2026年2月21日土曜日

2026年2月21日の聖句

先にあったことを思い起こすな。
昔のことを考えるな。
見よ、私は新しいことを行う。
今や、それは起ころうとしている。
あなたがたはそれを知らないのか。(イザヤ43:18~19)
(パウロの手紙)だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。(2コリント5:17)

今日の旧約聖書はイザヤ書第43章ですが、この言葉が語られたのはとても困難な時代でした。ユダ国がバビロンに滅ぼされ、国の主だった人々が遠くバビロンに連れ去られてしまった「バビロン捕囚」の出来事から既に数十年が経過した時代です。自分たちを滅ぼしたバビロンでさえも、さらにその後の新興国ペルシアに滅ぼされていました。
自分たちの目の前にあるのは、「今、私たちは故国から遠く離れてたところにいる」という現実であり、あの戦争から既に世代交代するほど経過した時間であり、故郷から1000キロ以上離れ砂漠を越えたところにいる自分たち、というどうにもならない厳しい現実です。ところが神さまはおっしゃいます。「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。」すごい言葉です。私たちにはどうにもならないこと、諦めるしかないこと、現実を前に手も足も出ないこと。そんな圧倒的な私たちの無力とこの世の暴力的な物語の力を前に、神さまは新し事を行うとおっしゃいます。神さまの救いの出来事が今や芽生えている、とおっしゃるのです。
神さまを信じるというのは、一つの言い方をすれば、私たちの目に映る「現実」とは異なる神さまの出来事を思い描く想像力が必要なことなのだと思います。目の前にあるものとは違う、神さまがお造りになる将来を描くイマジネーションがなければ信仰は成り立たないのではないでしょうか。
神さまは「先にあったことを思い起こすな」とおっしゃっています。私たちは普通はこれまであったことを参照例として今やこれからを考えます。ですから、社会は現状維持を好むし、たまに新しいことをしようとする人が現れても、現状の否定が関の山になってしまうのだと思います。しかし神さまは私たちの思いの外にある新しい救いの御業を始めておられる。だから私たちは神さまが私たちの「現実」を越えて働いておられることを思い描き、神さまは今何をしておられるのかをイメージするのです。
私たちは何も新奇なものを頼みとしているのではありません。「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」このように言われているとおり、キリストにあって私たちを新しくしてくださる神さまの御業を待ち望み、ここにある望みによって描かれる救いの出来事を信じているのです。

2026年2月20日金曜日

2026年2月20日の聖句

主よ、私に憐れみを閉ざさないでください。
あなたの慈しみとまことが
絶えず私を守ってくださるように。(詩編40:12)
憐れみと平和と愛を、神があなたがたに豊かに与えてくださいますように。(ユダ2)

今日の新約の御言葉によって、私も皆さんに朝のご挨拶を申し上げます。「憐れみと平和と愛を、神があなたがたに豊かに与えてくださいますように。」あなたの今日一日が神の憐れみと平和と愛の中にあり、神の豊かさの中でさらに豊かに祝福を頂くものでありますように!
今日、例えあなたに何が訪れるとしても、神の憐れみと平和と愛はあなたから離れません。恐れてはいませんか?不安になってはいないでしょうか。例えあなたが恐れていたとしても、神があなたに下さる恵みには一切変更がありません。私たちに受け止めきることのできないこともあるでしょう。嘆くしかない現実もあるでしょう。そのようなときには、嘆いて良いし、悲しんでよい。神さまに「なぜですか」と訴えていいし、「間違っているのはあなたではありませんか」と糾してよいのです。むしろ、神さまはあなたのその祈りを待っていてくださいます。
「主よ、私に憐れみを閉ざさないでください。あなたの慈しみとまことが、絶えず私を守ってくださるように。」
主は、私たちが願うよりも先にご自身の慈しみとまことであなたを必ず守ってくださっています。主があなたへの憐れみを閉ざすことは絶対にありません。どのようなときにも。主イエス・キリストの恵みと平安があなたにありますように。

