2026年10月24日土曜日

2026年10月24日の聖句

主はその聖なる腕を
すべての国民の目の前に現されました。
地の果てのすべての者が、
私たちの神の救いを見る。(イザヤ52:10)
あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。(エフェソ2:19)

ほんの少し前まで、日本社会には差別がない、日本人は差別をしない、とまことしやかに言われていたような記憶があります。外国で人種差別をしているとか、宗教差別をしているとか、そういう話を聞くときに「日本人はそのようなことをしない」と私たちは嘯いていました。しかしこのほんの数年で、とんでもない嘘だったことが明らかになってしまいました。クルド人や「不法滞在」と呼ばれる人に対する激しい差別があからさまに吹き出している。観光地にたくさんの外国人がいるのを見るだけでイヤな気持ちになる。結局、私たちも激しい差別感情を隠し持って生きてきたのです。
神さまは教会を、ユダヤ人も異邦人もなく一つの聖なる民として生み出してくださいました。キリストの教会は、神の家族です。「あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。」私たちはこの言葉を、本気で「福音」として受け止めなければならないのです。国籍や民族性だけの話ではありません。生活習慣や異なる常識などもそうでしょう。もう少し敷衍して言えば、世代間ギャップや異なる歴史に生きてきた教会のような、私たちの常識の外にあるすべての人のことでもあると思います。そういう「ノイズ」を、私たちは、神の聖なる民への祝福として受け入れているでしょうか?
「主はその聖なる腕を、すべての国民の目の前に現されました。地の果てのすべての者が、私たちの神の救いを見る。」すべての国民に。地の果てのすべての者が。神さまの御業は、私たちが思っているよりもはるかに大きくて広い。私たちの生活者としての感情を揺さぶり、それを疑問に付してしまうほどに。私たちにとってそれは時には厄介な広がりです。しかし、その厄介さこそが神さまの尽きることのない祝福への入り口なのです。

2026年10月23日金曜日

2026年10月23日の聖句

その日が来るーー主の仰せ。
私はダビデのために正しい若枝を起こす。
彼は王として治め、悟りある者となり
この地に公正と正義を行う。(エレミヤ23:5)
シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です。」(マタイ16:16)

旧約聖書を読んでいて私が最近とても気になっているキーワードは「公正と正義」です。例えば申命記にこのように書かれています。「あなたがたの神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神、偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、孤児と寡婦の権利を守り寄留者を愛してパンと衣服を与える方である。(10:17~18)」主なる神さまは孤児や寡婦、寄留者に対して公正な方です。偏り見ずに彼ら彼女らが生きることができるように、私たちも公正であることを命じておられます。
あるいはそれに答えるようにして、詩編72にはこのような祈りの言葉が記されています。「王が、叫び声を上げる貧しい人を、助ける者もない苦しむ人を救い出しますように。弱い人、貧しい人を憐れみ、貧しい人の命を救い、虐げと暴力からその命を贖い、王の目にその人たちの血が貴いものでありますように。」これこそ、王が貫徹すべき正義です。神の民の王の正義は、秩序(それはしばしば権力者に取って都合の好い「秩序」です)を守ることではなく、正義を貫いて弱い人や貧しい人を守ることです。
ところが、イスラエルの国にはそういう王は殆ど現れませんでした。いても一時的な者で、殆どが不公正で不正義な王ばかり。いや、イスラエルのことだけではない。世界中殆どの王たちも同じです。私たちは、神が立ててくださる真の王を待ち望むのです。「その日が来るーー主の仰せ。私はダビデのために正しい若枝を起こす。彼は王として治め、悟りある者となり、この地に公正と正義を行う。」
神さまは、イエスという真の王を私たちに与えてくださいました。私たちは王であるメシア・イエスの民です。公正と正義を実現してくださるのは、この王です。

2026年10月22日木曜日

2026年10月22日の聖句

主が私たちを造られた。
私たちは主のもの。
主の民、その牧場の羊。(詩編100:3)
(イエスの言葉)私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。(ヨハネ10:14)

