2026年3月28日土曜日

2026年3月28日の聖句

私たちを生かしてください。
私たちはあなたの名を呼び求めます。(詩編80:19)
しかし規定の病にかかっていた十人の男たちのうちのひとりは、自分が癒やされたことを見て取ると、引き返して来て、大声で神を賛美した。(ルカ17:15)

規定の病というのは、旧約の律法で規定された皮膚の病です。この病にかかると、その人は律法の規定に従って共同体の外に出なければなりませんでした。住まいは町の外。もしも誰かが自分に近づいてきたら「汚れている、汚れている」と叫ばなければなりません。その苦しみは肉体だけではない。心の底にまで食い込むような傷を負ったに違いないと思います。
この病は、他の病とは違って、自分で「治った」と言っても、治ったことにはなりません。あるいは医者から「治った」と言われても、それだけでは不十分です。祭司のところに行って「清くされた」と宣言してもらわないと、社会復帰することができませんでした。
主イエスは規定の病にかかった十人の人と出会います。主は彼らを癒やされました。上に書いたような社会通念に生きる人々にとってはたいへんな出来事です。規定の病に冒された人は汚れた人であって、自分たちとは違うもの。別の世界に生きる者。それがこの世界の常識だったのです。主はその常識や社会通念を打ち破って彼らを癒やされたのです。
主は、彼らに「祭司に体を見せなさい」とおっしゃいました。社会の中で彼らが生きられる道を拓いてくださった。主の優しさではないでしょうか。ところがその内の一人は、癒やされたことを知ると祭司のところへ行かずに主イエスのところへ戻って来たのです。「しかし規定の病にかかっていた十人の男たちのうちのひとりは、自分が癒やされたことを見て取ると、引き返して来て、大声で神を賛美した。」この物語は、私たちを本当に生かすのは誰なのか、と問いかけているように思います。社会通念や常識、あるいは祭司に見せるという手続きに代表される社会システム。通常はそういったものが私たちを生かしめていると考えられています。しかしあの人はそうではありませんでした。社会のあらゆる壁を侵犯して自分のところへ来てくださったお方こそが私を本当に生かしてくださるお方だと信じたのです。
私たちは「普通」になるために神を信じるのではありません。「みんなと同じ」になるためにキリスト者になったのではない。私たちの当たり前を犯して侵入する神の子は、この世界の常識では救われない私たちを神のものとするために、今日、あなたに御声を響かせておられるのではないでしょうか。

2026年3月27日金曜日

2026年3月27日の聖句

正義は命に
悪を追い求める者は死に至る。(箴言11:19)
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。(ガラテヤ6:8)

「正義」という言葉が今日の旧約の御言葉にあります。そこで、旧約聖書の事典を引いたところ、「義」についてこのように書かれていました。
「一般的には『義』は、共同体に対する責任に言及する際に用いられる。(中略)義の最も広い適用範囲は、命と幸福を願う創造者によって規定される、創造の良い秩序に関係がある。ゆえに、責任をもって生きることとは、創造者が命じた範囲と要求に従うことなのである。従って、義とは、神の来たるべき統治の最も重要なしるしとなるのである。」
私たちに命を与え、私たちの幸福を願っていてくださる神さまがお命じになる要求に従うことこそが聖書の「正義」なのだ、と言います。
ですから「私の正義感」とか「人それぞれの正義」が問題になっているのではありません。神さまの慈しみを現し、共同体に共に生きる人への神の愛を体現することこそが真の正義なのだと思います。
私たちは、そのような意味での義を求めて生きているでしょうか?それとも、自分の満足ばかりに心を占められて悪を求める結果に陥ってはいないでしょうか。「悪を追い求める」は、言葉を換えれば「自分の肉に蒔く」ということです。私たちは自分の肉を満足させるために自分の正義に凝り固まるのか。それとも、神の義を求め、創造者の愛に従い霊に蒔く者として生きるのか。あなたはどう生きるか、と主は私たちに問いかけておられます。

2026年3月25日水曜日

2026年3月25日の聖句

主よ、立ち上がり、人間が勝ち誇らないようにしてください。(詩編9:20)
(イエスが弟子たちに語った言葉)「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」(マルコ9:31)

