様の愛の喜びがあり、聖霊の交わりがありますように。

2023年8月18日金曜日

2023年8月18日の聖句

幸いな者、主の定めに従う人、心を尽くして主を尋ね求める人は。(詩編119:2)
だから、これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、これを守り、また、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。(マタイ5:19)

第二次世界大戦の時、ドイツの多くの教会はナチの支配を受け入れました。ごくわずかな教会がそれに抵抗した。ドイツ告白教会と呼ばれています。この告白教会が旗印のように掲げた信仰告白の言葉に、バルメン宣言と呼ばれるものがあります。六つの命題を掲げています。その第二番目の命題で、このように告白しています。

「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」(一コリ1:30)
イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しを告げる神の慰めである。それと同じように、同じ真剣さをもって、イエス・キリストは、またわれわれの生活のすべてに向けられる、神の力ある要求である。イエス・キリストを通じて、われわれに起こるのは、この世が神を無視しつつわれわれに強いる呪縛から解き放たれ、神が造られたものに対する自由で、感謝に満ちた奉仕へと向かわせていただく喜びである。
われわれの生活の領域のなかに、われわれがイエス・キリストのものではなく、他の主人のものであるからのごとく生きるべき領域、イエス・キリストによる義認と聖化を必要としない領域があるかのように教える過った教えを、われわれは退ける。

キリストは罪の赦しを告げる神の慰めであるのと同時、神からの力ある要求だと告白しています。キリストご自身が私たちに命じておられます。キリストの言葉に従うように、と。キリストはご自分の血によって私たちを勝ち取ってくださいました。だからこそ、私たちがこの後はキリストのものとして生きることを求めておられます。
私たちの生活のすべての領域はキリストのものです。キリストの御支配を喜んで受けれ、キリストのものとしてふさわしく生きることを、私たちの願いとしていきたいです。主イエス・キリストにある恵みと祝福が、今日も豊かにありますように。

2023年8月17日木曜日

2023年8月17日の聖句

ギデオンは彼らに答えた。「私はあなたがたを支配しない。私の子もあなたがたを支配しない。主があなたがたを支配される。」(士師記8:23)
あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。(マタイ23:11)

ギデオンは士師と呼ばれるイスラエルの指導者です。その頃、まだイスラエルには王様がいませんでした。モーセと共にエジプトを出て、40年の旅をし、その次の指導者ヨシュアの時代にパレスチナに入植しました。ヨシュアと共に土地を得るための戦いをした世代がまだ生きている時代は、神を信じ、従うという国であり続けました。ところが世代が変わり、次第に神様から離れてしまった。すると坂道を転げ落ちるかのように、国は悪い方へ悪い方へと転落してしまった。人々は神に助けを求めた。それに応えて神が送ってくださった指導者が士師と呼ばれる人々であり、ギデオンもその一人でした。
ギデオンの時代はミデヤン人に苦しめられていた。神様はイスラエルの人々のためにギデオンを士師として立ててくださった。ギデオンの指導の下、彼らはミデヤン人の侵攻を食い止めることができました。そこで、イスラエルの人々はギデオンにお願いをした。「あなたが、あなたの子が、そのまた子が、私たちを支配してください。あなたはミデヤン人の手から私たちを救われたのですから。」それに対するギデオンの答えが、今日の御言葉です。「私はあなたがたを支配しない。私の子もあなたがたを支配しない。主があなたがたを支配される。」
ほめられると嬉しいものです。増して、私たちを支配してください(つまり、王様になってください)とまで言われたら、心が躍ってしまうかも知れません。ところがギデオンは「主があなたがたを支配される」と答えた。私も主の御前に仕える者に過ぎないと言ったのです。
褒めてもらいたい、認めてもらいたい、一目置かれたい、人に良くされたい。私たちの根源的な願いです。しかし主イエスはおっしゃいます。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」それは、他ならぬ主イエス・キリストこそが私たちに仕えてくださったお方だからです。神の子キリストこそが、私たちの誰よりも低くへりくだり、私たちの僕になってくださいました。
私たちの願いは、ただひたすらに、主イエス・キリストに似たものになることです。キリストにお従いすることです。このお方にこそ、私たちのための神の福音が輝いているからです。

2023年8月16日水曜日

2023年8月16日の聖句

私たちは、先祖が皆そうであったように、あなたの前では寄留者であり、滞在者にすぎません。私たちの地上での生涯は影のようなもので、希望などありません。(歴代誌上29:15)
だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。(2コリント4:16)

