2023年9月30日土曜日

2023年9月30日の聖句

主を畏れる者のささやかな持ち物は、心配しながら持つ多くの宝にまさる。(箴言15:16)
金に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。(ヘブライ13:5)

私たちの教会の祖、改革者ジャン・カルヴァンは、人生の主たる目的は神を知ることだ、しかも神をあがめるために神を知ることだ、と言いました。主なる神を畏れ、礼拝し、ひれ伏すために私たちは生まれた。
人生の目的をどこに置くかによって私たちの生き方は必然的に変わります。お金を目的にするなら、お金に仕える生き方にならざるを得ないでしょう。お金は多くのものを与えますが、健康や安眠や良い心持ちを造り出すことはできません。却ってお金は私たちを仕えさせます。私たちは何を目的とし、何に執着しているのでしょうか。
「主を畏れる者のささやかな持ち物は、心配しながら持つ多くの宝にまさる。」聖書はそのように言います。本当にそうだと思います。ただ、お金に執着しないようにしよう、或いは人の評判ばかりに振り回されないようにしようと思っても、それらの魅力や人心を縛り付ける力は努力や心がけではどうにもならない強さを持っているように思います。
「主を畏れる者は」と御言葉は言います。私たちはお金を目的とはしないということよりも、むしろ、主なる神様に心を向け、この方を一心に求め、この方をあがめるために生きようと願うときに、結果としてお金から解放されるのではないでしょうか。
私たちは神を知るために命を与えられました。神を礼拝するために私たちは今生きています。私たちのためにすべてを与えてくださったキリストを知り、あがめることにこそ、私たちの真の幸せがあるのです。

2023年9月29日金曜日

2023年9月29日の聖句

あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。(ゼカリヤ8:23)
宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ10:14)

「宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。」福音の言葉は、それを宣べ伝える人がいて初めて届く言葉になる。私たちが自分で発明したり、生み出したりするものではない。キリストの福音を使徒たちが宣べ伝え、その口を通して福音に触れたものがまた宣べ伝える者となり・・・と、私たちのところにまで届けられました。キリストの福音は、人の口から口へと伝わってここまでやって来た。
その宣べ伝えられてきた福音、それは「神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いた」と言われていることです。神は私たちと共にいてくださるという言葉が福音として証言され、そして共有され、神が共にいてくださるあなたたちと私も一緒に行かせてほしいと、信仰の仲間が増えていった。そういうことではないでしょうか。
神は私たちと共にいてくださいます。そして、私たちと共に歩む多くの人々と共におられます。これこそ私たちが信じ、宣べ伝える福音です。
「あなたがたと一緒に行かせてほしい」とあります。この福音を耳にした人がそう言っている、と書いてあります。福音は、開かれています。誰でも、神が共にいてくださる恵みに招かれている。だからこそ、私たちは宣べ伝えます。神さまがすべての人を福音に招いてくださっているからです。すべての私たちのための福音、それは、宣べ伝える人がいなければ届けられることのない言葉、私たちが宣べ伝え、証しすることを待っている言葉です。

2023年9月28日木曜日

2023年9月28日の聖句

主はご自分の民を決しておろそかになさらず、
ご自分の嗣業を見捨てることはなさいません。(詩編94:14)
私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(フィリピ3:20)

私たちの国籍は天にあります。私たちは天の国の国民。天を本国に持つ民です。主なる神様が王様です。「主はご自分の民を決しておろそかになさらず、ご自分の嗣業を見捨てることはなさいません。」主なる神様は、ご自分の国の民である私たちをおろそかになさらないし、決して見捨てない。力強い宣言です。
「おろそかになさらず」というのは、本当に慰めに満ちた言葉だと思いました。神様は私たちのことを面倒くさいと思ったり、放っておいたりはなさらない。自分の愛のちっぽけさを考えると、神様のおろそかになさらない愛は本当にありがたいです。
私たちの本国である天、そこは、私たちの救い主が来てくださる場所でもあります。ここで聖書は、私たちが天にたどり着く、とは言いません。そこからキリストが来てくださる。キリストの方がこちらに来てくださいます。私たちを捨て置かず、私たちを放置せず、必ずキリストは来てくださる。私たちを捜して、私たちを求めて、キリストが私たちのところへ来てくださいます。
今日、この新しい一日、私たちのところへ来てくださる救い主キリストをお迎えする一日を過ごしましょう。主をお迎えするというのは、祈るということです。キリストの前に静まり、祈り、キリストを求める一日を、主は顧み、御心に留めてくださいます。主イエスさまはどっかりと座って私たちを待つのではなく、私たちのところへと来てくださるお方なのです。

2023年9月27日水曜日

2023年9月27日の聖句

地の深みもその手の内にあり、山々の頂きも主のもの。(詩編95:4)
天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。(黙示録14:7)

この世界のすべてを神が創造された。その世界のすべての「すべて」の中には、地の深みも含まれています。山々の頂きもです。地の深みや山々の頂き。
地の深みというのは、深い谷底でしょうか。誰も降ることのできないような深み。どこにそこがあるのかも分からないような底の、そのまた底。単に地形としての地の深いところというだけではなく、私たちの存在の深み、誰にも知られていないような、しかも日の光も指さないような、深くて暗くて、ジメジメしていて、イヤな底の底ということでもあるのかも知れません。
しかしそれだけではなく、山々の頂きも主のもの。ピスガの頂も、アララト山も、神のもの。この時代の旧約の民が知らなかった8000メートルを超えるような山々の頂き。誰も到達出来ないような険しい山の上、あるいは人知れず、誰の目にも触れたことがないような絶海の孤島の山の頂。それらすべても神のものです。誰にもいかれず、誰にも征服出来ない場所でも、その頂きもまた神がお造りなった。
「天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ」と言われているとおり、私たちは、私たちに想像もできないほどに大いなる神様の御業を思い、あがめ、このお方をひたすら賛美するのみです。神の偉大な御業を、神の途方もない大きなスケールの御力を、私たちはひたすら仰ぎ、嘆息し、大いなる神の御業を思いつつ、神をあがめる。私たちは、神を礼拝します。この世界のどんな地の底も、山の頂も及ばないお方、むしろそれらをお造りになった主であるお方をあがめ、私たちは神を礼拝するのです。

2023年9月26日火曜日

2023年9月26日の聖句

私はあなたの慈しみに躍り上がって喜びます。
あなたは私の苦しみを見つめ、
私の魂の苦悩を知っておられる。(詩編31:8)
あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなに憐れんでくださったかを知らせなさい。(マルコ5:19)

