2022年3月31日木曜日

2022年3月31日の聖句

あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようになった。それでも、あなたがたは私のもとに帰らなかった ーー 主の仰せ。(アモス4:11)
私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからえある。(2テモテ2:13)

主なる神様は、いつでも、どのようなときにも私たちを招き、待っていてくださいます。私たちが主なる神様のみもとに帰ることを、私たちが神の愛の中に立ち帰ることを。まるで家を飛び出して失われてしまった息子が帰るのを待ちわびる父のように、神さまは私たちを待っていてくださいます。
「私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる。」常に、です。いつでも、どのようなときにも、神さまは真実でいらっしゃる。私たちの不真実を理由に、キリストはご自分の真実を放棄なさらないのです。私たちが神のもとを離れて遠い外国に行っているそのときにも、この父は私たちの帰還を待ち続けてくださるのです。
「あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようになった」と、預言者アモスの書に書かれています。私には、なかなか、自分が燃えさしのようだという指摘がよく分かりません。もうちょっとマシなような気がどうしてもしてしまうからです。しかしそれも、やはりあの失われた息子の手もとに父の財産があって、周りにはそれをたかる人が集まってきていて、勘違いをしているようなものなのかも知れません。あるいは兄息子の方が、自分は父のもとにいつでもいるのだと誇りに思いながら、内心に不満を抱えていたのと同じなのかも知れません。神様からご覧になったとき、実は私は炎の中から取り出された燃えさしのように、ほとんどゴミと見分けが付かないようなものでしかない。
しかし、それでも神さまはご自分の真実を貫いてくださいます。神さまの真実は、キリストを十字架にかけてまで貫く私たちへの愛によって示されました。この愛であるご自身を否むことのできない神の真実によって、私たちは今日も生かされています。
主イエス・キリストの祝福、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。今日、そして明日も!

2022年3月30日水曜日

2022年3月30日の聖句

私たちの神はその呪いを祝福に変えてくださった。(ネヘミヤ記13:2)
神はキリストにあって世を御自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちの間に打ち立てられたのです。(2コリント5:19)

今日の旧約聖書の御言葉は、昨日の御言葉の後日談のような箇所です。後日談と言っても、数百年後の出来事。前後も合わせて引用すると、このように書かれています。
「その日、モーセの書が民に読み聞かせられ、アンモン人とモアブ人は神の会衆にとこしえに加われないとそこに記されていることが分かった。彼らがパンと水を持ってイスラエル人を迎えず、バラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとしたからである。私たちの神はその呪いを祝福に変えてくださった。人々はこの教えを聞くと、混血の人をすべてイスラエルから切り離した。」
前後を合わせて読むと、かなり印象が変わります。ショッキングな事件の中に書かれた言葉であることが分かります。ネヘミヤ記というのは、バビロン捕囚から帰って来たユダヤの人々の様子を記録している書です。当時、完全に瓦解し、一度は滅んだ国を建て直そうと、彼らは神殿を再建し、町を再建し、何よりも神さまがかつてモーセを通して与えてくださった律法の言葉を厳格に守って再出発することを誓ったのでした。そういう流れの中で、昨日読んだバラクとバラムの出来事に基づいて、アンモン人やモアブ人、また彼らとの混血の人々を排除したのです。
この当時の状況からすると、恐らく必要なことであったのだと思います。しかしそうだとしても、私たちにはたいへん衝撃的な出来事でもあります。この厳格な律法への姿勢は、やがてファリサイ主義というかたちを取るようになっていきます。そしてここで排除された混血の人々の末裔がサマリア人です。厳格さの光と影のようなものをも感じさせます。そして、これが人間の限界なのだと思います。そもそもどうしてイスラエルの国が滅んだのかと言えば、神さまの律法を蔑ろにし、それぞれ自分の好きに生き、自分たちの欲望を神としてきたからです。そうやって滅んだことを真剣に反省して厳格に律法を守ったとき、今度はファリサイ主義が生まれていく土壌を作ることにもなってしまう。右に行っても左に行っても、そういう極端に傾いてしまうのが私たち人間の限界であり、また同時に、旧約聖書の限界でもある。
ところが、ここに新しい世界が広がっています。「神はキリストにあって世を御自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちの間に打ち立てられたのです。」キリストが私たちの呪いを祝福に変えてくださるというのは、神と世との和解の出来事だ、と言うのです。私たち人間の努力では、和解に限界があります。必ず限界が訪れ、極端に傾いてしまいます。しかしキリストにある神との和解は、無限の神の赦しの下に成り立っているので、絶対に揺らぐことがありません。キリストにある和解、それは私たち人間相互の和解の基でもあります。主イエス・キリストにあって、私たちは呪いが本当に祝福に変わる、新しい世界を生きているのです。

2022年3月29日火曜日

2022年3月29日の聖句

主が私の口に授けられたことは、私はとどめおかず、告げなければならないのではないでしょうか。(民数記23:12)
私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。(使徒4:20)

教会で仕事をしていて、ご飯の時間になると妻が子どもを私のところに寄こして、ご飯の時間になったと言います。その役目を上の子が先に果たしてしまうと、一番下の娘が「私がしたかった」と言ってよく悔しがっています。嬉しい知らせを他ならぬ自分の口で伝えたいという気持ちはよく分かります。何か楽しい計画があることを伝えて相手を誘ったり、最近あったすばらしい出来事を話したりするのは、本当に嬉しいことです。伝えることで、その喜ばしい出来事を再体験できます。
「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」私たちの内で湧き上がる喜びが、私のこの口から溢れてくるのを留めることはできない。例えそれを止められても、邪魔されても、禁止されたとしても、口を閉ざすことはできない。なぜなら、「見たことや聞いたこと」とは他ならぬイエス・キリストの出来事であり、私たちへの神の愛の出来事だからです。この良き知らせ、喜びの知らせを伝えないではいられない。
今日の旧約聖書の御言葉は、少し不思議な箇所から引用されています。バラムという異教の預言者の言葉です。彼はモアブ人の王バラクという人物に、イスラエルの民を呪うように命令されました。しかし主なる神がイスラエルの民を祝福しておられたので、バラムには彼らを呪うことができませんでした。異教の預言者でさえ、主なる神様が授けられた言葉以外のことを口にすることができなかったのです。しかしバラク王の命令は非常に強いものでしたから、バラムも命が惜しくてイスラエルを呪おうと試行錯誤しました。しかし、その試みはことごとく失敗した。結局、「主が私の口に授けられたことは、私はとどめおかず、告げなければならないのではないでしょうか」ということであったのです。
主なる神様の私たちへの愛に満ちた祝福は、決して取り消されてしまうことはありません。必ずそれは告げられなければならない。そして、あらゆる呪いから守られています。この祝福の言葉を、今、神さまは私たちの口に託してくださいました。私たちはこの祝福を届けるために、神さまに今日生きるべき場所へと遣わされているのです。

2022年3月28日月曜日

2022年3月28日の聖句

主の前から激しい大風が来て、山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。(王上19:11~12)
イエスがニコデモに言う:あなたがたは新たに生まれなければならないとあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。(ヨハネ3:7~8)

山々を裂き、岩々を砕く激しい大風。地震や火。恐ろしい天変地異のような出来事です。これらは預言者エリヤが体験した出来事です。実はこのときエリヤは、異教の神々を信奉する女王イゼベルに殺されそうになり、命からがら逃げ出してきたときでした。大風や地震、火は、イゼベルの恐ろしさを彷彿とさせるような、本当に身に迫る脅威だったのではないかと思います。イゼベルのために、エリヤは「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください」とまで言っていたのでした。傷ついたエリヤの心を更に打ちのめすような出来事だったと思います。
これらは「主の前から」来た、と聖書は伝えています。どのような天変地異であっても、それらは主の前から来る。主なる神様のあずかり知らぬものではない。しかし、それらの災害の中に主はおられなかった、と言っています。これらの自然現象それ自体が神さまからのメッセージであったわけではなかった。
今朝の新約聖書は主イエスがニコデモにおっしゃった言葉です。新たに生まれるというのは、私たちにとっては驚くべき言葉。ニコデモは、もう一度母の胎にはいるなんて無理です、と言いました。つまり、私たちの自然現象としては不可能です。それはただ一つ、神様ご自身の霊の力によらなければ。思いのままに吹く風のような神さまのお働きによって、私たちは新しくなることができる。主イエスはそう言われます。
エリヤの前で起きた風や地震や火は、私たちに観察できるものです。私たちの力は超えていますが、それをある程度は予測することができるかも知れません。しかしそこに神はおられなかった。神さまは私たちの予測の延長線上にはおられないのです。むしろ、かすかな細い声、すなわち神さまの御言葉、その語りかける言葉のうちに、神はおられる。私たちの思いを超えた御言葉において、神さまはご自身を現される。
私たちの思いを超える福音の言葉は今日も私たちに響いています。この細い声に聞き耳を立て、この言葉の中で私たちと出会ってくださる神さまの自由な風によって、新しいいのちを生きていきましょう。

