2020年3月31日火曜日

2020年3月31日(マルコによる福音書9:1〜29)

マルコによる福音書9:1~29;
「信じます。信仰のない私をお助けください。」
一人の父親の言葉です。この人の息子は悪霊に苦しめられていました。「霊がこの子を襲うと、所構わず引き倒すのです。すると、この子は泡を吹き、歯ぎしりをして体をこわばらせてしまいます。」この子が今何歳なのかは分かりません。父親は小さいときからこのような症状に苦しめられてきたと言っています。すでに幼くはないのでしょう。もう何年間も苦しんできました。父親や、ここには登場してはいない母親は、どんなにか心配で、苦しんできたことかと思います。この子の苦しみを少しでも自分が代われればと願ったことか、しかしどんなに願っても現実にはそんなことはできない。辛いことです。そんな父親が、主イエスに助けを求めました。「もしできますならば、私どもを憐れんでお助けください」と。
これまで何年も苦しんできたのなら、たくさんの医者に診せてきたはずです。誰もこの子を助けることができませんでした。更に、イエスの弟子にも診せました。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」どうに治して欲しいと期待し、何度その期待を裏切られてきたことか。弟子たちでも、だめでした。そんな父の心境を考えると「もしできますならば」という言葉は、私たちにも心情としてよく分かります。
しかし、キリストは断乎として言われます。「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる。」主イエスは、これまで誰に裏切られ、どんなに期待外れに終わってきたとしても、神を信じることだけはやめてはならない、と言います。父は、ただこう答えました。「信じます。信仰のない私をお助けください。」主はこれに応え、汚れた霊を叱りつけて追い出し、この子の手を取って起こし、この子は再び立ち上がることができました。
私たちは、キリストを信じることだけはやめてはいけません。しかしその「信じる」ということは、私たちの精神力ではありません。私たちの強い気持ちのことではありません。私たちには信仰がないのです。絶望的な状況の中で、心が折れてしまいます。そんな私をまるごと主にお委ねし、「信仰のない私をお助けください」と主イエス様の手にすがる祈りを、主は私たちの信仰として受け入れてくださいます。信仰というのは、神様がくださるものです。それだけに、信じるというのは尊いことです。
僅か8歳で亡くなった高橋順子さんが遺した詩に曲がつけられた賛美歌があります。「どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの、愛をしんじて。」アーメン、と静かに心を合わせたい。

2020年3月30日月曜日

2020年3月30日(マルコによる福音書8:22〜38)

マルコによる福音書8:22~38;
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
主イエスがこのことを始めて教えたのは、シモン・ペトロがイエスに信仰の告白をした直後のことです。「人々は、私のことを何者だと言っているか。」そう尋ねられ、弟子たちは世間の評判を伝えます。すると主イエスは「それでは、あなたがたは私を何者だというのか。」そこで、シモン・ペトロが答えました。「あなたは、メシアです。」
今礼拝で読んでいるヨハネによる福音書ではサマリアの女がイエスのことをメシアからもしれないとしかる野町の人たちに伝えていました。他の福音書はシモン・ペトロがそのことを告白します。いずれにしても、福音書はイエスこそメシアでいらっしゃることを私たちに証言しています。
メシア、救い主とはいかなるお方なのか。それが、今日私たちに与えられている御言葉が告げていることです。主は、メシアは苦しみを受け、排斥され、殺され、復活する方だと言われます。シモンはそれが受け入れられませんでしたので、脇へイエスをお連れしていさめ始めました。主はペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と激しく叱責なさいます。つまり、メシアは苦しみ、排斥され、殺され、復活する、それが決定的な急所なのであって、苦しまないメシア、十字架にかからないメシアではない、ということです。私たちの救い主は苦しむ救い主です。私たちが崇める神の子は、十字架に掛けられる神の子です。私たちは、神から捨てられた方の御言葉を聞いています。
私たちの救い主は、苦しみを知っている方です。私たちと同じ肉体をもって生き、肉体に食い込む苦しみを嘗め、人間の心の弱さも体験なさいました。今こそ、その事実は私たちの慰めです。今、私たちには苦難があります。主が知ることのない苦難はありません。主と関係のない痛みはありません。私たちは神のことではなく人間のことばかりを思います。キリストはそのような私たちのために苦しんでくださいました。主イエス・キリストの後について、キリストに従って、今日も歩んでいきたいと願います。

2020年3月29日日曜日

2020年3月29日(マルコによる福音書8:1〜21)

マルコによる福音書8:1~21;
「弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった。その時、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい』と戒められた。そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。イエスはそれに気付いて言われた。『なぜ、、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。』」
主イエスが言われます。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデ派のパン種に十分気をつけなさい」と。パン種は、僅かに入ると全体に広がって粉を膨らませます。ほんもののパン種はパンをおいしくしてくれますが、ここではそうではありません。全体に広がって膨らませるという比喩で、彼らの教えに警戒せよ、ということを意味している。ところが弟子たちは、イエスがおっしゃっていることを全然理解しませんでした。自分たちにパンの持ち合わせがないことを主イエスに責められていると思い込んでしまったようです。それで、互いにパンを持っていないことで議論をし始めた、と言います。主はその心のかたくなさにがっかりなさったことでしょう。
主イエスは彼らの心のかたくなさを嘆き、二度のパンの奇跡を思い起こさせます。5000人にパン五つを裂いたこと。七つのパンを4000人に裂いたこと。どちらも、パン屑がいくつもの籠に入るほどでした。この奇跡を悟っていない、と主は言われます。
ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種が彼らの教えであるならば、パン五つの奇跡とパン七つの奇跡は、主イエスご自身の教えであるはずです。つまり、主の御言葉を指しているのではないかと思います。私たちはキリストの言葉に養われ、その豊かさは籠に満ちあふれるほどです。キリストの言葉が、私たちを生かす命の食べ物です。そのことを悟るならば、ファリサイ派のパン種やヘロデ派のパン種を求めて命をつなぐ必要がなくなります。ファリサイ派については、その偽善を問題にされたのでしょう。ヘロデ派は、神の言葉を殺す人間の思い上がりを指摘なさったのかも知れません。私たちの心に救う罪を、主は御覧になっている。そこから私たちを解放するのは、キリストの御言葉です。キリストの言葉というパンを、主ご自身からいただき、私たちの祈りの日々は始まっていきます。

2020年3月28日土曜日

2020年3月28日(マルコによる福音書7:24〜47)

マルコによる福音書7:24~47;
今朝は「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方へ行かれた」と始まっています。ティルスはユダヤよりも北にある場所、すでにユダヤの外に出ています。そして、その場所で主イエスはギリシア人でシリア・フェニキア出身の女と出会いました。
「イエスはそこを立ち去って」とあります。この「そこ」というのは23節までの話の舞台です。そこで起こったのは、ファリサイ派や律法学者との汚れと清めに関する論争です。ユダヤ人からすると移動物の死体も汚れていましたが、異邦人も汚れた存在でした。主は汚れと清めに関するファリサイ派やユダヤ人たちの偽善を指摘して、それからすぐに外国に出て行き、異邦人と出会われた、ということになります。
この異邦人の女の娘は、汚れた霊に取りつかれていました。娘から悪霊を負いだしてくださいと母は主イエスに願います。しかし、すげない答えが返ってきます。「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない。」あんまりにも冷たい言葉のように感じます。犬は、レビ記11:27で「四本足で歩く生き物の内、肉球で歩くものは、すべてあなたがたには汚れたものである」とあり、やはりここでも主が御自ら「汚れ」を問題にしています。しかしこのような言い方をしてはファリサイ派と同じなのではないかと思ってしまいますが、それだけ切実に彼らの偽善を糺さなければならないという切迫感があったのかも知れません。
ところが、この女の言葉が主をも変えてしまいます。「「主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。その言葉で十分である。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出て行った。」女が家に帰ってみると、その子は床に横たわっており、悪霊は出てしまっていた。」この女の姿は前のところのファリサイ派やユダヤ人と全く正反対で、外面的な汚れや清めではなく、主イエスにまっすぐに向かう、まさに「信仰」と呼ぶにふさわしいものだったのではないでしょうか。
主はその後再びガリラヤ湖に戻り、今度は耳の聞こえない人を癒やします。このような一連の話の流れを考えると、この耳の聞こえない人は、外面的なあり方にこだわり、主を求める信仰の内実を忘れがちな私たちの姿を象徴しているように思います。そんな私たちの耳を開いてくださるのは、主イエスご自身です。主が私たちの耳を開いてくださり、私たちは聞くべき言葉に一心に耳を傾けることができますように。

