2024年11月30日土曜日

2024年11月30日の聖句

心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)
愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。(ローマ13:10)

私たちに他の何でもなく愛することを求める聖書のまなざしは、本当にすごいと思います。私たちには、立派な行いや信仰深く見える敬虔な振る舞いをしながら全く愛を欠いているということが現に起きます。もっともらしいことや正義を確信しながら、その実、愛にもとる自分であるということが実際に起きてしまいます。
愛は目に見えません。外から判断することができません。「しかし」というべきか、あるいは「だからこそ」と言うべきか、愛をこそ神は求め、私たちに期待しておられる。
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」私たちの全身全霊を傾けて、神を愛する。しかし、言うは易し行うは堅し、です。目に見えず誰からも判断できないからこそ、愛することは本当に難しい。しかも「愛」という言葉の美しさも相まって、実際に愛するということのなんと難しいことでしょうか。
隣人への愛についても、聖書は言っています。「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」愛こそが律法を全うする。愛する者は掟を実行している。神が私たちに求めておられるのは、愛することです。
愛を前にしてこそ、私たちの罪が明らかになります。愛からほど遠い自分であることが露わになってしまいます。ほかの誰でもなく、神の御前に。そして自分の良心に対して。この罪深い者をなお愛してくださる神を慕い求め、神の赦しを求め、私たちは今日の祈りの道を上っていくのです。

2024年11月29日金曜日

2024年11月29日の聖句

(主よ、)あらゆる富にも増して、あなたの定めの道を喜びとします。(詩編119:14)
(イエスの言葉)私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。(ヨハネ15:10~11)

私たちが主イエスさまの愛にとどまるとは具体的に言えば主の戒めを守ることだ、とおっしゃっています。主のご命令に従うことが主を愛することに他ならないのです。
私たちはそのことをすぐに忘れてしまうのではないでしょうか。あるいは、言い訳をしながら忘れたふりをしてしまうこともあるかもしれません。少なくとも、私はそういう自分であることを否定できません。しかし、主イエスははっきりとご自分の戒め、ご命令に従うようにとおっしゃっています。
それでは主のご命令とは何か、どこに神の御心があるのか。例えば、聖書にはこのように記されています。「人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を愛し、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。(ミカ書6:8)」神は人間社会の中でずっと虐げられてきたやもめやみなしごを守り、寄留する外国人や病気の人を愛しておられます。この神が私たちに求める公正、慈しみとは一体何でしょうか。へりくだりとは一体何でしょうか。私たちが神と共に歩むとき、私たちは誰の隣人になるのでしょうか。
主イエス・キリストは私たちがキリストの戒め、愛の戒めに従うことを求めておられます。このキリストの御心を深く心に刻みたいと願います。

2024年11月28日木曜日

2024年11月28日の聖句

あなたがたは主の祭司と呼ばれ、私たちの神に仕える僕と言われる。(イザヤ61:6)
こういうわけですから、人は私たちをキリストに仕える者、神の秘儀の管理者と考えるべきです。(1コリント4:1)

主なる神さまは私たちをご自身に仕える祭司と呼んでくださいます。私たち一人ひとりが主の祭司です。
祭司は、人々のために祈ります。人々のために神を礼拝します。
祭司は、牧師とか神父とか、そういう特別な人だけの話ではありません。すべてのキリスト者は主に仕える祭司です。改革者マルティン・ルターはその事実を「普遍的祭司職」と呼びました。すべてのキリスト者は隣人のために神に仕える祭司です。
主なる神に仕える祭司。あなたもその一人。あなたも神に仕える僕の一人です。この事実を今日のコリントの信徒への手紙では「神の秘儀の管理者」という特別な言葉で言い表しています。神の秘儀。主イエス・キリストという神の子の十字架と復活の福音。ユダヤ人だけではなく異邦人をも救う神の福音。この神の秘儀に仕える管理者。それは、私たちのこと。
私たちは自分自身のためだけではなく、神のため、隣人のために、福音という秘儀に仕えています。主イエス・キリストの愛と憐れみは私たちだけのためではなく、まだそれを知らない人や私たちの敵のためのものでもあります。私たちは祈り、主と人とに仕え、キリストに示された神の愛に従って、この世で与えられた務めに仕えるのです。

2024年11月27日の聖句

主よ、あなたは私たちに平和を備えてくださいます。あなたは私たちのためにすべての業を成し遂げてくださいました。(イザヤ26:12)
(パウロの手紙)終わりに、きょうだいたち、喜びなさい。初心に帰りなさい。励まし合いなさい。思いを一つにし、平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。(2コリント13:11)

いつの時代であっても、人間が集団で生きている以上は争いがあるし、平和は切実な問題です。私たちにとっても、そうではないでしょうか。私たちの国は確かにこの79年間戦争が起きてはいませんが、今も私たちと同じ人間が戦争に巻き込まれていることも、あるいは同じ人間が戦争に対して積極的に加担していることも、事実です。私たちは見ないで済ませてしまうことができていますが、そうではない人がたくさんいます。
平和。一体どこに行けば平和があるのか。どうすれば平和になるのか。私たちは日々問い、また考え、途方に暮れ、諦めているのではないでしょうか。
本当の平和は、神さまにしか作ることはできないのでしょう。まことの平和は、神の国でしか実現しないのだと思います。しかし私たちは「人間には所詮無理だ」と言い訳せず、平和を造り出す人として生きていきたいと願います。「思いを一つにし、平和に過ごしなさい。」聖書はそのように言います。教会の話をしています。教会は神の国の先取りです。私たちは教会という神の国の始まりにおいて平和を造り、この世界に神の平和の先触れとして証しをする。そういう役目が与えられています。教会に平和が実現することこそ、この世界の平和のための第一歩なのだと私は信じています。心を合わせて「御国を来たらせたまえ」と祈りましょう。