「私たちは・・・あなたの前では寄留者」と言います。私たちは今自分たちの場に根を張って生きているようであっても、しかし神さまの御前では、言葉を換えれば本質的には、寄留者、宿り人にすぎません。ほんの一時、この場所に滞在している旅人です。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ヨセフも、モーセもヨシュアも、皆旅人でした。ダビデは命からがら逃げ惑う日々を過ごしました。預言者たちもそうです。新約の時代も使徒たちも旅人でした。そして、究極の旅人は、主イエス・キリストです。最上の定住地であるはずの天から降ってきて私たちの間に宿り、その地上での生涯を旅路の中でお過ごしになりました。旅をして、私たちのところに来てくださったのです。
信仰は、旅です。寄留者、滞在者として、私たちはこの世を生きています。地上の生涯は影のようなものです。この世のものを希望とはしません。それは、どんなに輝き、きらびやかに見えても、いずれには朽ちてなくなってしまうからです。だから、私たちはそういうものがなくなっても落胆しません。それどころか、主イエス・キリストにあって、私たちの地上の生涯のこの命が終わるときにも、落胆しません。この旅路は地上の事柄のみに終始しているのではなく、天の故郷を目指す旅路だからです。外なる人が滅びても、私たちの内なる人は日々新たにされる。キリストが新たにしてくださる。私たちの将来には、復活という決して朽ちることのない究極の希望があるのです。だから、大丈夫。どんなときにも大丈夫です。
私たちの将来には究極の光があります。私たちがまだ見もせず、想像もしていなかった、永遠のすばらしさを放つ神の救いが私たちを待っている。主イエス・キリストが、その両手を広げて私たちを待っていてくださる。だから、私たちはこの地上では寄留者にすぎないと誇りを持って告白します。

2023年8月15日火曜日

2023年8月15日の聖句

主に喜ばれる道を歩む人を、主は敵と和解させてくださる。(箴言16:7)
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。(マタイ5:44~45)

今日の御言葉は、とても強い言葉だと思います。旧約では「主は敵と和解させてくださる」と言っています。「和解」というのは聖書がとても大切にしている事柄であると思います。私たちの信じる福音は、和解の福音。しかし「和解」という言葉の意味をよく考えてみれば当然であるのでしょうが、その和解というのが「敵との和解」だということを私は見落としがちだなと思いました。今日の御言葉は、私たちにとっての敵というべき存在との和解を語り出している。これは真剣に受け止めれば受け止めるほど、なかったことにしてしまいたい御言葉ではないでしょうか。
誰かと敵対するようになってしまうのは、それなりの理由があるからです。相手に原因があるかもしれないし、こちらにあるかも知れない。しかしいずれにしても、それがもはや修復不可能になってしまうからこそ、ある人が自分の敵になってしまう。立場の違いだったり考え方の違いだったり、いろいろな理由があるにせよ、そういう相手と和解するというのは大変なことです。
そして、今日の新約の御言葉は更に大変なことを言います。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。」敵を愛しなさい、と主イエスは言われます。迫害する者のために祈れ、とおっしゃるのです。一般論としてそう出来たら良いなということには殆どの人は賛成するかも知れない。しかしそれを実際にするとなると、これは大変なことです。その上、それは「天におられるあなたがたの父の子となるため」だと言うのです。そうすると、私には天の父の子となる資格がないとはっきり認めないわけにはいかない。
私たちは、ただただ、主イエスさまが何をしてくださったのかという事実に帰るしかありません。主イエスは、私たちがまだ敵であったときに私たちのために死に、私たちを神と和解させてくださいました。神を憎み、キリストを迫害する私たちのために、和解の手を伸ばしてくださいました。その事実が私たちのすべてです。すべてはここから始まる。主イエス・キリストの憐れみの中で、私たちの新しい一日が始まるのです。

2023年8月14日月曜日

2023年8月14日の聖句

あなたの口を、ものを言えない人のために、
捨てられた人の訴えのために開きなさい。(箴言31:8)
捕らわれている人々のことを考えなさい、あなたがたも捕らわれ人なのだから。虐げられている人々のことを考えなさい、あなたがたも傷を負っているのだから。(ヘブライ13:3)