2020年3月27日金曜日

2020年3月27日(マルコによる福音書7:1〜23)

マルコによる福音書7:1~23;
ファリサイ派の人々と律法学者らがイエスの弟子たちの食事のようすを見て異論を唱えました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と。弟子たちは手を洗っていなかったのです。
今の文脈で私たちが読むと、手を洗っていないなんてなんて危険な!という感想を持ってしまいますが、ここでの事情は少し違ったようです。ファリサイ派の人々や律法学者が手を洗うことにこだわっていたのは、衛生的かどうかということを考えていたからではありません。彼らも、また他のユダヤ人たちも、昔の人の言い伝えを守っていた。生活の中でいろいろな律法の禁じる汚れたものに触れているかも知れない。特に市場に行けば動物の死体に触れたり、血に触ったりしているかも知れません。だからその汚れを落とすために手を洗い、あるいは器なども清めてからでないと使おうとしない。保健的な意味での衛生的か不潔かということではなく、宗教的な浄・不浄の問題です。(私たちには、今、衛生上の問題で手洗いが大切です!)
そのような事情から彼らは弟子たちが手を洗わないで食事をしているのを見咎めて、イエスに詰問をしたのです。ところがイエスはそれは偽善だと言って聖書の言葉を引用します。「この民は唇で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。空しく私を崇め、人間の戒めを教えとして教えている。」彼らは信仰上の理由で手洗いが大切だと考えていましたが、それは形ばかりの偽善にすぎない、彼らの本心は神から遠く離れているではないか、と指摘したのです。結局、人間の言い伝えや戒めを守っているだけで、神の言葉を無にしていると言います。
その象徴がこの「汚れ」の問題です。人を汚すのは体の中に入るもの、つまり食べ物ではない。不潔なものはむしろ体の中から排泄される。それと同じで、人の心から出るものが人を汚す。「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒瀆、高慢、愚かさ、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚す。」
どれ一つ取ってみても自分と無関係とは言えません。自分の中から生まれてくるものです。自分の中から出て来る罪によって、私は自分で自分を損なっています。主イエスは、人間存在の根本に罪を見ておられます。
そんな私たちを清めるのは、人間の言い伝えではありません。主イエス・キリストだけです。キリストだけが罪に汚れた私を清め、救うことがおできになる。そのことを深く信じ、主の憐れみを求めます。

2020年3月26日木曜日

2020年3月26日(マルコによる福音書6:30〜56)

マルコによる福音書6:30~56;
「弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるを見て、幽霊だと思い、叫び声を上げた。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐに彼らと話をし、『安心しなさい。私だ。恐れることはない』と言われた。」
主イエスに敷いて舟に乗せられた弟子たち。しかし、その舟の中に主はおられませんでした。舟は逆風に見舞われ、漕ぎ悩んでいます。湖の真ん中でのことです。どんなに恐ろしかったことだろうかと思います。
世界教会協議会という組織がありますが、そのシンボルマークは小舟です。弟子たちが乗るこの舟を、教会は自分たちのことだと受け止めてきました。湖の真ん中で逆風に遭い、漕ぎ悩んでいる小さな舟。私たちは、この舟に乗っています。教会という舟です。2000年間、ありとあらゆる逆風が吹いてきました。迫害、戦争、疫病、貧困、・・・。あるいは、外から吹いてくる風だけでなく、内から腐ってしまう過ちも重ねてきました。そうでなければ、逆風のゆえに主を見失う罪も重ねた。この時の弟子たちはそうでした。湖の上を歩いてきたイエスを見て、彼らは幽霊だと思いました。こんな逆風の中に主がおられるはずはないと思い込んでいたからです。
聖書の中では、しばしば水は死や滅びの象徴として登場します。ここでもそうなのだとすると、イエスがおられない小舟が湖の真ん中にあるというのは、しかもその逆風の中で主を幽霊だという不信仰に見舞われているというのは、神は死んだと言われる子の世界で教会が主を見失っている、という状況そのものです。この舟を襲っている逆風も、弟子たちの恐れも、私たち自身への問です。
しかし、主イエス・キリストは舟に近づき、おっしゃいました。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」この「私だ」というのは特別な言い回しで、神様にしか口にすることのできない言葉遣いをしています。湖にぽつんと浮かぶ小舟で逆風に悩む弟子たちに、主は、神の子としてのご自身をお見せになった。それによって彼らは湖をなお進むことができた。これはそういう話です。
主を見て幽霊だという弟子たちの不信仰はパンのことを悟らなかったからだと説明されています。主イエスが五つのパンと二匹の魚で5000人を養われたという出来事。私たちも、この時と同じように主が祝福して与えてくださったパンを食べて生きています。聖餐のパンは、主の祝福のパンです。このパンは、神の子イエスが私たちにくださったもの。主が私たちのところへ来てくださっている事実を、畏れをもって受け止めたいと願います。

2020年3月25日水曜日

2020年3月25日(マルコによる福音書6:1〜29)

マルコによる福音書6:1~29;
主イエスがご自分の故郷にお帰りになったとき、安息日に会堂で教えておられましたが人々は「この人は、大工ではないか」と言ってイエスにつまずきました。そして、「そこでは、ごく僅かの病人に手を置いて癒やされたほかは、何も奇跡を行うことがおできにならなかった」と言うのです。
驚くべきことを聖書は言っています。主はご自分の故郷であえて奇蹟を行わなかった、と言っているのではありません。そこでは「何も奇跡を行うことがおできにならなかった」のです。その理由は、明らかに、人々がイエスにつまずいたから。言葉を換えれば、人々がイエスを信じなかったからです。イエスは人々が信じてくれなければ奇跡を行うことがおできにならないのでしょうか。普通、奇跡はイエスが神の子でいらっしゃることのしるし(証拠)と考えられます。このような奇跡がおできになるからには、神の子であるに違いない、と。それならば、誰もご自分を信じない故郷では奇跡を行うことができなかったというイエスとは、一体何者だということなのでしょうか。
ところで、主イエスはご自分の12人の弟子たちを二人一組にして派遣なさいました。彼らは出て行って悔い改めを宣べ伝え、悪霊を追い出し、多くの病人を癒やしました。主がこれまでしてこられた御業を彼らに委ねたと見ることができます。そして、14節以降、洗礼者ヨハネがヘロデ王に殺害されたことが報告されています。弟子たちが遣わされた世界は、神の言葉を宣べ伝えて来たヨハネを殺す世界であり、神の言葉が抹殺される世界です。弟子たちの遣わされた世界の有り様を強く印象づける事件です。
この世界は、主を信じる者が福音宣教を待ってくれている世界ではありません。思えば、弟子たちももともとは同様だったと言わねばならないと思います。しかし、彼らは主と出会い、弟子としてこの世界に福音を携えて遣わされるようになりました。主の御業を預けられました。実はこうして主の弟子がこの世界に立てられ、遣わされるということ自体が、神の国が来ていることの証拠なのです。主は人知を越えた奇跡によってご自分の福音を証明しようとしたのではなく、弟子を派遣することによって、その口から神の国が宣べ伝えられることによって、神の子としてのご自分の御業を証しなさいます。
私は、最初の私の傲慢な問はひっくり返さないとならないのだと思います。もしも主が私の不信仰のために、私の躓きのためにご自分を明け渡し、十字架への道を進んで行かれたのだとしたら、ヘロデの世界で殺されてしまわれたのだとしたら、それによって生かされている私は一体何者なのか、と問わねばならない。そのようにしてこの世界でキリストに命を与えられ、御国の福音のために遣わされる者が生まれるということ自体が、もうすでに、神の国が来ている証しに他ならないのです。

2020年3月24日火曜日

2020年3月24日(マルコによる福音書5:21〜43)