主なる神様の慈しみ。それは、私の苦しみを見つめてくださる慈しみです。主なる神様は、私をよくご覧になっている。人間の数はいまや60億人と言います。しかし、海の砂のように多くても、神は私たちを十把一絡げにではなく、一人ひとりとして見てくださっています。そうでなければ、いったいどうして「私の苦しみ」を見つめることができるでしょうか。ひとりの心を見つめなければ、苦しみを知ることはできません。悲しむ日に寄り添うことはできません。
主なる神様は、「私の魂の苦悩を知っておられる」お方です。魂、それは、砂漠に生きる人の喉のようにカサカサに渇き、弱った人間としての存在そのものを表すような言葉です。神様は私たちの裸になった人間存在の深み、何も守るものがなく、寄る辺もなく、足りない私という存在の苦悩を知っておられる。そして、そのような苦しみ、苦悩の中にいる私たちに、慈しみ深く臨んでくださいます。私たちはこの神の慈しみを喜び、踊って、このお方を賛美する。
主イエス・キリストは、この神の慈しみを家族に伝えなさいとおっしゃいます。私が知った神の慈しみを、私が味わった苦悩の日の神の憐れみを。私たちを愛してくださる方のまなざし、その優しい心に生かされる今日一日が、主を証しする歩みとなりますように。

2023年9月25日月曜日

2023年9月25日の聖句

主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。(詩編33:4)
(イエスの言葉)天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。(マタイ24:35)

神様は、この世界を御言葉によって創造なさいました。「光あれ」と神がおっしゃって、光が生まれました。神様の語りかけが世界を生み、命を生み出します。聖書の伝えるのは、神様の語りかけとそれを聞く無数の人々の歩みです。神は、御言葉を語ることによって御業をなさいました。私たちはそれを聞き、神様の御言葉が生み出す新しい出来事の中を生きていきます。
私たちの献げる礼拝も、御言葉を中心とした礼拝です。神様の招きの言葉によって始まり、聖書を開き、神様の祝福によって新しい出発をします。神の福音の言葉が私たちの新しい毎日を生み出してくださいます。
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」この世界にあるものは、どんなものも必ず滅びます。永遠なものは何一つありません。国も、秩序も、制度も、やがてはなくなるでしょう。宝物も芸術品も、いずれは塵に帰ります。天地のすべてのものはやがて滅びる。しかし、キリストの言葉は決して滅びない。キリストの言葉、福音だけは、永遠です。その永遠なる御言葉をもって、神は私たちを救ってくださいました。
今、私たちは、永遠なる神さまの御言葉に耳を傾けています。御言葉に聞きましょう。御言葉を求めましょう。神様の語りかけてくださる一つひとつの言葉によって、命与えられて、今日の日を生きていきましょう。

2023年9月24日日曜日

2023年9月24日の聖句

さがみ野教会の皆さま

今日は爽やかなお天気になりました。
やっと暑さが一段落し、ホッとしましたね。
このまま過ごしやすい日が続くといいですね。

今日の礼拝の記録をお届けいたします。どうぞお聞きくださり、主と共に歩む一週間でありますように。

音声と動画

動画

来週の礼拝では玉井淑子姉の入会式を行います。どうぞご出席ください。

祝福を祈ります。

宮井岳彦

2023年9月24日の聖句

今週の聖句:
キリスト・イエスは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。(2テモテ1:10b)

今日の聖句:
隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。(レビ19:18)
旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、傷負った人を見て気の毒に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(ルカ10:33~34)

このサマリア人の前に祭司とレビ人が同じ場所を通っていました。彼らはけが人を見ても無視して先を急ぎました。その理由について、主イエスは何もおっしゃっていません。説明するよりも、私たちに自分のこととして考えてもらいたい、と主イエスは期待なさったのかもしれません。そして、三人目にやって来たサマリア人だけがけがをした人を気の毒に思い、助けました。サマリア人だけが憐れみを示した。隣人を愛したのです。
サマリア人は「隣人を自分のように愛しなさい」という条文に従おうとしたのではありませんでした。誰かが見ているかも知れないと、彼を見捨てたら悪く言われると心配をしたのでもありませんでした。ただただ、怪我をした人を見て気の毒に思って。それだけです。言うなれば、律法が内面化していたのだと思います。心に植え付けられた御言葉が彼を突き動かし、気の毒な人を放っておけなかった。そうやって御言葉に耕される憐れみが心の中に溢れて、どうしてもそうしないわけにはいかなかった。それだけでした。
サマリア人のこの内発的な動機こそが人を愛するということなのだと思います。本当にこういう人でありたいと心から願います。神様はきっとその祈りを聞いてくださって、聖霊が私たちの内で働き、内発的な憐れみの心を突き動かしてくださると信じます。キリストが私に向けてくださった憐れみの心を私の心としてください、と祈る者でありたいと願います。

2023年9月23日土曜日

2023年9月23日の聖句

恥じるな、あなたが辱められることはない。(イザヤ54:4)
(パウロの手紙)私自身はすでに捕らえられたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けることです。(フィリピ3:13)

今日の旧約聖書の御言葉ですが、「あなたが」と語りかけられていますが、文脈を見てみると具体的な意味を持ったもののようです。つまり「あなた」について、一節には「喜び歌え、子を産まなかった不妊の女よ」という呼びかけがあります。この言葉の舞台となった古代ユダヤの社会は、現代の日本社会とは全然違う価値観や常識で動いていました。子を産むということの意味は、今とは全然違っていたようです。子を産まない女性が屈辱を受ける社会でした。
ところが、神様はおっしゃいます。「恥じるな、あなたが辱められることはない。」なぜなら、主なる神ご自身があなたの夫だからだ、と言われるのです。神ご自身があなたの夫となってあなたを妻として迎えてくださる。だから、あなたが辱められることはない。主はあなたをご自分の妻のように、心痛めるほどに求めている。そのように言うのです。
これは、私たちへの御言葉です。私たちが現代の社会的常識の中で恥ずかしかったり、屈辱的な思いをさせられたりするとき、神様はそれをご覧になって一緒に見下げるようなことはなさいません。私たちの味方でいてくださる。私たちをご自分の妻として迎えてくださる方は、私たちの味方となって私たちを守り抜いてくださいます。
だから、私たちは後ろのものを忘れる。私たちを縛り付けるこの世の価値観や皆が礼賛するすばらしいものを捨て、私を愛し、私をご自分の妻と呼んでくださる主なる神様の御許に戻ります。前のものに全身を向ける!
神様は私たちを祝福するために、私たちを見つけ出してくださいました。ただキリストを一心に見つめ、キリストに向かって、今日の日を生きていきましょう。

2023年9月22日金曜日

2023年9月22日の聖句

見よ、あなたが、知らない国民に声をかけると
あなたを知らない国民があなたのもとに走ってくる。
これは、あなたの神、主のため
あなたに栄光を現した、イスラエルの聖なる方のためである。(イザヤ55:5)
私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。(エフェソ3:14~15)