私の口が言葉を話すことができるのは、ものを言えない人のために、その人たちに代わって開くためだ、と聖書は言います。捨てられた人の訴えを代弁して開くためにこの口はあるのだ、と聖書は言います。口だけのことではないのでしょう。この耳は聞こえない人に代わって聞くためにあるのでしょうし、目は見えない人のために見るためにあるのでしょう。持っているものは持たない人のため、自由は不自由な人のために与えられている。聖書はそう言っているのではないでしょうか。
神様は、私たちをご自分のかたちに造ってくださいました。もしも、ものが言えないから、聞こえないから、目が見えないからということで軽んじられている人がいるとしたら、神がお造りになった神のかたちが損なわれているということになります。更に神様は、私たちのために主イエス・キリストをお与えになり、十字架におかけになりました。そこまでして私たちを愛し抜いてくださいました。人間というのは、本当はそういう存在です。もしもそのような人間として扱われていないのだとしたら、それはとっても罪深いことです。神が独り子をお与えになったほどに愛した一人の人間を軽んじることだからです。
「捕らわれている人々のことを考えなさい、あなたがたも捕らわれ人なのだから。虐げられている人々のことを考えなさい、あなたがたも傷を負っているのだから。」ここには、あなたがたも捕らわれている、あなたがたも傷を負っている、とあります。ところが私たちは捕らわれ、虐げられている人の痛みをどれだけ知っているのか、どれだけ知ろうとしているのでしょうか。
同情は英語でシンパシーと言います。これはギリシア語のパトスという言葉にスンという接頭辞がくっついてできた言葉です。パトスは「痛み」を意味する。そしてスンは「共に」です。シンパシーとは、一緒になって痛むことです。相手の痛みをわが痛みとして痛み、相手の受けている虐げを自分の傷とすること。私たちは、捕らわれ、虐げられている人の痛みをどれだけ知っているのでしょうか?
私たちが今日出会う人は、神がお造りになった人です。キリストがご自身の命をこの人のために捨てた存在です。そのかけがえのない一人の人の痛みをわが痛みとする道に、私たちは歩み出そうとしています。

2023年8月13日日曜日

2023年8月13日の聖句

今週の聖句:
いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。(詩編33:12)

今日の聖句:
この方は偉大なことをなさり、究めがたく、その驚くべき業は数え切れない。(ヨブ9:10)
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。(エフェソ1:3)

主なる神様がしてくださった偉大なこと。私たちには究めがたい御業。驚くべき、また数えきることのできない御業。それはありとあらゆるところに満ちているでしょう。そもそもこの世界をお造りくださったことも、今日もまた保っていてくださることも、このような小さな私に命を与えてくださったことも。しかしそれらすべてに増して大きなこと、偉大なこと、それは、主イエス・キリストをくださったことに他なりません。しかもそのキリストによって、神は私たちを祝福で満たしてくださいました。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」
今週の聖句に「主を神とする国」という言葉があります。これは、いわゆるキリスト教国とか、キリスト者が国民の多数である国、という意味ではありません。そのような体裁をもって他国にひどいことをしている国はいくらでもある。どう考えても聖書の教えているところに背いている大国がたくさんあります。そうではない。主を神とする国、それは、主の神としての御支配を受け入れるということです。主の御支配、それはキリストに示された支配です。へりくだりの道を歩み、他の誰よりも小さくなり、十字架の死にまで至るお方の御支配です。私たちを治めるのはそういう神なのだ、という事実から始まる歩みです。
私たちは神がお始めになった最も偉大なドラマによって生かされています。人となり、十字架にかけられ、復活して天に上げられた方をあがめ、このお方の御支配の中で生かされる。そこに私たちの今日一日の生があります。

2023年8月12日土曜日

2023年8月12日の聖句

私の心は主にあって喜びます。(サムエル上2:1)
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)

今日の新約聖書の御言葉は、伝道旅行から帰ってきた72人の弟子たちに対する主イエスのお言葉です。彼らは旅の成果を報告して言いました。「主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」嬉しかったと思います。自分たちの力ではとても敵わないような戦いに勝つことができた。悪霊に打ち勝ち、主に託された使命に生きることができた。喜んでその成果をご報告したのでしょう。ところが、主イエスはおっしゃるのです。悪霊が服従することを喜ぶな、むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい、と。そう言われて、弟子たちはどんな気持ちになったのでしょうか・・・?
今日の旧約聖書の御言葉には「私の心は主にあって喜びます」とあります。これをヒントに考えると、もしかしたら72人の弟子たちの喜びは主にある喜びではなく、自分たちの成果や成功への喜びにすり替わっていたのかも知れません。もちろん、主イエスのために仕えて旅をしてきた。キリストを信じて歩んできた。ところがいつの間にか、うまく悪霊を制圧出来た自分への誇りにすり替わってしまったのかも知れません。その象徴が「お名前を使うと」という彼らの言葉です。主イエスの名前を「使う」というのは、考えてみればかなり僭越な言葉です。しかし、恐れなく「キリストの名を使う」と言うことができてしまったところに、音も無く忍び寄る傲慢の心に捕らわれている実態が見えてきているのではないでしょうか。そして、それは自分のこととして深く心当たりのある気持ちです。
「私は主にあって喜びます」とは、私を喜ぶのではなく、主を喜ぶということに違いありません。自分を見つめて誇ったり卑屈になったりするのではなく、その目を主に向けて、主を喜ぶ。その喜びは、私の名もまた天に書き記されているという喜びです。このような私の名をも主は天に書き記してくださっている。その事実にただただ驚くしかありません。途方もないキリストの憐れみを、ただ感謝し喜ぶほかありません。私に何ができるか、どういう成果を上げてきたのか、あるいは何ができずどこで失敗したのかということに関わらず、神が私の名を天に書き記してくださっています。私たちはその事実を思い、神に感謝し、キリストにあって喜ぶ。それが私たちの信仰生活ではないでしょうか。

