2019年10月31日木曜日

2019年10月31日(哀歌5)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書8:31~59、哀歌5

哀歌5;
主よ、私たちに何が起きたかを思い出してください。目を留めて、私たちの受けたそしりを御覧ください。(1節)
神が私たちを救ってくださるのでなければ、どうして救われるのだろうか。神が私たちを思い起こしてくださるのでなければ、どうして私たちは救われうるのだろうか。この哀歌の祈りからはその切実な思いが伝わってくる。
私たちは十分なパンを得るために、エジプトやアッシリアに手を差し伸べた。私たちの先祖は罪を犯して亡くなり、彼らの過ちを私たちが背負っている。(6節)
エジプトやアッシリアとの軍事同盟にイスラエルの罪を見、警告を繰り返したのは預言者エレミヤであった。軍事的な力、政治的な力に頼り始めたイスラエルは、神に祈り、神に頼ることをおろそかにし始めた。神からは離れることを、聖書は罪と呼ぶ。私たちの先祖は罪を犯しました、と聖書の民は告白する。
聖書の中に記されている罪の告白は、単に私はこれこれこういう悪いことをしました、というのには留まらない。民の罪、先祖の罪を、自分たちの口を通して告白する。自分が生まれる前の時代の先祖の罪の結果を、自分のこととして背負っている。私たちは、どうなのだろうか。神を神とせず、その結果として、人を人とも思わぬ歩みを重ねてきてはいないだろうか。
長老が城門に集うことも、若者が楽器を奏でることもなくなった。私たちの心から喜びは消え、踊りは喪の嘆きに変わった。冠は私たちの頭から落ちた。何という災いだ。私たちは罪を犯したのだ。そのために私たちの心は病み、このために目は暗くなった。(14~17節)
城門は、今で言えば裁判所や役所のような機能を果たした場所。そこに町の知恵を担う長老たちが集まって、裁きをしていた。その機能が失われている。若者の喜ぶ歌声も失せた。この町の栄光は失われた。社会が、人々の心が、病気になってしまっている。この「病」というのは、必ずしも診断名をつけられる病とは限らない。人の心が捉えがたく病んでいる。神を捨ててしまったから。罪に病んでいる。死に至る病、絶望に冒されている。「主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。私たちは立ち帰りたいのです」(21節)と、私たちも共に祈る。そして、そのために私たちのところへ来てくださった神ご自身、イエス・キリストをただ仰ぐ。

箴言9:7~12「不遜の咎」


「不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。」とても耳が痛い。叱られる者として、である。自分を叱る人を憎むことは不遜のしるしに他ならないのだ。不遜は知恵と両立しない。叱責を受け入れることがすでに知恵の始まりであり、更に知恵を得る道なのだ。それは「主を畏れることは知恵の初め」と言うとおり、主の前に自分を絶対化しない謙遜と結びつく。心柔らかな知恵である。

2019年10月30日水曜日

2019年10月30日(哀歌4)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書8:1~30、哀歌4

哀歌4;
飢えに貫かれる者より、剣に貫かれる者のほうがましだ。刺し貫かれて死ぬほうが、畑の作物がなくて死ぬ者よりもましだ。(9節)
戦後の食物が豊かな時代の日本に生きてきた私は、飢えを知らない。正直に言って、そのことを痛感させられる言葉だった。剣に刺し貫かれて死ぬよりも苦しい、飢えの苦しみ。その苦しみは、さらにこのように言われる。
憐れみ深い女たちの手がわが子を煮炊きして、娘であるわが民の破滅の時に自分の食物とした。(10節)
母が自分の子を煮炊きして食べる。これほどの飢えに苦しんでいる。鬼のような母がそうした、と言っているのではない。どんなに憐れみ深い母も絶えられずにわが子を殺してしまうほどの飢えに襲われている。飢饉のための飢えではない。戦争である。戦火にさらされて、庶民が食べるものはもはやないのだ。いや、貴族にだって、この都そのものから食べ物がなくなってしまったのだ。もう、エルサレムは滅びるしかない。
私たちは、今の日本社会で、これほどの飢えにさらされることは、通常ではなくなった。社会のセーフティネットは年々弱ってはいるもののまだなんとか維持できている。しかし、思えば母がわが子を食い物にするような事件がたびたび起こっている。父がわが子を食い殺すかのように痛めつける事件が報道される。私たちは見聞きする度に、心を痛める。いや、心を痛めるだけではもうすまない所まで事態は進んでしまっているのではないだろうか。哀歌の歌を歌った信仰者は、この悲惨に神の裁きを見ていた。私たちも、この社会を神との関わりの中で捉え直さなければならない。私たちは、キリスト者もそうでない者も等しく、この社会の中で心が貧しくなってしまっている。自分の感情の発露が優先されて、真理の追究をやめてしまった。感情が劣化した。その劣化は、親と子の絆すら破壊した。
今、私たちの世界は、深刻な傷のために呻いている。救いを求めている。哀歌の作者が見たのと同じ荒廃が広がっている。救いが必要なのだ。私たちを罪の沼から救いだしてくださるお方が必要なのだ。「マラナ・タ。主よ、来てください。」今日、私たちはそう祈り、歩んでいこう。

