2023年7月31日月曜日

2023年7月31日の聖句

私の若き日の罪や背きを思い起こさず、
主よ、あなたの慈しみにふさわしく、
あなたの恵みのゆえに
私を思い起こしてください。(詩編25:7)
(イエスのニコデモへの言葉)「あなたがたは新たに生まれねばならない」とあなたに言ったことに、驚いてはならない。(ヨハネ3:7)

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と主イエスがおっしゃった言葉を聞いて、ニコデモは半ばあきれたように言いました。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」それはそうです。年を取っていなくたって、昨日生まれたばかりの赤ちゃんだって、母の胎に入り直すことは二度とできません。人間の力には、そのようなことは不可能です。
ところが主イエスはおっしゃいます。「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」確かに人間にはそんなことはできない。全く不可能だ。しかし、神の霊、聖霊は私たちを新しく生むことができる。私たちは聖霊という胎に育まれて、新しく神の子として生まれる。
主イエスは、神にはそれができる、とおっしゃったのです。だから、「驚いてはならない」とおっしゃった。神には何でもできるからです。
今日の詩編の言葉ですが、「私の若き日の罪や背きを思い起こさず、主よ、あなたの慈しみにふさわしく、あなたの恵みのゆえに、私を思い起こしてください」これは、全く神様に依り頼んでいる言葉です。自分にはどうすることもできない。神様が私の罪や背きを覚えておられるなら、それを数えておられるなら、私はどうしようもない。しかしまた、私のことをお忘れになっているとしたら、それもまたどうにもならない。だから、神様にただ私の罪を忘れてください、しかし私のことを思い出してください、と祈るより他ないのです。神様がしてくださる慈しみにただ期待し、待ち望むだけです。
私たちの救いはただ神様にかかっています。神様がご自分の慈しみにふさわしく私を取り扱ってくださること。そして、神がご自分の聖霊によって私たちを新しく生んでくださること。そういう神様の御業にだけ、私たちの救いはかかっているのです。

2023年7月30日日曜日

2023年7月30日の聖句

今週の聖句:
光の子どもたちとして歩きなさい。光がもたらす実は善と義と真実だけです。(エフェソ5:8b、9)

今日の聖句:
私は自分の道をあなたに語ります。どうか聞いてください。そしてあなたの戒めを教えてください。(詩編119:26)
この方が私たちに耳を傾け、何を祈っているかを聞いてくださっていると知るならば、この方から得ようと祈ったことをすでに得ていると知るのです。(1ヨハネ5:15)

祈りは神様との対話です。私たちは自分の道について神様に申し上げます。今日一日の喜びについても、不安についても。私たちは神様に打ち明け、祈り、神様を呼び求めて生きていきます。
「この方が私たちに耳を傾け、何を祈っているかを聞いてくださっていると知るならば、この方から得ようと祈ったことをすでに得ていると知るのです。」
神様が耳を傾けて聞いてくださっているというのは、これ以上ない喜びであり、慰めです。私たちの祈りの言葉を神が聞いてくださっている。私たちは独り言をつぶやいているのではないし、自分自身に向かって語りかけているのでもない。ほかの誰でもなく、神様が私の祈りに耳を傾けて待っていてくださいます。
そして、祈りは対話ですから、私たちは神様が語りかけてくださるのを耳を傾けて聞き、神様の御言葉によって生きていきます。「私は自分の道をあなたに語ります。どうか聞いてください。そしてあなたの戒めを教えてください。」神様の戒めをお聞かせくださり、私を神様の喜んでくださる道に生かしてください。神様の御旨から外れないように守ってください。そのために、あなたの御言葉をお聞かせください。私たちも神様に耳を傾け、耳を澄まします。
ここに、私たちが神の子、光の子として歩む道が準備されていると信じます。神様の光を映すものとして、神様が私たちを新しくしてくださいました。神への愛を抱いて、神様との対話の中、新しい一日を歩んでいきましょう。

2023年7月29日土曜日

2023年7月29日の聖句

苦難の日に私は主を求める。
私の手は夜も主に向かって伸ばされ、止むことはない。(詩編77:3)
イエスは弟子たちに言われた。「私の魂は死ぬばかりに悲しんでいる。ここに留まって私と一緒に目を覚ましていなさい。」そして少し先に行き、ひれ伏して祈られた。(マタイ26:38~39)

旧約聖書の詩編は、祈りです。日本の昔から詩歌は花鳥風月を歌い上げたり、恋心を詠んだりしていますが、聖書の詩編は祈りです。この詩編第77編は、その中でも苦難の中にある祈り、しかも「夜の祈り」です。夜、神に向かって手を伸ばして祈る。慰められることを拒むほどの深い苦しみの中、ただ神様に向かって祈り、呻き、霊の萎え果てるほどに思いみだれている。そのような祈りの言葉です。
詩編を読むときに私たちが知るのは、祈りというのは、形の整った、行儀の良いものではないということです。散り散りになるような心を吐露した言葉、神に向かって喘ぐような呻きの言葉です。
この詩編は20節でこのように言います。「あなたの道は海の中に、あなたの行く手は大水の中にある。その足跡を知る者はいない。」モーセに導かれた出エジプトの民が通った海の中の道を回顧しています。そのように道を拓いてくださった神の導きを信じつつ、神様に期待する言葉でこの詩編が閉じられていく。神様の御業を思い起こす。そういう祈りの心がここに現れています。
苦難は、辛くて厳しいものです。この詩編作者に、具体的に何があったのかは分かりません。しかし却ってそのお陰で、この祈りは私たち誰にでも当てはまるとも言えます。私たちも苦難の中で神を求める。慰めを拒むほどの思いをも抱く。しかしその中で神の救いの御業を思い、神を求める。苦しみは神を仰ぐ中で、私たちの信仰をきよめ、神を求める心を純粋なものに練りきよめるのです。
主イエスさまは私たちの誰よりも深い嘆きと悲しみをご存じです。死ぬばかりの悲しみを魂の奥底から知っておられます。私たちに先立って祈っていてくださるお方がおられる。私たちの苦しみの日に、その事実を思い起こしましょう。

2023年7月28日金曜日

2023年7月28日の聖句

主を愛する者たちよ、悪を憎め。(詩編97:10)
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイ6:24)

久米小百合さんという歌手がおられます。かつて久保田早紀という芸名で歌った「異邦人」という曲が大ヒットしました。この方はキリスト者で、現在は音楽を通して広く福音宣教をしておられます。
2000年に日本中会の50周年記念大会という催しを行いました。日本中会の各教会の人々が一つの場所に集まって、何泊かの会をいたしました。楽しい時間でした。そのときに久米小百合さんが来て、コンサートをしてくださいました。そのときに、久保田早紀として歌っていた頃の話も少ししてくださいました。今でも時々、「あの芸能人の今」のようなテレビの企画で話題になることもある。あるいは、また異邦人を歌ってくれないかと言われることもある。しかし、基本的にはそういう仕事はすべてお断りしているそうです。今、久米さんは音楽を通して神様を宣べ伝えている。だから、もう「久保田早紀」という仕事はしない。神と富とに仕えることはできないから、とおっしゃっていました。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」主イエス・キリストのお言葉です。誰よりも豊かな神の子であるのに、私たちのために貧しくなってくださったお方の言葉です。神と富とに仕えることはできない。私たちにとって、富の魅力や力はそれだけ大きい、ということではないでしょうか。私たちの心を奪い取って離さないその力は強い。神と富とに仕えようとすると、結局は富だけに仕えることになってしまう。歴史の教会も、そういう失敗を何度も重ねてきてしまいました。私たちにも他人事ではない。
今日の旧約では「主を愛する者たちよ、悪を憎め」と言われています。二つのものに同時に仕えることはできない。一方を愛して他方を憎むか、一方を憎んで他方を愛するか、結局どちらかの道しかないのです。
久米さんがコンサートで歌ってくださった曲の中に「主我を愛す」がありました。久米さんの一つの原点のような讃美歌なのだそうです。「主我を愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。我が主イエス、我が主イエス、我が主イエス、我を愛す。」主イエスさまが私を愛してくださっている。その事実が久米さんにとってすべてなのでしょう。だからこそ、主だけを愛し、富には仕えないと決断なさったのでしょう。
今日、私たちは神と富と、どちらに仕えるのでしょうか?