マルコによる福音書5:21~43;
二つの奇跡が、サンドイッチのような構造で語られています。マルコは時々こういう手法で話を展開します。こういうときはバラバラにせず、関連する二つの出来事として受け止めることが必要なのだと思います。
間に挟まれているのは、12年間出血が止まらなかった女が主イエスの力によって癒やされた、という奇跡です。この話を取り囲んでいるもう一つの話は会堂長ヤイロという人の12歳の娘が死にそうで、主イエスのところにヤイロは助けを求めに来て、主と共に娘のところに向かっていく、という話です。ヤイロの家に向かっている途中でもう一人の女の出来事が起こりました。彼女は12年間病に苦しみ、少女は12歳でした。同じ12年間。ここでも二つの出来事のつながりを見ることができます。
ヤイロは急いで主をお連れしたかったのですが、主は途中でもう一人の女のために足を止めてしまわれました。ご自分に押し迫ってくる群衆の中の誰かが自分に触れ、ご自分のその力によって誰かが癒やされた、と知ったからです。主は立ち止まり、誰がご自分に触れたのかを探して辺りを見回しておられます。主は、彼女が自分から名乗り出るのを待っておられました。「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病気から解放されて、達者でいなさい。』」
ヤイロの家に着いたとき、すでに娘は死んでいました。主は娘は死んでいるのではない、眠っているのだと言われますが、人々はイエスを嘲笑います。「しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父母、それにご自分の供の者だけを連れて、子どものいるところへ入って行かれた。そして、子どもの手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、さあ、起きなさい』という意味である。」イエスは少女の父母と弟子だけに奇跡をお見せになりました。あのもう一人の女が群衆の一人ではなく、主の前に名乗りを上げ、ひれ伏したのと似ていると思います。主は、あの女を群衆の中に埋没した名もなき誰かではなく、向き合おうとなさいました。少女のことは、その手を取って呼びかけてくださいました。主は一人の人と向き合い、その手を取ってくださるお方です。
病も死も、私たち自身の問題です。誰でも100パーセント、必ず当事者になります。私たちの弱さの日、苦しみの日に、主は私たちを大衆の一人としたままにはなさらずに、向き合う関係を築こうとなさいます。私たちが主の前に出て主を信じることを主は求めておられる。そのために、私たちの手もとってくださいます。私たちが死んで横たわるときにも、私たちの手を取って呼びかけ、「さあ、起きなさい」と言ってくださる。その日が必ずやって来ます。キリストが私たちに命を与えてくださる、その日が。

2020年3月23日月曜日

2020年3月23日(マルコによる福音書5:1〜20)

マルコによる福音書5:1~20:
主イエスが墓場で出会った一人の人は、汚れた霊に取りつかれていました。「この人は墓場を住みかとしており、もはや誰も、鎖を用いてさえつなぎ止めておくことはできなかった。度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったのである。彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。」
墓場に住んで、鎖でつながれて、自分を縛り付ける。それはまるで、現代社会の私たちの姿そのものではないでしょうか。私たちが市民生活を平穏に送るために必要であったはずのシステムに縛り付けられ、その奴隷となり、自分のポジションを守るために他人を威嚇し、或いは顔色を窺って隷従せざるを得ない。救いのない死におびえ、それを否定或いは隠蔽し、自分のことも周囲のことも傷つける。不自由な私たちの姿そのものではないでしょうか。
更に、この汚れた霊はイエスによって豚に乗り移ります。「イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れは、崖を下って湖になだれ込み、湖の中で溺れ死んだ。」堰を切ったように崖に向かって突進し、結局は湖の中に落ちて溺れ死んでしまう・・・。恐ろしい光景です。この汚れた霊が二千匹も信田に乗り移るほどの「集団」であったことがまた怖いことです。私たちは、この時代の「集団」に働く汚れた霊を「時代の精神」として目の当たりにします。「生産性がない者は生きている意味がない」というのは、この時代の精神です。あるいは、生活保護は甘えているとか、○○人は日本を貶めようとしているとか、それも時代の精神の言葉です。私たちはこの時代の子として、そういう時代精神の言葉を息を吸うように吸い、吐いてしまいます。私たちは、レギオンに取りつかれてはいないでしょうか?私たちはあの豚どものように崖になだれ込み、湖の底めがけて、狂ったように走り出してはいないでしょうか。
私たちには、主イエスが必要です。どうしても必要です。時代が本当に必要としているのは、よこしまな言葉や憎悪をあおるような言葉ではなく、生産性を物差しに人の価値をジャッジするような思いやりのなさではなく、キリストの憐れみです。私たちはキリストの憐れみを受けなければ、生きられません。だから、主は私たちに言われます。「主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい」、と。主は、私たちにその憐れみを向けておられる。私たちのために、今日も十字架への道を進んでおられます。主イエス・キリストの憐れみに生かされる一日でありますように。

2020年3月22日日曜日

2020年3月22日(マルコによる福音書4:21〜41)

マルコによる福音書4:21~41;
「また、イエスは言われた。『灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められているもので、明るみに出ないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。』」
ほとんど同じ譬えがマタイによる福音書にも登場していますが、意味するところは随分と違います。マタイでは私たちの良い行いについての話ですが、このマルコ福音書では、主イエスが話しておられる神の国について、今は秘められているが必ず人々にそれが明らかになるときが来る、という話になっています。神の国は「秘儀(11節)」です。秘儀は秘密(ミステリー)のことです。しかし、それは必ず明かされる秘密です。
それでは、いかなる秘密なのか。ここで主イエスは二つの種の譬え話をしておられる。最初の譬えは、地に蒔かれた種は蒔いた人も知らないうちに芽を出して成長する。種を蒔いた人にも、種がどうして成長するのかは分からない。地は自ずから実を結ばせる。神の国はそのようなものだ、という話です。種の成長の様子としての意味は分かりますが、だから何なのかがよく分からない話のような気がします。どういうことなのでしょうか。
もう一つの譬えもやはり種の話ですが、こちらはからし種。それは小さな種粒です。ごまよりもっと小さい。誇りのような種ですが、「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」。そういう話です。
もともと、これらの譬えは、神の国のミステリーは必ず明かされるミステリーだ、という話から始まっていました。神の国は、蒔かれるときは小さな種粒のように小さい。ほとんど埃のような小ささです。種というのは、やはり四つの種の譬えと同じように、神様の御言葉のことでしょう。それは人の目には殆どとまりません。しかし、それが成長すると空の鳥が巣を作れるほどに大きな枝を張ります。誰もが安心して休める場所になることができる。しかし、その成長は、種を蒔いた人でさえも知りません。種(神の言葉)そのものが生来持っている力によって、必ず神の国は空のあらゆる取りのために枝を張るものになる。主イエスはそうおっしゃいます。
神様の御言葉の力は、私たちには謎です。神様の御業だからです。だから、それが成長して生まれる神の国は、私たちも、私たちの隣人をも安心することのできる、大きな枝を張ります。私たちの教会も、主イエス様にあってそのような一つの枝としていただいていることを信じます。

2020年3月21日土曜日

2020年3月21日(マルコによる福音書4:1〜20)

マルコによる福音書4:1~20;
主イエスのたとえ話です。種を蒔く人の蒔いた種が、ある種は道端に落ちて烏に食べられ、他の種は石地の浅い土に落ちて日照りに枯れてしまい、別の種は茨の中に落ちたので茨に邪魔されて枯れてしまいました。しかし良い土地に落ちた種は芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍になった、という話です。
これは、たとえ話のたとえ話です。つまり、たとえ話とはどういうものなのかを説明した話です。言うなれば、主イエスご自身による、たとえ話の種明かしのようなものであると思います。
13節以下で詳しくその意味を説明しておられる。種を蒔く人は神の言葉を幕。道端のものとは、御言葉がまかれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て御言葉を奪い取ってしまう者。石地の人とは、御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分に根がないので、苦難や迫害のためにすぐに躓いてしまう者。茨の中に落ちた者は、御言葉を聞くが、世の重い患いや富の誘惑、その他のいろいろな欲望のために御言葉を負債で実を結ばない。そして、「良い土地に落ちた者とは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶ」と言われます。
やはり、一番大切なのは、良い土地に結んだ種だと思います。良い土地に落ちた種とは、「御言葉を聞いて受け入れる人たち」と主はおっしゃいました。御言葉を聞くだけでなく、受け入れる。聞くだけで済ましてしまうなら、烏が来て食べてしまいます。自分の中に根を張ることを拒めば、すぐに枯れてしまいます。御言葉の種も聞くけど他にも依り頼んでいる時代精神があるならば、それが邪魔をして結局は御言葉をのみ込んでしまいます。聞いて受け入れるというのは、御言葉の種が蒔かれて、それが育つことによって自分が帰られることを受け入れるということなのだと思います。
歴史学者の阿部謹也という先生が『自分の中に歴史を読む』という若い人向けの本を書いておられます。その中で阿部先生は、分かるというのはそれによって自分が変わることだ、と言っておられます。御言葉を聞いて受け入れるというのは、御言葉が分かるということでしょう。それは知的に分かるということ以上のこと、その御言葉の種によって土地である私が変革されることです。主はそのように御言葉を聞くことを、ご自身の弟子である私たちに求めておられます。

