2026年3月16日月曜日

2026年3月16日の聖句

神よ、若いときからあなたが教えてくださったので
今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。(詩編71:17)
(パウロのテモテへの手紙)あなたは子どもの頃から聖書に親しんできました。この聖書が、キリスト・イエスに対する信仰を通して幸いに至る道を悟らせてくださるのです。(2テモテ3:15)

神学校で「釈義」というものを教わります。聖書に書いてあることを深く理解するためのいろいろな学問的手続きです。19世紀から20世紀にかけて、この分野の研究が進み、さまざまな学問的手続きが生まれました。ただ、正直言ってなかなかに難しく、私にとっては十分に理解できたとは言えないままに神学校を卒業してしまったところも少なからずありました。そんな私にとって大きな示唆をくださったのが、上智大学で教鞭を執っておられ、カトリック教会の司祭でもある雨宮慧という先生が提示しておられる釈義の方法でした。直接お目にかかることもなかなかできなかったので、半ば私淑するようにして雨宮先生の御著書を読み、ラジオでの放送を聞き、学びました。私の聖書の読み方に大きな影響を与えてくださった先生です。
あるとき、念願叶って雨宮先生に直接お目にかかる機会を得ました。お昼ご飯も一緒に頂きました。先生に質問し、答えて頂いた。その時に先生がおっしゃったのです。「私は、聖書には何と書いてあるかに関心があるのです。」神学者としては当たり前の言葉なのかもしれません。しかし私は深い感銘を受けました。本当にその通りと思います。
「この聖書が、キリスト・イエスに対する信仰を通して幸いに至る道を悟らせてくださるのです。」私たちに信仰を与え、幸いに導くのは、聖書の御言葉です。巷で聞こえるもっともらしい話とか、いい話ではない。聖書とその福音こそが私たちをキリストと出会わせ、信仰を与え、私たちに幸いを与える。その聖書の語る福音の言葉は今日も私たちに与えられています。神の語りかけに、日々耳を傾けていきましょう。

2026年3月15日の聖句

今週の聖句:
その麦が、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)

今日の聖句:
助けることも、つまずかせることもできる力が神にはあるのです。(歴代誌下25:8)
二羽のスズメは1アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。(マタイ10:29,31)

「アサリオン」は新約聖書の時代の通貨の単位で、「デナリオン」の1/16の価値だそうです。1デナリオンは労働者の一日分の賃金と言われています。1アサリオンで雀二羽。一日働いた労働者がそれを数羽買って、家族の食事にしていたのでしょう。高級食材ではありません。多くの人が買って飢えをしのぐことのできる庶民の食材です。そんな雀の一羽でさえ、神は御心に留めていてくださる。一羽の雀の命さえも神が支えておられる。ましてあなたがたはたくさんの雀よりも価値がある。ましてあなたのことを神がお忘れになることがあろうか。いや、ない。万が一にもない。だから恐れるな、と主イエスは言われます。
主は、私たちの恐れを見抜いておられます。自分の命の価値について神に信頼することができないところから生まれる恐れです。自分で自分の命を守らなければならないと思い込むところに生じる恐れです。私たちの命は、神が慈しんでくださるほどに値が高いのだと主は告げてくださっています。この神の愛を信じてほしい。それが主イエスが今日私たちに告げてくださっている福音です。

2026年3月14日土曜日

2026年3月14日の聖句

私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導きだした者である。(出エジプト記20:2)
愛するきょうだいたち、自由へとあなたがたは召されたのです。ただ、この自由を、身勝手であることの言い訳にはせず、愛をもって互いに仕えるようにしなさい。(ガラテヤ5:13)

我が家の子どもたちがもう少し小さかった頃、教育テレビを見ていたら「お天気自動販売機」という歌が流れていました。明日は晴れてほしい人がお天気自動販売機で晴れの天気を買う。別の人は雨になってほしい、他の人は雪、やっぱり晴れ・・・と、いろいろな人が自動販売機に注文するので、天使がめまぐるしく変わって混乱する、という愉快な歌です。コミカルで笑いを誘う歌ですが、恐ろしい歌です。お天気に限らず、神さまを自動販売機のように自分の注文を黙って聞いてくれる僕にしてはいないか、と考えさせられます。
神さまは自由なお方です。私たちの僕ではありません。しかししばしば私たちは神さまを自分の下僕のように扱います。自分の願いのとおりにしてくれて当然、そうではない神なんて信じるに値しない、と。そうやって神さまを自分に仕えさせるような礼拝や祈りを、聖書は「偶像崇拝」と呼びます。しかし神さまは偶像に貶められてはならないお方です。自由な方、聖なる方です。神さまは私たちが自分を正当化するための手段ではないし、私たちの便利に仕える奴隷ではないのです。
自由な神の僕であるから、私たちもまた自由な存在です。神の自由を映し出すところに人間の尊厳があるのだと思います。だから、私たちがもしも他人の自由を毀損するとしたら、それはあってはならないことなのではないでしょうか。私たちは自分に与えられた自由を身勝手の言い訳にしてはならない。自由な神の僕として、神が私にしてくださったように自由な愛に生きるために私たちは召されたのです。

2026年3月13日金曜日

2026年3月13日の聖句

人の歩みは主によって確かなものとされ、その人の道を主は喜ばれる。
彼は倒れても、打ち捨てられることはない。
主がその手を支えてくださる。(詩編37:23~24)
(ペトロは)「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして(ペトロを)捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。(マタイ14:30~31)

