2024年5月21日火曜日

2024年5月22日の聖句

主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。(詩編111:9)
この方(イエス・キリスト)こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2)

主が民をご自分のものとしてくださった。御言葉はそのように宣言します。私たちも神の民、神のものとして頂いた!
それは、1から10まで全部神さまがしてくださったことです。「この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。」主イエス・キリストが私たちの罪のための宥めの献げ物になってくださった。私たちを神のものとするための供え物になってくださって、私たちを罪から救ってくださった。聖書は、私たちを救うために神が何をしてくださったのかを語ります。私たちが何かをしたからとか、私たちが少しはよくなれたからとか、そのようなことは一切語らない。神の救いの光の中に、この私も生かして頂いている!だから、私たちも神に救って頂いた。それが私たちのすべてです。
神さまは、私たちが信じたから罪を赦してくださったのではありません。神が先に私たちを赦してくださった。その事実が先です。だから、私たちもまた神を信じることができる。私たちは信じたから救われるのではなく、救われたから信じた。救って頂いていたことを知ったから、私たちはその救いの神を信じたのです。
「主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。」この契約は、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、イザヤやエレミヤ、そういった無数の信仰者たちと結んできた契約です。私もその契約の民の一人にして頂いた。神の民に加えて頂いた。キリストが私たちを迎えてくださいました。このキリストを、私たちは崇めます。

2024年5月20日の聖句

主である私はその番人。絶えずぶどうに水をやり、畑が荒らされないように、夜も昼も守っている。(イザヤ27:3)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。(1コリント10:13)

夜も昼も畑が荒らされないように守っている番人のように、ぶどうを枯らさず水をやる農夫のように私たちを守ってくださる方。主なる神さま。このお方は、私たちの試練の日にも私たちを守っていてくださいます。どのようなときにも、神は私たちを決してお見捨てになることがない。私たちはそう信じています。
しかし、試練の中にいると、永遠にそれが続くようにしか思えません。神さまはどうしてこのようなことをなさるのかと、すぐに不信感が募ってしまいます。「絶えず、夜も昼も。」そう言われても、とてもそうは思えない私たちの現実もあります。
今日の新約の御言葉の中でいちばん大切なのは、冒頭です。「神は真実な方です。」私たちは、試練の中でそのことを忘れてしまいがちです。自分の苦しいことや辛いことでいっぱいになってしまいます。しかしそんな中に神の真実が光のように指したとき、私たちの世界が変わります。神が真実なお方だということが分かったとき、私たちを取り囲む試練も、苦しさも、相対化される。なぜなら、神の真実は十字架にかけられたキリストによって明らかにされたからです。独り子を下さる神の愛によって、神の真実が示されたからです。だからこそ、神は私を見捨ててはおられないと私たちは知ることができるのです。
このキリストの恵みと祝福が、今日もあなたにありますように。

2024年5月20日月曜日

2024年5月20日の聖句

主はこう言われる。天は私の王座、地は私の足台。あなたがたが私のために建てる家はどこにあるのか。(イザヤ66:1)
あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。(1コリント3:16)

天を王座とし、地をご自分の足台となさる方。この天と地とをお造りになった方。この私のことをも造り、命を与えてくださった方。そのお方が、この私のうちに住んでいてくださる、と聖書は言います。「あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。」驚くべき言葉です。
神殿は、礼拝を献げるための場所です。神の御前に祈りと賛美を献げ、犠牲を供えて神を礼拝する。そのための場所に神がご自分のお名前をおき、そこでご自身を現してくださる。それが神殿。そして、私たちの内に住んでくださる神の霊は、私たちを神の神殿としてくださいます。私たちの内に住んでくださって、私たちと出会ってくださる。私たち自身が神の神殿なのだ、と聖書は言うのです。
聖霊なる神様の出来事は、私たちにおいて起こっています。私たちにおいて、神の出来事が始まっています。私たちはその事実を信じます。私たちは、私たちと永遠に共にいてくださる聖霊によって神と出会う。聖霊。このお方は神ご自身でいらっしゃる神の霊です。ですから、私たちの目には見えません。しかし私たちと永遠に共にいてくださるお方です。私たちは聖霊が与えられているからこそ、キリストの恵みにあずかっている。
私たちの内に神が御業を始めてくださっていることを、喜んで信じましょう。私たちの内において神が出会ってくださる恵みを信じましょう。主イエス・キリストの恵みと平和が、聖霊によって今日もあなたにありますように。

2024年5月19日日曜日

2024年5月19日の聖句

今週の聖句:
武力によらず、権力によらず、わが霊によるーー万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6b)

今日の聖句:
公正を水のように、正義を大河のように、尽きることなく流れさせよ。(アモス5:24)
しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(ヨハネ16:13)

