2024年3月31日日曜日

2024年3月31日の聖句

今週の聖句:
わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。(黙示録1:18)

今日の聖句:
私は彼らの前で暗闇を光に変え、起伏のある地を平らにする。(イザヤ42:16)
イエスはパンを取り、神に感謝してこれを裂き、彼らにお渡しになった。すると、二人の目から鱗のようなものが落ち、彼らはその人がイエスだと気付いた。(ルカ24:30~31)

イースターの朝を迎えました。キリストは復活させられました。キリストは一度は死なれたが、神によって陰府から引き上げられ、世々生きておられる。キリストの復活の命が今日の私たちの命を支えています。
この方は私たちを取り囲む闇を光に変えてくださる方です。罪の闇、絶望の闇、死の闇。キリストがそこに光をともし、キリストご自身が光になって、私たちを照らしてくださっている。キリストの復活の光の中、私たちは生きることが許されています。
主イエス・キリストの命のパンを私たちはいただきます。キリストの復活の命に生かされて、私たちの新しい一日が始まります。主イエス・キリストの恵みが今日もあなたにありますように。どのような時にもキリストが共にいてくださいます。あなたがそれを否定し、あるいは拒み、信じられなくなってしまった時にも。どのような暗闇の淵にもキリストは共におられます。一度死んだ方だからです。しかし今世々限りなく生き、死と陰府の鍵を持っておられ、死を支配している。だから、どこであってもキリストの光が差し込んでいる。私たちはキリストの福音の事実を信じています。

2024年3月30日土曜日

2024年3月30日の聖句

神は憐れみを与えようとして、立ち上がられる。(イザヤ30:18)
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)

神が立ち上がっておられる。聖書はそう告げます。立ち上がって、何をなさるのか。「神は憐れみを与えようとして、立ち上がられる。」憐れみを与えようとして。そうです。私たちを憐れむために神が今立ち上がっておられる、と聖書は言うのです。
天の玉座におられる方、座しておられる方が、身を乗り出すようにして私たちを憐れんでくださっている。神ご自身が私たちに手を伸ばしてくださっている。ここには、神さまの熱い思いが込められています。
今日は受難週の土曜日です。2000年前の初めのイースターの前日を弟子たちはどんな思いで過ごしたのでしょうか。女たちは愛する主イエスが死んだことを悲しみ、そのお体を清めるための準備をしていたのでしょう。男たちは、ユダヤ人を避けて部屋に集まって震えていたのかもしれません。
神さまはそんな私たちのために立ち上がって憐れみの手を伸ばしてくださっています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」神は私たちを裁くことをお望みになったのではなく、救うことを望んでくださいました。神は立ち上がってキリストを陰府から引き上げ、復活の命への道を造ってくださいました。
私たちにも、受難週の土曜日のような日が訪れることでしょう。キリストの十字架が目の前にありながら、復活の光が見えない日が。しかし、それはそう見えているだけで、実際には違うのです。実際には、神は立ち上がって私たちを救うために命の祝福を与えてくださっています。神の憐れみによって私たちは生かされているのです。この恵みの事実に目を上げて、今、平和のうちに歩み出していきましょう。

2024年3月29日金曜日

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15)
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54)

神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。神との出会いの場所。私たちの主イエス・キリストとの出会いの場所。そこが私たちの神の家です。
「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。」
この百人隊長は言います。「まことに、この人は神の子だった」と。この人は主イエス・キリストと出会った。神の子でいらっしゃるお方と出会った。十字架にかけられ、神に棄てられて死んでいくそのお姿を見て、この方こそ神の子だと知ったのです。十字架の下で主イエスと出会ったのです。神の子イエスと、十字架の下で出会った。私たちも同じです。十字架にかけられたこのお方を仰ぐ時にこそ、私たちもこのお方がまことの神の子でいらっしゃることを知る。十字架の下で、神が私たちに語りかけてくださっている。見なさい、ここに私の子がいる、と。
十字架の下こそ、私たちの神の家です。十字架の下で私たちはキリストと出会い、救いを知る。神の家がここにある。
今日、この聖なる金曜日に、十字架の上におられるキリストを仰ぎましょう。ここで私たちに語りかけるキリストの御声に耳を傾けましょう。この神の家から、私たちの信仰生活が始まるのです。
キリストに栄光がありますように。

2024年3月28日木曜日

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34)
イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40)

主イエス・キリストは、この夜も「いつものように」祈りをなさいました。この夜。遂に十字架にかけられるその夜です。これから憲兵たちがやって来てご自分を捕らえようとしている夜です。主イエスはその夜も、いつものように、いつもの場所で祈りをなさった。主イエスの歩みは祈りをその特徴としている。
主イエスが弟子たちに教えてくださった祈りがあります。「私たちを試みに遭わせないでください。(ルカ11:4)」主ご自身が教えてくださったこの祈りに呼応するかのようにして、ここでも再びおっしゃいます。「誘惑に陥らないように祈りなさい。」私たちは、祈ることによって誘惑から自由になることができる。試みを避けるただ一つの手段が祈ることに他ならない。主イエスはそうおっしゃるのです。
主イエスさまは祈っておられます。オリーブ山での祈り。主がご自分のために祈っておられる。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」主ご自身が祈りによって誘惑と戦われました。そして、祈ることで父の御心に生きぬかれたのです。
今日は受難週の木曜日です。私たちもキリストと共に祈ります。誘惑に陥らぬように。父の御心から私たちを引き離そうとするあらゆる敵と戦うために、私たちも祈りに打ち込みます。

2024年3月27日水曜日

2024年3月27日の聖句

主が貧しい人の右に立ち死を宣告する者たちから彼を救われるからです。(詩編109:31)
私の愛するきょうだいたち、よく聞きなさい。神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。(ヤコブ2:5)