2023年7月27日木曜日

2023年7月27日の聖句

わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない。(イザヤ43:11)
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)

今日の旧約聖書に出て来る「主」という言葉ですが、これは神様のお名前を表す言葉です。「わたし、このわたしが主であり」というのは、神様の自己紹介のような言葉です。この私が主だ、と神様がご自分のお名前を私たちに開示してくださっている。主と名乗るこのお方こそが私たちの救い主です。
名前は、相手と特別な関係を結ぶために必要なものです。私たちも初めて会った方と関係を結ぼうと思ったら、まず何よりも先に名を名乗ります。「宮井と申します。よろしくお願いします。」そこから関係が始まる。神様が私たちにご自身のお名前を告げるとき、そこで神様は私たちに救い主としてのご自分を示してくださいます。主と名乗り、私たちと関係を結ぼうとするこの方は、私たちを救おうとしてくださるお方です。
イエス・キリストは祈ります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」イエス・キリストを知ること、これこそが永遠の命だ。少し不思議な言葉です。永遠の命=キリストを知ること。命と知ることとはあまりにも異質で、右と左が釣り合っていないように感じます。しかし、永遠の命とはキリストを知ることだ、と主は現に言っておられてます。
それは、キリストが私たちと関係を結ぼうとする神様が遣わしてくださったお方だからです。キリストを仰ぎ、キリストによって神の愛を知るとき、私たちは既に救われている。即ち永遠の命をいただいている。キリストの愛に生かされること、それこそ永遠の命です。キリストが主として私たちを救ってくださっているのです。
今日のこの日を生きる私たちの命も、キリストが支えてくださる永遠の命です。私たちは主なるキリストと共に生きる一日を歩んでいます。主イエスさまの祝福と愛の中を歩む今日の日が既に始まっているのです。

2023年7月26日水曜日

2023年7月26日の聖句

アダムは妻と一緒に、主である神の御前を避けた。(創世記3:8)
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。(1ヨハネ4:18)

神が最初にお造りになった人とその妻は、神が準備してくださった園で、完全に満ち足りた暮らしを送りました。園の木になる実を食べ、園の管理をして働いていた。ただ、神は彼らに園の中央に生えている木の実だけは食べてはならない、と命じておられた。しかし、二人はそれを食べてしまったのです。彼らはその結果自分たちが裸であると気付き、更に、神を恐れ、神が近づいてきたことに気づいて身を隠しました。「アダムは妻と一緒に、主である神の御前を避けた。」
神を怖がり、神の御前を避けるというのは、私たちの姿そのものではないでしょうか。いや、もしかしたらもっと悪くなっているかもしれない。現代はそもそも神を無視している、ということなのかも知れません。敢えて神を避けて御前から隠れるというよりも、最初から神のことなど考えもせず、気にも留めていない。ここが神の御前なのかどうかということなど全く気にも留めていない。それがこの時代を生きる私たちの実態なのかも知れません。
そんな私たちの時代で、聖書の時代と比べても極端に忌諱され、考えないようにされているのは、死の問題だと思います。死について考えるというのは縁起が悪いと、私たちは極端に目をそらしているのではないでしょうか。
以前、私の妻は老人ホームで働いていました。主イエスへの信仰に基づいて運営される施設でした。このホームでは、入居者が亡くなると、スタッフも、他の利用者さん含めて皆で送り出していたそうです。すごいと思います。死を忌諱し、隠すのではなく、希望を持って讃美歌を歌って送り出す。復活のキリストを信じているからこそ出来る見送りだと思います。
死を前にしたとき、私たちは本当は神様に向き合わないわけにはいきません。私たちに命を与えたのも、その終わりを定めたのも、神様だからです。死を前にして神を仰ぎ、復活したキリストを賛美する信仰に生きていきたいと願います。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」私たちは人生の終わりを見つめつつ、神様を仰ぎます。エデンで食べるなと命じられていた実を食べたときのいちばんの問題は、死でした。私たちは主イエス・キリストを信じ、愛しています。キリストの愛を信じています。死んで滅ぶべき私たちをなお愛し、神の子として迎え入れ、永遠の命をくださるお方を私たちは信じている。キリストを仰ぎ、恐れることなく神の御前に生きることが出来るのです。

2023年7月25日火曜日

2023年7月25日の聖句

私は大きな会衆の中であなたに感謝をささげ、多くの群衆のもとで、あなたをたたえます。(詩編35:18)
互いに詩編と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。(エフェソ5:19)

さがみ野教会の礼拝堂は、今、三方から聖餐卓を囲む構造になっています。主イエスさまが備えてくださった食卓を囲んで、私たちは礼拝をしています。三方から囲むと、もう一方が残ります。それは、既に地上の生涯を終えた信仰者たちが着いている場所だ、という言葉を聞いたことがあります。ヨハネの黙示録を開くと、既に亡くなった聖徒たちが神を礼拝している姿が描かれている。この人たちは私たちが囲む聖餐卓の向こう側にいて、私たちと一緒に主の食卓を囲んで礼拝している、というのです。すてきなイメージです。
「私は大きな会衆の中であなたに感謝をささげ、多くの群衆のもとで、あなたをたたえます。」私たちは、神様を礼拝するとき、一つの民になります。神に感謝をささげ、神をたたえる私たちを神様はご自分の民、神の民としてくださる。礼拝をささげるとき、生きている者も死んでいる者も、神様の御前にあって賛美をささげている。
「互いに詩編と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。」ここはとても興味深い言葉で、詩編と賛歌と霊の歌を「互いに唱え」と言っています。私たちは、独りぼっちで賛歌を歌うのではありません。孤独に神を賛美するのではない。互いに歌います。共に奏でます。例え今、独りの場所で祈っていても、一人っきりで讃美歌を口ずさんでいても、私たちの周りには見えないたくさんの聖徒たちがいて、共に神を賛美している。神の御前に顔を上げるとき、私たちは神の民の一員なのです。
今日一日の私たち一人ひとりの献げる祈りを、賛美を、神が耳を傾けてお聞きくださいますように。主イエス・キリストをたたえる私たちの歌を、主が喜んで受け入れてくださいますように。

2023年7月24日月曜日

2023年7月24日の聖句

この方は私を正しい道に導かれる、御名のために。(詩編23:3)
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものはわたしを知っています。(ヨハネ10:14)