真理の霊である聖霊、神ご自身の霊が降った!
私たちに起きた神の出来事です。私たちは神を信じる。主イエス・キリストを信じます。キリストがこの私のために十字架に死なれたこと、神がそのキリストを死者の中から引き上げたことを信じています。それと同じように、神はこの私にも聖霊を送り、私も神ご自身の霊によって生かされ、神は私とも永遠に共にいてくださることを信じています。
聖霊、それは、私がどう感じるかということとは関わりなく、神ご自身の御業として、私と共にいてくださる神の霊です。私たちは聖霊を信じます!
今週の聖句では「武力によらず、権力によらず、わが霊による」と言われています。武力や権力といった私たち人間の浅はかな思いや誇りを打ち砕いて、神が御業をなしてくださっている。神はご自分の霊によって私たちを救ってくださる。神を待ち望みつつ、私たちは新しい一日を歩んでいきます。

2024年5月18日の聖句

主は言われた。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いた。」(出3:7)
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、体に必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょうか。(ヤコブ2:15~16)

口先だけの愛は、結局は愛でも何でも無い。言っているだけでは愛にならない。そういうことでしょう。ヤコブの手紙が指摘する事柄は、本当に心にグサリと刺さります。鋭いです。私の現実を何でこんなに知っているのかと思います。聖書のすごみです。自分がいかに愛することに乏しく、どうしようもない人間なのかと言うことを思い知らされます。
ところが、神さまはそうではないのです。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いた。」神さまは私たちの苦しみをつぶさにご覧になり、私たちの叫びを聞いてくださいます。そして、そこから人々を救い出すために、このときにはモーセをお遣わしになりました。あるいはその後も、たくさんの預言者たちを遣わし、ずっと私たちの叫びや苦しみに寄り添い続けてくださった。そして、最後にはご自分の独り子イエス・キリストを遣わしてくださった。私たちの苦しみや叫びの中に入ってきてくださったのです。
神さまの愛は口先だけだったり絵空事だったりするのではなく、情動的であり、行動的であり、実際的です。共に苦しみ、共に叫び、共に痛む愛です。そして、私たちをその苦しみや叫びから救い出すために、飛び込んでくださる愛です。なんと素晴らしい神の愛!このような神の情熱的な愛が私たちに向けられているのです。

2024年5月17日金曜日

2024年5月17日の聖句

あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。(出エジプト記23:9)
正しい人たちが王に尋ねた。「主よ、いつ、見知らぬ方にお宿をお貸ししたでしょうか。」王は答えた。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」(マタイ25:37,38,40)

あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ、と神さまはおっしゃいます。私たちはエジプトの地で寄留者だった。よそ者、仮住まいの者、在留外国人だった。もちろん、私たちの肉の先祖ではない。私たちはユダヤ人ではない。しかし、私たちも同じ神を信じている信仰の祖は、エジプトの地で寄留者だった。よそ者として虐げあれ、奴隷の憂き目に遭っていた。何人であろうと関係ない。この事実が私たちの信仰の原点です。寄留者であり、よそ者である私たちを神が目に留めてくださり、その叫びを聞き、奴隷の家から救いだしてくださった。
「あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。」
その原点に立ち返るとき、私たちには、寄留者を抑圧するという振る舞いをすることはもはや不可能なはずだ、と神さまはおっしゃいます。そのようなことはできないだろう、と。そして、同じまなざしを持って、目の前にいる「最も小さな者の一人」と相対するとき、そこでする私たちの業を、主はご自身への業として御心に留められます。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」最も小さい者。寄留者。この人たちの共通点は、社会の中で軽んじられ、その存在が侮られているということです。そういう片隅に追いやられた人と共に神がおられる。そこで示す愛を決してお忘れになることはない。主なる神さまは、私たちにそうおっしゃいます。

2024年5月16日木曜日

2024年5月16日の聖句

主は高殿から山々を潤す方。主の業の実りで地は満ち足りる。(詩編104:13)
人々が十分食べたとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」と言われた。集めると、人々が大麦のパン五つを食べて、なお余ったパン切れで、十二の籠がいっぱいになった。(ヨハネ6:12~13)

「主は高殿から山々を潤す方。」主は泉を湧き上がらせて川とし、山々の間に流れさせるお方です。その水を野の獣が飲み、渇きを癒やす。空の鳥は水のほとりに巣を作り、梢の間からさえずり歌う。家畜のための草も、人間の働きに応じて青草を生えさせてくださるのも、主なる神さまです。この世界は、高く天におられるお方の慈しみで満たされています。主なる神さまのご慈愛によってこの世界は支えられている。
主イエスは大麦のパン五つを持って5000人の人を養ってくださいました。大麦のパン。それは貧者のパンと呼ばれていたそうです。貧しい子どものお弁当です。しかしそれを豊かに祝福して、たくさんの人を養ってくださった。その恵みは溢れ出て、12の籠いっぱいになったと言います。
主イエス・キリストのあふれる恵みが私たちを生かします。キリストの溢れる愛が私たちを満たします。今日、私たちが生きるために必要な物を備えてくださったのも、同じお方です。このお方は私たちを絶えず祝福してくださっています。例え私たちにそれが見えないときにも、私たちが迂闊にもキリストの恵みに気付かないときにも、このお方の慈しみがなくなってしまうということはありません。主イエス・キリストを仰ぎ、キリストと共に歩む一日を過ごしましょう。

2024年5月22日の聖句

主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。(詩編111:9) この方(イエス・キリスト)こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2) 主が民をご自分のものとしてくださった。御言葉はそのように宣言します。私たちも神の民、神の...