2023年6月1日木曜日

2023年6月1日の聖句

主は死を永遠に呑み込んでくださる。(イザヤ書25:8)
私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです。(フィリピ3:10~11)

私たちが受け取った福音、そして私たちが宣べ伝える福音は、「主は甦られた」という知らせです。十字架にかけられたキリストは甦られた。だから、十字架もまた救いなのです。キリストは私たちの罪のために十字架にかけられた。それが私たちへの愛のしるしであり、救いの証しであるのは、キリストが死者の中から甦らされたからに他なりません。もしもイエスが十字架にかけられて死んだままだとしたら、私たちの信仰には意味なんてなくなってしまう。それどころか、私たちはありもしない救いを期待する惨めな者に過ぎなくなってしまいます。しかし事実はそうではない。主は甦られたのです。十字架にかけられたキリストは今も生きておられる。だから、十字架のキリストは私たちの救い主であり、私たちの希望です。
キリストの復活の福音は、すべてを新しくします。私たちの苦しみにも悲しみにも、あるいは死にも意味を与えます。「私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです。」キリストの復活の力によって十字架が救いの徴であるように、私たちも自分の十字架を背負うことには意味がある。私たちはキリストの苦しみにあずかり、その死にあやかるなら、またその復活のお姿にもあずかるのです。
この世界を支配するのは、罪と死と悪の力ではありません。どんなにこの世を覆う悪の力が強くても、どんなに希望が見えない現実が広がっていても、この世界は神さまのものです。神は私たちを救ってくださる。私たちに襲いかかる死の力がどんなに強くても。私たちに絡みつく罪の力がどんなにしぶとくとも。私たちを支配する悪の力がどんなに恐ろしくても。キリストは私たちを必ず救い、神のものとして生かしてくださいます。「主は死を永遠に呑み込んでくださる」からです。

2023年5月31日水曜日

2023年5月31日の聖句

6月の聖句:
神があなたに、天の露と肥沃な地を、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。(創世記27:28)

今日の聖句:
あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。(詩編30:12)
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、あなたがたを希望に満ち溢れさせてくださいますように。(ローマ15:13)

「希望の源である神」。使徒パウロは神さまをそのようにお呼びします。神さまこそが私たちの希望の源!私たちはこのお方に望みをかけ、この方のゆえに喜び、この方によって平和をいただいています。神を信じるから、私たちは絶望しません。
今日の旧約聖書の詩編第30編には、6節を見るとこのような言葉もあります。「夕べには涙のうちに過ごしても、朝には喜びの歌がある。」涙のうちに過ごす夕べもある。涙を流し、眠ることのできないときもある。しかしそれでも、神さまはその涙を喜びに変えてくださる。喜びの朝、喜びの歌をうたう朝が必ず来る。
ですから、今朝のところでは重ねて言うのです。「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」粗布は悲しみの象徴です。悲しい時には悲しい装いをする。派手な服は着ることができない。ゴワゴワして粗末な粗布の服を着る。そのようにして悲しみを表しています。しかし、神が私の装いをも変えてくださる。あるいは、服だけではなく振る舞いも変えてくださる。私の嘆きを喜びの踊りに変えてくださる。今や粗布を脱ぎ、喜びの帯を体に巻いている。
主イエス・キリストにあって、今日、あなたに希望が与えられますように祈ります。私たちの喜びの日にも悲しみの日にも、キリストにある望みが豊かにありますように。神は必ずすばらしい恵みで私たちを満たしてくださいます。祝福がありますように。

2023年5月30日火曜日

2023年5月30日の聖句

主の手が短いというのか。(民数記11:23)
(イエスの言葉)「また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれを叶えてくださる。」(マタイ18:19)