愛川町にある服部牧場に行くのが好きです。特に入場料が必要なわけでもなく、ふらっと立ち寄って、好きなように動物を見て、牧場で作っているジェラートを食べて帰って来ます。我が家の子どもたちも大好きな場所です。大抵、羊は家畜小屋から少し離れた牧草地に放牧されています。夕方が近づくと牧場の人、つまり羊飼いが羊たちを連れて家畜小屋まで導いていきます。牧羊犬が一緒に手伝っていることもあります。羊たちは無事に小屋まで帰ると、後は安全な場所で休むのでしょう。
「この方は私を正しい道に導かれる、御名のために。」
この「正しい道」というのは、道徳的に正しい道という意味ではないと思います。結果的にそういうことも含まれるのかも知れませんが、第一には、羊飼いがちゃんと世話をし、安全を確保する道、羊飼いの共にいる道。それが「正しい道」ではないでしょうか。羊飼いの加護こそが、ここで言う「正しさ」ではないでしょうか。主は、良い羊飼いとして私たちを正しい道に導いてくださいます。ご自分のお名前にかけて。
もしも服部牧場で動物を虐待していたり、ネグレクトしていたりしたら、あそこはひどい牧場だと噂が立ち、誰も信頼しなくなってしまうことでしょう。主なる神様はご自分のお名前にかけて私たちを正しい道に導いてくださる。私たちにご自分のお名前、ご自身の名誉をかけてくださいました。それほどまでに、神様は私たちをどうでもいいような相手とはせずに、大切な羊とみなしてくださったのです。
「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものはわたしを知っています。」
主は、私たちを知っていてくださいます。すべてを知って世話してくださっています。主イエスさま。この羊飼いは私たちを正しい道に導くために、ご自分のすべてを献げて良い羊飼いとなってくださいました。この方の祝福と恵みが、いつも私たちを追っているのです。

2023年7月23日日曜日

2023年7月23日の聖句

今週の聖句:
あなたがたはいまや、もう客人でもよそ者でもありません。聖なる者たちの同胞であり、神の家族です。(エフェソ2:19)

今日の聖句:
主よ、あなたは義とされたものを祝福してくだします。あなたは彼らを恵みで、盾のように覆ってくださいます。(詩編5:13)
神から生まれた人は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。(1ヨハネ5:18)

「あなたは彼らを恵みで、盾のように守ってくださいます。」恵みで、盾のように。とってもすてきな言葉です。神様の恵みが私たちを盾のように守っている。盾は、敵の攻撃から身を守るために使います。神の恵みが私たちを悪の力の侵攻から守ってくださる。なんと心強く、力に満ちた宣言なのでしょう!
この詩編では「義とされたもの」と表現している者のことを、今週の聖句として与えられているエフェソの信徒への手紙では「聖なる者たちの同胞」と呼んでいます。「日々の聖句」の編集者がドイツ語の聖書から翻訳した表現です。面白い言い方だと思います。私たちは義とされた者として、聖なる者たちの同胞として頂いている。
同胞は、同じ国民として仲間です。ですからその同胞のことを今日の新約では「神から倦まれた人」とも言います。神から生まれた同胞を守るための盾は神の恵みです。神の恵みは、神様が私たちにただでくださるプレゼントのことです。主イエス・キリストが私たちのためにしてくださったこと。キリストによって示された神の愛。この神の恵みが私たちを同胞として守っている。だから、悪い者が私たちに触れることはない。必ず神の恵みがあなたを守る、と聖書は宣言します。
今日は主の日です。主なる神様の御前に礼拝を献げます。礼拝を献げるとき、私たちは他のいつにもまさって神の恵みを知ります。キリストを仰いで礼拝を献げるからです。今日も、そしてこの一週間も、主イエス・キリストの恵みがあなたにありますように。

2023年7月22日土曜日

2023年7月22日の聖句

この方こそ主、私たちが望んでいた方。
さあ、その御救いを歓呼し、喜ぼう。(イザヤ25:9)
信仰とは望んでいることを確信すること、見えないことを疑わないことです。(ヘブライ11:1)

「この方こそ主、私たちが待ち望んでいた方。」待ち望むというのは、考えてみれば当然ですがその対象はまだ実現していないということになります。私たちは主を待ち望んでいる。言葉を換えれば、主はまだ来ておられない、ということです。更に言えば、まだ救いは完成していないということになる。
まだ救いは完成していないというのは、私たちは誰もが知っている。この世界には今もなお苦しみがあり、悪がはびこり、世は罪や死の力に覆われている。ですから、使徒パウロもコリントに宛てた手紙の最後のところにこのように書きました。「主よ、来たりませ(一コリ16:22)。」主イエスさまが早く来てくださって私たちを救ってくださいと祈るしかない。それが私たちの生きるこの世界ではないでしょうか。
私たちは主を待ち望んでいます。主イエスさまが来て、救いを完成してくださる時を待ち望んでいます。使徒信条には「(主イエスが)そこからこられて、生きている者と死んでいる者とを裁かれます」と告白されています。必ず主イエスが来て、私たちを救ってくださるという信仰が表明されている。
この使徒信条の言葉にいかなる慰めがあるのかということについて、ハイデルベルク信仰問答はこのように告白しています。「わたしが、あらゆる患難や迫害の中にも、頭を挙げて、この審判者を待ち望むことが出来るためであります。主は、わたしのために、すでに、神のさばきに対して、ご自身を与え、すべての呪いを、わたしから取り除いてくださり、また主とわたしのすべての敵を、永遠の罰の中に、投げ入れ、しかも、わたしは、すべての選ばれた者らとともに、御許に召し天の喜びと栄光のうちに、入れてくださるのであります。」
私たちは主イエス・キリストを待ち望んでいます。この方の完成してくださる救いを待ち望んで、今この時を生きています。頭を、目を上げて、主イエス・キリストを待ち望みましょう。そして喜びをもってこのお方の前に、今日の日も生きていきましょう。

2023年7月21日金曜日

2023年7月21日の聖句

トランペットとシンバルと弦楽器の音が上がり、「主は恵み深く、この方の慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、主の栄光が神の家に満ちた。(歴代誌下5:13,24)
聖なる都、新しいエルサレムはそこに現れる太陽も月もいらない。神の栄光が都を照らし、その明かりは小羊だからである。(黙示録21:2,23)

ヨハネの黙示録が伝える救いの完成のイメージは、新しい天と新しい地に聖なる都、新しいエルサレムが降って来る、という壮大なものです。エルサレム。それは、旧約以来の王の都であり、信仰と礼拝の中心です。私たちの真の王イエスが私たちを治め、神をあがめる礼拝が完全なものとなる。
主イエスご自身はこの救いの姿を「神の国」とおっしゃいました。ヘブライ人の手紙では「天の故郷」と呼びます。主イエス・キリストは私たちを神のものとし、私たちをこの新しいエルサレム、聖なる都に迎え入れてくださいます。
この都には、暗闇がありません。影がない。神の小羊キリストが私たちの明かりとなって私たちを照らしてくださるからです。
私たちを取り巻いているこの世界は暗闇に包まれています。イザヤ書に「見よ、闇が地を覆い、密雲が諸国の民を包む(60:2)」という言葉があります。この世界は罪と悪の力に覆われているかのようです。「分断」という言葉がこの世界を支配しています。戦争は悪化し、あるいは広がり、憎しみがわが物顔でふるまっています。なぜ、平和が実現しないのでしょうか?私たち一人ひとりの心だけではどうしようもないような強い力が働いているかのようです。権力とマネーががっちりと結びつき、システムは非人間的に人間を虐げ、私たちは思いやりを失ってしまった。
しかし、キリストという明かりが私たちを照らさなかった時代はないのです。キリストという明かりは、私たちの闇がどんなに暗くてもかき消されてしまうことがありません。どのようなときにも私たちを照らし、私たちの希望であり続けるのです。だから私たちは神を賛美します。「主は恵み深く、この方の慈しみはとこしえに!」キリストという明かりこそが私たちの望みであり、救いであり、愛であるからです。この明かりの中に、私たちの今日一日は営まれていくのです。

2023年7月20日木曜日

2023年7月20日の聖句

神にこそ、私の救いと栄光はある。(詩編62:8)
イエスは女に言われた。「我が娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ8:48)