すべての家族と呼ばれるものの源は、父なる神様だと言っています。考えてみれば壮大なスケールの言葉です。この世界には無数の家族があります。世界中、どのような地域や時代を見たとしても、その形は多様でしょうが、家族は存在するに違いないと思います。社会を構成する最小単位とも言われます。そのようなあらゆる家族の源は、父なる神様に他ならない。なんと力強い言葉であろうかと思います。
今日の旧約聖書では、例え相手が知らない国民であろうと、主なる神のために走ってくると言っています。ここでもやはり神があらゆるものの主であるということが力強く宣言されています。
私たちは、まだこの御言葉を目に見える形では見ていません。神様の御許にあらゆる人が走り寄る様子はまだ見ることができていないし、家族にも神の愛とは無関係の疵がたくさんあることを目の当たりにしています。しかし私たちは、聖書の福音を信じています。神様がすべての人、すべての家族をご自分のものとしてくださり、ご自身の愛の中に育んでくださることを私たちは信じる。この世界にあるあらゆる「愛」と呼ばれる関わりが、神の愛の中で、真実に愛にふさわしい関係となりますように。この世界のあらゆる人が、父なる神様の祝福の内に家族の喜びにあずかることができますように。この世界のすべての人が、主イエス・キリストの恵みによって今日も守られますように。あなたの今日一日のために、祈っています。

2023年9月21日木曜日

2023年9月21日の聖句

あなたは私を畏れ、懲らしめを受け入れる。(ゼファニヤ3:7)
イエスは神殿の境内に入り、商売人たちを追い出し初め、彼らに言われた。「こう書いてある。『私の家は、祈りの家となる』と。」(ルカ19:45~46)

神に祈るべき場所であった神殿を商売の場所としてしまった人々をご覧になって、主イエスは激しく怒りました。商売人たちを追い出した。商売をしている机をひっくり返し、縄で鞭を造って羊や牛も追い払ってしまいました。激しい怒りです。私たちの抱いている主イエスのイメージとはうまく重ならないような気さえしてしまいます。
しかし主イエスご自身がどのような思いでいらしたのかということを、もしかしたら私たちはあまり考えようとしなていないのかも知れません。ルカによる福音書を見てみると、主イエスがエルサレムに入り、最初にあったのがこの出来事でした。主イエスはエルサレムに上る途上、ご自分が十字架にかけられることを深く考えておられた。いよいよエルサレムに入り、最初に神殿がもはや本当に祈りの場ではなくなってしまっている惨状を目の当たりになさった。その思い、いかばかりでしょう。私などには想像もできないことですが、どんなにか悲しい思いでいらしたことかと思います。
確かに、私たちの抱いている主イエスのイメージとは重ならないかもしれない。しかし、そこまで激しくせざるを得ない主イエスのお心にも、私たちはほんの僅かにでも心を向けなければならないのだと思います。
「あなたは私を畏れ、懲らしめを受け入れる」と今日の旧約の御言葉にはあります。自分の過ちを糺し、軌道修正を迫る主の懲らしめを受け入れる準備が、私たちにはあるでしょうか。私たちにとっては苦しいことです。しかし時に、主はそのようにして私たちのあり方を問い、生き方の方向転換をお求めになるのだと思います。主を畏れ、へりくだって、御前に悔い改める私でありたいと願います。

2023年9月20日水曜日

2023年9月20日の聖句

力ある拠り所は主を恐れることにある。(箴言14:26)
誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、餓えか、裸か、危険か、剣か。(ローマ8:35)

北鎌倉駅のすぐ側に東慶寺というお寺があります。かつては男子禁制の縁切り寺だったそうです。夫からひどい暴力を受けるようなことがあってそこに逃げ込むと、決して夫をそこに入れることはせず、その人を守ってくれた。今で言えばシェルターの役割を果たしていました。
この東慶寺の宝物に葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱という小さな円筒型の器があります。これはもともとはカトリック教会のミサでご聖体を入れるための器物でした。ご聖体、私たちの言葉で言えば、聖餐のパンのことです。聖餐の器具がなぜお寺に収蔵されているのか。
かつて鎌倉には被差別部落がありましたが、そこでキリシタン伝道がなされました。その後のキリシタン弾圧の時代に、どうやら現地のキリシタンたちを東慶寺が匿ったようなのです。そのような経緯で、聖餐のための器具が東慶寺に預けられることになり、今に至るそうです。お寺がキリシタンのための逃れ場になった。不思議な奇跡です。
主なる神様は私たちの逃れ場になってくださいます。信仰のゆえに、あるいは性別を理由として受ける迫害や差別。あるいは他の理由で受ける痛みや嫌がらせ。あらゆる助けを必要としている人のための拠り所に、主なる神様ご自身がなってくださる。だから、この神の愛、キリストの愛から私たちを引き離すものは何もないのだ、と聖書は宣言します。その事実が私たちの慰めであり、励ましです。私たちは神様の御前で生きる。神と共に。例え神の助けの手が見えないときにも、神はおられないのではないかと疑いたくなるときにも、それでも神を信じ、私たちは大胆に生きます。見えない神を信じて。キリストの愛から私たちを引き離すものは何もない。私ではなく、キリストの愛の確かさが私たちの拠り所です。

2023年9月19日火曜日

2023年9月19日の聖句

民よ、どのような時にも神に信頼せよ。
御前に心を注ぎ出せ。
神は我らの逃れ場。(詩編62:9)
その頃、イエスは祈るために山に行き、夜を徹して神に祈られた。(ルカ6:12)

夜を徹して祈る主イエスさまのそのお姿。それは、神に信頼し、御前に心を注ぎ出すお姿です。この祈る姿を私の姿としたい。切にそう願います。
旧約聖書や新約聖書の信仰者たちも、それ以降のこの2000年間の信仰者たちも、神さまを信頼し、祈ることで信仰生活を営んできました。神様が私たちの逃れ場でいてくださるからです。私たちには毎日いろいろなことが起こります。逃げ出したくなることもたくさんあります。心配事で心が埋もれてしまえば、息をするのも苦しくなります。一体どうしたら良いのか分からなくなってしまう。そんなとき、思い出しましょう。神様こそが私たちの逃れ場でいてくださいます。神様の御前に、祈ることに、私たちは逃れて良い。そうしたら神様が風を送り、息をつかせてくださるでしょう。ご自分の霊によって私たちに命をくださるでしょう。私たちの狭くなってしまった視野を広げてくださることでしょう。私たちは神に祈ることによって息をし、命を得ているのです。
主イエスさまのところには日夜たくさんの人が押しかけて、自分たちの窮状を訴え、助けを願っていました。人の痛みや傷を引き受けるというのは大変なことです。主イエスさまもお疲れになったことだと思います。主は、そんなときに祈られました。祈りに打ち込んで、神様の御前に心を注ぎ出しました。そして、聖書を開いてみると、この祈りに続いてなさったことは、12人の弟子を選んで使徒と名付けるということです。ご自分の業を弟子たちに分与なさった。そしてやがてこの使徒を中心として教会が生まれ、私たちにまで至ります。私たちはキリストの祈りによって生み出された群れです。
だから、私たちも祈ります。祈りつつ、隣人の痛みや呻きに向き合います。どうして祈ることなくしてそれが可能なのか。主が私たちの逃れ場です。主の御前に、私たちは共に歩んでいくのです。

