2021年11月30日火曜日

2021年11月30日の聖句

私の時は御手の内にあります。(詩編31:16)
あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。(ルカ12:25)

科学技術のめざましい発展のお陰で人間にはいろいろなことができるようになりました。何年か前のオリンピックで、開会式の日を晴れにするために「人工消雨」というプロジェクトがあるというニュースが流れていた記憶があります。天気の予報どころかコントロールまでしようとする。「すごい」とも言えそうですが、考えてみればずいぶん恐ろしいことです。天気を人間の手におさめるなんて!しかし私たちがあまりにも慣れてしまって、本当は恐ろしいはずなのに恐ろしさを忘れているようなことはいろいろあるのかも知れません。どうでしょうか。
聖書は、そういう意味での恐ろしさのような感覚を大事にしていると私は思います。人間には人間として手出しできないし、してはいけない領域がある。
「私の時は御手の内にあります」と、旧約の時代を生きた信仰者が言いました。「私の時」と言ったとき、その「時」は単なる24時間とか10分間とか、そういう「時間」のことだけではないと思います。もちろんこの時間を昨日に戻すようなことはできませんが、ここで言っているのはもっと別のことだと思います。他ならぬ「私の時」です。この私が、神さまの前にあって生きる「時」。今、この時。他にはない類い希なる神の御前にあるこの時。そういう聖なる時として今を知るという知恵です。
私たちには困ったことが起こるし、しかもそれがどうして今なのか、神さまの見解を問いただしたくなるようなことも起こります。しかし私たちには、私たちの時をコントロールすることができません。私たちには生まれるときもコントロールできないし、死ぬときもコントロールできません。肝心な「時」は私の手の中にはない。それは神さまの御手の内にあります。私たちは神さまを畏れつつ、ひれ伏すしかありません。
私の時は私の手の中にはない。自分ではどうすることもできない。それは恐ろしいことです。しかし、どうしようもないと諦めなければならないことではありません。「あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」主イエスがそうおっしゃったとき、私たちの命を御手に収め、しかも慈しみを持って私たちを養ってくださる神さまの恵に私たちの目を向けさせてくださいます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とキリストは言われます。私の時は私の手の中にはない。しかし私は恐れない。私の時は、慈しみ深い神の手の中にあるから。

2021年11月29日月曜日

2021年11月29日の聖句

あなたがたの神、主の声に聞き従うなら、あなたは入るときも祝福され、出るときも祝福される。(申命記28:1,6)
イエスは言われる「誰でも天の私の父の御心を行う人は、私には兄弟姉妹であり、母である」。(マタイ12:50)

「あなたがたの神、主の声に聞き従うなら」と言います。「誰でも私の天の父の御心を行う人は」とも言っています。神さまのみ声に聞き従い、神さまの御心を行う。その人には祝福がある。その祝福は、主イエスが「私の弟、私の妹、私の母」と呼んでくださる祝福です。
主イエスが教えてくださった祈りに、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という言葉があります。天で神さまの御心が行われるように、地でも神さまの御心が行われますように。私たちがこう祈るとき、私たちはまず祈っている私自身が神さまの御心に従って生きることができますように、と祈っていることになります。神さま、今日の私があなたの御心に従って生きられますように、あなたに喜んで頂ける者として生きられますように。キリストの弟として、キリストの妹として、私を生かしてください。主イエスの母として生きたマリアの祝福に、私もあずからせてください。私たちはそう祈ります。
私たちの毎日は、神さまの御心に従うという決断の連続です。一日に何度もあるはずです。今、ここで、神さまの御心に従って生きるとはどういうことだろう。私たちは問われる。そして、私たちにそれが明らかであることもしばしばあります。私が今生きるべき愛の道がここにある。キリストの真実に従う道がここにある。私たちにもそれが明らかになることが起こります。そのとき、私たちは、キリストに従う愛の道に生きるように、キリスト御自身に招かれているのではないでしょうか。
神の御心に従う者には、入るときにも祝福があり、出るときにも祝福がある。御言葉はそう言います。今日、私たちが出かけて行くときにも、神の祝福があります。一日の勤めを終えて家に帰り着くときにも、神さまは新し祝福を準備して待っていてくださいます。行っておいで、私の弟、私の妹よ。お帰り、私の弟、私の妹よ。主がそう言ってくださる。そして、母マリアを愛するように、私たちへの格別な愛を持って迎えてくださいます。

2021年11月28日日曜日

2021年11月28日の聖句

あなたの慈しみが私の慰めとなりますように、あなたが僕(しもべ)に約束されたように。(詩編119:76)
エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しく、神を畏れ、イスラエルの慰めを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上にあった。(ルカ2:25)

今日からアドベントになりました。日本語にすると「待降節」。その名の通り、クリスマスに降誕した主イエス・キリストを待ち望む季節です。アドベントにはさがみ野教会でも、多くの教会がしているようにアドベント・クランツを礼拝堂に飾っています。一本ずつロウソクに火を灯して、クリスマスの時が来るのを待ち望むのです。
今日の御言葉はアドベントの始まりにふさわしい御言葉です。シメオンという人は、メシアが現れるのを待ち望んでいた人でした。そのことを聖書は「イスラエルの慰めを待ち望んでいた」と書いています。メシア、救い主との出会い、それこそが私たちの慰め。シメオンは神が私たちを慰めてくださることを待ち望み、その時を目指して生きていたのです。私たちは、何を待ち望み、何を目指して生きているでしょうか。実は、私たちもシメオンと同じです。まことの慰め、主イエス・キリストをお迎えするために、私たちは生きているのです。
多くの人は、恐らくシメオンを老人だとイメージします。というのも彼がまだ生まれて間もない主イエスと出会ったとき、遂に自分がメシアと出会ったことを知り、このように祈ったからです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」この「去らせてくださいます」という言葉は明らかに「死ねる」ということでしょう。私は安らかに死ねる。なぜなら「私はこの目であなたの救いを見たから」とシメオンは言います。
確かに若ければなかなか出て来ない祈りです。しかし、年齢には関係なく、キリストと出会うというのは安らかに死ねる準備ができたということです。「あなたの慈しみが私の慰めとなりますように。」神の慈しみを知り、それによって慰められているからです。
アドベントは、クリスマスにお生まれになった主イエスをお迎えする準備の期間です。ただし、もう一つの意味があります。アドベントはやがてもう一度来てくださるキリストをお迎えする準備の時でもある。私たちも、今日、主イエスをお迎えする準備をします。私たちのための神の慈しみであり、私たちの慰めであるキリスト。私たちが安らかに去ることができるように、キリストは私たちのところへ来てくださっています。

2021年11月27日の御言葉

奇しき恵を示してください。あなたの右の手に抗して立ち向かってくる者から逃れを求めている者たちの救い主よ。(詩編17:7)
平和の神があなたがたを完全に聖なる者にしてくださり、私たちの主イエス・キリストが来られるときまで、あなたがたの霊と魂と体を非の打ち所なく保ってくださるように。(1テサロニケ5:23)

この新約聖書の御言葉は、使徒パウロの祈りの言葉です。この手紙を読んでいるテサロニケ教会の人たち、そして私たちのためにも、パウロが一人の使徒、あるいは牧師として祈ってくれています。「平和の神があなたがたを完全に聖なる者にしてくださ」るように、と。
聖なる者と言っています。そう言われると、品行方正で信仰深い人というようなイメージがわくかも知れません。しかし、そういうことではないと思います。聖なる者、それは「神のもの」ということです。平和の神が、私たちを完全に聖なる者としてくださるように。それは、神が私たちを完全にご自分のものとしてくださいますように、という祈りです。
だから、すぐに続けて「私たちの主イエス・キリストが来られるときまで、あなたがたの霊と魂と体を非の打ち所なく保ってくださるように」と祈ります。霊と魂と体とを。私たちをトータルに、完全に、神がご自分のものとしてくださるように。非の打ち所のない者として。もしもこれが私たちの目指すべき目標だとしたら、とても到達できない目標ということになりかねません。ところが、神が私たちをご自分のものとして保ってくださいますように、と祈るのです。
神さまのもの、聖なる者として生きるとはどういうことか?それは、キリストにあっていつも喜んでいるということです。絶えず祈ることです。どんなことにも感謝することです。神さまの奇しき恵の中に生かされているのだから、その恵をいつも数え、神さまを信じる幸せを生きること。それが神さまにあって聖なる者として生かされる日々です。