今日の御言葉は、ぜひ実際に聖書を開いて前後をお読み頂ければと思います。誰かが罪を犯したとき、その人をどのように遇せばよいのか、という話を主イエスはしておられる。一人の罪人を巡って、主イエスはおっしゃるのです。「また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれを叶えてくださる。」
二人、または三人が主イエスの御名によって集まり、そこで祈りを合わせる。一人の罪人のために。その人が再び主イエスさまの御許に戻ってくるように。一人の罪人のためにご自分のすべてを捨ててくださった方の愛の中へ共に帰ることができるように。神さまはその祈りを必ず聞き、叶えてくださる。主イエスはそのように約束し、断言していてくださるのです。
「主の手が短いというのか」とあります。主の手は短く、主には救う力がないと言うのか、と主は問うておられます。私たちは、神さまの御力を侮ってはいないか?ご自分の独り子をも十字架にかけてまで私たちを救ってくださる神さまの情熱を見くびってはいないか?主の手は長く、その力は強い。私たちはそれを信頼し、このお方に救いの望みをかけて生きています。キリストは私たちのために今日も働いてくださっています。

2023年5月29日月曜日

2023年5月29日の聖句

銀は私のもの、金も私のもの
  ーー万軍の主の仰せ。(ハガイ書2:8)
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。(使徒4:32)

4世紀に生きた教会の指導者、教父と呼ばれる一人にカッパドキアのバシレイオスという人がいます。このような言葉を残しています。

あなたの家で食べられることのないパン、それは飢えている人たちのものです。あなたのベッドの下で白カビが生えている靴、それは履物を持たない人たちのものです。物入れにしまい込まれた衣服、それは裸でいる人たちのものです。金庫の中で錆びついている金銭、それは貧しい人たちのものです!

深く真実を突く言葉です。「銀は私のもの、金は私のもの」と主なる神さまはおっしゃいます。私たちの神さまはご自分のすべてを与え尽くしてくださるお方です。しかし私たちは自分のところにため込み、隣人に与えることも神さまに献げることも惜しくなってしまう。銀や金、パンや履物、衣服、金銭、それらを手放し神に献げることでしか見えてこない神の恵みがあるのです。
主イエスさまは「私たちの日ごとの糧を今日お与えください」と祈るように教えてくださいました。神さまは必ず私たちを養ってくださる。必要な物を備えてくださる。そのことを信頼してよい、と他ならぬ主イエスが言ってくださいます。生まれたばかりの最初の教会は、主イエスの呼びかけに応えて持ち物を共有し、心を一つにしました。神の恵みに信頼しきる信仰者の群れがここにあります。

2023年5月28日日曜日

2023年5月28日ペンテコステの聖句

今週の聖句:
武力によらず、権力によらず、わが霊によるーー万軍の主は言われる。(ゼカリヤ書4:6b)

今日の聖句:
私自身がそれを取り囲む火の城壁となるーー主の仰せ。(ゼカリヤ書2:9)
五旬祭の日が来ると、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされた。(使徒言行録2:1,3~4)

ペンテコステを迎えました。ペンテコステのシンボルは炎です。ですので、ペンテコステになると赤い者を身に着けるという習慣もあります。神の霊が炎のような舌として弟子たちのところに現れ、一人ひとりの上に留まった。炎のようというのは、とても印象的な描写です。
炎は鉄を精錬します。炎で焼き、不純物を取り除く。鉄は清められ、また強くなります。預言者イザヤが天上の礼拝を垣間見たとき、彼は「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者、私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。しかも、私の目は王である万軍の主を見てしまったのだ」と言います。彼は神の聖さを恐れた。すると、セラフィムという、見た目は怪獣のような天使の一種でしょうか、そのような天上の生物が火箸で取った炭火をイザヤの唇に当てたのです。そして言います。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、過ちは取り去られ、罪は覆われた。」やはりここでも燃える炭火が人間としての罪や汚れを清めるものとして登場しています。
この炎のような舌は、私たちの上にも降っています。さがみ野教会もまた炎のような舌によって生まれた教会です。ほかに教会が生まれる理由があるでしょうか?神ご自身のお働き、その御力以外に、この世界にキリストの教会を生むものはありません。神は私たちを鉄のように精錬し、練り清めるために、私たちにもご自身の炎を送ってくださっています。私たちを救う、命の炎です。私たちに神の御業を届ける火です。私たちへの神の愛の炎です。今日、この私にも、神がご自分の炎をお送りくださっている。そのことを信じ、このペンテコステの一日を送りましょう。