2020年3月20日金曜日

2020年3月20日(マルコによる福音書3:20〜35)

マルコによる福音書3:20~35;
『イエスが家に帰られると、群衆がまた集まってきて、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからである。エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。』
主イエス・キリストが神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病に苦しむ人々を癒やすと、家族はそこに来てやめさせようとし、エルサレムから来た偉い先生たちは悪霊に取りつかれていると言います。主イエスの評判はすこぶる悪かったようです。それは、主が、本当に、本気で神の国を宣教していたからに他なりません。なんとなくやっていれば、なんとなく受け入れられていたことでしょう。しかし主は本気でいらしたから、周りの者も本気になってそれを止めようとしたのではないでしょうか。
使徒ペトロが、あるとき、コリント教会への手紙にこのように書きました。「彼らはヘブライ人なのか。私もそうです。イスラエル人なのか。私もそうです。アブラハムの子孫なのか。私もそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、・・・。」コリント教会に、反パウロ派の人がいた。その旗印になる指導者がいたようです。彼らはヘブライ人であること、イスラエル人であること、アブラハムの子孫であることを誇り、自分は正統的なキリストの弟子だとスマートに言ったようです。パウロは、スマートではありません。気が変になったようにして、自分はキリストの弟子だと言います。そのしるしは、彼がキリストのために苦しんだことです。コリント教会の人からしてみれば、パウロの苦しみの経験は、彼の指導者としての資質に疑問符をつけるものでした。スマートな指導者を求めていました。ところがパウロは、気がおかしくなるようにして苦しみつつキリストの弟子として生きたのです。なぜなら、キリストご自身がその道を歩まれたからです。
私たちは、賢くキリストの弟子として生きることはできません。時には家族や世間から後ろ指さされることもあるかも知れない。しかし、聖霊なる神様が私たちと共に働いてくださいます。神の国を、私たちの口や手足を通して実現してくださいます。キリストの愛の支配する国を、私たちの間にもたらしてくださる。その約束は、確かです。だから、これに懸けてよいのです。

2020年3月19日木曜日

2020年3月19日(マルコによる福音書3:1〜19)

マルコによる福音書3:1~19;
「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らは御もとに来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わし、悪霊を追い出す権能を得させるためであった。」
主イエスのそばに置くため、また、宣教に遣わし、悪霊を追い出す権能を得させるために主の御許に呼び寄せられた人々。それは、私たちのことでもあります。私たちも主の水戸とに呼び寄せられています。主のおそばにおります。それは、私たちが主の宣言された神の国の福音を宣教するためであり、そのしるしとして悪霊を追い出すためです。主イエス・キリストは、主の弟子である私たちに、神の国の福音を託してくださいました。
イエスは十二人を任命します。一人一人、シモン・ペトロから始まって、名前が挙げられています。私たちのことをも、主は名前を挙げ、主のご用のために任命してくださっています。私たちは、キリストの弟子です。
主イエスは、安息日に手の萎えた人を癒やします。安息日に主が癒やしをなさったときに明らかになったのは、手の萎えた人を取り巻く大衆のかたくなさでした。「イエスは怒って彼らを見回し、そのかたくなな心を悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。」主は、私たちの罪と戦っておられます。この手の萎えた人が人間らしく生きることを妨げ、命をもたらすはずの安息日の律法を、却って命を殺すようなものに貶めた私たちの罪に怒り、戦っておられる。主は、悪霊と戦い、そして、私たちの罪と戦っておられます。
私たちを罪と悪霊の支配から解放する神の国の福音を、多くの人が必要としています。「イエスは弟子たちと共に湖の方へ退かれた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が付いて行った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからも、おびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、御もとに来た。」皆、イエスの口から語られる、神の国の宣言を必要としているのです。私たちは、この宣言を口にするために、そして私たちを支配する罪と悪の縄目から解放するために、主の御許から遣わされています。今日もです。主が、この道を、私たちに先立って進んでおられます。

2020年3月18日水曜日

2020年3月18日(マルコによる福音書2)

マルコによる福音書2;
主イエスの宣教の言葉を、マルコは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と伝えています。この「時は満ちた」ということを、今日の聖書の御言葉は強調して伝えているように思います。
ある人々が、イエスの弟子たちに「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言いました。するとイエスは彼らに言われます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる間は、断食はできない。」イエスがここにおられる今、この時は、婚礼にも似た喜びのときである。断食し、嘆き、悲しむべきときではない。神の国の祝いをするべきとき、宴のときだ、と主は言われます。神の国がイエスによってここに近づいてきているから、そういう時が満ちているから、今は喜びの時だと言われるのです。
更に主イエスは「しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる」とも言われます。花婿が取り去られる日。十字架の日のことを言っておられるのでしょう。花婿が取り去られたゆえに断食し、嘆き、悲しむであろうと言われる。キリストを信じる者の悲しみはキリストが取り去られたことだし、喜びは、キリストが共にいてくださって神の国を宣言しておられること。そのように言います。
私たちの今この時は、いかなる時なのでしょう。暗いニュースばかりの毎日です。この先をなかなか楽観視しがたいご時世。そんなときにこそ、私たちは主イエスのこの言葉を思い起こしたいと思います。私たちが悲しむとすればそれは主が見えないことの悲しみだけであり、それは十字架のときに起こり、復活で終わりました。そして、主が共にいて御言葉を語り、福音を宣言し、神の国の到来を告げてくださっているので、私たちの悲しみが消えてしまうことはありません。
だから、この断食問答に続く23節以下では、安息日のことが論じられています。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」安息日、それは、この日の主でいらっしゃる方を礼拝する日です。主が私たちに神の国の到来を告げ、福音を宣言してくださる日、それを共に喜ぶ日。それが安息日。私たちは、今日も、その日を目指して旅を続けます。

2020年3月17日火曜日

2020年3月17日(マルコによる福音書1:21〜45)

マルコによる福音書1:21~45;
「一行はカファルナウムに着いた。そして安息日にすぐ、イエスは会堂に入って教えられた。人々はその教えに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである。」
主イエスがカファルナウムでなさったことを伝えています。そこでのイエスの教えは、律法学者のようなものではなく、権威ある者のように教えておられた、と言います。律法学者は、ただ病気についての説明をする医者のような教えだったのだろうと思います。名医は病気についての説明をするだけではなく、更に、実際に患者を治します。主は権威ある者として福音を宣言し、それを聞いた人々は神の国を生き始めたのでした。
具体的に主イエスのカファルナウムでの活動として伝えられているのは、汚れた霊との戦いです。会堂にいた男に取りついていた汚れた霊はイエスに言います。「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」あるいは、シモンの家では、人々が病人や汚れた霊に取り憑かれた者を連れてきました。「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒やし、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものをいうことをお許しにならなかった。悪霊がイエスを知っていたからである。」主イエスは病に苦しむ者を救い、悪霊に支配された人はそこから解放してくださったのでした。そのようにして、主イエスが権威をもって告げた神の国が、イエスとで会った人々の間に到来したのです。
日曜日の説教でご紹介したルターの手紙はペスト対策に悩む牧師に宛てられたものでしたが、ルターはペストという病そのものよりもそれへの恐れ、死への不安にのみ込まれてしまうところに悪霊の支配を見ていました。悪霊に対抗するためには、先ず何より悪霊との戦いであることを自覚することが肝要と説きます。そして、詩編41を引用します。「幸いな者、弱い者を思いやる人は。災いの日に、主はその人を救い出してくださる。」貧しい人、困窮している人に手を差し伸べるなら、それが悪霊への攻撃になるとルターは言います。それは、そのような愛の手が、神の国到来の証しだからです。神の国がここにもあることを信じる隣人への愛の手は、イエスの悪霊との戦いに参戦するのです。
そして、イエスは更に進んで行かれます。「『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。私はそのために出てきたのである。』そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」主イエスは、今日も私たちを悪霊の支配から解放し、神の国に生かすために戦っておられます。

