2026年6月10日水曜日

2026年6月10日の聖句

さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。(イザヤ55:1)
(イエスの言葉)「私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)

もうすぐ夏になります。暑くなると喉の渇きを自覚しやすいですが、意外と冬でも体は渇いているそうです。「喉が渇いた」と思うよりも前にしっかりと水分を摂ることが大切だ、と聞いたことがあります。魂の渇きも、もしかしたら同じなのかもしれません。渇きを自覚するよりも前に、既に私たちの魂は渇いてしまっているのかもしれない。そして、その渇きは私たちの知らないところで魂を損なっているかもしれません。
「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。」渇いている者、です。渇きを自覚している人ではない。自分でも知らないうちに渇いている人も含めて、誰のことをも、主は招いてくださっています。「私を信じる者は決して渇くことがない」と言われる方は、ご自身が生ける水の泉として私たちに命の水を飲ませてくださいます。
もう既に、今、私たちの魂は渇いている。そんな私たちの魂を癒やしてくださるのはこの方です。夏でも冬でも、普通の水を飲む者はまた再び渇きます。何度もその水を汲まなければならない。しかし、キリストという命の泉から飲む者には永遠の命に至る水が湧き出ます。主イエス・キリストこそ私たちの救いなのです。

2026年6月9日火曜日

2026年6月9日の聖句

ヤコブは旅を続けたが、その時、神の使いたちが現れた。(創世記32:2)
(パウロの言葉)「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」(使徒27:23~24)

パウロはイエスこそキリスト、私たちが待ち望んでいた真の王であり神の子だと宣教しました。そのために捕らえられた。しかしパウロはローマの市民権を持っていたので皇帝に上訴し、ローマの都に護送されることになります。海路で連行されましたが、その途上で暴風に襲われ、一行は難船してしまいました。その様子を聖書は「幾日もの間、太陽も星も見えず、嵐が激しく吹きすさぶので、ついに助かる見込みも全く絶たれてしまった」(20節)と描写しています。
その場にいた全員が絶望し、諦め、死を待つだけだと思っていたときに一人パウロだけが希望をもっていました。囚人パウロは自分を護送する兵士や、同じ船に乗り合わせたたくさんの人たちに向かって言います。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち誰一人として命を失う者はないのです。」そしてそれに続けて口にしたのが、今日の御言葉です。「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」
パウロの希望は神に根ざしています。だから、どんな状況にあっても希望を抱き続けています。この船の中で囚人パウロがいちばん自由です。死の力に捕らわれずに希望を抱き、それどころか人々に希望を与える言葉を語り続けました。どんなときにも絶望しなかった。私たちは自分の考える状況の厳しさや、自分を取り囲む環境がどんなにひどいのかということ以上に、今ここで神が何をしておられるのかということを信仰をもって受け止めなおしたいのです。神さまは新しい出来事をお始めになっている。神さまは希望を生み出す御業を今日も進めておられる。そのことを信じて、キリストを待ち望みましょう。そしてこの希望の言葉を周囲の人々に証ししましょう。

2026年6月8日月曜日

2026年6月8日の聖句

しかし、私は言った。「私はいたずらに労苦し
意味もなく、空しく力を使い果たしました。
それでも、私の公正は主と共にあり
私の報酬は私の神と共にあります。」(イザヤ書49:4)
シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(ルカ5:5)

「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした」とペトロは言います。ガリラヤ湖の漁師ペトロは、その夜の漁では何も捕れなかった。一晩の労苦はまったくの徒労でした。
今も昔も、働いていれば珍しい話ではないでしょう。何をしても成果が上がらず、何をしても上手くいかない。誰でも経験したことがあるのではないでしょうか。ペトロもそうでした。まさに「私はいたずらに労苦し、意味もなく、空しく力を使い果たしました」という言葉しか出て来ない夜でした。私たちもよく知っている空しさです。
それでも、私たちは空しさがただ空しさだけで終わるのではないことを知っています。「それでも、私の公正は主と共にあり、私の報酬は私の神と共にあります」と聖書は言います。私はこの「それでも」という言葉が好きです。自分の労苦も費やした力も空しく意味がない。そう思われるときにそれでも主の公正と正義を私は信じる。この「それでも」が信仰なのではないでしょうか。
私たちは自分の力(あるいは無力)や状況判断よりも、キリストとその御言葉を信じます。キリストが私たちに「網を降ろせ」とおっしゃっている。キリストが私たちに新しい出来事を始めてくださっている。私たちはキリストのお言葉ですから、ただそれを信じて従う。それが私たちの信仰の道です。

2026年6月7日日曜日

2026年6月7日の聖句

今週の聖句:
あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。(ルカ10:16)

今日の聖句:
主よ、たとえ私が苦難の中を歩んでも
あなたは私を救ってくださる。(詩編138:7)
(イエスの言葉)「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

キリスト教の人は弱い、と言われることがあります。慰めとか、神さまに頼るとか、そんなのは弱い人間が言うことだ、と。そうかもしれません。しかし、生きていれば努力や根性ではどうにもならないことが必ず起きます。
「あなたがたには世で苦難がある」と主イエスはおっしゃっています。これはヨハネによる福音書が伝えている言葉です。この福音書を書いた人、あるいは最初に読んだ人たちはどういう状況の中でこの言葉を伝え、また聴いたのか?この福音書は紀元90年頃に書かれたと考えられています。この時代、既にエルサレムの神殿はなくなっていました。ユダヤがローマに反逆し、戦争が起こり、逆に滅ぼされてしまった。彼らの信仰の拠り所であった神殿も崩壊し、社会生活はめちゃくちゃな状態でした。国民は死に、あるいは散り散りバラバラになっていました。そんな中、キリスト者たちは各地のユダヤ人コミュニティからキリスト信仰のゆえに迫害を受け、追い出され、ユダヤ社会から締め出されていました。それもあってローマ帝国による迫害も起こり、その手も彼らに伸びていた時代です。本当に「世で苦難がある」のです。
そんな時に主イエスがお与えになったのが「しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」という御言葉です。どんな苦難のときにも勇気を出すことができる。キリストが世に勝っているから。私にはそれはとてもできず、どんな力を出しても及ばず、努力や根性が尽き果てても、キリストはすでに世に勝っている。十字架にかけられた方が実はこの世の罪と悪と死の力に打ち勝っておられる。それは私たちにとっても全く同じです。キリストは私たちの戦いに先んじて赴かれ、勝利を収めておられるのです。