聖書の貧しい人に対するまなざしには特別なものがあります。「私の愛するきょうだいたち、よく聞きなさい。神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」神が世の貧しい人をお選びになった。だから、貧しい人、つまりこの世で軽んじられている人をあなたたちは軽んじてはならない、と聖書は私たちに言います。
神さまは、貧しい人を特に重んじておられる。それは、キリストご自身が貧しくなられたことからも分かります。キリストは王宮ではなく飼い葉桶に生まれました。キリストは貴族の子ではなく大工の子としてお生まれになりました。キリストは「貧しい人々は、幸いである」と宣言なさいました。神は、世の貧しい人々を選んで信仰の富ませた。ご自分の愛する者に約束された御国を受け継ぐ者となさった。神ご自身がそのようにお定めになったのです。
「主が貧しい人の右に立ち死を宣告する者たちから彼を救われるからです。」この御言葉を聞いた私たちは、貧しい人を虐げたり、力のないものを踏みにじるような悪を容認することができません。3月の初めに、中会女性会の行事として世界祈祷日の集会をいたしました。パレスチナがテーマでした。パレスチナに関する一般的な情報と共に、今、イスラエルがパレスチナに対して行っていることも少し学びました。恐ろしい虐殺が現に進行していることを知らされました。私たちは、今現に虐げられている人々がいることを知らされ、また今日の御言葉を聞き、「御国を来たらせたまえ」と真剣に祈りたいと願います。神ご自身の平和を実現してください、と。

2024年3月26日火曜日

2024年3月26日の聖句

主は海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設けられる。(イザヤ43:16)
(イエスの言葉)「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(ヨハネ14:3~4)

主イエスが十字架にかけられる直前の夜に弟子たちに語られた言葉です。「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」主イエスの道。十字架への道。父の御許への道。あなたたちはその道を知っているはずだ、と主イエスは言われます。
どこかへ行こうと思ったら、道を通らなければたどり着くことができません。現代を生きる私たちの感覚からすると、目的地にさえ行くことができれば、どんな道を通っても良いように感じます。今日はこの道が渋滞しているから別の道で行こう、と。しかし、主イエスは2000年前の世界を舞台にして語っておられます。いろいろな道があると言うよりも、むしろ道があるかないか、という話だと思います。道がなければ、目的地にたどり着くことができない。そもそも道があるのか?そう問うた時に、主イエスはおっしゃるのです。道はある。父の御許に続く道がある。しかも、私がこれから行こうとしているその道を、あなたたちもよく知っているだろう、と。
そうです。私たちは主イエスの道を知っています。主イエスは、十字架の道を進んで行かれます。十字架の道を進んで父の御許に行かれるのです。
私たちには、自分の道を見失ってしまうことや、もう行き止まりだと絶望してしまうことがあるでしょう。しかしキリストの道はどんなに八方塞がりだと思うところにも通っています。「主は海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設けられる。」
十字架にかけられ、誰よりも傷つき、悲しみ、痛みを負った方こそ、神の御許への道を進んでおられます。いや、この方ご自身が道になってくださいます。私たちを父の御許へ連れて行くために。キリストの十字架という道、父の御許への道が、私たちの前に敷かれています。

2024年3月25日月曜日

2024年3月25日の聖句

主は生きておられる。私の神が言われる事を私は告げる。(歴代誌下18:13)
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。(2テモテ4:2)

キリストは、私たちキリストの教会をご自分の預言者としてこの世界に派遣しておられる。それが私たちの信じるところです。
日本語で「預言者」という字をよく充てて翻訳したと思います。聖書のいう預言者は、先のことを言い当て、まして占いのようなことをする者のことではありません。神の言葉を預かって語る預言者の主たる関心は、今に向いています。今、私たちは神の御前に一体いかなるものなのか?神は私たちをどのようにご覧になっているのか?もしも将来に関わることを口にするとしたら、今ここでの神との関わりが歪んでいることがこれから先何をもたらしてしまうのか、ということです。預言者は、今ここでの神の言葉を託されている。
「主は生きておられる。私の神が言われる事を私は告げる。」私たちは、神が語れと命じることを語ります。そして、今神は私たち教会に、キリストの福音を語れと命じておられると信じています。主キリストに示された神の愛を証言し、この愛から離れることなく生きようと、ここにこそ私たちの真の幸いがあると宣べ伝える。それが、神が私たちキリスト教会に今託しておられる言葉に他ならない。
「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。」時が良くても悪くても、と言っています。しかし今は決して良い時ではないと思います。誰もキリストの福音に耳を傾けようとはしない。しかしそれでもなお私たちは証言し続ける。キリストがまことの幸いを下さっていると信じるから。
今日の証言者としての歩みに、神の祝福がありますように。

2024年3月24日日曜日

2024年3月24日の聖句

今週の聖句:
人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:14b,15)

今日の聖句:
主よ、あなたが祝福されたものは、とこしえに祝福されるのですから。(歴代誌上17:27)
そうして、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。」(マタイ25:34)

主なる神さまの祝福は、とこしえの祝福です。永遠に神の祝福は変わらない。
私たちの営みには、永遠なるものはありません。私たちのすることなすこと、どれもこれも一時的なもの、一瞬にすぎないものです。どんなに盤石だと思い、どんなに長く続くと思っていても、神様の御前では朝露が渇いてしまうほどの間でしかない。草は枯れ、花は散る。それと同じように、私たちの営みは脆くて儚い。
しかし、神はそうではありません。しかもここでは、神の祝福が永遠だと言います。神が私たちに向けてくださる祝福は、永遠の祝福。一瞬で死んで消え去る私たちのために、神は永遠の祝福を向けてくださっているのです。
「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。」
神の祝福は、始めも終わりも、私たちには見通すことができません。この世界が造られる前から準備され、世界の完成の果てのその先にも揺らぐことのない祝福。神ご自身の時間を満たす祝福。私たちを今日も覆い尽くしている神の祝福がここにあります。

2024年3月23日土曜日

2024年3月23日の聖句

人間は、自分のために神々を造れるだろうか。(エレミヤ16:20)
だから、地上に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。(コロサイ3:5)

