2024年1月31日水曜日

2024年1月31日の聖句

確かに、我々の神、主にこそ、イスラエルの救いはあるのです。(エレミヤ書3:23)
(マリアの言葉)私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。(ルカ1:46~47)

主イエスさまをお腹に宿したマリアの言葉です。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」マリアが崇め、喜びたたえるお方は、救い主である神。神さまは私たちの救い主でいてくださいます。私たちを滅ぼしたり、罰したりすることを望んでおられるのではなく、私たちを救うことを望んでいてくださるお方。マリアがほめたたえた神、私たちの信じる神、主イエス・キリストが父とお呼びになった神。この方が私たちの救い主。
「確かに、我々の神、主にこそ、イスラエルの救いはあるのです。」ですから、私たちも私たちの救いであるお方をほめたたえます。私たちの主であり私たちの神である方、イエス・キリストの父であるこの神にこそ、私たちの救いがあるのですから。
ところで、この時マリアは一体いかなる状況だったのか。突然主の天使が彼女のもとにやって来て、胎に幼子が宿っていることを告げました。マリアは戸惑いましたが、主のなさることを信頼してわが身を明け渡しました。そこで、彼女は急いで親類のエリサベトのところへ行った。天使から、エリサベトも神の御業にあずかって妊娠しているということを聞いたからです。彼女たちは一緒に主の御業を喜びました。神さまの救いの御業を一緒に喜びました。外面的に考えると、マリアがこれから一体どうなっていくのか、不安になる材料の方が多かったはずです。状況は喜ばしいものではなかったに違いない。しかし、マリアは神さまを賛美しました。自分の身の回りの状況ゆえにではなく、それにもかかわらず。神の救いの御業が進んでいることを信じて神を賛美した。「確かに、我々の神、主にこそ、イスラエルの救いはあるのです。」
私たちもマリアと同じ賛美に招かれています。

2024年1月30日火曜日

2024年1月30日の聖句

今日の聖句:
エッサイはダビデに言った。「兄さんたちの安否を確かめてきなさい。」(サムエル上17:18)
すると、男たちが体の麻痺した人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。(ルカ5:18)

体の麻痺した友人を主イエスの御許に連れて来た男たち。彼らは床を担いでやって来て、主イエスがおられる家までやって来ました。ところが大勢人がいたので運び込むことができなかった。それで彼らは屋根の上に上って瓦を剥がし、この人をと床ごと吊り下げて主イエスの前に下ろしたのです。
あんまりにもめちゃくちゃなやり方です。家の中にいた人々はどう思ったことでしょう。この家の持ち主は?ところが彼らはそんなことは考えませんでした。とにかく、体が動かないで苦しんでいるこの友を主イエスの御前に連れて行こうと、それだけしか考えていませんでした。そのことだけで頭がいっぱいでした。そんな彼らの信仰をご覧になって、主イエスはこの病人に救いを宣言なさったのです。「人よ、あなたの罪は赦された」と。キリストの福音の出来事が、このめちゃくちゃな友人たちの一途な信仰によって始まったのです。すごいことです。
なりふり構わない信仰。しかも自分のためではなく、友のために。他者のためのめちゃくちゃなまでの一途な信仰。主イエスはそれをご覧になった。お喜びになったのだと思います。だからこそ、罪の赦しを宣言してくださったのでしょう。
罪の赦しというと、私たちはとかく個人的なことのように思ってしまいます。ところが主イエスはそうお考えにはなっていないようです。一人の人のためのなりふり構わない信仰を主は重んじてくださる。私は私のために信じているというだけではない。私たちの信仰は共に生きる隣人にとっても大いなる意味を持ち、キリストの素晴らしい祝福と深い関わりを持つ、尊いものなのです。

2024年1月29日月曜日

2024年1月29日の聖句

地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。(列王記上8:60)
だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ28:19~20)

神さまがご覧になっているのは、「すべての民」です。すべての民をお造りになって命をお与えになったのは神さまですから、主はその御腕をすべての民に伸ばし、すべての民が神の祝福に生きることを望んでいてくださいます。
私たちの目に「すべて」と映るところは、ほんの一部分にすぎません。私たちの目は小さいし、視野も狭い。しかし神さまは大きな目をお持ちで、あらゆる国のあらゆる民、あらゆる時代に生きる民をご覧になっている。そして、すべての民をご自分のものとして憶えていてくださいます。すべての民、その一人ひとりの髪の毛の一筋までも。限りない慈しみをもって、とこしえの愛をもって、神が憶えていてくださいます。
「だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。」そうお命じになった方は、世の終わりまで私が共にいると約束してくださいました。キリストの祝福と恵みの中に私たちをおき続けてくださいます。主イエスさまの弟子として生きる幸いに、洗礼の祝福に、すべての人々があずかって欲しいというキリストの熱い思いに押し出されて、私たちの今日一日が始まる。キリストの祝福があなたにありますように。

2024年1月28日日曜日

2024年1月28日の聖句

今週の聖句:
あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ書60:2b)

今日の聖句:
わが主よ、あなたが造られた国々の民は皆来て、御前にひれ伏し、その名を崇めます。(詩編86:9)
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」(黙示録21:3)

神の幕屋。エジプトを脱出した神の民は荒れ野の旅を始めました。40年の荒野の旅のとき、民の真ん中には神の幕屋がありました。その中には十戒が刻まれた石の板を収めた箱が入っていた。そして、そこは大祭司が礼拝を献げるための場所だった。それが神の幕屋です。神がともに歩んでくださっているというしるしです。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」神が共にいてくださる。神は私たちの真ん中にいてくださる。そして私たちの神となってくださる。それが神の国のありようです。私たちは永遠に神と共にいさせていただける。それが救いです。
「わが主よ、あなたが造られた国々の民は皆来て、御前にひれ伏し、その名を崇めます。」神の実現してくださる救いは、すべての人のための救いです。だから、私までも加えていただいている救いです。神がそれを良しとしてくださるのでなければ、どうして私が神の御前に歩むことができたのでしょうか。
今日は主の日の礼拝です。神が私たちを招いてくださっている。神の御前に、キリストの祝福の中に。神は私たちを永遠に共にいさせるために、私たちを今日招いてくださっているのです。

2024年1月27日土曜日

2024年1月27日の聖句

神はソロモンに仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。」(列王記上3:11~12)
(パウロの手紙)この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)