主イエスさまは私たちの羊飼い!
何とすばらしいイメージでしょう。主は私たちのための羊飼いでいてくださって、私たちを養うために必要なことをすべてしてくださる恵みと慈しみに満ちたお方です。主は私たちを緑の野に伏させ、憩いの汀に伴ってくださいます。そして何よりも、主は私たちを知っていてくださいます。「私は自分の羊を知っており・・・。」主に知られているという事実こそ、私たちの救いそのものです。
私たちは、普段何気なく、自分のほうに決定権があるように思い込んでいるのではないでしょうか。主を知るか知らないか、信じるか信じないか、主イエスさまのもとにいるかいないか。こっちにキャスティングボードがあるように思い込んでいる。しかし、事実はそうではないのです。私たちは主の牧場の羊です。確かに私たちも主を知っています。「羊は私を知っている」と言われるとおり。しかしそれは、羊飼いであるお方が羊を知っていてくださることの中で、私たちは主を知る。主が羊飼いでいてくださって私たちを知っていてくださる、という事実がまず先にあるのです。
「主が私たちを造られた。私たちは主のもの。」私たちのための救いのメッセージです。私たちへの尽きることのない愛の言葉です。羊飼いキリストの手は、今日も主の羊である私たちに伸ばされています。

2026年10月21日水曜日

2026年10月21日の聖句

主は常にあなたを導き
干上がった地でもあなたの渇きを癒やし
骨を強くされる。(イザヤ58:11)
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。(マタイ6:11)

神さまは私たちの肉体にも強い関心をお持ちです。私たちに、日ごとの糧のために神に祈れと主イエスはお教えくださいました。干上がった地での渇きを癒やし、衰えやがて脆くなる骨を強くしてくださるのも、神さまがしてくださることだと聖書は言います。
私たちの心だけ、精神だけの世界で神さまを感じるとか、高尚な霊の次元で神さまに向かうとか、聖書はそのようなことを言わないのです。お腹が減り、喉が渇き、時には弱って衰えるこの肉体。病気にもなるし、年も取る。思い通りになかなかなってくれないこの肉体をもって神さまに関わる。それが私たちの信仰です。
ですから「私たちに日ごとの糧を今日お与えください」というのは本当に大切な祈りです。私たちの心も体も魂も全存在が神さまのものです、という告白です。この私を生かしてくださるのはあなたです、という信頼の告白です。今日も主イエスさまが教えてくださったとおりに祈りましょう。
そして、この祈りを必要としているのは「私」だけではありません。肉体を持って生きるすべてのものが神の命への助けを必要としています。「私たちに日ごとの糧を今日お与えください。」この祈りの「私たち」の広がりを真摯に受け止める。そこに私たちの愛が問われているのではないでしょうか。

2026年10月20日火曜日

2026年10月20日の聖句

彼らは金の神々を造りました。
どうか彼らの罪をお赦しください。(出エジプト記32:31~32)
(パウロの言葉)道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう。(使徒17:23)

偶像の特徴は、いろいろな顔や姿を持っていることです。単に「像だからいろいろな形がある」というだけではありません。偶像というものの持っている、何か本質的なことがそこにはあるのだと思います。
エジプトから脱出したヘブライ人たち。モーセに導かれてシナイ山にたどり着きました。モーセは神に仕えるためにその山に登った。しかしなかなか降りてこない。それで、彼らは自分たちの持っていた貴金属を寄せ集めて金の子牛の像を造ってそれを拝みました。「彼らは金の神々を造りました。」
金だった、というところにこの時のヘブライ人たちの思いが表れているのだと思います。それは富や豊かさの象徴かもしれません。彼らはこれまで奴隷でしたから。あるいは権威や高貴さを欲したということかも知れない。力の誇示、いかにも安心できそうな権力の現れだったのかもしれません。人間の欲望が偶像の神を造るし、その欲がいろいろな顔を神々に押しつける。ですので、問題は「像」ではなく、私たち人間の貪欲です。私たちの貪欲がいろいろな顔や形を押しつけて、像が生まれるのです。
しかしこのような偶像でさえも、もしかしたらそれは私たちが神を求める者であるということの欠片なのかもしれません。私たちは実は「知られざる神」をいつも求めていて、しかしそれをどう求めて良いか分からなくて、結局は自分たちの欲望を神にしてしまっている、ということであるのかもしれません。
私たちが神を知るには、ただただ、神様ご自身が私たちのところに来てくださるのを待ち望むより他ない。そして、イエス・キリストという方において、神さまは実際に私たちのところへ来てくださったのです。私たちが思ってもみなかったお方として。私たちの想像を超えたすばらしいお方として。十字架にかかって私たちの貪欲を裁き、赦し、癒やしてくださるお方として、キリストは私たちのところへ来てくださったのです。