2024年11月26日の聖句

イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自分を隠される神。(イザヤ45:15)
この恵みは、すべての聖なる者のうちで最も小さな者である私に与えられました。キリストの計り知れない富を異邦人に告げ知らせ、すべてのものを造られた神の内に永遠の昔から隠されていた秘儀の計画がどのようなものであるかを、すべての人に明らかにするためです。(エフェソ3:8~9)

「すべてのものを造られた神の内に永遠の昔から隠されていた秘儀の計画」と書いてあります。神様ご自身のうちに秘められ、秘密にされていた計画がある、と言います。一体どのような計画なのでしょうか。
今日はエフェソの信徒への手紙第3章8,9節が与えられていますが、その直前の6節に、この秘儀の計画の内容が書かれています。「すなわち、異邦人が福音により、キリスト・イエスにあって、共に相続する者、共に同じ体に属する者、共に約束にあずかる者となるといいうことです。」神ご自身のうちに秘儀として隠されていた計画、それは、異邦人も主イエス・キリストの福音にあずかる者となるという計画だ、というのです。
旧約聖書は、確かに、救いはユダヤ人を中心に与えられると書かれているように読めます。神はユダヤ人をお選びになったのであって、異邦人は神の選びの外にいるし、救いにあずかることがない。だから神の救いにあずかるためにはまずユダヤ人にならなくてはいけない。別の手紙で割礼の問題が出て来るものがありますが、割礼はユダヤ人の民族性の象徴です。割礼を受けるとは、ユダヤ人になることを意味する。まずユダヤ人になることで救いにあずかる。しかし、神ご自身のうちに秘められた計画はそうではない。異邦人が異邦人として神に受け入れられている。ユダヤ人も異邦人も同じ体につながるものであって、どんな人でも神の約束に共にあずかっている。救いや祝福の外にいると思われていた人にも神の手は伸ばされている。無条件で救われる。
神さまの手は私たちが思っているよりも長いのです。救いの外にいる、神さまとは関係ないと私たちが思い込んでしまう人にも、神の手は伸ばされています。すべての人に、神の秘められた計画が宣べ伝えられるために、私たちもまた福音にあずかっている。この福音を証しするために。そのように、聖書は私たちに語りかけています。

2024年11月25日月曜日

2024年11月25日の聖句

主があなたを道で導かれたときに、あなたが、あなたの神である主を捨てたので、このことを身に招いたのではないのか。(エレミヤ2:17)
(パウロの手紙)きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)

私たちは現代を生きる「時代の子」として、素朴に思います。神さまを信じるのも信じない者、それは個々人の自由だ、と。確かに一方ではその通りで、無理矢理信じさせるということは誰にもできません。無理強いされたところに愛は生まれないし、信じるというのはそういうことではないと思います。
しかし他方で私は思います。神を信じない自由って、一体なんでしょうか。それは本当に自由なのでしょうか?本当に存在しているのは、神を信じる自由だけなのではないでしょうか。
「きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。」神が私たちを自由にしてくださいました。私たちは神の憐れみによって、神を信じる自由、神を愛する自由をいただいています。この自由を罪の機会にしてはならない。神を蔑ろにし、神を無視して自分の肉を満足させる機会としてはならない、と言います。
自分を満足させ、貪欲を満たし、自分のために生きること。そういうことを私たちは自由と思い込んでいるが、私たちはそれとは違う自由に招かれています。神を信じ、キリストに従って生きる自由です。本当に自由な生き方を私たちはすることができる。キリストが私たちを自由にしてくださった。神を信じる自由をくださったのです。

2024年11月24日日曜日

2024年11月24日の聖句

今週の聖句:
腰に帯を締め、灯をともしていなさい。(ルカ12:35)

今日の聖句:
わが民よ、私はあなたに何をしたというのか。何をもって、あなたを疲れさせたのか。私に答えよ。(ミカ6:3)
神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじるのですか。(ローマ2:4)

私たちが神を信じて知る恵みの一つは、悔い改めの恵みです。神さまの愛を知り、主イエス・キリストの恵みを知るとき、私たちは自分の罪を知ります。神の光の中で、初めて自分の罪を知ります。私たちにとって罪を知ることは、自分のへそをのぞき込みながら後悔したり、自己嫌悪に陥ったり、自分の駄目さ加減を嘆いたりすることではありません。それは聖書の言う「罪」ではない。罪はキリストの恵みの光の中でしか知りえない。だから、罪を知り、悔い改めをすることは神の恵みです。私たちをご自分の御許へ連れ戻そうとする神の呼び声の中での出来事だからです。
しかし、私たちの目には自分の駄目さばかりが映りますし、そうするとすごく責められたような気持ちになりがちです。神さまは「わが民よ、私はあなたに何をしたというのか。何をもって、あなたを疲れさせたのか。私に答えよ」とおっしゃいます。神はご自分の恵みの光で私たちを照らし続けてくださっているのに、私たちの方はそういう神の御心を拒み、神の伸ばされた手を振りほどこうとしてしまう。しかしそれでもなお、神は私たちを諦めないでいていてくださいます。「神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじるのですか。」
今日、神の招きに応えましょう。神の御前に悔い改め、祈りの道を歩んでいきましょう。

