2026年3月20日金曜日

2026年3月20日の聖句

見てください、私の苦しみと労苦を。
取り除いてください、私の罪のすべてを。(詩編25:18)
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。(ローマ7:24~25)

今日の二つの御言葉が並べられているのを見て、驚きました。「私はなんと惨めな人間なのでしょう」と私が思うとき、恐らくそれは自分にとっての苦しみや労苦をとても感情的に捉えて言っているに過ぎない言葉になってしまうと思います。ところが、ここでは自分の罪を自分の惨めさと捉えています。
私が惨めなのは、私が罪を犯しているからです。罪人として、神に呪われた者として死ぬべきわたしの罪深さ。神が愛をもって、善い者として造ってくださったのに、神や隣人を憎んで逆さまな者になってしまった。苦しみの奥にある私の惨めさの正体をここで見据えています。
今日の旧約の御言葉も、よく読むと既に罪を問題にしています。「見てください、私の苦しみと労苦を。取り除いてください、私の罪のすべてを。」ここでもやはり「私の苦しみと労苦」は私の罪と深く結びつけられて理解されています。私が惨めな罪人だという現実が労苦を生み出している。そしてそれに喘ぎながら苦労して生きていると自分で自分を誇る・・・。こういうことをマッチポンプと言うのでしょうか。
ところが使徒パウロは突き抜けた福音を語り出します。「死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」主イエス・キリストこそが私の罪と悪と死の現実を突き破り、私を命に救いだしてくださる。神への賛美は、私の罪が王様のような顔をしている現実への強烈なアンチテーゼです。別の王がいること、真の王がおられることを確信し、このお方に栄光を帰す。私を救ってくださるお方は、私の外から来て私の罪を解決してくださるお方だけ。聖書はそう告げているのです。

2026年3月19日木曜日

2026年3月19日の聖句

しかし私は、群れの残りの者を、追いやったすべての地から集め、自分たちの牧場へ帰らせる。彼らは多くの子を産み、増える。(エレミヤ23:3)
(イエスの言葉)私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。(ヨハネ10:10)

預言者エレミヤは、ユダの国が滅んでいく時代の人物です。国が坂道を転がり落ちるようにして悪くなり、自滅していく時代に生き、神さまからのメッセージを語って警告し、信仰へと連れ戻そうとした。神の言葉を語り続けました。しかし、ユダの国も、そこに生きる人々も、加速度的に神さまから離れ、滅亡に突き進んでいきます。
この預言者のすごいところは、そういう時代を目の当たりにしながら、ただただ滅びや裁きだけを語ったのではない、というところだと思います。私たちは両極端のどちらかに触れてしまいがちだと思います。つまり、「あまり深刻にならなくていい、大丈夫だ」と事態を甘く見てしまう。あるいはその逆に、「もう終わりだ、何の希望もない」とひたすら悲観的になって諦めてしまう。エレミヤは、裁きの言葉を語りながらもそれだけに終始したわけではありません。「しかし私は、群れの残りの者を、追いやったすべての地から集め、自分たちの牧場へ帰らせる。彼らは多くの子を産み、増える。」主なる神さまによる回復の希望をも語ったのです。
これは私たちにも大きな示唆を与える言葉であると思います。心ある人が「今」を見れば、その悪さに耐えがたい時代ではないでしょうか。今この時代は、徹底的に神さまから果てしなく遠いところに迷い出てしまいました。この時代に生きる一人のキリスト者として本当に神さまに申し訳ないことです。しかし私たちにとって、周囲を裁いていたずらに悲観的になってみせるということもまたふさわしくないのだと思います。私たちはキリストを信じています。この時代にあって。今を生きる私たちの救い主であるお方として、キリストを信じている。だから、私たちにもなお希望がある。「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。」キリストは今を生きる私たちの世界に命を与えるために来てくださいました。このお方が実現してくださった救いを、この世界の中で証しすることが私たちの務めです。今を生きる私たちの救いは、イエス・キリストにあるのです。

2026年3月18日水曜日

2026年3月18日の聖句

私を顧み、憐れんでください。
あなたの僕に力を与えてください。(詩編86:16)
よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。(ヨハネ16:23)