2021年11月26日金曜日

2021年11月26日の聖句

耳を植え付けた方が聞かないだろうか、目を造られた方が見えないだろうか。(詩編94:9)
あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(マタイ6:8)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスが弟子たちに祈りを教えたところ、つまり主の祈りの言葉を弟子たちに授けたときの言葉です。「あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」そして「だから、こう祈りなさい」と言って「天におられる私たちの父よ…」と、主の祈りを教え始めます。
とても興味をそそられる言葉です。「あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」そう言われたら、普通は「だから言葉にして祈る必要はない」となりそうです。いちいち細かく祈らなくても神さまは分かっているのだから、しつこく祈るな。そういう言葉が後に続きそうな気もします。ところが、私たちの信じる神様は、私たちが願う前から私たちに必要なものをよくご存じだから、私たちには祈りが必要なのだと言うのです。
つまり、祈りは神さまが知らないことを教えてあげる、ということではないのです。神さまは私自身よりもなお深く私のことを知っておられる。私が知っているのは、せいぜい「私が何をほしいのか」という程度です。しかし神さまは、更に、「私に必要なもの」をご存じです。私たちの祈りを超えて、はるかにすばらしいものを与えることができる方です。だからこそ、「こう祈りなさい」と言って、主イエスは究極の祈りである主の祈りを教えてくださいました。
「耳を植え付けた方が聞かないだろうか、目を造られた方が見えないだろうか。」神さまは、私たちの声を聞くことを喜んでくださいます。私たちが神さまの御前で祈る姿をご覧になることを喜んでくださいます。なんと、神さまは私たちとのコミュニケーションを喜んでくださいます。言葉を換えると、神さまは私たちを愛してくださっているのです。祈りは、私たちの愛の供え物です。しかし私たちの愛は、神さまの私たちへの愛に支えられて、ただそれゆえにだけ成り立つのです。

2021年11月25日木曜日

2021年11月25日の聖句

あなたがたのところで、みなしごは憐れみを見いだす。(ホセア14:4)
あなたがたは、今やよそ者でも寄留者でもなく聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の成員です。(エフェソ2:19)

みなしごも、よそ者も、寄留者も、誰でも聖なる民につながれ、神の家族となる。それが教会です。私たちは今やよそ者でも寄留者でもなく聖なる者たちと同じ民、神の家族です。
家族にはいろいろな人がいます。仲のいい家族もいれば、理解不能な人もいたりします。家族は、選んでなるわけではない。生まれたときから家族です。強い人もいれば弱い人もいます。社会の中では弱さは評価されないことが多いですが、家族にとっての弱さは、かけがえのない価値です。当初は弱さを受け入れられないことが多いのは事実です。しかし、弱さの持つ価値は家族を新しくします。まったく同じことが教会という神の家族の中で起きます。いや、肉の家族よりも、神の家族の中でこそ神の起こしてくださった奇跡は明らかになります。一人の人の弱さが神の家族の中で持つ尊い意味があるのです。
みなしごも、よそ者も、寄留者も、社会の中では歓迎されないし、邪魔者扱いされます。世の目から見れば、弱い存在です。だからこそ、教会には弱い存在が必要です。神さまは強いものではなく弱いものを呼び集めて、キリストの体、神の家族をお造りになるからです。
昨日、近所の小学生たちがほうかごの会に遊びに来ました。ある子が、私のおばあちゃんも教会なのと言っていました。どこかの教会に行っているということなのだと思います。嬉しい出会いでした。その子自身も、おばあさんの教会でもさがみ野教会でも、どこであっても教会に行ってほしいと思います。さがみ野教会の軒先に集まってくる子どもたちも、すでに神さまが神の家族の一員として迎えておられるのです。教会という神の家族は、開かれた家族です。血縁も、社会的な立場も、人生経験も、性別も年齢も関係なく、誰でも入ることのできる家族。誰でも軒で雨宿りできる家族。
家族は選んでなるものではない。生まれたときから家族。ただ、家族の中で夫婦だけは例外です。夫婦だけは生まれついての関係ではないし、夫婦になるにあたって自分の意志が働きます。聖書は、私たちをキリストの花嫁と呼びます。キリストが私たちをご自分の妻として迎えてくださる。ここに神の家族の基礎があります。

2021年11月24日水曜日

2021年11月24日の聖句

あなたがたの中に毒草や苦よもぎの根があってはならない。(申命記29:17)
パウロは書いています:主が、互いの愛と、どんな人に対してもかわらない愛をあなたがたに育て、ますます豊かにしてくださいますように、私たちがあなたたたちにたいしてそうてしているように。(1テサロニケ3:12)

今、毎日私たちが読んでいる聖書日課は『日々の聖句』という小冊子に従っています。ドイツのヘルンフート兄弟団が発行しています。始まりは1731年で、もう300年近い歴史があるそうです。籤で定められた旧約聖書の御言葉に従って、新約聖書が決められます。今日のこの二つの御言葉の組み合わせはとても面白いと思います。
毒草や苦よもぎの根があってはならないと言って、すぐに新約の「主が、互いの愛と、どんな人に対してもかわらない愛をあなたがたに育て、ますます豊かにしてくださいますように」という御言葉につながっていく。そうすると、毒草や苦よもぎの根というのは、私たちの互いの愛を妨げるような根、ということになるのだと思います。
互いの愛。今週の日曜日に聞いた主イエス様のお言葉でも、やはり、このようにおっしゃっていました。「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」主イエス御自身が私たちが互いに愛し合うことを求めておられる。「隣人を自分のように愛しなさい」という掟が、聖書が教える最も大切な戒めの一つだ、とも主イエスはおっしゃっています。互いに愛し合うこと、隣人を愛すること、主イエスは私たちにこのことを求めておられる。
互いへの愛を妨げる毒草や苦よもぎ、それは例えば妬みです。うらやましいという強烈な思いが、妬みを生み出す。あるいは嘘です。ちょっとしたごまかしとかいい加減さが、自分の手に負えなくなってしまう。人のものを自分のものにしてしまいたいという欲望も、時に強烈なものになります。神さまは、「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の家を貪るな」とお命じになりましたが、本当に人間の心を知り尽くしておられると思います。
思えば、「互いに愛し合いなさい」という命令は、そうやって「○○をするな」という命令をいくら重ねても重ねたりない私たちへの究極的な命令、しかも究極的に積極的な表現の命令す。するな、ではなく、愛せの一言。この「互いに愛しなさい」という一句に尽きるのです。そしてこのような愛は、神さまが私たちの内に育て、豊かにしてくださることによって、私たちの内にも現実になる。毒草も苦よもぎも、神さまが刈り取ってくださいます。神さまは私たちを愛の奇跡にあずからせてくださいます。

2021年11月23日火曜日

2021年11月23日の聖句

恐れるな、シオンよ、あなたの手を下ろすな。あなたの神である主があなたと共におられる、強い救い主が。(ゼファニヤ3:16~17)
弟子たちは舟に乗り込んだが、その夜は何もとれなかった。しかしすでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。(ヨハネ21:3~4)