2026年6月6日の聖句

(ダビデの祈り)神である主よ、今この僕とその家について語られた御言葉をとこしえに確かなものとし、語られたとおりになさってください。(サムエル下7:25)
神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。(使徒13:23)

今日の御言葉はどちらも「語られた御言葉をとこしえに確かなものとし」「語られたとおりに」また「約束に従って」と、神さまがお語りになった御言葉、神ご自身がお立てになった約束の確かさが言及されています。神さまの御言葉がとこしえに確かなものであるという事実が私たちの救いの拠り所なのです。
神はその確かな御言葉によって何を約束し、何を実現してくださったのか。「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」と言われているとおり、私たちに救い主イエスをお送りくださいました。イエス・キリストこそ、永遠に確かな神の救いの約束の成就です。
神さまの確かさとか、信じて好いのか悪いのかというようなことを、私たちは自分の願いが実現するかどうかというところで判断しがちです。自分の考えにお墨付きを与えてくれる神さまが私たちは好きです。ところが神の言葉の約束は、私たちの願いではなくイエス・キリストという救い主の現れによって実現した。それが聖書が語る筋道です。そのことをよくわきまえたいのです。
キリストを呼び求め、キリストを仰ぐ祈りの歩みをいたしたい、と願います。

2026年6月5日金曜日

2026年6月5日の聖句

主を待ち望め。
勇ましくあれ、心を強くせよ。(詩編27:14)
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」(ヨハネ11:21~22)

マルタのこの一言、「私は今でも承知しています」が彼女の信仰ではないでしょうか。
マルタとその妹マリア、二人の兄弟ラザロが死の病に冒され、二人は主イエスに来て癒やしてくださるように願いました。ところが主イエスはなかなか来てくださらない。何人地も待って遂に来たときには、既に兄弟ラザロは死んでいました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そう言うしかない。
マルタは、それでもなお言うのです。「しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」目の前の出来事や現実はそれと矛盾していても、それでもなお「しかし」と言って主のなさることを信じる。「私は今でも承知しています」と、今も主の御業が進んでいることを信じて待ち望む。それが「信仰」ではないでしょうか。
主は今日も私たちの間で新しい御業を進めておられます。私たちの目に見える「現実」を無批判に受け入れて諦めるのか。それとも、今も見えないところで進んでいる主の御業を信じるのか。私たちが問うべきことは、「どうしてこのようなことになったのか」よりも「主は今何をしておられるのか」なのです。

2026年6月4日木曜日

2026年6月4日の聖句

あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。(申命記30:9)
このようなことで、きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。(1テサロニケ4:6)

先日、ある方の講演を聴きました。その先生は仕事の異動でそれまで従事していた職場を離れてしばらく経過した、という時期でした。以前の職場はたいへん忙しく、困難な仕事も多く、しかし大いにやりがいを感じていました。今はその頃とは違う働き方をしている。そこで一種のアイデンティティ・クライシスを覚えたそうです。そして気付いた。自分は「役割」をまとい、周囲の期待に応えることで「自分」を確かめようとしてきたけれど、それは間違っていたのではないか。「していること」がそのまま「自分」になるのは危険なことではないか、と。
私はそのお話を伺って、一方では「なるほど」と思いながらも、他方では「そうかな」と思います。確かに忙しさに身を委ねているだけでは大切なことがおろそかになります。祈ることや神さまの前に静まることをする暇もない、という気になってしまうのはこれ以上なく危険なことです。しかし、自分がしていること、自分の働きと「自分」とはそう簡単に切り離せないのではないか。自分の役割と自分自身を切り分けるのは、一種の抽象化ではないか、とも思います。
「あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。」ここでは、「あなたのすべての手の業」について、主がそれを喜びとされると言われています。この「あなたのすべての手の業」は時によって変わってきます。年齢の変化や自身の状況や家族の環境の変化、仕事の異動や転職、あるいは病気や老いなど、いろいろな要素があります。しかし、私たちはどこにあっても神に従い、キリストが宣言した神の国に仕えるという根本的な役割があります。やがて私たちがかつてのように元気に働き、やりたいことをすることができなくなる日が来るでしょう。それは私たちにとってはたいへんな危機です。アイデンティティが揺れます。当然です。生き方の変更を強いられているのです。しかし私たちは最後まで「御名が崇められますように」と祈り、あるいは元気に働いている元気な人のために祈ることができる。そのために合掌することはできるでしょう。「あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。」
神は私たちをご自分の子としてくださいました。私たちのすべての手の業を喜んでくださいます。だからこの手を神の愛を現すために献げたく願います。どのようなときにも、です。

2026年6月10日の聖句

さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。(イザヤ55:1) (イエスの言葉)「私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35) もうすぐ夏になります。暑くなると喉の渇きを自覚しやすいですが、意外と冬でも体は渇いているそうです。「喉が渇いた」と思うよりも前...