2026年9月6日日曜日

2026年9月6日の聖句

今週の聖句:
わがたましいよ、主をほめたたえよ。
主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩編103:2)

今日の聖句:
人のそしりを恐れるな。彼らの罵りにおののくな。(イザヤ51:7)
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。(2テモテ1:7)

臆病と信仰とは両立しない、と聖書は言います。「人のそしりを恐れるな。彼らの罵りにおののくな。」私は臆病な人間です。すぐにおののいてしまう。だから耳が痛い言葉です。しかし、臆病は決して主の前にあって望まれたあり方ではないし、主が喜んでくださる心ではありません。恐れることなく、おののかずに主を信頼する。主なる神さまに一心に仕える。それが主が私にお望みのことです。
主イエスさまの弟子たちも、何度も何度も臆病風に吹かれて失敗しました。逆風吹きすさぶ湖の上。主イエスを捕らえに来た兵士たちの前。臆病風に吹かれ、信仰が怪しくなっていく。私たちの姿そのものではないでしょうか。
そんな弟子たちが変わったのは、あのペンテコステの出来事以降です。恐れることなく、おののくことなくキリストの復活の証人として生きるようになりました。あのペンテコステの日に神がご自分の霊を与えてくださったからです。「神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。」私たちを臆病から解放するのは、神さまの霊です。力と愛と思慮を与える神の霊が私たちを新しくしてくださる。そのことを信じて、神のものとして大胆に進み行きたい、と願います。

2026年9月5日土曜日

2026年9月5日の聖句

あなたを待ち望む人も皆
恥を受けることがないように。
わけもなく裏切る者が恥を受けるように。(詩編25:3)
岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。(ルカ8:13)

今日の新約は主イエスのたとえ話です。種蒔く人の手から、ある種が岩の上に落ちた。薄い土の層があったのでしょう。すぐに芽を出した。ところがその下の岩地に突き当たってそれ以上根を伸ばすことができず、すぐに枯れてしまった。それは「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たち」だ、と主は言われます。
思い当たる節があまりにもある、わが身に痛い言葉です。簡単に御言葉を受け入れた気になっている。何ならすぐに芽が出たと自分を誇った気持ちにもなる。ところがちょっとした日照りにも耐えることができない。試練に遭ったらすぐに躓いてしまう。それは根がないからだと主は指摘なさいます。しっかりと根を下ろして、自分の中に根を張った足腰の強い信仰になっていない。それでは、その「根」とは何か?足腰の強い信仰とは一体何か?
私はそれは、御言葉を聞いた最初の時から「まずやってみる」ということではないかと思います。聖書に従って祈ってみる、隣人を少しでも愛してみる。何よりも、主なる神以外のものを拝まずに生きてみる。そういう一つひとつのことが、私たちが自分という土地を耕すことなのだと思います。自分を耕すと、自分の中にゴロゴロ転がっていた岩に気付くことができる。御言葉に従ってみようとしてすぐに気付くのは、全然従えない自分だということです。実際に従いもせずに「無理だ」と言いのけるのと、やってみて自分がどんなに神さまから遠いのかを思い知るのとでは全然違います。自分の罪深さに失望し、しかしそこにあるキリストの赦しにすがるとき、私たちは少しずつ良い地に変えて頂いているのではないでしょうか。

2026年9月3日木曜日

2026年9月3日の聖句

主よ、あなたに向かって目を上げます。
私はあなたを信じます。
私を死へと葬り去らないでください。(詩編141:8)
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の刺はどこにあるのか。私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。(1コリント15:55,57)

2001年に起きた同時多発テロの後しばらくして、ウォルター・ブルッゲマン先生という米国の神学者がこのような祈りの文章をお書きになりました。

「あなたの敵のために祈れ」というあなたの命令は、心に焼き付くほど明快です。ですから、これを後世のために記録させ、まだ生まれていない人々があなたを賛美するようにしてください。あなたが聖なる高みから、復活の命から地上を見下ろし、人々を満たす恐怖を抑え、戦争計画の必然性を断ち切ってくださったことを。復活の命こそがあなたの課題であり、使徒その代理人こそがあんたの「最後の敵」です。
御国の道のキリストよ、私たちの敵を贖ってください。オサマ、サダム、アルカイダ、そして破壊をもたらす彼らの多くの友人たちを。彼らの死の王国を、あなたの命の王国で侵略してください。あなたは平和の君であり、すべての新しいものの王です。「最後の敵として滅ぼされるのは、死である。」今、それを滅ぼしてください。