2023年8月11日金曜日

2023年8月11日の聖句

神は闇にあるものを知り、光が御もとに宿ります。(ダニエル2:22)
光は闇の中で輝いている。(ヨハネ1:5)

聖書を読んでいて、「そうは言っても現実は」と思うことはないでしょうか。そういう言い訳をするときに私たちが前提にしているのは、神様は私たちの現実をご存じないということです。もっと言えば、私たちは神様のあずかり知らない領域で生きているということです。「光は闇の中で輝いている」といったとき、その光は「建て前」に属することであって、私たちの現実の「本音」とは区別をされることになってしまう。そうすると、信仰というのはとても非現実的なものになってしまいます。
しかし、聖書は言います。「神は闇の中にあるものを知り」。神様は、私たちなんかよりも遙かに深く闇をご存じです。闇も神がお造りになったものだからです。この事実に驚いたある旧約の信仰者は言いました。「『闇は私を覆い隠せ。私を囲む光は闇となれ』と言っても、闇もあなたには闇とはならず、夜も昼のように光り輝く。闇も光も変わることがない。(詩編139:11,12)」私たちが闇と思っているものなど、神様の御前では光と変わることがない。私たちが神のあずかり知らぬ領域、神とは関係のない本音、神のあずかり知らぬ現実と思っているものも、神さまの御手の内にあります。そして、そうであるからこそ私たちは信じているのです。「光が御もとに宿ります」と。
「光は闇の中で輝いている。」本当に、そうなのです。主イエス・キリストという光はこの世界がどんなに暗く、どんなに冷たく、どんなに絶望的な闇に閉ざされていても、その中で輝いています。この私がどんなに悲惨な罪の闇の中にうずくまっていても、キリストの光はなお私を照らしている。この光の中に生かされていることを、今日、信じましょう。闇から光を生み出す神の言葉が私たちの内に響いています。

2023年8月10日木曜日

2023年8月10日の聖句

見よ、頑迷なる者は、その心に安らぎを得ることがない。しかし、正しき人はその信仰によって生きる。(ハバクク2:4)
それゆえ、あらゆる汚れや甚だしい悪を捨て去り、植え付けられた御言葉を謙虚に受け入れなさい。御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。(ヤコブ1:21)

聖書は思ってもみなかった事実に気づかせます。「受け付けられた御言葉を謙虚に受け入れなさい」と言います。私たちには、御言葉が受け付けられているのです。しかも、私たちの魂を救うことのできる御言葉が私たちに植え付けられている。考えてみれば、すごいことではないでしょうか。
月曜日、車に乗って座架依橋を渡りました。橋の手前の両脇にたくさんのひまわりが植えられていました。座間の夏らしい、美しい光景です。ひまわりの種が植え付けられるとそれは芽生え、やがて大輪の花を咲かせます。ひまわりは見る者の心を明るくします。私たちの魂に受け付けられた御言葉の種は、どういう花を咲かせているでしょうか。
この種は私たちの魂を救う御言葉という種です。そうであるからには美しい花に違いない。その美しさは私たち自身に由来するのではなく、種である御言葉のもつ力から生まれます。私たちはそれを受け入れる良き土壌でありたいのです。
「正しき者はその信仰によって生きる」と言っています。主イエスは病む者を癒やしてくださったときに、よく「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。私たちは信仰によって救われ、信仰によって生きる。信仰とは、主イエスの言葉を聞き、それを受け入れ、それを生きることです。私たちの内に御言葉が根付くことを喜び、主の御業によって生かされることを喜ぶことです。御言葉が私たちを新しくする。御言葉が私たちをキリストに似たものとする。その御言葉の力を受け入れ、その花を喜ぶ。それが「信仰」ではないでしょうか。
主イエス・キリストは、ご自身の語る言葉によって私たちに花を咲かせてくださいます。今日キリストが咲かせてくださるものの美しさに期待して、歩んでいきましょう。

