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2019年11月23日土曜日

2019年11月23日(エゼキエル書47〜48)

今日の通読箇所:ヨハネの手紙一1、エゼキエル書47~48

エゼキエル書47~48;
土地が12部族に割り当てられます。かつて出エジプトの時にも土地が分配されましたが、今回の割り当てとは、土地の区切り方が随分と違っています。これは実際の割り当てではなく、これまでの新しい神殿の描写と同様に、象徴的なメッセージが込められた土地分配ということになります。
ここでの分配は、イスラエルを東西に帯状に分割していくものでした。来たからダン族、アシェル族、ナフタリ族、マナセ族、エフライム族、ルベン族、ユダ族、聖なる献納地(その中にレビ族)、ベニヤミン族、シメオン族、イッサカル族、ゼブルン族、ガド族。以上の通り、イスラエルの12部族と聖なる献納地とに分割されています。
こうしてみると、中央に聖なる献納地があることが分かります。この聖なる献納地は昨日見たとおりに2万5千アンマの正方形をしていました。そしてそれを中心として、東西に指導者の土地が割り当てられています(48:21~22参照)。そして、聖なる献納地の中央に神殿があります。そして、「あなたは、この測量地から長さ2万5千アンマ、幅1万アンマを測り、そこに最も聖なる聖所をもうけなさい」(45:3)。ここが祭司とレビ人の土地ということになります。
今回の土地分割は、実際に考えてみると不思議な仕方になっています。中央にある神殿と献納地から、南北それぞれに帯状に並んだ各部族を下って行く。そしてもう一つ重要なことは、この中央になる神殿から、水が流れ出ていることです。この水はただの水ではなく、「この水が入ると、そこの水が癒やされ、この川の流れる所では、すべてのものが生きるからである」(47:9)。この水はイスラエル全体を潤し、癒やし、救います。主の神殿から神の命に満ちた祝福が流れ出していきます。私たちも与っている命の水です。そして、この水は神殿にとどまらずにイスラエル中を潤していくのです。

2019年11月22日金曜日

2019年11月22日(エゼキエル書45〜46)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書21:15~25、エゼキエル書45~46

エゼキエル書45~46;
「あなたがたがその地を相続地として分配するとき、その地の聖なる部分を献納地として主に献げなさい。その長さは2万5千アンマで、幅は2万アンマである。この周囲の領域もすべて聖なる地である」(45:1)。
これは恐らく第二回バビロン捕囚の前後に語られた言葉です。イスラエルの滅亡が目前に迫っているか、あるいはすでに壊滅し、王家も含めて捕囚されているか。そのような苦しみの中で、イスラエルの民にとっての励ましは、かつて自分たちの祖先がエジプトの国、奴隷の家から解放されたこと、神に救って頂いたことだった。今朝の御言葉を読むと、そのことがよく分かります。「あなたがたがその地を相続地として分配するとき」というのは、エジプトを脱出して約束の地に入っていこうというまさにその時を彷彿とさせる言い方です。やがて、再び、神はご自分の民をこの地に帰らせてくださる。人々はその約束に慰めを受けながら、この言葉を聞いたのではないでしょうか。
その相続地では、民に分配するよりも前に神のための聖なる土地を献げよ、と言います。その地は長さ2万5千アンマ、幅2万アンマ。さらに6節を見ると「あなたがたは、聖なる献納地に沿って、幅5千アンマ、長さ2万5千アンマの土地を町の所有地としなければならない」とあります。合わせて2万5千アンマの正方形になります。一アンマは約45センチメートルですから、2万5千アンマは11,250メートル。面積は約126平方キロメートルということになります。かなり広大な土地です。この分をまず主のものとして取り分けよ、というのです。
そのほかにも、13節以下では献納物の話が出てきます。46:6以下は安息日の話です。このようにして、土地にしても作物や時間にしても、まず神に献げるということが大切にされています。それは、この地が相続地として与えられるということ自体が神の救いの御業に他ならず、私たちが持つものはすべて神が与えてくださった恵みの贈り物だということを意味しているのではないでしょうか。私たちは、神に与えられた宝をお返しする。それが、神様のみまえでの私たちの献身なのではないでしょうか。

2019年11月21日木曜日

2019年11月21日(エゼキエル書43〜44)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書21:1~14、エゼキエル書43~44

エゼキエル書43~44;
かつてエルサレムの神殿から去った主の栄光が、再び神殿を満たします。エゼキエルが幻の内に見た神殿です。「主の栄光は東に向いている門を通って神殿に入った。霊が私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。すると、主の栄光が神殿を満たしていた」(43:4~5)。
神に裁かれ、神がすでに不在になった場所に、再び主が帰って来てくださる。これこそ救いです。しかも、その場所が新しい神殿であることには深い意味があると思います。
神の民の救いは、礼拝が再び礼拝として献げられることです。生ける神様の御前で、神の栄光の前にひれ伏し、まことの神をまさしく神としてあがめ、ひれ伏して礼拝する。これこそが私たちの救いです。改革者カルヴァンは、人生の目的は神を知ること、神を崇めるために神を知ることだと言いました。エゼキエルが見た幻は、まさにそのような意味で私たち人間が救われる日が来る、というヴィジョンだったのです。
第44章に入ると、この神殿で仕える人々について語られていきます。主に仕えるべきレビ人たちのかつての不実。「彼らは自分の恥辱と自分が行った忌むべきことの責任を負わなければならない」(13節)。神様は、罪を罪として処断なさいます。どうでも良いとはおっしゃらない。責任を負わせ、しかしそれで排除するのでもなく、「私は彼らを神殿のつとめを果たす者とし、神殿のあらゆる労働とそこで行われるすべての任務に当たらせる」(14節)。汚れた者を、神は再び聖なる者としてくださいます。「祭司は私の民に、聖と俗の区別を教え、汚れたものと清いものとの区別を知らせなければならない」(23節)。神の民の再出発は、聖なる神の御前にあって、私たちが聖と俗とを区別し、自らを清いものとして神に献げること、つまり礼拝から始まります。「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です」(ローマ12:1)。主なる神様は、私たちを神様の御前で聖徒の一人としてくださっているのです。