主なる神様こそが私を救ってくださるお方。今日私たちに与えられているこの詩編の祈りの言葉を最初に口にした人の時代も、今も、私たちは同じ神様を信じています。神を信じ、神を仰いで、無数の人々が祈りを捧げました。「神にこそ、私の救いと栄光はある。」この神を仰ぎ、救いを求め、祈りをささげて、数え切れないほどのたくさんの人々が生きてきました。私たちも、その歴史の一番最後のところで、今、同じ神様を仰いでいます。神様に祈るとき、私たちは孤独ではありません。神を求める無数の証人たちの群れに囲まれています。私たちも、世々の信仰者たちと同じ神様に祈っています。
この方は、私たちを「我が娘よ、我が息子よ」と呼んでくださるお方です。神様は私たちを他人とはなさらずに、ご自分の子どもと呼んで、受け入れてくださいます。私たちがどのようなものであろうと、主なる神様は私たちをご自分の娘、息子としてみ声をかけてくださいます。
しかも、その言葉は救いの言葉です。呪いの言葉ではありません。叱責の言葉ではありません。主イエスさまは宣言してくださいます。「あなたの信仰があなたを救った。」あなたの信仰、とおっしゃいます。「あなたの信仰」と主イエスさまに言って頂けるようなものが私の中にあるのでしょうか?ないのです。まったくない。そもそも、自分の内をいくら見つめても、見出しようがないのです。主イエスが私の内に信仰を生み出し、発見し、「あなたの信仰」と呼んでくださる。ですから、私たちは主イエスの御言葉に従って、大胆に「私の信仰」を信じ、主イエスさまが告げてくださる救いを受け止めて良いのです。主イエス・キリストは、この私をも信仰によって救ってくださった!
「安心して行きなさい。」これこそ、今日、主イエス・キリストが私たちを送り出す福音の言葉、救いの言葉です。今日一日の歩みに、私たちは安心して出て行くことが出来る。
キリストの福音の宣言を受けて、私たちの新しい一日が始まります。
キリストに、賛美。

2023年7月19日水曜日

2023年7月19日の聖句

神よ、あなたの群れを心に留めてください。彼らは、あなたがかつて買い取られ、ご自分の嗣業とされたのです。(詩編74:2)
(イエスの言葉)二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。(マタイ18:20)

二人または三人が主イエス・キリストの御名によって集まるところ、そこには主イエスご自身がいてくださる。なぜなら、キリストのお名前によって集まる二人または三人というのは、主ご自身が買い取り、ご自分の嗣業としてくださったものたちに他ならないからです。キリストはご自分の民の内にいてくださるお方です。
今日の新約聖書の御言葉が伝えられているマタイによる福音書第18章を読むと、この章は一貫した主題を持っていることに気づきます。教会の誰かが罪を犯したとき、その人をどうしたら良いのかということを巡る主イエスの言葉がいくつも連ねられている。この章はそういう箇所のようです。
今日の御言葉も、教会の誰かが自分に対して罪を犯したとき、その人に対して一体どうしたら良いのかということを主イエスが教えてくださっています。その文脈の中で「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」と続いています。即ち、ここでは明らかに、主イエスのお名前で集まるというのは、教会で罪を犯してしまった人のために祈る者たちのことを指しています。過ちに陥ってしまったある人のために祈る二人または三人。その祈りには主イエスご自身が伴ってくださっている、という約束です。
神ご自身が買い取り、ご自分の嗣業の民としてくださった私たちは、一人の罪人のために祈る群れです。私も、そうして祈って頂いて、救いに入れられました。私たちも同じように祈る。主イエスのお名前によって。主イエスの憐れみにすがって、共に一人の罪人として私たちも祈ります。ここにキリストがいてくださるから。私たちはキリストの寛大な御心、その慈悲によって、神の憐れみによって救われただけの罪人です。私たちはただただ赦された罪人として祈るだけです。キリストご自身がこの祈りに伴っていてくださることを、ただ信じて。

2023年7月18日火曜日

2023年7月18日の聖句

その御業の故に神を賛美せよ。その大きな御力にふさわしく神を賛美せよ。(詩編150:2)
神の見えない本質、それはこの方の永遠の力と神性ですが、世界の創造以来、被造物から見て知ることができます。(ローマ1:20)

神の永遠の力と神性、つまり神の見えない本質は、創造以来、被造物から見て取ることが出来た、と聖書は言います。神がお造りになったこの世界を通して、あるいは神がお働きになる場である歴史を通して、神はご自身を示してこられた。私たちにご自分を証しし、ご自身の御心を私たちに示してこられた。
確かにそう言われると、私たちも、想像を超えるような大自然の中に入り込んだとき、人間の力を遙かに超えた大自然の力を思い知らされたとき、あるいは人間の知恵を超えたような歴史の不思議な巡り合わせを知ったとき、そのようなときに神の偉大な力や大いなる計画を思うことがあるのではないでしょうか。
しかし本当の問題は、その先にあると思います。自然の事物や歴史の出来事を見て、何らかの神秘的な思いに浸ることがあったとして、私たちはそこでまことの神をあがめ、感謝し、あるいは従おうとしてきたのでしょうか。神様はご自分を世界の創造以来、被造物の内に示してこられた。すべての人は神をすることが出来たはずです。しかし、私たち人類はそれに応じて神をあがめて生きてきたのか。却ってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなってきていたのではないか。そこが問題の急所です。
主イエス・キリストは、あますところなく神の御心を明らかにしてくださいました。はっきりと、十全に。しかし、キリストが神の御心を私たちに示してくださったときに私たちがしたことは、「そんな神など要らない」と言って、この方を十字架にかけて殺すということでした。結局私たちはどのようなかたちであれ、神の御心を知らされ、神がご自身を示してくださったときに、神を拒み、無視し、あるいは殺してしまってきたのではないでしょうか。
だからこそ、キリストの復活は私たちのそのような罪を凌駕する神の福音の出来事そのものです。私たちの悪や罪を乗り越えて、神がなおご自身の御心を貫いてくださっていることの徴です。
「その御業の故に神を賛美せよ。その大きな御力にふさわしく神を賛美せよ。」アーメン!

2023年7月17日月曜日

2023年7月17日の聖句

私が、戒めの多くをさらに加えて書けば、彼らは関わりのない教えのようにやり過ごす。(ホセア8:12)
(イエスの言葉)そこで私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(マタイ7:24)

主イエス・キリストの言葉を聞き、それを行うものは「賢い人」と主イエスはおっしゃいます。しかしそれは岩の上に自分の家を建てるようなもの。即ち、簡単ではないということではないでしょうか。砂の上に家を建てるならば簡単です。地面を掘るのも簡単ですし、土台を据えてそれらしく造り上げるのは楽な作業でしょう。しかし、岩をうがち、しっかりとした土台を築き上げるのは簡単なことではありません。主イエスの御言葉を聞き、それを行うのは、岩の上に家を建てるようなもの。私たちにとってそれは決して簡単ではないし、苦労することです。主イエスはそのことをよく知っておられる。
そういう私たちの気持ちを、今日の旧約では「やり過ごす」と表現しています。絶妙な言い方だと思います。神様が何をおっしゃっても、主イエスがなんとおっしゃっていても、なんとなくやり過ごしてしまう。向き合おうとしない、真剣に聞こうとしない。そういう気持ちがありありと暴かれてしまう言葉です。
ナチに抵抗して生きた牧師ボンヘッファーは、このことを安価な恵みと高価な恵みという言葉で言い表しました。安価な恵み、それは「見切り品としての恵みのことであり、投げ売りされた赦し・慰め・聖礼典のことである」と言います。そして「安価な恵みとは罪の義認のことであって、罪人の義認のことではない。しかも、恵みがすべてのことをひとりですなすために、すべてのものが依然として旧態にとどまることができる」と厳しく指摘します。それに対して高価な恵みは「服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである。それは、人間の生命をかける値打ちがするゆえに高価であり、またそうすることによって人間にとって初めて贈り物として与えるがゆえに恵みである。それは、罪を罰するがゆえに高価であり、罪人を義とするがゆえに恵みである。」
私たちはキリストに従う恵みに招かれています。神の愛を決まり文句のように聞き、自分は変わろうとしないならば、恵みを安っぽいものにしてしまっている。値高く、キリストご自身の命の価値を神の恵みに見るならば、私たちはその愛に応えてこの方に服従しないわけにはいかない。そしてそれは恵みである以上、喜びへの招きに他ならないのです。