2023年8月9日水曜日

2023年8月9日の聖句

あなたの律法を愛する者には豊かな平安があり、
この人たちをつまずかせるものはありません。(詩編119:165)
キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合いなさい。(コロサイ3:16)

キリストの言葉。それが私たちのすべてです。キリストの言葉を聞き、それに生きる。それこそが私たちの命です。
我が家の車が、今度法定12ヶ月点検を受けることになっています。いわゆるメンテナンスです。プロの方に不具合がないかを見ていただき、修理が必要であればその処置もしてもらう。或いはたち自身の健康診断も、大切なメンテナンスです。できるだけ故障なく動かしていくためには、定期的なメンテナンスがとても大切です。
それでは、私たちの魂のメンテナンスは一体どうしたらいいのか?車の修理工場や人間ドックのように魂を取り出して預けることなんてできない。しかし主は、私たちに御言葉を語りかけることによって、私たちを新しくしてくださるのです。
「あなたの律法を愛する者には豊かな平安があり、この人たちをつまずかせるものはありません。」「キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合いなさい。」私たちのうちに宿る神の言葉、キリストの言葉が働いてくださる、と言うのです。御言葉が私たちをメンテナンスし、あるいは新しく造りかえ、命を与えて生み出してくださる。つまずくことなく生きることができるようにしてくださる。
今日も、喜んで主イエスさまの御言葉に耳を傾けましょう。そして、そこに生きていきましょう。キリストは御言葉を通して私たちと共にいてくださいます。キリストの恵みと祝福が、今日もあなたに豊かにありますように。

2023年8月8日火曜日

2023年8月8日の聖句

私の民を良いもので飽かせるーー主の仰せ。(エレミヤ31:14)
あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい。(1ペトロ4:10)

神様は私たちに良いものを与え、しかもそれに飽きるほどに与えてくださる、と聖書は言います。その良いもの、今日の新約の言葉で言えば賜物ということになりますが、それには目的があることが分かります。「その賜物を用いて互いに仕えなさい」と言っている。私たちがそれを用いて互いに仕えるために、神様は私たち一人ひとりを良いもので飽かしてくださっている、というのです。
私たちに与えられているいろいろなものが私たち自身のためではなく、それによって他者に仕えるためのものだといういのは、私たちにとっては革命的な事実です。私たちの常識に反するからです。自分のものを自分のために使って何が悪い、と私たちは思います。もちろんほかの人にも分けてあげることもあるかもしれないが、それは自分に余裕があるとき、そうしても差し支えないとき。普通はそうです。ところが聖書は私たちの常識を打ち破る。そもそもその良いものは、他者に仕えるために神が与えてくださったのだ、というのです。
さらに興味深いのは、「互いに仕えなさい」と言っていることです。互いに、です。目の前にいるその人が自分に与えられたものを用いてあなたに仕えようとすることをも喜んで受け入れよ、と聖書は言います。他者の善意を信頼して受け入れよ、というのです。これもまた、大切なことです。
私たちは仕え、また仕えて頂くことによってしか生きることができません。私たちは弱い存在です。きっと神様は、敢えてそういう弱い存在として私たちをお造りになったのだと思います。私たちがひとりで生きることのできる強い存在だったら、もっと早く私たちの社会は壊れていたことでしょう。人が仕え合うこと、愛し合うことは、制度や道具で代替することのできない尊さです。そうやって共に生きることにおいて、私たちは、キリストが私たちに仕えてくださったことを具体的に知り、目の前にいる人に仕えることを通してキリストに仕えることを学ぶのではないでしょうか。

2023年8月7日月曜日

2023年8月7日の聖句

ヨセフはこうして、監獄にいた。しかし、主がヨセフと共におられた。(創世記39:20,21)
真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。(使徒16:25)