「あなたの手を下ろすな」と言われています。この手は、祈りの手のことではないでしょうか。私たちの祈りの時の姿勢は、多くの場合、手を組んでうつむいてするということが多いと思います。しかし聖書を読むと、ユダヤ人たちは手を上げて、大きな声で祈っていたようです。「天にまします我らの父よ」という「天」は、物理的な意味で空の上の方ということではありません。しかし、やはり天にまします方に祈りを献げているのですから、手を上げて、顔を上に上げて祈るというのは自然なことのように思います。「あなたの手を下ろすな。」手を上げて、天におられる方に祈り続けよ!聖書は私たちにそう訴えかけます。
なぜなら、「あなたの神である主があなたと共におられる」からです。しかも、神である主は「強い救い主」です。私たちのために救いの御業を行ってくださる方は、強い方。断乎として私たちを救うために御業を進めてくださる。
しかし、神さまの強さは、私たちには意外な仕方で表されました。今日の新約聖書の御言葉は、主イエスが十字架にかけられ、復活した後の出来事です。神さまの強さがどうやって発揮されたのか?キリストは天の軍勢を率いて世を制圧したり、一瞬にして悪人を滅ぼしたりはなさいませんでした。むしろ悪人の手に打ち負かされるようにして十字架にかけられて、殺されてしまった。神さまの救いの御業は、キリストが殺されることで行われました。神さまは、私たちの誰よりも弱いものになることによって、私たちを救ってくださいました。そして、十字架にかけられたキリストが復活する。罪人の手で殺された方が再び生きることによって、神さまの強さが現れたのです。
私たちが手を上げて祈る方、「天にまします我らの父よ」と祈る方、天におられる最も偉大な神は、私たちのためにご自分の独り子を地のどん底に這いつくばらせてくださいました。神が誰よりも弱くなって、私たちを救ってくださったのです。だから、私たちはこの神の憐れみを信じて祈ります。この方は必ず私なんかの祈りも聞いてくださると信じて、私たちは祈るのです。

2021年11月22日月曜日

2021年11月22日の聖句

見よ、山の上を行く、平和を告げる良き使者の足を。(ナホム2:1)
神はキリストを通して、御自身を私たちと和解させ、和解を説く務めを私たちに与えられました。(2コリント5:18)

しばらく前からいろいろなところで社会が分断されているということが言われるようになりました。例えば、昨年の米国の大統領選挙の時にも、バイデン候補を支持する人とトランプ候補を支持する人との間の分断、その溝の深さが浮き彫りになっていました。日本では米国ほど顕在化していないところもありますが、しかしやはり傷は深いと思います。何も政治的な信念や支持政党のことだけではありません。価値観、大切にしたいもの、理想とする社会の姿、社会の見方、とにかくありとあらゆるところで社会が分断されていると思います。特にSNSを見ていると、激しい罵りの言葉の応酬が繰り広げられています。そういう言葉を吐くということと、政治信条はあまり関係ないのかも知れません。右も左も、自分を正義と確信する言葉があふれている。
神さまの福音は、平和の福音であり、和解の福音です。神さまは、神さまを憎み、敵対し、捨ててきた私たちと和解するために、独り子を遣わしてくださいました。キリストが私たちのための和解そのものになってくださいました。神さまは、私たちのために和解の手を伸ばしてくださいました。
この和解の言葉、平和を告げる言葉を、神さまは私たちの口にたくし、私たちの足がこの言葉を運ぶように、私たちをご自分の使者にしておられます。「見よ、山の上を行く、平和を告げる良き使者の足を。」平和の福音を告げるために歩く足は美しく、良いものです。私のこの足を見て、神さまは美しいと言ってくださるのです。
今、世界は和解の言葉を切に求めています。自分の正しさに取りつかれた私たちを、神さまは心を温め、敵意という隔ての壁から救い出し、和解の言葉によって包んでくださいました。敵対している私たちの社会がもう一度赦し合い、共に生きるためには、キリストの和解の福音が不可欠です。この尊い言葉が、今日、私たちにも委ねられているのです。

2021年11月21日日曜日

2021年11月21日の聖句

自分の目には、たどる道はまっすぐに映る。しかし主は心の中を吟味される。(箴言21:2)
善にさとく、悪には疎くありなさい。(ローマ16:19)

小学校のPTAの役員になりました。査読と呼ばれている仕事をします。PTAかの配布する印刷物のチェックです。人が書いた文章だとなんと間違いを見つけやすいことか!不自然な言い回し、分かりにくいところ、レイアウトのずれ、などなどいろいろ目につきます。ところが自分が作っているプリント、例えば週報のような印刷物になんと間違いが多いことでしょう。礼拝中に気づくこともしばしばです。PTAでの査読よりもよっぽど気を遣って、目を皿のようにして探しているつもりですが、大きな間違いをしょっちゅう見落としてしまいます。自分がしている間違いには気づかない、あるいは気づけない。
「自分の目には、たどる道はまっすぐに映る。しかし主は心の中を吟味される。」主なる神様に心の中を吟味されたら、もう立つことができません。正しいと思い込んでいるところで、私の道がどんなにねじ曲がり、あるいは道を外れているか、想像することさえできません。
「善にさとく、悪には疎くありなさい」と言われています。ここでの「善」というのは、当然ですが「独善」とか「偽善」というような善ではないでしょう。ところがなんとしばしば善だと思い込んでいるものが自分一人にしか通用しない善に堕していることか。それは悪にさといということに他ならないのだと思います。そうではなく善にさといこと、悪に疎いことを聖書は私たちに求めています。ローマの信徒への手紙のこの言葉には、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」と続いています。神さまが悪を打ち砕いてくださる。悪魔を打ち負かしてくださる。つまり、神さまがどうご覧になっているかということから、今を見つめ直し、生きるということではないでしょうか。
神さまは私をどうご覧になっているのか。そのことを省みたときに胸を張れる人は一人もいないと思います。「自分の目には、たどる道はまっすぐに映る。しかし主は心の中を吟味される。」だから、私たちが善を選びうるとしたら、それは悔い改めからしか始まらないのではないでしょうか。主の憐れみを求め、キリストの赦しの中で私を新しくしてくださいという祈りによってでしか、私たちは善にさとく生きることができないのではないでしょうか。

2021年11月20日土曜日

2021年11月20日の聖句

あなたの手に善を行う力があるとき、なすべき相手に善をすることを拒むな。(箴言3:27)
善を行うことに労力を惜しむな。(2テサロニケ3:13)

今日の御言葉を読んで、私は憐れみ深いサマリア人の譬えを思い出しました。追い剥ぎに半殺しの目に遭わされて倒れていた人。祭司とレビ人は何もしないで通り過ぎました。最後に通ったサマリア人だけが、その人を憐れに思って傷を介抱しました。しかし、祭司とレビ人にも、そうしようと思えば助けることはできたはずです。彼らがなぜ助けなかったのか、その理由を主イエスはおっしゃいませんでした。むしろだからこそ、私たちが彼らの姿に自分を重ねてみないわけにはいかないということでもあるのかも知れません。それを考えるときに、今日の御言葉は意味が深いと思います。
「あなたの手に善を行う力があるとき、なすべき相手に善をすることを拒むな。」
「善を行うことに労力を惜しむな。」
善を行うことに労力を惜しんでしまう。なすべき相手への善を拒んでしまう。聖書のこの問いは、深いと思います。このように問いかけられ、指摘され、張り切って顔を上げることができません・・・。
思えば、あのサマリア人がしたことは何かものすごいこと、というわけではありませんでした。強盗が出ないように警察力を強化すべく政治家になったとか、けが人が出たらすぐに救出する社会システムを作ったとか、祭司やレビ人のような人が出ないよう民衆に倫理教育を施したとか、そういうことはしていません。あるいは、大きな事業を始めたとか、たくさんの人をそういう活動に巻き込んだとかでもありませんでした。ただ目の前の人のために、自分の腹を痛めるほどの締め付けを覚え、痛んでいる人のところに駆け寄っただけです。そこでは周りからどう見られるかとか、どう評価されるかとか、そのようなことなんて関係なく、内面から湧き上がる憐れみに突き動かされて、ただ目の前の傷ついている人の側に寄り添っただけです。それが、キリストがお喜びなる善なのだと思います。
サマリア人を突き動かした憐れみは、神さまが私たちの心にも造ってくださったのだと信じます。憐れみに突き動かされた小さな善を、主は憶えてくださいます。

2021年11月19日金曜日

2021年11月19日の聖句

私たちを救ってくださる神がおり、死から救いだしてくださる主がいる。(詩編68:21)
イエスが死んで復活されたと私たちは信じています。それならば、神は同様にイエスにあって眠りについた人たちを、イエスとともに導き出してくださいます。(1テサロニケ4:14)