2019年11月20日水曜日

2019年11月20日(エゼキエル書41〜42)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書20:1~18、エゼキエル書41~42

エゼキエル書41~42;
エゼキエルは幻の内に新しい神殿を見ます。神殿、それは、イスラエルの民の信仰の中心でした。かつてダビデが建築したいと願ったが許されず、その息子ソロモンが7年の歳月をかけて完成させました。それ以来人々の祈りの家として、その信仰の中心にありました。ところが、第二回バビロン捕囚で王国が滅亡したとき、この神殿もまた失われてしまいました。そのことについて、エゼキエルは、第10章で主の栄光が神殿を去ったという仕方で描いていました。
この神殿が以下に大切なものだったのかは、捕囚後のことを考えてもよく分かります。ネヘミヤが捕囚解放後に従事したのは、神殿の再建でした。これから読むことになる預言者の中にも、主の神殿の再建にかかわる言葉を語った者がいます。あるいは、主イエスの時代にも、人々の祈りの家として、神殿は重要な位置を占めていました。しかし紀元70年頃に神殿は再び、今度はローマ帝国の手で崩壊します。新約聖書の諸文書には、この歴史の出来事が前提になって書かれているものが少なくありません。このようなことを考えてみても、イスラエルの侵攻にとって、神殿がいかに大切な存在であったのかがよく分かります。
エゼキエルは、神殿の幻を見ました。この神殿はソロモンが造った神殿とも、捕囚帰還民たちが造った神殿とも違います。どうやら、サイズも大きいようです。「彼が神殿を測ると、長さは百アンマであり、神域と別殿とその壁とで、長さが百アンマであった。神殿の東の正面と神域とで、その幅も百アンマであった。彼が神殿の背後にある神域に面した別殿と両側の回廊の長さを測ると、百アンマであった」(41:13~15)。百アンマというと、おおよそ45メートルほど。列王記上6:2によれば、ソロモンの神殿は長さ60アンマ、幅20アンマというので、大きさは随分と違います。それに、このところに書かれているところでは、この神殿の建築様式は、シンメトリーで、極めて幾何学的なようです。ある理想化された建物の姿であるのではないかと思います。
つまり、エゼキエルが見た新しい神殿の幻は、人間が自分たちの地からで造ることのできないものであった、ということであろうと思います。理想的な神殿像。美しい建造物。神様にしか造れない。そういう新しい神殿によって示されるのは、神様の聖なることです。そこで働くレビ人も祭司も、聖なる主に仕えます。礼拝する者は、聖なる方の御前に進み出ます。私たちが礼拝しているお方は、この同じ聖なる方です。私たちの造った建物では納めてしまうことができない、聖く、美しく、広いお方。そのお方の御前に出て礼拝する私たちを、神はご自身の神殿としてくださいます。驚くべきことに、神は、私たち信じる者の間に宿ってくださるのです。

2019年11月19日火曜日

2019年11月19日(エゼキエル書39〜40)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書20:1~18、エゼキエル書39~40

エゼキエル書39~40;
私はわが聖なる名を、わが民イスラエルの中に知らせ、二度とわが聖なる名を汚させない。こうして、諸国民は私が主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。それは到来し、実現するーー主なる神の仰せ。これは、私が語った日である。(39:7~8)

マゴグのゴグに対する言葉が第38章から語られています。ゴグというのは実在する国の名前ではありません。しかしイスラエルを滅ぼす力を持つ存在として語られています。このゴグを通して、イスラエルに対する神の裁きが下される。冒頭のエゼキエルを通して語られた神の言葉の中に「これは、私が語った日である」とありました。ここに出てくる「日」というのは、第7章7節に出てきた「日」のことです。「この地に住む者よ、あなたに運命の時が来た。その時が来た。その日が近づいた。それは混乱であって、山々の喜びの声ではない。」神の裁きの日のことです。第39章では、ついにその日が来たと言われています。具体的には、第二回バビロン捕囚のことであろうと思います。イスラエルの破滅と滅亡の日。その裁きの日を通して、神の聖なるお名前の、その聖さが示されると言われているわけです。
ここでの急所は、神様のお名前の聖さが、徹底的な裁きを通して示されるという点です。「私はわが栄光を諸国民の中に現す。諸国民は皆、私が行った裁きと、彼らの中に置いたわが手を見る。その日から後、イスラエルの家は私が主、彼らの神であることを知るようになる」(21節)。これは、裁きを通して明らかになることです。第7章で言われていたとおり、その日は裁きの日であって、山々が喜ぶ日ではない。まことに厳しいことですが、歴史の現実はまさしくイスラエルの滅亡へと進んでいきました。
しかし、大逆転が起こります。「それゆえ、主なる神はこう言われる。今や私はヤコブの繁栄を回復させ、イスラエルの家すべてを憐れみ、わが聖なる名のために妬みを起こす。彼らが自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、自分の恥辱と私に対して犯したすべての背信の罪を負う。私が彼らをもろもろの民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、私は多くの国民の前で、彼らを通して、自らが聖なる者であることを示す」(25~27節)。かつては、イスラエルの家への裁きによって、神の御名の聖なることが示されました。神を蔑ろにし、その名を汚し、侮ってきたからです。しかし、今や同じその御名が、イスラエルへの救いによって示されます。罪と死の中に裁かれた者を救うことによって、神の御名の聖なることが現される。驚くべきことです。しかしこの驚くべきことが現実に起きました。何よりもそれが明らかになった出来事こそ、キリストの出来事に他なりません。私たちのための救いが、今や来ているのです。

2019年11月18日月曜日

2019年11月18日(エゼキエル書37〜38)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書19:23~42、エゼキエル書37~38