2023年7月16日日曜日

2023年7月16日の聖句

今週の聖句:
だが今、主はこう言われる。
ヤコブよ、あなたを創造した方、
イスラエルよ、あなたを形づくった方が。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたは、わたしのもの。」(イザヤ書43:1)

今日の聖句:
主なる神はすべての顔の涙を拭き取ってくださる。(イザヤ書25:8)
(イエスの言葉)しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。(ヨハネ16:20)

今週の聖句の「わたしがあなたを贖った」の「贖う」という動詞は、買い戻すという意味を持ちます。奴隷になってしまったものを買い戻して再び自由にする、家族として戻すといった意味合いで使われます。神様が私たちを贖ったというのは、神様が私たちをご自分の家族として買い戻してくださったということになります。
主なる神様は、私たちの家族として、私たちの涙を流す顔を拭い、私たちの目から溢れてくる涙を乾かしてくださいます。この究極の慰めが私たちの前にある。私たちの目の涙をことごとく拭い、私たちの悲しみを喜びに変えてくださるのは主イエス・キリストであり、その父であるお方です。
私たちは今日、日曜日を迎えました。主の日を迎えました。私たちは神様を礼拝し、神様の御前に新しい一週間の日々を始めていきます。主イエスさまが私たちと共にいてくださいます。ここに慰めがある。ここに私たちの目の涙を乾かす喜びがある。私たちはキリストを仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、神が主イエス・キリストにあって私たちにしてくださったことに生かされて、新しい日々の歩みに進み出ていきます。

2023年7月15日土曜日

2023年7月15日の聖句

神は、わたしの苦しみとわたしの骨折りを目に留められました。(創世記31:42)
(パウロの手紙)主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(1コリント15:58)

「自分たちの苦労が決して無駄にならない」。なんとありがたい言葉でしょう!私たちは誰もが毎日苦労しています。人目につかず、人知れず、それぞれに負うべき重荷があり、苦労があり、生きるだけでもたいへんなことです。しかし、それらは決して無駄にならない。ただ、パウロは「主に結ばれているならば」と言います。単にどんな苦労にも意味があるというのではない。主に結ばれた苦労は無題にならない、と言っています。
それでは、主に結ばれるとは何を意味しているのか。ここはギリシア語で書かれた元の言葉では、単に「主の内に」と表現しています。主の内にある苦労は決して無駄にならない。私たちの生の営みは、主の内にあるのでしょうか、それとも外にあるのでしょうか。主イエスさまと無関係のところで生きているのでしょうか、それとも生活のあらゆる場面で主イエスさまを見上げて生きているのでしょうか。もしも私たちがキリストを仰ぎつつ毎日を生きているのだとしたら、そこにある苦労は主の内にあるのではないでしょうか。
キリストは私たちが毎日を生きていくために何をしてくださったのか?主イエスはそのためにこそ、私たちの罪の重荷を負って十字架にかけられたのではないでしょうか。私たちの毎日の生活をご自分の内に取り戻すために、主イエスはご自身のすべてを献げて十字架の重荷を負ってくださったのではないでしょうか。
主の内にある苦労。それは、主キリストが私のためにしてくださったように、私もまた他者のために重荷を負うというところにいちばんはっきりと現れます。その苦労は、例えそれが無駄に見えるようなことがあったとしても、骨折り損としか見えなかったとしても、決して無駄にはならない。キリストにあって!
「神は、わたしの苦しみとわたしの骨折りを目に留められました」と聖書は言います。神が知っていてくださいます。私たちのすべてを。私たちの人知れない、誰も観ていないところでするすべての苦労を、神ご自身が知り、御心に留めてくださっている。それがいちばん大切なことではないでしょうか。

2023年7月14日金曜日

2023年7月14日の聖句

あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。(申命記14:2)
あなたがたは皆、光の子、昼の子だからです。私たちは夜にも闇にも属していません。(1テサロニケ5:5)

聖書には、しようとしていることがあります。聖書は私たちに向かって何かをしようとしている。それは、主イエス・キリストという福音を宣言することです。今日の御言葉はまさにそうだと思います。
「あなたがたは皆、光の子、昼の子だからです。私たちは夜にも闇にも属していません。」
こんなにも明るい、光の言葉があるでしょうか。「あなたがたは皆、光の子、昼の子」だと聖書は言います。一切説明しようとはしない。光の子について、昼の子について、の話ではありません。聖書は宣言する。あなたがたは光の子です!あなたがたは昼の子です!そうであるからには、私たちには夜がない。私たちには闇がない。
うっかりすると留保を付けたくなります。現実には私には夜の闇としか言いようのない実態がある。聖書はそう言うかも知れないけど、実際には・・・。しかし、聖書はそんな言い訳なんて許容しようとはしないのです。あなたがたは皆、光の子、昼の子!これは聖書の宣言です。だから私たちに必要なのは、聖書の告げるこの福音の言葉を信じることです。信仰をもって、私もまた光の子にして頂いているという事実を受け入れることです。私はもはや夜の闇に属していないと信じることです。
あるいは、今日の旧約の御言葉も同じように宣言します。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」いやいや、私は「聖」などとはほど遠い・・・というのは、もはや不信仰の言葉以外の何ものでもない。神が「あなたは聖なる民」と宣言してくださっている。だから私たちは、自分の感覚ではなく神の宣言を信じます。神はこんな私をもご自分の宝と言ってくださっている。ですから私たちはその神様の福音宣言を信じるだけです。
今日一日の私たちの歩みを光の子の歩み、聖なる民、神の宝としてくださっているのは神様ご自身。その神様の祝福を信じ、今日の日を歩んでいきましょう。

2023年7月13日木曜日

2023年7月13日の聖句

ルベンは兄弟たちに言った。「血を流してはいけない。」(創世記37:22)
互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。(1テサロニケ5:15)

ルベンはヤコブの12人の息子たちの長男です。この兄弟の下から二番目の息子の名前はヨセフでした。ヤコブには二人の妻と二人の側女がいましたが、一番愛していた妻ラケルの最初の子がヨセフでした。ヤコブはヨセフを特別扱いしていましたので、兄弟たちの妬みを買い、ヨセフは憎まれ、あるとき、殺されそうになってしまいました。兄たちがヨセフを殺して穴に放り込んで、後は獣にでも食われたと父に報告しておこう、と相談していた。そのとき、長男ルベンは言いました。「血を流してはいけない。」更に言います。「荒れ野のこの穴に投げ込めよい。彼に手を下してはならない。」そうしてルベンは弟を救い出してやり、後で父のもとへ返そうと考えていたのです。
ルベンもヨセフのことは嫌いだったのだと思います。しかし、血を分けた兄弟を殺めることはせず、その命を助けてやりたいと願い、弟たちをいさめた。ただ、ルベンが見せたのは消極的な善です。あの弟のことも大切にしてやろう、無事に家に帰してやろう、とまでは言えなかった。この辺りが、とてもリアリティのある話だと思います。ルベンも私たちの一人であるように思います。私たちもそれほど積極的な善に生きられているわけではない。悪いことはしたくないが、積極的に善を行うこともなかなか出来ない。消極的に、できるだけ悪を行わないように・・・。
今日の新約聖書は私たちに言います。「互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」私たちが善を行うことが出来るのだとしたら、やはりそれは、主イエスさまの愛からしか始まらないのではないでしょうか。このような私に主イエスがどんなに良くしてくださったのか。ただその事実が私たちを善へと向かわせます。キリストの愛に少しでもお答えしたい。その思いが私たちを新しくする。そう信じます。
今日も主イエスさまのしてくださった一つひとつの良い業が私たちを導き、私たちの心も思いも行動も聖めてくださいますように。愛することにおいて、積極的にならせてくださいますように。