2022年3月27日日曜日

2022年3月27日の聖句

弱者を虐げる者は、虐げる者の造り主を侮る。(箴言14:31)
イエスは言う:まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。(マタイ25:40)

インドのカルカッタで死を待つ人たちのための愛の業に生きたマザー・テレサは、いつも主イエスのこの御言葉を思いながら仕えていたそうです。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」これは終わりの時の裁きの様子を告げる主イエスの御言葉です。そのとき、キリストはある者たちに向かっておっしゃいます。「あなたがたは、私が飢えているときに食べさせ、喉が渇いているときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれた」と。しかしそう言われた者たちは、私たちはいつそのようにしましたかと言って戸惑う。すると、主は言われるのです。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」本人も気づかぬ愛の業を、キリストは覚え、それは私にしてくれたことだと言って喜んでくださるのです。
今朝の旧約聖書の御言葉は、「弱者を虐げる者は、虐げる者の造り主を侮る」と言っています。弱者との関係は、実はこの人を造った神さまとの関係なのだ、と言います。それは私たちには思わぬことであり、恐るべきことでもあります。
私たちの人間関係は、実は隠れたところでは神さまとの関係です。しかも、「弱者」や「最も小さい者たちの一人」との関係こそが神さまとの関係だと言うのです。私たちは一人の最も小さい人と出会うとき、神さまの御前にいます。そこでの愛の業を神さまは決してお忘れになることがありません。今日一日の私たちの経験する一つひとつの出会いに、キリストの祝福がありますように。

2022年3月26日土曜日

2022年3月26日の聖句

主は、あなたの前に御使いを遣わされる。(創世記24:7)
天使がペトロに言った。「帯を締め、履物を履きなさい。」ペトロはそのとおりにした。また天使は彼に言った。「上着を着て、付いてきなさい。」それで、ペトロは外に出て付いていったが、天使のしていることが現実のことだとは分からず、幻を見ているように思えた。(使徒12:8~9)

主が私たちに御使いを遣わされる、と聖書は言います。ペトロのところに来た様子が報告されています。このとき、ペトロは牢の中にいました。四人もの見張りが牢獄を監視していました。ペトロは二本の鎖でつながれていました。夜中、主の天使がペトロのところに来て、光が牢を照らします。天使はペトロの脇腹をつついて起こし、言いました。「急いで起き上がりなさい。」そして、続けて言うのです。「『帯を締め、履物を履きなさい。』ペトロはそのとおりにした。また天使は彼に言った。『上着を着て、付いてきなさい。』それで、ペトロは外に出て付いていったが、天使のしていることが現実のことだとは分からず、幻を見ているように思えた。」
ちょうどのこのとき、教会の仲間たちが集まってペトロのために祈っていました。牢から解き放たれたペトロが仲間たちのところに帰って来ても、まさか牢から出て来るとは思わずに皆信じることができなかった。ペトロも幻を見ているように思ったとありますが、仲間たちはなおさらのことです。想像もできなかったほどのすばらしいことを、神さまが天使を遣わしてしてくださったのです。
これは、私たち自身の物語です。私たちも主イエスさまの復活の証人として生きることを妨げられ、縛られているけれど、私たちの想像も付かない神さまの御業によって自由にされ、ペトロのように証人として生きることができるのです。私たちの教会でも、例えばEさんは高齢の病床で洗礼を受けることで、後に夫も洗礼を受けるように導かれていきました。年齢も病も、キリストの証人であることを妨げることはできません。ペトロ本人やペトロのために祈っている仲間たちの思いを超えて、神様ご自身が働いてくださった。同じ御業にEさんも与りました。そうやって私たちが証人として用いられるという例は、枚挙にいとまがありません。私たちの前にも、今、天使が立っています。「帯を締め、履物を履きなさい」と言って、私たちをキリストの証人として立たせようとしているのです。

2022年3月25日金曜日

2022年3月25日の聖句

主は言う:彼は私を呼び求めている。それゆえ私は彼の声を聞こう。(詩編91:15)
同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになります。(ローマ10:12)

数年前にスペインにもカンバーランド長老教会が誕生しました。スペインと言えば、使徒パウロがいつか伝道のためにそこまで行きたいと願い、遂に果たされることのなかった場所でもあります。パウロはイスラエルからイタリア、そしてスペインと願っていましたが、カンバーランド長老教会は米国から南米に行き、また大西洋を越えてスペインまで行ったので、地球の反対側を通ってスペインに行ったということになるのでしょうか。そのスペインに、今、ウクライナの難民が到達してきているそうです。そして現地のカンバーランド長老教会でも、ウクライナ難民のための支援を始めたそうです。
「同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになります。」主は、すべての人の主。私たちにとっても、米国や南米に生きる人にとっても、スペインに生きる人にとっても、そして難民となったウクライナ人や、他の紛争地に生きる人にとっても、主はすべての人の主です。
この方は「ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになります。」主ご自身が言われます。「彼は私を呼び求めている。それゆえ私は彼の声を聞こう。」主は私たちの主として、ご自分を呼び求める祈りの声に耳を傾けてくださいます。私たちが例えどこで祈ろうとも、主なる神様は耳を傾けて聞いてくださいます。神さまは無関心で冷たい方ではありません。私たちに関心を持ち、私たちの声を聞き、私たちの声に応えてくださるお方です。
スペインにあるカンバーランド長老教会は、レセナル教会というそうです。この教会の難民支援の働きのために、私たちも祈りたいと思います。主なる神様の私たちへの熱い慈しみの心を体現する教会の働き、私たちの祈りを放っておくことのできない神さまの深い憐れみを生きる私たちの兄弟や姉妹たちに、主の祝福がありますように。

2022年3月24日木曜日

2022年3月24日の聖句

わたしは過ぎ去った日々を思い起こし、あなたの行ったことを一つ一つ思い返し、数々の御手の業について物語ります。(詩編143:5)
マリアは言った:主は慈しみを忘れず、その僕イスラエルを助けてくださいます。私たちの先祖に語られたとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。(ルカ1:54~55)

子育てをしてみて、記憶というのは侮れないなと思うようになりました。記憶の集積が人格を造る上で大きな役割を果たしていると思います。もちろんそれだけではない別の要素もたくさんあるのでしょうが、それにしても、記憶や思いでとその人の人格のつながりは深いと思います。自分の子どもに限らぬ子どもたちがどういう記憶を持っていくのか、そのために自分はどういうふうに関わっていくのかということは、一人の大人として責任重大だなと思います。
「主は慈しみを忘れず、その僕イスラエルを助けてくださいます。私たちの先祖に語られたとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」これはマリアが胎に幼子を宿していると知り、同じ神の御業にあずかっている親類エリサベトのところへ行ったときの賛歌ですが、ここでは「先祖」とか「アブラハム」という言葉まで登場します。自分一人の記憶にとどまらずに、先祖アブラハムに至るまでの世々の信仰者たちの記憶を思い起こしています。
「わたしは過ぎ去った日々を思い起こし、あなたの行ったことを一つ一つ思い返し、数々の御手の業について物語ります。」この詩編の言葉も、同じことではないでしょうか。わたしに、そして私たちに、神がどう関わってくださったのか。先祖も、私のことをも、神さまは如何なる御業で支えてくださったのか。その記憶の集積によって、私も、私たち神の民も形成されている。
私たちも思い起こします。聖書が伝える旧約から新約に至る神の民の歴史を。そして主イエスの後の時代、この2000年間の私たちにまで至る神の民・教会の歴史を。私たちも信仰の先祖が受け継いだ神の慈しみの中に生かされています。神はその慈しみを忘れず、私たち教会のためにたくさんの御業をなしてくださいました。私たちの教会の歴史の中でも、その数々を見ることができます。この僅か2年ほどを考えるだけでも、やっぱり私たちは神の慈しみの中に生かされています。この神の恵みの記憶を抱いて、今日も私たちの信仰者としての人格を形成する神の一日が始まります。

