2026年7月27日月曜日

2026年7月27日の聖句

主の目は正しき人に注がれ
その耳は彼らの叫びを聞く。(詩編34:16)
ピラトが裁判の席に着いているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」(マタイ27:19)

ピラトの妻の言葉が報告されています。「あの正しい人に関わらないでください。」もちろん、主イエスさまのことです。主イエスを裁く者である総督ピラト。ピラトの妻は、この人が正しい人であると知っていたようです。ピラトもそのことには気付いていました。イエスに罪を見いだすことはできなかった。ピラトの妻は、この人とこれ以上関わるのは危険だ、と気付きました。イエスが正しい人だからではないでしょうか。主イエスの正しさから目をそらしたかったのではないでしょうか。
主イエスの正しさが私にとって苦しいというのは、言葉を換えると、自分の罪を目の当たりにする痛みだと思います。主イエスのお姿を通してこそ、私たちは本当に自分の罪を知ることになります。主イエスが生きた愛に、信仰に、自分の姿が照らされるとき、私たちは自分の罪を知らされる。その意味では、ピラトの妻は主イエスの放つ光の強さを察知していたのではないか、と思います。
しかし神さまがご覧になるのは正しき人であり、主が耳をお傾けになるのは正しき人の叫びです。神の御目は主イエスにこそ注がれている。私たちの目はどこに向いているでしょうか?私たちは「あの正しい人」を見つめているでしょうか?このお方は、神が私たちにもたらしてくださった福音そのものです。このお方の正しさによって私たちは救われたのです。

2026年7月26日の聖句

今週の聖句:
光の子として歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあるからです。(エフェソ5:8~9)

今日の聖句:
ヨセフは(兄弟たちに)言った。「途中で争ったりしないでください。」(創世記45:24)
平和を造る人々は、幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

主イエスは「平和を造る人々」と言われます。すごい言葉です。「平和に過ごす人々」とか「争わない人々」というのであれば、私たちにも言えるかもしれません。しかし主イエスはもっと積極的でです。「平和を造る人々」です。積極的に平和を造る、と主は言われます。
今日の旧約に登場するヨセフという人は、ヘブライ人にしてエジプトの大臣になった人物です。ファラオの次の権力者です。彼はかつて自分を捨てた10人の兄たちに再会し、和解し、故郷に待つ父のもとへと送り出しました。そのときに兄たちに語りかけたのがこの言葉です。「途中で争ったりしないでください。」兄たちにしてみれば、ヨセフとの再会はかつての自分たちがしでかしたことが明るみに出た出来事でしたし、互いに責任をなすりつけ合って争いに発展してしまいかねない状況であったと思います。ヨセフはそれを見越して、故国への帰り道の途上で互いに争い合わないでください、と言いました。
神さまは私たちに、お互い同士が平和の関係で結ばれることを望んでおられる。平和、それは神さまが願っておられる関係です。私たちは争い合うのではなく平和に過ごし、憎しみ合うのではなく愛し合うように、神さまに造られました。平和を造る人。それは、誰よりも主イエスさま御自身です。キリストに倣うものとしていきたい。それが私たちの願いです。

2026年7月25日土曜日

2026年7月25日の聖句

みなしごの父となり
やもめの裁き手となるのは
聖なる住まいにいます神。
神は孤独な人を家に住ませ
捕らわれ人を幸福へと導き出される。(詩編68:6~7)
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。(2コリント1:3)

私たちの神は慈しみ深いお方。
これが、今日私たちが耳にしている福音、良き知らせです。神は慈しみ深く、慰めに満ちておられる。私たちはこのお方を信じ、依り頼んで生きることができる。だから、この神をほめたたえます。神を賛美します。慈しみと慰めに満ちたお方を。
今日の旧約聖書の詩編はとても印象深い言葉で神の慈しみを言い表しています。「みなしごの父となり、やもめの裁き手となる」。私たちの中で一番悲しんでいる人、生きるに困っている人、慈しみや慰めを必要としている人のための父になってくださる。正義を必要とし、不当にも苦しめられ、弱いために蔑ろにされている人のための裁き手になってくださる。
そのお方は「聖なる住まいにいます神」です。この聖なる住まいは、私たちから遠く離れた場所にあるのではない。御簾の向こうで私たちと関わりを持とうとしない、ということではない。「神は孤独な人を家に住まわせ、捕らわれ人を幸福へと導き出される」のです。聖なる住まいに住む神は私たちに関わってくださいます。私たちの間に住んでいてくださるのです。
私たちの今日生きているその現場に神はおられます。私たちの悲しみと共におられ、私たちの蒙る不正義を神ご自身が目の当たりにし、私たちのための裁き手として立ってくださるお方。慈しみに満ちた神はあなたの今日一日の生活の中、共にいてくださるのです。

2026年7月24日金曜日

2026年7月24日の聖句

神は偉大なことをなさり、究め難く
その驚くべき業は数えきれない。(ヨブ9:10)
主イエスを復活させた方が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。(2コリント4:14)

