2024年10月12日土曜日

2024年10月12日の聖句

(主は言われた。)私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す。(レビ10:3)
このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。(ローマ5:1)

今日の旧約聖書の御言葉ですが、そのもともとの文脈での意味は、もしかしたらローマの信徒への手紙から私たちが聞き取るメッセージとは正反対に聞こえるかもしれません。
レビ記第10章では、ナダブとアビブという二人の祭司が聖書の規定に反した香をたいて神を礼拝し、そのために主の前から火が出て二人が死んだ、という出来事が記されています。恐ろしいことです。そして、「私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す」と続きます。ナダブとアビブの誤った、自分勝手な礼拝に死をもって報いることによって、神の聖なる事が示されたのだ、という話です。
私たちには、かなり異様に響く話ではないでしょうか。しかし、神さまが聖なるお方だというのは、神さまは私たちとは異質な存在だということです。私たちがこの方の前に立てば死ぬしかないようなお方だということです。増して自分勝手に、自分が良いと思う仕方で、いい加減に神を礼拝すればその報いは死以外にはあり得ない。神が聖なるお方だというのは、私たちにとっては恐ろしい事実です。私たちはその事実をすぐに忘れます。そして神を嘗めているのです。
しかし聖書は一貫して、神は聖なるお方だと証言します。その聖なるお方、私たちとは異質な方が私たちに手を伸ばしてくださいました。神が伸ばしてくださった手は、イエス・キリストと呼ばれています。「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。」私たちは汚れた者なのに、私たちは卑しい者なのに、死ぬべき私たちに神が平和の手を伸ばしてくださった。この事実が私たちを救うのです。
ですから、一見すると全く正反対のことを言っているように見える今日の二つの御言葉は、実は同じ事を言っている。聖なる神が私たちを救ってくださった。その事実の造り出す恵みの出来事を告げているのです。

2024年10月11日金曜日

2024年10月11日の聖句

赦しはあなたのもとにあります。
あなたが畏れられるために。(詩編130:4)
イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)

すごい言葉です。私たちの持っている常識とは異なる言葉です。「赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れられるために。」普通は「裁きはあなたのもとにあります」とか「あなたは正しく罪人を罰する方です」と言って、それは「あなたが畏れられるために」と続くのではないでしょうか。ところが聖書はそのように言いません。「赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れられるために。」神が私たちの罪を赦してくださるお方だから、私たちはこのお方を畏れないわけにはいかない、と言うのです。このお方の赦しの深さを私たちが知るとき、私たちは神を畏れる。私たちが自分の罪の報いを受け、裁かれるときではない。罪の赦しの下でわたしたちは神を畏れます。
この御言葉は、主イエス・キリストにおいてこそ最もはっきりと現されました。キリストの十字架の上での御言葉です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」私たちは自分が何をしているかを知らない。私たちがしていることが神の子を十字架にかけ、神の独り子を殺し、神に背いていることであると、私たちは知らない。ところがキリストは、その知らない私たちのために罪の赦しを求める祈りを捧げてくださっています。神は、このキリストの祈りを聞いてくださったのです。
私たちはこの神を畏れます。このように祈ってくださったキリストを畏れます。このお方にしか私たちの救いはない。私たちのためになお罪の赦しを告げてくださるキリストを私たちは救い主と信じる。キリストの御名が崇められますように。

2024年10月10日木曜日

2024年10月10日の聖句

見よ、彼らは今言っている。「私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた」と。それゆえ預言して彼らに言え。「神である主はこう言われる。私の民よ、見よ。私はあなたがたのための墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げる。」(エゼキエル37:11~12)
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(1コリント15:42,44)

「私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた。」そのように言っています。死を前にした人間の絶望。死は、単に自然の摂理として生物の終焉を迎えるということでは収まりません。自然現象として命の終わりが来るということでは済みません。私たちは滅びる。死の向こうに希望がないことが、私たちの問題の根本にあるのではないでしょうか。昔の人の方がそのことを真剣に考えていました。死は私たちよりも遙かに日常の問題でした。私たちは死を見つめなくなりました。昔も今も、死という現実は何ら変わるところがないはずなのに。そして、死を前にして私たちも言わざるを得ないのです。「私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた」と。
神さまは、やがて墓以外に行く場所を持たない私たちのために墓を開き、墓に出口を設けてくださいました。私たちは心も体も魂も、すべてが朽ち果てるものです。私たちは死んで滅びるべきものです。ところが神はキリストと同じように私たちを復活させてくださいます。朽ちるものは朽ちないものに復活し、自然の体は霊の体になる。神の御前で、私たちは死を超えた希望を与えられている。
だから、私たちは今生きるこの生においても希望があるのです。死を超える望みを与えられているから。この営みは無駄ではない。死んで無になるものではない。キリストがおられます。キリストの手が私たちに伸ばされています。あなたを死から救うために。

2024年10月9日水曜日

2024年10月9日の聖句

御手が私を造り、堅く立たせてくださいました。
私に悟らせ、あなたの戒めを学ばせてください。(詩編119:73)
(パウロの言葉)そういうわけで、しっかり立って、私たちが言葉や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。(2テサロニケ2:15)

