2026年9月1日火曜日

2026年9月1日の聖句

今月の聖句:
両手を労苦で満たして風を追うよりも
片手を安らぎで満たすほうが幸い。(コヘレト4:6)

今日の聖句:
あなたの贖い主
あなたを母の胎にいる時から形づくられた方
主はこう言われる。
私は主、万物を造った者。
独りで天を広げ、自ら地を踏み広げた者。(イザヤ44:24)
どんな家でも誰かが建てるものですが、万物を建てられたのは神なのです。(ヘブライ3:4)

今日は9月1日、かつて関東大震災が起こった日です。大地震と大火災の犠牲者だけではなく、不安と恐怖が引き起こした流言・デマによってたくさんの朝鮮人が虐殺されました。地震ではなく人の手で殺された方もいることを、私たちは記憶し続けなければならないと思います。
今日の御言葉は、両方とも、神さまがこの天地をお造りになった方だという信仰を告白しています。あなたを母の胎にいるときから形づくられた方は、万物をお造りになった方。御自ら天を広げ、地を踏み広げたお方。家には家を建てた大工がいるように、この世界にはこれをお造りになった創造主がおられる。
神さまの御業は私たちにはあまりにも大きく、果てしないものです。この夏は世界中で水害も多く、地震もありました。私たちはどのようなときにも、この世界をお造りになり、治めておられる神の手を信じたい。信じて、このお方を信頼したい。そして、どのようなときにも罪を犯さずに生きていきたいと願います。神を信じ、信頼し、そうであるからこそ叫び、訴え、問うことができます。そうやって神に信仰をぶつけ、そして隣人と共に生きていきたい。隣人を愛したい。疑ったり憎んだり、浮ついた言葉に心を奪われ不安のために他人を傷つけるのではなく、「共に生きる」という困難な道を選び取りたいのです。神が造ったこの大きな世界の中で。

2026年8月31日月曜日

2026年8月31日の聖句

(ヤコブによる神への賛美)「私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」(創世記28:22)
喜んで与える人を神は愛してくださいます。(2コリント9:7)

カンバーランド長老教会の信仰告白ではこのように告白しています。
「神が人類に委ねたすべてのものを、ふさわしく定期的にささげることは献身の行為であり恵みの手段である。教会に対する、また教会を通してのささげものは、すべての信仰者の特権である。ささげものに対する聖書の指針である十一献金は信仰の冒険であり、豊かに報いられる業である。十一献金者は、神の恵みを経験するだけでなく分かち合う恵みをも経験するのである。」
この告白の根拠となる聖書の御言葉の一つが、今日の旧約の御言葉です。「私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」
この言葉をヤコブが口にしたのは、ベテルという場所でのことでした。ヤコブは父を欺き兄エサウの怒りを買い、家にいられなくなってしまった。母の実家を目指して荒れ野を旅したとき、石を枕に野宿をしました。その夜ヤコブは先端が天にまで達する階段があって天使が上ったり降ったりしているのを夢に見ました。その夢を通して、ヤコブは主がここにもいてくださることを知りました。ヤコブは神を賛美して言ったのです。「私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」
ヤコブのささげ物は、誰が私を捨てても私を見捨てないでいてくださる神の愛への応答です。父をも兄をも裏切り、家にいられなくなってしまうような私をも神が憐れんでくださっている事への感謝の表れです。神の恵みがまずあって、それに応えるヤコブの一途な思いです。
私たちは、神の恵みをどのように味わっているでしょうか?「まだ足りない」と不満を抱いて生きるのか、あるいはこのような私への神の憐れみに感謝を献げるのか?静かに祈り、受け止めなおしたいと思うのです。

2026年8月30日日曜日

2026年8月30日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。(マタイ25:40)

今日の聖句:
主の使いがエリヤに触れ、「起きて食べなさい。この道のりは耐えがたいほど長いのだから」と言った。(王上19:7)
(嵐の中でのパウロの言葉)「どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」(使徒27:34)