2024年11月21日木曜日

2024年11月21日の聖句

明かりを持たずに闇を歩くときでも主の名に信頼し、自分の神を支えとする。(イザヤ50:10)
闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いています。(1ヨハネ2:8)

ボーイスカウトでキャンプに行ったときのことです。大抵、木が生い茂っている場所でキャンプをしていました。夜になると真っ暗です。特に春のキャンプはまだ寒く、夜はさらに冷えてきますから、暗くて寒くてとても惨めでした。ところが懐中電灯の光が灯ると、とっても心強く、少し元気になったことをよく覚えています。
ところが今日の御言葉はさらにその先を行っています。「明かりを持たずに闇を歩くときでも主の名に信頼し、自分の神を支えとする。」真っ暗な中、明かりを持たなくても主の御名に信頼している。神を支えとしている。なぜか。主なる神様ご自身が私の光、と信じているからでしょう。それ以外の理由は考えられません。神が私の光でいてくださる。現代社会を生きる私たちが忘れている完全な暗闇の中で、このひとりの信仰者はそのように言うのです。
主イエス・キリストこそ私たちの光です。「闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いています。」主イエス・キリストというまことの光が私たちを照らす明かりとなってくださっている。私たちは闇の中に生きています。夜の闇よりももっと深い闇。罪の闇であり、悪の闇です。しかし神がそのような私たちが棲む闇を照らす光となってくださった。曙の光のように私たちを照らしてくださった。それがキリストというお方によって私たちにもたらされた新しい出来事。福音はそのように語り出すのです。

2024年11月20日水曜日

2024年11月20日の聖句

主は恵みに満ち、憐れみ深く、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても、思い直される。(ヨエル2:13)
(ぶどう園の主人に)園丁は答えた。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それでも駄目なら、切り倒してください。」(ルカ13:8~9)

ぶどう園にいちじくの木が植えられました。ぶどう園の主人は三年も実りを待っていましたが、一向に実を結ぶ気配がない。遂に堪忍袋の緒が切れて、園丁に「切り倒してしまえ」と言いました。それに対する答が今日の御言葉です。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それでも駄目なら、切り倒してください。」
これは主イエスの譬え話です。もちろん、畑仕事の話そのものが伝えたいメッセージではない。私たちの話をなさっています。「私」といういちじくが、神さまの期待する実りを一向に結ぼうとしない。「切り倒してしまえ」と神がおっしゃったとき、園丁である主イエスが言ってくださるのです。「父よ、今年もこのままにしておいてください。なんと髪を結ぶように私が世話をします。もし来年実を結べばよし、それでも駄目なら、切り倒してください。」・・・。どうでしょうか。やはり、最後が気になります。やはり、実を結ばなければ切り倒されてしまうのでしょうか。
私たちの園丁であるキリストは恵みに満ち、憐れみ深いお方です。もしも約束の時に実を結んでいなかったら、言ってくださるに違いない。「父よ、どうかもう一年だけ待ってください。私が責任をもちますから。」私たちはキリストの恵みと憐れみのお陰で、今日生きているのです。その憐れみに応えるために、私たちは今日どのような実りを結ぶのでしょうか?

2024年11月19日火曜日

2024年11月19日の聖句

私たちの魂は小鳥のように救い出された。仕掛けた者らの網から。網は破れ、私たちは救い出された。(詩編124:7)
イエスの話を聞くために、また病気を治してもらうためにきていた。汚れた霊に悩まされていた人々も癒やされた。(ルカ6:18)

主イエス・キリストは私たちを自由にしてくださいます。病も、汚れた霊も、私たちを捕らえることはできない。
私たちは比較的軽いものから重いものまで、さまざまな病に冒されます。それは、どのようなものであっても苦しいです。治らないこともある。しかし、私たちは病に支配されない。キリストが解放してくださった。キリストが自由を得させてくださった。病を知っておられる方が私たちの辛いところに手を伸ばしてくださっています。
「汚れた霊」は、病に比べて私たちにはイメージしにくいかもしれません。しかし私たちを捕らえる悪の力を「汚れた霊」と言い表す聖書のまなざしは鋭いと思います。一人ひとりの心がけや自覚、社会の中に時々出て来るかけ声やスローガンのようなものではどうすることもできない悪の力を、私たちもしばしば目にします。汚れた霊、悪霊。私たちの目には見えない、そして私たち人間の力を超えた悪の威力が確かにあると言わねばならないと思います。
しかし、私たちはそのような悪の力に対しても自由です。キリストが悪に打ち勝ってくださったからです。汚れた霊に悩む私たちをキリストが自由にしてくださいました。
「私たちの魂は小鳥のように救い出された。仕掛けた者らの網から。網は破れ、私たちは救い出された。」今日も生きて働いておられる神があなたを自由にしてくださるのです。この世に吹き荒れる悪の風は強い。しかし、自由な者らしく生きたいと願います。

2024年11月18日月曜日

2024年11月18日の聖句

いと高き方、あなたを喜び、祝い、その名をほめ歌おう。(詩編9:3)
主にあっていつも喜びなさい。(フィリピ4:4)

