主を愛する者よ、悪を憎め。(詩編97:10)
きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。(1テサロニケ5:14)
今日の御言葉から新しい思いで教えられるのは、「すべての人に寛大でありなさい」というのは「悪を愛する」とか「悪を大目に見る」ということではない、ということです。「主を愛する者よ、悪を憎め」と聖書は教えます。それではいかなる意味での悪を憎まなければならないのか。というのも、私たちはたいていの場合、自分は正しいと信じていますし、自分が憎んでいるものは悪なのだ、と思い込んでいるからです。つまり、単に自分が気に入らないだけなのに「悪は自分の外にあり、正義は自分の中にある」と勘違いしてしまうのです。
ここで聖書は「秩序を乱す者を戒めなさい」と言っています。「秩序」です。これは、自分勝手な意味での正義ではないということではないでしょうか。「秩序」というからには共同体が関わっているはずです。ここで問われているのは「教会共同体を建て上げる」という意味での正義であり、「教会共同体を毀損する」という意味での悪なのだと思います。
しかしここでもやはり私たちの正義や悪はとても厄介です。私たちは何かがあればすぐに教会を傷つけているのは相手だと思って自分を正当化します。本当の意味で教会を損なっているのはあの人だと相手を断罪します。そうすると大切なのは、教会を形成するというのはどういうことか、ということではないでしょうか。
教会はキリストの体です。教会がまことにキリストの体として建て上げられるためには、何よりもキリストにある愛が大切なのでしょう。だから聖書は「気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい」と言います。気落ちし、弱くなっている人に向かう愛に教会の実力あるいは教会に生きる者としての私の信仰の力が問われるのであると思います。へりくだりが問われます。主がしてくださったように、相手のために命を差し出す愛が求められます。そのことに気付いたとき、そこには傲慢にも他人を断罪する余地は消え失せるのではないでしょうか。ただひたすらに主の憐れみをこいねがい、主の愛を願い求める。それしか私たちにはないのです。
きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。(1テサロニケ5:14)
今日の御言葉から新しい思いで教えられるのは、「すべての人に寛大でありなさい」というのは「悪を愛する」とか「悪を大目に見る」ということではない、ということです。「主を愛する者よ、悪を憎め」と聖書は教えます。それではいかなる意味での悪を憎まなければならないのか。というのも、私たちはたいていの場合、自分は正しいと信じていますし、自分が憎んでいるものは悪なのだ、と思い込んでいるからです。つまり、単に自分が気に入らないだけなのに「悪は自分の外にあり、正義は自分の中にある」と勘違いしてしまうのです。
ここで聖書は「秩序を乱す者を戒めなさい」と言っています。「秩序」です。これは、自分勝手な意味での正義ではないということではないでしょうか。「秩序」というからには共同体が関わっているはずです。ここで問われているのは「教会共同体を建て上げる」という意味での正義であり、「教会共同体を毀損する」という意味での悪なのだと思います。
しかしここでもやはり私たちの正義や悪はとても厄介です。私たちは何かがあればすぐに教会を傷つけているのは相手だと思って自分を正当化します。本当の意味で教会を損なっているのはあの人だと相手を断罪します。そうすると大切なのは、教会を形成するというのはどういうことか、ということではないでしょうか。
教会はキリストの体です。教会がまことにキリストの体として建て上げられるためには、何よりもキリストにある愛が大切なのでしょう。だから聖書は「気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい」と言います。気落ちし、弱くなっている人に向かう愛に教会の実力あるいは教会に生きる者としての私の信仰の力が問われるのであると思います。へりくだりが問われます。主がしてくださったように、相手のために命を差し出す愛が求められます。そのことに気付いたとき、そこには傲慢にも他人を断罪する余地は消え失せるのではないでしょうか。ただひたすらに主の憐れみをこいねがい、主の愛を願い求める。それしか私たちにはないのです。