8月に逝去されたSさんは、ご自分の死への準備をしてこられた方だと思います。三度も徴兵された経験、戦後の結核での闘病。そういったことも手伝ったと思いますし、何よりも90歳を超えて洗礼を受けて最期を迎えた妻、Eさんが存在も大きかったことでしょう。Sさんが洗礼をお受けになった理由は、ご自分の死への準備でいらしたと私は受け止めています。
「私たちを救ってくださる神がおり、死から救いだしてくださる主がいる。」神さまは、私たちを死から救いだしてくださいます。だから、神を信じ、洗礼を受けるにまさる死への備えはないのです。
洗礼は、もとは水の中に沈められることで授けられていました。私たちの教会では頭に水を注ぎますが、これは全身が水に沈んだという象徴です。(だから水をかける場所は頭でなければなりません。)水に沈むというのは、死の象徴です。私たちは洗礼を受けるときに一度死ぬのです。
しかし、水に沈みっぱなしではありません。水の中から引き上げられる。それは、今日の聖書の御言葉に書かれているとおりです。「イエスが死んで復活されたと私たちは信じています。それならば、神は同様にイエスにあって眠りについた人たちを、イエスとともに導き出してくださいます。」水に沈められて死んだ者がキリストともに新しい命を生きる。その象徴として、私たちは洗礼を受ける。
洗礼を受けた者は、もう一度死に終わった人です。今はもう新しい命に生きています。やがて私たちの命は終わる。私たちは死にます。しかしその死は死で終わらない。キリストともに復活の命にあずかります。だから、洗礼こそが最高の死への準備です。
今日も私たちは自分のすべきことをします。生きるために必要な仕事をします。今日の私たちの一つひとつの業も、すべて死への準備です。私たちのやがて迎える最期の時に備えるために、私たちは今日を生きる。キリストともに生きます。私たちを新しい命に生かしてくださっている方が同伴してくださいます。キリストの命を照らす光の中に、今日も私たちはいるのです。

2021年11月18日木曜日

2021年11月18日の聖句

鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、私の魂は、神よ、あなたをあえぎ求める。(詩編42:2)
神は言われた。「渇いている者には、命の水の泉から無料で飲ませよう。」(黙示録21:6)

今日の旧約聖書には「魂」という言葉があります。旧約聖書が書かれたヘブライ語では、日本語の「霊魂」というような言葉とはかなり違う印象を受ける単語が使われています。元は「喉」という単語です。そこから転じて、渇き、渇望、強い求め、といった意味を持ちます。そして、この同じ言葉を使って命とか、その人の存在を表すためにも使われます。日本語でも「肝が据わった人」というように、体の一機関の特徴によって人間存在のあり方を表す表現があります。このヘブル語の「喉」も同じです。渇いて、水を強く求める人間存在。しかも、それは深く人間の内面の渇きを表すのです。そういう人間の命そのものを、聖書は「魂」と呼びます。
「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、私の魂は、神よ、あなたをあえぎ求める。」この詩編に登場する「魂」は、まさに喉としての人間の渇望が前面に出てきている用例です。どんなに水を探しても見つけることのできない涸れ谷。その底で鹿が水を求め、探し、それでも見つけることができない。鳴くこともできず、あえいでいる。そういう弱り切った一頭の鹿のように、私の魂は渇き、水のように私の命そのものでいてくださる神を求めている。
そのような私たちに、神さまは答えてくださいます。「渇いている者には、命の水の泉から無料で飲ませよう。」価なしに、無償で、神さまは私たちに飲ませてくださる。しかも、永遠の命に通じる命の泉からわき出る水を。私たちは、誰でも渇いているのではないでしょうか。その渇きを満たすために、人からの承認だったり、物だったり、お金を使うという行為そのものだったり、いろいろなところで満たそうとします。しかし、私たちには神さまにしか満たすことのできない渇きがあるのです。命の水の泉から、神は私たちのために価なしに飲ませてくださいます。
今日も、キリストの愛と祝福があなたに豊かにありますように。そしてキリストが飲ませてくださる命の泉の水によって、あなたの渇きが潤されますように。祝福を祈ります。

2021年11月17日水曜日

2021年11月17日の聖句

灯を持たずに闇を歩くときでも、主の名に信頼し、自分の神を支えとする者ではないか。(イザヤ50:10)
私たちは預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星が心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯りとして、この言葉を心に留めて置きなさい。(2ペトロ1:19)

今日の旧約聖書の御言葉は、節の途中から引用されています。前半にはこのように書かれています。「あなたがたのうち、誰が主を畏れ、その僕の声に聞き従うのか。」それは「灯を持たずに闇を歩くときでも、主の名に信頼し、自分の神を支えとする者ではないか」と続いている。
町で生活をしていると、闇を経験することはほとんどありません。神学生の時に夏期伝道実習で高知県の教会に行きました。子どもたちの夏のキャンプに同行しました。四万十川のほとりに泊まりました。夜、本当に真っ暗になりました。上を見ると、山と山の切れ間から息をのむような星空が見えました。しかし目を下に落とせば何も見えません。灯りを消せば、本当に真っ暗になってしまう。「灯を持たずに闇を歩くときでも、主の名に信頼し、自分の神を支えとする者」、その人こそが神さまの御言葉を信頼し、聞き従う者だ、と言います。闇は、恐ろしいものです。何も見えない。どこに石が転がっているかも分からないし、どこに誰が潜んでいるかも分かりません。闇の中では、美しく輝く星でさえも何か恐ろしいような気がしてしまいます。しかし、主の名に信頼し、自分の神を支えとするならば、私たちはどのようなときにも大丈夫です。
私たちには、さまざまな暗闇の経験が襲いかかってくることがあります。しかし、どんなに闇が深くても、星でさえも恐ろしく見えてしまうほどに真っ暗だとしても、主の言葉に信頼すれば、私たちは必ず大丈夫です。
「私たちは預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星が心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯りとして、この言葉を心に留めて置きなさい。」どんな光も頼りにならないときが来たとしても、神の御言葉が私たちの灯りです。キリスト御自身が私たちのための夜明けを告げる明けの明星です。キリスト御自身が、その御言葉が、私たちを照らす灯りとなってくださる。だから他のどのような光ももはや必要ではないのです。

2021年11月16日火曜日

2021年11月16日の聖句

お話しください、主よ、僕は聞いております。(サムエル上3:9)
ティアティラ市出身の紫布を扱う商人で、神を崇めるリディアという女も話を聞いていたが、主がその心を開かれたので、パウロの話を注意深く聞いた。(使徒16:14)

主の日の礼拝で、今さがみ野教会では「罪の悔い改めと照明を求める祈り」という祈りを献げています。聖なる神さまの御前に出る者として、自分の罪を認め、悔い改め、神さまに赦して頂くことをこいねがう。そしてもう一つの内容が「照明を求める」ということです。聖霊によるイルミネーションが私の心を照らしてくださって、神さまの御言葉、聖書の御言葉がよく分かるように助けてください、という祈りです。
「お話しください、主よ、僕は聞いております。」神さまは、私たちに語りかけてくださるお方です。この神さまに、私たちも神さまの御言葉を求めて祈ります。神さまが私たちに語りかけてくださいますように!そして、語られた言葉が私の心にも届きますように!私たちはそのことを切に願い、祈ります。なぜなら、主イエス・キリストの恵みは、神さまが私たちに語りかけることによって明らかにされるからです。
私の神学校の友人で、Kという牧師がいます。夫婦二人、そろって牧師という人たちです。私たちが神学校を卒業してまだそれほど経っていない頃に何人かの仲間でお互いの課題や悩みを語り合う機会がありました。K牧師が、妻の方ですが、このようなことを言っていました。私の夫には発達障害がある。課題がたくさんある。でも、私たちは神さまの御言葉に信頼している。御言葉。福音の言葉。その力を信じて、御言葉を宣べ伝えることだけを大切にしたい。私の心に深く残る言葉です。実際、彼らは当時長野県にある教会に仕えていましたが、御言葉を宣べ伝えて、たくさんの人に伝道していました。神さまの御言葉の力が働いていたとしか考えられません。
使徒言行録に登場するリディアという女性も、御言葉の力に捉えられた人です。私たちは福音の言葉によって新しくなります。神さまの御言葉が私たちをキリストの愛の器にしてくださいます。私たちキリスト者は、誰もが神さまの御言葉の力によって、キリストの豊かな恵みの器にして頂いているのです。