エゼキエル書37~38;
平野のおびただしい骨、しかも枯れ果てた骨。そこには、命のかけらも見当たりません。「人の子よ、この骨は生き返ることができるか」(37:3)と神に聞かれても、「はい」と言いうる要素が一つもない。人間にはあらがいようのない力、死の力に覆い尽くされているからです。
しかし、預言者は「生き返る事なんてできません」とも言いませんでした。例え死に覆われていても、生き返りうるたった一つの可能性を知っていたからです。「主なる神よ、あなはたはご存じです」(3節)。もしも枯れ果てた骨が生き返ることができるとしたら、それは、主がそのようにしてくださるということが唯一の可能性なのです。
「主は私に言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる。今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む。するとあなたがたは生き返る。私はあなたがたの上に筋を付け、肉を生じさせ、皮膚で覆い、その中に霊を与える。するとあなたがたは生き返る。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる』」(4~6節)。
神が御言葉をもって命じ、その霊を吹き付けるとき、枯れ果てた骨は生き返るのです。「霊」という言葉には「息」という意味もあります。私たちの呼吸の起源は神が吹かせた霊の風だと言うのです。これは、私たちの命の物語です。
37:15以下にユダとイスラエルが再び一つになるという預言が語られています。「私はその地、イスラエルの山々で彼らを一つの国民とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国民とはならず、もはや二度と二つの王国に分かれることはない」(22節)。ユダとイスラエルは、ソロモンの次の時代から分裂し、互いに反目し合っていました。その和解の時が来るという約束です。神が一つにすると言ってくださっています。この章前半の枯れた骨は、もしかしたら、互いに憎しみ合い、反目し、共に生きることのできないというところに具体的に見えている姿であるのかも知れません。私たちが隣人と共に生きることのできない姿は、神から御覧になったら、与えられた命をからしてしまった骨のようなものなのかも知れない。この枯れ果てた骨が生き返ることができるとしたら、その可能性は、神様の命を与える語りかけにこそある。私たちは、和解の福音に生かされています。

2019年11月17日日曜日

2019年11月17日(エゼキエル書35〜36)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書19:1~22、エゼキエル書35~36

エゼキエル書35~36;
彼らは諸国民のところに行き、そこでわが聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『これは主の民だ。しかし彼らは主の地から去らなければならなかった』と言った。そこで私は、イスラエルの家が行った先の諸国民の間で汚したわが聖なる名を惜しんだ。(36:20~21)

主のお名前が、神の民のていたらくのために汚された。主に愛され、主のものであったはずの民が裁かれ、約束の地から離れ、惨めに生きている。それを見た異邦人たちは主を侮る。そのようにして、神を信じているはずの者たちのために主のお名前が汚された、それを私は惜しむと神様は言われます。
思えば、十戒にもすでに「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20:7)と記されていました。この『主の名』は、十戒の前文にも「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、。奴隷の家から導き出した者である」という神様の自己紹介で紹介されています。
改めて考えてみると、神様に名前は必要なのでしょうか?神様は神様であって、それ以上の名前を必要とはしないのではないでしょうか。名前というのは、他と区別をするためのものです。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」というのであれば、名前は最初から必要ないのではないでしょうか。
しかし、神はそのようにはお考えになりませんでした。神は、私たち人間が「主」とお呼びするようにと決め、ご自分を名前を持って呼ばれる存在として私たちに紹介してくださったのです。ですから、「主」という神様のお名前は、それ自体が私たちへの愛のしるしなのです。
その主なる神様のお名前が汚されたというのは、神の聖なる愛が汚されたということに他なりません。私たちのために、神のお名前が損なわれたのです。「私はあなたがたを、そのすべての汚れから救う」(36:29)と神は宣言してくださっています。神は、私たちの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。この方が私たちを救ってくださる。主の皆を呼び求める歩みを、今日重ねていきたいと願います。

2019年11月16日土曜日

2019年11月16日(エゼキエル書33〜34)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書18:28~40,エゼキエル書33~34

エゼキエル書33~34;
主なる神様の、悲痛な叫びのような言葉です。「人の子よ、あなたはイスラエルの家に言いなさい。あなたがたはこう言った。『我々の背きと罪は我々の上にあり、そのために我々は痩せ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。私は生きているーー主なる神の仰せ。私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよいだろうか」(33:10~11)。
イスラエルの人たちは、もう諦めていました。自分たちのことを。自分たちの破滅と滅亡を前に、もはや疲れ果て、気力を失っていました。「虚脱」と言っても良いかもしれません。どうしてそれほどまでに力を失っていたのか。21節を見ると、「エルサレムから逃れた者が私のところに来て、『都は破壊された』と言った」とあります。ここで報告されているのは、いわゆる第二回バビロン捕囚です。これは、イスラエルの完全な滅亡の知らせです。神殿も破壊され、都も王家も破滅し、国王自身も捕囚の憂き目に遭いました。人々は、これは神の裁きだと受け止めた。だから、もう自分たちは何をしても無駄だ、どうせ救われることなどない。そうやって諦めたのです。
しかし、神様は、エゼキエルになお見張りの役目を果たせと命じます。イスラエルの人々に、今こそ主に立ち帰り、主に従うように言えと命じます。諦めずに、主の御許でもう一度やり直せと主ご自身が招いておられます。
ところが、エゼキエルの言葉は聞かれませんでした。「私の民はあなた(エゼキエルのこと)の前に座り、その言葉を聞く。しかし彼らはそれを行わない。口ではお世辞を言うが、心は自分の利益を追い求めるからだ」(31節)。まるで歌謡曲でも聞いているように聞き流す、ありがたいお言葉だなどと言いながら、ちっともそれに従うために自分を変えようとはしない。この招きは、主なる神様の悲痛な叫びなのではないでしょうか。
第34章には、イスラエルの牧者の話が登場します。ここで言う「牧者」とは、王などのっくにの指導者のことです。彼らは自分の私腹ばかりを肥やして、民を食い物にした。しかし神の前に不義なのは牧者だけではなく、羊も、神が与えてくださった澄んだ水を踏みにじっていると指摘されています。
そこで、神が一人の牧者を立ててくださいます。「私は彼らの上に一人の牧者を立て、彼らを養わせる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。主である私が彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの中で指導者となる。主である私がこれを語った。私は彼らと平和の契約を結ぶ」(34:23~25)。主ご自身が立ててくださる牧者によってしか、私たちは救われません。牧者も羊も不義なる私たちの救いは、神が平和の契約をもって立ててくださる牧者にかかっています。この方は、どんなときにも諦めずに私たちに語り続けてくださいます。「私は悪しき者の死を喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか。」主は、今朝も私たちに呼びかけておられます。