今日の主イエスの御言葉に触れ、とても反省させられます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主は言われます。私はすぐに「自分は信仰が薄いから」とか「自分の信仰は弱いから」とか、そのようなことを軽々しく言ってしまいがちです。しかし、そのような言い訳は主イエスにとっては愚にもつかないことなのであって、自分の信仰の弱さは何の言い訳にもなりません。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。主は、私が疑うことなくまっすぐに信じ、信頼することを求めておられます。言い訳しながら信じることを留保するのではなく、素直に信じることをお喜びくださるのではないでしょうか。
主は、その御手をもって私たちを支えてくださいます。必ず支えてくださいます。ペトロに手を伸ばしたように、主が私を必ず掴んでくださる。主なる神さまの約束を信じましょう。そして、平安でいましょう。キリストの手は私たちが考えているよりもずっと確かです。
今日も主イエス・キリストの霊があなたと共にいてくださり、あなたの行くのも帰るのも主が守ってくださいますように。主イエス・キリストの恵みと平安がありますように。祝福を祈ります。

2026年3月12日木曜日

2026年3月12日の聖句

彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。(イザヤ53:5)
イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。(ローマ4:25)

今日の御言葉は、神秘的な響きがあると思います。「彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」どういうことなのでしょうか。「彼が受けた打ち傷」が私たちを癒やすというのは、どういう意味なのでしょうか?
何よりも先ず、この「彼」は主イエス・キリストをおいて他にはいません。主イエスがお受けになった傷によって私たちは癒やされた。そのことを今日の新約の御言葉はこのように言っています。「イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。」
この御言葉がはっきりと言っているのは、主イエスが死なれたのは私たちの過ちのためであった、ということです。つまり、私たちが過ちを犯してイエスを殺したと言っています。私たちが主イエスを殺したのです。私が神の子を殺した。この事実が罪の正体です。私たちは自分のためであれば神の子でさえ殺してしまいます。ところがそのイエスを神は復活させられた。「(イエスは)私たちが義とされるために復活させられたのです」。死者の中から復活した真の王メシアとして、イエスは私たちを義としてくださる。私たちを神の前に立たせてくださる。
「彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」私たちは、神の子を殺した。このお方が受けた打ち傷によってでしか救われないほどに罪深い、ということではないでしょうか。私たちが傷を負わせ、殺したお方を神は復活させて私たちを義としてくださいました。私たちは、私たちが憎んで殺したお方の憐れみによってでなくては救われようがないのです。

2026年3月11日水曜日

2026年3月11日の聖句

私の魂はあなたの救いを待ち望んでいます。
あなたの言葉に希望を置いているのです。(詩編119:81)
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で霊どもを追い出し、病人を皆癒やされた。(マタイ8:16)

主イエス・キリストは悪霊に取りつかれた者や病人を受け入れ、あるいはご自分の方から彼ら・彼女らのところへと出かけて行かれました。主は、救いを待ち望む魂のところへ向かい、ご自分のもとに逃れる者を受け入れてくださいます。
「悪霊に取りつかれた」というのは、現代の言葉で言うならば、何らかの心の病、あるいは原因不明の病苦などを意味していたのかもしれません。いずれにしても「悪霊に取りつかれている」と言われた人々は厳しく差別されて共同体から排除されたり、非人間的な扱いを受けたりしていたようです。「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。」どうして夕方だったのでしょうか。はっきりしたことは分かりませんが、もしかしたら、できるだけ人目につきにくいように昼間を避けたのかもしれません。そうやって連れてこられた人々を、主は喜んで受け入れてくださいました。
キリストは社会が引いた境界線を大胆に越えていかれます。私たちの常識や社会の成り立ちを飛び越えてしまわれます。キリストは越境し、私たちに御言葉を語りかけます。私たちに自由と解放をもたらす福音の言葉を宣言なさるのです。私たちを縛り付ける悪霊を追い出し、私たちを抑圧する時代の精神と対決する言葉、将来を開く言葉を語り出される。私たちが今耳にしているのは、キリストの新しい世界を生み出す御言葉なのです。

2026年3月9日月曜日

2026年3月9日の聖句

天はあなたのもの、地もまたあなたのもの。
世界とそこに満ちるものは
あなたが礎を築いたもの。
北も南もあなたが創造された。(詩編89:12~13)
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全域に住まわせました。(使徒17:26)

主なる神さまの手は、大きいです。天も地も、そこにあるものもすべては神がお造りになりました。私たちが生きている地そのものを支えている礎もまた神が築かれたもの。途方もない話です。主は私たちの思いの及びもつかない途方もなさでもって私たちを支えてくださり、私たちを今日も生かしてくださっています。
「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全域に住まわせました。」私たちの命は神が下さったものです。最初の人間もまた神がお造りになりました。神が創造してくださったから人間は存在している。神が造った命が私のことをも生んだ。ここに私がいるということ自体が神の途方もない御業のなせることです。
果てしなく大きな、この宇宙のすべてをお造りになった方が私のことも造ってくださり、命を与え、今日も憶えていてくださる。驚くべきことです。主の憐れみに驚き、このお方をたたえて今日という日を生きていきたい、と願います。こんなに小さな私をも、世界の支配者が憶えていてくださるのです。

2026年3月16日の聖句

神よ、若いときからあなたが教えてくださったので 今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。(詩編71:17) (パウロのテモテへの手紙)あなたは子どもの頃から聖書に親しんできました。この聖書が、キリスト・イエスに対する信仰を通して幸いに至る道を悟らせてくださるのです。(2テモテ3...