2025年7月15日火曜日

2025年7月14日の聖句

(ソロモンの言葉)見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。(列王記上8:27)
まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:23)

ソロモンが建てた神殿は一体どのような建物だったのでしょう。いろいろな資料を調べると、聖書の記述をもとにして図にしてくれているものもあります。しかし、実際のその建物を見、またそこで礼拝を献げるというのは、絵で見るのとは全然違う体験です。それを直接味わえないのはなんと残念なことか、と思います。
イスラエルの信仰共同体にとって、この神殿は大きな喜びであったに違いないと思います。7年という年月をかけて建築されました。エルサレムの都に神殿が建ち、人々は都に上って神を礼拝する。私たちは、そういう神の民の営みのずっと子孫のところにいます。
ところが、この神殿を神に献げたソロモンは言います。「見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。」まさに、ここにソロモンの実感が込められていたのではないかと思います。大変な思いをして神殿を建築し、それを献げるソロモンであるからこそ、心から感じたに違いない。このような建物に神をお入れすることなどできない。神はもっと偉大で、大きく、果てしないお方。この世界をお造りになった方。そのお方を私が造ったものに収めてしまうだなんて、考えられない!
主イエスさまは「まことの礼拝をする者が、霊と真実をもって父を礼拝するときが来る」とおっしゃいました。これは、主イエス・キリストにあって神を礼拝する、ということであろうと思います。どんなに素晴らしい神殿も礼拝堂もお収めすることのできない偉大なお方を、私たちはキリストを通して礼拝することができる。キリストを見た者は神を見、キリストを信じる者は神を信じているからです。キリストによって神はご自分を私たちに現してくださいました。このお方の御前で、私たちの新しい一日が始まります。

2025年7月14日月曜日

2025年7月14日の聖句

あなたが造った神々はどこにいるのか。災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら。(エレミヤ2:28)
私の愛する人たち、偶像礼拝を避けなさい。(1コリント10:14)

偶像礼拝。それは、私たちの願望が造り出す神への礼拝です。偶像の神は私たちの願いの奴隷です。ですから何らかの目に見える像があるかないかということよりももっと大きな問題があるのではないでしょうか。私たちの主人は私自身や私の願望なのか、あるいはまことの神なのか。それが本当に問われていることだと思います。
それでは、私たちが何らかのことを神に願ったり、助けてくださいと祈ったりするのはいけないことなのでしょうか。自分の願いを神さまに祈ったら偶像礼拝ということになってしまうのでしょうか。
今日の御言葉はこのように語りかけています。「あなたが造った神々はどこにいるのか。災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら。」ここで言われているのは、結局偶像にはあなたを救う力はない、ということではないでしょうか。偶像は人間の造ったものに過ぎない。本当に私たちを救う力があるのは、主なる神さまに他ならない。まことの神こそが私たちを災難から救うことがおできになる。
私たちは、苦しいときや悲しいとき、辛いときに神さまに祈ることが許されています。神さまは私たちの祈りを待っていてくださいます。私たちの神さまは私たちをご自分の目の瞳のように愛してくださっています。だから、私たちはこのお方に祈る。確かに私たちは時に間違ってしまうかもしれないし、神さまを偶像扱いしてしまう過ちも犯してしまうかもしれない。しかし、真の神さまは私たちの願い以上のことをすることがおできになります。私たちが考えている以上に素晴らしい救いを私たちに与えることがおできになる方です。だからそのことを信じ、神を信頼しましょう。安心して祈りましょう。私たちの小さな願いよりもずっと大きな神さまを信頼して、わが身をも神に委ねてしまいましょう。

2025年7月13日日曜日

2025年7月13日の聖句

今週の聖句:
互いに重荷を担いなさい。そうすればキリストの律法を全うすることになります。(ガラテヤ6:2)

今日の聖句:
主よ、夜には心からあなたを慕い求め、朝には私の霊をもってあなたを捜し求めます。(イザヤ26:9)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

ルードルフ・ボーレンというスイスの牧師が教えてくださった祈りを思い起こします。朝、一日の始めに使徒信条をもって祈る。ただ唱えるだけではなく、今日会う人を思い、その一人一人のために神が何をしてくださったかを、使徒信条の言葉に導かれて思い起こして祈る。そして、一日が終わる夜、その日会った人のことを思って再び使徒信条の言葉で祈る。神の祝福の光の中で、今日の出会いを振り返る。
私たちは、朝に祈り、夜に祈ります。神の祝福の光の中に私も置かれているし、今日出会う人・出会った人も置かれています。神は御顔の光を私たち一人ひとりに向けてくださっています。主を呼び、主を捜し求めましょう。必ず、神さまは大いなる祝福をもって私たちに応えてくださいます。キリストの祝福は、朝も夜も、いつでも私たちに向けられています。そのことを信じ、今日の日を平安のうちに歩んでいきましょう。

2025年7月12日土曜日

2025年7月12日の聖句

主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。(イザヤ49:8)
今こそ待望していた時、今こそ救いの日。(2コリント6:2)

今こそ、と今日の新約聖書の御言葉は言います。「今こそ」です。救いの日は、もう私たちのところへ訪れています。今日、この御言葉を聞いたこの日、あなたに救いが訪れました。神の恵みの日、神が私たちを救ってくださる日が今日やってきたのです。
この事実を、あなたは信じているでしょうか?主イエスさまは今日、ここに来ておられて、あなたに向かって手を伸ばしておられます。私たちがイエス様のところへたどり着いたのではありません。私たちの努力の結果、神さまのところへ行くことができたのではないのです。キリストが私たちのところへ来てくださった。だからこそ、今日は待望していた日です。キリストが来てくださったからです。キリストの方から手を伸ばしてくださったから、今日は救いの日です。
まるでイエス様がまだ来られていないかのような自己嫌悪に陥ってはいないでしょうか?まるでキリストの救いがなかったことになってしまったかのような絶望に駆られてはいないでしょうか?キリストがもう既に私を救ってくださいました。だから、大丈夫です。私たちはもはや暗闇ではなく光の中にいます。神さまの手の中に生かされています。安心して、今日の日を生きていきましょう。キリストの限りない恵みが、今日もあなたにありますように。