2019年11月15日金曜日

2019年11月15日(エゼキエル書31〜32)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書18:1~27、エゼキエル書31~32

エゼキエル書31~32;
エジプトに対するエゼキエルの預言の続きです。
「あなたの偉大さは、誰に比べられようか。まさに、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。枝は美しく、森に木陰を造り、背は高く、その梢は雲の中にあった」(31:2~3)。エジプトは、美しい木のように立派だ、と言います。その結果、何が起こったのか「この木は背が高くなり、梢を雲の中に伸ばし、高さゆえに心が高慢になったので・・・」(10節)。この木はその美しさのために心が高慢になってしまった、と言います。
しかし、その美しい梢は、本当はそのようなものではありませんでした。「こうして、その丈はすべての野の木よりも高くなり、送られた豊かな水によって、小枝は茂り、大枝は長く伸びた。小枝にはあらゆる空の鳥が巣を作り、大枝の下ではあらゆる野の獣が子を産み、木陰には多くの国民が皆住み着いた」(5~6節)。この豊かな枝は、本来は自らを満足させて自己愛の虜になり、心を高ぶらせるためのものではありませんでした。その枝の豊かさのゆえに鳥が巣を作り、野の獣が子を産み、異国人も木陰で休めるための場所になるはずでした。他者のための存在、他者を生かすための存在になれるはずだった。それなのに、いつの間にかその豊かさで自分のことしか養わなくなってしまった。それが、ここでの批判の要点であると思います。
主イエスは、「受けるよりも与える方が幸いである」と言われました。至言であると思います。しかし、いつの間にか、私たちにとってとても難しい言葉になってしまっています。もう一度、与える幸いに私たちの心を向けさせてください、と今日祈りたく願います。受ける方が幸いだという思い込みから、どうぞ私を自由にしてください。そう祈ります。そうしたら、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」という祈りの「我ら」が、私や私の周りの人のことだけではなく、私たちがまだ出会ったことのない人、あるいは私たちの敵、無関心でもいられてしまう人、そのような人々をも含む「我ら」であることに気づかされる。そう思うと、日ごとの糧を求める祈りは、日ごとの罪の赦しを求める祈りと一つなのだと気づかされます。

2019年11月14日木曜日

2019年11月14日(エゼキエル書29〜30)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書17、エゼキエル書29~30

エゼキエル書29~30;
「第十年の第十の月の十二日」(29:1)という日付がついた、預言者エゼキエルに臨んだ主の言葉です。第十年と言えば、エルサレムがバビロンに包囲されている最中のことです。そういう時代に、エゼキエルはエジプトについて語られる神の言葉を聞きました。
これもティルスと似ていて、エジプトの傲慢を打つ、という内容です。「主なる神はこう言われる。エジプトの王ファラオよ、私はあなたに立ち向かう。ナイル川に腹ばう大きな鰐よ、あなたは『ナイル川は私のもの、私がこれを造った』と言っている」(3節)。だから、この裁きを通して、「こうして、エジプトのすべての住民は、私が主であることを知るようになる」(6節)と告げられています。
エジプトはイスラエルにとっては、あるときには脅威であり、あるときには頼り切ってその力の元に身を寄せた相手でもありました。そんなときにはエジプトを頼みとするあまりに神を忘れました。この時代の少し前には、ユダの名君ヨシヤ王がネコ王率いるエジプトに敗れ、そのためにユダの滅亡が決定づけられるようないきさつもありました。そういう相手を神が裁くと言ったら、どうでしょうか。自分たちの復讐心を満足させるために、これから自分たちが蒙るであろう痛みに倍する苦しみを与えてほしいと考えるのではないかと思います。しかし、神様はそのようにはおっしゃいませんでした。
エジプトの住民が、主なる神様を知るために。それが、神の裁きの目的です。「私がエジプト人を諸国民の中に散らし、国々に追い散らすとき、彼らは私が主であることを知るようになる」(30:26)と神様はおっしゃいます。
新約聖書にこのような言葉があります。「誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる。」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:17~21)。自分の怒りや憎しみさえも神様にお任せする深い信仰を、祈り求めたいと願います。善を行えと言いますが、この『善』というのは、キリストが私のためにしてくださったことなのではないでしょうか。

2019年11月13日水曜日

2019年11月13日(エゼキエル書27〜28)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書16,エゼキエル書27~28