ヨセフは生まれ故郷から遠く離れたエジプトの地で、ある人の家に仕えていました。ところがその女主人がヨセフを誘惑し、これを拒んだヨセフを陥れ、彼は牢に入れられることになってしまいました。そもそもエジプトにいること自体、ヨセフの兄たちの妬みに端を発するものです。ですからヨセフは兄の妬みのためにエジプトにいて、女主人のわがままのために牢に入れられていた。全く身に覚えのない理由で、理不尽な目に遭っていました。しかし、そんなときにも主はヨセフと共にいてくださいました。牢の中でも神は共にいてくださる。
神様は私たちの良いときや幸せなとき、嬉しいとき、手放しに人からうらやましく思われるようなときにだけ私たちと共におられるのではない。むしろ、理不尽な目に遭い、悪くもないことで後ろ指を指されるようなとき、そこにいてくださるのです。
パウロとシラスも牢の中にいます。フィリピの町に初めて行ったときのことです。悪霊に取りつかれて占いをしていた女を自由にしてあげた。すると彼女を利用して金儲けをしていた連中がパウロたちを高官のところに連れて行って、鞭で打って牢獄に入れてしまったのです。パウロとシラスもやはり理不尽な目に遭って投獄の難に遭っていました。恨み辛みも出て来ようというそのとき、彼らは牢獄の中で神を賛美して歌っていた、というのです。驚くべきことです。他の囚人たちは二人の歌声に聞き入っていました。主が彼らと共にいてくださったのです。
主なる神様は、今日、私たちと共にいてくださいます。どのようなときにも、必ず、神は私たちと共にいてくださる。それは確実なことです。私はあなたと共にいると、神は繰り返し約束してくださっているからです。私たちの目に映るところがどんなにそれと矛盾しているように見えたとしても、疑いの心が芽生えたとしても、神の約束を信じる信仰に、今日生きていきましょう!

2023年8月6日日曜日

2023年8月6日の聖句

今週の聖句:
すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。(ルカ12:48b)

今日の聖句:
私たちの先祖はあなたに信頼した。彼らは信頼し、あなたに救われた。(詩編22:5)
主は憐れみに満ち、慈しみ深い方です。(ヤコブ5:11)

今日与えられている旧約の御言葉は詩編第22編からとられたものです。この詩編は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という、絶望の淵から絞り出すような言葉で始まっています。私たちにとっては何よりも主イエスが十字架の上で叫ばれた言葉です。改革者カルヴァンは、この叫びに主イエスの陰府降下を読み取っています。陰府の底に降っていく絶望。神に棄てられ、神のおられないところへ落ちていく嘆き。主イエスがこの詩編の言葉をもって十字架の上で叫ばれたのは、やはり、この詩編自体に既にそのような絶望が込められていたからなのでしょう。
そのような絶望の中、今日の箇所では、この詩編は先祖の信仰を思い起こしています。これはとても大事なことだと思います。自分の状況をどんなに見つめても望みが見いだせず、もうどうすることもできないとき、信仰の先達の歩みを思い起こすことができます。
私たちの信仰は、今だけ、自分だけの信仰ではありません。アブラハム、イサク、ヤコブの時代から、モーセやヨシュア、サムエル、ダビデ、イザヤやエレミヤ、シモン・ペトロやパウロ、そういった星の数のような信仰者たちに連なっている。そして、彼らが信じた神を私たちも信じている。聖書が証しする世々の信仰者の歩みを思い起こすことは、私たちの慰めです。彼らは喜びの日にも、悲しみの日にも、神を仰ぎ、あるいは叫び、歓喜し、絶望しながら神を信じて来ました。私たちもその信仰者の群れの末席にいます。
私たちは知っています。絶望の叫びを上げた主イエスは、三日の後に復活したことを。私たちは知っています。世々の信仰者たちが遙かに神の都を仰ぎ望んで喜びを得たことを。私たちも、主イエスにあって神の民の一員にして頂いています。

2023年8月5日土曜日

2023年8月5日の聖句

私のうめきを聞き取ってください。
私の叫ぶ声を耳に留めてください。私はあなたに祈っています。(詩編2:1,2ac)
祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(マルコ11:24)

主なる神様は、必ず私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。主はあなたの呻きを聞き取ってくださいます。例えそれが「ことば」にならなかったとしても、例え自分でも聞き取れないほどかすかなものであったとしても。あるいは叫びや喚くような、悲痛な声も、神は必ず耳に留めてくださいます。神は私たちの祈りを聞いてくださるお方です。
私たちは、祈りの中で知るのです。神の限りない慈しみを。神が私たちの祈りを待っていてくださることを。私たちは、人に見せるために祈るのではない。人から敬虔だ、信仰深いと言ってもらうために祈っているのではありません。ただ神様の御前に一人立ち、あるいはうずくまり、頭を垂れ、あるいは顔を上げて神に向かう。神は必ず私たちにご自分の御顔を向けて、私たちに耳を傾けてくださっています。
主イエス・キリストは言われます。「祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」かなり大胆な言葉です。「すでに」と主は言われます。私たちは神に祈ったとき、もう既にそれは与えられたと信じて祈ることが許されている。だから私たちは感謝さえも先取りします。神は必ず私たちに最も良いものを準備してくださっている。神の愛を信頼し、神の恵みを確信して、先に感謝をささげる。
今の時代は先が見えないとか、不安定でどんどん悪くなっていく、と多くの人が言います。信仰があってもなくてもそういうことを口にする人は多い。しかし私たちは、確かにこの世を支配する悪の力は強いけれど、主イエス・キリストにあって神はこの世界を愛し、ご自分の目や耳を傾けていてくださることを信じています。神が最善の道を準備してくださっていることに信頼しています。私たちはキリストにあって感謝に生きる。今日、神に目を上げましょう。キリストの御前にへりくだって祈りましょう。ここに限りない神の慈しみがあるのですから。