2023年9月18日月曜日

2023年9月18日の聖句

見よ、すべての命は私のものである。(エゼキエル18:4)
(パウロの手紙)私はあなたに第一に勧めます。願いと祈りと執りなしと感謝とをすべての人のために献げなさい。(1テモテ2:1)

「私はあなたに第一に勧めます。願いと祈りと執りなしと感謝とをすべての人のために献げなさい。」私たちが今年、教会の主題として与えられている御言葉です。祈ることを私たちの目標として掲げています。私たちが祈るのは、神様が祈るべきお方であるからです。このお方に祈ることにはかけがえのない意味がある。そして、このお方は私たちの祈りを待っていてくださるお方です。
「見よ、すべての命は私のものである」と神様は宣言なさいます。神様は私たちを脅かしたり、痛めつけたりするために私たちの命を治めておられるのではありません。このお方は考えられないほど深い愛に満ちたお方です。私たちを救い、私たちを生かすために、すべての命をご自分のものとしておられる。だから、私たちはほかの誰でもなく、この神様に祈るのです。
私たちの祈りは、その点で間違ってしまうことが間々あります。私たちの祈ることそのものの姿勢が、この神様の完全な憐れみと愛とに信頼しているか、ということがいちばん大切な点であると思います。神様に向かうこと、自分を超える神様のご慈愛に身を傾けること、それが「祈る」ということです。
しかもその祈りを「すべての人のために献げなさい」と言われています。私たちはただ自分のために祈るだけではなく、他者のために祈る恵みに招かれている。私たちは隣人のために祈る喜びに招かれています。この人のためにも、神は慈しみ深い父でいてくださる。その事実を信じ、私たちは今日も祈りをします。「天にまします我らの父よ!」と。

2023年9月17日日曜日

2023年9月17日の聖句

今週の聖句:
一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7)

今日の聖句:
都に住む者はだれも病を訴えることはない。都に住む民は罪を赦される。(イザヤ33:24)
(キリストの言葉)恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。(黙示録1:17~18)

神様がお造りになったこの世界は、今、完成に向けて進んでいます。この世界には初めがあり、終わりがある。終わりがいつのことなのか私たちには分かりません。しかしやがて、すべてが完成する日が来る。私たちはそのことを信じています。
終わりがあるというと、恐ろしげな雰囲気が漂ってきます。しかし聖書の言う終わり、完成は、キリストの救いが完成する日、ということです。おどろおどろしくて恐ろしい終わりが待ち受けているのではなく、イエス・キリストの愛の支配が成就する日。それが聖書の伝える完成の時だと思います。
「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。」主イエス・キリストは死と陰府の鍵を持っておられる、とあります。死は、私たちを支配する圧倒的な力です。死の恐怖が私たちを縛り付けて、この世のあり方も歪めます。主イエスご自身、そういう人間の歪んだ心によって殺されました。ところがその主イエスが今や死と陰府の鍵を持ち、これを支配しておられる。キリストは十字架にかけられ、復活し、私たちのために命の道を拓いてくださいました。今日、日曜日は、このキリストの命を祝う日です。私たちはキリストにあって、死に勝利して喜びの賛美を歌います。
主イエス・キリストにあって、今日、平安の中に生きていきましょう。キリストこそ私の救い主、私たちの救い主。私たちを死と罪の力から解き放ってくださる方。この福音の中に、私たちは今日も生かされています。

2023年9月16日の聖句

主よ、あなたは私の魂の訴えを取り上げ、命を贖ってくださいました。(哀歌3:58)
キリストはあなたがたのために、その足跡に続くようにと、模範を残されました。罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。(1ペトロ2:21,23)

主イエス・キリストは、罵られても罵り返さず、苦しめられても脅すことをなさらない。私たちのための愛を貫いてくださいました。今日、この一日も、私たちはキリストの愛の中で始まり、キリストの憐れみの中で歩んでいきます。私たちは主イエス・キリストの慈しみの中で、この一日を歩んでいきます。
今日の旧約聖書の御言葉は、哀歌に収められた言葉です。哀歌は、イスラエルの国が戦争で滅びたときの嘆きの言葉、悲しみの祈りが綴られています。何ゆえ、私たちは滅んでしまったのか。あんなに人に溢れ、賑やかだったこの都がどうして瓦礫の山になってしまったのか。私たちは神に背き、間違った歩みを重ねてきてしまった。そうやって深く嘆く言葉が哀歌に収められています。この哀歌の言葉は、何も古代イスラエルで同じ体験をした人たちだけに共有されるものではなく、悲しみや嘆きを味わう私たちすべてのもののための言葉であると思います。
「主よ、あなたは私の魂の訴えを取り上げ、命を贖ってくださいました」というのは、悲しみや嘆きの中で神様を求める私たちすべてのものの祈りではないでしょうか。そして、主イエス・キリストが「罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず」にいてくださったのは、自分の罪を嘆いて悲しんで泣くしかない私たちの現実を、主イエスが共に負ってくださるという宣言ではないかと思います。主イエスがお受けになった罵りや苦しみは、私たちの口が吐き出した罵りです。私たちが浴びせた苦しみです。それを享受し、主イエス・キリストはなお私たちを愛し抜くことを選んでくださった。嘆き、悲しむしかない私たちをその罪から救い出すために。
今日一日、主イエス・キリストを見上げ、キリストを求めて歩んでいきましょう。主の恵みと祝福がありますように。

2023年9月15日金曜日

2023年9月15日の聖句

どうして私の心に背くことができようか。私の心は憐れみで胸が熱くなる。私はもはや怒りを燃やさない。私は神であって、人ではない。あなたのただ中にあって聖なる者である。(ホセア11:8,9)
(イエスの言葉)私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。(ヨハネ12:47)

すごい言葉です。「私の心は憐れみで胸が熱くなる。」神様はご自分の御心を憐れみで熱く燃え立たせておられる。私たちへの憐れみです。私たちを憐れむために、神様の御心が熱く燃えている。なんともったいないお言葉でしょうか。そして、そういう御心について、神は言われます。「どうして私の心に背くことができようか。」神様にとって、その胸を熱くする憐れみを無視することは、ご自分の御心に背くことだとおっしゃるのです。私たちへの憐れみをなかったことにするなら、神様がご自分に対して嘘をついていることになる。だから、その御心のまま貫く、というのです。
「私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」この主イエスの御言葉はヨハネによる福音書に記録されています。実はこの福音書では「世」という言葉が特徴的に使われています。ヨハネによる福音書に「世」という言葉があると、ニュアンスとしては、神に背く世といった意味合いがあります。ですから「世を裁く」というのが、神様としては当然のあり方なのだと思います。神に背く世は神に裁かれる。ところが、主イエスは全く予想外のことをおっしゃいます。「私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」キリストは神に背く世を裁くためではなく、救うために来てくださった。これが福音です。
神様は私たちへの憐れみを貫いてくださいます。私たちが現に悪い者であり、神に背いているのに、神はその憐れみに真実でいてくださいます。それは、神が神であって人ではないから。神にはご自分を偽ることがお出来にならないから。神は私たちへの憐れみを貫き、私たちを救うことを選び取ってくださいました。ここに、神の愛があります。

