2026年8月24日月曜日

2026年8月24日の聖句

(神の言葉)これから私が新しいことを聞かせよう
あなたの知らない秘められたことを。(イザヤ48:6)
(アテネの人々は)死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。(使徒17:32)

パウロがアテネを訪れて伝道したときのことです。最初、アテネの人々はパウロの言葉に喜んで耳を傾けました。珍しい外国の神の話をしてくれると、興味深くその話を聞いたのです。ところがパウロが主イエスの復活の話をし始めると、状況が突然一変してしまいます。「死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」彼らは誰も復活の言葉に耳を傾けることなく、それどころか嘲笑してどこかに行ってしまいました。アテネの人たちにとっては「死者の復活」などは馬鹿げた与太話に過ぎなかったのです。
しかしそれは、アテネにいたギリシア人だけのことではないでしょう。私たちの社会でだって、死者の復活などは馬鹿げた与太話です。しかしそこにこそ、私たちを救う神の福音はあるのです。
神さまの福音は私たちにはまったく新しい話、私たちの知らなかった話、私たちには予期することのできない話です。だから、私たちの常識からしたら馬鹿げた与太話にしかならないのではないでしょうか。しかし、そこにこそ神の知恵があり、神の力がある。神は私たちを想っても見なかった福音によって救ってくださるのです。

2026年8月23日日曜日

2026年8月23日の聖句

今週の聖句:
傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消すことがない。(イザヤ書42:3)

今日の聖句:
主が彼らに乾いた地を行かせるときも
彼らは渇かなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させた。(イザヤ48:21)
よく言っておく。あなたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マルコ9:41)

「岩から水を流れ出させた」というのは、私たちからしたら全く不可能なことです。乾いた地、荒れ野の岩から水を流れ出させる。私たちには思いもつかないし、私たちにはできないことです。
しかし、主なる神さまはその不可能なことをしてくださいます。私私たちのために想像も付かない御業を行ってくださいます。私たちを渇かせることなく、私たちを生かすために、神が御業を進めてくださる。
主は、私たちに水を与えるために、共に生きる隣人を私たちに与えてくださいました。隣人の愛の手を通して、神は私たちが生きるための水を与えてくださいます。「よく言っておく。あなたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」今日、私たちがこの世界で生きることができるのは、そのようにして私たちのための神の恵みの御業を担ってくれる隣人が与えられているからです。

2026年8月22日土曜日

2026年8月22日の聖句

私の舌はあなたの仰せを歌います。
あなたの戒めはすべて正しい。(詩編119:172)
同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあってはなりません。(ヤコブ3:10)

私たちの口から出る言葉、私たちの舌に上ってくる言葉が神を賛美する言葉でありますように。そして、主ご自身の言葉が私たちの歌でありますように。「私の舌はあなたの仰せを歌います。」私たちも、神の言葉を歌って神をほめたたえる者でありたい、と願います。
神の言葉は、私たちに新しい将来を開く言葉です。私たちの狭くて浅い知恵では計り知れない、神が造り出す新しい出来事を私たちに幻によって見せる言葉です。だから、そのような言葉は「歌」によってでしか私たちが知ることのできないのです。私たちの知恵に収まる散文によって説明することはできない。歌によって、賛美によってでしか私たちには口にすることのできない言葉です。
大きな神さまを仰ぎ、神さまの自由な御業に期待をし、ただこのお方を賛美して待ち望む。そういう祈りの内に今日の日を過ごしていきたい、と願います。

2026年8月21日金曜日

2026年8月21日の聖句

主に贖い出された者たちが帰って来る。
歓声を上げながらシオンに入る。
その頭上にとこしえの喜びを抱きつつ。
喜びと楽しみが彼らに追いつき
悲しみと呻きは逃げ去る。(イザヤ51:11)
あなたがたは、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたの信仰の目標である魂の救いを得ているからです。(1ペトロ1:8~9)

今日の旧約の御言葉は、今現に悲しんでいる人への言葉です。故国を失い、遠くバビロンの地に捕囚として連れ去られた者たち。しかも、それからすでに何十年も経過している。捕囚地で生まれた二世や三世の時代に変わっていく。世界史的な政情の激変によって捕囚から解放されるという知らせはもたらされたものの、故郷には何千キロという距離があり、その間には砂漠が広がっています。そういう者たちに対して「歓声を上げながらシオンに入る」という途方もない幻を見せる言葉が今日の御言葉です。
神さまの救いの御業は、私たちからしたら途方もないものです。私たちの常識からしたら絵空事です。
今は教会が加速度的に弱体化しています。いい話なんて殆ど聞こえてきません。人が少ない、増して若い人がいない、奉仕者が不足している、誰も教会なんて見向きもしない・・・。そのように「もう無理だ」という理由を挙げればいくらでもあります。しかし、預言者は言います。「喜びと楽しみが彼らに追いつき」と。「彼ら」つまり神の民の方が先に進むのです。神の見せてくださる幻、この世界の救いの幻を追い求めて私たちが歩むとき、喜びや楽しみの方が後になって追いついてくる。民の歩みはその先を進みます。神は、必ず自由と解放の御業、私たちを一つの民とする救いの御業を実現してくださる。それを信じて、生きよと主は私たちに言われます。