「人間は、自分のために神々を造れるだろうか。」造れるはずがない。本来は、そうなのです。人間を超えた存在、この世界をお造りになった方、天を治める方を、一体どういて人間が造ることができるでしょうか。ところが実際には、私たちは絶えず、繰り返し、神々をこしらえようとしている。それが私たちの現実です。聖書はそういう人間の習性を「偶像礼拝」と呼びます。
偶像礼拝というのは、何らかの神像を造ることとあまり狭く考えない方が良いと思います。むしろ聖書はこのように言う。「だから、地上に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。」偶像礼拝の本質は貪欲だと言います。私たちの貪欲が形をとったものが偶像礼拝に他ならない。淫らな行いや悪い欲望が、そういう願いを叶えてくれるのに便利な神々を生み出す。現代では、消費主義という名前を持つかもしれませんし、「自分に正直に」といったスローガンになるかもしれません。しかし自分の貪欲を基準にしたとき、そこで起きている事柄の正体は偶像礼拝に他ならない。
私たちを偶像礼拝から解放するのは、ただキリストだけです。キリストを崇め、キリストの救いに立ち返るときにしか、私たちは自由にはなれません。主イエス・キリストの恵みに満ちたお姿を、今日新たな思いで仰ぎましょう。

2024年3月22日金曜日

2024年3月22日の聖句

かつてあなたは地の基を据えられました。天もあなたの手の業です。(詩編102:26)
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、万物は御子において造られたからです。(コロサイ1:16)

教会のすぐ側に、最近アパートを建てています。古い建物を壊して基礎工事が始まったと思ったら、あっという間に立派な建物が建ってきました。最近の建築工事は本当にあっという間です。素人ながらに眺めていましたが、やはり、基礎工事に一番時間をかけていたように見えました。土台をしっかりと造ると、上に建っている家屋は堅牢になります。
建物の基は大地ですが、大地の基はどうやって据えられたのか。「かつてあなたは地の基を据えられました。天もあなたの手の業です。」地の基も、それだけではなく天も、神の手の業だ、とこの詩編は告白します。私たちをしっかりと支える大地をお造りになった方がおられる。どこに行こうとも私たちを覆っている天をお造りになった方がおられる。その安心感、その大いなる手の確かさ。このお方が私たちのことをも支えていてくださいます。
「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、万物は御子において造られたからです。」この新約聖書の御言葉は、更に、神によって造られた天と地とそこに満ちるすべてのものは、御子イエスにおいて造られた、と言っています。ただ単に神がお造りになったというだけではなく、御子において造られた。御子に現された神の慈しみ、神の優しい御心がこの世界に現されている。私たちはこの世界を造り、保ち、私たちの存在や命を慈しんでくださる神の憐れみの中に生きている。この確かな、そして大いなる平安が、今日も私たちを生かすのです。

2024年3月21日木曜日

2024年3月21日の聖句

神は賢者には知恵を、分別を知る者には知識を与えます。(ダニエル2:21)
キリスト・イエスは、私たちにとっては神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(1コリント1:30~31)

社会には知恵ある人がたくさんいます。この世で起こっていることを的確な言葉で言い表し、見事な見解を示す。そういう言葉に教えられることはたくさんあります。あるいは社会に直接関係のない知恵もたくさんあります。私の好きな数学もその一つです。その道を究めたところで生まれる知恵も、すばらしいものだと思います。
聖書は究極の知恵を知っています。「キリスト・イエスは、私たちにとっては神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」この知恵は、私たちの学問や研究の先にある知恵ではありません。数学を究めても、この知恵にたどり着くことはできない。神からの知恵だからです。神からの知恵は神からしか来ない。キリスト・イエスこそ神からの知恵。この知恵は、義と聖と贖いになられた、と書いてあります。
知恵が義と聖と贖いというのは、ちょっとよく分からないような言葉です。どれも神さまとの関わりを表す言葉です。神さまとのふさわしい関わりを現す「義」。神さまの私たちとは異なるご性質を現す「聖」。神さまが私たちをご自分のものと宣言して下さる「贖い」。キリストこそ、私たちを神様の御前に生かしてくださる神の知恵そのものでいらっしゃる。
私たちはこの知恵をただ神からいただく。そしてそれに応えるようにして、人間の知恵は与えられた知識や研究を尽くして奉仕します。すべては神の知恵に仕えるために。そこに、学問の最もふさわしい場所があるのだと思います。神さまの御手は本当に大きい、と思います。

2024年3月20日水曜日

2024年3月20日の聖句

主に何をお返ししようか。報いてくださったことすべてに応えて。(詩編116:12)
しかし規定の病を患っていた十人の中で一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。(ルカ17:12,15~16)

規定の病。新共同訳では「重い皮膚病」と翻訳されていました。規定の病というと少し意味が分かりにくい翻訳です。皮膚の病を指していますが、訳者の意図としては、特に律法で規定された病ということを現しているそうです。この病は律法で規定されていた。
例えば、このように書かれています。「皮膚に腫れか吹き出物、あるいは斑点があって、規定の病になるなら、・・・祭司がその皮膚の患部を調べて、その患部の毛が白く変わり、皮膚の下まで及んでいるなら、それは規定の病である。祭司はそれを確認したら、その人を汚れていると言い渡す。(レビ記13:2,3)」
この病が発症すると「汚れ」と呼ばれます。祭儀的なタブーに該当し、市民生活を送ることができなくなってしまいます。町の外に隔離され、他の人が近づいてこないように「汚れている」と叫ぶように、と言われていました。現代の感覚からすると考えられないような扱いを受けることになります。
主イエスが癒やしたのは、そういう病に苦しんでいた人々です。10人の人を癒やしました。ところが、その中の一人だけが癒やしてくださった主イエスのもとに来て感謝をした、というのです。
「主に何をお返ししようか。報いてくださったことすべてに応えて。」私たちには、主の大きなご恩に応えることなど到底できません。頂いたものがあまりにも大きくて。しかし、だからといって何もしないのではない。感謝をささげ、主を賛美する。答えきれないからといって恩知らずになることはできない。
主イエスは相手が誰であっても差別せず、嫌わず、愛し、受け入れてくださいます。主イエスさまの深い愛。その恩義に少しでも応えるために、感謝をささげ物として御前に差し出したいと願います。