私たちのお祈りは、多くの場合「主イエス・キリストの御名によって、アーメン」と終わります。「主イエス・キリストの御名によって」というのは、祈りを終えるための締めの言葉ではありません。キリストが「私の名によって祈れ」と教えてくださったから、私たちはキリストのお名前におすがりして祈っているのです。
例えば悪いことをしてしまったとき、子どもは親に一体どうやって事の顛末を説明し、謝ったらいいのか分からなくなってしまいます。親は怒っているだろうか、赦してくれるだろうか。そんなときに母が「わたしも一緒に謝ってあげるから」と言ってくれたら、どんなに気持ちが軽くなることでしょうか。父の前に進み出る勇気が湧いてくるでしょう。
主イエスは御自分のお名前で祈るように、と私たちに教えてくださいました。神さまの愛する独り子のお名前で私たちは祈っていいのです。神は必ず聞いてくださいます。そして私たちがイエスのお名前で祈るときに知ることは、神は実は怒って私たちを罰するお方ではなく、独り子を与えてくださるほどにわたしを愛してくださるお方だった、という事実です。
「私を顧み、憐れんでください。あなたの僕に力を与えてください。」私たちも、神さまを信頼して同じように祈ります。キリストのお名前で!主イエスさまの憐れみに導かれるようにして、神の憐れみを求めて祈ることができる。この祈りが私たちの力となるのです。

2026年3月17日火曜日

2026年3月17日の聖句

しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。(申命記32:39)
(イエスの祈り)「父よ、あなたはすべての人を支配する権能を子にお与えになりました。こうして、子はあなたから賜ったすべてのもの、つまり永遠の命を彼らに与えることができるのです。」(ヨハネ17:1~2)

キリストこそ真の王でいらっしゃると聖書は私たちに証しします。「キリストこそ王」という言葉自体は私たちもよく耳にするし、言葉として知識としてはよく知っていることではないでしょうか。しかしそれがわたしにとって実際のところ何を意味しているのかとなると、少し心許なくなるところがあるかもしれません。
「しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。」
主はそのように言われます。私たちの神であり、王である方、私たちを支配されるお方は、私たちの命に対して権威を持っておられる。
イランから、辛いニュースが日々もたらされます。この世の中で権力を持っている人は、他人の人生を大きく変えてしまったり、時にそれを奪ったりしてしまいます。恐ろしいことです。自分にそういう権威があると考えているのでしょうか。人間や、人間の造り出した悪は時にまるで命を奪う力をもっているかのように振る舞います。しかし、罪や悪には命を造り、与える力はありません。命を与え、生かし、癒やすことはできない。
私たちは神さまの前に謙虚にへりくだらなければならないのではないでしょうか。本当はこのお方にしか命に対する権威がないことを、身を低くして認めなければならないのではないでしょうか。神を王として崇めることを止めると、人間は化け物になります。ただ神だけが殺し、生かす権威をお持ちでいらっしゃることをへりくだって認めるところから平和が始まるのではないでしょうか。

2026年3月16日月曜日

2026年3月16日の聖句

神よ、若いときからあなたが教えてくださったので
今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。(詩編71:17)
(パウロのテモテへの手紙)あなたは子どもの頃から聖書に親しんできました。この聖書が、キリスト・イエスに対する信仰を通して幸いに至る道を悟らせてくださるのです。(2テモテ3:15)

神学校で「釈義」というものを教わります。聖書に書いてあることを深く理解するためのいろいろな学問的手続きです。19世紀から20世紀にかけて、この分野の研究が進み、さまざまな学問的手続きが生まれました。ただ、正直言ってなかなかに難しく、私にとっては十分に理解できたとは言えないままに神学校を卒業してしまったところも少なからずありました。そんな私にとって大きな示唆をくださったのが、上智大学で教鞭を執っておられ、カトリック教会の司祭でもある雨宮慧という先生が提示しておられる釈義の方法でした。直接お目にかかることもなかなかできなかったので、半ば私淑するようにして雨宮先生の御著書を読み、ラジオでの放送を聞き、学びました。私の聖書の読み方に大きな影響を与えてくださった先生です。
あるとき、念願叶って雨宮先生に直接お目にかかる機会を得ました。お昼ご飯も一緒に頂きました。先生に質問し、答えて頂いた。その時に先生がおっしゃったのです。「私は、聖書には何と書いてあるかに関心があるのです。」神学者としては当たり前の言葉なのかもしれません。しかし私は深い感銘を受けました。本当にその通りと思います。
「この聖書が、キリスト・イエスに対する信仰を通して幸いに至る道を悟らせてくださるのです。」私たちに信仰を与え、幸いに導くのは、聖書の御言葉です。巷で聞こえるもっともらしい話とか、いい話ではない。聖書とその福音こそが私たちをキリストと出会わせ、信仰を与え、私たちに幸いを与える。その聖書の語る福音の言葉は今日も私たちに与えられています。神の語りかけに、日々耳を傾けていきましょう。