2023年7月12日水曜日

2023年7月12日の聖句

主よ、あなたの民を大切にしてください。そしてあなたの嗣業を辱めなさいでください。(ヨエル2:17)
キリストは私たちのためにご自身をお与えになり、それにより、私たちをすべての不義から解かれ、良い業に熱心であるような民をご自分のものへと清められました。(テトス2:14)

今日の旧約に「嗣業」という言葉があります。エジプトを出て40年の旅をした神の民は、約束の地に入ったときに、部族毎に土地の割り当てを受けました。神が与えてくださったその土地を「嗣業の地」と呼びます。神が与えてくださり、先祖代々大切に継ぐべき地です。ところがここでは、土地ではなく神の民を「嗣業」、しかも「あなたの嗣業」と言っています。神の民、それは神様ご自身の割り当てだと言うのです。大胆な言葉です。そして、恵みに満ちた言葉です。
思えば「キリスト者」という言葉も同じ響きを立てています。私たちはキリスト者。キリストのもの。キリストご自身のもの。キリストは私たちのために「ご自身をお与えになり」、私たちをご自分のものとしてくださいました。私たちはキリストのもの、キリスト者と呼ばれます。
キリストは私たちをすべての不義から解いてご自分のものとしてくださった、だから私たちは良い業に熱心になることが出来る、と言っています。
すごく厳しい親に育てられた子どもが、やがて成長して親に反発し、反動的に正反対の生活をするということがあります。ゲームをしたりテレビを観たりすることを妨げられていたことに反発してのめり込む。厳格な親に反発して性的に放銃になる。・・・。一見すると親の支配から離れて自由になったようにも見えますが、本当は非常に不自由です。親に抑圧されてきたのと同じフレームワークでしか物事を捉えておらず、その反発というかたちでしか自分を表現出来ていません。本当に自由になるためには、親の抑圧と全く違う枠組みで人生を捉え直すということが必要です。
主イエスは「不義」に抑圧されていた私たちを自由にしてくださいました。そして「良い業」に生きる自由を与えてくださった。不義を基準にして物事を考えるのを止めています。新しい、キリスト者の自由による業に生きはじめている。自由の枠組みそのものが変わったのです。それは神の嗣業として自分を新しく発見し直し、自分という存在の根底が変わったということです。不義は「自分の思い通り」と見せかけて実のところ私たちを不自由にします。しかし神にある良い業は不義からの反動ではなく、キリストの愛や憐れみ、それがもたらす喜びへの応答です。キリストは私たちを自由にします。私たちを神のもの、キリストのものとして、本当に自分らしく生かしてくださるのは、主イエス・キリストなのです。

2023年7月11日火曜日

2023年7月11日の聖句

人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだと私は悟った。それが人間にふさわしい分である。(コヘレト3:22)
ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。(コロサイ3:17)

コヘレトの言葉は、聖書の中でも他に類を見ない独自の輝きを放っています。神に与えられた人生の今この時をしっかりと楽しむことを肯定する言葉が散りばめられています。「自分の業によって楽しみを得る」ことを人間にとっての最大の幸福だ、と言っている。「聖書」と言ったときにイメージする言葉とは少し違うのではないでしょうか。そうであるからこそ、コヘレトの言葉が与えられていることは、私たちにとってはかけがえのない宝だと思います。
楽しみを得ると言ったときに、コヘレトは「自分の業によって」と言います。他人に甘えたり依存したりして、人任せの楽しみを喜ぶというのではない。ちゃんと自分で働き、自分自身の業で楽しめ、と言います。自分の人生に自分で責任をもつ、ということを意味しているのだと思います。(ですから、ここでは看病や介護が必要な場面の話をしているのではありません。)
自分でしっかり働いて、人生を楽しむ。コヘレトの言葉が編纂されたと思われる時代、海の向こうにはギリシア文化が花開いていました。ギリシアの哲学者たちの殆どは、自由な身分の者たちです。彼らの生活は奴隷が支えていました。奴隷が労働し、自由人たちはその成果によって生きていたようです。ところがコヘレトは自分の業によって人生を楽しむことこそが幸福な生き方だ、と言う。働くことには意味がある。仕事には聖なる価値がある。聖書はそう言うのです。
だからこそ、今日与えられている新約では神への感謝と、「すべてを主イエスの名において行いなさい」と言っているのです。私たちのすることやなすことに、神様と無関係の領域はない。すべてが神を信じるということのなかで大切な意味を持っている。キリストは私たちの小さな手仕事の中にも共にいてくださるのです。

2023年7月10日月曜日

2023年7月10日の聖句

来たれ。ひれ伏し、膝をかがめよう。
私たちを造られた方、主の御前にひざまずこう。(詩編95:6)
どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。(1テモテ1:17)

改革者カルヴァンは、私たちの人生の目的は、神をあがめるために神を知ることだ、と言います。私たちは神を礼拝するために生きている。生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声も、神を賛美している。臨終の床に就き、弱る呼吸も神を賛美しています。私たちは神を礼拝するために、神をあがめるために生きているのです。私たちを造り、命を与え、私たちを治める神の国の王キリストを私たちはあがめている。神様の御前にひれ伏すとき、私たちは本当に私らしくなるのです。
聖書は神様を「世々の王」と呼んでいます。世々というのは、幾世代も続くことという意味です。もっと神様に即して言えば、永遠の王、ということでしょうか。神様は私たちを永遠に治める王でいらっしゃる。
主イエス・キリストが人々から王と呼ばれたのは、十字架の上でのことでした。主イエスの頭の上に貼り付けられた罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれていました。茨の冠をかぶせられ、兵士からは「王様、万歳」と言って侮辱されました。罵られながら、主イエスは「王」と呼ばれて十字架に挙げられました。
私たちを治める永遠の王は、十字架にかけられたお方です。十字架の上でこそ、私たちの真の王とは一体どなたなのかが明らかになったのです。私たちは十字架にかけられた方に治められている。へりくだり、私たちの罪を負う方を、私たちは王とお呼びしている。それは忘れてはならない事実です。
「どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。」私たちは十字架にかけられた方の御前に、このようにいってひれ伏す。唯一の神であり、朽ちることのない永遠の王。あなたにこそ、誉れと栄光がありますように!キリストを賛美することこそが私たちの最高の幸せだからです。

2023年7月9日日曜日

2023年7月9日の聖句

今週の聖句:
あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)

今日の聖句:
その群れは私の前に堅く建てられる。(エレミヤ30:20)
(パウロの手紙)そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにしてわたしの喜びを満たしてください。(フィリピ2:1~2)

「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」と使徒パウロは言います。主イエス・キリストが与えてくださる慈しみや憐れみに信頼して、使徒は私たちに語りかけます。
今日の聖句と合わせて今週の聖句も読みました。「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。」私たちをご自分の恵みによって救ってくださった神様。この神様からの賜物、プレゼントは神様の慈しみや憐れみに他ならない。すべてはキリストの与えてくださったものによって始まりました。私たちはただただキリストにいただいて生きているだけです。キリストの憐れみが、慈しみが、私たちを生かしてくださる。
そのときに起こるのは、パウロが「思いを一つにして」と言っているとおり、教会が生まれることです。神の恵みをいただき、それに生かされる群れ、教会。「その群れは私の前に堅く建てられる。」神様ご自身が建ててくださる。神様が私たちに憐れみの心を震わせて、私たちを立たせてくださる。教会は、そういう神様の憐れみによってだけ存在する共同体です。
今日、私たちはキリストの慈しみに招かれています。キリストの憐れみを共に頂く群れに、私たちは今日呼び出されています。