2021年11月15日月曜日

2021年11月15日の聖句

あなたがたの周りに残された諸国民は、知るようになる。私こそが、破壊されたところに建て、荒廃させられたところに植え付けた主であることを知る。(エゼキエル36:36)
キプロス島やキレネから来た者たちがアンティオキアへ行き、ギリシア人たちに、主イエスの福音を告げ知らせた。主の御手により、多くの者たちが信じて主に立ち帰った。(使徒11:20~21)

キプロス島は地中海に浮かぶ小さな島です。キレネはアフリカ大陸の北部、現在のリビアにある町です。つまり、どちらも異邦人の地です。「キプロス島やキレネから来た者たち」は、ユダヤ人ではなく異邦人。かつては神さまを知らなかった人たちです。この人たちがアンティオキアへ行った。なぜ行ったのか?実はこの頃、すでにキリスト教会に対する迫害が始まっていました。ステファノが石打にされて殉教するという事件も起きていました。ステファノの事件、そしてそれをきっかけにして起きた迫害のために多くのキリスト者たちが散らされてしまい、周辺の地に出て行った、ということがあったのです。
しかし、周辺のいろいろなところへ行った人々は、当初、ユダヤ人にしか伝道しませんでした。異邦人には関係のない話と思っていたのだと思います。ところがキプロス島やキレネから来た人々はギリシア語を話す異邦人たちに、自分たちの言葉で伝道し、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えだしたのです。こうして、異邦人への伝道が始まりました。それはアンティオキアという町での出来事でした。アンティオキアに生まれた教会は、やがて、使徒パウロの伝道旅行を支える母教会になります。かけがえのない伝道の働きがここで始まったのです。
「あなたがたの周りに残された諸国民は、知るようになる。私こそが、破壊されたところに建て、荒廃させられたところに植え付けた主であることを知る。」この言葉の通り、私たちの伝道の言葉は、神が破壊されたところに建て、荒廃させられたところに植えてくださることです。私たちがどんなに絶望的な状況であったとしても、神さまが私たちを再び立たせてくださる。神さまが私たちを新しくしてくださる。この希望の言葉を、私たちも今託されて、日本語で伝えています。今日もキリストにある希望の言葉、愛の言葉が、あなたの道を照らす光でありますように。

2021年11月14日日曜日

2021年11月14日の聖句

あなたの声を挙げよ、ラッパのように。私の民に、彼らの背きを告げよ。(イザヤ58:1)
今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱く貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。(ガラテヤ4:9)

今日の旧約聖書の御言葉は、神さまが預言者に命じておられる言葉です。「あなたの声を挙げよ、ラッパのように。私の民に、彼らの背きを告げよ。」神さまは預言者が神の民のところへ行って彼らの背きの罪を告げ、彼らがそれに気づかせるようにせよ、と言われるのです。この言葉に続く2節にはこのように書かれています。
「彼らが日々私に尋ね求め、私の道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として、彼らが私の正しい裁きを尋ね、神に近くあることを望むように。」
そのように彼らが生きるように、彼らの背きを指摘せよと神さまは預言者に命じておられます。それは私たちにとって神さまの御許に立ち帰ることこそが命そのものからです。なぜなら、私たちは神さまから離れることで自分の命を損なっているからです。
疑いや恐れが現に今も私たちを不幸にしているのであって、悔い改めや信じることが私たちを不幸にしているのではないいのです。
「今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱く貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。」かつて、私たちは神さまから離れていました。しかし今は、キリストを信じ、神のものにしていただきました。かつて私たちは不自由でした。疑いや恐れは私たちを不自由にします。しかしキリストと出会ってキリストを信じた今、私たちは自由になりました。それなのにどうしてまた不自由な奴隷になるのか、疑いや不信仰の奴隷になるのか、と聖書は私たちに問います。神さまを信じない生き方は、私を私らしくなくしてしまうのです。
キリストの無限の愛に帰りましょう。途方もなく、果てしなく私たちを愛し、赦し、癒やしてくださる神さまの御許に帰りましょう。この方は私たちを待っていてくださいます。私たちの恐れから生まれる過ちを、利己心から生まれる過ちを、不信仰が生み出す空し行いを、神に赦し、癒やし、新しくして頂くために。今こそキリストの御許に帰りましょう。

2021年11月13日土曜日

明日は成長感謝礼拝

さがみ野教会の皆さま

おはようございます。
気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。

明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。
讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福を祈ります。

また翌週21日の礼拝後に教会員総会を行います。
長老・執事の選出や来年度の計画についての報告があります。

今日、この土曜日の一日にも神さまの祝福が豊かにありますように、心から祈っています。

宮井岳彦

2021年11月13日の聖句

本当に、あなたは御自身を隠される神、イスラエルの神、救い主よ。(イザヤ45:15)
私たちの内に働く力により、私たちが願い考えるすべてをはるかに超えてかなえることができる方に、教会で、キリスト・イエスにあって、栄光が世々限りなく、とこしえにありますように。(エフェソ3:20~21)

本当に、私たちの信じる神様は御自身を隠す方です。私たちには神さまのお姿は見えません。それだけではない。神さまのこの世界に対する御支配は、私たちの目には隠れていて見えません。歴史で起きたいろいろなことを、多くの人は偶然だとか、人の思惑の成り行きだとか言うかも知れません。最近はおかしな陰謀論がずいぶんはやってきてしまいました。しかし一部の人や組織の思惑どおりに動くほど歴史は単純ではない。だからこそ、複雑なものを単純化しないと不安なのでしょう。強い言説に少なからぬ人が心を動かされてしまう。とにもかくにも、神さまの御支配は私たちの目に見えない。特に悲惨なことに直面したとき、神さまの支配への疑いや、神さまの慈しみへの不信が生まれます。
私は聖書を読むときによく思うのですが、聖書を書いた人や最初に読んだ人たちは、私たちよりもずっと深く辛酸をなめていました。イスラエルは聖書を読んでもずっと戦争が絶えなかった国ですし、僅かな一時期を除いてずっと弱小で蹂躙される側でした。内政も安定せず、貧しい人は貧しく、不正がまかり通り、弱い者が虐げられていました。聖書のほとんどの部分はそういう厳しい生活を背景に語られ、また聞かれました。神さまの御支配が全然見えない。神さまが一体何をしておられるのか、何を考えておられるのか分からない。そういう迷いの中で、聖書の言葉は聞かれました。
そんな時代を生きた信仰の大先輩の一人であるパウロは言います。「私たちの内に働く力により、私たちが願い考えるすべてをはるかに超えてかなえることができる方に、教会で、キリスト・イエスにあって、栄光が世々限りなく、とこしえにありますように。」目に見えない神さまのお力が、私たちの願いを超えて、私たちの内に働いてくださっている。その事実に驚き、神を賛美しています。私たちもこの賛美の群れに招かれています。私たちの内にも、同じ神さまが働いてくださっています。主イエス・キリストの恵みと祝福によって、今日も神さまがあなたを守ってくださいますように。

2021年11月12日金曜日

2021年11月12日の聖句

万軍の主の日が臨む、高ぶる者と高慢な者すべてに。自分を高くする者すべてに。彼らは低くされる。(イザヤ2:12)
皆互いに謙遜を身につけなさい。なぜなら、神は、高ぶる者を退け、謙る者に恵みをお与えになります。(1ペトロ5:5)