2026年10月19日月曜日

2026年10月19日の聖句

祭司の唇は知識を守り
人々は彼の口から律法を求める。
彼こそ万軍の主の使者だからである。(マラキ2:7)
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。(2テモテ4:2)

神さまは私たちをこの世界の祭司としてくださいました。祭司は祈り、礼拝し、御言葉を証しする者です。「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から律法を求める。彼こそ万軍の主の使者だからである。」神さまはあなたをご自分の使者として、この世界へとお遣わしになっているのです。
「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から律法を求める」と書いてあります。神さまは、私たちの口を通してこの世界へご自分の言葉、聖書の御言葉を広めようとしておられます。私たちが御言葉を証言し、あるいはそこに実際に生きることで、この世界に福音が広められていくのです。
「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。」時が良くても悪くても、と書いてあります。しかし実際には、時が良いように見えることはほとんど無いような気がします。私たちの人間としての判断からすれば、あまりよくないように見える時ばかりではないでしょうか。今は伝道するのにあまり良い時期ではないな・・・という材料はいくらでも見つかります。
しかしどうであるからこそ、この世界には本当に福音が必要なのでしょう。本当はこの世界はキリストを求めている。殆ど誰もそのことに気付いていないけれど。この世界のための主イエス・キリストの恵みの言葉を、神さまは私たちに託しておられるのです。

2026年10月18日日曜日

2026年10月18日の聖句

今週の聖句:
何が善で主は何を求めておられるか。
公正と慈しみを愛し行って、謙遜に神と共に歩むことである。(ミカ書6:8)

今日の聖句:
この場所に私は平和を与えるーー万軍の主の仰せ。(ハガイ2:9)
(イエスの言葉)「こう書いてあるではないか。
『私の家は、すべての民の
祈りの家と呼ばれる。』」(マルコ11:17)

教会が、神の家、まことに祈りの家であること、しかもすべての民の祈りの家であること。それが神が私たちにお与えになる平和です。私たちの教会も、神はご自身の家としてくださり、祈りの家としてくださっています。それが私たちの群れのアイデンティティです。キリストがそうしてくださったとおりに、私たちはこの家をすべての人のための祈りの家として主に献げていきましょう。
誰でも、どんな人でもここで祈りを捧げることができる。そして、ここに来て、自分のための祈りを求めることができる。私たちは互いのために祈ります。人生の課題を負っている人のために祈ります。喜びの時にも、困ったときにも、悲しいときにも祈ります。そして、誰にとっても人生で一番大事なことである祈りのために、私たちは私たちの教会を神に献げます。
教会は私たちが好きなことをするための場所ではありません。私たちは趣味で集まっているわけではない。祈りの家の一員として、神さまが私たちを招いてくださったのです。
あなたもキリストに仕える祭司として、祈りの働きに召されています。この世界のために、あなた自身のために、神が尊い祈りの人としてあなたを招いておられるのです。

2026年10月24日の聖句

主はその聖なる腕を すべての国民の目の前に現されました。 地の果てのすべての者が、 私たちの神の救いを見る。(イザヤ52:10) あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。(エフェソ2:19) ほんの少し...