2024年3月19日火曜日

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27)
心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2)

主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。」何という安心、何という確かさ。私たちは例えこの世に場所が見つからなかったとしても、神の家に確かなすまいが整えられているのです。
昔から、信仰者たちは神の御許にある住まいを目指して旅を続けてきました。アブラハムも、モーセも、ペトロもパウロも、皆旅をした。天にある父の家を目指して。そこに確かな住まいがあることを信じ、この世では仮住まいの人として、よそ者として生きたのです。
私たちも同じ旅に招かれています。この世に最終的な安住の地を持つものではなく、神のもとに安らぎの家を持つものとして生きることを。この世では旅人して生き、神の国を目指して生きるものである命へと、キリストが私たちを招いておられます。主と共に歩む旅です。キリストの後に付いていく旅です。喜びの旅路です。
改めて、今日の御言葉はこのように言っていました。「逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。」神はいにしえからおられる。私たちが生まれる前から、それどころかこの世界が造られる前から、神はおられた。そのお方が、私たちのための住まいを造り、私たちのための逃れ場になってくださっている。だから、この世界で私たちに何が起ころうとも、最終的には必ず大丈夫です。いにしえから、そしてとこしえまでおられる方が私たちを迎えてくださるのですから。

2024年3月18日月曜日

2024年3月18日の聖句

貧しい者たちの実情を歪曲し、追いやられた者たちの権利に暴力をかざそうと不正な判決を書く者たち、彼らに災いあれ。(イザヤ10:1,2)
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。(マタイ7:12)

貧しい者たちや追いやられた者たち、すなわち社会的に弱い人々への聖書のまなざしはすごいと思います。「貧しい者たちの実情を歪曲し、追いやられた者たちの権利に暴力をかざそうと不正な判決を書く者たち、彼らに災いあれ。」この最後に「不正な判決を書く者たち」とあります。判決を書くというのですから、裁判官のことでしょうか。現代のような司法制度があった時代ではないので状況は全然違うと思いますが、それでも間違いなく、判決をかける立場にいる人は町の有力者であり、多くの人に重んじられ、尊敬される人です。それなのに、そこで実際に書かれている判決は、貧しい人の実情を歪曲し、追いやられた者の権利に暴力をかざそうとするものだった。
聖書は、ごく普通に、常識的に私たちが受け入れる社会の現実や、世界を支配する力に対して疑問符をつけます。あなたたちの世界はそれでいいのか、と問いを投げかけます。
私たちもすぐに考えてしまいます。確かに社会の理想は「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というとおりなのだろうけど、現実は・・・。しかしそれを単なる理想といって片付けてはならない、と聖書は私たちに向かって主張しているのではないでしょうか。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」これはキリストの言葉です。私たちのためにすべてを献げてくださった方、私たちが願う以上のことをしてくださった方のお言葉です。私たちはこの方のお陰で生きていられる。その神の憐れみの事実が、私たちの「当たり前」に問いを投げかけるのです。

2024年3月17日日曜日

2024年3月17日の聖句

今週の聖句:
身代金として自分の命を献げるために来た。

今日の聖句:
わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ。(イザヤ10:1,2)
イエスは大声で言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。」(マタイ7:12)

渇いている私たちに、キリストが水を飲ませてくださいます。そのためにキリストが豊かな流れを準備してくださいました。キリストご自身がその流れです。
冬場は夏とは違って喉の渇きを自覚しにくいです。しかし乾燥していますし、知らないうちに渇いていく。脱水気味になっていることだってあるのではないでしょうか。もしかしたら、魂の渇きはなおのこと自覚しにくいところがあるのかも知れません。私たちには、魂を癒やす命の水が必要です。キリストがくださいます。
この方は、ご自分の命を私たちのために献げてくださったお方だからです。キリストの祝福の中、今日の一日を歩んで行かれますように、祈っています。

2024年3月16日土曜日

2024年3月16日の聖句

主に感謝し、その名を呼べ。
もろもろの民に主の業を知らせよ。(詩編105:1)
つまり、信仰は御言葉の告知から生まれるのですが、その告知はキリストの言葉を通して生まれるのです。(ローマ10:17)

信仰は御言葉の告知から生まれる。その告知はキリストの言葉を通して生まれる。キリストの言葉が告げられなければ、信仰は生まれない。キリストの言葉が私たちの内に信仰を生み出す。
本当にその通りだと思います。信仰は私たちの心の力ではないし、私たちの内的な求めや精神の力ではない。キリストの言葉が私たちに働いて生み出される新しい出来事。それが信仰です。
ですから、自分の信仰を過小評価したり、ダメ出しをしたり、あまりに過ぎた「ご謙遜」をするのは、キリストに対してとても不遜なことです。信仰はキリストの御言葉によって生み出された賜物なのですから。キリストが私に働いてくださって、キリストが生み出し、与えてくださったこと、その事実を謙遜に受け止め、私の内にも働いてくださっているキリストをへりくだって受け止めたい。
「主に感謝し、その名を呼べ。もろもろの民に主の業を知らせよ。」この呼びかけに応えて、キリストが与えてくださった信仰をもって神に応えたい。主なる神さまへの感謝と賛美をもって、神に仕えたい。そう願います。キリストの祝福が、今日もあなたにありますように。

2024年3月15日金曜日

2024年3月15日の聖句

あなたがたは、あなたがたの神、主の子らである。(申命記14:1)
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。(ガラテヤ3:26)