聖書はなぜ謙遜を重んじるのでしょうか。恐らく多くの倫理道徳が謙遜を徳としているのだと思います。確かに高慢な人よりも謙遜な人は美しいです。最近の日本にも「上から目線」という言葉がありますが、高慢な態度は敏感に感じ取られ、そのいやらしさのようなものが指摘されることも多いです。聖書も、そういった人前での振る舞いへの注意として、謙遜を身に着けよと言っているのでしょうか。
私は、そうではないと思います。聖書の謙遜の究極的な起源は、主イエス・キリストです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~7)。神の身分であるキリストが謙られた。キリストが御自分を卑しい者、つまり私たちと同じ者にして、私たちと同じになってくださった。それどころか、十字架の死に至るまで従順に、究極の謙遜を示してくださいました。そのお陰で、私たちは救われました。神さまの究極の謙遜が私たちを救ったのです。
だから、聖書は私たちに謙遜を求めます。キリストが地の底まで謙って私たちを救ってくださったから。キリストが謙ったから、高ぶることは罪なのです。高慢な態度が鼻につくからとか、人から悪く思われて損だからとか、そういう話ではない。キリストの謙遜に救われたので、私たちの高慢は罪です。
厄介なことに、他人の高慢はすぐに目につきますが自分の高慢にはなかなか気づけません。自分にいやな思いをさせる隣人は、私の高慢を気づかせるための神さまからの使者に違いないと思います。キリストは高慢な私の手にかかって、十字架にかけられました。謙ってくださったキリストの御前に、ひたすら、高ぶるわが身の罪を思い知らされます。

2021年11月11日木曜日

2021年11月11日の聖句

女が見ると、その木は食べるによく、目には美しく、また賢くなるというその木は好ましく思われた。(創世記3:6)
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分けるようになります。(ローマ12:2)

私たちの見るところ好ましいもの、美しいもの、良い成果を生み出しそうなもの。あたかもそう見えるものが、本当に良い結果を生み出すとは限りません。創世記が伝える言葉を読むと、木の実を食べた女(エバ)は、何が自分の得になるのかという基準でものを見ていたようです。何がおいしいか、麗しいか、自分にとって良い結果になるか。それは、彼女だけの問題ではありません。むしろ現代社会のルールのように、当たり前になっている価値基準です。
「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分けるようになります。」
この世と調子を合わさないというのは、言うほど簡単なことではないように思います。私たちもこの時代の子です。何が世の調子なのか、なかなか自覚的に分からないのではないでしょうか。
今年の初めに、あるプロ野球選手が不倫をしていたことが発覚しました。しかもコロナ禍で球団が外出を禁じられていた時期に密会していて、謹慎処分を受けました。その後、5月頃に処分が解除されたのですが、今度は別の不倫相手の女性と密会していることが発覚し、ついに球団は彼を契約解除にしました。ところが最近になって、その元選手が球団を相手取って裁判を起こしていたことが明らかになりました。複数年契約中であったことから、未払い分の給与の支払いなどがその内容です。この裁判を起こしたことでこの選手は大変なバッシングを受け、この選手を非難する言葉が巷にあふれました。
あるOB選手が本人と話した上でこのような趣旨のことを述べました。彼のしたことは弁解の余地がない。家族を傷つけ、球団に迷惑をかけた上に虚偽の報告までしていた。言い訳はできない。ただ、わが身を振り返ったときに、私も許されないようなミスを許してもらって生きてきた。私は彼のことを許したい。彼がこれからの人生をまっとうに生きていけるように応援したい。
この選手を巡って吹き荒れた裁きの言葉は「この世の調子」だと思います。私たちは悪いやつや迷惑なやつ、あるいは自分がしたくてもできないことをしているやつを見ると、一斉に袋叩きにします。しかし、私たちには別の道もある。人の罪を赦し、再生するものと共に生きる道です。私たちは世界の普通の価値観に従って生きるのでしょうか。それとも、神さまの無限の赦しと愛に従って生きるのでしょうか。

2021年11月10日水曜日

2021年11月10日の聖句

湧き出す水源から流れ出す水は涸れることがあるか。しかし私の民は私を忘れ去った。(エレミヤ18:14~15)
私の愛にとどまりなさい。(ヨハネ15:9)

私たちは、神さまを忘れてはならないのです。それは、神さまが私たちの生ける水の水溜だからです。「わが民は二つの悪をなした。命の水の泉である私を捨て、自分たちのために水溜を掘ったのだ。水を溜めることもできない、すぐ壊れる水溜を」(エレミヤ2:13)。他の何でもなく、神さまこそが私たちを生かす命の泉なのです。
水がわき出る泉から水が尽きることはない、それなのに「私の民は私を忘れ去った」と神さまは言われます。それは私たちが自分の命の源を蔑ろにすることであって、とても不自然なことです。私たちの存在がさかさまになってしまう。生ける命の泉から切り離されれば、干ばつのときの植物のように、私たちは枯れてしまいます。
植物が水やりを拒否することはありません。動物が餌を拒むことも考えられません。ところが私たちは、なぜ、命の源である神さまを離れてしまうのでしょうか。私たちの苦しむいろいろな歪みや悲しみは、そこに根本的な原因があるのです。
「私の愛にとどまりなさい」と主は言われます。主が私たちに告げるのは、一つのことです。「私の愛にとどまりなさい。」キリストの愛のうちに、キリストによって示された父なる神様の愛のうちに、私たちがとどまり、キリストの愛の中に私たちが生きることです。ぶどうの木に枝がつながるように、主の愛の中に生きることを、キリストは私たちに願っていてくださるのです。

2021年11月9日火曜日

2021年11月9日の聖句

不安で、砕かれた心を、神よ、あなたは蔑まれません。(詩編51:19)
息子は言った「父よ、天に抗して、あなたの前に罪を犯しました。もはやあなたの息子と呼ばれる価値はありません」。(ルカ15:21)

私たちが信じる神様は、途方もなく、圧倒的な、赦しと愛に満ちています。私たちの想像を超えて、私たちの予測の範囲を遙かに超えて、神さまの愛は果てしない。私たちが信じる神さまは、そういうお方です。
今日の旧約聖書の御言葉は、ダビデ王がバト・シェバという女性と密通した後の祈りです。バト・シェバはダビデの臣下であるウリヤの妻でした。ダビデが彼女を見初めて呼び寄せ、関係を持った。バト・シェバは妊娠しました。そのことを知ったダビデは最終的に臣下ウリヤをわざと戦死させたのです。ダビデは姦淫、そして殺人を犯した。そこで預言者ナタンがダビデの元を訪れ、その罪を糾弾した。その時の祈りがこの詩編です。
あるいは新約聖書の御言葉は失われた息子のたとえ話です。生きている父親に遺産の分け前を要求し、受け取ったら遠い国に旅立ち、そこで身を持ち崩してしまった。惨めのどん底で、父の家を思い出して、家路につきました。家にたどり着いたときに父に言った言葉が冒頭の言葉です。
「不安で、砕かれた心を、神よ、あなたは蔑まれません。」「息子は言った『父よ、天に抗して、あなたの前に罪を犯しました。もはやあなたの息子と呼ばれる価値はありません』。」これらはどちらも決して赦されない罪を犯した者たちの言葉です。しかしあの息子の父は、息子が道々練習してきた悔い改めの言葉を全部言わせずに彼を迎え入れました。決して赦されない罪を犯したダビデを、しかし神さまはなお用いてくださいました。
私たちの常識や基準からしたら、もう二度と再生が許されないような過ちです。ところが神さまの圧倒的な愛は、赦されないものを赦し、愛される価値のないものを愛し、私たちを新しい命に生かしてくださるのです。
私たちの今日という新しい日も、神さまの圧倒的な愛と赦しの中にあります。だから安心して、今日という日を生きていきましょう。

2021年11月8日月曜日

2021年11月8日の聖句

神よ、私が床に伏せるとき、あなたを想い、目覚めて横たわるとき、あなたについて思案します。(詩編63:7)
今は一部分しか知りませんが、その時には、私が知られているように、知ることになります。(1コリント13:12)