今日の新約の御言葉ですが、少し細かく見ていくとこのようなことになるのではないか、と思います。
「主イエスを復活させた方」、つまり父なる神が「イエスと共に私たちをも復活させ」てくださった。この神が「あなたがたと共に」、私たちを「御前に立たせてくださる」。私はそのことを知っているし、信じている。つまり、後半の文章には「私たちを」という目的語が省略されていると考えるのが自然であると思うのです。
私がこの御言葉を読んで感じたのは、こういうことです。即ち、復活というと、一見すると極めて個人的な事柄に思えます。「私の肉体が復活する」というのは他人ではなく「この私」の話ですし、この体は他の人のものではなく私のものです。しかし、ここを読むと、あまり個人主義的な響きがないように思うのです。神は私たちを主イエスと共に復活させ、私たちをあなたがたと共に御前に立たせてくださる。復活は、主イエスと共にあることであり、他の信仰の仲間と共にあることでもあります。個人的に神の前に立つのではない。復活した者たちの共同体がある。その先頭にはイエスがおられ、私たちは神の前に共に立ちます。
今日の旧約では「神は偉大なことをなさり、究め難く、その驚くべき業は数えきれない」と言っています。このような賛美はキリスト者の共同体が献げる賛美です。私たちは独りぼっちで神を礼拝するのではない。共に神をたたえる共同体の一員として神の前にいるのです。新しい共同体の建設。そこに神の偉大な御業があるのではないでしょうか。

2026年7月23日木曜日

2026年7月23日の聖句

私は閉じ込められて、逃れることができません。
目は苦しみのあまり衰えました。
主よ、私はあなたを日ごとに呼び求めます。(詩編88:9~10)
すると、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに置いてもらっていたのである。(使徒3:2)

生まれつき足の不自由な男が神殿の「美しい門」におかれていました。神殿に来る人に物乞いをするためです。「置かれていた」という聖書の表現が、この人の悲しさを訴えかけているようです。まるで物のようにそこに置かれていた。彼には何らかの仕事をすることもできなかったのでしょう。彼に家族はいたのでしょうか。彼をこの場所まで運んできた人が家族であったのであれ、あるいは他の人であれ、恐らくその存在を厄介に思っていたのではないでしょうか。そんな彼の境遇が「置いてもらった」という表現に表れているように思います。彼の最後の生きるすべ、それが「美しい門」に置かれて物乞いをすることだったのではないかと思うのです。
まさに今日の旧約の祈りのとおりです。「私は閉じ込められて、逃れることができません。目は苦しみのあまり衰えました。主よ、私はあなたを日ごとに呼び求めます。」
そんな彼のところにペトロとヨハネがやって来ました。そこから新しいドラマが始まります。福音を携えてやって来た人たちがイエス・キリストの名による福音を宣言するとき、新しい出来事が始まります。閉じ込められ、逃れることができず、苦しみのあまりに目も衰えた一人の人を救う神の言葉が響いたのです。
今日私たちが耳にする福音も、彼を生かしたのと同じ福音です。同じイエス・キリストの名による福音があなたを生かしています。あなたも、イエス・キリストの名によって立つように命じられている。あなたも立てる。あなたもキリストの僕として生きることができるのです。

2026年7月22日水曜日

2026年7月22日の聖句

すると主は(モーセに)言われた。「あなたと共にいる民は皆、主の業を見るであろう。」(出エジプト記34:10)
群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。(マタイ15:31)

主の業を見るであろう、と言われています。私たちは、目を開いてそれをしっかりと見ているでしょうか?今日の新約の御言葉にはこのように書かれています。「群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。」主イエスの御業を目撃した人たちは驚きました。そして神を崇めました。こういうところを読むと、私たちは思ってしまいます。「私たちの間では、口の利けない人がものを言うようになったり、手の不自由な人が治ったり、足の不自由な人が歩いたり、目の見えない人が見えるようになったりしていない」と。私には神さまの業なんて見えない。
自分を満足させる証拠を見せてほしいという次元で考えていると、神さまの御業は見えなくなってしまうのだと思います。神さまは今何をしておられるのか。主はこの地にどのような御業をしておられるのか。そのことを祈りをもって、そしてへりくだって静かに見極め、受け止める。そういう信仰のまなざしが必要なのではないでしょうか。主は今何をしておられるのか。そのことを今日問うていきましょう。

2026年7月21日火曜日

2026年7月21日の聖句

エルサレムと共に喜び祝い、彼女のことで喜び踊れ
彼女を愛するすべての人よ。
彼女と共に大いに喜べ
彼女のために嘆いていたすべての人よ。(イザヤ66:10)
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。(ルカ19:37)

エルサレム。かつてダビデが都を築き、ソロモンが神を礼拝するための神殿を献げ、イスラエルの信仰の中心であった場所です。しかし同時に、傲慢な王政の中心地でもあり、豊かさや軍事力で国作りをしようという人間の思惑がうごめいていた場所でもあります。そして、やがて裁かれ、すべてが失われた都でもあります。
そのエルサレムについて、預言者は言います。「エルサレムと共に喜び祝い、彼女のことで喜び踊れ、彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に大いに喜べ、彼女のために嘆いていたすべての人よ。」神さまは人間の歴史の中で働いてくださいます。エルサレムという一つの都も、そういう神さまのお取り扱いを受けてきました。
私たちも同じです。今、この世界で起きていることも神さまの御支配の中にあります。神さまの前に私たちの振る舞いはいかなる意味を持っているのか?私たちの富や力に頼る傲慢な社会を神はどのようにご覧になっているのか?私たち人間はそのことを畏れ、へりくだってそのことを考え直すべきであろうと思います。
今日の新約の御言葉で、主イエスはエルサレムの都の郊外のオリーブ山に来られました。これからいよいよエルサレムにお入りになる。神の民の様々な歴史が積み重ねられてきたエルサレムに主が来られます。私たちの生きるその「現場」に主イエスは来ておられるのです。

2026年7月27日の聖句

主の目は正しき人に注がれ その耳は彼らの叫びを聞く。(詩編34:16) ピラトが裁判の席に着いているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」(マタイ27:19) ピラトの妻...