先日たまたま、通っても無駄になる大学ランキングというようなのを目にしました。一位は東京外国語大学でした。とても優秀な国立大学なのに、なぜなのか。理由として挙げられていたのが、あまりにもマイナーな言語ばかりを勉強していて就職活動の役に立たないからと書いてありました。目を疑いました。そうであるからこそ素晴らしい学府なのではないかと思います。どうも、今の世の中、無駄な努力をしたくない、すぐに役立つことだけをしたいという思いが強すぎるように思います。
しかし考えてみると、私もインターネットの通販や何かで物を買うとき、やたらと商品レビューを気にしますし、買おうとしている物よりももっと評判の良い物がないかと目を皿のようにして探しています。買った後で別の商品のほうが良かったという評判を目にしてがっかりしたくないから。無駄なことをしたくないのです。そうすると、先ほどの大学評価とあまり変わらないような気がします。「この世と調子を合わせてはいけません」と聖書は言っています。耳が痛い言葉です。
この世と調子を合わせずにどうするのか。神に喜ばれることを見分けよ、と言っています。そして、今日の旧約はソロモン王への神さまの御言葉です。ソロモンが王になるとき、神が彼を祝福して、何でも好きな物を与えようと言ってくださいました。するとソロモンは自分のための豊かさや力ではなく、民をよく治めるための知恵を求めた。自分が得をするための願い事ではなく他者のために、そして神に与えられた働きのためのことを求めたソロモンの願いを、神はお喜びになりました。
主イエスさまはご自分の損得計算をなさいませんでした。全てを与え尽くし、ご自身そのものを与えてくださいました。このお方に従う道を主はお喜びになるのでしょう。キリストの十字架のみもとに逃れ、主を仰ぎ、主に従う一日を過ごしたいと願います。

2024年1月26日金曜日

2024年1月26日の聖句

あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。(詩編16:11)
(イエスの弟子たちへの言葉)自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。(マタイ16:25)

主イエス・キリストが私たちに命の道を知らせてくださっている。今日私たちに与えられているのはそういう御言葉です。主はおっしゃいます。「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。」私たちは自分で自分の命を救おうと思うときには却ってそれを失ってしまう。しかし、主イエスさまに自分の命を献げ、主のためにそれを失うならば、却ってそれを得ることになる。主のために命を失うときにこそ私たちは生きることができる。主イエスさまは、ここにあなたの命の道があるとおっしゃいます。
高座教会に柳沢美登里さんという方がおられます。私が学生の頃にはバングラデシュにおられて、現地の貧しい人々と共に生きながら伝道をしておられました。毎週、週報にお名前が上がっていて、礼拝で祈っていました。その後もいくつかの貧しい国々で現地の人々のために仕えてこられました。何年か前から日本で活動しておられました。今度の4月からは埼玉県に移って、神さまがお造りになった大地をケアしながらの農業という新しい働きに仕えるそうです。
私はこの方のお話を伺ってその証しに触れる度に、主イエスさまのためにご自身の命を献げている方だという思いを抱きます。そして、主に献げているからこそ、命を豊かに受けている方だと思います。キリストに仕える命の道を歩む証人がここにいます。
私たちの前にも、同じ命の道が拓かれています。キリストが私たちを招いておられます。毎日の生活の中で、主イエスさまのお喜びになることを求めることは、小さな献身です。私たちも命の道を歩むことができる。主はそのように私たちを招いてくださっています。

2024年1月25日木曜日

2024年1月25日の聖句

幸いな者、喜びの叫びを知る民は。
主よ、彼らは御顔の光の中を歩みます。(詩編89:16)
(イエスの言葉)「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書8:12)

明るい光の中にいるような御言葉です。今日の旧約聖書の御言葉をこれに続く節と一緒に改めて読むとこのように書かれています。
幸いな者、喜びの叫びを知る民は。
主よ、彼らは御顔の光の中を歩みます。
日夜、あなたの名によって喜び踊り
あなたの義によって高く上げられます。
喜びの叫び。それは主のお名前を喜ぶ叫びです。私たちの普段の生活で叫ぶことはあまりないかも知れません。日本の文化では叫んだり大声を出したりすることは、どちらかというとはしたないことの一つかも知れない。ところがここでは叫んでいる。喜びのあまりに。主のお名前のゆえに。喜びを爆発させている。
主を喜ぶ喜びは、神さまの御顔の光に照らされる喜びです。主イエスさまこそが私たちの光でいてくださる。私たちはもはや暗闇の中にはいない。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」ありがたい言葉です。この光は命の光。私たちはもはや暗闇にはいない。死の陰の谷を歩むときにも、主が共にいてくださいます。主イエスさまの光が照らしてくださっています。
キリストが今現に私たちを照らしてくださっている。そのことを信じましょう。今日、私たちが祈っているという事実自体が、キリストの光の中で起こっている出来事です。主イエスさまが私たちを憶えていてくださることを喜びましょう。主の光の中に生かされている。その事実こそが私たちの喜びの源泉なのです。

2024年1月24日水曜日

2024年1月24日の聖句

天地は滅びゆくが、あなたは永らえられる。(詩編102:27)
(イエスの言葉)見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。(マタイ28:20)

これこそ、福音の言葉です。天地は滅んでいく。私たちも滅んでいく。私たちは必ず最期の時を迎える。永遠の存在ではありません。私たちは死に行くものに過ぎない。しかし、神さまはそうではありません。「天地は滅びゆくが、あなたは永らえられる。」私たちは死にいく存在であり、この世界も滅んでいく。しかし、神さまはそうではない。神さまは永遠なる方。しかもその方が約束してくださいます。「見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」天地が滅んでも永らえる永遠の神は、世の終わりまで私たちと共にいてくださる方です。
ハイデルベルク信仰問答は告白します。「生きているときにも、死ぬときにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」ここに「死ぬ」という言葉があります。原文はドイツ語で書かれていますが、ドイツ語でこの「死ぬ」という言葉には、死の瞬間を現す言葉ではなく、死にゆくプロセス全体を表す言葉が使われています。あなたが死にゆくときの慰めは何ですか?死に打ち勝つあなたの慰めは何ですか?そう問いながら答えます。「私が、私のものではなく、私の真実なる救い主、イエス・キリストのものであることであります。」そして、主が私たちのために尊き血潮をもってすべての罪を償ってくださったことを告白する。生きているときにも、死にゆくときにも、私は私自身のものではなく、真実な救い主イエス・キリストのものであり続ける。そのことが私の慰めです。
この世にある天地の全ては滅びゆくものです。そしてそこに生きるこの私も死にゆく者です。天も地も、この私も、やがては朽ちてなくなってしまう。しかし、主イエス・キリストはそうではありません。キリストは永遠なるお方。そのお方が世の終わりまで私たちと共にいてくださり、私たちの死にゆくときにもずっと私たちをご自分のものにしてくださっている。ここに、私たちの死を超える望みがあるのです。

2024年1月23日火曜日

2024年1月23日の聖句

主よ、御名のゆえに、私の過ちをお赦しください。それはあまりにも大きいからです。(詩編25:11)
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(マルコ2:5)

主イエスさまが私たちに教えてくださいました。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈ることを。赦してくださいと祈るように、主が教えてくださいました。しかし私たちは口ごもってしまいます。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と、なかなか、心から祈れないからです。具体的に、もしかしたら思い出したくもないと思っている顔が脳裏にちらついたとき、このように祈るのに口ごもってしまいます。それが正しいことだとは思っていないのに、正直になると祈りが止まってしまいます。主イエスさまの赦しの福音を考えたとき、とても惨めな現実です。
しかし、聖書は驚くべき福音を告げています。「主よ、御名のゆえに、私の過ちをお赦しください。」御名のゆえに、と言います。神さまのお名前のゆえに。「赦してください」と私たちが祈ることができるのは、神さまのお名前のゆえ。私たちにはその理由も根拠も正当性もない。ただただ神さまのお名前のゆえに。主イエス・キリストの父なる神様、と私たちは神さまをお呼びします。そのお名前だけが私たちの赦しをお願いできる根拠です。
主イエスさまのゆえに、このお方が私の罪を赦してくださった。「子よ、あなたの罪は赦された」と告げてくださっている。繰り返し、繰り返し、その事実に帰るしかありません。その事実に何度も何度も立ち帰ることで、初めて私たちに赦しの奇跡が起こる。私もまた赦しの人として生きうる。その約束として、主はあの祈りを教えてくださったのです。