2026年3月15日の聖句

今週の聖句:
その麦が、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)

今日の聖句:
助けることも、つまずかせることもできる力が神にはあるのです。(歴代誌下25:8)
二羽のスズメは1アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。(マタイ10:29,31)

「アサリオン」は新約聖書の時代の通貨の単位で、「デナリオン」の1/16の価値だそうです。1デナリオンは労働者の一日分の賃金と言われています。1アサリオンで雀二羽。一日働いた労働者がそれを数羽買って、家族の食事にしていたのでしょう。高級食材ではありません。多くの人が買って飢えをしのぐことのできる庶民の食材です。そんな雀の一羽でさえ、神は御心に留めていてくださる。一羽の雀の命さえも神が支えておられる。ましてあなたがたはたくさんの雀よりも価値がある。ましてあなたのことを神がお忘れになることがあろうか。いや、ない。万が一にもない。だから恐れるな、と主イエスは言われます。
主は、私たちの恐れを見抜いておられます。自分の命の価値について神に信頼することができないところから生まれる恐れです。自分で自分の命を守らなければならないと思い込むところに生じる恐れです。私たちの命は、神が慈しんでくださるほどに値が高いのだと主は告げてくださっています。この神の愛を信じてほしい。それが主イエスが今日私たちに告げてくださっている福音です。

2026年3月14日土曜日

2026年3月14日の聖句

私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導きだした者である。(出エジプト記20:2)
愛するきょうだいたち、自由へとあなたがたは召されたのです。ただ、この自由を、身勝手であることの言い訳にはせず、愛をもって互いに仕えるようにしなさい。(ガラテヤ5:13)

我が家の子どもたちがもう少し小さかった頃、教育テレビを見ていたら「お天気自動販売機」という歌が流れていました。明日は晴れてほしい人がお天気自動販売機で晴れの天気を買う。別の人は雨になってほしい、他の人は雪、やっぱり晴れ・・・と、いろいろな人が自動販売機に注文するので、天使がめまぐるしく変わって混乱する、という愉快な歌です。コミカルで笑いを誘う歌ですが、恐ろしい歌です。お天気に限らず、神さまを自動販売機のように自分の注文を黙って聞いてくれる僕にしてはいないか、と考えさせられます。
神さまは自由なお方です。私たちの僕ではありません。しかししばしば私たちは神さまを自分の下僕のように扱います。自分の願いのとおりにしてくれて当然、そうではない神なんて信じるに値しない、と。そうやって神さまを自分に仕えさせるような礼拝や祈りを、聖書は「偶像崇拝」と呼びます。しかし神さまは偶像に貶められてはならないお方です。自由な方、聖なる方です。神さまは私たちが自分を正当化するための手段ではないし、私たちの便利に仕える奴隷ではないのです。
自由な神の僕であるから、私たちもまた自由な存在です。神の自由を映し出すところに人間の尊厳があるのだと思います。だから、私たちがもしも他人の自由を毀損するとしたら、それはあってはならないことなのではないでしょうか。私たちは自分に与えられた自由を身勝手の言い訳にしてはならない。自由な神の僕として、神が私にしてくださったように自由な愛に生きるために私たちは召されたのです。

2026年3月20日の聖句

見てください、私の苦しみと労苦を。 取り除いてください、私の罪のすべてを。(詩編25:18) 私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。(ローマ7:24~25) 今日の二つの御言葉...