2019年10月29日火曜日

2019年10月29日(哀歌3)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書7:32~53、哀歌3

哀歌3;
主に軛を負わされたなら、黙って独り座るがよい。塵に口をつけよ。そうすれば希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を差し出し、そしりを十分に受けよ。(28~30節)
自分の実態と、とても違うと思わざるを得ない。苦しみのとき、それを主に負わされた軛として受け止め、黙って座っているだろうか。苦しいという事実だけでいっぱいになってしまい、主なる神様との関わりの中でそれを受け止め直すことがなかなかできない。あるいは、神様が登場したとしても不平不満をつぶやくばかりになっている・・・。しかし、哀歌の祈りに私の心を合わせるなら、哀しみの中から主なる神様を見上げることを学ぶ。哀しみの中では、自分の抱えている問題ばかりが大きくなってしまい、神様が小さくなっていく。哀しみや苦しみが神を小さくしているのではなく、私が神を小さくして、見くびっているのだ。ところが、哀歌は、哀しみの中で塵にはいつくばって口をつけるときにこそ、希望が見えるはずだと言う。神が、その哀しみの中におられるからであろう。それ以外には理由はないのではないか。
「主の慈しみは絶えることがない。その憐れみは尽きることがない。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は尽きることがない」(22~23節)。私たちは、主なる神様の慈しみと憐れみに信頼しよう。不信仰には、私たちがそれに付き合わなければならぬほどの価値がないのだ。しかし、主の慈しみは永遠だ。
「主は、ご自分に希望を置く者に、ご自分を探し求める魂に恵み深い。主の救いを黙して待ち望む者に恵み深く、若いときの軛を負う者に恵み深い」(25~27)。主の恵みを、黙して待ち望もう。決して私たちを見放すことも、見捨てることもないお方を、私たちは仰ぎ臨もう。ここに、私たちのための主の救いがあるのだから。

2019年10月28日月曜日

2019年10月28日(哀歌1〜2)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書7:1~31、哀歌1~2

哀歌1~2;
哀歌、哀しみの歌と呼ばれる五つの歌がここに残されています。どれも、エルサレムの陥落とイスラエルとユダの滅亡を嘆く言葉です。作者は分かりませんが、一説には預言者エレミヤとも言われます。聖書を読んでエレミヤの歩みを共にしてきた私たちには、分かるような気もするのではないでしょうか。この深い嘆きの言葉、哀しみの言葉は、エレミヤでないにしても、神の前に生きようと願う者の嘆きであろうと思います。それだけに、哀歌が伝える哀しみは、深く厳しいものです。しかし同時に、このように嘆きの言葉が与えられるということも、賜物であると思います。私たちの哀しみの日に、この哀歌に自分の思いを託して、この言葉を持って祈るということは、意味が深いと信じます。
「そのために、私は泣き、私の目から、この目から涙が溢れ出る。私を慰め、魂を生き返らせてくださる方が、私から遠ざかったからだ。敵はあまりに強く、私の子らは見捨てられている」(1:16)。廃墟になったエルサレムを見つめながら、あるいは捕囚の地に連行される旅路でか、それともエジプトへ下る人々の中でか、かつての礼拝の場所を思いつつ涙を流します。神が遠いからです。神の声が聞こえず、祈りが空しく響くからです。
「御覧ください、主よ。私は本当に苦しいのです。私のはらわたは痛み、心は私の内で動転しています。私が逆らい続けたからです。外では剣が子を奪い、家の中を死が支配しています」(20節)。哀歌は、嘆きを神に差し出します。どうにもならない嘆き、呻きを神に突きつけます。それでも、慰めが簡単に見えるわけではありません。しかし、他にこの哀しみを持っていくアテが他にないのです。
「わが目は涙が尽き、わがはらわたは痛み、娘であるわが民の破滅のゆえに、わが肝臓は地に注がれる。幼子や乳飲み子は町の広場で弱り果てている」(2:11)。もはや涙も出ない哀しみの中、自分も、周りの人々も、弱り果てています。この悲惨から、一体誰が救ってくれるのか。この信仰者は、哀しみのすべてを神にぶつけています。