2023年9月14日木曜日

2023年9月14日の聖句

父が子らに憐れみをもたらすように、
主を畏れる者らに憐れみをもたらす。(詩編103:13)
あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。(マタイ7:11)

この「まして」というのは、とっても良い言葉だと思います。私たちは悪い者だけれども、自分の子どもには良い物を与える。それができなくても、できるだけ良い物をと願っている。主イエスはそういう私たちの親としての素朴な願いを知りながらおっしゃいます。「まして、天におられるあなたがたの父は」と。
私たちは悪い者だけど、そうであってもせめて子どもには少しでも良い物をと願います。まして神様は、私たちの天の父としての完全な愛をもって私たちに良い物を与えてくださる。そのことに信頼してよい、と主イエスはおっしゃいます。なぜなら、神様は私たちの父でいてくださるからです。
私たちがキリストにあって神様に救われる喜び。それは、主イエス・キリストが父と及びになった神様を、私の父、私たちの父と呼ぶことができる喜びです。神様はいつ、どのようなときにも、私たちの慈しみ深い父でいてくださいます。「父が子らに憐れみをもたらすように、主を畏れる者らに憐れみをもたらす。」
今日一日も、私たちは父としての神様の憐れみの中に置かれています。私たちは神様が下さる良い物によって生かされています。時に、私たちには神様がくださる物の一体どこが良いのか、全然分からなくなることもあります。神様はイヤな物ばかりくれると思ってしまうことだって私たちにはあります。しかし、この方は私たちのためにイエス・キリストを下さったお方です。そうであるからには、キリストと一緒にすべてのものを私たちに与えてくださるに違いありません。天の父の慈しみに信頼して、今日の日を歩んでいきましょう。

2023年9月13日水曜日

2023年9月13日の聖句

主よ、私は集会の中であなたを賛美しよう。(詩編22:23)
(イエスの弟子たちのための祈り)あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

主イエス・キリストが私たちにご自身の栄光を与えてくださった。それは神ご自身の栄光に他ならない。私たちはその栄光を仰ぎ、神を賛美します。「主よ、私は集会の中であなたを賛美しよう。」
私たちは神の栄光をほめたたえ、キリストを賛美することで一つになります。「私たちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」私たちは神の栄光を賛美し、神と主イエスが一つでいらっしゃるのと同じように、一つになる。
思えば、この世にはいろいろな「一つ」があります。共通の仕事や趣味。共通の敵。共通の目標。一緒に味わう成功体験のようなものも私たちを一つにするでしょう。あるいは他にも、同じ国だからとか、スポーツや何かの国際大会を観てとか、そういった類いのことはいろいろあると思います。私たちの「一つ」は、どれも、私たち自身に内在する何らかの共通性を見つけることに基盤を置いているということではないかと思います。
主イエスは神の栄光にあずかることで私たちが一つになるとおっしゃいました。私たちは神を賛美し、キリストをほめたたえることで一つになる。礼拝と賛美が私たちを一つにします。私たちは自分たちが持っている共通点や同じ成功体験によって一つになるのではありません。それは、一時的には一致出来たような気持ちがしてもとても脆いものです。成功はいつか終わるし、気が合うと思っていた相手に受け入れがたい点が見つかるとなおのこと裏切られた気持ちになります。しかし私たちはそういう違いや受け入れがたいものを持ち合わせている者同士が、ただ神を賛美するというその一点だけで結び合わされているのです。私たちは自分たちを見つめるのではなく、ただキリストを見上げ、このお方をほめたたえる。主がご自身の御業として私たちを一つにしてくださる。そこに私たちの教会の結び目があるのです。

2023年9月12日火曜日

2023年9月12日の聖句

(主の言葉)私があなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。(出エジプト記19:4)
自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。(ヘブライ10:35)

「私があなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来た」。すてきなイメージを呼び起こす言葉です。神様は私たちを救うために、私たちを鷲の翼に乗せて運んでくださった。これは、具体的には、神様がイスラエルの人々をエジプトから導き出してくださったときのことを指しています。エジプトの王ファラオは彼らがエジプトから出て行くことを頑として受け入れませんでした。しかし神さまが大きな御業を行って、彼らをエジプトから救いだしてくださった。ファラオは追いかけてきました。しかし神は海の中に道を通してくださいました。そういう一つひとつの出来事を総括するようにして、「鷲の翼の上に乗せ」と言い表しています。
出エジプトの出来事は、一つひとつ、本当にすごい奇跡です。しかし私たちはもっとすごい奇跡を知っています。神の子である方が一人の人間になり、十字架にまでかかられた。これこそ、ありとあらゆる奇跡の上の奇跡です。これ以上の救いが果たしてあるでしょうか?私たちこそ、鷲の翼に乗せられて、神に救われたのです。
「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。」私たちの確信は、神が私たちを主イエス・キリストにあって救ってくださったという事実に対する確信です。この神の救いの事実は私たちを決して捨てることがありません。私たちは神のもの。そのために、神ご自身が私たちをご自分の御許に運んでくださいました。この確信だけは、絶対に捨ててはならない。例え何も信じられなくても、神の愛だけは確信してください。絶対に裏切られることはありません。神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛しておられるのです。
今日、この新しい一日は、神の救いの御業の中にある一日です。今日も神は私たちを鷲の翼に乗せて運んでくださっています。このキリストに、栄光と誉れが世々限りなくありますように。

2023年9月11日月曜日

2023年9月11日の聖句

主のもとに逃れるほうが、人間に頼るよりもよい。(詩編119:8)
(パウロの言葉)私の最初の弁明の際には、誰も助けてくれず、皆私を見捨てました。どうか、そのことで彼らが責められることがありませんように。しかし、主はそばにいて、私を強めてくださいました。(2テモテ4:16~17)