2020年3月16日月曜日

2020年3月16日(マルコによる福音書1:1〜20)

マルコによる福音書1:1~20;
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」
マルコによる福音書の最初の言葉です。もとの言葉の語順をそのまま生かして直訳するならば、「初め、福音の、イエス・キリストの、神の子の」となります。一番最初に登場する「初め」という単語には「初め」という意味も「始め」という意味もあります。マルコによる福音書では、「天地創造の初め」という使い方や、さまざまな私たちの降りかかる艱難について、主イエスがこれらは「産みの苦しみの始まりである」と言われる場面が出てきます。つまり、このマルコによる福音書は、イエス・キリストの福音の原初であり、福音の始まりの出来事でもある、ということでしょう。
福音は、イエス・キリストから始まりました。福音の基はキリストご自身です。そもそもこの「福音」という言葉も、マルコが心を込めて使っている言葉です。この書は今では「マルコによる福音書」と呼ばれていますが、そういうタイトルがもともとついていたわけではありません。後に他の人がつけたタイトルです。イエス・キリストを伝えるこの書が「福音」と呼ばれたのは、マルコがこうして「イエス・キリストの福音」と私たちに伝えたからです。
福音、それは「良い知らせ」という字です。イエスがキリストとして、また神の子として私たちに告げてくださった良い知らせです。イエスが神の子でいらっしゃることについては、この福音書が始まってすぐ、主が洗礼をお受けになったときのこととして伝えられています。「そしてすぐ、水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのを御覧になった。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が、天から聞こえた」と言われています。主イエスは神の子。それもまたこの福音書が伝える大切なメッセージの核です。そのイエスが神の子として私たちに告知した福音、それは15節に書かれています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と。
イエスは宣言します。「神の国は近づいた」。神の子がそう宣言したのですから、もう神の国は近づいて、やって来ました。私たちの間に、神の国は始まっています。これが、主イエスの福音の告知です。私たちも、今朝、この告知を聞きました。主イエスは私たちの間にも神の国を来たらせてくださっています。私たちの目に映る現実がどんなにそれを裏切っているとしても、神の子の宣言は変わりません。その現実に、神の国が到来しています。だからそのことを信じ、キリストに従っていく弟子として生きていきたい。そのように願います。

2020年3月15日日曜日

2020年3月14日(ヘブライ人への手紙13)

ヘブライ人への手紙13;
「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」
私たちは変わります。よく変わることもあるでしょうが、悪化することも少なくありません。いや、ここで考えるべきは「成長」に属するような事柄ではなく、揺れ動いてしまう私たちの信念や生き方、良心や確信のことであるのかも知れません。私たちは揺らぎます。変わってしまいます。だから私たちは自分や他人を頼みの綱としているかぎり、不安定で不安なままです。ところが、ただお一人、変わらない方がおられます。昨日も今日も、また永遠に変わることのないお方。イエス・キリスト。この方が私たちの救い主です。
「遠き国や」という聖歌があります。「遠き国や海の果て いずこに住む民も見よ。慰めもて変わらざる 主の十字架は輝けり。慰めもて汝がために、慰めもて我がために、揺れ動く地に立ちて、なお十字架は輝けり。」9年前の震災の後にも思い起こされることが多かった歌です。地が揺れ動こうとも、主の十字架は、いや十字架につけられたキリストに示された神の愛は、変わることがありません。昨日も、今日も。そして、永遠に。
私たちはこの確かなイエス・キリストという方を信じて生きています。だから、生き方が新しくなりました。「兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らえられているつもりで、捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人たちを思いやりなさい。」主イエスご自身が、肉体を持つ存在として、私たちにしてくださったことでもあります。イエスというお方に、私たちの生きる指針があります。
この手紙は次の祝福で閉じられています。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御胸に適うことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が代々限りなくキリストにありましょうに、アーメン。」肉体をもって私たちの間に生まれたイエスは、神によって死者の中から引き上げられ、その肉体をもって復活なさいました。この方が、私たちの信じるキリスト、神の御子です。どのようなときにもこの方に示された祝福は変わらないし、なかったことにはなりません。決して。だから、今日も、安心して生きていきましょう。

2020年3月14日土曜日

2020年3月14日(ヘブライ人への手紙12)

ヘブライ人への手紙12;
「だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。」
ヘブライ人への手紙は第11章でたくさんの信仰者たちの名前を挙げて、彼らを信仰の証人として立たせていました。「こういうわけで、私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走り抜きましょう。」私たちは信仰の証人たちに囲まれて、イエスを見つめて、自分の走るべき競争を走ります。信仰者としての生涯を全うしよう、という呼びかけです。
この「競争」は、長距離走のイメージなのだろうと思います。忍耐が必要です。重荷や絡みつく罪があります。気力を失い、弱り果ててしまうこともあるかも知れません。しかしそのようなときには、それは神様に与えられた鍛錬だと受け止めよ、とこの手紙は言います。病の噂は私たちの心を奪いますが、信仰までも一緒に奪われないように気をつけよう、ということであろうと思います。
冒頭に掲げた言葉が、今日私の心に残りました。「だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。」萎えた手、衰えた膝。どうしたらまっすぐになるのか。私のために苦しまれたイエスを見上げ、また私の味わっているこの苦難が主の鍛錬であると気づくことによる、と聖書は言っているのだと思います。困難のときに信仰も萎えてしまわないように、そのようなときにこそイエスを見つめようと呼びかけています。肉体は年齢と共に衰えていくでしょう。気力も失われるかも知れません。しかし、神に向かう信仰は、私たちの心身の衰えとはまた別の事柄であると思います。信仰は神が与えてくださるものだからです。それはただイエスを見つめることによって与えられるものです。イエスへの愛によって新しくされます。イエスへの愛、それは、イエスからの愛に気づくことによってだけ燃やされます。主イエスの愛が、この私にも注がれている。その事実から、今日の日を始めたく願います。

2020年3月13日金曜日

2020年3月13日(ヘブライ人への手紙11:23〜40)

へブラ人への手紙11:23~40;
「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と言われるのを拒んで、罪のはかない楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐げられる方を選び、キリストのゆえに受ける辱めをエジプトの宝にまさる富と考えました。」
ヘブライ人への手紙が語る旧約の人々の信仰による歩みは、ときに、かなり大胆な解釈をしてみせます。モーセがエジプトを逃れたことは出エジプト記に書かれていますが、出エジプト記によれば、それは彼が同胞ヘブライ人を虐げるエジプトの役人を殺してしまったことに端を発していました。とても信仰によってファラオの娘の元を離れたとは言えないような事件です。しかし、その細かないきさつをこの手紙は大胆に省略し、罪のはかない楽しみではなく、神の民と共に虐げられる方を選んだのだ、と解釈し直します。エジプト出奔の事件だけを切り取って考えると困ってしまいますが、しかしモーセの生涯をトータルで考えれば、なるほどと思います。モーセは信仰によって生きた人でしたし、彼はエジプトに象徴されるこの世の富のはかない楽しみではなく、神の民と共に苦しむことを選んだ人物だったことは確かです。
そして何よりもこのモーセを評する言葉は私たちへのチャレンジです。私たちは、自分の楽しみを維持することと、他の人のために苦しむことと、どちらを大切にしているのでしょうか。本当は、自分のためだけに楽しむことは「はかない」ことだとどこかで気づいています。しかし自分の楽しいことを他人のために我慢するのは、簡単ではありません。いや「他人」などと言わなくとも、家族でも愛する人でも、自分のしあわせを犠牲にするのは難しことです。
そして、そのことをヘブライ人への手紙は「キリストのゆえに受ける辱め」と言っていました。もしかしたらこちらの方がより大胆な解釈です。モーセの苦しみはキリストのための苦しみだったと言うのですから。神を信じて引き受ける、神と隣人のための苦しみは、モーセがまだそのこと知らなかったとしてもキリストのための苦しみなのだと言います。その通りです。そして、私たちの苦しみにも、同じことが言えるのです。
キリストは「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい(マルコ8:34)」と言われました。私たちが神や隣人のために、自分の楽しみや幸せを脇に置くことは、自分の小さな十字架を負うことです。モーセが、代々の信仰者たちが歩んだ道に、私たちも招かれています。