今日の御言葉はどちらも絶望している人への言葉です。預言者エリヤはイスラエルの国を支配していた恐ろしい王妃イゼベルに命を狙われていました。逃避行に疲れたエリヤは神さまに言っています。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。」
嵐の中でパウロが語りかけたのは、パウロが囚人として護送されていた船が暴風で難船したときに一緒にその船にいた人々です。すさまじい暴風のために船は破損し、嵐の中で生きる望みは絶たれていました。人々は14日間も不安に過ごし、殆ど食事することができずにいたのです。
主の使いはエリヤに「起きて食べなさい」と言います。パウロは船の人々に「どうぞ何か食べてください」と言います。絶望して生きる望みを失い、食べる気力を失った人に、神さまは「食べなさい」と語りかけてくださるお方です。それは、神さまが私たちの命を気にかけていてくださる、ということではないでしょうか。
私たちの進む道のりは、時に、私たちには耐えがたく長いものになります。どうなるか見通しが立たず、不安で、迷ってしまう道になってしまいます。その道を共に歩んでくださるお方がおられます。私たちと同じ、お腹が減る肉体を持った方です。食べなければ体力がなくなり、どんどん弱ってしまう肉体。食欲がなく、食べても美味しいと感じられず、心の弱さと肉体の弱さが直結していることを誰よりもよくご存じのお方です。
今日私たちがつく食卓に、そのお方は共にいてくださいます。私たちの箸の上げ下ろしも、主イエス・キリストの御手の中にあるのです。

2026年8月29日土曜日

2026年8月29日の聖句

私は苦しむ者、貧しい者。
わが主が顧みてくださるように。(詩編40:18)
(パウロの言葉)私は貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(フィリピ4:12~13)

使徒パウロは本当にこの言葉のとおりの人物で、そうであるからこそ信仰が血肉に宿っていたのだなと思います。あるときは貧しくあるいは豊かに暮らし、満腹することも飢えることも知っていた。有り余ることも乏しいことも、他のありとあらゆる境遇を生き、そしてキリストにより頼んで対処しました。パウロは本当にすごい信仰者だと思います。私は、すぐに「あれが足りない」「これがダメだ」と不満を持ったり、周囲の人や環境のせいにしてしまいがちです。ところがパウロは、主イエス・キリストを信じる信仰によって、自分の境遇を受け止めなおし、神さまに依り頼んでいたのではないでしょうか。
もしも「私は苦しむ者、貧しい者。わが主が顧みてくださるように」という詩編のとおりに、主が顧みてくださるということだけに私たちの思いが向くのなら、それはとても幸いなことです。ルカによる福音書第6章を見ると、主ご自身が「貧しい人々は、幸いである」「今飢えている人は、幸いである」「今泣いている人々は、幸いである」とおっしゃっています。キリストが神の国を来たらせ、キリストが満たし、キリストが笑いを与えてくださるからです。
私たちの生活の一つひとつのことを、豊かさや貧しさ、今日のご飯のことも含めて、そのすべてをキリストに委ねましょう。キリストの下さる神の国を待ち望み、キリストが満たしてくださることを待ち望み、キリストが私にも与えてくださる笑みをこそ求めましょう。キリストこそ私たちのただおひとりの救い主です。

2026年8月28日金曜日

2026年8月28日の聖句

主よ、私に代わって争い、私を贖い
あなたの仰せのとおりに私を生かしてください。(詩編119:154)
(イエスの言葉)「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」その時、女は治った。(マタイ9:22)

今日与えられている二つの御言葉ですが、旧約と新約とが少し矛盾しているように感じられます。旧約のほうでは「主よ、私に代わって争い」と言っています。主が私に代わってくださって、主ご自身が争ってくださいますように、と言っている。ところが新約のほうでは、主イエスが「あなたの信仰があなたを治した」とおっしゃっています。ここでは「あなたの信仰が」ということで、私たちの側の信仰がものを言っているようにも見えます。そうすると、旧約の御言葉とは矛盾しているように感じられます。どういうことなのでしょうか?
主イエスに「娘よ」と呼ばれているこの女性ですが、マタイによる福音書を開いてみると12年間も出血の止まらない病(つまり婦人病と思われますが)、に苦しんできた人でした。マタイが伝えているところによると、彼女は後ろから主イエスに近寄り、その衣にでも触れれば治していただけると信じて手を伸ばした。主イエスはそんな彼女をご覧になって「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した」と言ってくださった。つまり、このお方には私を癒やす力があると信じたところに彼女の信仰があった、ということになると思います。
そうすると、私たちの「信仰」というのは、私たちの信じる力のことではないということではないでしょうか。私たちは自分の信じる力や敬虔な生き方によって自分を救うのではない。私たちの祈りの力強さが私たちを助けるのではない。主イエスこそが私を救ってくださるお方だと信じて、主に頼り切ること。それこそが私たちの信仰です。
そうすると、今日の新約は旧約とぴったりと重なっていることに気付きます。主ご自身が私たちのために、私たちに代わって戦ってくださる。そのお方だけが私を救ってくださるまことの神。私たちはこのお方を信じます。

