2026年5月12日火曜日

2026年5月12日の聖句

主はすべてを失った者の祈りを顧み
その祈りを軽んじませんでした。(詩編102:18)
正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(ヤコブ5:16)

今日の新約の御言葉はヤコブの手紙の末尾に近いところのものです。ここには「執り成しの祈り」のことが書かれています。ヤコブは言います。「あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗って、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。」そして、今日の御言葉に続いているのです。
病気のとき、自分のための祈りを教会に求める。自分で祈ることができないときにも、教会が祈ってくれる。信仰による祈りが弱っている自分を救ってくれる。自分が罪を犯していても、教会の執り成しの祈りを神が聞いてくださってその罪を赦してくださるとさえ言っています。祈りには、私たちが思っている以上の力があります。神さまは祈りによって私たちの罪に対する処遇さえ思い直してくださるというのです。驚くべき言葉です。
私たちも祈りましょう。お互いのために。教会の仲間のために祈りましょう。病気の友のために、困窮し、喘いでいる友のために。罪を犯し過ちを犯してしまった友のために。私たちも祈りましょう。キリストが私たちのために祈ってくださったように、私たちも互いのために祈り合いましょう。

2026年5月11日月曜日

2026年5月11日の聖句

主のように聖なる方はなく
あなたに並ぶ者はいません。(サムエル上2:2)
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
全能者である神、主。
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」(黙示録4:8)

今日の二つの御言葉は、どちらも「聖」とあります。神さまは聖なるお方。
この「聖」という言葉について、ある聖書学者がこのように言っています。「『聖』という概念はイスラエル宗教において最も深く、最も謎に満ち、最もすばらしく、最も厳しいものを意味する。」謎に満ちている、と言います。「聖」は神御自身の御性質であって、私たちには捉えきることができない。私たちにとっては謎に他ならない。なぜなら、神は聖なるお方であり、「あなたに並ぶ者はいません」と言われるべきお方だからです。私たちが他の何かしらから類推して「神の聖なることとはこういうことだ」と、自分の概念に押し込めてしまうことができないのです。神の聖でいらっしゃることは私たちにとっては謎であり、畏るべきことです。
旧約聖書のレビ記を読むと、とても細かい祭儀の規定があります。そこでは徹底して私たちの「汚れ」が語られています。現代の感覚で読むと理不尽なほどに徹底しています。普通に生活していれば必ず汚れてしまう。しかしレビ記の徹底した「汚れへの感覚」は、逆説的に、神の聖でいらっしゃることを語ります。私たちは、自分の汚れを汚れと指摘されることによってでしか聖が分からないのです。
そんな私たちにできるのは、聖なる神を賛美することだけです。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
全能者である神、主。
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」
私たちも心合わせて神を賛美し、聖なるお方を礼拝する。私たちの汚れた唇に聖なる神への賛美が授けられます。ここに私たち人間のあるべき姿があるのではないでしょうか。

2026年5月10日日曜日

2026年5月10日の聖句

今週の聖句:
ほむべきかな。神。
神は私の祈りを退けて、御恵みを私から取り去らなかった。(詩編66:20)

今日の聖句:
私たちが仕える神は、火の燃える炉の中から、私たちを救い出すことができます。たとえそうでなくとも、私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません。(ダニエル3:17~18)
聖なる方、真実な方
ダビデの鍵を持つ方
この方が開けると、誰も閉じることができない。
「あなたがたは力の弱い者であるが、私の言葉を守り、私の名を否まかったからである。」(ヨハネ黙示録3:7,8b)

ダニエルはネブカドネツァル王が支配するバビロンに生きた信仰者として聖書に登場します。故国ユダを滅ぼした圧倒的な軍事力を持つ国。バビロニアには発展した文明とすばらしい文化が満ちあふれていたに違いありません。そして、それを支えるバビロンの宗教があった。ネブカドネツァル王はあるとき巨大な金の像を造り、これにすべてのものがひれ伏すことを要求しました。ところが、ダニエルは主なる神さまのみを礼拝する信仰者でしたから、それを拒んだ。そのために、彼は燃えさかる火の炉に投げ込まれることになりました。
その時にダニエルが言った言葉が今日の御言葉です。神は火の燃える炉から私を救うことがおできになる。そう、実際に神はそのようにダニエルを助けてくださった。しかしもっと大事なのは彼の言葉の後半です。「たとえそうでなくとも、私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません。」この「たとえそうでなくとも」がダニエルの信仰です。私たちは神がどうにかしてくれるという保証があるから従うのではない。神が事態を好転してくれることが期待できるから信じるのではない。ご褒美があるから信じるのではない。この方こそまことの神でいらっしゃるから、他の何ものも神とはしない。神は私を助けることがおできになる。しかしたとえそうでなくても、私は主だけを礼拝する。
異教社会に生きるダニエルです。私もこの人のようでありたい、と願います。

2026年5月9日土曜日

2026年5月9日の聖句

私があなたがたを救い
あなたがたは祝福となる。(ゼカリヤ8:13)
神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。(2コリント1:4)

今日の旧約の御言葉として与えられているのはゼカリヤ書8:13の一部ですので、改めて13節全体をここに引用します。
「ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは、かつて諸国民の中で呪いとなったが、今や私があなた方を救い、あなたがたは祝福となる。恐れてはならない。勇気を出せ。」
かつてユダとイスラエルは諸国民の中で呪いであった、と言います。主なる神さまを捨て、国が破滅し、人々の呪いの的となった歴史をユダとイスラエルの国は持っている。そのことを言っているのでしょう。かつては諸国民の中の呪いであった者たちを神が救ってくださって、今や諸国民の祝福に変わる。あなたたちの罪はかつては諸国民にとっても呪いでしかなかった。ところが今やあなたたちによって私の祝福が諸国民にもたらされる。神はそう言ってくださっているのではないでしょうか。
「救い」ということを私たちはとかく個人的に考えがちです。これまでの私の不全感やコンプレックス、個人的な不幸や悩みから解放されることが私の救い。「私の罪責感からの救い」に限定して考えてしまうところがある。ところが聖書の描く救いはもっとスケールが大きい。神の民の救いは諸国民の祝福だと言うのです。
今朝の新約聖書の御言葉も同じです。パウロの慰めはコリント教会の人々にももたらされ、彼らにとっての慰めにもなる。神はあらゆる苦難のときに私を慰め、あなたをも慰める。ここでの「あなた」が意味する範囲は決して小さくないと思います。世界中を巻き込み、2000年後の私たちをも巻き込みました。パウロは、神さまは個人的に私に関わって私だけを慰めてくれた、とは言わないのです。
主なる神さまは、私たちをこの世界のための祝福の基、慰めの源としてくださいます。私たちも主に遣わされた使者として祝福を携えてここから出て行くのです。

2026年5月8日金曜日

2026年5月8日の聖句

主よ、私たちの父よ、私たちを見捨てないでください。私たちを見放さないでください。(列王記上8:57)
(イエスの言葉)「私は天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)

今日の旧約の御言葉は、私たちの祈りや願いそのものではないでしょうか。「主よ、私たちの父よ、渡した異を見捨てないでください。私たちを見放さないでください。」私たちも同じように祈ります。神が私たちを見捨てず、見放さないでいてくださるように、主の憐れみを求めます。神さまに「父よ」とお呼びして、神さまの慈しみを慕い求めます。それが私たちの祈りなのではないでしょうか。
主イエス・キリストはおっしゃいます。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」そのお方が私たちと世の終わりに至るまでいつも共にいてくださる、と約束してくださいました。天と地の一切の権能、というのはすごい言葉です。この世で起こるすべてのことに対する権威をお持ちだとおっしゃいます。言葉を換えれば、天と地のすべてのものの王だ、ということになるのではないでしょうか。すべての王、まことの支配者でいらっしゃる方が世の終わりまで共にいてくださる。それが、私たちの祈りへの答えです。主は決して私たちを見捨てず、私たちを見放さないでいてくださる。ご自分の権威を持って私たちと共にいてくださる。
だから、今日の日を雄々しく生きていきましょう。キリストを信じ、このお方の力により頼んで、喜んで今日の一日を歩みましょう。

2026年5月7日木曜日

2026年5月7日の聖句

主よ、朝に私の声を聞いてください。
朝が来る度に、あなたに向かって身を整え
待ち望みます。(詩編5:4)
朝早くまだくらいうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

朝が来る度に神さまを呼び求め、神さまの御前で祈る。今朝私たちに与えられている詩編の祈りを最初に捧げた信仰者も、そのように毎日の信仰生活を営んでいました。私たちも、それぞれ自分なりの仕方で朝の祈りを捧げて一日を始めているでしょう。改革者ルターも、朝の祈りの指導をしています。祈りをもって神さまを呼び求めることで私たちの一日が始まる。朝の祈りについて、この詩編が「あなたに向かって身を整え」と言っているところがとても魅力的です。私たちの身を神さまに向かって整える。私たちの生き方を神さまに向けてチューニングしなおす。それが朝の祈りの時間です。私たちは、主を待ち望みます。
そんな私たちの朝の祈りの時間の先頭に、主イエスさまがいらっしゃいます。誰よりも神さまに近く、親しく祈られた方。一人神の御前で祈っておられる主イエスさまのお姿。「朝早くまだくらいうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」このお方のように祈る者になりたい、という憧れを込めてこのお方の姿を仰ぎます。キリストの祈りが、ほんの僅かにでも私の祈りとなりますように。主イエスさまを慕い求める私の祈りを、神さまが聞いてくださいますように。

2026年5月6日水曜日

2026年5月6日の聖句

彼らは泣きながら帰って来る。
私は彼らを慰めながら導き
水の流れに沿って行かせる。
まっすぐな道で、つまずくことはない。
私はイスラエルの父であり
エフライムこそ私の長子だからだ。(エレミヤ31:9)
キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。(ヘブライ5:7)

今日の旧約の御言葉の冒頭のところは、本当に慰め深い言葉です。「彼らは泣きながら帰って来る。私は彼らを慰めながら導き、水の流れに沿って行かせる。」神さまは、ご自分の民が泣き、哀願するとき、それをお見捨てにはならない。泣きながら帰る者と共に歩んでその道を同伴してくださる、と主は言ってくださいます。
無数の代々の信仰者たちがそのような慰めを経験し、主と共に生かされる幸いを味わってきたことでしょう。そしてこのような主の下さる慰めの究極のかたちが、主イエス・キリストというお方に現されたのです。
このお方はただ私たちと同伴し、側にいてくださるというだけではない。ご自身が深く嘆かれるお方です。ご自分の目から涙を流される方です。死を恐れ、神に祈り、嘆願の祈りを神様の御前にお献げになる方。私たちの代表になって深く悲しまれたお方です。
主が私たちを連れ帰ってくださる道は、まっすぐで、つまずくことはないと預言者エレミヤは言っています。キリストご自身がその道になってくださったのです。私たちが神のもとへ帰る道に。私たちのための道に。主の憐れみが私たちの歩みを支えてくださいます。

2026年5月12日の聖句

主はすべてを失った者の祈りを顧み その祈りを軽んじませんでした。(詩編102:18) 正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(ヤコブ5:16) 今日の新約の御言葉はヤコブの手紙の末尾に近いところのものです。ここには「執り成しの祈り」のことが書かれて...