エゼキエル書27~28;
ティルスに対する預言が続きます。「主なる神はこう言われる。あなたの心は驕り高ぶり、『私は神だ。海のただ中にある神々の住まいに住んでいる』と言った。しかし、あなたは人であって、神ではない。自分の心を神々の心のように思っているだけだ」(28:2)。この頃、ティルスは海上貿易によって得た富で豊かであったようです。第27章25節までを見ると、その貿易の豊かさが描かれています。銀、鉄、錫、鉛、馬、軍馬、らば、象牙と黒檀、クジャク石、紫の布、彩り豊かな衣、上質の亜麻布、さんご、あかめのう・・・。豊かで、力のある国が傲慢になるというのは、古今東西変わることのない現象です。ティルスも同じだった。「私は神だ」というのはいかにも古代風の表現方法と思われるかも知れませんが、今だって、大国と呼ばれる国々には同じような驕りがあるのではないでしょうか。あるいは、もはや大国でもないのにその幻影に取り憑かれて他国を見下すようなケースもあるのかもしれません。
神は、ティルスの傲慢を放っては置かれませんでした。「漕ぎ手があなたを大海原に連れ出したが、海の真ん中で、東風があなたを打ち砕いた」(27:26)というのは、何らかの海難事故なのでしょうか。あるいは海戦での敗北でしょうか。いずれにしてもそれは裁きの始まりでした。「それゆえ、主なる神はこう言われる。あなたは自分の心を神の心のように思っている。それゆえ、私は諸国民の中で最も凶暴な他国の民をあなたに差し向ける。彼らはあなたの知恵の美しさに向かって剣を抜き、あなたの輝きを汚し、穴に下らせる。あなたは海のただ中で刺し貫かれて死ぬ」(28:6~8)。
驕れる者は久しからずと、日本でも古来言われます。満月のように欠けた所のない「我が世」もいずれは必ず滅びます。しかし私たちはそれを単に歴史の教訓として覚えるだけではなく、国家権力が神の前に「私こそ神」と言ってのける化け物にならないように、監視せねばなりません。あるいは、もはやそう言ってはばからないのであれば、その罪を指弾しなければなりません。
28:25以下にイスラエルの救いが預言されています。イスラエルも、やはり自分自身を神とするような過ちを重ね、裁かれました。同じ罪を負っています。しかしその裁かれ、くずおれ、弱った葦のような者を、神は救ってくださるお方です。神はへりくだった者の神です。謙って神を礼拝することこそ、私たちの最高の幸いだからです。主の御前に身を低くし、我が身は衰え、このお方は栄えるべきだと、私たちは御前に賛美を献げて、今日の日に出て行きましょう。

2019年11月12日火曜日

2019年11月12日(エゼキエル書25〜26)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書15、エゼキエル書25~26

エゼキエル書25~26;
ユダとイスラエルが滅亡し、彼らを取り巻く周辺諸国に対する預言の言葉が語れていきます。ここでは、アンモン、モアブ、エドム、ティルスが対象です。
「アンモン人に言え。主なる神の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。私の聖所が汚され、イスラエルの地が荒らされ、ユダの家が捕囚となって行ったとき、あなたはそれを『あはは』と言って嘲った。それゆえ、私はあなたを東の人々に渡して彼らに所有させる。・・・こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる」(25:3~5抜粋)。
確かに、ユダとイスラエルは自分たちの罪深さのために裁かれ、聖所も神に捨てられてしまいました。しかし、彼らの敵がそれを嘲り、笑いものにすることを神はお許しにならないのです。神の御名が汚されるからです。神がそのお名前を留めた地が汚され、神が侮られることを、神はお許しにならない。
「私が主であることを知るようになる」という言葉が、ここでも繰り返されていました。ユダの人々にも、この言葉が繰り返されていました。主という具体的な名前が私たちの間で重んじられるということがとても大事なのだということに気づかされます。神の民の間でも、そして、全地においても。
神様は、例え信じる私たちが一人残らず滅亡したとしても、やはり神様でいらっしゃることに変わりはありません。誰か信じる人がいるから神は神なのではなく、まず神がおられ、その御名が聖なるものであり、だから信じる者がいる。その事実を、はっきりと心に刻みたいと今日改めて思います。

2019年11月11日月曜日

2019年11月11日(エゼキエル書23〜24)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書14、エゼキエル書23~24

エゼキエル書23~24;
第23章にはオホラとオホリバという二人の女が登場します。二人は姉妹で、姉のオホラは北王国イスラエル、妹のオホリバは南王国ユダを象徴しています。主はエゼキエルに、イスラエルとユダの姿を二人の姉妹に譬えて示しています。
「オホラは私のものであったのに、淫らな行いをし、その愛人である戦士アッシリア人に浴場を抱いた」(5節)と言われています。そして、かなり強烈な表現で、オホラは主なる神への操を通すことなく、淫らな欲情のままに愛人の手に自分を委ねた、と指摘されています。それは偶像礼拝であったり、他国との軍事同盟で安心を保証したり、そうやって神を捨てた振る舞いを指摘しているのでしょう。そんなオホラを神は裁かれた。「それゆえ、私は彼女をその愛人の手に、彼女が欲情を抱いたアッシリアの人々の手に渡した。彼らは彼女の裸をさらし、彼女の息子や娘を奪い取り、剣で彼女を殺害した」(9~10節)。
それを間近で見ていた妹のオホリバは、しかし、「彼女の欲情は姉よりも激しく、その淫らな行いは姉の淫行を越えて激しかった」と糾弾されています。イスラエルよりも、ユダの方がもっと罪深いと言います。だから、神はオホリバであるユダをも裁くと告げられています。
それが実行に移されたのが、第24章です。「第九年の第十の月の十日に、主の言葉が私に臨んだ」(1節)。そこで告げられたのは、「私は差し控えず、惜しまず、悔いることはない。あなたの歩みと行いに従ってあなたを裁く」(14節)という言葉なのでした。第九年の第十の月の十日と言っていますが、列王記下25:1以下を見ると、このちょうどこの日にバビロンのネブカドネツァル王が攻めてきました。第11年の第四の月までエルサレムは包囲され、その後、滅亡します。前587年の第二回バビロン捕囚です。これが、オホリバであるユダへの裁きでした。
その時、エゼキエルの妻が死にました。彼女は彼にとって「目に慕わしい者」(15節)です。しかし、妻の死を嘆き悲しんではならないと神に命じられました。これから、エゼキエルやユダの人々の目に慕わしい都が神殿が崩壊する。ユダの人々はそれを嘆き悲しんではならない、エゼキエルの妻の死に際する振る舞いはそのしるしとなれというのが神のご命令でした。エゼキエルが神に命じられた生き方は、過酷なものです。しかしそのようにして、神がどんなにユダとイスラエルの心の離反を嘆き、姦淫としか言いようのない思いをもってあなたたちを慕っていてくださるのかを知ってほしい、心を向けてほしいと、声を大きくして訴えているように思います。