2026年8月20日木曜日

2026年8月20日の聖句

わが住まいは彼らと共にあり、私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。(エゼキエル37:27)
言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。(ヨハネ1:12)

主は私たちの神となり、私たちをご自身の民としてくださいます。私たちは神の民、神の国の国民、神の御支配によって生きる者たちです。それは、神さまのお住まいが私たちの間にあるということだ、と聖書は言います。
夏の教会の行事で、ボーイスカウトやガールスカウトのキャンプが行われています。私は今年いくつかのキャンプに参加しています。スカウトたちと寝食を共にします。そうでないと知ることのできない子どもたちの様子が見えてきます。同じ場所に寝起きして生活すると、お互いが近くなる。大雨もトラブルも一緒に経験します。まして神様は、ほんの数泊のキャンプを一緒にしたというのではなく、住まいそのものを私たちの間に定めてくださいました。一緒に泊まったのではなく、一緒に住んでくださいました。私たちが生きている生活の場所に神さまは来てくださり、そこに留まって、私たちがいる場所をご自分の住居にしてくださった、というのです。
この神をあなたは受け入れるのか、と聖書は今日私たちに問いかけています。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。」神の言であるイエス・キリストは、私たちの間に宿ったこのお方を受け入れた者を神の子としてくださいます。私たちの間に住んでいてくださるこのお方を、私たちも愛し、敬い、信じていく。私たちは神の住まいで生きる神の子にしていただいたのです。

2026年8月19日水曜日

2026年8月19日の聖句

主の日が来る、それは近い。(ヨエル2:1)
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。(マタイ24:44)

主の日、それは主が再び来られてすべてのものを裁かれる日です。私たちの行いも、私たちも社会も、そのすべてが良きにつけ悪しきにつけ神の裁きを受けるべき日。やがて来たる完成の日、すべてが神の御心によって問いに付され、その答を求められる日です。
聖書は「主の日が来る、それは近い」と言います。私たちの営みは、ただ人間の思惑や偶然だけが積み重なっていくものではない。あるいはただ強い者がいい思いをしたり、たまたま成功した者が正義を名乗って済むのでもない。主の日が来るというのは、神の義だけが永遠の基準であって私たちの営みは相対的な価値しか持たない、ということです。この世での「成功者」や「強者」も、そうではない者と共に神の前で裁かれるときが来るのです。
「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」と主イエスは言われます。すべてを裁くために、キリストが再び来られる。キリストを信じるというのは、このお方が裁き主として来られることを信じ、この方を迎える準備して生きるということです。私たちは、世の中が準備した勝者の都合に合わせた基準に「然り」とは言いません。この世の力ある者たちが勝手に決めた、人間の貪欲を正当化する価値に賛成しません。再び来られるキリストの前で本当に価値のあること、キリストが私たちに教えてくださった貴いものを求めて生きていきます。私たちは、必ず来る主の日に備えて生きていく。
キリストを待ち望む信仰を、今日、新たにしましょう。

2026年8月18日火曜日

2026年8月18日の聖句

主なる神は私の耳を開かれた。
私は逆らわず、退かなかった。(イザヤ50:5)
マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。(ルカ10:39)

今日の旧約の御言葉の直前、4節にこのように書かれています。
「主なる神は、弟子としての舌を私に与えた、疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように。」
主は私たちに舌を与え、耳を開かれます。私たちが福音の言葉を語るための舌を。私たちが神の言葉に聞くための耳を。私たちは、福音の言葉、神の言葉を慕い求めます。主よ、語るための舌を与えてください、聞くための耳を開いてください。そう祈りつつ、私たちは御言葉に心を集めます。
マリアという一人の主イエスの弟子が、主の足元でイエスのお語りになる言葉に耳を傾けています。主が開いてくださった耳で、一心にキリストの言葉に聞き入っている。主の弟子としての私たちのモデルです。マリアのようでありたいのです。
「主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。」
神が開いてくださった耳で聞く御言葉。逆らわず、退かず、御言葉に従う。これがキリスト者の姿です。私たちの耳を神が開いてくださり、私たちは御言葉に聞き、御言葉に従う。そうやって神に従う私たちを神は必ず助けてくださいます。弟子として生きる者を主はお見捨てにならない。そのことに信頼をして、キリストに従って今日の日を生きていきたいと願います。

2026年8月24日の聖句

(神の言葉)これから私が新しいことを聞かせよう あなたの知らない秘められたことを。(イザヤ48:6) (アテネの人々は)死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。(使徒17:32) パ...