いつも喜びなさい、と言っています。「いつも」というのは、すごい言葉です。いつも喜べるわけではないし、いつも喜ばしいことがあるわけでもありません。喜びとは遠く離れたようなことも私たちには多い。そんな私たちがいつも喜べるとしたら、その理由はただ一つです。「主にあって」と言うとおり、主イエス・キリストにある喜び。これはいつどんなときにも変わることがない。キリストこそ私たちの変わることのない喜びの源泉です。
夏に富士宮に旅行に行きました。宿泊先のすぐ側に、白糸の滝という大きな滝があります。たくさんの観光客がいます。勇壮な眺めです。そこから少し外れたところに、お鬢水(おびんみず)という小さな泉があります。源頼朝が美しい水面を鏡にして髻を整えたという逸話が残っている場所なのだそうです。寂れていて殆ど人が来ることのない場所で、静かに、しかし確実に水が湧き出ている。小さな泉です。私は主にある喜びというのは、そういうイメージではないかと思います。人目に付く派手な喜びとか、大きなうれしさとか、そういうことではない。誰の目にも得に触れることなく、しかし確実に湧き出る泉のような喜び。静かな、しかし確かな喜び。キリストという命の水の湧き出る泉を私たちは知っています。
「いと高き方、あなたを喜び、祝い、その名をほめ歌おう。」私たちはキリストにある喜びを抱いて、主なる神さまを礼拝します。キリストを祝い、喜びを献げます。私たちのこの小さな営みを、神がその永遠の御心を持って憶えていてくださいます。

2024年11月17日日曜日

2024年11月17日の聖句

今週の聖句:
私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされなければならない。(2コリント5:10a)

今日の聖句:
あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っているーー主の仰せ。
それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。(エレミヤ29:11)
被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。(ローマ8:21)

なんとありがたい言葉なのでしょう!神が私たちのために立ててくださった計画、しかも主ご自身が誰よりもよくご存じでいてくださる計画、それは災いの計画ではない。私たちのために将来と希望を与える平和の計画だ、と主は仰せになります。神さまの御心は私たちに希望を与えるもの。私たちを平和へと導くもの。私たちは安心して神を信じてよいのです。なんとありがたいことでしょう!
私たちの希望、そしてこの世界にあるすべての造られたものの希望、それはこれです。「被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。」私たちは奴隷になっている。滅びの奴隷です。死と罪と悪の奴隷です。しかし神が私たちを解放してくださる。自由にしてくださる。私たちを神の子としてくださる。そして、この世界のすべての造られたものが、私たちの神の子としての栄光と自由にあずかる。壮大な希望を、私たちはキリストにあって抱いています。
ですから、今日の一日を自由な人間として生きていきましょう。私たちの神の子としての自由の何よりも発露は神を信じることであり、神に祈ること、賛美を献げること、福音を聞き、信じ、従うことです。私たちはキリスト者として生きる自由に招かれています。今日の、そしてこの一週間のあなたの歩みが神の子の自由に生きるものでありますように。祝福を祈ります。

2024年11月16日土曜日

2024年11月16日の聖句

私がエルサレムに対して行うあらゆる恵みの業について彼らが聞くとき、この都は地上のすべての国民にとって喜ばしい名声、賛美、誉れとなる。(エレミヤ33:9)
群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。いと高き所にホサナ。」(マタイ21:9)

エルサレム。イスラエルの王宮があり、そして何よりも主の神殿が置かれた町。しかし今は悲しい歴史が重ねられた町になってしまいました。主イエス・キリストはこのエルサレムに来てくださった。私たちはそのことを忘れることはできない。「ダビデの子にホサナ。」人々はそう叫んで主イエスを迎えました。「ホサナ」というのは、「救ってください」という意味の言葉です。主イエスをお迎えするにふさわしい言葉です。「主の名によって来られる方に祝福があるように。」そう叫んでお迎えしたお方が、ほんの数日後にエルサレムの町外れで十字架にかけられ、殺された。
エルサレムは私たちの罪を象徴する存在です。神の子が十字架にかけられた場所です。そしてこの町を巡って、歴史の中でどれほどたくさんの争いが重ねられてきたことでしょう。それが今も続いている。パレスチナ人は、エルサレムであってもガザであっても、非人間的な扱いを受けています。私たちは見ないで済ませることができてしまっていますが、今もなお私たち人間の罪が深まっています。
私たちは本当に神の助けを、救いを必要としています。私たちの世界の罪の悲惨を一体誰が救うことができるのか。神の憐れみを、神の恵みを、ひたすらな思いで待ち望みます。私たちの悪を打ち破り、救いを実現してくださる神を、私たちは待ち望みます。

2024年11月15日金曜日

2024年11月15日の聖句

人がその子を背負うように、あなたの神、主があなたを背負ってくださったのを、あなたは見た。(申命記1:31)
(弟子たちは)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。(ルカ24:35)

今日の二つの御言葉は、どうしてこの組み合わせなのかと思わせるものです。主があなたを背負ってくださった。そして、パンを裂いてくださったときに主だと分かった、という弟子たちの言葉。この二つの御言葉にどういうつながりがあるのか。
新約聖書はエマオへの道を主と共に歩んだ二人の弟子たちの言葉です。主イエスが復活した日の午後、エルサレムからエマオへ歩く二人の弟子たち。彼らは暗い顔をして歩いていました。そこに一人の男が近づいてきた。どうして暗い顔をしているのか。尋ねられるままに二人はこの数日間の出来事を話します。三日前にイエスが十字架にかけられたこと、今朝になって仲間の女たちが、「イエスは生きておられる」と言い出したこと。彼らはその復活の知らせを聞いて戸惑い、顔が暗くなっていたのです。その言葉を聞いた見知らぬ男、つまり主イエスは、エマオへの道すがら二人に聖書をときあかし、メシアは苦しみを受けて、栄光に入るはずだったと話してくださった。
エマオに着き、三人は共に食卓を囲みました。イエスがパンを裂いてそれを与えてくださったとき、彼らはそれが主であることに気付いた。エマオへの途上、主が聖書を話してくださったとき、私たちの心は燃えていた!そう語り合ってエルサレムへ戻り、仲間たちに言ったのです。「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」
ここまで新約の御言葉を読んで気付きます。あのエマオへの途上はすべて、主イエスに背負って頂いた道だった、と。主イエスご自身の背に乗せられ、信仰への道を運ばれていた。主が語り、主がパンを裂き、その恵みにあずかる道は、主の背中での歩みです。私たちは自分で歩いているようなときにも主に負われている。今日のあなたの祈りの道も、主が折ってくださっている恵みの道です。