2024年1月22日月曜日

2024年1月22日の聖句

天よ、上から水を滴らせよ。雲よ、義を降らせよ。地よ、開いて、救いを実らせよ。正義を共に芽生えさせよ。私は主、私がこれを創造した。(イザヤ45:8)
しかし、私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。(2ペトロ3:13)

壮大な御言葉です。天も雲も地も、すべては神がお造りになったもの。天が水を滴らせ、雲から雨が降るように、義を降らせよと神さまはおっしゃいます。地が果実を実らせ、春になれば新たな芽生えを生み出す。そのように、救いを実らせ、正義を芽生えさせよ、とおっしゃいます。神がお造りになった世界には、義や救いや正義がふさわしい、それらを結ぶ世界であるはずだと神様はおっしゃいます。
私たちの目には、自分たち人間の営みが日々飛び込んできます。そうすると、義や救いや正義などは甘い理想主義にすぎないのであり、不正や不義や愛の破綻が現実なんだと勘違いしてしまいます。しかしそれは勘違いにすぎない。この世界は神がお造りになった世界です。私たちもまた、神が与えてくださった命です。神が私たちにふさわしいと言ってくださるのは不義や不正ではなく、義や救いや正義です。驚くべき御言葉、しかしそれがまことの現実です。
私たちの努力や心がけでは、どうにもなりません。私たちがこの世界を正しく、あるべきものに造りかえるというのは、不可能です。この世の権力で良い思いをできるのは、ほんの一部の人だけです。立場が変わればある人の正義は不正義になるし、よかれと思った振る舞いも他人への抑圧になり得る。政治や権力の力で楽しい思いをできるのはほんの一握りの人だけです。しかし、私たちには希望があります。聖書の約束があるからです。「しかし、私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。」神が全てを新しくしてくださる。私たちはその約束を信じ、神に期待し、神を待ち望む。神の救いを、神の義を、私たちは待ち望みます。私たちの力では成し遂げることのできない救いをもたらすために、神がその力を振るってキリストをお送りくださった。その事実だけが私たちの救いの望みなのです。

2024年1月21日の聖句

今週の聖句:
そして人々は、東から西から、また北から南から来て、神の国で宴会の席に着く。(ルカ13:29)

今日の聖句:
わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか。(ヨブ2:10)
神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

「神を愛する者たち」。私たちのことです。神を愛する私たちのことを言い換えて、聖書は大胆にこう言います。「ご計画に従って召された者たち」と。私たちは神に呼ばれた。神は闇雲に私たちをお呼びになったのではない。ご計画に従って。神の計画の中で私たちは呼ばれた。私たちには計り知ることのできない神の計画の中、私の心に与えられた神を愛する思いもまた意味を持っている。聖書は驚くべき事実を告げているのです。
私たちは神のご計画に従って召されている。そうであるからこそ、「万事が共に働いて益となる」と言います。万事です。たまたま、偶然、思わぬ形でうまくいくことがあるというのではない。万事が共に働く。私たちの益のために。しかし私たちの前にはそうとは思えない現実が広がっている。しかしそこにも神のご計画がある。聖書がそのように断言している。この御言葉を信頼し、私たちのための神のご計画を信じましょう。
「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか。」これはヨブの言葉です。不幸のどん底としか思えない出来事を目の当たりにして、それでもなお神を信頼した。神のご計画を。主イエス・キリストを仰ぎつつ、キリストによって示された神の愛を信頼して、今日の日を歩んでいきましょう。

2024年1月20日土曜日

2024年1月20日の聖句

主は、御力をもって地を造り、英知をもって天を張られた。(エレミヤ10:12)
御子は万物よりも先におられ、万物は御子にあって成り立っています。(コロサイ1:17)

今日の旧約聖書と新約聖書の二つの御言葉は、同じことを角度を変えて言っているのだと思います。主なる神さまが御力をもって地を造り、英知をもって天を張られた。即ち、この世界とそこに満ちる万物は御子キリストにあって造られ、成り立っている。主イエス・キリストこそ神の御力であり、神の英知です。
この世界の成り立ちに対する科学者たちの研究と知見はすさまじいものがあります。人間が誰もいない遙か遠い昔の出来事について、よくこれだけの研究をすることができると驚嘆してしまう。ただ、科学者たちは「どのようにして」についての研究をすることはできますが、「なぜ」については答えようがないのではないでしょうか。
この世界は、なぜ造られたのか。それは、主イエス・キリストの愛をいただくためです。神が御自分との恵みに満ちた関係を結ぶために、私たちを造ってくださいました。神様ご自身にはその必要はなかったと思います。しかし、それでもなお私たちを愛するために、この世界を造り私たちを造ってくださった。それが「万物は御子によって成り立っています」ということです。御子キリストに示された神の慈しみが私たちを成り立たせます。
この世界をお造りになった神の御力、神の英知は、この世界をキリストにあって見つめ直すとき、いよいよ輝きます。太陽も月も、動植物などの多くの命も、大地の実りも、すべては神が愛を込めて準備してくださいました。御子を仰ぐとき、私たちはその愛を知ります。そして、私たちに理解できないことや私たちの力の及ばないこの世界の出来事もまた、神の御手の内にあり、そこには私たちを永遠の祝福に導くキリストのご配慮が必ずある。私たちはそのことを信じています。

2024年1月19日金曜日

2024年1月19日の聖句

貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。(箴言30:8)
私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。(1テモテ6:7~8)

先日、祈りの中で主イエスさまの「貧しい人々は、幸いである」という御言葉に触れました。主イエス・キリストの弟子は、貧しいです。主ご自身が貧しくなられたから、主に従う私たちも貧しくなる。この世は富を礼賛します。力ある者、名声ある者が重んじられる。主イエスの時代の祭司長や律法学者たちも、福音書の記述を読むかぎりではあまり貧しいようには見えません。むしろ富んでいたのだと思います。しかし、キリストの弟子は貧しかった。キリストに従ったから。主イエスのために放棄と困窮の中で生き始めた。主イエスはそんな貧しい者たちに向かっておっしゃいました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)」宝を神の国にだけ持つ者、貧しくなられたキリストに従う者、十字架のお姿をご自身の栄光とされた方を主と信じる者。そういう弟子たちに、主イエスは幸いだとおっしゃいます。世の富を持ち、人々からの名声を受け、力ある者におっしゃったのではない。貧しくて弱い御自分の弟子に、主イエスの福音の言葉が響いています。
私たちは何かを手に入れれば、もっと欲しくなります。もっと持っていればもっともっと安心だと思ってしまいます。主イエスも富みも、両方欲しくなってしまう。しかし私たちは何も持たずに生まれてきたし、何も持たずに神の御許に帰る。しかし神が私たちを絶対に養ってくださる。だから、私たちは神が与えてくださる分を、これこそ自分の分に応じて神が下さったと信じ、感謝して受ける。主イエスさまにある貧しさに、主に従う者の受ける分があると信じているからです。
主イエス・キリストの祝福は、この世のもたらす祝福とは違います。へりくだり、貧しくなられ、十字架にかけられた方の祝福。これこそ、私たちを罪から救うことのできる祝福、神の国という永遠の救いに向かう祝福です。

2024年1月18日木曜日

2024年1月18日の聖句

エリヤは言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従いなさい。もしバアルが神であるならバアルに従いなさい。」(列王記上18:21)
(イエスの言葉)あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイ6:24)

主イエス・キリストも、預言者エリヤも、私たちに選択を求めます。神に仕えるのか、富みに仕えるのか。主に従うのか、バアルに従うのか。神にも富にも仕えることはできない。主にもバアルにも従うことはできない。聖書は私たちの前に立ちはだかるようにして、そう言います。私たちに問います。「あなたがたは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。」結局あなたの神は誰なのか、ということなのでしょう。
私は、性格的なことなのかも知れませんが、できれば曖昧にしたまま態度を保留したいというようなずるい考えを持っていることを告白しなければなりません。選択というのは、神か富か、主かバアルかとどちらか一つだけを選ぶこと。そして同時に、選ばなかったほうは私の神ではないと、態度をはっきりさせることです。しかしはっきりさせることは、恐ろしいことです。自分の生き方がそこで決まってしまう恐ろしさです。
今日の御言葉は本当に厳しいです。しかし、ただ単に厳しいだけの言葉ではないと思います。今朝の新約聖書の御言葉はマタイによる福音書第6章24節ですが、これに続く25節で主イエスはこのようにおっしゃいます。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。」それらのことは神が与えてくださるから大丈夫だ、と主イエスはおっしゃいます。神が備えてくださるのだから、思い煩ってはならない。神と富とに兼ね仕える必要はないのです。私の必要の全ては、神がよく知ってくださっていて必要な物を与えてくださる。主イエスはそうおっしゃいます。今日の御言葉はとても厳しい言葉ですが、それ以上に、私たちへの神の慈しみへの圧倒的な信頼に裏打ちされた言葉です。神は私たちが神と富とに兼ね仕える必要なんてさらさらないほど、確かに私たちを養ってくださる。その絶対的な約束が、決断を迫る今日の御言葉を支えています。
今日の御言葉は、主なる神に向かう信頼への招きです。今日の御言葉は、主なる神さまの私たちを守り抜こうというご決意のもとに語られたのです。

2024年1月17日水曜日

2024年1月17日の聖句

エフライムの腕を支え、歩くことを教えたのは私だ。しかし、私に癒やされたことに、彼らは気付かなかった。(ホセア11:3)
私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところへ戻って来る。(ヨハネ14:18)

ダビデ王の息子のソロモン王が死んだ後、イスラエルの国は南北に分裂しました。その内の北王国を、特にイスラエルと呼びます。この北王国イスラエルの最初の王はヤロブアムという人でした。エフライム族という部族出身でした。ですので、ヤロブアム王朝の時代のイスラエルのことを「エフライム」と呼ぶことがあります。今朝、私たちに与えれている旧約聖書ホセア書の背景になっているのは、ちょうどその時代であったようです。
「エフライムの腕を支え、歩くことを教えたのは私だ。しかし、私に癒やされたことに、彼らは気付かなかった。」
神がエフライムの腕を支えてくださった。歩くことを教えてくださった。神が彼らを一つの王国とし、これまで歩ませてくださった。それなのに、「私に癒やされたことに、彼らは気付かなかった」と主は言われます。ひどい忘恩を犯した。神が私たちを生かしてくださっていること、神の憐れみの中で今日を迎えたことを忘れ、まったくの恩知らずなことに神を蔑ろにしている。そのことを厳しく告発しています。
「恩知らず」の難しいところは、とっても自覚しにくい、というところにあると思います。そもそも自分が恩を受けていることをわきまえていない。そのこと自体が恩知らずということになるのでしょうが、神さまの恩がなければどうしようもない自分なのだということは、本当にすぐに忘れてしまいます。エフライムだけのことではなく、ヤロブアム王だけのことではなく、私自身への問いです。神のご恩に報いるどころか、そもそも恩をいただいていることすらもわきまえられていないのです。
しかしそんな私たちに向かって、主イエスさまは言ってくださいます。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところへ戻って来る。」私たちの腕を支え、歩くことを教えてくださった神の初めの愛でなお私はあなたを愛そう、と主イエスさまは言ってくださるのです。恩知らずな私のために、それでもなお愛を傾けてくださる。お返しすることもできないほどの大きなご恩をいただいて、私たちは生かしていただいています。私たちにあるのは、キリストのご愛だけです。

2024年1月16日火曜日

2024年1月16日の聖句

恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。(イザヤ43:1)
イエスは上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカ19:5)

圧倒的な宣言です。神さまは断乎としておっしゃいます。私たちはその言葉を聞く。「恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。」福音を宣言するこの御言葉が私たちの新しい現実を造ります。神が私たちを贖ってくださいました。神が私たちの名を呼んでくださいました。私たちをご自分のものとするために。私たちはもはや神のもの。神に愛され、神に救われているのです。
主イエスのところに来た主イエスさまも、やはり彼の名をお呼びになります。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。」ザアカイは突然自分の名前を呼ばれたので、さぞかし驚いたことでしょう。木に登って主イエスを見物するつもりでした。徴税人であり、背が低かったザアカイ。人だかりの向こうにいる主イエスを見たかったけれど、誰も彼のために場所を譲ってはくれませんでした。木に登ってまで主イエスを見たいと思った。一目で良いから見たかった。そこにはザアカイの求道心というか、キリストを求める切なる心が感じられます。しかし、主イエスは特にそういうザアカイの心を慮ってとか、ザアカイの気持ちを推し量ってというのではなく、主イエスさまの方が主体的にザアカイを見つけて、ザアカイの名前をお呼びになったのです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい!」
更に主イエスはおっしゃいます。「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」これもまた驚くべき言葉です。主イエスはザアカイに「泊まらせてほしい」とお願いをしたのではありません。「良かったら一晩一緒に語り合わないか」と提案したのでもない。今日はあなたの家に泊まることにしている。なぜなら、「あなたは私のもの」だから、ではないでしょうか。ザアカイは既にキリストのものとされた。ザアカイの家に救いが訪れたのです。
主イエス・キリストは同じように私たちのところを訪れてくださっています。私たちの名を呼ぶために。私たちをご自分のものとするために。私たちの名を呼ぶキリストの御声が今日私たちにも響いています。

2024年1月15日月曜日

2024年1月15日の聖句

主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(詩編147:11)
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れるに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ローマ8:15)