2022年3月23日水曜日

2022年3月23日の聖句

主はわが巌、わが砦、わたしを救い出す方。(サムエル下22:2)
イエスは言う:あなたがたには世で不安がある。しかし、安心しなさい。私はすでに世に勝っている。(ヨハネ16:33)

主イエスさまが言ってくださいます。「あなたがたには世で不安がある」。主イエスはこの世で生きる私たちのことをよく知っていてくださいます。私たちが日々苦難に襲われ、不安になってしまうこと、平和と平安を失ってしまうことを、主イエスはよくご存じです。「あなたがたには世で不安がある。」これは、私たちは孤独ではないということです。主がわたしのことを深く知っていてくださるからです。私たちの心の奥底までも主イエスが様が知っていてくださる。主イエスさまは私たちを決して独りぼっちにはなさらないのです。
「あなたがたには世で不安がある。しかし、安心しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」私たちに不安が沸き起こり、世に負けそうになってしまっても、あるいはもう負けてしまっていても、私たちは大丈夫です。安心して良い。主イエス・キリストは、もうすでに世に勝っておられるから。わたしは駄目だけど主イエスがすごい分、二人合わせればイエスさまの分だけ勝てるようになる、という話ではありません。わたしがどうであろうが、主イエスはもう既に大勝利を収めておられる。もう勝負は付いています。主イエスの勝ちです。
主は、どうやって世に勝利を収めたのでしょうか。やはりそれは、十字架の上で勝利を収めたというべきだと思います。十字架は、残酷な処刑の方法です。生きたまま人間を磔にする。犯罪人を国家の名の下に処刑する方法です。死刑は最高の権力の発動です。国の権力によって人を殺すのですから。犯罪者が捕まり、裁判を受けて死刑を宣告されて、それが実行に移される。犯罪者は無力です。抗う術がない。主イエスは何の罪も犯したことがなかったけれど、しかしやはり無力な罪人になって、十字架にあげられました。「彼は虐げられ、苦しめられたが/口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように/毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように/口を開かなかった。」しかしそうやって無力に上げられた十字架の上で、主イエスは神から栄光を受け、世に勝利し、私たちをその勝利にあずからせてくださったのです。
キリストの十字架の御業は、私たちの今日一日の平安、平和のための御業でもあります。キリストは今日わたしが生きるためにも、そのいのちを献げてくださったのです。

2022年3月22日火曜日

2022年3月22日の福音

これは主が設けられた日。主に向かって喜び、朗らかでいよう。(詩編118:24)
イエスは言った。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家を訪問することにしているから。」ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた。(ルカ19:5~6)

徴税人ザアカイ。主イエスが町に来たことを知って見に行きましたが、彼は背が低かったので、人混みの中で見えませんでした。誰も自分のために場所を譲ってはくれなかった。彼が町の中で嫌われていたことがありありと伝わってきます。実際に、ザアカイがこの後で主イエスを家に迎えたとき、人々はイエスが罪深い男の家に行ったと言って不平を漏らしました。「罪深い男」、ザアカイはそう呼ばれていました。面と向かって言いはしなかっただろうと思います。ザアカイは徴税人という権力者、世界最大の権力を持つローマという虎の威を借りている狐でしたから。そのようなわけで誰も彼のために場所を譲ってくれなかったので、ザアカイはイエスを一目見ようと木に登ったのです。その木の下をイエスが通り過ぎようとしたとき、ザアカイの世界が変わりました。
イエスは言った。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家を訪問することにしているから。」ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた。
木の下に来たイエスは、上を見上げて、ザアカイに声をかけました。ここで、イエスの方からザアカイに声をかけておられるということが、最大の福音です。ザアカイが孤独な心を抱えながら熱心に求道して、遂にイエスを見つけた、というのではありません。ザアカイはただイエスを眺めようとしただけです。イエスがザアカイを見つけ、声をおかけになりました。しかも、イエスは「今日、あなたの家に泊まらせてはくれないか」とは言わずに、「わたしは今日、あなたの家を訪問することにしているから」とおっしゃったのです。ザアカイを見つけたのが主イエスなら、声をかけたのも、ザアカイの家に行くことを決めたのも、すべて主イエスです。私たちも同じです。わたしがイエスを見いだしたのではない。わたしの方からイエスに弟子入り志願したのでもない。主イエスがわたしを見つけ、声をかけ、わたしのところを訪れてくださいました。福音が向こうからこっちへやって来たのです。それこそ、まさに「福音」です。
「これは主が設けられた日」。主ご自身が決め、主ご自身が設け、私たちを迎えてくださった日、福音の訪れの日。今日こそ、恵みの日。今日こそ、救いの日です。

2022年3月21日月曜日

2022年3月21日の聖句

行くべき道を知らせてください。私はあなたを渇望しているのですから。(詩編143:8)
敬虔であることが大きな富の源です。それが満ち足りる心と結びついていれば、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持ってこなかったし、また、何かを持って出ることもできないからです。(1テモテ6:6~7)

「敬虔であることが大きな富の源」と言っていますが、ちょっとドキッとする言葉です。敬虔に神を信じれば、大きな富が転がり込んでくるということなのか?しかしそうかと思って今日の最後のところを見てみると、「私たちは、何もこの世に持ってこなかったし、また、何かを持って出ることもできないからです」と書かれていて、やはりこの世の富は天国に持って行けないというようなことも言っています。すると気づくのは、「それが満ち足りる心と結びついていれば、大きな利益を得る道です」と言って、"満ち足りる心"にふれているということです。事実、これに続く8節では「食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです」と言っています。金持ちになることが私たちにとっての本当の利益になるわけではなく、神が既に与えてくださっている富の大きさに気付き、自分の分に応じて与えられたものとして満足するということではないでしょうか。
ところが、旧約聖書に目を向けると、また戸惑います。「私はあなたを渇望しているのです」と言っています。渇望というのは、本当に強い渇きなのでしょう。荒れ野が渇いているように、涸れ谷に水がないように、渇望している。満ち足りる心とは正反対です。しかし、ここでの渇望は「あなたを渇望している」と言っているとおり、神さまを求める渇きです。いつあなたの御前に出られますかという渇望です。祈りに応え、あなたのみ顔を向けてください、と渇ききった魂が訴えている。
今日の聖書の御言葉は、この世の富については食べる物と着る物があれば満足するようにと言い、神さまに向かっては渇望して求めよと言います。ところが私たちは逆です。神さまのことなんて知らんふりをして、祈ることについてはどんなに些少でも満足してしまって、この世の富については、食べるだけ、着るだけでは満足できずに渇望している。まったくあべこべになっています。しかし私たちには、神さまにしか満たすことのできない渇きがあるし、神さまにしか満たすことのできない欠けがあるのです。他の何でもなく他の誰でもなく、ただ神様に向かって渇き、神さまを求めている。それが私たちの本当の渇きです。神さまは必ず御顔を向けて、私たちの祈りを聞いてくださいます。

2022年3月20日日曜日

2022年3月20日の聖句

私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。間違いなく、あなたはその涙を勘定に入れてくださいます。(詩編56:9)
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。(マタイ5:4)