2023年5月27日土曜日

2023年5月27日の聖句

主は真実の神で、偽りがなく、正しく、まっすぐな方。(申命記32:4)
神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。(1ヨハネ3:24)

神はご自分の霊を私たちに与えてくださった。御言葉はそのように語ります。明日はペンテコステです。神の霊が降ったことを記念する日。神さまはご自分の霊を私たちにお送りくださった。神の霊が降るとき、私たちに何が起こるのか。ヨハネによる福音書を読むと、主イエスは聖霊を「弁護者」と呼びながら、このように教えておられます。
「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(14:26)」
聖霊は私たちにキリストの言葉を思い起こさせてくださる。私たちがキリストの言葉を思い起こし、あるいはそれを信じたいと願うのは、既にそこに神ご自身の力が働いているからです。
あるいは、使徒パウロは言います。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。(ローマ8:15)」
神様ご自身の霊が私たちの内で神を父と呼び、それが私たちの祈りになる。私たちがたった一言でも「父よ」と祈るなら、それは聖霊が私の内にも働いてくださっているという証拠です。
今日の御言葉でヨハネは言います。「神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。」私たちがキリストの御言葉を思い起こし、あるいは神を父と呼んで祈るとき、それは神ご自身がこの私の内にとどまっていてくださるというしるしです。神は私と共にいてくださるとは信仰者が何気なく口にする言葉でもありますが、そこにはこのような深い意味がある。私のこの信仰すらも、神が共にいてくださると信じることも、そもそも神ご自身の霊によって与えられた思いに他ならないのです。
神さまは、ご自分の真実にかけて私たちを招いてくださっています。キリストがあなたを招く御声が今響いている。神はあなたを目の瞳のように愛し、待っておられるのです。

2023年5月26日金曜日

2023年5月26日の聖句

私たちの神である主は、ご自分がなさるすべての業において正しいのです。(ダニエル書9:14)
すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。(ローマ3:26)

今日の新約聖書の御言葉はここだけでは少し意味が分かりにくいので、少し前から話の流れを確かめたいと思います。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。」キリストによって、神は罪人の罪を見逃し、義としてくださった。神は罪人に対する忍耐を示してくださいました。そのようなことを言いながら、今日のところに続きます。「すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」
神が罪人に対するご自分の忍耐を示してくださった。この忍耐によって神の義が明らかにされた。神はご自分が義しい方であることを、罪を忍耐し、キリストの真実によって罪人を義とすることによって示してくださった。神は、ご自分がお一人で義しい方でいらっしゃることを選ぶのではなく、罪人を義とすることによってご自身の義を貫くことをお選びになったのです。驚くべきことです。
世の中には「正しい言葉」が溢れています。何かの間違いを犯したり、おかしなことを言ったりして袋叩きに遭っている場面を目にすることが少なくありません。他人事ではない。小さな私たちの人間関係の中でも、自分の正義に捕らわれて、自分は正しいという確信のもとに他人を裁いてしまうことは、よくあるのではないでしょうか。神さまは私たちの罪を忍耐することでご自分の義を示してくださいました。私たちの正義は怪しいものですが、神さまの義は本物です。独り善がりの義ではない。それなのに、その方が私たちを忍耐することでご自分の義を明らかにしてくださいました。私たちは、私たちをも義としてくださる神の義によって生かされているのです。

2023年6月1日の聖句

主は死を永遠に呑み込んでくださる。(イザヤ書25:8) 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです。(フィリピ3:10~11) 私たちが受け取った福音、そして私たちが宣べ伝える福音は、「主...