2025年7月11日金曜日

2025年7月11日の聖句

主よ、あなたの永遠の秩序を想起するとき、私は慰められました。(詩編119:52)
私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたのではない天にある永遠の住まいです。(2コリント5:1)

「あなたの永遠の秩序」と書かれています。「秩序」と翻訳されている言葉ですが、聖書協会共同訳では「裁き」と翻訳されています。ミシュパートという単語で、裁き、正義、命令、法、などといった意味があります。私たちには私たちの裁きや正義があります。日本には日本の法があるし、秩序があります。しかし人間のつくり出す秩序は決して永遠ではありません。
キリスト者の作家の三浦綾子さんが『道ありき』という自伝を書いておられます。三浦綾子さんは満17歳になる前に、小学校の教師になりました。熱心に勤めました。軍国教育の時代です。しかしやがて敗戦を迎える。アメリカ軍が進駐し、これまでの教育は誤りであったとされ、子どもたちに教科書を墨で塗らせた。絶望し、自分にはもう教壇に立つ資格はないと考え、教職を辞しました。
どれほどの絶望であり、どんなに深い虚無・虚脱であったのか、想像を絶します。人間の建てた秩序は、その正義がどれほど絶対的に正しいと思われたものであったとしてもやがて崩れてしまいます。正しいと思っていたものも悪とされるし、悪と軽蔑されていたものが実は正しかったとされることもあります。人間の営みは空しいものです。
しかし、神の建てる秩序は人間のものとは違います。神の正義は永遠です。だから私たちは天を見上げます。そこから来られるキリストを待ち望みます。正義も正しい裁きも、神とその御子とにあると私たちは信じています。私たちは移ろうし、不確かだし、相対的な存在に過ぎない。ですから、神の御前にへりくだりましょう。神を畏れて身をかがめましょう。私たちを虚無や虚脱、悪と罪と死の力から救いだしてくださるキリストを待ち望みましょう。

2025年7月10日木曜日

2025年7月10日の聖句

私の戒めを守り行いなさい。私は主である。(レビ22:31)
私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。(ヨハネ14:23)

私たちは主イエスさまを愛し、主イエスさまの言葉を愛します。私たちはキリストがお命じになったように生きる。少なくとも、そう志します。
ボンヘッファーが『キリストに従う』という本で、私たちの神の恵みに対する態度によって、神の恵みが二つのものに分かれている、という趣旨のことを言っています。一つは「安価な恵み」です。安価な恵みは「罪の義認のことであって、罪人の義認のことではない」。つまり、神の恵みを安価に扱う人は、自分の罪の赦しを既に手に入れてしまっている。神に従おうとせず、自分で自分を救う神の恵みをほしいままにし、そうやって神の恵みを安っぽい、大安売りの、価値のないものにしてしまっている。
しかし、そうではない恵みがある。それが「高価な恵み」です。高価な恵みは「服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである」とボンヘッファーは言います。キリストの命によって支払われたからこそ高価であり、私たちのために神の子が犠牲になったからこそ高価です。高価な恵みは、私たちが自分の十字架を背負ってキリストに従うように求める。そして、「私の軛は負いやすく、わたしのには軽い」と言ってくださるから、「恵み」です。
キリストを愛する私たちは、キリストの言葉を守ります。「私の父はその人を愛され、父と私はその人のところに行き、一緒に住む」とキリストは約束してくださいます。キリストに従い、キリストの示してくださった高価な恵みに生かされる新しい歩みへと出発したい。そのように願います。

2025年7月9日水曜日

2025年7月9日の聖句

かつて、引き抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらすために彼らを見張っていたが、同じように、建て、植えるために彼らを見張るーー主の仰せ。(エレミヤ31:28)
救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。(テトス2:11~12)

今日の旧約聖書ですが、「引き抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらすために彼らを見張っていた」というのは、とても厳しい言葉ですがよく分かります。そもそも「見張る」というのは、そういうことだと思います。何か悪いことがないか、あれば罰を与えたり、報いを受けさせたりする。「見張る」というのは、そういうことだと思います。
ところが、今日の御言葉はかなり不思議なことを言っています。「建て、植えるために彼らを見張る」。建てたり植えたりというのは、つまりは「あなたたちを回復させるため」という意味でしょう。引き抜かれ、壊され、破壊され、滅ぼされ、災いを下された者たち。つまり、神に裁かれた者たち。私はあなたを建て、植えるために見張っているのだ、と主は言われます。「見張る」という言葉がうまくマッチしないように感じてしまいます。
しかし、主なる神さまはまさに私たちを見張っておられる。私たちを救い、私たちに恵みをお与えくださるために、私たちのことをじっと目を凝らしてつぶさにご覧になっている。神が私たちを新しくするために、私たちに目を向けてくださっているのです。「救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。」敬虔な者として、神は私たちを新しく生かしてくださいます。主の恵み深いまなざしの中で、今日の日を生きていきましょう。

2025年7月14日の聖句

(ソロモンの言葉)見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。(列王記上8:27) まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:23) ソロモンが建てた神殿は一体どのような建物だったのでしょ...