新約聖書が書かれた時代、普通の社会の中で「神の子」と呼ばれていたのは、ローマの皇帝だったようです。ところが聖書はそれとは違うことを言います。「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」あなたがたはみな、と言います。ある特別な人、普通とは異なる存在、この世の権力者。そういう人を指して「神の子」という称号を与えるのではありません。「あなたがたはみな」です。神を信じる者は誰もが神の子です。あなたも、私も。ここに聖書の特別さがあるのです。
いやしかし、この世界にはただ一人のまことの神の子がおられます。主イエス・キリストこそまことの神の子。神の独り子。ところが、そのお方が私たちに口伝えに教えてくださった祈りは「我らの父よ」という祈りです。主イエスは、私たちも主と同じように、口まねをして「我らの父よ」と祈るように教えてくださいました。何と言うことでしょう。主イエス・キリストは神の子でいらっしゃることをご自分で独占なさらずに、私たちのことをも神の子にしてくださったのです。
私は神の子。「あなたがたは、あなたがたの神、主の子らである。」これが私たちのアイデンティティです。神である主を「父」とお呼びし、主イエス・キリストを仰ぐ。そこに本当の私らしさがある。今日も神をお呼びして祈る一日でありますように。
あなたの今日の祈りの道造りにキリストの祝福がありますように。

2024年3月14日木曜日

2024年3月14日の聖句

主はあなたの叫び声に応えて、必ずあなたに恵みを与えてくださる。主がそれを聞かれると、直ちにあなたに答えられる。(イザヤ30:19)
イエスはカナンの女に言われた。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(マタイ15:28)

主は私たちの叫び声を聞いてくださいます。応えてくださいます。御自分の恵みをもって、私たちの叫び声に必ず応えてくださる。
私たちは、信仰のあるなしにかかわらず、誰もが根源的に「祈りたい」という欲求を心の内に秘めているのではないでしょうか。この呻きを、この叫びを誰かに聞いて欲しい。誰も知らない私の奥底を、自分でさえ知ることのできない私の深みを、受け止めて欲しい。誰もがそう願っていると思います。
神さまは、私たちの祈りを待っていてくださいます。神さまは私たちの叫びに耳を傾けてくださいます。恵みを与えてくださる。私たちの叫びを聞けば、直ちに答えてくださる。この約束は私たちの慰めです。
ご自分に執拗に訴えかけた一人の女をご覧になって、主イエスはおっしゃいました。「女よ、あなたの信仰は立派だ。」彼女は母親でした。自分の娘が悪霊にひどく苦しめられていて、イエスの憐れみを求めて叫んでいました。自分のためには祈ったことがない、自分のことなら我慢するしかないと考える自制的な人であっても、子どものためとなると話は変わってくるのではないでしょうか。彼女は必死に祈りました。子どものために自分の全部を献げて祈りました。
主イエスはその祈りを喜んで聞いてくださいました。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
私たちも叫びます。呻きます。祈ります。ほかの誰でもなく、主イエス・キリストに。私たちの神であるこのお方は、必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。その約束を信じて、私たちの信仰も存在も、私たち自身のことをも、キリストにぶつけましょう。必ずこのお方はそれを受け止めてくださいますから。

2024年3月13日水曜日

2024年3月13日の聖句

(主の言葉)「私がアブラハムを選んだのは、彼がその子らとその後に続く家族の者たちに命じて、彼らが正義と公正を行い、主の道を守るようにするためである。」(創世記18:19)
私たちは、律法はふさわしく用いるならば良いものであると知っています。(1テモテ1:8)

聖書を長く読み、親しんでいると、律法に対する悪いイメージが付いてきます。律法主義とか、ファリサイ派という言葉とセットになって。新約聖書を知っている私たちには律法は必要ない。必要だとしても、自分の罪を明らかにするという意味であって、律法に従って生きるということは信仰と関わりのないことだ、という思いさえ生まれてきかねません。ところが、そうではないと聖書は言います。「私たちは、律法はふさわしく用いるならば良いものであると知っています。」
それでは、律法のふさわしい用い方というのは一体何のことでしょうか。今日の旧約聖書ではアブラハムが登場しています。アブラハムの物語は、まず初めに神がアブラハムに声をおかけになったというところから始まっています。アブラハムを新しい旅路に神が連れ出した。それに応えてアブラハムは生まれ故郷、父の家から離れて旅を始めました。まず最初に神さまの招きがあり、アブラハムはそれに応えた。その後も、聖書はずっとそうです。まず最初に神がヘブライ人たちをエジプトから救いだしてくださり、彼らはそれに応えて神を礼拝し、また、与えられた律法に従い始めました。神がアブラハムや彼の子孫に公正と正義を行うようにお命じになったのは、神がアブラハムと出会い、憐れみをかけ、神の国を目指す旅へと連れ出してくださった後のことです。
律法は、神の愛を頂いた者の生きるべき指針です。方位磁針のように、私たちの行くべき道を示すのが律法。私たちの神の国を目指す旅路のガイドです。神の愛への、私たちの愛の応答の道標。それが律法の正しい用い方です。
今日、私たちの行くべき道を指し示すのは、神が与えてくださった律法の言葉です。神を愛することを、隣人を愛することを私たちに告げる律法の言葉が、私たちの行くべき道を照らしています。

2024年3月12日火曜日

2024年3月12日の聖句

隣人が、あなたのそばで安心して住んでいるとき、その人に悪を企むな。(箴言3:29)
(パウロの手紙)そのように、わたしたちはあなたがたを心置きなく感じていますし、神の福音についてだけではなく、自分たちの命をも分かち与えるつもりでいるのです。なにしろ、私たちはあなたがたのことを愛してしまったのですから。(1テサロニケ2:8)

今日の旧約聖書の御言葉は、本当にそうだなと思わされます。「隣人が、あなたのそばで安心して住んでいるとき、その人に悪を企むな。」安心して生きている人に悪を企むというのは、本当にしてはいけないこと。しかし、現に起こりうることでもあると思います。隣人への悪意や嫉妬に駆られて、静かな怒りを湛えながら厭な気持ちにさせてやりたいと思ってしまうことも起こってしまいます。恥ずかしいことです。そういう心に支配されてしまいそうなとき、その相手と距離をとって、これ以上自分の悪意がエスカレートしないようにする、というのも一つの知恵であるのかも知れません。顔を見ないように、相手のことを意識しないで済むように一定の距離を保つ。
しかし聖書にはやはり驚くべき言葉がたくさんあります。聖書は、本当に愛することに積極的だと思います。今朝私たちに与えられている新約聖書の御言葉は、使徒パウロの書いた手紙の一節です。パウロは情熱を込めて言います。「なにしろ、私たちはあなたがたのことを愛してしまったのですから」と。愛してしまったあなたたちのために、、私は自分の命さえも分かち与えるつもりでいます、と言います。愛することに本当に積極的です。相手に身を乗り出すようにして自分を献げています。
この御言葉を読むと、自分はなんと限定的で、愛することにケチなのかと改めて思います。愛するべき相手を限定し、狭め、自分を守ろうとしている。罪というのは、こういうところに現れるのだと思います。抽象的な問題ではなくて、具体的な目に見える相手を愛し得ない自分の現実に罪が見えてくる。キリストがなおそのような私を愛してくださったことを改めて心に刻みます。主イエス・キリストを愛し、キリストに救いを求めて祈りつつ、今日の日を歩んでいきたいと願います。私にもまた、隣人を愛する愛をくださいと祈りつつ。

2024年3月11日月曜日

2024年3月11日の聖句

ヤコブは眠りから覚め、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(創世記28:16,17)
明らかにされるものはみな、光だからです。それゆえ、こう言われています。「眠っている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」(エフェソ5:14)

これはまさしく神の家。ヤコブは実は神が自分と共にいてくださり、自分とも出会ってくださるお方であることを知り、言いました。「これはまさしく神の家である。」私たちも神と出会い、神の御前に生かされている。天の門である教会で、私たちは神と出会います。神を礼拝し、共に祈り、賛美の声を合わせるとき、神は私たちと出会ってくださっています。
「眠っている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」今日の新約の御言葉にはこのように書かれていました。キリストの光の中に照らされるとき、死者でさえも眠ったままではいられない。立ち上がり、キリストをお迎えしないわけにはいかない。私たちが信じるイエス・キリストの福音は、私たちの死さえも超える力を持っている。
礼拝を献げて、新しい一週間が始まりました。主イエス・キリストとの出会いに満ちた一週間でありますように。神の家から新しい旅へ出かけ、また再び神の御前に戻る一週間の旅路に、キリストの祝福がありますように。天の国に国籍を持つ者として、この世で生きていきましょう。死の眠りさえ揺り起こすキリストの福音の力強さを信じ、より頼んで、新しい日々を生きていきましょう。天の門は、私たちの前に開かれています。

2024年3月10日日曜日

2024年3月10日の聖句

今週の聖句:
その麦が、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)

今日の聖句:
私は私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。(イザヤ65:19)
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく、拭ってくださるからである。(黙示録7:17)

私たちの待ち望む救いが完成するとき、もはや私たちは泣くことも叫ぶこともなくなります。これまでながした数多の涙も、私たちの喉をからすような叫びも、もはや必要ない。神が私たちの目から涙を拭ってくださいます。私たちがこれまで上げてきた叫びも、神がすべてを聞いてくださっています。私たちは完全な慰めと平安の中に憩うことが許される。そういう将来が必ず来ると聖書は約束します。
私たちの命には必ず終わりが来ます。私たちも、私たちの愛する者も、人生の終わりの時が必ず来る。しかし、私たちがそれぞれに迎える死を超える救いを神が準備してくださっています。全き慰めを、全き平安を、神ご自身が準備してくださっています。
今日、私たちは礼拝を献げます。礼拝はこの完全な救いの先取りです。私たちは救いの完成の前ぶれを味わう。主イエス・キリストの御名を呼ぶとき、神が私たちを慰めてくださるのです。
キリストの祝福がありますように。

2024年3月9日土曜日

2024年3月9日の聖句

なぜ、私の痛みはいつまでも続くのでしょうか。私の傷は治らないのでしょうか。傷口が癒えることを拒んでいます。実にあなたは、私にとって偽りの川のようで、頼りにならない流れのようです。(エレミヤ15:18)
(パウロの手紙)私たちは主に信頼を置いているので、信念と確信とをもって神の前に出ることができるのです。だから、あなたがたにお願いします。私が苦しみを負っていることで、惑わされてはいけません。(エフェソ3:12~13)

預言者エレミヤの言葉が今日与えられています。
神に預言者として立てられたエレミヤは、真摯に神に向かい、人々に神の言葉を伝えるために生きていました。しかし、罪の悔い改めを求め、生き方の方向転換を迫る彼の言葉に、誰も耳を貸そうとはしませんでした。人々は彼を嘲笑い、迫害し、いじめ抜きました。そのためにエレミヤは苦しみ、何度も何度も、神さまに助けを求めて祈りました。しかし、神は状況を改善してくださらない。今日の御言葉は、そんな一人の信仰者の言葉です。
「なぜ、私の痛みはいつまでも続くのでしょうか。私の傷は治らないのでしょうか。傷口が癒えることを拒んでいます。実にあなたは、私にとって偽りの川のようで、頼りにならない流れのようです。」
エレミヤは、もしかしたら最も主イエス・キリストの苦しみに近づいた人なのではないかとさえ思います。
しかしもう一人、同じ苦しみを味わった人がいます。パウロです。この人は言います。「私たちは主に信頼を置いているので、信念と確信とをもって神の前に出ることができるのです。だから、あなたがたにお願いします。私が苦しみを負っていることで、惑わされてはいけません。」それでもなお主を信頼し、キリストの助けを求めよう。苦しみに惑わされることなく、主を信頼しよう、と。
エレミヤもパウロも、キリストの御苦しみを映し出すような人物です。私たちは遠くそれに及ばないけれど、ほんの僅かでも、キリストに連なるものとして生きられれば、と願います。私たちの味わう苦しみには、永遠につながる意味があるのです。

2024年3月8日金曜日

2024年3月8日の聖句

主はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、イスラエルを恵み、憐れみ、顧みられた。主は彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨て去ることはされなかった。(列王記下13:23)
神の賜物と招きは取り消されることがないからです。(ローマ11:29)

「神の賜物と招きは取り消されることがない」。
なんと力強く、断乎たる言葉でしょう。神がそれを取り消されることはない。私たちのあり方如何によるのではない。神ご自身が断乎たる思いをもって私たちを招き、私たちに良き贈り物、賜物をくださっている。この神のご決意が取り消されることはない。聖書はそう断言します。
私たちがもしも自分を見つめていれば、絶望しかありません。自分の信仰なり行いなり生き方なりを判定基準にしたとしたら、一体誰が、それでもなお私は救われる、神に愛されると言えるでしょうか。しかし、私たちのあり方が急所なのではなく、神さまの側のご決意が本質です。そして「神の賜物と招きは取り消されることがない」のです。
「主はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、イスラエルを恵み、憐れみ、顧みられた。主は彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨て去ることはされなかった。」このように語られたイスラエルの人々は、繰り返し繰り返し、何度も、神に背き続けてきました。神さまを蔑ろにして生きてきました。それでも神がお見捨てにならなかったのは、神ご自身がかつて結んでくださった契約があるから。神が御自分の言葉に誠実であり続けてくださったからです。
私たちを救う神の真実はどのようなときにも変わりません。私たちはただキリストだけを信じます。自分や、自分のダメさを信じるのではなく、ただキリストだけにこの目を向けます。

2024年3月7日木曜日

2024年3月7日の聖句

主は、シオンを公正と正義で満たされます。あなたは確かな時を備えられます。救いの富、それから知恵と思慮深さを。(イザヤ33:5~6)
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。(使徒9:31)

キリストは御自分の教会を平和のうちに築き上げてくださいます。神との間をキリストが平和にしてくださり、そこから始まる平和は私たちの間にも宿る。私たちキリストの教会は和解の福音に生かされ、主イエス・キリストにあって共に生きる福音の家族です。主イエス・キリストがここにおられる。
「主は、シオンを公正と正義で満たされます。あなたは確かな時を備えられます。救いの富、それから知恵と思慮深さを。」
神が私たちの間においてくださる宝です。公正と正義に満たされ、神が私たちのために確かな時を備えてくださる。救いの富、知恵と思慮深さが私たちの間にある。この「救いの富」というのは、面白い言葉だなと思います。もちろん、この世に流通しているお金をたくさん手にすることができる、それが私たちの救いだ、などという意味ではないでしょう。キリストの救いこそ、他のどんな富や宝でも比べることのできない、尊い輝きを放っている。それを本当に喜ぶ代々無数の信仰者たちの賛美が聞こえてくるような言葉です。救いの富を、神が私たちに与えてくださいました。
主イエス・キリストにあって私たちは神の家族となり、生ける神の住まいにしていただきました。キリストの愛に満ちあふれる場所、それが私たちキリストの教会。神が私たちを御自分の御業の中に生かしくださっています。

2024年3月6日水曜日

2024年3月6日の聖句

主はあらゆる災いからあなたを守り、
あなたの魂を守ってくださる。(詩編121:7)
(イエスの祈り)私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪いものから守ってくださることです。(ヨハネ17:15)

私たちが祈るよりも先に、主イエス・キリストが私たちのために祈っていてくださいます。神さまに私たちのことを告げて、私たちのために祈っていてくださる。キリストの祈りに支えられて、私たちの新しい一日が始まりました。
キリストは祈っていてくださいます。「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪いものから守ってくださることです。」
興味深い祈りです。キリストは私たちを世から取り去ることをお望みにはなりません。私たちが世捨て人になったり、浮世離れした人になったり、俗世と関わらない人になったりすることは望んではおられない。私たちが世から取り去られることではなく、この世にあって、神が私たちを世から守ってくださること。
今日も私たちを神が守ってくださっています。そのためにキリストが祈っていてくださるのです。キリストの大いなる祈りに支えられて、私たちの一日が始まっているのです。私たちがまだ眠っている時間にも、神は眠ることもまどろむこともなく私たちを守り、支え、悪いものに対しては盾となり、世を支配する悪に対しては砦となってくださっています。
「主はあらゆる災いからあなたを守り、あなたの魂を守ってくださる。」この言葉は真実です。今日もキリストが私たちと共にいてくださいます。私たちが自分で自分が厭になってしまうときにも、生きる意欲も湧かなくなってしまうときにも、私たちがそうとは気付かぬ時にも、キリストは私たちを守っていてくださる。だから、今日も生きられる。キリストの祝福に満ちた幸いがあなたにありますように。キリストの恵みに生かされる一日でありますように。

2024年3月5日火曜日

2024年3月5日の聖句

人が破滅してしまうことのないようにするためなら、神には思い直したり、後悔したり、御自分の激しい怒りには止めたりすることがないなどと、誰が言えようか。(ヨナ3:9)
(イエスの言葉)祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(マルコ11:24)

今日の旧約聖書はヨナ書に書かれた御言葉です。ヨナは神さまからニネベという町へ行って、そこに生きる人々に罪を悔い改めて悪から離れるように告げよと命じられました。ところがヨナはそれを拒んで逃げ出しました。預言者が神さまから逃げ出すなどとはただ事ではありません。問題は行き先でした。ニネベというのはヘブライ人にとっては憎き仇です。外国、しかも大国、自分たちを滅ぼさんとしている宿敵アッシリア。その首都がニネベでした。ですから、ヨナは敵のところになんて行きたくありませんでした。
しかし、ヨナは神さまからいろいろなお取り扱いを受けて、結局ニネベの都に行くことになります。その時ヨナが語った言葉が今朝の御言葉です。
「人が破滅してしまうことのないようにするためなら、神には思い直したり、後悔したり、御自分の激しい怒りには止めたりすることがないなどと、誰が言えようか。」
神さまはあなたたちが悔い改めるのをご覧になったとき、きっと裁きを思い直し、滅ぼそうとなさったことを後悔してその激しい怒りを押しとどめてくださる。だから、悔い改めてその悪から離れよ、とヨナは訴えました。今朝の御言葉は、私たちに罪の悔い改めを迫る言葉です。
主イエスさまはおっしゃいます。「祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」他の何よりも、悔い改めと罪の赦しを求める祈りにおいて、まさにこの約束は現実のものとなります。私たちが罪を悔い改める心を抱くということ自体が既に神ご自身のお働きに他ならない。神がこの私にも働いてくださって、神を求める願いを起こしてくださっている。だから、罪の赦しを求めるとき、既に私たちは赦しの恵みの中にいるのです。

