2026年3月13日金曜日

2026年3月13日の聖句

人の歩みは主によって確かなものとされ、その人の道を主は喜ばれる。
彼は倒れても、打ち捨てられることはない。
主がその手を支えてくださる。(詩編37:23~24)
(ペトロは)「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして(ペトロを)捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。(マタイ14:30~31)

今日の主イエスの御言葉に触れ、とても反省させられます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主は言われます。私はすぐに「自分は信仰が薄いから」とか「自分の信仰は弱いから」とか、そのようなことを軽々しく言ってしまいがちです。しかし、そのような言い訳は主イエスにとっては愚にもつかないことなのであって、自分の信仰の弱さは何の言い訳にもなりません。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。主は、私が疑うことなくまっすぐに信じ、信頼することを求めておられます。言い訳しながら信じることを留保するのではなく、素直に信じることをお喜びくださるのではないでしょうか。
主は、その御手をもって私たちを支えてくださいます。必ず支えてくださいます。ペトロに手を伸ばしたように、主が私を必ず掴んでくださる。主なる神さまの約束を信じましょう。そして、平安でいましょう。キリストの手は私たちが考えているよりもずっと確かです。
今日も主イエス・キリストの霊があなたと共にいてくださり、あなたの行くのも帰るのも主が守ってくださいますように。主イエス・キリストの恵みと平安がありますように。祝福を祈ります。

2026年3月12日木曜日

2026年3月12日の聖句

彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。(イザヤ53:5)
イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。(ローマ4:25)

今日の御言葉は、神秘的な響きがあると思います。「彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」どういうことなのでしょうか。「彼が受けた打ち傷」が私たちを癒やすというのは、どういう意味なのでしょうか?
何よりも先ず、この「彼」は主イエス・キリストをおいて他にはいません。主イエスがお受けになった傷によって私たちは癒やされた。そのことを今日の新約の御言葉はこのように言っています。「イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。」
この御言葉がはっきりと言っているのは、主イエスが死なれたのは私たちの過ちのためであった、ということです。つまり、私たちが過ちを犯してイエスを殺したと言っています。私たちが主イエスを殺したのです。私が神の子を殺した。この事実が罪の正体です。私たちは自分のためであれば神の子でさえ殺してしまいます。ところがそのイエスを神は復活させられた。「(イエスは)私たちが義とされるために復活させられたのです」。死者の中から復活した真の王メシアとして、イエスは私たちを義としてくださる。私たちを神の前に立たせてくださる。
「彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」私たちは、神の子を殺した。このお方が受けた打ち傷によってでしか救われないほどに罪深い、ということではないでしょうか。私たちが傷を負わせ、殺したお方を神は復活させて私たちを義としてくださいました。私たちは、私たちが憎んで殺したお方の憐れみによってでなくては救われようがないのです。

2026年3月11日水曜日

2026年3月11日の聖句

私の魂はあなたの救いを待ち望んでいます。
あなたの言葉に希望を置いているのです。(詩編119:81)
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で霊どもを追い出し、病人を皆癒やされた。(マタイ8:16)

主イエス・キリストは悪霊に取りつかれた者や病人を受け入れ、あるいはご自分の方から彼ら・彼女らのところへと出かけて行かれました。主は、救いを待ち望む魂のところへ向かい、ご自分のもとに逃れる者を受け入れてくださいます。
「悪霊に取りつかれた」というのは、現代の言葉で言うならば、何らかの心の病、あるいは原因不明の病苦などを意味していたのかもしれません。いずれにしても「悪霊に取りつかれている」と言われた人々は厳しく差別されて共同体から排除されたり、非人間的な扱いを受けたりしていたようです。「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。」どうして夕方だったのでしょうか。はっきりしたことは分かりませんが、もしかしたら、できるだけ人目につきにくいように昼間を避けたのかもしれません。そうやって連れてこられた人々を、主は喜んで受け入れてくださいました。
キリストは社会が引いた境界線を大胆に越えていかれます。私たちの常識や社会の成り立ちを飛び越えてしまわれます。キリストは越境し、私たちに御言葉を語りかけます。私たちに自由と解放をもたらす福音の言葉を宣言なさるのです。私たちを縛り付ける悪霊を追い出し、私たちを抑圧する時代の精神と対決する言葉、将来を開く言葉を語り出される。私たちが今耳にしているのは、キリストの新しい世界を生み出す御言葉なのです。

2026年3月9日月曜日

2026年3月9日の聖句

天はあなたのもの、地もまたあなたのもの。
世界とそこに満ちるものは
あなたが礎を築いたもの。
北も南もあなたが創造された。(詩編89:12~13)
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全域に住まわせました。(使徒17:26)

主なる神さまの手は、大きいです。天も地も、そこにあるものもすべては神がお造りになりました。私たちが生きている地そのものを支えている礎もまた神が築かれたもの。途方もない話です。主は私たちの思いの及びもつかない途方もなさでもって私たちを支えてくださり、私たちを今日も生かしてくださっています。
「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全域に住まわせました。」私たちの命は神が下さったものです。最初の人間もまた神がお造りになりました。神が創造してくださったから人間は存在している。神が造った命が私のことをも生んだ。ここに私がいるということ自体が神の途方もない御業のなせることです。
果てしなく大きな、この宇宙のすべてをお造りになった方が私のことも造ってくださり、命を与え、今日も憶えていてくださる。驚くべきことです。主の憐れみに驚き、このお方をたたえて今日という日を生きていきたい、と願います。こんなに小さな私をも、世界の支配者が憶えていてくださるのです。

2026年3月8日日曜日

2026年3月8日の聖句

今週の聖句:
鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。(ルカ9:62)