私たちは神の子!神さまが私たちにご自分の霊を与えてくださって、私たちの口に祈りの言葉を与えてくださいました。父よ、と私たちが祈っている。その事実が私たちが神の子にしていただいたという何より確かな証しです。神が与えてくださるのでなければ、私たちがそのような祈りを知ることは決してなかったからです。
神の子。それは、もはや奴隷ではないということです。奴隷は主人を恐れる。主人を知らないからです。主人の心を知らず、主人が何をしようとしているのかを知らない。親子ではありませんから。ですから奴隷の霊は恐れの霊だ、と言います。ところが神が私たちに与えてくださったのは、神を父とお呼びする霊に他ならない。私たちはもはや恐れることなく神を「父」と呼んで祈り、神の子として生きていくことができる。
「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」この旧約聖書の御言葉は、一見すると今日の新約の御言葉と矛盾することを言っているようです。主を恐れる者を主は好まれる。しかしここでの恐れは、主に愛して頂いた者としての恐れであるに違いありません。畏れ敬い、神をあがめる仕方で恐れる。神を父と呼ばせていただくという、本来であればあり得ない恵みへの恐れです。私たちは聖なる神様の御前に祈ることが許されている。神を信じ、神のお名前を呼んで祈ることができる。その圧倒的な恵みの事実を前に、私たちは恐れます。神の恵みを待ち望みます。そして、祈ります。「父よ」と。主イエス・キリストが教えてくださったとおりに、私たちは祈るのです。

2024年1月14日日曜日

2024年1月14日の聖句

今週の聖句:
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)

今日の聖句:
主はこう言われる。「公正を守り、正義を行え。私の救いが到来し、私の正義が現れる時は近い。」(イザヤ56:1)
ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。(マタイ3:14,15)

主イエス・キリストはすべてが正しく行われることをお望みになった、と聖書は言います。主イエスがおっしゃる正しさというのは、ヨハネの手から主が洗礼をお受けになることでした。ヨハネが授けていた洗礼、それは罪の悔い改めの洗礼です。罪を犯したことのない神の子が、一人の人間にすぎない者の手から洗礼をお受けになる。それが正しいことだ、と主イエスは言われるのです。驚くべき言葉です。
主イエスは、私たち罪人の一人になられました。罪人の中に御自分が数えられることを正しいことだとおっしゃいました。ただの一度も罪を犯したことがないのに!そのようなお方が「罪人」と呼ばれるのが正しいことだと言われるのです。
そうやってこの方がへりくだることなしに私たちが救われるというのはあり得ないことだからです。このお方が私たちの一人になることなしには私たちがどうしても救われないからです。主イエスは私たちのために、底の底にまでへりくだってきてくださいました。
「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。」私たちはただただ、私たちに恵みを下さるキリストの豊かさを賛美し、このお方を礼拝するのみです。主イエスへの精一杯の愛を込めて。

2024年1月13日土曜日

2024年1月13日の聖句

ご覧ください、与えられた生涯は、僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも、全て空しいもの。(詩編39:6)
(パウロの手紙)だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。(2コリント4:16)

私たちの生涯は短く、人生も空しい。こういう御言葉を読むと、時代は変わり文化や風俗は変わっても、人間の思うところの本質は変わらないのだと感じます。ただし、この人は単に人生は空しいと言っているだけではない。「御前には」とあるとおり、神さまの御前で生きる自分の人生を考えています。永遠なる方の御前に、命の造り主でいらっしゃる方の前に、私の人生は僅かなものであり、無に等しいと告白している。単に人生の短さを嘆いているのではなく、神様の御前で、造られた者としての畏れを込めて、自分の命の儚さを見つめているのだと思います。
私たちの命は短く、苦労は多い。栄華を極めたようであっても一時のことにすぎず、成功も空しいものに過ぎません。人は確かに立っているようでも、全ては空しい。しかし、神の御前でその事実を振り返るとき、その短さや空しさの中に光が射してきます。「だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」神がこの朽ちるべきものを日々新たにしてくださっている。神の御前に、私たちはこの命を尊く生きることが許されている。
神様の御前にあると、気づきます。この命の弱さや儚さ、短さは、神様の御前にある「ひらき」のようなものだ、ということに。私たちは命の儚さを知るとき、傲慢にならず神の御前にへりくだるように導かれています。この弱いもの、脆い土の器に神の永遠の命という宝がもられている。そのことを謙遜に受け止めるための「ひらき」として、神さまは私たちを弱い存在にお造りになりました。神の下さる宝の尊さを私たちが心から知ることができるために。キリストの永遠の命の祝福に、私たちは招かれているのです。

2024年1月12日金曜日

2024年1月12日の聖句

私はこの地では寄留者です。(詩編119:19)
たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。(2コリント5:1)

神を信じる者は寄留者、旅人です。アブラハムは神に呼ばれて旅に出ました。モーセもそうです。ダビデは王になった後も自分の罪や家族の不和のために逃亡の旅をしなければならなくなりましたし、預言者も定住者ではなく常に旅をしながら御言葉を生きていきました。主イエスの弟子たちも旅人であり、使徒パウロも旅をしながら生きていました。神を信じる者は、旅人です。その旅のあり方はそれぞれで、苦難の旅路もあれば悲しみの旅路もあるでしょう。それぞれの仕方で、しかし誰も神を信じる者たちは旅をしている。
私たちも旅人です。私たちの生活は定住を基本としていますが、しかし、この世にあってはやはり寄留者にすぎない。私たちの本国は天にある。まだ見ぬ天の故郷を目指す旅人であり、この世にあっては仮住まいの者。その事実が私たちの生き方を定めます。もしもこの世が本国であるなら、この世の価値が私たちにとっての絶対的な基準になります。この世での成功やこの世での豊かさ、評判、報いなどを求めて生きることになるでしょう。しかし別の本国をもっているなら、そうではなくなります。本国でどう評価されるかということに従って生きることになる。神が私たちを天の故郷にお迎えになるとき、一体何をお喜びになり、何を評価なさるのか。そのことを基準にして生きることが自然なことなのだと思います。
「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。」この地上での生活は、それがたとえどんなに盤石に見えたとしても、仮のものに過ぎません。いつかは壊れてしまう。しかし永遠に残る住まいを神が備えてくださっています。私たちは永遠の価値を持って神に迎えていただく。その事実を前に、私たちは生きていきます。
主イエス・キリストの永遠の祝福と恵みの中、今日も私たちは命を与えられて、この一日の旅路へと送り出されています。

2024年1月11日木曜日

2024年1月11日の聖句

私はあなたを苦難の炉で試みた。(イザヤ48:10)
たゆまず祈りなさい。(コロサイ4:2)

炉で金属を精錬し、より純度が高くて美しいものとする。まるでそのようにして、神さまが私たちを苦難という炉で試みた、と言います。しかし、金属をただ単に炉の中に入れておくだけでは精錬されません。鍛冶がそれをしっかり鍛えなければ、ただ単に溶けてしまうだけです。私たちを炉の中で鍛えるのは祈りだ、と今日の御言葉は言っているのではないでしょうか。「たゆまず祈りなさい」と書かれているとおりに。
私は今日の御言葉を読んで、少し胸のいたくなるような気持ちになりました。よく分かるのです。祈りがどんなに大切で、どんなに必要なことなのか。ところが同時に私は知っている。自分がどんなに祈りから遠く、祈ることに怠惰なのかをも。
炉の譬えは本当に鋭いと思います。苦難の中で祈り続けるのはしんどいことです。祈ること自体が辛くなってしまうことが私たちにはあるのではないでしょうか。炉で金属を精錬するためには大変な熱が必要です。そのためにはたくさんの空気を送り込まなければならない。きっと、祈りは私たちにとっては酸素です。酸素がなければ炉の炎が上がらないように、祈りがなければ私たちは練りきよめられない。しかし、そう分かっていても、ただでさえ熱くなっている炉に酸素を送り込むのは勇気がいる。苦難の中で祈るのは、時に、勇気が必要です。その事柄に向き合わねばなりません。それに、もしかしたら私たちには、祈っても空しいのではないかという不安もあるかも知れない。祈るというのは、勇気を持って一歩踏み出さないわけにはいかないことです。それには勇気が必要だし、怠惰に打ち勝つ心も必要。そのようなことを考えると、不信仰な告白ですが、私は少し辛くなってしまいます。
しかし、もしかしたら私は少し思い違いをしているのかも知れません。祈りは神が与えてくださるものです。この口がたった一言神さまをお呼びするとしたら、それは聖霊のお働きです。神が祈りの言葉を与え、また、祈りたいという心を与えてくださる。<私が>祈るのですが、それは<神ご自身が>私の中で祈っていてくださるということでもある。私たちはそうやってこの私の内に働いていてくださる神によって祈りを与えられ、そのようにして神を求めて祈ることによってでしか、神の御前に精錬されることがないのかもしれません。私に信仰を与えるのも、その信仰を育むのも、神ご自身が私の内で行っていてくださる奇跡に他ならないのだと思います。

2024年1月10日水曜日

2024年1月10日の聖句

悪から離れ、善を行え。
平和を求め、これを追え。(詩編34:15)
だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。(ローマ14:19)

日本に「死生学」を導入し、根付かせた人はアルフォンス・デーケンというイエズス会の司祭です。数年前に亡くなりました。上智大学で教鞭を執っておられましたが、大学や教会の中だけではなく、いろいろなところで私たちが前向きに死に備えるために精力的に活動をしておられました。何度かご講演を聴いたことがあります。とても楽しい方でした。
デーケン先生はユーモアをとても大切になさっていました。ユーモアを持って死に備えようとおっしゃっていた。そして、ユーモアは愛から生まれるとしきりにおっしゃっていたことが印象に残っています。周りの人を笑顔にするための愛がユーモアを生み出す。頭の良さが生み出すジョークとは区別していました。時として人を傷つけたり、誰かを貶めたりするジョークによる笑いではなく、愛から生まれるユーモアをもって、人生を見つめ、死を見つめよう、というようなことをおっしゃっていました。
私は今日の御言葉を読んで、デーケン先生のユーモアの話を思い出しました。「だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。」平和に役立ち、互いを築き上げるのに役立つこと。一つの言い方をすれば、平和はユーモアに満ちていると思います。心からの笑顔や相手への愛をもって敵対することはできません。あざ笑っているなら別ですが、それはユーモアではない。平和、それは笑顔と仲が良いのではないでしょうか。
私たちは、悪を離れて善を行います。平和を求め、これを追います。主イエス・キリストの平和が私たちの内に宿りますように。神を賛美し、主イエスさまをほめたたえ、喜んで平和の道を歩みましょう。そして、今悲しんでいる人や苦しい思いをしている人、戦火にある人や災害のために辛い思いをしている人々に笑顔が戻りますようにと祈りつつ、今日の日を過ごしていきましょう。

2024年1月9日火曜日

2024年1月9日の聖句

主は地の果てまで裁き、王に力を与えられます。(サムエル上2:10)
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)

主なる神の裁き、ということが語られています。裁きが話題に上っている。ここのところしばらく、自民党のある派閥を巡って、政治資金パーティのパーティ券の売り上げを個人にキックバックしていたという話題で持ちきりになっていました。私たちの金銭感覚からはあまりにもかけ離れたところで裏金を造り、公僕たるべき者たちが私腹を肥やしていたのかということもあって、世間の怒りや顰蹙を買った事件であったかと思います。
もしも報道されているとおりならば確かにけしからんことではあると思いますが、他方では少し違う感想も抱きます。これまで偉そうにふんぞり返っていた国会議員たちがシュンとしている。その中のある者が逮捕され、裁判で有罪になっていくようなことがあるかも知れません。それでもって私たちが溜飲を下げてすっきりするとしたら、それはそれで私たちにとってあまり健全なことではないのではないかと思います。人が裁かれる姿を見て喜ぶというのは、あまり良いことではないように思います。
私たちには、それぞれ自分なりの正義があります。そこから外れる者を私たちは自分の心の中で、あるいはブツブツつぶやきながら繰り返し裁いている。私たちは誰もが自分の正義の物語の虜になっているのではないかと思います。
ところが、神さまの裁きは私たちの予想とは違っている。「主は地の果てまで裁き、王に力を与えられます。」「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」この二つの御言葉から知らされるのは、主なる神さまの裁きは私たちのための救いの裁きだ、ということです。神さまの目からご覧になって、私たちなど一体どのような存在なのでしょう。どんなに断罪してもしたりないような汚れた者です。ところが神さまはそのような私たちを罪に定めるのではなく、憐れみと恵みの内に救いに定めてくださいました。小羊イエスが世の罪を取り除いてくださったからです。だから、神の裁きによって私たちは力を与えられる。
私たちは自分の握っている小さな正義の物語に生きている。ところが、神さまはもっともっと大きな救いの物語の中に私たちを生かしてくださっています。この天と地が造られる前から私たちを救いに定め、時至って私たちのために小羊イエスをお送りくださり、私たちを罪ではなく救いに定めてくださった神の救いの物語。それが私たちの生きる本当の現実なのです。神は、私たちのためにこのような恵みの裁きを行ってくださったのです。

2024年1月8日月曜日

2024年1月8日の聖句

彼らはあなたの前に喜んだ。収穫を喜ぶように。(イザヤ9:2)
たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかります。(ヘブライ6:7)

収穫、大地の実りを譬えとする聖書の御言葉は、響きがずいぶんと変わってしまったのではないかと思います。聖書の民にとって、あるいはほんの最近までは死活問題でした。ところが私たちの多くは収穫の喜びを殆ど知りません。収穫に自分たちの命が左右されるということを肌感覚としてよく知らない。大地の実りが畑で結ばれることを忘れ、スーパーマーケットで手に入るに過ぎないものと感じてしまっている。それはほかの誰でもなく、私のことです。そんな生活の中、私は自分にとって、作物の実りの譬えが響きにくくなっていることを自覚します。
作物の実りには適度な雨や晴れ、虫が大量発生しない環境やちょうど良い気温など、たくさんの条件が必要なのでしょう。そしてそれらの多くは、本当は人間にはコントロールすることのできない領域のものです。スーパーの消費者として収穫物を手に取るとき、そういうことの殆どを忘れてしまっています。しかし、野菜一つに込められた神の恵みは、貴いものです。「彼らはあなたの前に喜んだ。収穫を喜ぶように。」神様の御前に、私たちを生かしてくださるお方の御前に、私たちはこれを喜ぶ。
今日の新約聖書の御言葉はこのように言います。「たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかります。」これは実は私たちの信仰者としての成長の譬えとして、収穫物の話をしています。私たちの信仰者としての成長には、天候や自然環境のような、神さまの領域の事柄が殆どです。私たちの信仰はキリストが何をしてくださったのかに始まり、神ご自身の霊の同伴によって成り立ち、父の御支配の中で営まれる歩みです。そのような信仰生活の中、私たちは、自身の事柄としてキリストを信じ、キリストを愛し、キリストに従う決心をします。十字架のキリストを私の主、私の師として、私たちはこの方に従う。そこに結ばれる実りを、神ご自身が喜んでくださいます。今日一日も、主イエス・キリストの祝福と恵みがありますように。