「私の涙を革袋に蓄えてください。」喜びの涙ではありません。笑いの中で溢れる涙ではありません。悲しみの涙です。しかも、恐らく、誰も知らない涙です。人知れず、一人で流す涙。その涙を、主よ、あなただけは知っていてください。どうかあなただけは、私の涙を革袋に溜めて憶えていてください。どれだけ涙を流したのか、どれほど一人で泣いたのか。自分でだってもはや分からない。しかし、神さまだけはその涙の量を記録していてください。そう祈るのです。
「悲しむ者は幸いです。」この言葉は、主イエス・キリストにしか言うことのできない言葉です。しかしキリストであるからこそ、言うことのできる言葉です。私たちは、私たちの救い主のこの言葉を待ち焦がれていたのではないでしょうか。悲しむ私に「幸いだ」と祝福の言葉を向けてくださる救い主。悲しみに沈む私に光を照らしてくださる神さま。私たちが待ち望んでいた救い主、しかも私たちが願っていた以上のすばらしい救いをくださるのは、このお方です。
今も、世界中に悲しみが満ちています。戦争が起きています。自国の軍隊に命を狙われる人もいます。迫害のために難民になった人もいます。社会から忘れられた人々、無関心の犠牲になった人々がいます。悲しむ世界に、キリストは来てくださいました。そして、キリストは言われるのです。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」この「慰める」という言葉が私は大好きです。「隣で呼びかける」という字を書きます。キリストはどこかから高みの見物をしながら、あなた達は幸いだと言っているのではありません。悲しみに沈む世界の中に降りてきて、しかもその中で誰よりも低くなり、貧しく弱くなり、身を低くして、おっしゃるのです。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」キリストは言われます。私がここにいる、私が悲しむあなたの隣にいる。私がここで、あなたのために、決してなくなることのない祝福を語り続ける。「悲しむ者は幸いである!」
この方が、私たちの涙をご自分の革袋に溜める神です。この方が私たちの悲しみを誰よりも深く知っておられる方です。私の涙を集めるために、キリストはここにまで来てくださったのです。

2022年3月19日土曜日

2022年3月19日の聖句

あなたは私のいのちを滅びから引き上げてくださいました。私の神、主よ。(ヨナ2:7)
神の堅固な土台は据えられていて、そこに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」(2テモテ2:19)

私は日本中会の礼拝書特設委員会というところの委員をしています。礼拝で用いる祈りの言葉や式次第を収録した『礼拝書』という本がありますが、今度これを新しくするということで、その準備をしています。先日、教会堂定礎式という礼拝の式文を扱いました。大きなビルなどを見ると「定礎 ○○年○月○日」と刻まれた礎石が据えられていることがあります。教会堂でも、そのように刻まれたプレートが土台の辺りにはめられているのを見ることがあります。この作業をしているときに、委員の一人である高座教会の信徒の方が、高座教会の最初の礼拝堂にも同じような定礎の記録があって、中に聖書が納められていたという話をしてくださいました。礎石の中に聖書を納めるというのは、この教会の土台は神の言葉だという信仰の象徴です。実際に礎石があってもなくても、私たちの信仰は同じです。教会の土台は神の言葉であり、私たちは神の約束に寄って立っています。
「神の堅固な土台は据えられていて、そこに次のような銘が刻まれています。『主はご自分に属する者を知っておられる。』」刻まれた銘は洗ってもこすっても落ちません。刻まれたものはずっと残ります。しかも、「神の堅固な土台」と言っています。神ご自身が据えた堅固な土台であれば、どのように大きな地震があっても、激しい台風が襲ってきても、決して壊れることがありません。その土台に銘が刻みつけられている。
その銘には「主はご自分に属する者を知っておられる」と刻まれている。ご自分に属する者、主イエス・キリストに属する者。それは、キリスト者ということです。キリストのもの、キリストに属する者を、主は知っておられる。永遠に、キリストは私たちを知っていてくださる。私たちの教会の土台はその事実です。この約束を告げる神の言葉です。ここに私たちの教会は建つ。
「あなたは私のいのちを滅びから引き上げてくださいました。私の神、主よ。」ここでもやはり私たちのいのちを超えた神の時間、つまり永遠の尺度での神の御業が語られています。神はご自分のものである私たちを知って、滅びから引き上げてくださる。私たちの手を取って、キリストご自身が私たちを救ってくださる。この約束の確かさの中で、私たちは今日の日を生きることが許されているのです。

2022年3月18日金曜日

2022年3月18日の聖句

主よ、なぜあなたは遠く立ち、苦難の時に身を隠されるのですか。(詩編10:1)
イエスは、船尾で枕して眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。(マルコ4:38)

今日の新約聖書の御言葉は、私にとっては思い出深いところです。これは、主イエスが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」とおっしゃって、舟で沖に漕ぎ出したときのことです。しばらくすると激しい突風が起こり、舟は水をかぶり、水浸しになりました。しかしイエスは舟の艫の方で枕して眠っておられた、というのです。それで、この話にまつわる私の思い出ですが、今からもう15年くらい前のことですが、海外からのゲストも含めて、日本で青年宣教大会を行ったことがありました。そのときに米国から来た牧師がこの御言葉をひいて説教をしてくださいました。その先生は米国式のとても魅力的なお話をしてくださって、何度も繰り返しておっしゃった。「イエスを起こせば何かが起こる!」実際に、聖書では弟子たちがイエスを起こし、イエスは風も波も鎮めてくださったのです。「イエスを起こせば何かが起こる!」
青年宣教大会が終わった後、牧師たちの間でこの説教は大問題になりました。あれはまずいだろう、と言って。何がまずいのか。「イエスを起こせば何かが起こる」というのはとてもキャッチーで魅力的ですが、それではまるでイエスがただただ居眠りしていただけで、問題は私たちにイエスさまを起こすことができるかどうかであるかのようです。一所懸命にイエスを起こした弟子たちに向かって、イエスは最後に「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とおっしゃいましたが、この言葉がまったく無視されている。
私たちには、確かに、主イエスが眠ってしまっているのではないかと思い込んでしまうときもあります。神さまは遠くにおられて、私のことなんて気にかけていないのではないかと考えてしまうこともあります。「主よ、なぜあなたは遠く立ち、苦難の時に身を隠されるのですか。」
しかし実際は、イエスはここにおられます。突風に襲われて、波に襲いかかられて、今にも沈みそうなこの舟の中に主イエスはおられるのです。眠っているのは主イエスではありません。弟子たちの信仰が寝ていたのです。神さまは本当は苦難の時に私たちから遠くにはおられない。身を隠しているようでありながら、実はこの舟の中に主イエスはおられるのです。今こそ目を覚まして、ここにおられる主イエスを信じましょう。絶対大丈夫です。

2022年3月17日木曜日

2022年3月17日の聖句

あなたの神、主がこの40年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。(申命記8:2)
イエスは言われた:私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。(マタイ11:29)

「あなたの神、主がこの40年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい」と、聖書は言います。「思い起こしなさい。」思い起こすというのは、信仰生活を送る上でとても大切なことです。私たちの信仰者としての旅路、天の故郷に向かう道のりは、それが例え荒れ野の中を歩くものであったとしても(そして事実、荒れ野を旅しているのですが)、それはすべて主が導いてくださった道のりです。自分の旅路を思い起こすとき、私たちは主の恵みを思い起こしましょう。不満を数えたり、恐れや心配を見つけるのではなく、それでも神が共にいてくださった旅路、神が導いてくださった道のりであったことを思い起こしましょう。
「思い起こす」ということは、事実が先にあるということです。私たちの旅路は、神さまが導いてくださったという事実が何よりも先にある。私がちゃんとできたかどうかとか、私が失敗をしてしまったとか、私が悪かったとか、あるいは、なんとかまあできたとか、そういうことがまず先にあるのではありません。この道には神さまの愛が先にあり、神さまの恵み深い導きが先にある。だから、私たちは、そのときには気づいていなかったかも知れない神の導きにあずかってきていたことや、私が知らなくても私を養ってきてくださった神さまの慈しみ、そして私が道を失ったときにも忍耐してくださった神さまの憐れみを思い起こすことができるのです。
これまで歩いてきた道は、平坦ではなかったでしょう。しかし「主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた」のです。子を愛する親であるからこそ子を鍛錬するのであって、そうされたことがないのであればあなた達は実の子ではなく庶子ということではないでしょうか。この試練もまた神の柔和な慈しみの中にあることを信じて、私たちの旅路を思い起こし、神の恵みを数えてみましょう。

2022年3月16日水曜日

2022年3月16日の聖句

全き心と喜びの気持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探られるからです。(歴代誌上28:9)
平和の神が、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。(ヘブライ13:20~21)