2026年2月19日木曜日

2026年2月19日の聖句

もろもろの民よ、われらの神をたたえ、その栄光をとどろかせよ。
神は私たちの魂を生かし、その足をよろめかすことがない。(詩編66:8~9)
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。(ローマ15:5~6)

今日の新約聖書は祈りの言葉です。すごい祈りです。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。」私たちも心を合わせて同じ祈りを捧げましょう。主イエスご自身が既に「御名を崇めさせたまえ」という祈りを教えてくださいました。私たちもこのように祈りたいのです。
私たちが神を崇め、賛美することにおいて同じ思いになり、心を合わせることができますように。これこそ、主イエス・キリストに倣うことです。神への賛美で一つになるところで、私たちはキリストのまねをする者にならせて頂く。すてきな言葉です。
私たちは声を合わせて賛美を歌います。思いを合わせ神を賛美して祈ります。私たちの願いは神さまのお名前が崇められ、神さまの栄光あるお名前が全地にとどろくこと。このお方は私たちの魂を生かしてくださいます。主は私たちの足がよろめかないようにしてくださいます。ですから、そのように私たちに配慮してくださる神を賛美する心はそのまま、人間を非人間的に扱う悪や、神が与えてくださったものを独り占めしようとする貪欲とは戦う心をも生み出します。私たちは神がお造りになったこの世界の美しさを保ち、神がお造りになった命の尊厳を尊重する。そして、息あるものはこぞって神の御名をほめたたえますように。そして、私たち自身の存在そのものが賛美となりますようにと祈ります。

2026年2月18日水曜日

2026年2月18日の聖句

主よ、あなたの恵みが私にもたらされますように。
あなたの救いがみことばのとおりに。(詩編119:41)
人々は皆恐ろしくなり互いに語り合って言った。「一体この言葉は何であろうか。イエスが権威と力とをもって命じると、汚れた霊たちが出て行く。」(ルカ4:36)

主イエスの宣教のとても大切な側面は、それが戦いであった、ということです。人を相手にした戦いではない。汚れた霊、悪霊との戦いです。この世界を支配し、人心を支配し、時代を支配する汚れた霊との戦いを、主イエスはなさっている。主は、御言葉によって戦われます。福音を宣言し、神の国が到来したことを告げることで汚れた霊と戦われた。キリストの権威ある福音宣言が時代の霊を打ち負かしたのです。

人々は皆恐ろしくなり互いに語り合って言った。「一体この言葉は何であろうか。イエスが権威と力とをもって命じると、汚れた霊たちが出て行く。」

私たちは、人々が目の当たりにして恐れたという、この御言葉の力を知っているでしょうか。キリストの言葉は、単に「私にとっての個人的な慰め」とか「自分の不全感の癒やし」には留まりません。キリストの言葉は力をもって悪霊を打ち倒し、この世界を神のものとして取り戻す戦いの言葉です。この世への神の国の到来宣言です。
私たちの教会では、洗礼を受けるときに次のような誓約をします。牧師が問います。「あなたは、憐れみ豊かな神の御力により頼み、これまでの道を離れ、世に働く悪の力を拒みますか。」これに対して私たちは「拒みます」と答えたのです。あの時、私たちは世を支配する悪霊とはもうお別れしました。洗礼を授けられたとき、私たちは悪霊ではなく神の側に立つことを表明しました。キリストは必ず、その力強い御言葉のとおりに私たちを救い、神の国の民の一員にしてくださいます。

2026年2月17日火曜日

2026年2月17日の聖句

隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものである。(申命記29:28)
それは、彼らの心が神の秘儀であるキリストを深く知るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。(コロサイ2:2~3)

「啓示」という言葉があります。「啓き示す」という字のとおり、神さまがご自身を私たちに啓き示してくださることを指す言葉です。「隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものである」という今日の御言葉のとおり、神さまの領域のこと、私たちには隠されていないことはたくさんあります。私たちには分からないこと、神さまでないと知りようのないことはいくらでもある。
しかし神さまは私たちにとって知ることのできない方ではなく、私たちにもご自身を示してくださいました。神さまは私たちとも出会ってくださった。「それは、彼らの心が神の秘儀であるキリストを深く知るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。」このように今日の御言葉にあるとおり、神さまが私たちにご自身を啓き示してくださったこと、神が私たちに現してくださったご自身の御心、それはイエス・キリストというお方において私たちに示されました。私たちが神さまについて知るべき事柄は、イエス・キリストの内にすべて、余すところなく、そして私たちにも分かる仕方で示されている。キリストこそ、私たちに示された神の秘儀であり、私たちに与えられた神の宝です。
だから、私たちは神の言葉ご自身でいらっしゃるキリストに耳を傾けて聞きます。キリストこそが神の言葉だからです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されている。キリストに聞きましょう。キリストに心を向けましょう。このお方こそ私たちのための神からの愛のメッセージそのものでいらっしゃるのです。

2026年2月16日月曜日

2026年2月16日の聖句

見よ、わたしは使者を送る。
彼はわが前に道を備える。(マラキ3:1)
その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。(マルコ13:27)

地の果てから天の果てまで、と主イエス・キリストはおっしゃいます。凄いスケールです。地の果ての私たちには遠くても届かない場所から、天の果てという想像も付かないほどの果ての果てに至るまで。主イエス・キリストは私たちを果ての果て、そのまた向こうからも呼び集められる。
思えば、2000年前にこの主イエスさまの言葉を直接聞いた人たちからすれば、私たちがいるこの場所はまさに地の果てのまた向こうであり、今の時代は天の果てのそのまた向こうでしょう。2000年も経って、自分たちが考えたこともないような東の果ての国にもキリストの民が生まれることなど考えもつかなかったと思います。
しかし、神さまにとっては、きっとそれもまた小さな奇跡に違いないと思います。キリストは天使を遣わしてご自分の民を地の果てから天の果てに至るまで呼び集め、一つの教会としてくださいました。私たちもキリストの呼び出す声に促されて、今ここでキリストを仰いで生きているのです。
私たちには途方も付かない神さまの御業を私たちも仰ぎ、このお方を賛美し、このお方の御前で礼拝を献げて生きていきます。キリストに栄光があり、キリストのお名前が地の果てから天の果てに至るまでほめたたえられますように。

2026年2月15日日曜日

2026年2月15日の聖句

今週の聖句:
今、私たちはエルサレムへ上って行く。そして、人の子について預言者が書いたことはみな実現する。(ルカ18:31)

今日の聖句:
(ヨセフの兄たちがヨセフに懇願する言葉)どうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。(創世記50:17)
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エフェソ4:32)

私たちの悩みの多くは人間関係の悩みで、それは究極的には罪の問題であると思います。お互いの間にある罪をどう考え、処理したら良いのか。私たちの抱えている辛い思いの多くは、そこに根ざすのではないでしょうか。相手がしたことが不本意だ、容認できない、赦せない。あるいは逆に、相手に合わせる顔がない、次に会ったときに何といったら良いのか分からない。そうでなければ、どうして相手があれほど怒っているのか理解できない・・・など。
今日の旧約聖書に登場する「ヨセフの兄」たちは、かつてヨセフを殺そうとしました。そのことがきっかけでヨセフは故郷から遠く離れたエジプトで奴隷になり、無実の罪を着せられて何年も牢獄にと孤児込められた。「どうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください」と言っても、ヨセフの立場からしたら到底赦しようがない、ということになると思います。しかし、ヨセフは兄たちと和解しました。自分と兄たちとの間には実は神がおられ、これまでの自分たちの歴史も神が支配しておられる、と信じることができるようになったからです。
「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」このような私たちのあり方は、ただ、キリストを仰ぐことによってだけ可能になるのだと思います。神がキリストにあって私をも赦してくださった。私とも和解してくださった。私たちが憐れみ深い者になることができるとしたら、キリストの愛から以外に始まりうる場所はありません。

2026年2月21日の聖句

先にあったことを思い起こすな。 昔のことを考えるな。 見よ、私は新しいことを行う。 今や、それは起ころうとしている。 あなたがたはそれを知らないのか。(イザヤ43:18~19) (パウロの手紙)だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去り、まさ...