2019年11月10日日曜日

2019年11月10日(エゼキエル書21〜22)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書13、エゼキエル書21~22

エゼキエル書21~22;
私はあなたが得た不正な利益と、あなたの中で行われた流血に対して、手を打ち鳴らす。私があなたに立ち向かう日に、あなたの心は耐えられるだろうか。またあなたの手は強くありえようか。主である私がこれを語り、これを行う。(22:13~14)

不正な利益と流血いては、第22章の冒頭から詳しく言及されています。「彼らはあなたの中で父と母を軽んじ、あなたの中で寄留者を虐げ、孤児や寡婦を抑圧している。あなたは私の聖なるものを侮り、私の安息日を汚した」(22:6~7)。さらに、偶像礼拝や性的な不品行、賄賂などについて指摘されています。神は、これらの罪を裁く、と言われます。「私はあなたを諸国民の中に散らし、国々に追い散らす。そしてあなたから汚れを取り除く。あなたは諸国民の前で自分自身を汚したのだ。こうして、あなたは私が主であることを知るようになる」(15~16節)。
寄留者、孤児、寡婦は、どれも社会的弱者です。弱者の権利を重んじ、彼ら・彼女らを軽んじるなと言われています。エゼキエルだけではなく、聖書は一貫してそのように言い続けてきました。これだけ繰り返してその点での罪が指摘されているというのは、逆に、どれほど口を酸っぱくして言われても弱者が蹂躙されていたということの証左であろうと思います。それは私たちの社会も全く同じです。
弱者が生きにくい社会は、結局誰にとっても生きにくい社会にならざるを得ません。経済的に豊かであっても、そんなものは貧しい社会です。社会のあり方としては貧相で賤しいだと思います。しかし、人間の欲目は、私たちを近視眼的にします。自分さえよければという気持ちにさせます。どうしたら解放されるのか?
預言者エゼキエルは、神の裁きを思い起こさせます。寄留者、孤児、寡婦を決して忘れることのない神が、私たちの手にした不正な富をお許しにはならないと告げます。私たちに、生き方を方向転換せよと言われます。
預言者エゼキエルが語る言葉は、とても厳しい言葉ばかりです。しかしそれはそれだけ真摯な一人の信仰者の存在から絞り出されるような言葉であったからなのだろうと思います。エゼキエルは、ただ神の前にだけひれ伏すことに真剣でした。そして、神様はこのような一人の人を通して私たちに語りかけておられるのです。

2019年11月9日土曜日

2019年11月9日(エゼキエル書19〜20)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書12:20~50、エゼキエル書19~20

エゼキエル書19~20;
イスラエルの歴史は、神に対して罪を重ねた歴史でした。神様を蔑ろにし、侮って捨て、神ならぬものを神として拝んできた。それがイスラエル、神の民の歴史であったと繰り返されているように思います。しかし、神様はそんな民を見捨てず、救い続けてくださいました。
「彼らは私に逆らい、私に聞き従おうとしなかった。おのおの、目の前の憎むべきものを投げ捨てず、エジプトの偶像を捨てなかった。そこで私は言った。『エジプトの地で憤りを彼らに注ぎ、怒りを彼らに燃やし尽くそう。』しかし私は私の名のために行動し、彼らが住む諸国民の前で、私の名が汚されることのないようにした。すなわち、彼らをエジプトの地から導きだし、諸国民の前で彼らに私を知らせたのである」(20:8~9)。ここに出てくる『私の名』、つまり主なる神様のお名前という事柄は、エゼキエル書の一つのテーマであると思います。22節にも「しかし、私は手を引き戻し、私の名のために行動し、諸国民の前で私の名が汚されることのないようにした」と言われています。そして、44節でも「私があなたがたの悪の道や堕落した行いによってではなく、私の名のためにあなたがたを遇するとき、イスラエルの家よ、あなたがたは私が主であることを知るようになるーー主なる神の仰せ」とあります。
主なる神様が私たちを救ってくださるのは、ご自分の聖なるお名前のため、それが汚されないためだ、と言われます。これは、私たちには予想外のことではないでしょうか。私たちは、いつの間にか、私たちが救われるのは私たちのためだと考えがちです。神は私が幸せになるために私を救ってくださる、と。それはもちろんそうなのでしょうが、しかし、神の救いの御業は、神様ご自身のお名前のためだという事実を軽んじることは許されないのではないでしょうか。
神の名が汚されるというのは、神様の名誉が損なわれるということなのだろうと思います。そうすると、私たちの救いに、神様の名誉がかかっているということになります。これは驚くべき事です。私は私のために救われるのではない。神様の名誉にかけて、神様は私を救ってくださっている。この厳粛な事実の前に、私たちは、ただ身をかがめてこのお方を礼拝するのみです。

2019年11月8日金曜日

2019年11月8日(エゼキエル書17〜18)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書12:1~19、エゼキエル書17~18

エゼキエル書17~18;
それゆえ、イスラエルの家よ。私はあなたがたをそれぞれの道に従って裁くーー主なる神の仰せ。立ち帰れ。すべての背きから立ち帰れ。そうすれば過ちはあなたがたのつまずきとはならない。あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どおうしてあなたがたは死のうとするのか。私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよーー主なる神の仰せ。(18:30~32)