2024年11月14日木曜日

2024年11月14日の聖句

見よ、天も、天の天も、地とそこにあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。(申命記10:14)
いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。(ルカ2:14)

天も地も、神がお造りになりました。見えるものも見えないものも、すべてを神がお造りになりました。「見よ、天も、天の天も、地とそこにあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。」すべては主のもの。主なる神が支配しておられる。
このような言葉を読んだとき、どうぞ、神話か昔話の一つのようにはお聞きにならないでください。聖書の中だけのお話とはお思いにならないでください。神がすべてのものを支配しておられる。その事実を、そのままに受け止めて頂きたいのです。
確かに、私たちの生きているこの世界はそれを信じるには過酷すぎます。終わることのない戦争。時を経る毎に深まる分断。この世にはびこる悪、弱い人が蒙る言われなき苦しみ。神がおられるなら、神がすべてを支配しておられるなら、なぜ・・・。誰もがそう問わないわけにはいかない現実が広がっています。
しかしそれは現代になって始まったことではありません。現代の私たちは理性的であるし、昔と違って現実をよく知っているから神を信じられない、ということではありません。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」この天使の言葉を最初に聞いたのは、羊飼いです。人口調査の対象にすらなっていない賤民として扱われていた人々です。私たちなんかよりも遙かにこの世の不条理や苦しみや辛い現実をよく知っている人々です。しかし、神の栄光と地の平和を宣言するこの言葉を聞いて、喜んだはずです。今日、お生まれになった救い主のゆえに。
私たちとあの羊飼いたちと、一体どっちが「現実」をよく知っているのでしょうか。まことの「現実」とは、この悲惨な世界に神の子がお生まれになったこと、この世界に神が来てくださっていること。それこそがまことの現実です。神が新しい出来事をはじめておられるのです。この世界を支配するために!

2024年11月13日の聖句

勇士の弓は折られ、弱い者が力を帯びます。(サムエル上2:4)
(パウロの手紙)それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。(2コリント12:10)

この世で力を振るい、力強い勇士の弓。力の象徴です。しかしそれが折られるときが来る、神がそれを折ってしまう、と言います。ここで言う「勇士」は、私たちの生活で言うと一体どういう存在でしょうか。力にみなぎり、およそ負けること、失敗すること、強さを失うことが想像できない存在。何らかの意味での社会的な成功者とか、有名で皆から尊敬されている人とか、そういう類いの誰か、ということになると思います。「勝ち組」と世間から言われるような存在でしょうか。しかし、その弓が折られるときが来る。神は勇士の弓を折り、弱い者に力をお与えになります。弱く、地に這いつくばって生きてきた人、強い人から気にもされていなかった人、苦しみや悲しみの人。そう言う人に神が力を与えてくださる。
使徒パウロは、まさにそういう人物です。パウロは弱きを知っていました。キリストを信じ、キリストに従って、弱さを知りました。「弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まり」。パウロは、キリストを信じ、キリストの弟子として生きたからこそ、苦しいこともあり、侮辱を受けることもありました。しかしそれをキリストのゆえに喜んでいる。そう言いながら、パウロは不思議なことを言います。「私は、弱いときにこそ強い」。私の弱さや苦しみの中で、キリストの力が十分に発揮されるから。私のために十字架にかけられて苦しんだキリストの憐れみの力が私の弱さの中で明らかにいなるから。パウロはそのように言います。
勇士の弓を折り、弱い者に力をお与えになる方は、私たちの弱きときに力を発揮してくださる方です。キリストの恵みは今日もあなたに輝いています。

2024年11月12日の聖句

静かに信頼していることにこそ、あなたがたの力がある。(イザヤ30:15)
神の国は言葉ではなく、力にあるのです。(1コリント4:20)

言葉が溢れかえってる時代です。少し前までは、一人の人間の言葉はその人の周りにしか届きませんでした。よほど特殊な手段を持っている人でない限り、不特定多数の人に言葉を広めることはできませんでした。しかし時代が変わり、誰もが発信の手段を持ち、世の中にはたくさんの言葉が溢れかえるようになりました。後から見れば当然の帰結であるかもしれませんが、その結果、言葉がインフレーションを起こし、あるいは摩耗し、陳腐になっていきました。こんなにも言葉が溢れているのに、あるいはそれ故にというべきか、言葉への信頼が著しく毀損されてしまった。言葉はたくさんあるけれど、その価値が貶められた時代である、と思います。
そうであるからこそ、本当に価値のある言葉を誰もが求めているし、本物の価値は高くなっているとも思います。使徒はパウロは言います。「神の国は言葉ではなく、力にあるのです。」数々の言葉を尽くして福音を語り続けた人の言葉です。言葉を信頼し、言葉によって福音を言い表すことに命をかけ、福音の言葉を届けるために命を献げた人の言葉です。ここでパウロが言う「力」は、神の力のことでしょう。神の国は私たちがどんなに巧いことを言って見せたり、それっぽい話術で説得して見せたりすることにあるのではない。神ご自身の力が働いている。神ご自身がその力をもって私たちのところへ来たらせてくださっている。神の国は、神の力にある。
だから、私たちは静かにして神を待ち望みます。世に溢れかえる空しい言葉に心を奪われるのではなく、静まって、神を待ち望む。そのための祈りの時を、私たちは神の御前に貴いものとして献げるのです。