今日の新約に出てくる「私たちが言葉や手紙で伝えた教え」というのは、主イエス・キリストの福音のことです。福音の言葉をしっかりと思い起こし、それを固く守り続ける。そうやって私たちがしっかり立つことを求めているのです。
固く守り続けること、しっかり立ち続けること。本当に大切なことです。忍耐とか根気とか、そういうことを私たちはあまり好みません。御言葉を聞いてその時だけ心動かされたり、その場限りの感動を味わったりするだけではなく、従い続ける。それが、キリストを信じるということなのだと思います。
それは祈りなくして成り立ちません。「御手が私を造り、堅く立たせてくださいました。私に悟らせ、あなたの戒めを学ばせてください。」神さまの御言葉を聞き、従って生きること。そこにこそ私たちの最高の幸せがあると信じ、代々の信仰者たちは生きてきました。私たちもそういう信仰者の一員として加えられています。ですからこの祈りを共にしたい。「私に悟らせ、あなたの戒めを学ばせてください」という祈りをささげて、私もひとりの信仰者として喜んで生きていきたい。そう願います。

2024年10月8日火曜日

2024年10月8日の聖句

今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい。神々を取り除き、主に仕えなさい。(ヨシュア24:14)
神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ではない神々の奴隷となっていました。だが、今や神を知ったのに、いや、神に知られたのに、どうして、再び奴隷になることを望んで、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。(ガラテヤ4:8~9)

世の中には「本来神ではない神々」が溢れています。世間の当たり前の価値観の多くが密かに神々の顔を隠し持って人間を支配しようとします。それはスマホから飛び込んでくるいろいろな刺激、その中でも特にSNSの「イイね」かもしれません。あるいは「安心・安全・便利・快適」やそれに類するキャッチコピーになるかもしれないし、他の人と同じであることによって得る安定感かもしれません。変化を拒む心や、自分はこれでよいと凝り固まる頑固さかもしれません。私たちは誰を神としてあがめているでしょうか。私たちは一体誰のものとして生きているのでしょうか。
「今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい。神々を取り除き、主に仕えなさい。」私たちは、私たちにご自身を示して知らせてくださった神を信じます。いや、このお方は私たちが知っている以上に私たちを知っていてくださいます。私たちを主イエスにあってご自分の子としてくださいました。私たちはもはや奴隷ではなく、神の子にしていただき、「父よ」と祈る恵みにあずかりました。それなのに、どうして私たちは再び他の神々に自分を委ねることができるでしょうか。真心から、まことの神に仕えたい。
主イエス・キリストを、朝毎夜毎に仰ぎましょう。キリストの愛と憐れみを喜びましょう。私たちの神の子としての真実は、ただだ他キリストご自身が示してくださった神の真実によって始めていただいたからです。

2024年10月7日月曜日

2024年10月7日の聖句

私たちの過ちが私たちに不利な証言をしても、主よ、御名のために事をなしてください。(エレミヤ14:7)
もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。(マタイ6:14)

主イエスさまが教えてくださったこと。神が私たちに求めておられるのは、私たちが神に赦していただいたように私たちも人の過ちを赦すこと。これだ、と主イエスはおっしゃいます。私たちが他人の過ちで傷つけられ、迷惑をかけられ、被害を蒙ったときにそれを赦すこと。それが神の御心だ、と主イエス・キリストはおっしゃるのです。
私たちにとってこれほど身近で、しかも難しい命令はないと思います。一般的に問題ある人や悪そうな人を受け入れるというだけでも大変です。それどころか主イエスは、自分に迷惑をかけ過ちを犯した人を赦せ、とおっしゃるのです。
きっと、私たちはその難しさを通してしか、神の赦しがどんなに大きく深い恵みであるのかが分からないのだと思います。私が骨身に染みて神の赦しの恵みに感謝できるのは、自分の罪がどんなに醜悪で、赦しがたく、ひどいものであるのかが分かったときです。しかし、私には残念ながらそれは分からない。自分が赦せないという経験を経なければ。
いや、もっとちゃんと考えるなら、それでも分からないのが私たちです。私たちは、自分の「赦せない」を正当化します。赦せないのは当然だとすぐに開き直ります。私たちが本当に神の赦しの恵みを知るのは、キリストの十字架の苦しむお姿を仰ぐときなのだと思います。私のために苦しんでおられる神の御子を仰ぎ、そのお姿に圧倒されることによってしか、私たちは自分の罪を知ることができない。しかしそれは同時に、私の罪の大きさなど及びもつかないほどに圧倒的な神の憐れみとキリストの愛の力のすさまじさの中での出来事以外のものではありません。キリストの十字架の前に、罪人の私たちは身をかがめ、この方を崇めるばかりです。

2024年10月6日日曜日

2024年10月6日の聖句

今週の聖句:
すべてのものがあなたに目を向けて待ち望むと、
あなたは時に応じて食べ物をくださる。(詩編145:15)

今日の聖句:
見よ、諸国民は手桶の滴のように、天秤の埃のように見なされる。(イザヤ40:15)
神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです、異邦人の神でもあります。(ローマ3:29)

神は、ユダヤ人の神であり、異邦人の神でもいらっしゃいます。キリスト者の神であり、キリスト者ではない人の神でもあります。すべてのものを造り、生み出し、すべてを支配しておられる神。私たちが信じるのは、天と地のすべてを支配しておられる神です。
そのような神様からご覧になったら、確かに私たちは手桶の滴、天秤の埃でしかないでしょう。神さまの目に留まらないでしょうし、いてもいなくても分からないくらいに小さなものに過ぎません。しかし、そのような私たちに神は御心を留めてくださいます。ただの一滴に過ぎず、小さな埃の粒に過ぎない私たちを神は憶えていてくださり、愛してくださっている。
一体、私たちは何者なのでしょう。私たちが何者なので、神は私たちを憶えてくださるのでしょう。
私たちは何者でもない。ただ神の憐れみのゆえに、ただ神の愛の深さのゆえに、神は私たちを覚え、今日も私たちを御心に留めてくださっているのです。

2024年10月12日の聖句

(主は言われた。)私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す。(レビ10:3) このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。(ローマ5:1) 今日の旧約聖書の御言葉ですが、そのも...