2024年1月7日日曜日

2024年1月7日の聖句

今週の聖句:
神の霊によって動かされる者は神の子である。(ローマ8:14)

今日の聖句:
恐れてはならない。しっかり立って、今日、主があなたがたのためにどんな救いをなされるのかを見なさい。(出エジプト記14:13)
(パウロの言葉)わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。(使徒26:29)

今日の使徒言行録は、パウロがユダヤの王の前で述べた言葉です。東方の博士たちと会ったヘロデ王のひ孫に当たる人物のようです。父親は、十字架を前にした主イエスを尋問した人物です。つまり、使徒パウロにしてみれば恐ろしい王で、圧倒的な脅威であったに違いないと思います。
ところがパウロは全く臆せずにこの王の前で堂々とキリストの福音を証言し始めました。驚いた王は言います。「僅かな言葉で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」それにパウロが応える。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」
堂々たる言葉です。あなたにも私と同じようになってほしい。私のようにキリストと出会い、キリストに捕らえられ、キリストのものとして生きてほしい。パウロはそう断言する。本来であれば不倶戴天の仇とも言えるような、かつ自分の生殺与奪の権をもつような人物を前にして。パウロはキリスト証言に生きた。
どのようなときにも、私たちの伝道の言葉はこれなのだと思います。「あなたにも私と同じようになってほしい。」そう言われると、私たちは思ってしまいます。そんな大それたこと、私にはとても言えない・・・。確かに自分のことばかりを見ていると、そう言わざるを得ないかも知れません。しかしパウロはキリストだけを見つめていました。キリストが私にしてくださったことだけを。この私のところにもキリストが来てくださった。あなたのところにも!さあ、私と同じようにこのお方を信じてください。パウロは、ただそう言い続けた。「私とあなたを救ってくださる神の御業を、あなたも仰いでください。」そう証言するところに、私たちの伝道が始まるのです。

2024年1月6日土曜日

2024年1月6日の聖句

主を畏れる人とは誰か。
主はその人に選ぶべき道を示す。(詩編25:12)
それから、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分の国へ帰って行った。(マタイ2:12)

東方の博士たちへの神さまの言葉です。「ヘロデのところへ帰るな。」ユダヤにお生まれになった新しい王を拝むためにやって来た博士たち。そもそも、彼らはなぜ遠い外国からわざわざやって来たのでしょうか。遠い西の、弱小国ユダヤの王なんて、彼らに何の関係があったのでしょうか?
彼らは占星術の学者たちでした。恐らく、東方の国では高官であったのだと思います。古代の社会ではこれから先についての予測が一切立ちません。来年の天候も、外国との関係も、あるいは自分の国で内乱やクーデターが起きないかも、今以上に予測が立たない。そこで占星術を初めとした占いによって未来を知ろうとした。日本でも、卑弥呼のような人もシャーマンの一種だったのではないかと言われているようです。それと似ていると言えるのかも知れません。博士たちは星を見ながら、自分たちの国の行く末を占っていた。そんなあるとき、通常とは異なる星の輝きを見出したのです。
その星はユダヤに新しい王がお生まれになる徴だと彼らは知った。そうだとすると、彼らがわざわざ砂漠を越えて旅をしてきた理由も見えてきます。新しい王の誕生によってユダヤが不安定になるかも知れない。あるいは、星にその徴が見えるほどの王であれば、将来自分たちの脅威になるかも知れない。そう考えて、その王がどういう人物なのかを見定めに来た、と推測することができるのではないでしょうか。
エルサレムへ行き、ヘロデと会い、ヘロデに遣わされてベツレヘムへ向かった博士たち。彼らは東方で見た星の導きで、主イエスさまと出会いました。想像していたのとは違う王でした。彼らはへりくだってこの新しい王を拝みました。彼らはメシア・まことの王と出会ったのです。そんな彼らを考えると、神がおっしゃったとおりに別の道を通って帰るというのは必然であったのだと思います。もう、彼らはヘロデのところには行かない。彼らの当初の占いの目的はもはや必要なくなった。もっと根本的な救いをもたらすお方と出会ったから。キリストとの出会いは私たちの道を新しくします。主は、ご自身を畏れる者に、その選ぶ道をお示しになります。私たちの行くべき道は主が示してくださる。どのようなときにも、私たちはキリストをあがめるため、キリストの前にへりくだるための道へと導かれているのです。

2024年1月5日金曜日

2024年1月5日の聖句

主に願い求め、万軍の主を尋ね求めるために出かけよう。私たちもあなたがたと共に行きたいのだ。(ゼカリヤ8:21)
リディアは家族全員と共に洗礼を受けた。それから「もし私が本当に主を信じているとご納得いただけたらなら、私の家に来てください。お泊まりいただきたいのです」と行って懇願した。(使徒16:15)

主なる神さまを信じる私たちの信仰の営みは、個人的なものではありません。独りぼっちの信仰者に、私たちはなることができない。「私たちもあなたがたと共に行きたいのだ」と書かれているとおり、私たちは主なる神さまを求めて共に歩みます。主を求める歩みは単独行ではない。共なる歩みです。
もちろん、一人っきりで祈る時間があるし、一人になることができなければ共に生きることはできないでしょう。一人での祈りの時間には、どんなに親しい人であっても立ち入ることのできない厳しさがあります。神様の御前に一人でいる、屹立した祈りの時。しかしその一人の祈りをもって、私たちは共に神の御前に生きる。神を求める旅路を共に歩んでいくのです。
フィリピの町に住んでいた紫布を扱う商人であるリディアは、その町に来たパウロと出会い、彼の口から主イエス・キリストの福音を聞きました。リディアも家族も信仰に導かれたとき、彼女はパウロを自分の家に招じました。リディアはパウロと共に生きはじめた。パウロの伝道の働きにリディアも参与しだしました。
私たちは、教会という共同体で共に生きることを通して、具体的な仕方で信仰の道を知り、経験します。共に生きることなしの「信仰」は、信仰の名の毀損です。共に生き、共にキリストのお体を立て上げる中で、私たちは神を信じる恵みを知り、喜びを知り、またそのためのキリストの苦労にあずかる。そこに私たちのための神の祝福があります。

2024年1月4日木曜日

2024年1月4日の聖句

諸国の民はあなたの光に向かって進み、王たちはあなたの上に差し昇る輝きに向かって歩む。(イザヤ60:3)
この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩く。(黙示録21:23~24)