2024年3月4日月曜日

2024年3月4日の聖句

主はその民の逃れ場、イスラエルの子らの砦。(ヨエル4:16)
盲人はますます大きな声で「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫んだ。するとイエスは立ち止まり、「あの男を呼んできなさい」と言われた。(マルコ10:48~49)

ダビデの子、神が約束してくださった私たちの救い主。私たちはこのお方に祈ります。「私を憐れんでください」と。この祈りの言葉は聖書の中に度々登場します。神様に憐れんで頂くのでなければ生きられない私だから、代々の信仰者たちはそのことを痛感し、無数の人々が同じ言葉で祈りました。「私を憐れんでください」と。
ここでは「ダビデの子よ」と主をお呼びしています。「主よ、憐れんでください」と、神さまを「主」とお呼びして、同じように祈ることも多いのです。「主よ、憐れんでください。」ギリシア語では「キリエ・エレイソン」と言います。この音がそのまま代々の教会に大切に受け継がれてきました。アーメンとかハレルヤとか、ヘブライ語の音がそのまま残っている言葉がいくつもありますが、キリエもその仲間と言えると思います。キリエ・エレイソン。主よ、憐れんでください。私たちも祈ります。主よ、憐れんでください。
主イエス・キリストは御自分に憐れみを求めるものを決して放ってはおかれません。「あの男を呼んできなさい」と言って立ち止まり、祈る私たちを招いてくださいます。この方が耳を傾けてくださるから、私たちは安心して祈る。主よ、憐れんでください。ダビデの子よ、憐れんでください。
「主はその民の逃れ場、イスラエルの子らの砦。」主なる神さまの御許に私たちは逃れ、安息に入る。主イエス・キリストの御許に私たちの救いがある。だからこそ、私たちは主イエス・キリストに憐れみを求める。この祈りの歩みに、今日も神の祝福がありますように。

2024年3月3日日曜日

2024年3月3日の聖句

今週の聖句:
鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。(ルカ9:62)

今日の聖句:
背きを隠す者が栄えることはなく、告白してから罪を離れる者は憐れみを受ける。(箴言28:13)
ザアカイは主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれからから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。」(ルカ19:8~9)

ザアカイは主イエスと出会って生き方が変わりました。主イエスさまが変えてくださいました。もはや彼はお金に執着するのではなく、あるいは力にしがみつくこともない。財産を施し、これまで人を騙してため込んできたものを返す人生に変わった。ザアカイは、これまで彼が大切にしてきたもの、誇りとしてきたものを手放すことができた。この変化そのものがザアカイに訪れた救いの出来事だったのではないでしょうか。
今週の聖句にこのようにあります。「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。」ザアカイはまさに自分を耕す救いという鋤に手をかけ、それを取って、神様の御前に自分が新しくされることを受け入れました。主イエス・キリストのものとして、キリストが新しくしてくださることを喜んだのです。
罪から離れたい。それは誰もが願っていることではないでしょうか。それを実現することができるのは、主イエスさまだけです。私の心持ちが幾らかマシになったとか、自分の生き方をなんとか改善しようと務めるとか、それでは追いつきません。不可能です。私たちは、自分の努力でどうにかなるほど立派な人間ではない。しかし、キリストには私たちを新しくすることがおできになります。主キリストの祝福の中で、私たちの新しい歩みが始まっているのです。

2024年3月2日土曜日

2024年3月2日の聖句

いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられのか。(詩編13:2)
(イエスの叫び)わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

主イエス・キリストの十字架の上での叫びです。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」
主イエス・キリストは、私たちの知らないことを知っておられる。それは、本当の絶望のどん底とは一体何か、ということです。神に見捨てられること。そこにこそ、絶望の絶望たる所以がある。
私たちにも、神に見捨てられたとしか考えようのない苦しみがあります。私たちにも、呻きつつ言わねばならないときがあります。「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられのか。」しかし、キリストと同じほどに神に棄てられた人はいません。私たちがどんなにどん底にいるときにも、キリストはなおその下におられて私たちを支えていてくださいます。
この受難節のとき、主イエス・キリストの叫び声にじっと耳を傾けましょう。この私のために、この私に替わって叫んでくださったキリストの御声に、この耳を向けましょう。そこでしか見出すことのできない望みが私たちにはあるのです。

2024年3月1日金曜日

2024年3月1日の聖句

今月の聖句:
驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。(マルコ16:6)

今日の聖句:
あなたは必ずわが助けとなってくださる。
あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。(詩編63:8)
神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。(ローマ8:31)

神が、私たちの味方でいてくださいます。天の軍勢が私たちを取り囲み、私たちを守っています。譬え私たちの周りにどんなに敵が取り囲んでいようとも、誰が私たちに敵対しようとも、私たちの味方でいてくださる方はもっと強いし、このお方の軍勢は敵よりももっと数が多い。この神が生み出す現実が見えているでしょうか?神さまは必ず私たちの助けになってくださいます。
今月の聖句として与えられている言葉は、主イエス・キリストの復活の朝に天使が口にした言葉です。「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」墓の中に主イエスのご遺体を捜していた人々に、天使は、主はここにはおられないと告げました。キリストはもはや死者の中にはおられない。死に勝利した。復活なさった。
私たちを取り囲む究極の敵は、死です。滅びです。しかしキリストは究極の敵に打ち勝たれた。キリストはもはや死者の中にはおられない。復活し、命への扉を開いてくださいました。私たちを命へと導き上る神の手は強いのです。
主イエス・キリストを仰ぎ、キリストと共に今日の日を歩んでいきましょう。キリストが味方でいてくださる。誰が私たちに敵対できるでしょうか。この究極の平安の中で、今日の日を生きていきましょう。

2024年5月22日の聖句

主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。(詩編111:9) この方(イエス・キリスト)こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2) 主が民をご自分のものとしてくださった。御言葉はそのように宣言します。私たちも神の民、神の...