2020年3月12日木曜日

2020年3月12日(ヘブライ人への手紙11:1〜22)

ヘブライ人への手紙11:1~22;
「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えない者を確証するものです。昔の人たちは信仰のゆえに賞賛されました。」
新共同訳聖書では「信仰とは、望んでいる事柄を確信し・・・」となっていましたが、新しい聖書協会共同訳では「信仰とは、望んでいる事柄の実質」となっています。随分と大きな訳の変更のようです。ここで「確信」とか「実質」と訳されている言葉は、このヘブライ人への手紙では1:3「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって」の「本質」、また3:14「私たちは、初めの確信を終わりまでしっかり保つなら、キリストにあずかる者となるのです」の「確信」として登場していました。それぞれの翻訳から分かるとおり、「確信」の意味も「実質」の意味も、両方備えている単語と言えるようです。
従来の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し」は親しんできた良い訳ですが、新しい訳も魅力的です。「信仰とは、望んでいる事柄の実質。」希望の本質は信仰だ、ということでしょう。確かにその通りなのだと思います。
信仰とは、望んでいる事柄の本質。それを例示するために、たくさんの信仰者たちの名前を挙げていきます。アベル、エノク、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ。彼らは皆神を信じていました。神様にある望みの本質は、この世界が始まったその時から、目に見えない事柄を確証し、信じるということにあります。「ノアはまだ見ていない事柄についてお告げを受けたとき、畏れかしこみながら、その家族を救うために箱舟を造り・・・」。彼は信仰によって、まだ見ていないことに望みをかけて生きました。アブラハムも、サラも、他の人も同じです。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にはしませんでしたが、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。」信仰者は、いつでも、どんなときにでも、望みを抱いています。そこに信仰の本質があるからです。
だから、彼らは皆「約束されたものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。彼らはこのように言うことで、自分の故郷を求めていることを表明しているのです。」彼らは、自分の生まれ故郷ではなく天の故郷にあこがれていたからです。その故郷への帰還に、望みを抱いていました。
私たちの日常の営みの弱さを思い知らされる日々が続いています。確かだと思っていたものも、何かがあれば当たり前ではなくなってしまいます。しかし、私たちの目指す故郷は天にあります。神を信じるものに天の故郷を目指す望みが消えてしまうことは、ないのです。

2020年3月11日水曜日

2020年3月11日(ヘブライ人への手紙10:19〜39)

ヘブライ人への手紙10:19~39;
「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい試練に何度も耐えた初めの頃を、思い出してください。そしられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあれば、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、自分たちがもっと優れた、いつまでも残る財産を持っていると知っているので、捕らえられた人たちと苦しみを共にし、財産が奪われても、喜んで耐え忍んだのです。ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。神の御心を行って約束のものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」
ヘブライ人への手紙は、迫害に苦しむ教会に向けて書かれたたてがみです。以前も書きましたが、キリスト教会への迫害が厳しくなったローマの教会に向けられた手紙ではないか、という推測があります。しかしキリスト教会への迫害は2000年間の歴史の中で何度となく繰り返されました。私たちは今のところ教会に行ったからといって命を取られたり、村八分になったりすることはありません。しかし、それでも小さな葛藤の中で礼拝生活を選び取っている人は少なくないと思います。この手紙の著者は、そんな私たちを励ますためにこの手紙をしたためました。そして、この手紙が語る励ましが一体どこにあるのかといえば、それは「自分たちがもっと優れた、いつまでも残る財産を持っていると知っている」ことだと言います。福音書に記された主イエスの言葉で言えば、神の国の福音を聞いているという事実です。
この手紙は、神様が約束してくださっている将来から、現在のこの時を捉え直すように私たちを促します。今は、苦しみも恥じもある。どうしたら忍耐しうるのか。それに対して、神が与えてくださる宝を見つめよう、と言うのです。
イエスはご自分が血と肉を持つ一人の人間になられました。「イエスは垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです。」イエスの肉体が、私たちのための神の国への道になりました。私たちをご自分のきょうだいと呼んではばからない方が、私たちを神のもとへ連れ出してくださいます。だから、希望を持って、信仰を捨てることなく忍耐しようと訴えるのです。
今日は3月11日です。あの日被災した人たち、彼の地に愛する者がいる人たち、さまざまな形でこの9年間気にかけ続けた人たちにとって、どんなに忍耐が必要な日々であったことでしょうか。私たちキリスト者の忍耐の源泉は、イエスが私たちと同じ肉体を持っていてくださること、そして、神がイエスの肉体という通路を通して私たちを導いてくださる天の国への希望です。今日生きるための慰めと望みが、あなたにありますように。

2020年3月10日火曜日

2020年3月10日(ヘブライ人への手紙10:1〜18)

ヘブライ人への手紙10:1~18;
「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なるものとされたのです。すべての祭司は、毎日立って礼拝の務めをなし、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかし、キリストは、罪のためにただ一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもがご自分の足台となるときまで、待っておられます。実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです。」
神様の、そして人の前に私たちの犯してしまった罪を、一体どうしたら良いのか。誰かが私に対して働いた悪を一体どう受け止めたらいいのか。かつて、そのために動物を犠牲とし、その血を流すことで、罪の責任の所在を明らかにしてきました。しかし、所詮は動物の血であって、本当には私たちの罪を処理することなどできません。本当であれば、私たち自身が、犯してきた罪の責任をとらなければならない。しかし、問題は、責任を取りきることがおよそ不可能である、ということです。どんなに謝っても謝りきれないこともあるし、責任を取るためには自分の命を差し出すより他ない、あるいは、それでも責任を取ったことにならない、というのが本当のところなのではないでしょうか。
キリストは、私たちの罪と過ちのための犠牲となって、血を流してくださいました。キリストが血を流して、その罪の責任を全部引き受けてくださった。だから、私たちはもう完全なのもにしていただいた。聖書はそう宣言します。私たちには良心の呵責があり、その責めを追い切れなくて見て見ぬ振りをしたりしてしまいます。そんな私たちの、知っている過ちも知ることさえできていない過ちも、全部キリストが負ってくださいました。だから、私たちはもう完全な者なのです。
私たちをキリストが完全にしてくださったというのは、信ずべき事柄です。キリストに信頼するべき、信仰の対象です。キリストが神の右におられて、この私の罪のためにも執り成してくださっている。私たちを誘惑するこの世の霊をその足台とするまで、キリストが私たちのために戦っていてくださいます。イエス・キリストが、私たちを罪から救う救い主です。この事実はどのようなときにも揺らぐことがありません。

2020年3月9日月曜日

2020年3月9日(ヘブライ人への手紙9)

ヘブライ人への手紙9;
「以上のものがこのように整えられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。これによって聖霊は、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道はまだ明らかにされていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時代の比喩です。そこでは、供え物やいけにえがささげられますが、礼拝する者の良心を完全にすることはできません。」
旧約の律法には、神を礼拝するための幕屋の造り方が事細かに規定されていました。聖なる場所をその他の場所から区別します。その中でも、聖所の奥に至聖所があり、そこには大祭司だけしか、しかも一年でたったの一日しか入ることができません。律法は聖なるものと俗なるものとを区別することによって、私たちに神様の聖さを教え込みます。
しかしこの幕屋は、今という時代の比喩だとこの手紙は言います。この幕屋に入る大祭司は、民の罪と自分自身の罪のために、毎年同じささげ物を捧げ続けなければならない。そういう、不完全な業です。その供え物によっては、礼拝する者の良心が完全にされることはないのだ、と言うのです。
先ほど、旧約の律法ではそのように定められている、と書きました。確かにこの幕屋の造り方を定めているのは旧約の律法ですが、これは単に旧約から新約、そして今はそれよりも後の時代というふうに、一直線な時間の経過を現しているだけではないのではないかと思います。事柄の差、意味の差がそこにはるのではないだろうか。つまり、キリストを知らないところでささげる礼拝の営みは、私たちの良心を完全に満たすことができない、ということです。時間の差ではなく、キリストという大祭司がおられるかおられないか、という事柄の差です。
キリストは、「ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」イエスの血という完全なささげ物がささげられたので、もう毎年繰り返して献げなおす必要はありません。この方がご自分をささげて十字架に掛けられたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。聖所への道は、もう明らかになったのです。キリストご自身がその道になってくださいました。キリストは、「世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、ただ一度現れてくださいました」。キリストがすべて完全にいけにえを献げてくださいました。だから、私たちは大丈夫です。もう、大丈夫なのです。