この章で言われていることは、驚くべき事柄であると思います。「私はあなたがたをそれぞれの道に従って裁く」と言います。それぞれの道、です。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」と言われているとおり、父の罪を子が償わなければならないのではなく、逆に父の功徳によって子が救われるのでもありません。「それぞれの道に従って裁く」というのです。
私は、とても近代的な個が確立された言葉だとさえ思いました。今から2500年以上前の言葉とは思えません。しかし、神の前で、人間は一人の人間になるということなのでしょう。それに時代は関係ないのだと思います。
最近の日本では「誤った個人主義」とか「行きすぎた個人主義」という言葉が流行して、個人主義が戦後の混乱の根源であるかのように言われますが、それは誤りだと私は思います。むしろ日本にはまだ個人主義は根付いていないと私は見ています。個は、神の前にでるとき、本当に確立されるのではないでしょうか。神の前で、私たち一人一人の生き方が、責任的に問われるのです。
そうであるからこそ、その責任を取り得ていない自分の罪にも目を向けねばなりません。人を抑圧せず、偶像を仰ぎ見ず、貧しい者の生きる道を守り、・・・そのようにして神に従っているのか、あるいは自分の欲望のままにそれを蔑ろにしているのか。神の前に一人立つこの私に、神は問うておられるのではないでしょうか。神様は、「私は誰の死をも喜ばない」と私たちに呼びかけています。「立ち帰って、生きよ」、これが神様から私たちへの呼び声です。

2019年11月7日木曜日

2019年11月7日(エゼキエル書15〜16)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書11:45~57、エゼキエル書15~16

エゼキエル書15~16;
神はエゼキエルに向かって、「人の子よ、ぶどうの木は、森の中の枝のある木に比べてどこが優れているだろうか」(15:1)|と問うておられます。ぶどうの木は他の木のように薪にもならず、木材にもならない。ぶどうの木の価値は、実を結ぶことです。実を結ばないぶどうの木など、無用の長物です。イスラエルの民は、今、私にとってそのようなものではないか、というのが神様の問いかけです。
どうして実を結ばないぶどうの木などと言われてしまうのか。それが、第16章の語ることです。ここではイスラエル他の民がある一人の若い娘に譬えられています。彼女の出自は、捨て子でした。「あなたの生まれた日に、あなたは嫌われ、野の面に捨てられていた。私は傍らを通りかかり、地の中でもがいているあなたを見て、血まみれのあなたに、『生きよ』と言った」(16:6)。神が血まみれのままで捨てられた娘を見て、「生きよ」と言ってくださって、衣服を着せ食べ物を与え、目をかけ、世話をし、愛情を注いで育ててくださった。娘は美しく成長しました。
「ところが、あなたは自分の美しさに頼り、自分の名声のゆえに淫らな行いをした。通りかかる誰とでも淫行をし、その人のものとなった。自分の衣服を取って、自分のためにきらびやかな高き所を造り、その上で淫行にふけった。このようなことはかつてなく、またこれからもあってはならないことである」(15~16節)。ここで言っている「淫行」というのは、偶像礼拝のことです。神ならぬものにひれ伏し、忠誠を誓い、伏し拝んで生きていることは、神様との関わりを考えると、妻が夫に対して姦淫の罪を犯しているのと同じだ、と言われるのです。
この裏切りは、血まみれの時に「生きよ」と言ってくださり、生きるため成長するために必要なすべてのものや愛を与え尽くしてくださった方への裏切りです。私たちが神ならぬものを神であるかのように拝むことは、神様への姦淫の罪です。だから、実らせるはずの実を結ばない、役に立たないぶどうの木だ、と言われるのです。
このように私たちの罪を鋭く指摘する御言葉は、読んでいて、耳も心も痛めつけるような言葉です。しかし、この御言葉から教えられることは、神様はその何倍も傷ついておられるという事実です。神様は、私たちのために傷ついておられます。罪というのは、神様を傷つけることです。裏切って、神様に恥をかかせ、その愛を踏みにじった。それが、私たちと神との関係です。それにもかかわらず、神が手を伸ばしてくださっている。聖書が語る福音は、まことに、驚くべきニュースです。

2019年11月6日水曜日

2019年11月6日(エゼキエル書13〜14)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書11:17~44エゼキエル書13~14

エゼキエル書13~14;
主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、ある国が私に背信を行って罪を犯すなら、私はその国に手を伸ばし、パンの蓄えを絶ち、飢饉をもたらし、そこから人と家畜を絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、あの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らがその義によって救えるのは自分の命だけであるーー主なる神の仰せ」(14:12~14)。
神の裁きが語られています。厳しい裁きです。そこに、三人の人物が登場しています。ノア、ダニエル、ヨブ。ノアとヨブについては、聖書は同じ評価をしています。「ノアの歴史は次のとおりである。その時代の中で、ノアは正しく、かつ全き人であった」(創6:9)。「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけていた」(ヨブ記1:1)。二人とも、正しい人、無垢な人でした。ダニエルについてはこのエゼキエル書の次に読むことになっていますが、この人も困難な状況下で神に従い通した人、信仰者として生き抜いた人として描かれています。つまり、ここに登場する三人は、信仰者として生き抜いた人、神の御心に適った人たちである、と言うことができると思います。
しかし、例えこの民の中に彼ら三人がいたとしても、これから神が下そうとしている裁きを免れさせることはできない、彼らの信仰は彼ら自身を救うことができるだけだ、と言われます。しかも、この章で、繰り返し、何度もそのように言われています。
もしかしたら、これはソドムとゴモラを前にしたアブラハムの祈りへの一つの答えなのかも知れません。「わが主よ、もう一度だけ申し上げても、どうかお怒りになりませんように。もしかすると、そこには十人しかいないかも知れません」(創18:32)。アブラハムは、ソドムの罪を裁こうとする主なる神様に対し、その町を執り成そうと必死の祈りをします。しかし結局、その町は滅ぼされてしまいました。神様は「その十人のために、私は滅ぼさない」と言ってくださいましたが、最終的には滅んでしまった。正しい人は、たったの十人もいなかったのです。
例えノア、ヨブ、ダニエルがいたとしても、この裁きはなしにはならない。神はそう言われます。人間の信仰は、例えそれがノア、ヨブ、ダニエルのものであったとしても、せいぜい自分一人を救えるだけすぎません。まして私たちの信仰など・・・。ところが、神は、私たちのあり方にはかかわらず、ご自身から救いの手を伸ばしてくださいました。キリストというたった一人の正しい方、無垢でまったきお方を遣わして、この方の真実によって私たちを救ってくださったのです。ここに救いがあります。ここに、私たちを救う神のご意志が進められています。だから、私たちは、私たちを救ってくださったキリストを信じているのです。