床に伏せるときに想い、目覚めて横たわっているときに思案する。まるで恋をしている人のようです。まるで、というよりも、そういうことなのかも知れません。恋いこがれるみずみずしい思いを、神さまに向ける。一日を終えて床に伏せるときにも、神さまを思っている。目覚めて、しかしまだ横になっているときにも神さまのことを思い巡らしている。主なる神様への、主イエス・キリストへのまっすぐな愛。そういう清らかな心で眠りにつき、また目覚めるとは、なんと幸いなことでしょう。
神さまを信じる喜びは、こういう喜びです。神さまを信じるというのは、難しい知識をため込んだり、聖書の歴史や言語に詳しくなることではありません。主イエス様を愛することです。主イエス様に焦がれて、夜も朝も慕い求めることです。
「今は一部分しか知りませんが、その時には、私が知られているように、知ることになります。」ここには「知る」という言葉が繰り返されています。愛する人のことは、もっと知りたい。中高生になった気持ちで想像してください。好きな人、気になりだした人のことはもっと良く知りたいものです。それだけではなくて自分のことももっと知ってほしい。この言葉は、コリントの信徒への手紙第13章、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル」という言葉から始まる、愛の言葉、あの美しい御言葉です。愛するとは、知ることであり、知られることです。愛するキリストをもっと知りたい。私たちはそう願うけれども、キリストを知ったときに気づかされるのは、私がキリストを知る前からキリストは私を知っていてくださったということです。深く、私を知り尽くし、その上で私を愛し抜いてくださった。
今日の目覚めも、私たちはキリストの愛の中で頂きました。今日、床に就くときにも、私たちはキリストの愛の中で一日を終えます。主イエス・キリストの愛と恵みが、あなたの一日を彩っています。

2021年11月7日日曜日

2021年11月7日の聖句

あなたの口に置いた私の言葉は、あなたの口からもあなたの子からも、その子孫の口からも離れない。(イザヤ59:21)
これまで書かれたことは私たちを教えるために書かれました。それによって、聖書が与えてくれる忍耐と慰めにより希望をもつためです。(ローマ15:4)

教会は、聖書の御言葉に聞き、神さまを礼拝する共同体です。神さまを信じて生きることは、独りぼっちの業ではありません。確かに一人でだって祈りますし、一人で聖書を読むこともできます。しかし、神さまは旧約の時代から一つの民に語りかけました。キリストはマンツーマンのレッスンをしたのではなく、12人を初めとした弟子たちの群れを集めました。私たちは一人で神さまの御言葉を極めるのではなく、キリストのお体である教会でこれを聞きます。
「あなたの口に置いた私の言葉は」と、神さまは預言者に言われます。この預言者に限らず、旧約の預言者たちは民に向かって語り続けました。誰も聞いてくれなくても、拒絶されても、神さまの御言葉を独り占めしません。それはただ目の前にいる人だけではなく、更に「あなたの口からもあなたの子からも、その子孫の口からも」と言われているとおり、世代を超えて、将来に向かって語られ続けました。「その子孫」、つまり私たちのところにまで、預言者が語り継いだ神さまの御言葉が届けられたのです。
私たちは独りぼっちで神さまを信じるのではありません。共に神を信じる兄弟と、姉妹と、神さまに耳を傾け、心を傾け、そしてそれ以上にすべてを傾けて私を愛し抜いてくださる神さまの愛の言葉を聞くのです。神さまの言葉は、私たちの口から離れることはありません。祝福を告げる神の言葉は、必ず、私たちの内で響き続けるのです。
神さまの御言葉、聖書の御言葉は、私たちの忍耐と慰めを与え、私たちの希望であり続けます。ですからこの御言葉に耳を傾けましょう。今日も、共に。神さまは私たちを一つの民として招集してくださいます。共に、神さまの御前に進み出ましょう。

2021年11月6日土曜日

2021年11月6日の聖句

私が「足がよろけています」と言ったなら、支えてください、主よ、恵みによって。(詩編94:18)
イエスはペテロに言われた。「あなたの信仰がなくならないようにとあなたのために祈った。」(ルカ22:32)

「足がよろけています」とパッと聞くと、あまり自分には過失のない失敗だとか、仕方のないことで支えが必要な状態、というような印象を受けます。つまり、あまり深刻ではないかと。しかし今日私たちに与えられている旧約と新約の御言葉を併せて読むと、印象がまったく違うものになります。
「あなたの信仰がなくならないようにとあなたのために祈った」と主イエスはペトロにおっしゃいました。これは、最後の晩餐と呼ばれる食卓での会話です。主イエスは、ペトロがこの後、鶏が鳴くまでの間に三度も繰り返してイエスを知らないと言うと予告なさいました。そのために、ペトロは信仰を失ってしまうような危機に陥る。実際、その通りになりました。しかし、そんなペトロの信仰がなくならないようにと主イエスがペトロのために祈ってくださるのです。
「足がよろけてしまいます」、これは少なくともペトロにとっては、ちょっと失敗してしまったとか、不可抗力だったとか、たいしたことない失敗だとか、そういうことではありませんでした。イエスを知らないと言ったのです。イエスを見捨てたのです。愛するイエスを裏切ったのです。信仰も何もない。ところがそんなペトロのために、イエス御自身が祈ってくださいました。「あなたの信仰がなくならないようにとあなたのために祈った。」
私たちは、神さまにまったく顔向けできない失敗を繰り返します。申し訳なくて顔を上げられないことがたくさんあります。それなのに、始末の悪いことにそれを忘れて、自分の失敗をあげつらって人を責めるようなことまでしてしまいます。ところがキリストは無限の赦しです。限りない愛です。私たちがどんなに足がよろけ、キリストを裏切り、捨てたとしても、この方は私たちを捨てません。私たちを恵みによって支えてくださいます。
私たちがに本当に必要なのは、この愛です。キリストの限りなく、途方もない赦しがないと、私たちは生きられないのです。あなたのために、今日もキリストは祈っています。限りない恵みが、キリストからあふれています。

2021年11月5日金曜日

2021年11月5日の聖句

災いだ、悪を善、善を悪という者たち、闇から光を造り、光から闇をつくるものたち。(イザヤ5:20)
このためにあなたたちは召されました。キリストもあなたたちのために苦しみを受け、あなたたぎた従うべき足跡を残されました。この方は罪を犯さず、口には偽りがありませんでした。(1ペトロ2:21~22)

今日私たちに与えられているこのペトロの手紙には「キリストもあなたたちのために苦しみを受け」と書いてあります。ここに「キリスト"も"」と書いてあるのが、私は大好きです。キリストも苦しみを受けておられる。キリストも、そして私たちも、ということでしょう。私たちが苦しみを受けるとき、キリストも同じようにして苦しみをお受けになったことを私たちは思い起こすことができるのです。
苦しいときはとても孤独です。この痛みは誰にも分からないと思ってしまいます。自分は他の人よりもずっと苦しいと思う。しかし、キリストも苦しみをお受けになったのです。私たちと同じように、私たちが遭う苦しみ、理不尽な思い、孤独を知っていてくださる。そして、神に棄てられた悲しみを私たちよりもずっと深く知っていてくださるのです。
苦しみの中で、私たちはしばしば罪を犯します。「災いだ、悪を善、善を悪という者たち、闇から光を造り、光から闇をつくるものたち。」この言葉はとても厳しいものです。私たちの誰よりも厳しく災いをご存じでいらっしゃるキリストは、どのようなときにも光でいらっしゃいます。どんなに暗闇が深くても、この方は私たちのための明かりを灯してくださいます。キリストという優しい光の中に私たちはいるのです。善を善とし、光を光としてくださる方が私たちを照らしてくださいます。悪を悪とし、闇を闇とする方が私たちを悪から救いだしてくださるのです。
「このためにあなたたちは召されました。キリストもあなたたちのために苦しみを受け、あなたたぎた従うべき足跡を残されました。この方は罪を犯さず、口には偽りがありませんでした。」私たちはキリストの跡に従うために神に招かれました。今日という私たちの一日は、キリストと共にある一日です。

2021年11月4日木曜日

2021年11月4日の聖句

私の魂は私の神にあって喜ぶ。主が救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせてくださるからだ。(イザヤ61:10)
宦官は喜びながら帰って行った。(使徒8:39)