死はイエス・キリストの勝利に呑み込まれました。もはや死の勝利はどこにもありません。キリストの復活の命が私たちに勝利をもたらしたのです。死と死をもたらす憎しみに神が打ち勝ち、私たちをキリストの命の祝福へと招き寄せてくださっています。あなたもキリストの命の民の一人です。
この世界には、キリストの愛が必要です。主イエスさまの命をもたらす福音が必要です。あなたは憎しみや孤立を生み出す知らせではなく、平和と命、永遠の祝福に至る知らせのための使者です。今日、キリストはあなたを平和の使者としてこの世界へと送り出しておられるのです。

2026年9月2日水曜日

2026年9月2日の聖句

万軍の主はこう言われる。
あなたがたに触れる者は私の目の瞳に触れる者だ。(ゼカリヤ2:12)
また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。(1コリント1:28)

神は力のある者や世で重んじられている者、当然のように誰もが敬う人をお選びにはなりませんでした。貧しい人、軽んじられている人、弱っている人を神はお選びになりました。まるでご自分の目の瞳のように、それらの人々を思っておられる、と聖書は言います。私たちにとっては自分の目の瞳を大切にするというのは、意思ではなく反射の問題です。目の瞳に触ろうとされたら、考えるよりも先に避けます。それほど大切なものです。神さまにとって、世が「無に等しい者」と見なしている者たちはそれほど大切な存在だ、と言われるのです。
神が無に等しい者をお選びになったのは、「力ある者を無力な者にするため」だと聖書は言います。この世で重んじられている人、豊かな人、自分でやっていけると思っている人。なぜ、そのような人が無力にされるのか?この世の評判も、お金も、自身も、私たちの魂を本当の意味では救わないからです。私たちをご自身の目の瞳のように思ってくださるお方によらなければ、私たちが救われないからです。
へりくだって神様の御前に帰りたい。このお方にしかない救いを頂きたい。そう願います。

2026年9月1日火曜日

2026年9月1日の聖句

今月の聖句:
両手を労苦で満たして風を追うよりも
片手を安らぎで満たすほうが幸い。(コヘレト4:6)

今日の聖句:
あなたの贖い主
あなたを母の胎にいる時から形づくられた方
主はこう言われる。
私は主、万物を造った者。
独りで天を広げ、自ら地を踏み広げた者。(イザヤ44:24)
どんな家でも誰かが建てるものですが、万物を建てられたのは神なのです。(ヘブライ3:4)

今日は9月1日、かつて関東大震災が起こった日です。大地震と大火災の犠牲者だけではなく、不安と恐怖が引き起こした流言・デマによってたくさんの朝鮮人が虐殺されました。地震ではなく人の手で殺された方もいることを、私たちは記憶し続けなければならないと思います。
今日の御言葉は、両方とも、神さまがこの天地をお造りになった方だという信仰を告白しています。あなたを母の胎にいるときから形づくられた方は、万物をお造りになった方。御自ら天を広げ、地を踏み広げたお方。家には家を建てた大工がいるように、この世界にはこれをお造りになった創造主がおられる。
神さまの御業は私たちにはあまりにも大きく、果てしないものです。この夏は世界中で水害も多く、地震もありました。私たちはどのようなときにも、この世界をお造りになり、治めておられる神の手を信じたい。信じて、このお方を信頼したい。そして、どのようなときにも罪を犯さずに生きていきたいと願います。神を信じ、信頼し、そうであるからこそ叫び、訴え、問うことができます。そうやって神に信仰をぶつけ、そして隣人と共に生きていきたい。隣人を愛したい。疑ったり憎んだり、浮ついた言葉に心を奪われ不安のために他人を傷つけるのではなく、「共に生きる」という困難な道を選び取りたいのです。神が造ったこの大きな世界の中で。