2023年8月4日金曜日

2023年8月4日の聖句

焦って口を開き、心せいて、神の前に言葉を出そうとするな。
神は天にいまし、あなたは地上にいる。
言葉数を少なくせよ。(コヘレト5:1)
人を裁くな。裁かれないためである。(マタイ7:1)

今私たちが日ごとの祈りの導きとして聞いているのは、ドイツのヘルンフート兄弟団が発行しているローズンゲンという小冊子に掲げられている御言葉です。書名の「ローズング(その複数形がローズンゲン)」というのは合い言葉、もしくは籤という意味です。本書のあとがきを見ると、このように書かれています。「ヘルンフート兄弟団に合い言葉となる聖書のことばがあたえられたのは、彼らの間に不和が起きたときでした。わだかまりを抱いたままで祈るために会堂に集められた兄弟姉妹たちは、聖霊の導きによって、自分たちの合い言葉は聖書以外にあり得ないことを再認識し、自分たちの思いによらない神の御心をくじに託して、祈りつつその日の聖句をくじ引きしたのです。」
このような経緯でこの本が編まれていますが、実際のくじ引きでは、まず旧約の御言葉をくじ引きで決め、それにふさわしい新約の御言葉を決めているのだそうです。そのことを考えると、今日の旧約の御言葉にこの新約の御言葉が与えられているというのは、すごいことだなと思います。私たちは人を裁くときにこそ、焦って要らぬことを口にし、罪を重ねてしまう。聖書はそのことをよく知っているのです。
裁きの心は誰の心にも本当に根深く、しぶとい。心の中での裁きは必ず言葉となり、行動に表れます。裁きの言葉を口にするとき、私たちは神が天におられ、私たちは地上にいる卑小な人間にすぎないことを忘れている。ヘルンフート兄弟団はかつての不和の時にこそ聖書の御言葉を自分たちの合い言葉にしたといいます。私たちが人間関係の痛みを解決する道は、「焦って口を開くな」と命じる聖書の御言葉に耳を傾けること以外にはないのではないでしょうか。
私たちは主イエス・キリストを愛し、キリストの憐れみによって生かして頂いています。私たちを捨てることなく救ってくださるキリストを、私たちも愛しています。このお方が私たちの間におられる。その事実が、私たちを一つの共同体、一つのキリストの体としてくださるのです。

2023年8月3日木曜日

2023年8月3日の成句

あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、
朝早く消え去る霧のようだ。(ホセア6:4)
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。(1コリント13:1)

旧約聖書のホセア書は、非常に衝撃的な預言書です。預言者ホセアは神に命じられてゴメルという女を妻として迎え入れます。彼女は「淫行の女」と呼ばれていました。ホセアと夫婦になり、子どもが与えられても、なおも淫行を繰り返しました。
妻に裏切られる一人の夫の姿を通して、神様の御前に偶像礼拝を繰り返す神の民の不実を暴くのが、ホセア書です。今日与えられている御言葉は、主なる神様から神の民に告げられた言葉です。「あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る霧のようだ。」私たちがどんなに真実の愛と自負するものを並べ立てたとしても、所詮は朝もやのようにあっという間に消え去ってしまう。霧のように儚く移ろうものに過ぎない。私たちの愛の乏しさ、空しさ、神様の御前での不実を告発します。
ハイデルベルク信仰問答では、私たちの罪を、神を愛することにも人を愛することにも失敗している現実に見ています。真実の愛に生きたいと願ってもそうではない私たちの現実の惨めさ。そこに私たちの罪が現れている。
今日の新約聖書の御言葉も、その現実を深く見つめています。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。」異言というのは、ある特別な祈りのことです。普通の人には祈ることのできないような、特別な祈り。ですから異言の祈りを捧げられるのは特別な信仰の持ち主と考えられていました。ところが例え異言によって立派な祈りを捧げることができたとしても、他人とは違うと自負し、人からも賞賛される信仰をもっていたとしても、愛がなければただ騒々しいだけにすぎない。愛がなければ、すべてはむなしい・・・。
愛。そこにこそ、私たちの罪深い姿が現れてしまいます。しかし、ここにこそ神のすばらしい救いがあります。キリストは、このような私たちを、どのようなときにも愛し続けてくださいました。私たちには愛がないし、私たちは不真実です。しかし、キリストの真実は変わることなく、キリストの愛は永遠に確かです。私たちは愛ではないが、キリストは愛です。キリストが私たちを救ってくださいます。今日、私たちの道を照らすのは、変わることのないキリストの愛だけです。