2020年3月8日日曜日

2020年3月8日(ヘブライ人への手紙8)

ヘブライ人への手紙8;
「この方は、さらにまさった約束に基づいて制定された、さらにまさった契約の仲介者だからです。」
主イエスはメルキゼデクに連なる大祭司、完全な大祭司だと第7章で言っていました。この章ではそのことを「契約」を巡って言っています。主イエスは「さらにまさった約束に基づいて」立てられた大祭司、さらにまさった契約の仲介者。この契約は旧約聖書自身が私たちに語ってきたものです。「私は、私の律法を彼らの思いに授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。彼らは、自分の同胞や兄弟の間で、『主を知れ』と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである。私は彼らの不正を赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。」預言者エレミヤの言葉です。
イエスはこの新しい契約に基づく大祭司だ、とこの手紙は言います。神様ご自身が私たちの心に御言葉を書いてくださる、という契約です。神様が私たちの不正を赦し、私たちの罪を再び思い起こすことはしない、という契約です。この契約のために、イエスは、ご自分をいけにえとして献げ、私たちのために執りなしの祈りを献げてくださっています。
聖書は、旧約から何度も繰り返し、神が私たちに人間と結んだ契約について語ってきていました。ノアが箱舟から降りたとき。アブラハムが神を信じたとき。モーセを通して、荒れ野で神が結んだ契約は、石に刻まれて契約の箱に収められました。ダビデも、そしてエレミヤも、神が語りかけてくださった契約によって生かされてきた人々です。契約というのは両者の関係を表す言葉です。神様は、私たち人間と契約を結び、関わりを持ち続けてきてくださった方です。私たちがどんなにそれを蔑ろにし、破ってきたとしても、神様の誠実は変わることがありません。私たちが神との新しい契約、キリストによって結ばれた契約に生きるために、神様ご自身が働いてくださったのです。神の右に座しておられる方が、私たちのために神に執り成していてくださいます。

2020年3月7日土曜日

2020年3月7日(ヘブライ人への手紙7)

ヘブライ人への手紙7;
第5章、第6章にもその名前が出てきたメルキゼデクについて、ここでは長く論じています。メルキゼデクは創世記第14章に登場していました。アブラハムが戦争に勝利して帰って来たとき、「サレムの王メルキゼデクがパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『天と地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。・・・。』そこでアブラムはすべてのものの十分の一を彼に贈った」(創世記14:18~20)。創世記でのメルキゼデクの話はここで終わりますが、この手紙では、更にこの人物を主イエスの予型と見なして、主の大祭司としてのありかたを論じていきます。
先ず、メルキゼデクがアブラハムを祝福し、更にアブラハムはそれに応えて最上の戦利品をメルキゼデクに与えました。これは、アブラハムの子孫であるレビが最上の献げ物、しかも十分の一の献げ物をしたのと同じだ、と言います。従って、メルキゼデクはレビの子孫にまさる祭司に他ならない、と言います。
「ところで、もしレビの祭司制度が完全なものであったならば」と言っているとおり、旧約の祭司制度は完全なものではありません。だから、繰り返し繰り返し、献げ物は献げ続けられなければなりません。もうこれで十分ということにはならないのです。そして、レビとは別のメルキゼデクという、しかもレビにまさった祭司がいた。それと同じように、旧約の祭司制度を超える完全な祭司として、レビ族ではなくユダ族から生まれたイエスがおられるのだ、とアポロは訴えます。この方は完全な祭司なので、不完全な祭司のように捧げ物を繰り返す必要はありません。しかも、レビ族の祭司はやがて死にます。それもまたレビ族の祭司業の不完全さの証左になります。死すべき人間の一事の業にすぎない。「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それで、ご自分を通して神に近づく人々を、完全に救うことがおできなります。この方は常に生きていて、彼らのために執り成しておられるからです。」この大祭司こそ、私たちのための完全な大祭司なのです。
このように見てみると、この第7章の意味はまことに明快です。イエスは、人間の祭司制度を凌駕した完全な大祭司。献げ物を繰り返す必要はありません。私たちを救うために永遠に完全な方、御子イエスが私たちの大祭司でいてくださいます。この永遠に生きる方が、完全な大祭司として、ご自身を献げ物としてくださった。だから私たちは生きることができる。ヘブライ人への手紙は私たちにそう語りかけます。

2020年3月6日金曜日

2020年3月6日(ヘブライ人への手紙6)

ヘブライ人への手紙6;
「しかし、愛する人たち、こうは言うものの、私たちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになることはありません。」
このヘブライ人への手紙を読んでいくと、随分と厳しい思いにさせられます。「ひとたび光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしい言葉と来たるべき世の力を味わいながら、後に堕落した者たちは、再び悔い改めへと立ち帰ることはできません。神の子を自分でまたも十字架につけ、さらし者にしているからです。」この言葉は特にそうです。このように言われると、もう絶望するしかないと思います。しかし、アポロは私たちを絶望させるために、このように書いたのでしょうか?そうではないと思います。
確かに先ほどの言葉は強い警告です。私たちは、キリストがこの私のために十字架にかかってくださったという事実を、畏れをもって受け止めます。軽んじることは許されません。しかし、この手紙は私たちを励ますために書かれた手紙です。ですから、今朝、冒頭に掲げた言葉が記されているのではないでしょうか。「しかし、愛する人たち、こうは言うものの、私たちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになることはありません。」この手紙は、私たちの営んでいる小さな信仰生活の中にある、神と隣人とに仕える小さな業を忘れることがありません。そこで示された僅かばかりの小さな愛を、神様の御前に覚えています。そして神ご自身が、ご自分の義にかけて、私たちの働きや愛を忘れないでいてくださる、と言うのです。何という慰めに満ちた言葉でしょう。
ですから、あの厳しい言葉も、この神様の私たちを忘れないでいてくださる憐れみを忘れるな、という必死な警告なのではないでしょうか。肉を取られたイエスが私たちの弱さを知り、同情し、執り成してくださっていることに信頼しよう、この方の愛から決して離れないでいよう、という招きなのではないでしょうか。イエスの愛が、私たちを神の御許へ招きます。

2020年3月5日木曜日

2020年3月5日(ヘブライ人への手紙5)

ヘブライ人への手紙5;
4:14で「偉大な大祭司、神の子イエス」と言っていました。イエスは大祭司。大祭司とは何をする存在なのか。「大祭司は皆、人々の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える務めに任命されています。」大祭司は、私たちの罪のための供え物を神に献げる存在です。イエスが、この大祭司の務めを果たしてくださる。最初の大祭司はモーセの兄アロンでした。アロンは神に召されて大祭司という光栄ある務めに就きました。「同じようにキリストも、大祭司となるという栄誉をご自分で得たのではなく、こう言われた方がお与えになったのです。『あなたは私の子、私は今日、あなたを生んだ。』」神がキリストを大祭司としてお立てになった、と言っています。
キリストという大祭司は「罪のための供え物やいけにえを献げ」てくださいます。この「罪のための」という言葉を、改めて味わいたいと思いました。私たちは自分が間違いを犯したり信仰をゆるがせにしてしまうことを、単に自分が弱いからだと考えがちです。しかしそれは、事柄の矮小化なのだと、この言葉を読んで思いました。問題の本質は罪です。神様に向かって生きることをやめてしまうなら、それこそが私たちの罪なのではないでしょうか。キリストは、私たちの罪のための供え物やいけにえを献げてくださいます。
罪のための供え物やいけにえについては旧約聖書の特にレビ記に詳しく書かれています。旧約の時代には動物を献げていました。しかし、キリストはご自身を供え物にしてくださいました。私たちの罪が神の前で赦されるために。ご自分の、私たちと同じもろくて崩れやすい肉体を神に献げてくださったのです。
「キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。そして、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクに連なる大祭司と呼ばれたのです。」
キリストはご自分の苦しみを通して私たちのための大祭司となられ、私たちのために、今日も神に執り成してくださっています。

2020年3月4日水曜日

2020年3月4日(ヘブライ人への手紙4)