今朝の新約聖書の御言葉は羊の大牧者の祝福といわれる御言葉の一部分です。礼拝の祝福の言葉として用いられることもある、とても大切な御言葉です。省略せずにすべてをご紹介します。
「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」
私たちの新しい一日は、私たちのイエス・キリストと、イエス・キリストを死者の中から引き上げられた平和の神の祝福が注がれています。聖霊は、私たちの心にこの祝福を染み渡らせてくださることでしょう。
私たちが善き意志に生きたいと願っても、思い通りに行かないことはよくあります。それに、そもそも自分の言葉や振る舞い、考え方が合っているのか間違っているのかだって、そう簡単には分かりません。しかしそれでも、キリストは私たちを祝福してくださっています。この祝福を届けるために、キリストは私たちのところへ来てくださいました。
祝福。それは、神さまの善き意志です。神さまの善き意志はいつも私たちに向けられています。だから、私たちも、やっぱり善き意志に生きたいのです。それが果たされるとは限らないし、自分では「善き意志」と思いながら、いつの間にか邪になってしまっているかも知れません。そんな私を憐れんでくださいと祈りつつ、しかし、自分の知れるかぎり善きものを神さまにも隣人にも献げたい。「全き心と喜びの気持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探られるからです。」神さまは私たちのその小さなささげ物をきっと受け入れて、喜んでくださることでしょう。そして、隣人のために善きものへと成長させてくださることでしょう。私たちの永遠の大牧者を信頼して、今できることを献げていきましょう。

2022年3月15日火曜日

2022年3月15日の聖句

主はこう言われます。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。」(王下20:5)
叩きなさい。そうすれば、あなた方に開かれる。(マタイ7:7)

今日の新約聖書の御言葉の直前には「求めなさい」、「探しなさい」とあって、それに続けて「叩きなさい」と言われています。これら三つの命令は別々のことを言っているのではなく、明らかに同じことを指している。すなわち、熱心に祈り求めなさいということを言葉を換えて三回重ねています。ということは、主イエスはとても強い思いを持って祈りを教えてくださっているということではないでしょうか。私たちは熱心にとを叩いて神さまに向かって祈る。「そうすれば、あなた方に開かれる」と主イエスは言われます。
北原白秋の「まちぼうけ」という童謡があります。野良仕事をしていたところにウサギが跳んできて、木の根っこにぶつかって死んだ。それを持ち帰ってご馳走にありついた男が味を占めて、翌日からは畑仕事もせずにまたウサギがぶつからないかとその木の根を見張って待ちぼうけをしている、という歌です。棚からぼた餅が落ちてくるのを、口を開けて待つ滑稽さを歌います。主イエスは、私たちの信仰はそういうものではないとおっしゃいます。熱心に戸をたたけ、と。熱心に祈るその祈りに答えて、神は門を開けてくださるから。
私たちの祈りが熱心にならないのは、「どうせ」という諦めが先にあるからなのかも知れません。熱心に祈ってかなえられなかったら傷つくからです。確かに、神さまは私たちが祈ったとおりにはしてくださらないかも知れません。あるいは、叶えられないことの方が多いかも知れない。そうすると「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす」という御言葉は、たまたま幸運な人の話に過ぎないのでしょうか?
本当は、私たちは、自分にとって何が癒やしなのかを知らないのかもしれません。私たちは自分の願いの通りになることが一番だと信じていますが、神さまの目からご覧になると、そうではないのかも知れません。それは私たちにとっては不思議であって、短い時間の中でしか見ることのできない人間の目では判断が付かないことです。しかし、熱心に門を叩く祈りを神は必ず聞いてくださっています。何より、必ず開かれるというのはあの十字架にまでかかったお方の約束です。私たちには分からないことがたくさんありますが、キリストの愛と慈しみは知っているし、この方の言葉が信頼できることを知っています。だから、祈りましょう。熱心に。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして。必ず、その祈りを神は聞いてくださいます。

2022年3月14日月曜日

2022年3月14日の福音

あなたがたは喜びをもって出て行き、平和のうちに導かれて行く。(イザヤ55:12)
よい羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。(ヨハネ10:3)

今日、私たちを送り出す神さまの御言葉です。「あなたがたは喜びをもって出て行き、平和のうちに導かれて行く。」私たちが今日行く場所は、神さまに送り出されている場所です。私たちを選んで、今日その場所に遣わされるのは、主イエス・キリストご自身です。「よい羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」私たちのまことの、そしてよき羊飼いでいらっしゃる方は、私たちの名前を呼んで、私たちを連れ出してくださいます。
私たちが今日行く場所は、従って、キリストに遣わされて出て行く場所、遣わされている場です。平和のうちに、キリストが私たちを導いてくださいます。キリストが先頭におられるから、そこには喜びがある。キリストが私の名前を呼んで連れ出してくださるから、私たちは安心して出て行くことができます。キリストは先頭を進むだけではなく、私たちのしんがりをも守ってくださることでしょう。
今日しなければならないことに、あまり気乗りしていないかも知れません。できれば今日を迎えたくないような気持ちもどこかにあるかも知れません。主イエスさまが、共にいてくださいます。キリストが私たちに連れ添って、羊飼いとして私たちの道を整えてくださいます。この羊飼いは私たちのために青草の原を準備して、私たちを養ってくださることでしょう。だから、例え死の陰の谷を行くときにも、私たちは恐れないですむのです。
今日が楽しみという方もおられるかも知れません。その喜びの中、どうぞキリストをお忘れにならないでください。キリストが共にいてくださるからこそ、その喜びも更に大きく満ち溢れるはずです。神さまに導き出され、神の祝福の基として、今日一日の歩みが守られますように。
今日、お一人おひとりへの神さまの祝福を心から祈っています。キリストの平和が、あなたがたと共にありますように、アーメン!

2022年3月13日日曜日

2022年3月13日の聖句

王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。(詩編33:16)
しかし、先頭にいる多くの者は最後になり、最後にいる多く者が先頭になる。(マルコ10:3)

今日の御言葉は、私たちの世界に対する神さまからの問いではないでしょうか。「王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。」私たちの常識に挑戦してくるような言葉です。私たちの世界はこういうふうには動いていません。私たちの世界の現実は、こういうふうにはできていないのです。
しかしそれは、この詩編の言葉が最初に詠まれたときからそうです。それどころか、もっともっと過酷な状況だったはずです。平和な時代に、安全な場所で生み出された言葉ではない。嘆きと悲しみが渦巻く世界の中で、しかし断言します。「王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。」
今朝の新約聖書が伝える主イエスのお言葉も、私たちの常識に挑戦します。「しかし、先頭にいる多くの者は最後になり、最後にいる多く者が先頭になる。」でも、私たちは思います。先頭にいる人はそれなりに努力して、頑張って先頭にいる。先頭にいるものを最後にするなんて、却って不平等で、理不尽なんじゃないか。
ある人は言うかも知れません。いや、先頭にいる人も、自分の力では及ばないたくさんの恵まれた環境があったから頑張れたのであって、最後になってしまった人との実質的な差はないのだ。これまで恵まれてきたのだから、先頭を譲るのは正義に叶っている。それに、どんなに頑張っても最後になってしまう人の見えない頑張りを評価してあげることが大切じゃないか。
しかし、主イエスはそういうことをおっしゃっているのではないと思います。神さまのなさることは、私たちから見たら理不尽です。私たちに神さまの基準や判断を予測したり、決定づけたりまして評価することなんて、そもそもできないことです。神さまの思いや選び、なさることは、私たちの思いや判断としょっちゅう矛盾します。しかし、歴史は私たちの混乱と神さまの摂理によって動いていくのです。私たちが理不尽だとか、受け入れられないと思うところで、実は神さまの御業が進んでいるのではないでしょうか。
私たちが自分の力をふるって自分の目に適う正義を達成すれば、戦争になるしかありません。しかし神さまの御業や神さまのなさることを謙遜に受け止めるならば、そこでこそ「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りの実現を見ることができるのです。

2022年3月12日土曜日

2022年3月12日の聖句

主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口の息吹によって。(詩編33:6)
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです。(使徒17:25)