2019年10月27日日曜日

コリントの信徒への手紙一第16章5から24節「主イエスを待ち望みつつ」


 使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙を読んできました。一年以上かけて読んできましたが、最後に来て、改めてこれは「手紙」なのだと思います。これは論文ではありません。まさに手紙と呼ぶにふさわしい、具体的な送り手から具体的な受け手へ宛てて書かれたものです。ステファナ、フォルトナト、アカイコという名前が登場しています。どういう人なのかは分かりません。しかしコリントの町から教会を代表して、エフェソにいるパウロのところへ訪ねてきてくれたのでしょう。そのことがパウロには嬉しかったのです。実に生き生きとしたやりとりです。この手紙を受け取ったコリントの教会は、皆でいっしょにこの手紙の朗読に耳を傾けたのでしょう。いつ、この手紙が読まれたのか。学者たちは口をそろえて言います。主の日の礼拝の席に違いない、と。恐らく、今私たちの教会で説教が語られ、それを聞くように、パウロの手紙も礼拝で朗読され、皆でそれに耳を傾けたのです。
 「主イエスの恵みが、あなたがたと共にありますように」という祝福の言葉は、当時の礼拝で告げられていた言葉に違いありません。パウロは、コリント教会のことを「あなたがたはキリストの体」だと呼んでいました。キリストの体、教会。それは主イエスの恵みによって建てられます。教会とは、建物のことではありません。キリストに呼び集められた神の民、共同体のことです。建物は35年とか50年とか建てば、次第に経年劣化します。メンテナンスしなければ、その傷はますます深くなります。教会という共同体にもメンテナンスは必要です。パウロはまるで熟練した建築士のように、教会共同体がもう一度キリストにあって建て直されるようこの手紙を書きました。
 コリント教会には、分派争いがありました。この世の性的な乱れを無批判に受け入れている人もいました。しかし他方には生涯独身を貫こうという高潔な人もいた。富んだ人もいたので、豊かだったかもしれません。自由人という当時の社会のハイソサエティに属す人がいたので、社会の尊敬を得やすかったかもしれません。礼拝では異言で特別な祈りをすることできる人もいました。賜物が豊かな共同体でした。しかし、教会は深刻に傷ついていました。その急所は一体どこにあるのか。パウロは見抜いていました。この手紙の最後にも、それが顕れていると思います。パウロは手紙を閉じるにあたって、自分の手で「マラナ・タ」と書きます。「主よ、来てください」という意味です。主イエス・キリストを待ち望む祈りの言葉です。私たちは、キリストを待ち望む教会として生きているか?それがここでの問いの急所です。
 大切なお客様をお迎えするとき、私たちは家をきれいに掃除します。お客様に気持ちよく来て頂けるよう準備します。キリストをお迎えするために私たちは何をして待つのでしょう。「何事も愛をもって行いなさい」とパウロは命じました。思えばこの手紙は、第13章は言うに及ばず、結婚の問題にしても偶像に供えられた肉の問題にしても、すべて愛をもって行えと言い続けていました。この愛は、十字架にかけられたキリストによって示された愛です。その愛に私たちが生きることこそ、主をお迎えする準備に他なりません。私たちも、主キリストが来てくださるのを待ち望んでいます。

2019年10月27日(エレミヤ書51〜52)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書6:41~71、エレミヤ書51~52

エレミヤ書51~52;
力によって地を造り、知恵によって世界を固く据えられた方。この方が英知によって天を広げられた。主が御声を発せられると、天の大水はとどろく。地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、風をその倉から送り出される。人は皆、愚かで知識がない。鋳物師は皆、偶像のゆえに恥をかく。鋳物の像は偽りにすぎず、その中には息がない。それらは空しく、嘲笑の的。刑罰の時には滅びてしまう。ヤコブの受ける分はこのようなものではない。その方は万物を形づくる方であり、イスラエルはその方ご自身の部族である。その名は万軍の主。(51:15~19)
イスラエルは主の民でありながら主を捨て、空しいものの後を追って自ら空しくなってしまいました。神ならぬものを神としてあがめ、欲望の奴隷になって国は混乱し、遂には滅んでしまいました。主の裁きを受けました。しかし、彼らを裁いた同じ主が、彼らを回復させてくださいます。裁きのための道具としたはずのバビロンを逆に裁いてでも、主は熱情をもってイスラエルを回復させてくださいます。
空しいもののために恥を受けてはならない、人間が造ったものに過ぎない像にひれ伏し、自分たちの欲望を神としてはならない。そう呼びかけます。そして、天と地とそこにあるすべてのものを造る力をもって、イスラエルを救ってくださいます。「お前たちは、私の民だ」と言って、ご自分のものとして、滅びるままにはさせておかれないのです。
この方は、私たちの神です。私たちは、ご自分の胸を焦がし、ご自分が痛んでまで私たちを救って下さるお方を「私の神、私たちの神」と信じ、この方の独り子を救い主と信じています。主よ、救ってください。主よ、憐れんでくさい。そう祈りつつ、今日一日の歩みを始めていきましょう。