今日の御言葉は、とても難しいなと思います。
書かれている事柄は、使徒パウロのことです。彼は福音宣教にわが身を献げて、神様に仕えました。そのために何度も迫害され、当局に捕らえられ、最後には命も落としました。そんなパウロの最初の弁明のときのこと。彼は「誰も助けてくれず、皆私を見捨てました」と述懐します。しかしそんなときにも主は側にいて助けてくださった。パウロはそのように言います。
今日の旧約聖書にはこのようにあります。「主のもとに逃れるほうが、人間に頼るよりもよい。」まさに、これがパウロの信仰だったのだと思います。主に頼り、神様に助けて頂いて、果たすべき使命に生きぬいた。ただ、自分がパウロと同じ立場だったらと思うと、こういう聖書の言葉を彼とは違う解釈をしてしまうのではないかと思います。「主のもとに逃れるほうが、人間に頼るよりもよい。」私だったら、それだけではなく更に他の人間を見下げたり、心の中で裁いてしまったりする口実になってしまうのではないかと思います。どうせ人間なんてこの程度のものだと、他の人を悪く考える自分を正当化する材料にしてしまう。そういうところが、今日の御言葉はとても難しいと思います。
しかしパウロはそのようには考えませんでした。自分を助けてくれず、見捨ててしまった人について、パウロは言います。「どうか、そのことで彼らが責められることがありませんように。」自分を見捨てて逃げてしまった人たちのために、パウロは祈ります。彼らがその責めを負うことがありませんように、と。まるで主イエスさまのようだと思います。すごい信仰です。私もこういう信仰者になりたいと、本当に思います。
パウロは、主イエス・キリストの赦しの愛が骨身に染みていたに違いありません。私は罪人の頭だと本当に実感していたのでしょう。だからこそ、他の人の罪を殊更に責めなかった。共にキリストの御前に帰ろうと訴えたのではないでしょうか。この招きは、私たちへの招きです。

2023年9月10日日曜日

2023年9月10日の聖句

今週の聖句:
私の魂よ、主をたたえよ。
そのすべての計らいを忘れるな。(詩編103:2)

今日の聖句:
神は、苦難の地で私に子孫を増やしてくださった。(創世記41:52)
私たちはまた苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。(ローマ5:3~4)

苦難のまっただ中にあるとき、私たちにはとても信じられないことですが、神様はその中でも良いものを生み出してくださいます。今日の旧約の御言葉は、兄たちの妬みのためにエジプトへ売り渡されていったヨセフの言葉です。このエジプトの地にあっても、神は私に子どもを与えてくださった。苦難の地で、神は希望を与えてくださった。私たちはこの現実のゆえに信じるのではない。この現実にもかかわらず神を信じる。例えそこに神の助けや神の手が見えなくても、それでもなお神を信じます。
そういう私たちの信仰を今日の新約ではこのように表現します。「私たちはまた苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。」私たちが苦難を誇りとするのは、苦難が忍耐を生むから。その忍耐は私たちの品格を生み出す。そしてその品格は希望を生む。主イエス・キリストにあって、苦難はただの苦難ではない。
私たちの希望は、この世の人々がうらやむような成功を手に入れることではありません。誰でも喜ぶような普通の幸せを手にすることではない。苦難の地にあっても神が祝福し続け、私のために弱さを負ってくださったキリストが共にいてくださることです。私たちはキリストの示してくださった神の国を仰いで望みを抱きます。例え今がどのようなときであっても、今は恵みの時、今こそ救いの日。キリストの故に、希望を持って今日の日を歩んでいきましょう。

2023年9月9日土曜日

2023年9月9日の聖句

主は心に留められる。主の契約をとこしえに。命じた言葉を幾千代に。(詩編105:8)
神の賜物と招きは取り消されることがありません。(ローマ11:29)

聖書が私たちに証言するのは、神様のことです。私のことではありません。私がすごいのかダメなのか、見所があるのかないのか、なんとかなるのかならないのか、・・・、といったことが聖書の主題ではないのです。聖書は神を証言します。神の愛がどんなに確かであり、神の真実がどんなにまっすぐに私たちに向けられているか。神が私たちを救うためにどんなに激しく心を動かし、御子イエス様を下さった愛がどんなに深いか。聖書はそうやって神様のことを証言します。
「神の賜物と招きは取り消されることがありません。」神が私たちを招いてくださっています。私たちが志を立てて神を求めたとか、私たちがどんなに熱心に祈ったのかとか、私たちの信仰がどんなに切実なのかとか、そういうことではない。神が私を招いてくださっている。ここには「賜物」という言葉もあります。神の方から一方的に下さる贈り物、ということです。神の招きは私たちにとっては賜物です。贈り物です。私が招かれるにふさわしいからというのではなくて、神の愛が深いから、それだけの理由で私たちを招いてくださいました。その招きはどんなことがあっても決して取り消されない。
かつて、私たちは神様を知りませんでした。関わりなく生きていました。それが普通の生き方だと思っていました。そのようなときにも、私は知らなかったけれど、実は既に神の愛の中に生かされていました。神が賜物としての命を下さっていました。思えば、神の愛と言われても納得出来ないような困難や苦悩もあります。しかし、私のため十字架にまでかかったキリストは、私のどんなに深い悲しみにも絶望にも伴っていてくださいます。キリストの愛は、私よりも強いのです。
決して変わることのない神の招きによって、私たちは今日この日を生きていきます。神の憐れみに満ちた愛の中で、私たちの一日が始まります。

2023年9月8日金曜日

2023年9月8日の聖句

あなたの死者は生き返ります。(イザヤ書26:19)
私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てようではありませんか。(ヘブライ12:1)

私たちが告白する使徒信条は言います。「罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信じます。」私たちは体の甦りを信じています。永遠の命を信じています。そして、主イエス・キリストにあってそれを希望としています。
ある人が、この罪の赦し、体の甦り、永遠の命というのは、キリスト者の過去、将来、現在だと言い表していました。
私たちが「過去」を見るとき、そこには罪の赦しが見える。キリストはたくさんの人に罪の赦しを宣言してくださいました。「子よ、あなたの罪は赦される。」罪の力はしぶとい。日曜日毎に、日々祈る度に、死の床でも、私たちは神様に罪を告白することになるでしょう。しかし、キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、復活し、罪の力に勝利してくださいました。だから、私たちは赦されている。
私たちの「将来」を見るとき、そこに見えるのは体の甦りです。キリストが墓から甦らされたように、私たちもこの肉体を持ってやがて復活する。私たちの肉体は疲れ、病み、老いていきます。しかし最後まで神さまのものです。この肉体もまた神によって救われるのです。
そして「今」、私たちは主イエスがくださった永遠の命を生きています。キリストがくださる永遠の命に至る水を飲み、私たちは悪の力が幅をきかせるこの世界で神に従って生きていきます。神の愛が私たちを掴んで話さないからです。
「あなたの死者は生き返ります」と今日の御言葉は言います。この約束の成就は、私たちにとっては将来のことです。私たちはまだそれを得ていない。しかしあたかもそれを既に得ているかの如くに信じ、希望を持ってこの世界で生きています。キリストの福音宣言が私たちに響いているからです。死んだヤイロの娘の手を取って「タリタ・クム(少女よ、起きなさい)」とおっしゃったキリストの言葉は、私たちのためにも響きました。
今日、私たちが生きる命は、キリストにある永遠の命の始まりの一日です。この祝福に、私たちは招かれています。

2023年9月7日木曜日

2023年9月7日の聖句

どうかまず主の言葉を伺ってみてください。(歴代誌下18:4)
あなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。(2テモテ3:14)