2019年11月5日火曜日

2019年11月5日(エゼキエル書11〜12)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書11:1~16、エゼキエル書11~12

エゼキエル書11~12;
預言者エゼキエルは神に命じられます。「人の子よ、あなたは捕囚の荷物を準備し、彼らの目の前で、昼の内に捕囚の身となって行け。彼らの目の前で、あなたのいる所から他の所に、捕囚の身となって行け。そうすれば、彼らは自分が反逆の家であることに気づくであろう」(12:3)。この一人の預言者の姿を見て、人々が自分の姿に気づくはずだと神様は言われます。ここには、裁きの言葉が重ねられています。「人々の住んでいた町が廃墟となり、地は荒れ果てる。その時、あなたがたは私が主であることを知るようになる」(12:20)。この裁きを通して神に立ち帰れと言います。ところが、「人の子よ、イスラエルの家は言っている。『彼の見た幻は多くの日々の後のことであり、彼は遠い将来のことを預言したのだ』」(12:27)。人々は、エゼキエルを通して語られた神の言葉を真剣に聞こうとはせず、神に立ち帰ろうともしませんでした。
それに対し、神はどうなさるのでしょうか。前の章でこのようにありました。「そして、主の栄光が神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。・・・彼らはそれぞれ前の方にまっすぐ進んでいった」(10:18.22)。そして、11:22~25に続きます。「主の栄光は町の中から昇り、町の東にある山の上にとどまった」(23節)。主の栄光はエルサレムを離れ、神殿を後にしてしまった。民への裁きが決定的なものとなった、ということでしょう。主の栄光が去った神殿など、もはや無用の長物でしかありません。
しかし、主は言われます。「確かに私は彼らを諸国民の中に遠ざけ、国々の中に散らした。しかし私は、彼らが行った先の国々で、しばらくの間、彼らのための聖所となった」(11:16)。主ご自身が、聖所になってくださいます。主ご自身が、私たちの礼拝を執り成してくださるのです。それは、私たちを遂には回復させるためです。「私は彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授ける。彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を授ける。それは彼らが私の掟に従って歩み、私の法を守り行うためである。その時、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる」(11:19~20)。この「肉の心」というのは、柔らかい心という意味であろうと思います。かたくなで固まってしまった私たちの心を、神が柔らかくしてくださる。そのために、主ご自身が私たちの聖所になってくださいました。言うまでもなく、私たちは、その約束が主イエスにおいて成就したことを知っています。主は、私たちのために肉の心を生み出すために、ご自分の霊をも送ってくださったのです。

2019年11月4日月曜日

2019年11月4日(エゼキエル書8〜10)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書10:22~42、エゼキエル書8~10

エゼキエル書8~10;
エゼキエルは幻の内に、神の霊によってエルサレムの神殿へ連れて行かれます。このとき、彼はバビロンの捕囚地にいました。この時期、エルサレムは、まだ陥落はしていません。第一回捕囚が前598年、エゼキエルがケバル川のほとりで主の栄光に接したのは、第一章によれば5年目のことなので前593年、そして今日の第8章はその翌年のことです。第二回捕囚、神殿も崩壊してユダの国が滅亡するのが前587年ですので、その直前ということになります。その時代のエルサレム神殿の罪の真相について、エゼキエルは主に見せられた幻によって知ることになるのです。
「すると霊が私を地と天の間に引き上げ、神の幻の内に私をエルサレムへ、北に面した内側の門の入り口に連れて行った。そこには、妬みをかき立てる妬みの像の座があった。すると、そこには私が平野で見た姿のままにイスラエルの神の栄光があった」(8:3~4)。妬みの像、つまりは偶像のことです。エゼキエルは、この神殿に「さまざまな這うものや憎むべき獣の像およびイスラエルの家のあらゆる偶像が、周りの壁一面に彫られていた」(10節)のを目撃します。それは甚だしく忌まわしいことだ、と神に断罪されます。
つまり、イスラエルの問題は神ならぬものを神として拝んでいた、という一点が急所だということに他なりません。神殿は、主の栄光を崇め、礼拝するべき場所です。それなのに、そこに神ならぬものを持ち込んで礼拝している。神ならぬものというのは、別の○○教という宗教が邪教だという話ではありません。主を礼拝するといいながら、自分の欲望を礼拝していることの忌まわしさです。自分の思い通りに神を操ってやろうという傲慢が、イスラエルを偶像礼拝の虜にしてしまいました。
神を神としてあがめることを拒むというのは、どういうことなのでしょうか。「イスラエルとユダの家の過ちは甚だしく大きい。この地は血で満ち、町は不法に満ちている。それは、彼らが『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言ったからだ。私は憐れみの目を向けず、彼らを惜しまない。私は彼らの行いをその頭上に報いる」(9:9~10)。神様の憐れみを見くびっている、ということではないでしょうか。。神様の愛の深さをなめていたのです。だから、神ならぬものを神としなければ生きられいないと勘違いするに至ってしまった。神をなめきった不信仰が神の栄光を神殿から追い出してしまったのです。それが、罪の奥にある事柄の真相です。「御名を崇めさせたまえ」と、今朝、神の憐れみにすがりつつ祈ります。

2026年7月30日の聖句

自分の神を知る民は揺るがず行動する。(ダニエル11:32) 聖なる方、真実な方がこう言われる。「あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから試練の時に、私もあなたを守ろう。」(黙示録3:7,10) 今日の御言葉は「忍耐」と言います。必ず試練の時が来る。苦しみの時に忍...