今日の聖句:
わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。(創世記18:3)
イエスは言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」(ルカ19:5)

毎月2度ほど本厚木にあるYMCAの保育園で礼拝のお手伝いをしていますが、ここのところ、三月の卒園式にも出席させて頂いています。毎年楽しみにしているのは、卒園アルバムを子どもたちに渡す場面です。卒園する5歳児のクラスを担当している保育士さんが一人ひとりの名前を呼び、子どもが前に出てきて、手渡します。渡す時にそれぞれの子どもにメッセージを送っています。それがとってもステキなのです。一人ひとりの子どもとの思い出を大切にした、心を込めた言葉に毎年感動しています。子どもは自分の名前が呼ばれるまでドキドキしながら待っていることでしょう。
今日の旧約の御言葉ですが、このように書かれています。「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。」神が自分を憶えてくださる。私の前を通り過ぎず、むしろ私のところへ来てくださる。こんなに有り難いことはありません。「もし私があなたの前に恵みを得ているなら」と言っています。神が私を覚え、私の名を呼び、私に心を込めた愛を送ってくださっているという事実を知らされることが、私たちのための神の救いなのではないでしょうか。
主イエスさまはザアカイを覚え、ザアカイのところへ来てくださいました。ザアカイは徴税人の仕事をしていたこともあって、町いちばんの嫌われ者でした。しかしキリストはザアカイに恵みを示してくださいます。ザアカイのことを覚えていてくださる。ザアカイの前を通り過ぎてしまうようなことはなさらない。ザアカイを見つめて言ってくださいます。「今日は、あなたの家に泊まることにしている」と。
主イエス・キリストは最上の愛を込めてあなたを憶えていてくださいます。キリストは他ならぬあなたのところへ来てくださいます。今日、キリストの福音を聞いたとき、キリストはあなたを訪れてくださっています。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」これは、あなたを呼ぶキリストの声です。

2026年3月7日土曜日

2026年3月7日の聖句

なぜ国々は言うのか。「彼らの神はどこにいるのか」と。
私たちの神は天にいまし
御旨のままにすべてを行われる。(詩編115:2~3)
イエスは言われた。「私を見る者は、父を見ることになるのだ。」(ヨハネ14:9)

今日の旧約聖書の御言葉は「なぜ国々は言うのか」と始まっています。ここで言われている「国々」というのは、主なる神さまを信じいない人々ということであると思います。神を信じない者が私たちに向かって言うのです。「お前が信じる神はどこにいるのか」と。一体どう答えたらいいのでしょうか。
「彼らの神はどこにいるのか」という言葉の後には、いろいろな言葉が続くのではないかと思います。「もしもあなたが信じるような神が本当にいるのなら、どうして世の中にこのように悪がはびこっているのか」「どうして不幸が続くのか」「どうして私はこんなに苦しまなければならないのか」・・・。
詩編は「彼らの神はどこにいるのか」という問いに答えています。「私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる」。神は私たちが手を届かせてコントロールすることのできるような方ではない。神は天におられる。そして、今日も生きて働いておられる。神はご自身の御旨のままに、御業を行っている。今、私たちにその意味がすべて分からなくても、私たちには「なぜ?」という問いしかのこらない現実であっても、必ず神の御業は進んでいる。すべての出来事は永遠の祝福に必ず至るプロセスです。これは、そう信じる告白です。
主イエスは天の父でいらっしゃる神を示しておっしゃいます。「私を見る者は、父を見ることになる」と。私たちが神について知るべき事はすべてキリストが現してくださった。キリストと出会うとき、私たちは神ご自身と出会っている。ですから、私たちは問いを抱えつつ、キリストに目を注ぎ、キリストの言葉に耳を傾けます。私たちは「お前の神はどこにいるのか」と繰り返し問われます。そのたびに、私たちはキリストを指さします。ここにいる、ここに神がおられる!私たちの問うすべての「なぜ」を背負っておられるキリストこそが私たちの信じる神ご自身なのです。

2026年3月6日金曜日

2026年3月6日の聖句

正しき者は弱い人の訴えを認める。(詩編29:7)
イエスは(その議員に)言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」(ルカ18:22)

今朝の主イエスの御言葉を聞くと立ちすくんでしまいます。「主よ、できません」としか言えず、それ以上の言葉が出てきません。主の言葉の通りに生きている人は知っています。しかし、自分のこととして、主イエスのこの御言葉に文字通りに従っているかと言われれば、そうではない。私もこの議員と同じように、悲しみながら立ち去らなければならない。恥ずかしいことですが、正直に言って、私はそのような人間です。
主イエスの側でこのやりとりを見ていた人たちも同じ感想を抱いたのだと思います。「それでは、だれが救われるのだろうか」と言っています。本当にそうです。一体誰が救われうるのでしょうか?いや、そのように生きている人、そのように信じて実践している人はいるでしょう。しかし、私は救われようがありませんと言わざるを得ない・・・。
主イエスはさらにおっしゃいます。「人間にはできないことも、神にはできる」。私たちはただただ神の憐れみにおすがりするしかありません。私には、私ひとりを救う力もありません。自分でも自分のことをどうすることもできないのです。しかし、神にはこんな私を救うことがおできになる、と主は言われます。持っている物に執着し、お金にしがみつき、神さまに明け渡すことのできない、バカでケチでお金の亡者のような私を、主は救うことがおできになる。そのことをひたすら信じ、ただ憐れみを請うだけです。

2026年3月13日の聖句

人の歩みは主によって確かなものとされ、その人の道を主は喜ばれる。 彼は倒れても、打ち捨てられることはない。 主がその手を支えてくださる。(詩編37:23~24) (ペトロは)「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして(ペトロを)捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑っ...