あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。(ルカ12:25)
科学技術のめざましい発展のお陰で人間にはいろいろなことができるようになりました。何年か前のオリンピックで、開会式の日を晴れにするために「人工消雨」というプロジェクトがあるというニュースが流れていた記憶があります。天気の予報どころかコントロールまでしようとする。「すごい」とも言えそうですが、考えてみればずいぶん恐ろしいことです。天気を人間の手におさめるなんて!しかし私たちがあまりにも慣れてしまって、本当は恐ろしいはずなのに恐ろしさを忘れているようなことはいろいろあるのかも知れません。どうでしょうか。
聖書は、そういう意味での恐ろしさのような感覚を大事にしていると私は思います。人間には人間として手出しできないし、してはいけない領域がある。
「私の時は御手の内にあります」と、旧約の時代を生きた信仰者が言いました。「私の時」と言ったとき、その「時」は単なる24時間とか10分間とか、そういう「時間」のことだけではないと思います。もちろんこの時間を昨日に戻すようなことはできませんが、ここで言っているのはもっと別のことだと思います。他ならぬ「私の時」です。この私が、神さまの前にあって生きる「時」。今、この時。他にはない類い希なる神の御前にあるこの時。そういう聖なる時として今を知るという知恵です。
私たちには困ったことが起こるし、しかもそれがどうして今なのか、神さまの見解を問いただしたくなるようなことも起こります。しかし私たちには、私たちの時をコントロールすることができません。私たちには生まれるときもコントロールできないし、死ぬときもコントロールできません。肝心な「時」は私の手の中にはない。それは神さまの御手の内にあります。私たちは神さまを畏れつつ、ひれ伏すしかありません。
私の時は私の手の中にはない。自分ではどうすることもできない。それは恐ろしいことです。しかし、どうしようもないと諦めなければならないことではありません。「あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」主イエスがそうおっしゃったとき、私たちの命を御手に収め、しかも慈しみを持って私たちを養ってくださる神さまの恵に私たちの目を向けさせてくださいます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とキリストは言われます。私の時は私の手の中にはない。しかし私は恐れない。私の時は、慈しみ深い神の手の中にあるから。