恐らく当時の周辺諸国でもそうであったように、イスラエルでも宦官は差別されていました。特にイスラエルでは、律法にこのような言葉があります。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない(申命記23:2)」。主の会衆に加わることができない。つまり、皆と一緒に祈ったり礼拝したりすることができない、ということになる。
現代とはかなり事情は異なりますが、しかし宦官という存在は当時の社会での性的マイノリティであることは確かだと思います。彼らの存在は律法で認められておらず、同じように社会から白い目で見られていました。
ところが、聖書は宦官を捨ておきません。イザヤ書56:3に、このように書いてあります。「主のもとに集ってきた異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」周囲から差別され、他の人と一緒に祈ることも許されず、自分でも自分に「枯れ木」と烙印を押さざるを得なかった。しかし、聖書は言います。もう私は枯れ木だと言うな、と。
それは、この福音の言葉があるからです。「私の魂は私の神にあって喜ぶ。主が救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせてくださるからだ。」救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせてくださるのは、神さまです。誰が何と言い、どんなに不当で理不尽なことを言われたとしても、神が私のために救いの衣を着せてくださる。主が私のために正義の外套をまとわせてくださる。だから私はもう裸ではないし、神の恵みの中を生きることができる。
使徒言行録第8章に登場する、キリストの福音を聞いたエチオピアの女王に仕える宦官は私も救われると知ってキリストを信じました。誰が私を貶めたとしても、神は私を救ってくださる。その事実を知ったからです。
キリストは、私たちのために救いの衣を着せてくださいます。正義の外套をまとわせてくださいます。私たちを、救ってくださるのです。

2021年11月3日水曜日

2021年11月3日の聖句

主が言われたことはこうです。「私の近くにいる者たちにより、自分が聖であることを示し、民全体の前で自分が栄光あることを証明する」。(レビ記10:3)
あなたがたは知らないのですか。自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを。(1コリント3:16)

今朝のレビ記の御言葉は、1節から読んでいくととても恐ろしい箇所です。モーセの兄にアロンという人がいます。祭司です。そのアロンの息子も祭司でした。ところが息子たちが規定に反した炭火で香をたいて礼拝をした。すると「主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ」。それに続けてモーセがアロンに告げた言葉が、今日の御言葉です。「主が言われたことはこうです。『私の近くにいる者たちにより、自分が聖であることを示し、民全体の前で自分が栄光あることを証明する』」。つまり、主が聖なるお方だというのは、聖なるお方の前で私たちは死なねばならないということです。
アロンの息子たちたどんな気持ちで規定に反した炭火を使ったのかは分かりません。いい加減な気持ちだったのか、間違えてしまったのか・・・。いずれにしてもそのために彼らは死なねばならなかった。それは私たちには理解できないことではないでしょうか。「確かに死んでも仕方ない」とは私たちには言えない。なんでそこまでの責任を取らなければならないのか、理不尽ではないか・・・。私たちには理解できないのではないでしょうか。神さまが聖なるお方だというのは、私たちの理解を絶している事実です。
そのことを知ると新約の御言葉も本当に恐れ多いものです。「あなたがたは知らないのですか。自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを。」聖なる神さまが私たちの内に住んでいてくださるのです。アロンの息子たちのことを考えると、一体どうしてそのような責任を引き受けることができるでしょうか。
今改めて思い起こすのは、この聖なる神さまの独り子でいらっしゃる方が、一人の幼子として私たちの間に宿ってくださったという事実です。主イエス・キリストは聖なる神さまの独り子です。仰ぎ見れば私たちが死なねばならない、神さまです。しかしそのお方がへりくだって、私たちの間に宿ってくださった。神さまはご自分の聖なることを私たちの間にへりくだることによって示してくださいました。私たちを神殿として、私たちの内に神の霊が宿っておられる。その事実も、神の聖なるへりくだりです。神さまの愛と謙遜によって、私たちは神と共に生きることができるのです。

2021年11月2日火曜日

2021年11月2日の聖句

あなたの太陽はもはや沈むことなく、あなたの月は光が陰ることがない。主があなたのとこしえの光となるからだ。(イザヤ60:20)
私は光として世に来た。私を信じる者が闇の中に留まることのないためです。(ヨハネ12:46)

今朝のイザヤ書の御言葉は、ヨハネの黙示録にもとてもよく似た言葉が記されています。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」小羊というのは主イエス・キリストのことです。キリスト御自身が私たちの明かりになってくださる。だから太陽も月ももはや必要なくなる。これは天の都のことです。神の都では主イエス御自身が明かりとなって私たちを照らしてくださるのです。
「あなたの太陽はもはや沈むことなく、あなたの月は光が陰ることがない。主があなたのとこしえの光となるからだ。」この旧約の預言者が言う太陽や月も、明らかに空に浮かんでいる自然の太陽や月のことではありません。沈むことのない太陽、陰ることのない月、それは私たちを照らしてくださる主なる神様という光を指す。やはりここでも、神様ご自身が私たちの光となってくださると言う。それが神さまの私たちへの約束です。
神さまが私たちの光となってくださるというのは、聖書の中で繰り返し告げられていることです。光が福音の象徴になるのは、私たちが光を必要としているからです。今、私たちが暗闇の中に生きているからです。今週の日曜日に預言者エレミヤの言葉を読みました。エレミヤは神さまがお造りになった世界、そこにあったはずの愛の秩序が崩れ、世界が混沌に突き進んでいると言っていました。そのことを深く痛んでいました。預言者は暗闇を見ていた。私たちには、私たちの世界を覆っている暗闇が見えているでしょうか。もしもエレミヤのように私たちが痛んでいないのだとしたら、それはネオンの光で夜の闇をごまかす社会に慣れすぎてしまっているからなのかも知れません。
キリストは言われます。「私は光として世に来た。私を信じる者が闇の中に留まることのないためです。」私たちは、暗闇の中にいる。しかしその暗闇にキリストという光が射した。キリストの光の中を、キリストという明かりに照らされて、私たちは今日この新しい一日に歩み出していきます。

2021年11月1日月曜日

2021年11月1日の聖句

彼らは収穫の時に喜ぶように、あなたのみ前に喜ぶ。(イザヤ9:2)
願いでなさい、そうすれば受けることができ、喜びで満たされる。(ヨハネ16:24)

今日私たちに与えられている新約聖書、ヨハネによる福音書の御言葉を直前の23節から改めて読むと、このように書かれています。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
主イエス・キリストは、ご自分の名によって神に祈るようにおっしゃいました。私たちが「主イエス・キリストのお名前によって祈ります」と祈りの最後に言うのは、このキリスト御自身の言葉があるからです。私たちはキリストのお名前で祈り、願う。キリストの名による願いを父なる神様は聞いてくださる、その願いに応えてくださる、キリストはそのように約束なさいました。
私たちの神さまは、私たちが祈ること、願うことを喜んでくださる神さまです。何も言わずにじっとしていたり、我慢して沈黙していたりするよりも、私たちが大胆にも独り子キリストのお名前で祈り願うことを神さまはお喜びになるのです。文字通りに「有り難い」ことです。
人間関係でも同じだと思います。半信半疑でいるということが、期待を裏切られたときに自分が傷つかないための準備になっているということがあるのではないでしょうか。斜に構えたり、もしも叶えば儲けものというくらいの期待にとどめておいたり。そうではなくて、全幅の信頼を置いて祈っていい。神さまにつかみかかる勢いで祈っていい。それが「私の名によって願いなさい」というキリストの言葉の意味です。信仰をぶつける祈りを、神さまは待っておられるのです。キリストの御名という神さまの存在をかけて、私たちの存在をかけた祈りを受け止めてくださいます。
その祈りは、必ず喜びに至る。これは、もう確実なことです。短期的に見れば私たちにはいろいろありますが、収穫を得るには時間がかかる。神さまの御業は私たちの思いを超えているから、必ず私たちを最上の喜びにあずからせてくださいます。信じて、今日も祈りましょう。キリストの御名によって!

2022年8月15日の聖句

義しいものの小屋で喜びをもって勝利が歌われる。「主の右の手は挙げられた。主の正しさは勝利を得た。」(詩編118:15,16) 私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。(ルカ1:46~47) 今日の新約聖書の御言葉は、主イエスさまを胎に宿した母マリアの賛歌です。「私の魂...