「人の子は人々の手に渡され、殺される。」
これが、今私たちの目に映っている状況ではないでしょうか。ある一人の男が十字架刑に処せられた。それは「歴史的に」確かめることができる事実ですし、世界史の中ではどこにでもあるような出来事と言えそうです。私たちの目に映って、確かだと思わせる出来事です。
問題は「科学的」に確かと言えるかどうかということだけではありません。私たちの目に飛び込んでくる現代にまで至る人間の生み出す歴史の出来事の一つひとつが、暴力の支配であり、豊かさの独占であり、貧しい人や弱い人、病気の人や障害を持っている人への抑圧と蹂躙です。自分に都合の好い神をこしらえてシステムを正当化し、自分たちの支配が正しいというお墨付きを得ようとする。現代の大国やその支配者も、同じように神の名を騙っているようです。
「人の子は人々の手に渡され、殺される。」主イエスがそうおっしゃった状況と現代私たちを取り巻いている状況はそっくりです。人間の罪が生み出す状況です。そういう意味では人の子イエスが十字架に掛けられたという事実は後から証明するまでもなく、私たちの世界のどこにでもある悲惨な出来事の一つです。そして私たちはそういうところで生まれる不都合な事実を直視しようとはせず、たいていの場合は放っておくのです。
ところが主イエスの御言葉はそこでは終わりません。「殺されて三日の後に復活する」と主イエスは言われます。これは、主イエスの側の、つまり神の側のアクションです。私たちがイエスを十字架に磔にした、私たちが神の子を殺したということに対して、神の側でなさったことが三日目の復活です。私たちの暴力や支配や抑圧の歴史に神は「否」を突きつけ、それを終わらせてしまわれた。それが主イエス・キリストの復活という出来事です。
これは私たち人間の歴史の中、これまでには全くない、新しい出来事です。ただ一度かぎりの出来事です。その意味では「歴史的」「科学的」に証明することはできません。そもそも神のただ一度の出来事を人間が証明するというのはおこがましいのではないでしょうか。それはエルサレムの郊外で、ある女性を証人として起こりました。あまりに小さな出来事なので私たちは見過ごします。そして、イエスを十字架に掛けた歴史だけが正当でリアリティがあり、説得力のあるものだと思い込んだままでいます。しかし、イエスは復活しました。この出来事はもう始まっています。私たちが知っていようといなかろうと。私たちが信じていようといなかろうと、キリストは復活し、神の国はもう来ているのです。あなたは神の告げるこの新しい出来事を、信じますか?

2026年3月24日火曜日

2026年3月24日の聖句

主はあなたの前に御使いを遣わされる。(創世記24:7)
「(イエスの言葉)父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:42~43)

今日の旧約聖書の御言葉は、アブラハムが息子イサクの妻になる人を探させるために自分の僕を遣わすときの言葉です。アブラハムは自分の召使いを故郷に遣わすに際し、いくつかの条件を彼に話して聞かせました。そして最後に「主はあなたの前に御使いを遣わされる」と言って彼を励まして送り出した。そういう場面です。
「主はあなたの前に御使いを遣わされる」というのは、主があなたの行く道を導き、必要を備えてくださるように、ということでしょう。もっと言えば、主が御心を行ってくださるように、ということであると思います。すべては神がお望みになるとおりになりますように。アブラハムも、そして私たちも、願うのはそのことです。
しかし、誰よりも神の御心を必死に願ったのは、主イエスさまをおいて他にはいません。主は十字架を前にして必死に祈りました。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。」主イエスは「この杯を私から取りのけてください」と心から願いながら、あくまでも神の御心をすべての基となさいました。「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」主が御心を成し遂げてくださいますようにと祈り、主の道を歩くことをお受け入れになられたのです。
主は私たちが今日歩む道の前にも御使いを遣わしてくださいます。私たちはそのことを信じ、主の御心が成し遂げられることを願い求めます。私たちの救いの道がそこに拓かれることを信じて、私たちも主を待ち望むのです。

2026年3月23日月曜日

2026年3月23日の聖句

私、私が主である。
私のほかに救う者はいない。(イザヤ43:11)
(イエスの言葉)私と父とは一つである。(ヨハネ10:30)