2024年11月11日月曜日

2024年11月11日の聖句

イスラエルの子らは帰って来て、彼らの神である主と彼らの王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。(ホセア3:5)
誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。(マタイ7:8)

私たちは求めることが許されています。「誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。」神は求める者に与えてくださるでしょう。しかし、私たちは何を求めるのでしょうか?自分のため、自分の満足のため、自分の欲の充足のために求めるのでしょうか。それがいけないなら、自分の周りにいる人や世の中のために何かを求めれば良い、ということなのでしょうか。
そのようなことを考え始めたときにとても示唆に富んでいるのが、今日の旧約聖書の御言葉です。「イスラエルの子らは帰って来て、彼らの神である主と彼らの王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく」。主なる神を求める。主とその恵みを求める。私たちの一番根本的な求めを満たすのは、神ご自身以外にはいない。そのことを私たちはどれだけ知っているのでしょうか。
神ご自身を求める。神さまこそが私の慰め、私の救い。私たちも、本気でそのことを信じたい、と願います。預言者ホセアは何度も神を裏切り、神に対して不誠実な人々を前にして預言者として活動しました。主とその恵みに近づき、主の御もとに帰ることこそ私たちの救い。求める者は必ず受ける。主ご自身が罪深い私たちに臨んでくださる。ここに私たちの道がある。

2024年11月10日日曜日

2024年11月10日の聖句

今週の聖句:
平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

今日の聖句:
私の魂は私の神にあって喜び踊る。主が救いの衣を私に着せ、正義の上着をまとわせてくださる。(イザヤ61:10)
光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあります。(エフェソ5:9)

主が私に救いの衣を着せてくださった。正義の上着をまとわせてくださった。私たちは光の子。光の装いをしている。それは救いであり、正義であり、善と義と真理です。
こういう言葉を読むと、ついつい、私はちょっと違うかななどと考えてしまうかもしれません。しかし自分の心の中に起こる留保ではなく、聖書を信じてください。聖書があなたに向けているまなざしを信じてください。神が着せてくださったのです、あなたのために光の衣を!
私たちはもはや闇に属し、闇の業をして生きてはいきません。光の子として光の業に行きます。悪ではなく善に生き、不正ではなく義に生き、偽りではなく真理に生きます。私たちの心がけではなく、神が与えてくださる光の結ぶ実だ、と聖書は言います。だから私たちはいつでも心へりくだって御言葉に聞かないことにはどうすることもできない。真理の言葉、聖書の御言葉の光が私たちの歩むべき道を照らしています。
「私の魂は私の神にあって喜び踊る。」この喜びは、神に新しくして頂いた喜びではないでしょうか。神が救ってくださったこと、神が私を新しくしてくださったことへの驚きではないでしょうか。あなたの内に、神の御業が始まっています。

2024年11月9日土曜日

2024年11月9日の聖句

主の造られたすべてのものよ、主をたたえよ。
主の治めるすべての場所で。
私の魂よ、主をたたえよ。(詩編103:22)
御心の良しとされるままに私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。(エフェソ1:5~6)

神さまは、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしてくださいました。あなたは神の子です。神が愛する子、神の息子であり娘なのです。しかも、神はそれをご自分の御心に良しとされるままになさった、と書かれています。神さまが私たちを子とすることを喜んでくださって、ご自分の願いとして私たちを迎え入れてくださいました。さらに、そのことを「前もってお定めになった」ともあります。行き当たりばったりではなく、永遠の昔から、主イエス・キリストにあって私たちをご自分の恵みの契約の相手にするために私たちを造り、命を与え、生まれさせてくださいました。あなたは神が喜んでおられる神の子です!
私たちが神の子とされたのは、私たちが御子イエスによって与えられた恵みの栄光を賛美するためです。「主の造られたすべてのものよ、主をたたえよ。主の治めるすべての場所で。私の魂よ、主をたたえよ。」この詩編はとても興味深いです。すごくスケールが大きくて広い言葉と、本当に小さな自分自身の魂と、その両方が共存している。この世界のすべても、この私の魂も、すべてのものが神の恵みをたたえ、イエス・キリストによって与えられる神の恵みをほめたたえますように。それが私たちの願いです。

2024年11月8日金曜日

2024年11月8日の聖句

我々の神、主よ、我々を助けてください。我々はあなたを頼りとしています。(歴代誌下14:10)
約束してくださったのは真実な方なのですから、告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう。(ヘブライ10:23)

主イエス・キリストにあって神が約束してくださった福音。キリストそのものである福音。私たちはそれを信じている。神ご自身が真実なお方だから、キリストが真実でいらっしゃるから、この福音も真実に私たちを救うものであることを私たちは信じています。
「告白した希望」と聖書は言います。私たちも、かつて信仰を告白して洗礼を受けました。イエス・キリストを主、また救い主と信じてキリスト者になりました。あのとき告白した希望は、キリストの真実のゆえに確かです。ですから私たちもこの希望を揺らぎなくしっかり保つ。キリストこそ私たちの救いです。
どのようなとき、どのような苦しみの中にあっても、キリストは私たちの救いでいつづけてくださいます。私たちがキリストを見失ってしまうようなとき、不信仰にも揺らいでしまうとき、しかしなおキリストは支えてくださる。だからこそ、悔い改めてキリストの御もとに立ち返りましょう。そして祈りましょう。「我々の神、主よ、我々を助けてください。我々はあなたを頼りとしています。」神さまを頼りにしてよい。助けを求めてよい。このお方は私たちを決して見捨てず、見放すことのない、憐れみに満ちたお方だからです。