日曜日の朝に目を覚まし、朝の準備をして身なりを整え、教会堂に向かいます。何かが起こることを期待して、私たちは礼拝への道を上っていきます。何かが起ころうとしていること、神が何かを始めようとしてくださっていることを信じて。それは私たちが人間的に見て弱く、小さかったとしても、確かに起こる出来事です。私たちが起こす出来事ではなく、神の出来事だからです。何かが起ころうとしている。それは、神がお語りになる、という出来事です。神が御言葉を語り出してくださること、そのことを私たちは期待し、待ち望み、礼拝への道を歩んでいるのです。
「どうかまず主の言葉を伺ってみてください。」これはヨシャファトというユダの王が口にした言葉です。この時代は、神の民の信仰の歴史という観点から見ると大きな危機の時代であったようです。自分に都合の好い言葉にばかり耳を傾け、神の言葉に聞こうとはしなかった。しかし、そういう時代にあっても神様は御言葉を語り続けました。例え人々が耳を貸さず、無視し、黙殺しても、神は語り続けたのです。
ヨシャファトの時代だけではありません。アブラハムも、モーセも、ダビデも、エリヤも、ペトロも、パウロも、神様に、キリストに、耳を傾けてきました。神が語りかけてくださることを信じ、期待し、待ち望みました。そして神の言葉を聞き、それに学び、従ったのです。「あなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。」
私たちも、神の言葉に耳を傾けます。聖書を開いて耳を澄まします。礼拝という出来事の中で語ってくださる神様に耳を傾けます。説教や聖餐を通して語ってくださる神様に思いを向けます。賛美すること、祈ることの中でも語ってくださる神に耳を向けます。そして一人ひとりの祈りの生活において語りかけてくださる神の言葉を待ち望んでいます。
私たちは神の言葉に生かされるという点において、世々の信仰者とぴったり同じ歩みをしています。御言葉こそ私たちの道の光、私たちを照らす朝の光。今日も神の言葉の光が私たちたちの明かりとなっています。

2023年9月6日水曜日

2023年9月6日の聖句

互いに真実を語り、あなたがたの門で真実と平和の裁きを行え。(ゼカリヤ8:16)
平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。(ローマ14:19)

今日の御言葉には、旧約にも新約にも「平和」という言葉が登場してきています。改めて、平和とは一体何か、というのは案外難しい問いではないかと思います。戦争がないこと、犯罪がないこと、ある程度の生活が保障されていること・・・など、確かにとても大切なことです。そして私たちは多くの場合それらを享受しているし、現に同時代に生きる人々の中でもそれらに浴することのできない人がたくさんいることを私たちは知っています。しかし平和に生きていると思われる私たちにとっても、「平和」というのは決して当たり前のことではないのではないか、とも思います。
考えてみると、一見すると平和に見える社会が、実はある人の犠牲の上に成り立っているということがあります。外国で人件費を不当に安くすることによって成り立つ低価格の商品や、自分の遠い場所の環境を破壊して得られる安価な食品。ある一部の地域に極端に偏った負担で成立する防衛やエネルギー政策。考えてみればいろいろな形の犠牲がありえます。家庭でも学校でも職場でも、いろいろなかたちでの犠牲が知れません。誰かを犠牲にしていても、それは平和と呼べるのでしょうか?
「平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。」ここでこの手紙を書いた使徒パウロは「追い求めよう」と訴えます。平和を追い求めよう。互いを築き上げるのに役立つことを思い求めよう。平和は私たちにとって既に得たものではなく、追い求めるものです。しかもここで「役立つ」という言葉を重ねているところに、奥ゆかしさを感じます。少しでも平和に役立つことを追い求めよう。私たちは不完全だということを誰よりも知り抜いている人が書いた手紙です。しかし平和への願いを神がかなえてくださるということを信じ、神に期待しながら、この手紙を書いたに違いないのです。
旧約ではこのように言っています。「互いに真実を語り、あなたがたの門で真実と平和の裁きを行え。」ここに「門」とあります。門は町の中で長老が集まって裁きをする場所でした。今で言えば裁判所であり、議会であり、役所のような機能を持っていた。そういう場所で真実と平和の裁きが行われる。そのこともまた私たちにとっては祈りの課題です。この社会が真実と平和によって打ち立てられるように。ですから、単純な心で神様に祈ってみませんか。平和を来たらせてください、と。

2023年9月5日火曜日

2023年9月5日の聖句

私はあなたの背きの罪を雲のように、罪を霧のようにかき消した。私に立ち帰れ。私があなたを贖ったからだ。(イザヤ44:22)
神は私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。(コロサイ2:14)

背きの罪、罪、私たちを訴えて不利に陥れていた借用書、と今日の御言葉には重ねられて出てきています。私たちは普段、自分が神に背いて罪を重ねていること、自分が不利になるほどの借りがあるなんて考えません。たまにはそういうことを自省して申し訳ない気持ちにもなります。しかし、そのようなことを考え続けるのはとてもしんどいことです。考え続け、自分の責任を痛感し続けることは、なかなかできないのではないでしょうか。
神様の目からご覧になって、私は一体どう映っているのでしょうか。聖書の他の所には、私には一万タラントンの借りがあると書かれています。これを赦された人がすぐに他の仲間への借りを咎めたという話でしたが、本当にそれが自分の実態だと思います。自分の借りはすぐに忘れるのに、他の人への貸しはしっかり覚えていて、赦そうとはしない。
だからこそ、私たちにはこの神さまの御言葉が必要なのだと思います。「私はあなたの背きの罪を雲のように、罪を霧のようにかき消した。私に立ち帰れ。私があなたを贖ったからだ。」神様が背きを雲のように、罪を霧のようにかき消してくださらなければ、自分ではどうすることもできません。私たちが神様のもとに立ち帰ることができるのは、神様が私たちをご自分のものにすると宣言してくださったからです。そのために、神様が私たちの借用書をキリストと共に十字架に磔にして破棄してくださいました。私たちは神様に赦して頂かなくては、自分の罪がどのようなものであるかも知らなかったし、自分ではその始末をつけることもできなかったのです。
主イエス・キリストを仰ぎ、賛美するだけです。キリストの十字架をこの骨身に染み渡らせてくださいと祈るのみです。そしてキリストへの感謝と隣人への愛に生きるものにならせてください、とただただ神の憐れみにすがって願うばかりです。

2023年9月4日月曜日

2023年9月4日の聖句

わが神よ。
私の内で魂は打ち沈み、
あなたを思い起こす。(詩編42:7)
私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14:18)

