2026年8月17日月曜日

2026年8月17日の聖句

主は公正を愛する方。
主に忠実な人々を見捨てることはない。
彼らはとこしえに守られるが
悪しき者の子孫は絶たれる。(詩編37:28)
イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)

「主は公正を愛する方」と聖書は言います。この御言葉を、心から信じたい。私たちの生きている世間には、はっきり言って公正を無視する人がたくさんいます。自分の小さな権力を誇示する人、任された責任を自分の偉さと勘違いする人、自分よりも立場の弱い人をコントロールしようとする人。しかし、主は公正を愛されます。私たちはそのことを信じたいと願います。
この「公正」という言葉ですが、これには「裁き」という意味もあります。神さまご自身が裁かれる。ただ、この裁きは私たちの思っているタイミングで起こるわけではないように思います。「彼らはとこしえに守られるが、悪しき者の子孫は絶たれる」と書いてあります。「とこしえ」とか「子孫」とか書かれています。ここにはものすごく長いスパンが前提になっているように思うのです。私たちには「悪しき者の子孫」がどうなるかなんて、見ることはできません。つまり、公正も裁きも神さまの御手の中にあるものであり、それをなさるのは主であり、私たちが自分の思い通りにどうすることもできない、ということではないでしょうか。
主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。もともとの主イエスさまの話の文脈はお金や税金の話ですが、今日の二つの聖句の組み合わせからすると、公正と裁きの話として聞くことも許されるように思います。皇帝の裁き、つまりこの世の裁きはこの世がすることです。社会の中での責任や不正をただすシステムはこの世が整えるものですが、それはこの世のものに過ぎません。神の裁きは神のものであり、神の手の中にあり、私たちの好きにすることはできない。私たちはこの世で生きるのと同時に、いやそれ以上に神の前に生きています。神を畏れ、神の求める公正を求め、神に忠実でありたい。私たちの思ったタイミングではなかったとしても、必ず神は公正を愛しておられ、私もまた神の前に生きていることを覚えてへりくだりたい。そう願います。

2026年8月16日の聖句

今週の聖句:
神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5)

今日の聖句:
異国の子らはあなたの城壁を築き
その王たちもあなたに仕える。
私は怒りを持ってあなたを打ったが
恵みを持ってあなたを憐れんだ。(イザヤ60:10)
神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。(1テサロニケ5:9)

イザヤ書第60章は、救いの幻を語り出している章です。光の輝き、曙の光、喜び、宝といったイメージの言葉が連ねられています。更にイスラエルではない諸国の名前がいくつか挙げられています。そして「異国の子らはあなたの城壁を築き、その王たちもあなたに仕える」と語り出します。
これが神さまの救いのイメージです。「異国の子ら」は、そもそも敵であった国々です。その人たちがイスラエルのための城壁を築く。イスラエルの守りを固める城壁を。つまり、これはもう戦争のための城壁では必要ない、ということではないでしょうか。国と国とが争い合うことはなくなる。そうでなければ戦いに備える壁を他国が造ることはありえません。この城壁は、戦争に備えるためのものではない。生活を支え、生きていくための住まいを形づくるためのものではないでしょうか。これは、平和のイメージです。
私たちの世界には、今憎しみが溢れています。争うことが現実だと考えられています。しかし神さまが私たちに見せてくださるのは平和の幻です。私たちのために神が備えてくださった救いは、平和を生み出すのです。
神の前にへりくだり、この福音の言葉を受け止めたいと願います。

2026年8月15日土曜日

2026年8月15日の聖句

さあ、ひれ伏し、身をかがめよう。
私たちを造られた方、主の前にひざまずこう。(詩編95:6)
そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。(ルカ17:16)

主イエスがエルサレムに向かう旅をしておられた途上で、10人の皮膚の病にかかった人たちと出会われました。この病は律法で規定されているもので、彼らは村に入って普通の社会生活をすることが許されず、誰かが側に来そうになったら「私は汚れています」と叫んで遠ざけなければなりませんでした。「汚れ(けがれ)」というのは「きたない」という身ではなく、祭儀の上でのタブーに触れるという意味です。(「穢れ」と表記しても良いかも知れません。)ですから単に体が良くなると言うだけではなく、この病の回復の認定は祭司によらなければならない、とされていました。彼らは社会的にも信仰的にも、非常に辛い立場に立たされていた人たちでした。
彼らは遠くから主イエスに向かって叫びました。「イエス様、先生、私たちを憐れんでください。」主イエスはその叫びを聞いておっしゃいました。「行って、祭司たちに体を見せなさい。」彼らはそこへ行く途中、体が癒やされたことを知りました。9人は祭司のところに行きましたが、その中の一人だけが主イエスのところへ戻って来ました。「そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」
サマリア人は、主イエスご自身や弟子たちがそうであったユダヤ人とはたいへん仲が悪く、普通であれば絶対に付き合わない間柄です。しかし、そのようなこととは関係なく彼は主イエスさまに感謝を献げたし、主イエスさまは彼を癒やし、またその感謝を受け入れてくださいました。人種や国を超えるものがここにあります。
今日は8月15日です。特別な日付です。今日、私たちに与えられた御言葉は一人のサマリア人の主イエスとの出会いの物語でした。主の前にひれ伏し、ひざまずくのに国家の隔ては本来ないはずです。主イエスさまの救いの御業はどのような障壁をも乗り越えるからです。私たちは今この壊れた世界でどうやって神の民として生きるのでしょうか?

