2026年10月15日木曜日

2026年10月15日の聖句

主は、ご自分に希望を置く者に
ご自分を探し求める魂に恵み深い。(哀歌3:25)
見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。(黙示録3:20)

今日の新約の御言葉の後半は、少し変わった表現をしていると思います。「もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」普通は、「もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をするであろう」で終わりだと思います。主イエスは、ご自分のノックの音を聞いて扉を開く者と一緒に食事をしてくださる。そこで話が完結していても差し支えない。ところが続きがあります。「彼もまた私と共に食事をするであろう」。彼も主イエスと食事をする。主イエスが彼と一緒に食事をなさるということを裏返せば、彼は主イエスと一緒に食事をする、ということです。どうして、同じ内容を繰り返しているのでしょうか。「主イエスが・・・」だけで完結してもよさそうなものなのに。
主は、私たちが主と共に食事をする、という私たちの側の主体性を大事になさったのではないかと思います。主が来てくださって、主が私と一緒に食事をしてくださった、と受け身でいるだけではない。私が主をお迎えし、私が主と共に食卓に着き、私が主と共に食事を頂く。私たちの側でも積極的に主を受け入れて、主との食事を喜ぶ、という姿勢を大事になさったのではないかと思います。
今日の旧約には「主は、ご自分に希望を置く者に、ご自分を探し求める魂に恵み深い」と書かれています。私の希望を主におく。私の魂は主を捜し求める。この積極性です。私たちの信仰は「棚からぼた餅」式のものではないのです。
今日、主はあなたの戸口に立って叩いておられます。あなたがこの戸を開けることを待っておられます。主はあなたの食卓に共につこうとしておられます。そこにあなたが迎え入れてくれることを、主は待っておられます。主はあなたを訪ね、あなたと出会おうとされているのです。

2026年10月14日水曜日

2026年10月14日の聖句

光は正しき人に
喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。(詩編97:11)
宴会を催すときには、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。(ルカ14:13~14)

私たちが日ごとの祈りのために用いている「日々の聖句」では、上に書いてあるとおり今日の旧約の御言葉にこの新約の御言葉を合わせて提示しています。御言葉が新しい響きを立てる組み合わせだと思います。
神さまが私たちに求めておられる正しさ、心のまっすぐさ、それは宴会に体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招くことです。不便を覚えて生きている人、あるいは恐らく社会の中で差別されている人、あるいはいろいろな意味で弱さを抱えている人。彼ら彼女らと共に生き、その不都合を共に負う。それが神さまが私たちに求めておられる正しさであり、心のまっすぐさなのではないでしょうか。
その人には神さまの光が差す。その人を神さまが喜ばせてくださる。この明るい喜びは、共に生きることそのものがもたらす喜びに違いないと思います。自分と異質な他者と共に生きることに神さまが喜びを与えてくださる。共に相手の不自由を負い、一緒に生きることを喜びとして仕え合うことを喜びとするように、神さまは私たちを造ってくださったのです。
私たちが今日出会う人と、私たちはどうやって共に生きるのか?主イエスさまは私たちにそのことを問うておられるのではないでしょうか。

2026年10月13日火曜日

2026年10月13日の聖句

私たちもまた主に仕えます。
この方こそ私たちの神だからです。(ヨシュア24:18)
イエスは、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。(ルカ5:27~28)

私たちも代々の信仰者たちと一緒に告白します。「私たちもまた主に仕えます」と。主に仕え、主を礼拝し、主に従うたくさんの信仰者たちの中に、私たちも喜んで加わります。それは、私たちが主を自分の神として選んだからではない。話はまるで逆です。主が私たちの神となってくださり、主が私たちを選んでご自分の民としてくださったから。私たちは主が御自ら、「この方こそ私たちの神」という信仰を与えられた者たちです。
主イエスは徴税人レビに向かって、「私に従いなさい」とおっしゃいました。だからレビは従った。聖書はとっても事柄をシンプルに伝えています。聖書は、レビがこれまでどうやって生きてきたのか、友だちがいたのかいなかったのか、人生に満足していたのか、町の中でどう扱われていたのか・・・と言ったことについては興味を持っていないようです。それよりももっと大事なことがある。主イエスが彼を見て、主イエスが彼に声をおかけになった。それがすべてです。
私たちにもそれぞれに抱えている事情や状況、気持ちの問題もいろいろあるでしょう。しかし本当に大切なことは一つです。主があなたをご覧になり、主が御声をかけておられる。それだけです。主イエスが私たちの神でいてくださる。だから私たちはこのお方に仕えるのです。