2023年8月2日水曜日

2023年8月2日の成句

苦難のはざまから主を呼び求めると、主は私に耳を傾け、慰めてくださった。(詩編118:5)
(パウロの手紙)私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。(2コリ1:7)

今日の新約聖書の御言葉にある「慰め」という言葉は「隣で呼びかける」という字を書きます。私の、聖書の中でも特に好きな言葉です。どこか遠くで何かを言っているのではない。隣りにいる。隣りにいて、横から心に届く言葉を語りかける。そこに慰めの対話が生まれる。
「私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。」パウロはそのように言います。しかしこれは、パウロとコリント教会との関係を考えると、決して当たり前の言葉ではありませんでした。
パウロとコリント教会との関係は、とても悪いものでした。コリント教会にはパウロを激しく批判する人が何人もいて、そういう人々に引きずられるようにして教会全体がパウロとの関係を悪くしてしまっていたようです。ところがそういう人たちに向かって、パウロは言うのです。あなたたちは、私と慰めを共にしてくれている、と。あなたたちは私の隣りにいてくれた、あるいは、私にあなたたちの隣りにいさせてくれた、と。
必ずしも、物理的に一緒にいたというだけではないと思います。同じ信仰を抱き、同じキリストを愛し、同じ神をあがめるとき、私たちは隣りに生きるものとなる。パウロは主イエスさまにあってそのことを信じ、そういう信仰の奇跡がコリント教会との間にも起こっていることを喜んでいました。
「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は私に耳を傾け、慰めてくださった。」私たちは、主なる神様の慰めを教会を通して知ります。教会という共同体の仲間を通して神様の慰めを経験します。私たちは共に神の御前にあり、神を仰ぎ、神に祈り、共に神の慰めを分かち合います。主イエス・キリストご自身が私たちの間にいてくださることを信じて。

2023年8月1日火曜日

2023年8月1日の聖句

8月の聖句:
あなたは必ずわが助けとなってくださる。あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。(詩編63:8)

今日の聖句:
神に近く留まり、主なる神に信頼を置くこと、
それは、あなたの御業をことごとく語り告げること。
それこそが、私の喜び。(詩編73:28)
その癒やされた人は、ペトロまたヨハネと一緒に境内に入っていき、走り回ったり飛び回ったりして神を賛美した。(使徒3:8)

以前、コロンビアで開催されたカンバーランド長老教会の総会に出席しました。日曜日は現地の教会の礼拝に出席をしました。総会の会場になっていたホテルからはずいぶん離れたところで、車で何時間も移動しました。次第に山の中に入っていき、中腹といった場所にある教会で車を下ろされた。総会は町中でしたが、教会は田舎にありました。コロンビアにあるカンバーランドのその教会では、礼拝でダンスをしていました。10人くらいの少女たちがチームになって、讃美歌に合わせてダンスをしていたのです。いちばん小さな子は、5,6歳くらいでしょうか。十代後半くらいまでの少女たちです。とっても楽しそうに踊っていました。その様子が印象的でした。
「その癒やされた人は、ペトロまたヨハネと一緒に境内に入っていき、走り回ったり飛び回ったりして神を賛美した。」この人は癒やされた喜びを全身を使って表しています。走り回り、飛び回っている。
私たちには、実際に踊るかどうかは別にしても、そういう瑞々しい喜びがあるでしょうか。主イエスさまと出会い、主を信じて生きるというのは、そういう喜びの中を生きることです。主の救いの出来事を語り合い、喜び合い、賛美し、体でそれを表現する。主を喜ぶことこそ、私たちの力なのです。

2024年11月11日の聖句

イスラエルの子らは帰って来て、彼らの神である主と彼らの王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。(ホセア3:5) 誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。(マタイ7:8) 私たちは求めることが許されています。「誰でも、求める者は受け、探す...