先日、『宇宙はなぜ美しいのか』という本を読みました。とっても面白い本でした。物理学者が新しい理論を分かりやすく紹介しながら、物理学者が感じる美とはどういうものなのかを平易に説明していました。物理学者が感じる美とは、できるだけ単純な理論で宇宙の現象が矛盾なく説明されることだというのです。(具体的ないろいろな理論も解説してありましたが、私には再現することはできません!)この本の最後の方に、なぜ宇宙は今の姿なのか、それは偶然に過ぎないのか、あるいは必然なのかということが問われていました。著者としては、必然だと考えたいというようなことが書いてありました。そういうところにまでくると、一人の信仰者としては、この宇宙をお造りになった方がいる、とやはり言いたい。この世界は、この学者がおっしゃるとおり偶然ではない。これをお造りになった方の善き意志に基づいて造られた。だから、学者たちが世界に美を感じるのも自然なことだと私は思います。この世界は神に造られた。
「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口の息吹によって。」これは、すばらしい福音です。天も、天の万象も、神に造られた。偶然発生したのではありません。たまたまこうなったのではないのです。神が、天も、天に満ちる万象も、神が善き意志を持ってお造りになった。ご自分の御言葉と、霊とによって。
だから、神さまには何かが足りないということはありえません。神さまが世界をお造りになったのであって、世界や人間が神を造ったのではないからです。物を言わない石や木が神なのだとしたら、人間が仕えて世話をし、食べ物を備えたりどこかに運んだりしなければ何もすることはできない。しかし、石を拾い、木を切る人間そのものをお造りになった方は、まるで足りないところがあるかのようにして仕えてもらわなければならないということはあり得ないのです。神が、私たちに命を与えてくださいました。神が、私たちに霊を与え、永遠を思う心を与えてくださいました。だから、人間もまた美しいのです。神が心を込めて、愛を込めて造ってくださった存在だから。だから、あなたも美しいのです。

2022年3月11日金曜日

2022年3月11日の聖句

人には死の日を支配する力はない。(コヘレト8:8)
あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。(マタイ6:27)

私たちは自分の命について無力です。どんなに思い煩っても、寿命をほんの僅かでも延ばすことはできません。自分がいつ生まれるかを選ぶことができないように、自分がいつ死ぬかを選ぶこともできません。それは神さまの御手の中にある。
この「思い煩う」という言葉ですが、新共同訳では「思い悩む」と訳されていました。4月から礼拝で読むことになっている聖書協会共同訳では、今日の翻訳と同じで「思い煩う」と訳されています。私は、こちらの方がいい訳だと思います。単に悩んでいるだけでなくて、煩い、つまり病んでしまっている。それは私たちの実態を現しているのではないでしょうか。思いが病的に塞ぎ込んでしまう。しかし私たちは自分の命についてどんなに思い煩ってもどうすることもできない。だから、神さまに委ねよと主イエスは言われるのです。「明日には炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」思い煩いは、不信仰の業です。「あなたがたにはなおさらのこと」と言ってくださる神さまの慈しみに信頼していい。安心して信頼して大丈夫。主イエスはそう言われます。
そして、私たちは自分の命だけではなく、他人の命に対しても無力です。その無力さに謙虚でなければならないのだと思います。戦争は、究極的に人の命を軽くします。しかし「人には死の日を支配する力はない」のです。
20年ほど前のことですが、母教会の高座教会で教会学校の教師をしていました。ちょうどその頃、ニュースや何かで、子どもの「なぜ人を殺してはいけないの」という問いに大人たちが答えられないということが大きな話題になっていた。実際、日本の法律では「人を殺してはいけない」とは書いていない。人を殺した場合に科せられる刑罰が書かれているだけです。ところが、私が教師をしていた教会学校で、ある子どもが、「人を殺しちゃいけないなんて、そんなの聖書にちゃんと書いてあるよ」と言った。大人たちがまごついてしまっていた問題に、子どもが聖書から明快な答を出したのです。「殺してはならない。」これは、神が十戒で命じておられることです。
私たちは自分の命に対しても、他人の命に対しても、無力です。しかしその無力さは、私たちが人間らしく生きるために必要な空白です。神が働き、神が責任をもっておられる領域です。私たちには理解できないことがたくさん起こります。しかし、この空白に神はキリストにあって底知れない愛を輝かせてくださっているのです。

2022年3月10日木曜日

2022年3月10日の聖句

わたしのことばをあなたの口に置き、この手の陰にあなたをかばう。(イザヤ51:16)
私はあなたの行いを知っている。。見よ、私はあなたの前に門を開けておいた。誰もこれを閉じることはできない。あなたは力の弱い者であるが、私の言葉を守り、私の名を否まなかったからである。(黙示録3:8)

主なる神様はご自身の御手の陰に私たちを置いて、私たちをかばってくださいます。そのことを新約聖書のヨハネの黙示録ではこのように言っています。「私はあなたの前に門を開けておいた。誰もこれを閉じることはできない。」キリストが私たちの前に門を開いてくださる。私たちはそこから出入りすることができます。キリストが開いた門を閉じることは誰にもできません。
この「門」というのは一体どこに通じる門なのか。聖書を開いて前後を読んでみても、特に何かが明言されているわけではありません。しかし、ヨハネの黙示録のもう少し広い文脈を読んでみると、1:18に「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」という主イエスのお言葉が記されています。主イエス・キリストが、死と陰府の鍵を持っている。この鍵で開けば、誰も門を閉じることはできない。今日、私たちに与えられている御言葉で言われている「門」、キリストが開けた門というのは、陰府の門です。キリストは甦られたから、もはや死の門は私たちの前に力を持つことはない。今日の御言葉は、そういうキリストの力強い宣言です。
キリストは力強い。だから、私たちが弱くても、死を前に無力でも、キリストが私たちを守ってくださいます。「あなたは力の弱い者であるが、私の言葉を守り、私の名を否まなかったからである。」キリストの言葉を守り、キリストの名を拒まなければ、それでよいのです。私を救ってくださるキリストのお名前を拒むことなく、キリストこそが私を救ってくださることを信じ続ける。ただそれだけです。
神さまの手の陰に、私たちはかくまわれています。死の力、滅びの力から、神さまの手が私たちを守ってくださるのです。例え私たちの肉体や魂が滅びたとしても、私たちがどんなに弱かったとしても、キリストは力強い御手によって私たちを助け、いつでも私たちをご自分のもの、ご自分の宝として守ってくださいます。「主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。」

2022年3月9日水曜日

2022年3月9日の聖句

主を畏れることは悪を憎むこと。(箴言8:13)
私たちは神の作品へと、善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。(エフェソ2:10)

悪を愛しながら主なる神様を畏れることはできない。聖書はそう断言します。一方では「御名をあがめさせたまえ」と祈りながら、他方では悪を行うことはできない。自分の名前を大きくしながら神さまのお名前を誉めたたえることは不可能です。なぜなら「私たちは神の作品へと、善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです」。
神さまが私たちを造り、命を与えてくださいました。私も、神さまの作品。神さまは私を「善い行いのために」お造りになった。花瓶は花を生けるために造られたのであって、誰かの頭をたたき割るために造られたのではありません。絵画はそれを鑑賞して美に触れたり、あるいはそれを通して何かを表現するために描かれたのであって、投機目的で絵を見もしないで死蔵するために描かれたのではありません。私たちは神の作品であって、悪い行いのためではなく、善い行いのために造られました。花瓶が花瓶としての命を得るのは、花を生けられたときです。絵が絵としての命を得るのは、鑑賞されるときです。私たちは、善い行いに生きるときに、神に造られた作品として命を得るのです。
善い行いとは何か?それは、私たちが「キリスト・イエスにあって造られた」という事実から明らかになります。キリストをまねて生きてこそ、神さまが私たちを造ってくださったその「私らしさ」が輝くのではないでしょうか。キリストをまねて生きる。それはまず何よりも祈りつつ生きるということです。今、私たちの生きるこの世界は、本当に深刻に傷つき、また動揺しています。戦争の罪が重ねられています。このことを覚え、私たちは祈りを重ねましょう。キリストの平和を求めて。神さまの国が来ますように。神さまのお名前があがめられますように、と。キリストが祈りを重ねて歩まれたように、私たちも、何よりも祈ることを尊び、神の作品として、造り主に向かって今日の日を生きていきましょう。

2022年3月8日火曜日

2022年3月8日の聖句

私たちの神のような岩はほかにありません。(サムエル上2:2)
だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(1コリント3:11)