2024年11月7日木曜日

2024年11月7日の聖句

私だ。義をもって語り、救う力の大いなる者。(イザヤ63:1)
私の気前よさを妬むのか。このように、後にいる者が先になる。(マタイ20:15~16)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスのなさった譬えの最後の部分です。ぶどう園の主人が、自分のぶどう園で働く労働者を雇いに行きました。夜明けに行って、一日1デナリオンの約束で労働者を雇った。その後、主人は9時、12時、3時、5時にも広場に行ってそこにいた人を雇いました。夕方になって一日の仕事が終わり、主人は5時から雇われた人から始めて、皆に一デナリオンずつ支払いました。最後に夜明けから働いていた労働者の番になった。彼は自分はもっともらえるだろうと思っていましたが、やはり一デナリオンでした。彼は怒りました。それに対して主人が言った言葉が、今日の御言葉です。「私の気前よさを妬むのか。」
この話は、誰の立場で読むかによってずいぶんと感想が異なる話です。明らかに、主イエスは、私たちが自分は夜明け組だと思い込んでいるだろう、とお考えです。だから、わざわざ夜明け組が最後、他の皆の給料を見ることのできる順番に配置したのでしょう。私たちに「理不尽だ」と思わせるために。
神さまの恵みは、理不尽です。私たちの基準からすると不公正です。働いた分だけ、労働に見合った恵みではない。神は私たちが考えているよりもずっと気前が良いからです。そして私たちは気付くのです。夜明け組だと思っていたわたしは、実は5時から組だったのだ、と。神の救う力の大きさを侮ることなく、私たちの枠組みに押し込めずに、神の気前よさを喜びましょう。この気前よさが、このわたしをも救ってくださったのですから。

2024年11月6日水曜日

2024年11月6日の聖句

幸いな者、あなたの家に住む人は。
彼らは絶えずあなたを賛美します。(詩編84:5)
私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。(ローマ8:26)

聖霊なる神様は、神を信じる私たちをご自身の家としてくださって、私たちの内に住んでいてくださいます。この聖霊のお働きによって、私たちの内にも祈りが生まれる。「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。」言葉に表せない聖霊の呻き。聖霊は、私たちの内に住んで私たちと共に苦しみ、呻いてくださる。いやそれどころか、私たちに先立って神ご自身の霊が呻いていてくださる。
苦しいとき、悲しい時、私たちは祈りの言葉なんて出て来ないと思い込んでしまいます。しかしその私たちの呻きに先立つ神の呻きが私たちの内で始まっている。私たちは自分が苦しくて、呻きしか出て来ないと思っている。しかし実はその呻きは、私たちの内に住む聖霊の呻きに他ならないというのです。驚くべき言葉です。
「幸いな者、あなたの家に住む人は。彼らは絶えずあなたを賛美します。」ここでは「あなたの家に住む人」と言っています。主の神殿で耐えず神をほめたたえ、賛美する幸いを喜んでいる。ところが新約にいたって、聖霊ご自身が私たちの内に住んで、私たちを主の家としてくださるという逆転が語られていました。そうであればこそ、私たちはなおのこと神を賛美し、ほめたたえます。聖霊の私たちの内における賛美に声を合わせて。

2024年11月5日火曜日

2024年11月5日の聖句

私は彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。それは彼らが私の掟に従って歩み、私の法を守り行うためである。(エゼキエル11:19~20)
神の国はいつ来るのか。神の国はあなたがたの中にある。(ルカ17:20~21)

私たちの石のように固くなってしまった心を、神が取り除いてくださる。心の結石を神が取り去ってくださいます。心の中にそうやって石ができてしまうのは、私たちの抱いている意地とかプライドとか、自分を守ろうとする思いだったりとか、そのようなものが積み重なってのことなのではないかと思います。
しかしそれを神が取り除いてくださって、「肉の心を与える」とおっしゃいます。この場合の「肉」というのは、文脈からすると「柔らかい」というような意味でしょう。結石ではなく肉、つまり柔らかな体の一部であれば何の痛みも引き起こさないのです。神が私たちの心の結石を取り除いて肉の心を与えてくださる。
それは、私たちが神の掟に従って歩み、主の法を守り行うためであると主は言われます。私たちの心は主の掟と法を守り行うときにこそ柔らかい。主の掟と法は私たちの心をしなやかにする。私たちが掟に示された神の御心に従って生きる国、それは神の国です。主は言われます。「神の国はいつ来るのか。神の国はあなたがたの中にある。」
神の国は、キリストが王として支配する国のことです。だから私たちはキリストに従う。神ご自身が生み出してくださった柔らな心を持って。私たちは神の御前に生かされています。

2024年11月4日の聖句

もろもろの民よ、こぞって聞け。
地とそこに満ちるものよ、心して聞け。
主なる神はあなたがたの証人となられる。(ミカ1:2)
思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。(ガラテヤ6:7)