2023年7月8日土曜日

2023年7月8日の聖句

義しいものを思い起こすことは、祝福の中に留まることである。(箴言10:7)
あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣うものとなってほしいのです。(ヘブライ6:12)

私たちが「約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣うもの」になるということは、私たちが怠け者にならないということだ、と聖書は言います。
約束されたものを受け継ぐ人たち。神が約束してくださったものを信じ、そこを目指して生きていく。旧約が伝える信仰の民は、エジプトを出て、神が約束してくださった地を目指して旅をしました。その旅が始まったばかりの頃に、ある事件が起きました。約束の地がどのような場所なのか、斥候を遣わして偵察させようと、12人を選んで送り出した。帰って来た斥候たちの話を聞いて、民は意気消沈してしまいました。そこは確かによい土地であるが、住んでいる人々は強く、とても敵いやしないと絶望してしまったのです。彼らは神の約束を信じることなく、自分たちの状況判断に頼り、信仰から外れてしまいました。この事件に対する裁きとして、この民は40年間も荒れ野を旅することになった。ですから荒れ野の40年は、神の約束してくださったものを受け継ぐということをもう一度ゼロから、徹底して、身をもって教えられる日々でした。
約束されたものを受け継ぐというのは、忍耐が必要なことです。目に見える状況は、神様の約束と矛盾するからです。だからこそ、信仰の眼をひらかれることがなければ、私たちが神様の約束に生きることはできないのです。
怠惰というのは、本来あるべき私ではなくなっているということではないでしょうか。私が私らしさを失っている。神様に造られたものとしての人間らしさを失っている。神様の約束に生きることこそ、本来の人間らしさですし、私らしさであるはずです。私らしく、人間らしく生きるために、主よ、信仰と忍耐をお与えください。私たちはそう祈ります。神の約束は主イエス・キリストにある恵みと平和に他ならない、輝く尊い宝だからです。

2023年7月7日金曜日

2023年7月7日の聖句

あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。(詩編90:8)
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します。(マタイ6:12)

神様の御前に、私たちの罪を隠すことなど出来ない。それは、考えてみれば当然であるかも知れません。しかし、私たちはあまり当然とは思っていないのではないでしょうか。
アダムとエヴァが神から取って食べるなと命じられた木の実を蛇に唆されて食べてしまったときのこと、彼らは主なる神様が園の中を歩き回る音を聞いて木の間に身を隠しました。この夫婦の息子カインが弟アベルを殺してしまったとき、彼は激しく怒って顔を伏せました。何かの陰に身を隠したり、顔をそむけたり。私たちはつい自分の罪や過ちを神様から隠しおおせると子どものように思い込んでしまいますが、本当はそのようなことは出来ません。
「あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。」
これは、恐ろしい言葉のように感じます。しかし、本当はそうではないと思います。私たちは神様の御顔の光の中にいる。私たちが暗闇の中に自分を隠しおおせると思い込むとき、私たち自身も暗闇の中に身を浸している。しかし、神様はご自分の光で私たちを照らしている。私たちの罪が本当に明らかになるのは、神様の御顔の光の中だけなのです。
主イエス・キリストはこう祈ることを教えてくださいました。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します。」私たちの負い目をお赦しください、と私たちに祈るように教えてくださったのは、私たちの罪のために十字架にかけられたお方です。このお方が教えてくださったからこそ、「赦してください」という祈りは神の恵みの輝く祈りの言葉です。こう祈るように教えてくださった方は、私たちの罪を赦すためにご自身を献げてくださったのです。私たちはキリストの御顔の光の中でこそ、初めて自分の罪を知ります。
そしてこのキリストの光の中で、神様は私たちに他者の罪とどのように向き合うのか、と問うておられるのです。

2023年7月6日木曜日

2023年7月6日の聖句

あなたにお会いしたいです。私の神よ、あなたに望みます。どうか私が壊れないようにしてください。(詩編90:8)
ザアカイは、イエスがどんな方なのかを見ようと望んだ。(ルカ19:3)

「あなたにお会いしたいです。」なんと情熱的な愛の告白でしょう。神さま、あなたにお会いしたいです。これは私たちの思いです。神さまに、会いたい。
詩人の八木重吉は「神様 あなたに会いたくなった」という短い詩を残しています。一つひとつの言葉に自身の存在をかけたこの詩人は「あなたに会いたくなった」というこの短いひと言に、どんな思いを込めつつ神様を呼んだのでしょうか。これは、私たちの思いです。神さまに、会いたい。
そうやって神様を呼び求めつつ、この詩編作者は言います。「あなたにお会いしたいです。私の神よ、あなたに望みます。どうか私が壊れないようにしてください。」この詩編の情熱の背後にあるものが垣間見えます。「私の神よ、あなたに望みます。どうか私が壊れないようにしてください。」この一人の信仰者は、今、壊れてしまいそうになっている。何があったのでしょうか。何らかの人間関係における圧迫があったのか。あるいは、病や老いなどを覚えていたのか。それとも、偶発的なトラブルに巻き込まれたのか。家族に傷を抱えていたのかも知れないし、子育てや介護に疲れたのかも知れません。いずれにしても、そのような中で自分が壊れてしまいそうになったとき、この人は神様を呼びます。「あなたにお会いしたいです。私の神よ、あなたに望みます。どうか私が壊れないようにしてください。」
今日の新約聖書はザアカイの姿を伝えています。徴税人であったザアカイ。背が低かったザアカイ。イエスを見たい。そう願いましたが、群衆に阻まれて出来なかったザアカイ。彼は木に登って、なんとかイエスを一目見ようと試みます。そうでないと、自分が壊れてしまうからではないでしょうか。神様に会いたくなったのではないでしょうか。
しかしザアカイが木に登ってイエスを見物したときに知ったことは、本当は自分がイエスを見たいと思うよりも先に、イエスが自分と会いたいと願っていてくださって、イエスが私を捜していてくださった、という事実でした。私たちは、神様に会いたい。しかしそれよりも前から、そして私たちが願うのよりももっと強く、深く、神様ご自身が私たちと会いたいと願っていてくださるのです。

2023年7月5日水曜日

2023年7月5日の聖句

主である私は変わることがない。(マラキ3:6)
主のあわれみは、代々にわたって、主を恐れる者に及びます。(ルカ1:50)

神さまは永遠で不変の方、と言われます。その通りです。ただしそれは、学者たちが書斎で考え出したお勉強の話ではありません。およそ神と呼ばれる存在であるならば永遠だろう、不変だろう、ということではないのです。「主である私は変わることがない」というのは、もっと信仰生活に密着した、私たちにとってのかけがえのない話です。
そのことについて、今日の新約の御言葉はこのように言います。「主のあわれみは、代々にわたって、主を恐れる者に及びます。」神さまは永遠に変わることのないお方。それは、神さまの私たちへのあわれみが変わらないということです。神さまが私たちを愛してくださっている事実において変わることはない、ということです。神さまの私への愛は決して変わってしまったり、移ろってしまったりすることがない。そういう、神の愛への信頼の言葉です。
私たちは、そうではありません。私たちは不完全だし、すぐに変わってしまいます。ほんの一時、篤い慈しみの心が沸き立つことがあっても、すぐにその思いは冷めてしまいがちです。相手に冷たくされたり、自分の愛にちっとも応えてくれなかったりすると、私たちはすぐに愛することを諦めてしまいます。しかし、神さまはそうではない。私たちが誠実でなくても、神さまは真実でいらっしゃいます。神さまにはご自分を偽ることがお出来にならないからです。キリストは、昨日も今日も、そして永遠に変わることのないお方です。キリストに示された神の愛は何よりも強く、私たちを神の子として離すことがないのです。私たちはキリストの真実に捕らえられ、キリストの真実に生かされ、神の愛によって命を与えられている。その事実は、私たちの命や存在を超えて確かです。主イエス・キリストの永遠で、変わることのない祝福が、今日も私たちを包んでいます。