主イエス・キリストは約束してくださいました。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない」と。主は私たちを決して見捨てず、見放さず、私たちのところへと戻って来てくださる。十字架にかけられ、復活し、天に昇られたキリストは、必ず私たちのところへ再び来てくださいます。「あなたがたのところに戻って来る。」
私たちは魂が打ち沈み、もうどうしようもなくなってしまいます。手も足も出ず、自分の無力やこれまで重ねてきた過ちや失敗を嘆きながら生きなければならない私たちです。しかしキリストはそんな私たちのところへ、必ず来てくださる。私たちを独りぼっちにすることなく、私たちを捨て置くことは決してない。この約束が私たちを支えてくださるのです。
「あなたを思い起こす」と、この詩編は祈っています。神を思い起こす。ここに救いがあるから。このお方が私を救ってくださるから。私たちはキリストを思い、キリストの御業を胸に刻み、キリストの言葉に生かされて生きています。キリストの御業を思い起こし、福音を物語り、神の言葉によって命を頂きます。
この主イエス・キリストの恵みが、今日もあなたにありますように。心から祈っています。

2023年9月3日日曜日

2023年9月3日の聖句

今週の聖句:
(キリストは言われる)この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。(マタイ25:40b)

今日の聖句:
天から見下ろし、聖なる美しいお住まいからご覧ください。あなたの熱情と力強い御業はどこにあるのですか。(イザヤ書63:15)
私たちは、霊により、信仰に基づいて義とされる希望を、心から待ち望んでいます。(ガラテヤ5:5)

私たちが信仰に基づいて義とされる、即ち神のものとされることを私たちは希望としています。それを希望とし、待ち望んでいる。この待望は、霊によって確かなものとされます。霊。神の霊です。神ご自身の霊、聖霊が私たちの待望を確かなものとしてくださいます。
聖霊というと、少し分かりにくいような気がしてしまいます。父なる神様、主イエス・キリストはイメージをしやすい。それに対して、聖霊は分かりにくい。しかし実は、私たちにとって最も身近な神様のお働きが、聖霊におけるお働きだと思います。
私たちが神を信じること、待ち望むこと、それは神様の霊におけるお働きです。私たちが神を愛し、隣人を愛したいと願うこと。神と求め、祈りたいと密かに願い、そっとひと言「神様」とお呼びすること。それがすでに聖霊なる神様が私たちの内に働いてくださっている証拠です。聖霊は、私たちの内で働いてくださる神様の御力です。
今日の旧約聖書では「あなたの熱情と力強い御業」という言葉があります。神様の熱情も力強い御力も、聖霊における神様のお働きです。神様は熱情をもって私たちの内にも働いてくださり、私たちにご自分を求める心を生み出してくださいます。
今日、この主の日、日曜日に私たちが神様に祈り、心を合わせて賛美を献げるとき、そこに確かに聖霊がはたいてくださっている。私たちは神様の熱情によって今日信仰を与えられているのです。

2023年9月2日土曜日

2023年9月2日の聖句seiku

あなたは根も葉もない噂を流してはならない。(出エジプト記23:1)
ですから、偽りを捨て、一人一人が隣人に真実を語りなさい。私たちは互いに体の部分だからです。(エフェソ4:25)

噂って、何であんなに楽しいのでしょう?真偽も分からない。それだけではなく、大抵の噂話はその当事者を貶めます。そんなことを口にしている自分の口や、喜んで聞いている自分の耳の品性がどんなにひどい有り様なのかということに気づくと愕然とします。それなのに、やめられない。噂は疲れを知らない悪です。
「ですから、偽りを捨て、一人一人が隣人に真実を語りなさい。私たちは互いに体の部分だからです。」
偽りを捨てなさい、と使徒パウロは言います。私たちは互いに体の部分だから。キリストの教会は、キリストのお体を形づくっている。一つの体の部分である私たちを偽りや噂が破壊してしまう。パウロはそのことをよく知っていたのだと思います。2000年前も、今も、変わることのない人間の罪の現実と言わねばならないのかも知れません。
パウロは、むしろ一人一人が隣人に真実を語りなさい、と訴えます。真実こそが私たちを教会として、キリストのお体として立て上げるから。
真実、それはイエス・キリストご自身ではないでしょうか。キリストを私たちにくださった神の真実。この真実を私たちが喜び、共に生きる結び目となるとき、私たちは本当に「教会」として歩みます。キリストは偽り者の私たちをご自分のお体としてくださいました。キリストの赦しや憐れみが私たちを救ってくださいました。このお方の御前に、私たちはもはや偽りや噂にこの口や耳を預けるわけには行かない、それは不自然だと聖書は言います。キリストの真実がいつも私たちの内に宿りますように。

2023年9月1日金曜日

2023年9月1日の聖句

今月の聖句:
イエスは言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」(マタイ16:15)

今日の聖句:
助言が多すぎて、あなたは疲れてしまった。(イザヤ47:13)
自分を賢い者と思ってはなりません。(ローマ12:16)

今日の旧約聖書の御言葉ですが、今日の聖句の前後を見てみると、特徴的な言葉が繰り返し出てきています。呪文、呪術、天を見て占う者、星に目を凝らす者・・・。ですので、今日の聖句の「助言」というのは、占いやその類いが語る助言、という意味なのでしょう。占いの力は21世紀になっても衰え知らずです。雑誌の片隅には占いの記事があり、朝の情報番組では今日の運勢が語られ、本屋の一角を姓名判断やその類いの書籍が占めています。テレビをつければある種の占い師が登場して何かを語っている。日本人は無宗教だとか、宗教は非科学的だとか言われますが、実際には占いの力は衰えることを知らない。
私たちは占いを信じません。占いや運勢判断の類いをはっきりと拒みます。私たちの人生を支配するのは運命や運勢などの類いではなく、私たちの父である神だからです。私たちは神様の父としての慈しみを信じている。だから占いは必要ありません。
しかしこれだけ占いが力を振るうのは、分からないものや見えないものに対する人間の根源的な無力感が背後にあるのではないかと思います。未来のことは誰にも分からない。人間は無力です。更にはその未来に自分にとって不幸が待っているのだとしたら、なんとかしてそれを避けたいと思うのは自然なことです。だから、占いに助言を求める。しかし「助言が多すぎて、あなたは疲れてしまった」と聖書が言うのは、本当にその通りです。占いにしてもコメンテーターにしても学者にしてもネットに何にしても、いずれにしても私たちの周りにはたくさんの助言が溢れかえっていて、私たちはもう疲れてしまいました。
でも、大丈夫です。確かに私たちにこの先が何が起こるのかは分かりません。無力です。イヤなことが待ち受けているかも知れない。しかし、すべては慈しみ深い神の御手の中にあります。神の慈しみは、キリストに現されました。私たちはキリストをくださった神が支配する世界に生きています。だから、大丈夫です。私たちには理解できないことや分からないことが起こるでしょう。しかし、主イエス・キリストにあって、すべては私たちを神の国へ導くための出来事です。神の御手の内に、私たちの今日一日もおかれています。

2024年5月22日の聖句

主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。(詩編111:9) この方(イエス・キリスト)こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2) 主が民をご自分のものとしてくださった。御言葉はそのように宣言します。私たちも神の民、神の...