今日私たちに与えられている聖書の御言葉は、神さまの深い御決意の表明であると思います。「私、私が主である。私のほかに救う者はいない。」ただおひとりの救い主でいらっしゃるお方が私たちに言ってくださいます。「私、私が主である」と。
ここにある「主」というのは、神さまのお名前を現す言葉が使われています。「私、私が主である」と御自分のお名前を名乗り、他の誰でもなくこの私がお前を救うと宣言してくださっています。私たちには、主以外の救いはありません。
お名前を名乗るというのは、私たちとの関係を結ぼうという神さまのご意志の表れと言ってよいと思います。私たちにとっての真の救いというのは、私たちに向かって御自分のお名前を名乗ってくださるお方と関係を結ぶことです。神さまが私たちの名前を呼んでくださり、私たちが「主よ」とお呼びして祈る。それがもう既に救いなのです。
私たちには神さまなど分からない、神さまのことなど知りようがないと言う必要はありません。「私と父とは一つである」とイエス・キリストが言ってくださいます。私たちはキリストの言葉を聞き、イエスこそ父がお遣わしになったメシア、そして独り子なる神と信じるとき、私たちは「主」とお名前を名乗ってくださる神ご自身と出会っている。ですから、神さまとの関係を結ぶというのは、もう少し言葉を換えて言えば、イエスこそ救いと信じるということです。イエスに現された神の愛こそが神の御心と信じるということです。
「私、私が主である」と、今日、神さまはあなたに語りかけておられます。

2026年3月22日日曜日

2026年3月22日の聖句

今週の聖句:
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。(マタイ20:28)

今日の聖句:
隣人について偽りの証言をしてはならない。(出エジプト記20:16)
あなたがたが、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。(1ヨハネ2:21)

今日の旧約聖書には「偽りの証言」と書かれています。証言と言っているのですから、裁判の席のことを考えているのでしょう。もともとそりが合わなかったり、利害が一致しない隣人について偽りの証言をして陥れてはならない、と言っています。
裁判での証人になったことは私にはありません。そういう経験をしたことがある人はどれくらいおられるでしょうか。直接の「裁判」という場でなくても、他人と利害や感情が衝突することは私たちには日常的なことだと思います。そんなとき、保身のためとか自己防衛のために、あるいは妬ましい人へのちょっとした嫌がらせをなんとなくしてしまって少しの嘘を言ってしまうようなことも、時にはあるかもしれません。
「隣人について偽りの証言をしてはならない。」聖書はそのように言います。さらに今日の新約では「あなたがたが、すべて偽りは真理から生じないことを知っている」とあります。ここでの「真理」は、学者が研究室で考え出した「真理」なるものではありません。主イエスさまが父なる神様の御許から来て、私たちに神の愛を示してくださったことを信じるところで輝く真理です。つまり「隣人について偽りの証言をしてはならない」というのは、私たちの真理であるイエス・キリストの前で隣人との関係を構築する、ということを意味していると言えると思います。
私たちは、私たちが信じる真理そのものでいらっしゃるキリストの前で、どのような人間関係を築くのでしょうか。私たちは、私たちを愛してくださったキリストを前にして、どのようにして関係を築くのでしょうか、利害不一致だったり気の合わない隣人と。

2026年3月21日土曜日

2026年3月21日の聖句

あなたは食べて満足するとき、あなたの神、主をたたえなさい。(申命記8:10)
言葉では言い尽くせない賜物のゆえに、神に感謝します。(2コリント9:15)

「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。確かにその通りではありますが、私たちの現実としては「衣食足りて礼節を忘る」ということもあるかもしれません。特に神さまに対してはそうです。衣食に事欠くときには「日用の糧をお与えください」と真剣に祈っても、衣食足りたら、まるで祈っても祈らなくても大したことがないかのように、ただのルーティーンとして口にしているだけ・・・というのが私たちの実際のところであるのかもしれません。
聖書は言います。「あなたは食べて満足するとき、あなたの神、主をたたえなさい。」私たちが生きるために必要な食べ物を与えてくださっているのは神さまです。主が私たちを養ってくださっています。そのことに真剣であれ、と聖書は語りかけます。なるほどと思いつつ、実際にはとても難しいことでもあると思います。
私たちの食べるもの、飲むもの、着るものについて、神さまが心に掛けてくださっています。食卓に並んでいる、決して当たり前ではない神さまの恵みの賜物を目の前にして、新しい気持ちで神様に感謝し、主のご慈愛をたたえましょう。今日、この後に食べるご飯の時に!
私の信仰の指導をしてくださった先生が教えてくださった食卓の祈りがあります。「主よ、私たちが生きるために必要なものを今日も与えてください。日ごとの糧と、罪の赦しを。」主の前にへりくだって祈り、私たちの命を支えてくださる方に向かって、今日も賛美を献げましょう。

2026年3月28日の聖句

私たちを生かしてください。 私たちはあなたの名を呼び求めます。(詩編80:19) しかし規定の病にかかっていた十人の男たちのうちのひとりは、自分が癒やされたことを見て取ると、引き返して来て、大声で神を賛美した。(ルカ17:15) 規定の病というのは、旧約の律法で規定された皮膚の病...