2026年10月12日月曜日

2026年10月12日の聖句

私は過ぎ去った日々を思い起こし
あなたの行ったことを一つひとつ思い返し
御手の業を思い巡らします。(詩編143:5)
(マリアの言葉)その慈しみは世々限りなく
主を畏れる者に及びます。(ルカ1:50)

今日の旧約の御言葉では、表現を変えながら繰り返し「思い起こす」ということを言っています。過ぎ去った日々を思い起こす。その「過ぎ去った日々」に一体何があるのか。この詩編作者は、そこにある神の御業を思い返しています。「あなたの行ったことを一つ一つ思い返し、御手の業を思い巡らします。」神さまがしてくださったこと、その恵みの御業、神さまの憐れみを思い巡らしています。
この一人の信仰者は、これまで神さまの御業をこれまで体験してきました。たくさん味わってきました。過去を振り返ると、そこには神の恵みが見えてくる。神さまに愛され、生かされてきた私だという事実に今気付いている。そういう「恵みの過去」がここで言われていることではないでしょうか。
今日の新約はマリアの賛歌です。マリアは歌います。「その慈しみは世々限りなく、主を畏れる者に及びます。」マリアの目は将来に向かっています。主の慈しみは世々限りない。とこしえに、永遠に変わることのない慈しみは主を畏れる者に必ず及ぶ。
私たちの過ぎ去った日々をたくさんの恵みで生かしてくださった神さまは、今も、そして世々限りなく慈しみを示してくださる。私を憐れみ続けてくださる。神の愛は昨日も、今日も、永遠に変わることがない。その絶対的で圧倒的な神の祝福の事実が私たちを永遠に覆っているのです。

2026年10月11日日曜日

2026年10月11日の聖句

今週の聖句:
主よ、癒やしてください。
そうすれば癒やされます。
救ってください。
そうすれば救われます。(エレミヤ17:14)

今日の聖句:
(ギデオンの言葉)私はあなたがたを支配しない。主があなたがたを支配される。(士師記8:23)
トマスは答えて、「私の主よ、私の神よ」と言った。(ヨハネ20:28)

今日の二つの御言葉の組み合わせがとても面白いと思います。どうしてこの二つなのでしょうか。
新約には使徒トマスが登場しています。主イエスの十二人の弟子の一人です。主イエスが復活して弟子たちのところへ来てくださったとき、彼はその場にいませんでした。後で仲間たちが口々に主は復活して私たちのところへ来てくださったというのを聞いて、彼はそれを受け入れることができませんでした。それから一週間して、今度はトマスも一緒にいるところへ主イエスが来てくださった。その時トマスは主に言ったのです。「私の主、私の神よ」。
この話で私が好きなのは、主イエスの二回目の訪れまでに一週間という時間があったことです。その間、トマスはいろいろなことを考えたと思います。仲間たちも必死に説得したでしょう。悩んだり迷ったり揺れたりする一週間がトマスのために残されていました。そして、その間も信仰共同体に包摂されていた。だからこそ一週間後にはトマスも他の仲間たちと一緒にいた。そういうところが良いな、と思います。
ギデオンは士師と呼ばれる民の信仰的なリーダーでした。ギデオンは人々に言います。「私はあなたがたを支配しない。主があなたがたを支配される。」ギデオンは人を無理に支配しない。主が御支配なさる。そのことを信じていたのです。
私たちにも、心配なことや不安なこと、信じられなくなってしまうことだって起こりうるでしょう。しかし、そのときにも主は私たちのための「一週間」を残してくださっています。大切なことは、その間も信仰共同体の一員だということです。誰もあなたを支配することはできない。キリストだけが私たちの主ですから。しかし共に主を待ち望みましょう。主のご訪問をお受けしましょう。あなたも私たちの信仰共同体の大切な一人なのです。そして、主は、あなたの口に再び「私の主よ、私の神よ」という告白を授けてくださいます。