2026年8月14日金曜日

2026年8月14日の聖句

あなたは私に命と慈しみを授け
私を顧みて、私の霊を見守りました。(ヨブ記10:12)
彼は答えた。「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」(ヨハネ9:11)

主なる神さまの恵みの御業は、ときに、とても奇妙なかたちを取ることがあります。主イエスさまは目の見えない人の目に泥を塗って、それを池で洗うようにおっしゃいました。かなり奇妙な命令です。どういう意味があるのか、命じられた時点では分かりません。しかしこの生まれつき目の見えなかった人は、意味の分からない奇妙な主イエスの言葉に従ったとき、思ってもみなかった癒やしの御業に与ることになったのです。
私たちが熱心に祈り神さまに求めたけれど思っていたのとは全然違うプロセスを強いられる、ということは少なくありません。むしろ願っていたとおりになることなんてほとんど無いのかもしれません。しかしそれは、私たちの目には奇妙に映る神さまの御業が既に始まっているということなのかもしれません。神さまのなさることは私たちには計り知れませんから、私たちには意味が分からなかったり、とても奇妙に見えたりすることが多い。しかし実はそこにも既に神の御業は進んでいる。私たちに大事なことは、自分の納得できる範囲に押しとどめることではなく、信じて従うことです。
あの生まれつき目の見えない人は、主イエスに言われたとおりにシロアムの池に行って目を洗ったとき、見えるようになりました。信じて、キリストの言葉に従うことこそが私たちに必要なことです。そうであるからこそ、神の言葉をしっかりと聞きましょう。そして、神の言葉に従いましょう。

2026年8月13日木曜日

2026年8月13日の聖句

主は心に留められる
主の契約をとこしえに
命じた言葉を幾千代に。(詩編105:8)
神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え、栄光を帰するのです。(2コリント1:20)

私たちの信仰の要は、神さまの御言葉です。神の言葉を聞くことで、信仰が与えられます。神の言葉に従うことで、キリスト者として生きることができます。御言葉は私たちのために与えられた羅針盤です。御言葉にいつも聞き、心に留め、そして御言葉に従いたい。そう願います。
しかし、私たちはいつも悩みます。自分は忘れっぽいし、他の声が気になってしまいます。御言葉をいつも聞ければ良いかもしれない、御言葉に従えれば一番よいだろう。でも、実際の私はそうではない。
そのような私たちのつぶやきを、もう何千年も前から聖書はよく知っていました。「主は心に留められる、主の契約をとこしえに、命じた言葉を幾千代に。」ここで聖書が言うのは、御言葉を本当に心に留めているのは私たちではなく主だ、ということです。私たちが主の言葉をちゃんと守っている、ずっと忘れないでいる、ということではありません。主は、ご自分の御言葉を幾先代にわたってお忘れになることなく、主はご自分が立てた契約をとこしえに心に留めていてくださる。私は忘れっぽいし不誠実だしどうしようもないけれど、主はそうではない。主はご自分の言葉への誠実を貫いてくださる。
主は、永遠の「然り」となってくださいました。ご自分の慈しみに、ご自分の平和に、ご自分の愛に、とこしえに「アーメン」を貫いてくださる。私たちの救いは、真実そのものでいらっしゃる神だけです。

2026年8月12日水曜日

2026年8月12日の聖句

父が子らに憐れみをもたらすように
主を畏れる者らに憐れみをもたらす。(詩編103:13)
あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。(ガラテヤ4:6)

主は、ご自分を恐れる者を憐れんでくださいます。慈しみを示してくださいます。それは「父が子らに憐れみを持たすよう」だと聖書は言います。
私も三人の子どもの父ですが、人間である私は、父になったところで大した父ではありません。理不尽に怒ることもあるし、偉そうに間違ったことを口にすることも少なくないと思います。(恐ろしいことに、自分ではなかなか気づけないのですが。)
しかし、神さまの憐れみは私たちが知っている「父親像」をはるかに超えています。このお方の憐れみに偽りはなく、このお方の慈しみに誤りはありません。神は私たちの完全な父です。
私たちがこの神様の子どもとされていることは、私たちに「父よ」と祈る言葉を与えられていることから分かります。御子イエスの霊が与えられているから、私たちにも神を父とお呼びする祈りが生まれるのだ、と聖書は言うのです。
あなたも神の子です。何とすばらしい発見でしょう!私たちは神の子としての自分を見いだすことが許されている。このすばらしい福音が今日あなたに語りかけられているのです。

2026年8月11日火曜日

2026年8月11日の聖句

歩むべき道を知らせてください。
私はあなたに向かって魂を高く上げます。(詩編143:8)
シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68~69)

今日の旧約に「私はあなたに向かって魂を高く上げます」と書いてあります。すてきな言葉だと思います。私たちも、自分の魂を神に向かって高く上げましょう。魂、それは自分の内奥の、一番奥深い部分です。神さましかご存じではない、自分の深み。自分でも知ることのできない、自分という存在の淵。そう言ってもいいのではないかと思います。しかしその深みが神に向かう。天の天におられる神、その高みに向かう。私たちは、弱く脆く、すぐに損なわれてしまう存在でしかありません。しかしそのような者を神が御心に留めていてくださる。私を深く究め、知っていてくださるのは、神さまです。そうであるからこそ、この方だけが私たちの歩むべき道を知っておられるのです。
シモン・ペトロが主に告白しています。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」本当に、「アーメン」と思います。主イエスさまこそ永遠の命の言葉を持ち、それを私たちに語りかけることのできるお方です。私たちは他の誰のところへ行きましょう。この方以外に神はいないのです。私の魂が慕い求める唯一の神、私が心を上げるただおひとりの神。イエス・キリストを慕い求め、この方を愛します。私は他のどこへ行きましょうか。

2026年8月17日の聖句

主は公正を愛する方。 主に忠実な人々を見捨てることはない。 彼らはとこしえに守られるが 悪しき者の子孫は絶たれる。(詩編37:28) イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17) 「主は公正を愛する方」と聖書は言...