ヘブライ人への手紙4;

「だから、神の安息に入る約束がまだ残っているのに、入り損ねる者があなたがたの内から出るなどということがないように、注意しようではありませんか。」

苦しみの時代を生きていた、恐らくローマにあった教会に宛てられた手紙です。受け手の教会の人々の中には、自分たちのさらされている苦しみに負けて、信仰を捨ててしまう者もいたようです。それで、「神の安息に入る約束がまだ残っているのに、入り損ねる者があなたがたの内から出ることがないように、注意しよう」と呼びかけています。

そしてその励ましの参照点にするのが、一つには、旧約の民です。彼らの多くは試練の中で信仰を捨ててしまいました。「福音が告げ知らされているのは、私たちも彼らも同じだからです。しかし、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。」旧約の民は神に背いた否定的な媒介として、私たちの目を神様に向けさせます。そして、もう一つの参照点は、他ならぬ神様ご自身なのです。「なぜなら、ある箇所で七日目について、『神は七日目に、そのすべての業を終えて休まれた』と言われているからです」と述べています。」神様ご自身がこの手紙の招きの根拠なのです。神様ご自身がこの天と地とをお造りになり、そして安息日にお入りになった。何の仕事もせず、ただ、安息なさった。この安息に私たちは招かれている。だから、いただいた信仰を堅く守り抜こうと言うのです。

ここで、再びヘブライ書は主イエス・キリストを「イエス」とお呼びします。「さて、私たちには、もろもろの天を通ってこられた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。」しかも、「神の子イエス」と呼んでいます。第一章で「御子」と呼んだ方は人間イエスとして私たちの間に宿り、神はこの方をキリストとして私たちを救われた。その神の子イエスは、私たちのための大祭司です。この方は私たちの弱さに同情してくださる。憐れんでくださる。ご自身が試練に遭ったからです。私たちが神の安息に入るための執りなしを、この方がしてくださいます。そうです。神に背いた旧約の民と私たちとの差は、ただこの主イエスという大祭司を知っているかいないか、というだけにすぎません。

2020年3月3日火曜日

2020年3月3日(ヘブライ人への手紙3)

ヘブライ人への手紙3;
「だから、天の召しに与っている聖なるきょうだいたち、私たちが告白している使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。モーセが神の家全体にわたり忠実であったように、イエスは、ご自分を任命した方に忠実であられました。家を建てた者が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。・・・キリストは御子として神の家を忠実に治められます。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、私たちこそ神の家なのです。」
ヘブライ人への手紙がいつ、誰に書かれたのか、もともと誰に宛てられた手紙だったのか。それはよく分かりません。パウロの手紙のように手紙の本文中にそのことが明らかにされていないので、はっきりしない。ただ、パウロと共に伝道者として活躍していたアポロの書いた手紙なのではないか、もともとはローマの教会に宛てられた手紙なのではないかという説があります。魅力的な説だと私は思っています。そしてローマと言って私たちが世界史から知っている事実は、キリスト者に対する大迫害があった場所だ、ということです。このヘブライ人への手紙を読むと、この手紙の受け手は苦しみの中にあったということが分かります。「今日、あなたがたが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けた頃、神に背いたときのように、心をかたくなにしてはならない」という旧約聖書の言葉を引用していますが、今、この手紙を受け取って呼んでいるローマのキリスト者が試練の中にあり、神に背いてしまいかねない危機に直面していたことが窺われます。
そのようなときに先ずこの手紙が思い起こさせたのが、私たちのきょうだいになってくださったイエスです。そして今朝の箇所では、そのイエスが神によってキリストとして、神の御子として、神の家を治めておられると言っています。
このキリストが、苦しみの中にある私たちの救いです。「私たちは、初めの確信を終わりまでしっかりと保つなら、キリストにあずかる者となるのです。」心を惑わせる時代の中にあって、初めの確信を保とうと呼びかけます。私たちのきょうだいイエスを、神はキリストとしてくださり、この世を治める方としてくださいました。不信仰に陥ることなく、キリストへの確信に生き続けよう。聖書は私たちをそのように招きます。

2020年3月2日月曜日

2020年3月2日(ヘブライ人への手紙2)

ヘブライ人への手紙2;
この手紙を読むときの一つのポイントは、イエス・キリストをどう呼んでいるかということです。昨日の第一章では「御子」と呼んでいました。今日の第二章は「イエス」となっています。なぜか。「子たちは皆、血と肉とを持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました」と言っています。イエスは、人間イエスです。私たちと同じ血と肉を持つイエスです。血と肉を持つということは、何よりも死ぬ者だということを意味します。「ただ、『僅かの間、天使より劣る者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と誉れの冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれたのです」と言っているとおり、イエスが一人の肉と血を持つ人間として死なれたのは私たちのためだったと聖書は言います。
「それはご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されるためでした。」悪魔は、私たちの死の恐怖によって私たちを奴隷にしている、とヘブライ人への手紙は言います。ここが、聖書の人間理解の一つの鍵なのだと思います。今、新しい病気のために社会が混乱しています。死への恐怖が生み出す混乱です。聖書は、そこに悪魔的な力の支配を見ています。それは、もちろん、病気なんて気にせずに無防備でいることが正しい、などという意味ではありません。適切な予防や健康管理は当然のことです。しかし、恐怖が私たちの目を見えなくさせることも事実です。
そんな私たちにとって、イエスが私たちと同じ肉体をもって生きてくださったことは、何と慰め深い事実でしょうか。私たちが信じる神様は、ご自身の経験として、この肉体の弱さやもろさを知っていてくださいます。病の苦しみも、主はご存じです。そして、主は、死を恐怖なさいました。十字架の上で『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』と叫ばれました。いや、この叫びは私たちが知っている死への恐怖どころの話ではありません。死の本質、神に捨てられるという事実を知り抜いて、キリストはこの叫びを口にされたのです。「多くの子たちを栄光へと導くために、彼らの救いの導き手を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」この方が、私たち、もろくて崩れやすい肉体を持つ私たちを救いへと導いてくださいます。
私たちは、私たちのきょうだいになってくださったイエスを見上げましょう。「イエスは、神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥めるために、あらゆる点できょうだいたちと同じようにならなければなりませんでした。事実、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」アーメン!

2020年3月1日日曜日

2020年3月1日(ヘブライ人への手紙1)

ヘブライ人への手紙1;
「神は、かつて預言者たちを通して、折に触れ、さまざまなしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子を通して私たちに語られました。神は、御子を万物の創造者と定め、また、御子を通して世界を造られました。」
神学の言葉で「啓示」という言葉があります。神様がご自分を私たちに自己紹介してくださっていること、それを啓示という言葉で言い表します。かつて、預言者たちを通して神は語りかけてくださった。預言者たちの言葉を通じて、神様が私たちにご自身を紹介してくださってきた、と言います。しかし今や、神は御子によって私たちに語りかけておられる、とこの手紙の著者は驚きながら私たちに訴えています。神様はご自分の御子によって、私たちに語りかけてこられました。ですから、私たちは神様の御子に一心に目を向けていれば、それで、神様の御心が分かるということになります。
この世界は、御子を通して神に造られたもの。神様の御子への信仰を持ってこの世界を見れば、世界の姿も変わって見えてくるということではないでしょうか。この世界の美しさは、私たちの心を打ちます。しかし、ときにこの世界は私たちに襲いかかってきます。詩編121に「私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか」という言葉があります。ここに出て来る「山々」は、美しい自然の風景であって、その美しさを見ているとこれらを造った神様の素晴らしさを感じる、という意味ではありません。この山々は私たちに襲いかかってくる脅威です。更に読み進めれば「昼、太陽があなたを打つことはなく、夜、月があなたを打つこともない」と言っています。この太陽も月も、山々と同じ脅威です。詩編作者がこのような自然の脅威を恐れないで済むのは、「私の助けは主のもとから、天と地を造られた方のもとから」来ると信じているからです。その確信は、神の御子を通して世界を見つめるときに確かにされます。
御子こそ、私たちと世界とをつなぐ架け橋です。この世界の脅威も、あるいは美しさだって、御子にあってこれを見つめ直すと、その意味が変わるのではないでしょうか。この神様の御子こそ、あらゆる天使にまさる方、礼拝されるべき方です。私たちは、この主の日に、このお方の前に進み出て行きます。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...