神が私たちの証人として、私たちの生き方やそこでしてきたことを覚えておられる。それは恐ろしいことです。神を侮ってはならない、と使徒パウロは言います。どうせ見ていないとか、神が見ていようが何だろうが関係ないとか、神は見ていても結局何もしないとか、私たちは様々な形で神を侮ります。しかし「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」
神が証人だと言っていますが、この「証人」という言葉には、見ている存在の感情や心を感じさせるところがあるのではないかと思います。私たちの生き方をご覧になって喜んでくださったり、悲しんでおられたりしながら、私たちのために心を尽くしておられる神さまのお姿。そういう神さまのお心を感じさせる言葉だと思います。だからこそ、「もろもろの民よ、こぞって聞け。地とそこに満ちるものよ、心して聞け」と言っているのではないでしょうか。神さまも本気で証人になられているのだから、私たちも本気で神に向き合わなければならない、と。
そのような神さまを決して侮ることなく、私たちに本気で目を注いでくださっている方の前で、私たちも誠実に生きていきたいと願います。このお方は私たちを見張る証人ではなく、憐れみと愛の御心を震わせながら私たちに目を注いでくださっているお方なのです。

2024年11月4日月曜日

2024年11月3日の聖句

今週の聖句:
王の王、主の主、唯一の不死の存在である方に、誉れと永遠の支配がありますように。(1テモテ6:15c,16a,c)

今日の聖句:
富が増えても、心を奪われるな。(詩編62:11)
善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。(1テモテ6:18)

富の持つ力、私たちの心を奪い取る力は本当に大きいです。自分がその力にどんなに弱いかを思わされます。富は貪欲の入り口です。しかし困ったことに、富がなくては生きていかれません。私たちは物々交換の社会に生きているわけではないし、その日暮らしでは社会的な責任を果たすことさえままなりません。この社会の中でと見なしで生きることなんてできない。
しかしそれは、21世紀の日本だからではない。2000年前のユダヤにだって富はありました。ダビデの時代にだってありました。アブラハムにとっては羊の群れが富だったでしょう。アブラハムの甥であるロトの心を奪ったのは、ソドムやゴモラという町のきらびやかさ、つまり富でした。いつの時代でも富の持つ力は強いのです。
その誘惑への処方箋を、使徒パウロはこのように伝えています。「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。」分け与えること。これが富の正しい使い方だ、と言うのです。自分のものとしてため込むのではなく、分け与える。そこに私たちの自由の道がある。思えば、主イエス・キリストこそ、私たちのために天の富をすべて分け与えてくださったお方です。分け合い、与える。キリストがしてくださった愛の満ちに、私たちの自由がある。御言葉はそう告げています。

2024年11月2日の聖句

主は正しい人の行いと忠実さに応じて、それぞれに報いてくださいます。(サムエル上26:23)
(パウロの手紙)主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはなりません。主は、闇に隠された事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。(1コリント4:5)

私たちの行いも心の思いも、主なる神さまの前で問われ、明らかにされ、裁かれます。世も私たちを問い、何事かを暴き、裁きにかけることもあるでしょう。しかし私たちは人の裁きを恐れるよりもなおのこと神を畏れ、神の御前にいることをこそ重大なことと考えます。
「主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはなりません。主は、闇に隠された事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。」
パウロはこの主の裁きは「主が来られるとき」のことだと言います。主イエス・キリストが再び来てくださるとき。使徒信条も、主が再び来られて生きている者と死んでいるものと裁かれると告白しています。私たちは終わりの時、救いの完成の時の裁きを待ち望んでいる。
そう、私たちは終わりの時を待ち望んでいます。裁きを待ち望むというのはおかしな言葉のようにも思えます。私たちが神の御前に裁かれるとき、罪状を読み上げ出すときりがありません。わたしたちは神に対して一万タラントンの借りがあってしかも債務不履行です。裁きには耐えられない。しかし、私たちのすべての借財も罪の重荷も、キリストが引き受けてくださいました。だから、裁きの時は救いの時です。私たちのためのすべての罪状が破棄されるときです。私たちはキリストを待ち望み、キリストの救いを待ち望み、キリストにあって救われる約束の時として、神の御前に立つ日を待ち望んでいる。それがキリスト者の将来へのまなざしです。

2024年11月1日金曜日

2024年11月1日の聖句

11月の聖句:
私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。(2ペトロ3:13)

今日の聖句:
私は、背いた彼らを癒やし、喜んで愛する。(ホセア14:5)
私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください。(マタイ6:13)

主なる神さまは、背いた私たちを愛してくださるお方。しかも、喜んで愛してくださるお方です。こんなにも慈しみに満ち、こんなにも憐れみ深い方がほかにいるでしょうか?
今日の御言葉はホセア書から取られています。ホセア書は、預言者ホセアが神に命じられてゴメルという女性を妻として迎えるところから話が始まっています。ゴメルは淫行の女と呼ばれていました。数々の男たちと淫行を繰り返している。ホセアは彼女を迎え入れますが、その後も彼女の生き方は変わりませんでした。ホセアの悲しみや怒りやいろいろな思いは想像するに余りあります。そういう一人の人間の姿を通して、神を蔑ろにし、裏切り、他のものを神とする私たち人間の罪をあぶり出します。私たちは神さまを裏切って淫行しているに等しい。
しかし、そういう私たちの不誠実を暴いてきた預言者ホセアの口を通して神は言ってくださいます。「私は、背いた彼らを癒やし、喜んで愛する。」神が私たちを受け入れ、愛し、赦してくださった。神さまは私たちを癒してくださる、とも言っています。私たちは癒やしにならないものに癒やしを求めてフラフラしてしまいますが、まことの癒やしは神の御もとにある。このお方は喜んで私たちを癒やしてくださるお方です。ですから私たちはこの神に「お救いください」と祈り、信仰の道を今日も上っていくのです。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...