神が準備してくださる都、私たちの天の故郷。歴史が完成してやがて到来する神の都には、太陽も月もない。朝には輝くが夕べには沈んでしまう太陽や、夜に光っていても昼には見えなくなってしまう月。そのような不完全な光ではない。主ご自身がこの都の光です。「小羊が都の明かり」だと聖書は言います。救いの完成は、影も移ろいもない完全な光の到来です。私たちのための光がやって来る。
「諸国の民はあなたの光に向かって進み、王たちはあなたの上に差し昇る輝きに向かって歩む。」聖書が描く救いのスケールは、本当に大きいです。私の個人的な心の安寧には留まりません。私のコンプレックスからの解放や、私の不全感の解消、私の敗北の埋め合わせ、私の罪悪感の解決。そのようなことも結果としては含まれるでしょう。しかし最も大事なことは、小羊イエスご自身が光でいてくださる都の到来。その都に、そして都を照らす光に、私たちも諸国の民も進み行く。この世界のための救いの完成。完全な救い。私たちすべてのものを照らす平和の光の到来。聖書が描く救いの絵は本当に壮大で、私たちの想像を遙かに超えます。
私たちは呻いています。今も地震のため、戦争のため、寝る場所にすら不安を抱え、辛いところに追いやられている人々がたくさんいます。私たちも、祈ります。すべての人のための救いを、すべての人を救う神の都を、主よ、早く来たらせてください。私たちの光でいてくださる小羊イエスの愛と憐れみを、この地にお与えください。主よ、私たちのこの世界を救ってください。そう祈るために、今私たちはキリスト者として召されたのです。

2024年1月3日水曜日

2024年1月3日の聖句

(バラムの言葉)「たとえバラクが、彼の家を満たすほどの銀と金を私にくれようとも、主の言葉に逆らうことはできません。」(民数記22:18)
人に従うより、神に従うべきです。(使徒5:29)

バラクというのは、モアブ人の王の名です。イスラエルの人々を脅威に感じたバラク王は、バラムという預言者にイスラエルの人々を呪うようにと命じました。バラムは主なる神さまを信じていたわけではありません。異教の預言者です。最初バラムはバラク王の要求どおりにイスラエルを呪おうとしましたが失敗し、主なる神さまが彼らを守っていることを知るに至りました。バラムはバラク王に、イスラエルを呪うのは諦めようと進言します。ところがバラク王は諦めようとはしない。それで、バラムは言いました。「たとえバラクが、彼の家を満たすほどの銀と金を私にくれようとも、主の言葉に逆らうことはできません。」
私たちは誰に従って生きているでしょうか。力あるものか、世間の目か、自分のしたいことか、なんとなくの行きがかりか。聖書は言います。「人に従うより、神に従うべきです。」私たちは、神に従っているでしょうか?
第二次世界大戦の時、ドイツの多くの教会はナチの支配に従いました。そんな中で信仰に踏みとどまった人々、告白教会と呼ばれる人々がバルメン宣言という信仰告白を生み出しました。その第二の命題でこのように告白しています。「イエス・キリストは、われわれすべての罪の赦しについての神の慰めであるのと同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼は、われわれの全生活に対する神の力ある要求である。彼によってわれわれは、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放を与えられる。」主イエス・キリストご自身が私たちのための自由であり、また、私たちが従うべき神の要求です。キリストに示された神の真理に、私たちは仕える。そこに私たちの自由への道がある。
私たちはこの世の権力や欲望、消費主義や世間の目に従うために造られたのではありません。主イエス・キリストに示された神の愛と、そこにある神の力ある、そして慰めに満ちた要求に従うために命を与えられたのです。キリストに、従いましょう。

2024年1月2日火曜日

2024年1月2日の聖句

喜んで私はあなたにいけにえを献げ、御名に感謝します。その御名が慰めに満ちているからです。(詩編54:8)
そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を入れた。(マルコ12:42)

「御名」とあります。神さまのお名前、という意味です。私たちの信じる神様はお名前を持つお方です。これは改めて考えてみるととても興味深い事実です。神さまがただお一人の方であるならば、神は神であって名前は必要ないはずです。単に「私は神」とおっしゃれば、それで十分なはず。ところが神さまは御自分のお名前を私たちに名乗ってくださる。旧約聖書の中に神さまのお名前を現す言葉が出て来ると、そこは「主」と翻訳する伝統があります。神は私たちに向かって「私は主」と御自分のお名前を名乗ってくださるお方です。御自分のお名前を名乗るというのは、私たちとの人格的な関係を結びたいと望んでいてくださるということです。だからこそ、神さまの主というお名前は私たちの慰めに他ならない。
それだけではありません。主というお名前の意味を学者たちが研究すると、どうやら、「私はあなたと共にいる」という神さまのお約束がその起源であると考えられるようです。神さまは私たちに主というお名前を名乗ってくださり、そのお名前は、主は共にいてくださるいう約束そのものに他ならない。主。そのお名前のなんと慰めに満ちていることでしょう。
だからこそ、「喜んで私はあなたにいけにえを献げ、御名に感謝します」と告白をする。私たちにとって神を礼拝することは喜びです。喜んで主の御前にあってこのお方を賛美し、あがめます。あの貧しいやもめが自分の持つレプトン銅貨をお献げしたのと同じように、私たちも喜んで自分に与えられたものを主に献げます。主の恵みによって、私も生かして頂いているから。主イエス・キリストの恵みと祝福によって、私も生かされているからです。

2024年1月1日月曜日

2024年1月1日の聖句

2024年の聖句:
何事も愛をもって行いなさい。(1コリント16:14)

1月の聖句:
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。(マルコ2:22)

今日の聖句:
気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。心を弱くしてはならない。(イザヤ7:4)
(イエスの言葉)「主の霊が私に臨んだ。主の恵みの年を告げるために、主が私に油を注ぎ、私を遣わされたからである。」この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。(ルカ4:18,19,21)

主イエス・キリストが宣言なさいます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」主の恵みの年が来た、と主イエスはおっしゃいます。今、ここに、神の福音が実現した!主イエスの高らかな福音の言葉によって、2024年が始まりました。キリストのおられるところ、キリストが御言葉を語られるところ、それがどこであっても、あるいはどのような時であっても、必ず神の福音は出来事となります。私たちはキリストの言葉によって、神ご自身と出会う。主イエス・キリストの語り出す福音の言葉が、私たちを神の御前に連れ出すのです。
だから、私たちは恐れません。どのようなときにも心を弱くすることがありません。キリストの祝福と恵みはいつも私を追ってくるし、私を支配するのは恐れや不安ではなく、キリストの恵みの言葉であるからです。
心静かに、この新しい時を刻みましょう。この先私たちに何が待ち受けているのかは誰にも分からない。しかし、それが例え何ものであっても、例えどのようなものが私たちの行く先にあったとしても、何者も私たちを神の愛から引き離すことはできないからです。キリストが宣言した福音の中に、私たちの新し時は包み込まれています。何事も、愛をもって行いましょう。主イエス・キリストの父であるお方が、私たちを見ていてくださいます。

2024年6月17日の聖句

新しい歌を主に歌え。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)  私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)   私たちの主を賛美する新しい歌は、主の奇しき業から始まります。主がなしてくださった御業に応えて、私た...