今週の聖句:
新しい歌を主に歌え。
まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)
今日の聖句:
ギデオンは言った。「もし御目に適いますなら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしをお見せください。」(士師記6:17)
(ニコデモの言葉)「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」(ヨハネ3:2)
今日の二つの聖書の御言葉は、どちらも「しるし」ということに言及しています。神であることのしるしです。ニコデモは主イエスがなさった奇跡をそのしるしだと信じ、イエスのもとへ来ました。
とても正直なことを言うと、私はこういうところを読むと少し困ってしまいます。ニコデモにはそうかもしれないが、私自身にはそのようなしるしが起こっていないし、目の当たりにもしていない、と思ってしまうからです。この「しるし」ということをどう考えたらいいのでしょうか。
実は、ニコデモと主イエスとの対話を見てみると、主イエスご自身がそのことをお考えだったのではないか、と私は思うのです。主イエスはニコデモが「これぞしるし」と思った奇蹟の話を深めることなく、対話が続いていくとこのようにおっしゃいます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(14,15節)。(ここで「荒れ野で蛇を上げたように」と書いてあります。これは民数記21:1~9に出て来る話がもとになっていますので、詳しくはそちらをご覧ください。)これは、主イエスご自身が十字架の上に上げられることを意味する言葉です。主が十字架に上げられることで私たちに永遠の命が与えられる。つまり、主が荒れ野の蛇のように十字架の上に上げられ、そのお姿を仰ぐ私たちが命を得ること、それが神が私たちに下さったしるしだ、と主はおっしゃいます。
私たちは昔イエス様がすごい奇跡をなさったということでもって主イエスを真の神と信じるのではなく、十字架に上げられて私たちに命をくださったという究極のしるしによってそのことを信じている。それがヨハネによる福音書が伝えているメッセージなのだと思います。
キリストの究極のしるしを、信仰の目を開いてしっかりと仰ぎましょう。ここに私たちの命があります。ここに私たちの救いがあります。
新しい歌を主に歌え。
まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)
今日の聖句:
ギデオンは言った。「もし御目に適いますなら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしをお見せください。」(士師記6:17)
(ニコデモの言葉)「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」(ヨハネ3:2)
今日の二つの聖書の御言葉は、どちらも「しるし」ということに言及しています。神であることのしるしです。ニコデモは主イエスがなさった奇跡をそのしるしだと信じ、イエスのもとへ来ました。
とても正直なことを言うと、私はこういうところを読むと少し困ってしまいます。ニコデモにはそうかもしれないが、私自身にはそのようなしるしが起こっていないし、目の当たりにもしていない、と思ってしまうからです。この「しるし」ということをどう考えたらいいのでしょうか。
実は、ニコデモと主イエスとの対話を見てみると、主イエスご自身がそのことをお考えだったのではないか、と私は思うのです。主イエスはニコデモが「これぞしるし」と思った奇蹟の話を深めることなく、対話が続いていくとこのようにおっしゃいます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(14,15節)。(ここで「荒れ野で蛇を上げたように」と書いてあります。これは民数記21:1~9に出て来る話がもとになっていますので、詳しくはそちらをご覧ください。)これは、主イエスご自身が十字架の上に上げられることを意味する言葉です。主が十字架に上げられることで私たちに永遠の命が与えられる。つまり、主が荒れ野の蛇のように十字架の上に上げられ、そのお姿を仰ぐ私たちが命を得ること、それが神が私たちに下さったしるしだ、と主はおっしゃいます。
私たちは昔イエス様がすごい奇跡をなさったということでもって主イエスを真の神と信じるのではなく、十字架に上げられて私たちに命をくださったという究極のしるしによってそのことを信じている。それがヨハネによる福音書が伝えているメッセージなのだと思います。
キリストの究極のしるしを、信仰の目を開いてしっかりと仰ぎましょう。ここに私たちの命があります。ここに私たちの救いがあります。