2026年8月27日木曜日

2026年8月27日の聖句

私の民を良いもので飽かせるーー主の仰せ。(エレミヤ31:14)
私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(フィリピ4:19)

主イエス・キリストは私たちに教えてくださいました。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈れ、と。私たちは自分のご飯のため、自分たちが食っていくために祈っていいし、むしろそういう祈りをするようにと主ご自身がお教えくださったのです。糧のための祈りは決して低俗な祈りではありません。私たちにとっては大事でも神さまから見たらどうでもいいような祈り、ではないのです。
「私の民を良いもので飽かせる」と主は約束してくださいました。必要に事欠き、食べるに困る者のための糧を本当に心配して準備してくださるのは、誰よりも主なる神さまです。思えば、私たちは、自分の糧以外のものはあまり本気で心配しないのかもしれません。ちょっと気になったり、時に大丈夫かなと思ったりはします。しかし、地球のどこかにいる、私たちがまだ会ったことのない人の今日のご飯の心配はあまり心に掛けていないのではないでしょうか。ところが神さまは、ご自分の民すべての者のために良いものを準備し、それによって飽きるほどに豊かに与えよう、と言われるのです。
私たちの家の冷蔵庫でいつの間にか腐ってしまった野菜は、今日食べるものがない人たちのためのものでした。私たちが食べないままに残してしまったおかずは、本当は今飢えている人たちのためのものでした。私たちは、すべての人のために良いものを準備してくださる神さまの手となり、足となりたい。分け合うことで神の愛を少しでも実現したい。キリストは私たちに豊かに与えてくださいました。ご自身の栄光の富に応じて与えてくださいました。その豊かさを映す鏡として生き、また祈りたいのです。「<我ら>の日用の糧を、今日も与えたまえ!」私もそのような者にならせてください、と祈ります。

2026年8月26日水曜日

2026年8月26日の聖句

(主の言葉)彼は私を慕う。
私は彼を助け出そう。(詩編91:14)
(イエスの言葉)私がお願いするのは、彼らを世から取りさることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:15)

使徒パウロがフィリピの信徒への手紙の中でこのようなことを言っています。「私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、この方がはるかに望ましい。しかし、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにはもっと必要です。」世を去りたい、そしてキリストと共にいたい。この思いと、生きてあなたたちのために働く必要があるという二つの事の間で自分は板挟みになっている、とパウロは言います。どちらを選んだらいいのかパウロ自身にも分からないのです。
今日の新約の聖句、主イエスの御言葉を読んで、パウロのこの葛藤を思い出しました。パウロほど信仰に根ざした思いでなくても、私たちにも、世から取り去られてしまいたいと願うことはあるかもしれません。
私たちには世で苦難があります。あまりにも苦しくて、もう十分だ、もうたくさんだ、もう終わりにしたいとしか考えられないことがある。主イエスはそのようなときに私たちを世から取り去ってはくださいません。「もう十分だ」と私が思っても、神さまのタイミングは違っている。しかし、キリストはそんな私たちを悪い者から守ってくださいます。この世にあって、キリストご自身が私を守ってくださる。その約束は確かです。
あなたには神がお与えになったこの世での使命がある。隣人に傾ける愛、あるいはこの地にあって献げるべき祈り。キリストはご自分の使者として、この世へと今日あなたを遣わしておられるのです。大いなる守りの中で!

2026年9月1日の聖句

今月の聖句: 両手を労苦で満たして風を追うよりも 片手を安らぎで満たすほうが幸い。(コヘレト4:6) 今日の聖句: あなたの贖い主 あなたを母の胎にいる時から形づくられた方 主はこう言われる。 私は主、万物を造った者。 独りで天を広げ、自ら地を...