教会の土台はイエス・キリストです。キリストという大岩、私たちを救う砦、困難な日の盾、そこに私たちキリスト教会は建てられています。この岩、この土台以外のものを据えることはできません。そうしようとすれば、木に竹を接ぐようなことになってしまうでしょう。教会がキリストの教会として立つことができなくなってしまいます。
教会は、いつの時代にも、キリスト以外の土台を据えようという誘惑に晒されています。例えば、ヒューマニズムです。辞書で引くと、このように説明しています。「(1)さまざまな抑圧や束縛から人間を解放し、人間性の尊厳を確立しようとする思想。人文主義。人本主義。(2)人間性を尊重し、人類愛の立場から人類全体の幸福をはかろうとする思想。人道主義。」すごく良いことを言っている。そうすると、ここから提起される問題に答えることが教会の責任だと考えるようになってしまう。しかし教会は、ヒューマニズムからの問いに答えることが第一の責務ではありません。教会は、何よりもまず神の問いに答える責務があります。お前はキリストの教会として、キリストを土台としているか、と神は私たちに問うておられる。そのことを無視したならば、この世界の問いに例え答えたとしても、それが何の役に立つのでしょうか。
教会は世を畏れず、ただ神を畏れます。しかし実際のところ、世を畏れないで済むのは、神を畏れているときだけです。私たちが世間の目や評価、問いを畏れ、それに答えることを自分の責任とするのではなく、神がキリストの存在を通して私たちのあり方を問う問いに答えようと願うとき、私たちはまさにキリストの教会として生き始めているのです。キリストは私たちの足を洗い、私たちに仕え、愛し、私たちのためにすべてを与え尽くしてくださいました。このキリストを土台として建てられたという事実自体が、神さまから私たちへの問いであり、私たちの存在する理由なのです。

2022年3月7日月曜日

2022年3月7日の聖句

見よ、主なる神がここにいる。彼はその御腕によって統治される。(イザヤ40:10)
身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ。(ルカ21:28)

主イエス・キリストが「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言なさった日から、神さまの御国は私たちのところに来ている。私たちに神の国は近い。それが、キリストを信じる者の確信です。「神の国は近づいた」と、主イエスは過去形でおっしゃいました。駅員さんが「電車が参りました」と、今まさに来ていることを過去形で言うのと同じです。すぐ近いのです。もうベンチに座ってのんびりはしていられません。電車はここまで来ているのです。だから、聖書は言います。「身を起こし、頭を上げなさい。」なぜなら、「あなたがたの救いがちかづいているからだ。」私たちの救いのときがもうここに来ている。私たちは身を起こし、頭を上げて、救いのとき、神の国の到来のときを迎えます。
「しかし」と私たちは思います。神の国が来たと言っても、私たちの救いが近づいていると言っても、一体どこにあるのでしょう?この世界の現実はそれとはまったく反しています。どこにも救いは見えないし、神の国なんて絵空事ではないか?
あなたには、見えませんか?神さまの国が私たちの間にあることが。今も心を合わせて神を礼拝する者たちがいる、ということは、その確かなしるしの一つです。そうでなければ、どうして私たちは喜んで礼拝生活を営むことができるでしょうか。今、私たちの教会で一人の神学生が研修しておられますし、昨秋には私たちの日本中会に新たな別の神学生が与えられました。そうやって伝道者が立てられるということも、神の国のしるしの一つです。そして何より、洗礼を受ける人が起こされる。その事実が、キリストの神の国宣言が今ここでも現実化している確かなしるしです。
「見よ、主なる神がここにいる。」わたしは、「ここに」という言葉がとても好きです。見てください、ここに主なる神様がおられます。私たちも「ここに」と互いに語り合うことができます。ここに神さまのご支配が始まっている、私たちを救う神さまの御業がここでも進んでいる。今日、私たちは、私たちにすでに始まっている福音の御業を見つける目をもって、歩んでいきましょう。ここでも神が働いてくださっている。その御業を見て、身を起こし、頭を上げて、キリストをお迎えするための営みを今日も重ねましょう。

2022年3月6日日曜日

2022年3月6日の聖句

主はその聖なる神殿におられる。全地よ、主の前に沈黙せよ。(ハバクク2:20)
賢者たちは言った:私たちは、彼を礼拝するために来ました。(マタイ2:2)

私たちの教会は「カンバーランド長老教会さがみ野教会」というのが正式な名称ですが、この中に「長老教会」という言葉が入っています。この教会はスイスのジュネーブで活躍した改革者ジャン・カルヴァンにまで遡る伝統をもちます。そのカルヴァンの名著に『ジュネーブ教会信仰問答』というものがあります。問答形式で信仰の事柄を説き明かしていく書物ですが、その始まりのところでこのような問答があります。

問 人生の特に目指す目的は何ですか。
答 人をお造りになった神を知ることです。

そして少し進んで、第6の問答はこのようになります。

問 さてそれでは、どういうものが神についての真の、また正しい知識でしょうか。
答 それは神に帰すべき誉れが表明されるような知り方であります。

神に帰すべき誉れが表明される仕方で神を知ること、それが人の生きる目的だ、と言うのです。一言で言えば、私は神を礼拝するために生きています、ということになる。まことに鋭く、真理を言い表している言葉です。今日、私たちも自分の心に言い聞かせたいと思います。私は、神を礼拝するために生きている。誉れを帰すべき方である神を知るために、私は生きている、と。
新約の聖句に登場するのは占星術の学者たちです。彼らは主イエスさまを礼拝するために、東の国からやって来ました。遠い外国です。文化も環境も、歴史も、人生観も、それまで大切にしてきたものも、何もかも違います。しかしそれはすべて脇に置いて、主イエス・キリストを礼拝し、誉れを帰すために、彼らはやって来たのです。私たちの先頭を旅する礼拝者、それがこの占星術の学者たちです。
カルヴァンはこの信仰問答において、神を礼拝することこそが私たちの最高の幸せだとも言っています。本当にその通りです。私たちは、キリストの御前にあって、この最高の幸せを味わうべく招かれています。神を信頼し、神の御言葉に従い、悩みの日には神に助けを求め、全生活をあげて神を誉めたたえ、善きことを神に求める。そのような祈りを今日献げたい、と願います。主イエス・キリストの祝福が、あなたにありますように。

2022年3月5日土曜日

2022年3月5日の聖句

あなたは東に生きる者も西に生きる者も、喜びで満たしてくださる。(詩編65:9)
イエスは町から町へ、村から村へと歩かれた。そして至る所で、神が今、その支配を確立し、その働きを完成させるとの良い知らせを宣べ伝えた。(ルカ8:1)

主イエス・キリストは、町から町へと歩いては福音を宣べ伝え、村から村へとわたっては神の御業を行いました。そして今も、キリストは私たちの間を歩いて、御業を行い、福音を宣言しておられます。今、キリストは、私たちの足によって、私たちの手によって、私たちの口によって働いておられます。私たちを選んで神の国を宣言するために遣わしているのは、主イエスさま御自身です。私たちに福音を託してくださっているのは、神様ご自身の霊、聖霊です。私たちは、遣わされている場所、その至る所でキリストを証しします。
「あなたは東に生きる者も西に生きる者も、喜びで満たしてくださる」。東も、西も、です。どこに住んでいても、どんな文化や歴史を負い、どんな歴史の中で生きていても、キリストの福音の喜びは、誰にとっても喜びです。
東や西、という言葉を聞いたとき、私には、ウクライナのことが思い起こされました。彼の地に生きる人々にとっては、今は喜びが奪い去られるような厳しいときであると思います。キリストが私たちの足によって東や西に行き、私たちの口によって福音を今も宣べ伝え、私たちの手によって神さまの愛の御業を進めておられるのならば、彼の地で爆撃に怯える人々も、キリストの宣べ伝える神の国の一員です。私たちは政治家ではありません。何かの力を持つわけでもなく、戦争を止めさせるには、無力です。しかし私たちは、戦争によって無辜の人々が傷つけられ、殺されるこの現実が一秒でも早く終わるように、祈ります。キリストが町から町へ、村から村へと、東にも西にも宣言なさった神の国が早く来ますように、と私たちは祈ります。「御国を来たらせたまえ」と私たちは祈り、今日の一日を歩んでいきます。