2019年10月26日土曜日

2019年10月26日(エレミヤ書50)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書6:1~40、エレミヤ書50

エレミヤ書50;
「カルデア人の地バビロンについて、主が預言者エレミヤを通して語られた言葉」(1節)。ここに記されているバビロンについての預言は、「バビロンは占領され、ベルは辱められた」(2節)と言われているように、バビロンに対する裁きの預言です。バビロンが倒され、イスラエルへの救いの預言がなされています。「その日、その時にはイスラエルの子らが来る、彼らもユダの子らも共にーー主の仰せ。彼らは泣きながらひたすら歩き、彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンを訪ね、顔をその方向に向けて言う。『さあ、行こう。主に連なろう。永遠の契約が忘れられることはない』と」(4~5節)。
この章を読んでいくと、少し戸惑ってしまいます。イスラエルへの救いの言葉は好いとしても、バビロンが、いくら敵だとは言ってもここまで言われて良いものだろうか、と。「バビロンの地から逃れた者や難を免れた者の声が、シオンで、我々の神、主の復讐を、その神殿の復讐を告げ知らせる」(28節)。近代戦による戦争の惨禍を知る私たちには、戸惑いをも与える言葉ではないでしょうか。
私たちがこの預言の言葉を読むときに一つわきまえるべき事は、力の非対称性です。この時のイスラエルは、圧倒的に非力でした。政治的にも軍事的にも、すでに滅亡したイスラエルがバビロンに復讐することは実際上は不可能です。対等な力を持つ者同士の間の言葉ではありません。
もう一つには、復讐を求める詩編の祈りの言葉もそうですが、イスラエルや預言者にできたのは、祈ることだけです。復讐は神に属することであって、実際に手を下さすのは自分たちではありませんでした。そして、祈るだけというのは、言葉を換えれば神に委ねるということです。自分たちのこれからも、敵との関わりも、神様にすべてを任せる。私たちはそのようにして神様のもとに逃れていきます。

2019年10月25日金曜日

2019年10月25日(エレミヤ書48〜49)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書5:19~47、エレミヤ書48~49

エレミヤ書48~49;
モアブ、アンモン、エドム、ダマスコ、ケダルおよびハツォルの諸王国、エラムへの主の言葉がエレミヤの口を通して語られます。主は、ただイスラエルの神であるだけでなく、全地の主でいらっしゃるという事実に改めて気づかされます。これらの諸国も、神がお造りなった世界にあります。もちろん、私たちの国も。まだ旧約の時代なので、新約を知っている私たちの感覚ではなかなか捉えきれないようなところもあるかも知れませんが、しかし何よりもまずは主なる神様が異邦の国々をも治める方だという事実に目を向けたいと思います。
私たちに引き寄せて言えば「キリスト教は西洋の宗教だ」という考えをしない、ということにもなろうかと思います。確かにローマに福音が届けられて以来、教会は長いことヨーロッパに根ざして歩んできました。しかしそもそもアブラハムは中央アジアの辺りから出てきていますし、イスラエルは中近東です。いや、もっと根本的に、神様が世界の主でいらっしゃるということを私たちはもっと重んじるべきです。ですから、基本的に、神の民イスラエルが問われていることは、すべての人が同じように問われることでもあるのではないでしょうか。
「逃げよ、自分の命を救え。しかし、あなたがたは荒れ野の中のアロエルのようになる。自分の業と宝に頼ったので、あなたもまた占領される」(48:6~7)。私たちは自分の命を救うために、一体何に頼るのでしょう。神様は、私の業と宝に頼れ、とおっしゃっているのではないでしょうか。神の御許にこそ、私たちの救いがある。それは、誰にとっておも同じ事です。ここに救いがあります!ここに私たちの幸いがあります!私たちは、すべての人のための、キリストの救いの言葉を託されています。

2019年10月24日木曜日

箴言9:1~6「知恵の家への招き」


ここでは知恵の呼び声が、面白いことに家に象徴されて言い表されている。七本の柱を刻んで立て、獣を屠り、酒を調合し、食卓を整えて、呼びかける。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」と。ここは知恵の家、知恵の振る舞いを楽しんで、分別の道を学ぶための家だと言うのだ。知恵は楽しいものでもあることが分かる。知恵は真面目さではない。柔らかな心で人生を楽しみ、何にも増して神を畏れ、礼拝する。生き生きとした人生だ。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...