2026年10月10日土曜日

2026年10月10日の聖句

主の手は短いのだろうか。(民数記11:23)
弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った。(マルコ4:41)

「主の手は短いのだろうか。」つまり、神さまには力がないのだろうか、何もすることはできないのか、結局は無力で祈っても無駄ではないか。そういう問いです。あなたは、どう思いますか?主の手は短いのでしょうか?
私たちにそう思わせるような出来事はたくさん起きています。この世界で数多起きている悲惨や不正、権力ある者の横暴、あるいは自然災害などもそうかもしれません。どうしてこのようなことが?神がおられるなら、なぜ?私たち自身もそう思うかもしれないし、また私たちがそういう問いに晒されることも少なくないのです。
今日の新約は弟子たちの言葉が伝えられています。主イエスについて、彼らは言いました。「一体この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」これは、ガリラヤ湖での出来事です。夕方になって主イエスに促されて弟子たちは向こう岸へ渡るために船に乗り込みました。すると激しい突風で舟は水浸しになってしまった。弟子たちは溺れ死ぬと思いましたが、主イエスは艫の方で枕して眠っておられます。彼らは主を起こし、主は彼らのために風を叱り、湖を静めてくださった。
マルコがこの出来事を福音書に伝えたとき、恐らく彼は単なるイエス様のすごいエピソードとして伝えたのではなく、もっと具体的な身の回りの教会の状況を思いながらこれを書いた筈です。つまり、マルコを取り巻く教会の状況は、この時の湖の上で突風に襲われる舟と同じだったのです。ところが主イエスは、まるで眠っておられるように何もしてくださらない。神さまは一体何をしておられるのか?無力なのか?私たちを救うことなんてできないのではないか?しかし、主の御言葉が響くとき、新しい出来事が起こる。湖を静め、私たちを滅びから救ってくださる。ちょうど、無力にも十字架にかけられた主イエスが三日目に復活させられたのと同じように。主イエスは眠っておられるように見えたけれど、実は復活して私たちとずっと共にいてくださった。マルコはそういう信仰をここで伝えているのだと思います。
私たちの信じる主なる神さまは、一見すると無力です。眠っておられるみたいです。しかし、それが十字架というしるしの意味です。私たちの神の子は無力にも十字架の上で殺された。しかし、そのお方が復活して今も共にいてくださる。私たちはこのお方の力と救いを信じます。このお方には私たちを救う力がある。そのことを信頼します。

2026年10月9日金曜日

2026年10月9日の聖句

見よ、主なる神が私を助けてくださる。
誰が私を罪に定められよう。(イザヤ50:9)
死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。(ローマ8:34)

私たちのキリスト、王でいらっしゃるお方、まことの神の子イエスが私たちのために今日も祈っていてくださいます。神の右で、神の一番近い場所で私たちのために神さまに祈りを捧げていてくださいます。十字架にかけられ、復活したお方です。私たちのために死者の中から甦らされたお方です。私たちを愛してやまない主イエスさまが今日していてくださるのは、私たちのための執り成しの祈りなのです。
なんて深く安心な事実なのでしょう!主イエスさまの祈りがあるから、私たちには何があっても大丈夫。誰が私に敵してもなんてことはない。代々の信仰者たちはそのことを固く信じ、喜んでキリストに仕えました。
それは、まさに今日の旧約の御言葉が言うとおりです。「見よ、主なる神が私を助けてくださる。誰が私を罪に定められよう。」主なる神さまが私を助けてくださる。誰も私を罪に定めることはできない。神から引き離すことはできない。神ご自身が私の味方でいてくださるから。
今日私たちがどこにいても、何をしていても、主は私たちのための祈りを決してお止めになることはありません。この完全な平安と絶対的な約束の中に、私たちの一日はおかれているのです。

2026年10月15日の聖句

主は、ご自分に希望を置く者に ご自分を探し求める魂に恵み深い。(哀歌3:25) 見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。(黙示録3:20) 今日の新約...