2022年3月4日金曜日

2022年3月4日の聖句

主よ、私の目はあなたに向いています。私はあなたに信頼を寄せます。私を死の力にさらさないでください。(詩編141:8)
イエスは言う:私が生きているので、あなたがたも生きることになる。(ヨハネ14:19)

今、この祈りのとき、私たちの目を主なる神様に向けましょう。耳を澄まして神さまの御言葉を聞き、私たちの目を天に上げて、神さまを仰ぎましょう。「私を死の力にさらさないでください」と、この詩編は祈っています。私たちは、生きているときにも死にゆくときにも、私たちのただ一人の真実な救い主、イエス・キリストのものです。死が迫ってくるときにも、私たちは神さまを仰ぎます。主イエス・キリストが、死にゆく私と共にいてくださるからです。
「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」とキリストは言われました。「私は生きている」。キリストは生きている。今、生きておられる!「主は生きておられる」というのは、キリスト教会最初の福音の言葉でした。十字架にかけられて葬られた主イエスを墓に尋ねたマグダラのマリアは、イエスが生きておられることを知りました。マリアは走って行って弟子たちのところへ行って、言います。「主は生きておられる!」それを聞いた弟子たちのところに、主ご自身が来てくださいました。キリストと新しく出会い、彼らも福音としてこの言葉をたくさんの人たちに告げました。「主は生きておられる!」
私たちも、同じです。「主は生きておられる!」キリストが今も生きておられ、働いておられることを私たちも信じ、そのことを福音として宣べ伝えています。主は生きておられる。だから、「あなたがたも生きることになる」とキリストは言われます。主が生きておられるから、私たちも生きる。キリストに命を頂いて、私たちも生きる。このキリストに頂いた命は、死の床ででもなくなりません。このキリストに頂いた命は、私たちをご自分のものとする神の力強いお働きです。私たちは生きているときにも、死にゆくときにも、変わることなくキリストのものです。だから、私たちには平安があります。主が生きておられるから。私を神のものとしてくださったから。もはや私たちは死の所有物ではなく、死に支配されているのではなく、私たちを愛してくださる真実なる救い主イエス・キリストのものです。ここに、慰めがあります。

2022年3月3日木曜日

2022年3月3日の聖句

神は、恵みとまことを送ってくださいます。(詩編57:4)
神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。多くの良きことをなさり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたを養い、その心を喜びとで満たしてくださっているのです。(使徒14:17)

私たちは神が送ってくださる恵みとまことを享受して生きています。多くの良きこと、天から降る雨、季節の実りをもって私たちを養い、喜びを与えてくださる。私たちの命をつないでくださる良きことは、神さまが準備してくださったものです。神さまの恵みとまことはこの世界を覆い、私たちに明らかです。
だからこそ、この世界に満ち溢れる恵みとまことを損なってはならなりません。戦争は、その意味でも、たいへん大きな罪です。あるいは土地や天然資源の収奪、権利の抑圧、弱いものたちへの蹂躙も、同じです。神さまがお造りになったよき世界を壊す、たいへん恐ろしい罪です。
神さまの恵みもまことも、本来はこの世界に明らかに満ち溢れています。それを壊したり、奪い合ったりしているのは、私たちです。だからいつもどこかで足りなくなってしまうし、命を落とす人が後を絶たないのではないでしょうか。
今、私たちは、神さまの恵みとまことに帰らなくてはなりません。神さまが与えてくださったものをありがたく頂き、分け合い、共に生きる道を探す。それは造り主なる方の前にひれ伏し、悔い改めるということです。私たちの思いを超えて良きことをなさる神さまを信頼し、何でもかんでも自分のものにしないと安心できないという誘惑から救ってください、と私たちは祈ります。
昨日は教会の暦では「灰の水曜日」という特別な水曜日でした。この日から受難節が始まります。十字架にかけられたキリストのお姿を思い起こし、悔い改めの祈りを献げます。キリストの御前に、心を静めて祈り、ただ神の恵みとまことによってだけ生かされる幸いの道を歩んでいきましょう。

2022年3月2日水曜日

2022年3月2日の聖句

あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。(申命記28:2~3)
幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。(ルカ11:28)

あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
今日も、神さまはあなたを祝福しておられます。あなたが町にいるときにも、野にいるときにも。職場に向かう電車の中でも、パソコンを前にしているときにも。誰かと接しているときにも、一人でいるときにも。台所に立っているときも、草花の手入れをしているときにも。どのようなときにも神はあなたを祝福し、あなたの立つのも座るのも、起きるのも寝るのも祝福しています。
その祝福の源泉は、主の声、神の言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」礼拝で宣言されるこの祝福も、聖書に記された御言葉です。神さまはご自分の言葉によって私たちを祝福してくださいます。聖書を開いてキリストを知り、神さまの御言葉に聞くことは、神の祝福を頂くことです。私たちは御言葉の祝福に今も耳を傾けています。
「主の声に聞き従うとき」と言っています。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とも言われています。神さまの御言葉に聞き、これを守って、従う。
私たち自身の言葉のことを考えてみても、言葉には何らかのかたちで自分の存在がかかっているのではないかと思います。例えば「おはよう」という何気ない挨拶一つを取ってみても、それを言った相手に無視されたら、傷つきます。「ありがとう」と言ってもむすっとされていたら、とても悲しい気持ちになります。その「おはよう」や「ありがとう」は単なる音声や記号ではなくて、愛や気持ちがこもった言葉、自分の存在がかかった言葉だからです。まして神さまの御言葉です。真実な言葉。神の言葉には、神ご自身であるイエス・キリストの存在がかかっています。「言は肉となって、私たちの間に宿られた」と書いてあるとおりです。だから、神さまの御言葉に聞き、そして聞くだけでなくそれに従うというのは、神さまの存在に応えるということです。神さまがご自分の存在や命をかけて私たちに傾けた御言葉に、私たちも自分の存在をかけて従う。そこに私たちのかけがえのない祝福があるのです。
神さまは、今日も私たちを祝福しています。私たちの存在の根っこから、根本的に祝福するために、私たちに心を込めて祝福を告げるために、神さまは私たちに今日も語りかけています。だから、神が備えてくださった祝福の道に、私たちも踏み出して行きましょう。

2022年3月1日火曜日

2022年3月1日の聖句

あなたを慕い求める人たちがあなたにあって楽しみ喜びますように。(詩編40:17)
彼らは毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し、民全体から行為をもたれていた。(使徒2:46~47)

パンを裂き、食事を共にし、神を賛美する。これが教会の歩みであった、と聖書は伝えています。この「パンを裂き」というのは、聖餐を指す言葉です。キリストがご自分の体を裂いて十字架にかけられ、血を流して、私たちに命を与えてくださいました。生まれたばかりの教会はすぐにこの出来事を記念し、キリストが最後の晩餐の席でしてくださったように、パンを裂き、それを分け合ってキリストを礼拝したのです。私たちの献げる礼拝は、パンを裂いて分け合うことです。
今回のコロナのためにいろいろな制限を受けてしまいましたが、その中でも、聖餐が受けたダメージは大きかったと思います。私たちの教会では一年ほど前から聖餐を再開しました。しかし、私の知るかぎり、カトリック教会はもっと早く再開していました。プロテスタント教会の礼拝の中心は説教ですが、カトリック教会の礼拝の中心は聖餐(彼らは「聖体拝領」と呼びます)です。そういうこともあって、聖餐のかけがえなさにより敏感であったのかも知れません。しかし私たちにとっても、聖餐の尊さ、大切さは何ら変わるところがない。キリストが裂いて分けてくださったご自身のお体を食べることで、私たちは命を頂いて生きているのです。
これを頂く教会は、聖書によれば「喜びと真心をもって」これを共にしていました。キリストの命を受ける群れは、キリストのお体を裂いて分け合うことで、喜びと真心を新しくして、神への賛美に生きていたのです。
私たちは、罪深い者です。神さまの子どもを十字架にかけて殺しました。私たちはそのキリストの命を頂かなくては生きていけないのです。キリストのお体を頂かないことには、私たちはもうどうしようもないのです。神さまの憐れみの中で、キリストの命を頂いて、今生かされている。この事実こそが、私たちの喜びの源泉なのです。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...