2026年8月31日月曜日

2026年8月31日の聖句

(ヤコブによる神への賛美)「私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」(創世記28:22)
喜んで与える人を神は愛してくださいます。(2コリント9:7)

カンバーランド長老教会の信仰告白ではこのように告白しています。
「神が人類に委ねたすべてのものを、ふさわしく定期的にささげることは献身の行為であり恵みの手段である。教会に対する、また教会を通してのささげものは、すべての信仰者の特権である。ささげものに対する聖書の指針である十一献金は信仰の冒険であり、豊かに報いられる業である。十一献金者は、神の恵みを経験するだけでなく分かち合う恵みをも経験するのである。」
この告白の根拠となる聖書の御言葉の一つが、今日の旧約の御言葉です。「私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」
この言葉をヤコブが口にしたのは、ベテルという場所でのことでした。ヤコブは父を欺き兄エサウの怒りを買い、家にいられなくなってしまった。母の実家を目指して荒れ野を旅したとき、石を枕に野宿をしました。その夜ヤコブは先端が天にまで達する階段があって天使が上ったり降ったりしているのを夢に見ました。その夢を通して、ヤコブは主がここにもいてくださることを知りました。ヤコブは神を賛美して言ったのです。「私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」
ヤコブのささげ物は、誰が私を捨てても私を見捨てないでいてくださる神の愛への応答です。父をも兄をも裏切り、家にいられなくなってしまうような私をも神が憐れんでくださっている事への感謝の表れです。神の恵みがまずあって、それに応えるヤコブの一途な思いです。
私たちは、神の恵みをどのように味わっているでしょうか?「まだ足りない」と不満を抱いて生きるのか、あるいはこのような私への神の憐れみに感謝を献げるのか?静かに祈り、受け止めなおしたいと思うのです。

2026年8月30日日曜日

2026年8月30日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。(マタイ25:40)

今日の聖句:
主の使いがエリヤに触れ、「起きて食べなさい。この道のりは耐えがたいほど長いのだから」と言った。(王上19:7)
(嵐の中でのパウロの言葉)「どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」(使徒27:34)

今日の御言葉はどちらも絶望している人への言葉です。預言者エリヤはイスラエルの国を支配していた恐ろしい王妃イゼベルに命を狙われていました。逃避行に疲れたエリヤは神さまに言っています。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。」
嵐の中でパウロが語りかけたのは、パウロが囚人として護送されていた船が暴風で難船したときに一緒にその船にいた人々です。すさまじい暴風のために船は破損し、嵐の中で生きる望みは絶たれていました。人々は14日間も不安に過ごし、殆ど食事することができずにいたのです。
主の使いはエリヤに「起きて食べなさい」と言います。パウロは船の人々に「どうぞ何か食べてください」と言います。絶望して生きる望みを失い、食べる気力を失った人に、神さまは「食べなさい」と語りかけてくださるお方です。それは、神さまが私たちの命を気にかけていてくださる、ということではないでしょうか。
私たちの進む道のりは、時に、私たちには耐えがたく長いものになります。どうなるか見通しが立たず、不安で、迷ってしまう道になってしまいます。その道を共に歩んでくださるお方がおられます。私たちと同じ、お腹が減る肉体を持った方です。食べなければ体力がなくなり、どんどん弱ってしまう肉体。食欲がなく、食べても美味しいと感じられず、心の弱さと肉体の弱さが直結していることを誰よりもよくご存じのお方です。
今日私たちがつく食卓に、そのお方は共にいてくださいます。私たちの箸の上げ下ろしも、主イエス・キリストの御手の中にあるのです。

2026年9月6日の聖句

今週の聖句: わがたましいよ、主をほめたたえよ。 主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩編103:2) 今日の聖句: 人のそしりを恐れるな。彼らの罵りにおののくな。(イザヤ51:7) 神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思...