2023年7月4日火曜日

2023年7月4日の聖句

志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。(イザヤ26:3)
私たちを、あなたがたと一緒にキリストにあって堅くしてくださったのは、神なのです。(2コリント1:21)

私はあまり根気もないし根性にも乏しいので、「志の堅固な者」と言われると、正直言って怯んでしまうところがあります。堅固ではないし、そもそも志も大して高くもないなと言わざるを得ない。しかし今日の新約の御言葉ではこのように言われています。「私たちを、あなたがたと一緒にキリストにあって堅くしてくださったのは、神なのです。」この御言葉によれば、私たちを堅くしてくださるのは神さまです。しかも、「キリストにあって堅く」してくださる、と言います。そうであるならば、普通の根気や根性とはちょっと違う話をしているということなのかも知れません。
主イエス・キリストにあって、神が私たちを堅くしてくださった。ヨハネの黙示録の中にこのような御言葉があります。「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。だから、地上に住む人々を試すため全世界に迫り来る試練の時に、私もあなたを守ろう。私はすぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。勝利を得る者を、私の神の神殿の柱としよう。(3:10~11)」
ここでの忍耐は、信仰を守る忍耐、主イエス・キリストを信じる忍耐です。キリストにあって堅くされるとは、何にでも良いから根気や根性を発揮するということではなく、キリストを愛する忍耐ということでしょう。しかもその忍耐は神ご自身が備えてくださる。神が私たちをキリストにあって堅くしてくださる。そして、その忍耐に生きる者を神がご自分の神殿の柱としてくださる。もう二度とその外に出ることはない。とこしえに神と共にいさせて頂く。神が堅くしてくださっているからです。
私たちはキリストを信じるということにおいて、時に忍耐が必要になることがある。しかしそれはキリストご自身が備えてくださる忍耐です。キリストの慈しみと恵み、そしてそれへの私たちの喜びが生み出す忍耐です。今日、キリストが私たちの内にキリストへの愛を豊かにしてくださいますように。そのために、私たちの目を十字架にかけられたキリストへと向けさせてくださいますように。

2023年7月3日月曜日

2023年7月3日の聖句

わがたましいよ
主をほめたたえよ。
主が良くしてくださったことを
何一つ忘れるな。(詩編103:2)
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(1テサロニケ5:18)

主がよくしてくださったこと。
それが私たちの過去です。主が私に命を与え、選び分かち、こんな私のためにキリストをくださった。キリストは私のために十字架にかかり、私の罪のために苦しんでくださった。主イエス・キリストに示された神の愛が私を今生かしている。主が良くしてくださったこと。その事実のお陰で、今私は在るを得ている。
主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな、と詩編は言います。しかも「わがたましいよ」と言う。自分の魂、内奥の深みに言い聞かせます。神がしてくださったことを心に刻め。神が示してくださった愛を何一つ忘れるな。私たちの原点は、神がしてくださった一つひとつの良いこと。主イエス・キリストは優しい方です。愛に満ちた方です。私たちは今日この日を主イエスさまへの愛をもって生きていきましょう。
昨日は私たちの教会にとって特別な一日でした。一人の友に洗礼が授けられ、主イエス・キリストにあって一人の姉妹としての新しい命に生かされている、その徴が付けられました。あなたにも付けられている徴。キリストの愛の刻印。神がしてくださった良いことを思い起こし、キリストへの感謝に生きる一日となりますように。
祝福を祈ります。

2023年7月2日の聖句

今月の聖句:
(イエス・キリストの言葉)敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。(マタイ5:44~45)

今週の聖句:
互いの重荷を担い合いなさい。そうすれば、キリストの律法をおこなうことになります。(ガラテヤ6:2)

今日の聖句:
主よ、地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください。(詩編119:64)
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。(マタイ7:12)

「主よ、地はあなたの恵みに満ちています。」なんという信頼の言葉でしょうか。なんという平安をもたらす言葉でしょうか。地は主の慈しみに満ちている。私たちが生きるこの世界には苦しみもあるし、私たちを罪に束縛する強力な悪もはびこっている。しかし、この地は神の恵みに満ちている。神を信じる私たちはそのことに信頼している。
神の恵みに満ちているからこそ、私たちも隣人への恵みに生きます。他者への慈しみに生きる。神が私に良いものをくださったから。わたしたちは神を信頼し、この世界への神の愛に信頼しています。
私たちが愛をもって生きようとするのには、たくさんの困難がある。いちばんの困難は私自身の中に巣くう罪です。互いの重荷を担い合い、隣人の痛みや悲しみに共に心を痛め、隣人の喜びを共に喜ぶ愛の人に、どうか私もならせてください。私たちはそう祈ります。主イエス・キリストの恵みと慈しみによって、神が私たちをキリストの愛を映し出す者にならせてくださると信頼して、私たちは祈るのです。

2023年7月1日土曜日

2023年7月1日の聖句

主よ、あなたに、私の訴えについてお任せしました。(エレミヤ11:20)
みこころが天でおこなわれるように、地でもおこなわれますように。(マタイ6:10)

みこころ。神さまのご意志という意味です。神さま、あなたのご意志が、あなたが望んでおられることが実現しますように。天におけるように、地の上にも。キリストはそう祈るように教えてくださいました。それは、私の願いは神さまにお任せします、という信頼の祈りです。私が願っていることがそのままおこなわれるよりも、神さまが願いの通りになることが最もふさわしい、という神さまへの篤い信頼の祈りです。
地。それは、私たちが生きているこの世界です。この世界には人の数だけの願いがあって、あるところではそれが激しく対立し、争いやいさかいを生んでいます。大きな争いもあれば、冷たく無視するような、人目にはつかないけれども激しい対立も起こる。願いと願いとがぶつかって戦いが起こります。私たちは自分の願いがかなうことが一番よいことだと信じているところがあるので、ぶつかり合いはどこででも起こる。あるいは面だっては争いにならず、一方が我慢を強いられたり、自分の願いを押し殺さざるを得ないということもあるでしょう。そうすると声が大きかったり力が強かったりする人の願いが実現していくことになります。
しかし、私たちは神さまの御心がなりますようにと祈り願います。私の願いではない。誰かの願いでもない。神さまの御心、神さまの願いが実現するように。
それでは、神さまの御心とは一体何か。それがはっきりとあらわされた一つの出来事は、ゲツセマネの祈りでした。主イエスは十字架にかけられる前の晩にゲツセマネで祈りました。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」そして、キリストは十字架にかけられていく。そこで御心がなったのです。神の御心は、ご自分の御子を十字架につけて私たちの罪を赦すことです。ここに神の御心がはっきりと示された。
私たちは祈ります。あなたの御心がなりますように、と。自分の願いではない。神さまの願いこそが救いを実現し、私たちを本当に幸福にするからです。私の願いの拡大はろくなことになりません。争いを生み出し、いさかいを招き、失望や落胆しか生じさせない。しかし神の御心は私ばかりかすべての人を救う神の大いなる福音の出来事です。ですから、私たちは祈ります。「みこころが天でおこなわれるように、地でもおこなわれますように。」

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35) イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42) 十字架にかけられた一人の罪人が主イ...