2026年6月21日日曜日

2026年6月21日の聖句

今週の聖句:
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

今日の聖句:
苦難の中から私が主に呼びかけると
主は答えてくださった。(ヨナ書2:3)
(パウロの言葉)主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。(2コリント12:9)

神は弱い人をご自分の御許に引き寄せてくださるお方です。ご自身の力を、私たちの弱さの中で現してくださいます。この世界が好み、礼賛する力とは異質な力です。弱い人に力を与えて人並みに強くするのではなく、弱さそのものの中にご自身の力を現されます。
パウロには持病があったようです。その肉体の刺を去らせてくださるように彼は祈りましたが、神はその祈りを叶えてはくださいませんでした。神の答は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」です。弱いままで、その弱さの中で、神の恵みの力が十分に現される、と神は言われるのです。驚くべき言葉です。
このお方は、私たちのために御子を与えてくださったお方です。誰よりも弱くなられた御子のへりくだりを私たちを救う力としてくださったお方です。このお方がそのようなお働きのゆえに、私たちはこのお方を賛美し、礼拝します。今日、私たちが御前で献げる営みは、この神の御業を喜び、たたえることです。

2026年6月20日土曜日

2026年6月20日の聖句

私の唇は喜び歌い、あなたに贖われた私の魂はあなたをほめ歌います。(詩編71:23)
父親は書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。すると、たちまちザカリアや口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。(ルカ1:63~64)

今日の新約に登場する「父親」は祭司ザカリア。彼と妻エリサベトは既に年をとっていました。二人には子どもがいませんでした。ある日、ザカリアのもとに天使が来て「あなたの妻エリサベトは男の子を産む、その子をヨハネと名付けなさい」と言われました。しかしザカリアは「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています」と言い、天使の言葉を信じませんでした。それで、天使はこのことが起こるときまで彼の口を利かなくしたのでした。
遂にエリサベトが天使の言葉のとおりに男の子を出産し、八日目を迎えたときのことです。近所の人々や親類は男児に割礼を授けるために集まりました。この日は幼子の命名の日でもあります。人々は父親の名前を取って「ザカリア」と名付けるのが良かろうと言い合いました。父親の名前や親類の名前をもらうのが当然の習慣だったのです。しかしエリサベトは、ザカリアから伝えられていたのでしょう、天使が告げた「ヨハネ」という名でなければならないと言った。そこで人々はザカリアに尋ねた。何と名付けるか?それで、父親は書き板を持って来させ、「その名はヨハネ」と書いたのです。
この名付けは、天使を通して語られた神の言葉を受け入れ、それを信じますという告白です。神さまの出来事が私にもおこっていることを信じ、それに従い、それを喜びます。ザカリアもエリサベトも、そう告白しました。そのとき、彼の口が開き、舌がほどけた。そして開かれた口に彼が最初にのぼらせたのは神をほめたたえる賛美の言葉だったのです。
今日の私たちの語る言葉が神を信頼するものであり、神をたたえる歌でありますように。

2026年6月19日金曜日

2026年6月19日の聖句

あなたは私の両足を広々とした場所に立たせてくださる。(詩編31:9)
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかり立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)

改革者マルティン・ルターの名著『キリスト者の自由』は、一見すると相矛盾する次の二つの命題から始まっています。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。」
キリストは私たちを自由にしてくださいました。私たちは律法の下に管理された奴隷(僕)ではありません。
主イエスは、「真理はあなたがたを自由にする」とおっしゃいました。キリストの真理は私たちを解放する。自由にする。私たちはキリストを信じて不自由になるのではない。キリストを信じたら窮屈で不自然な生き方を強いられるのではない。自由にされる。神様の御前に、私らしく、伸び伸びと生きることができる。
ところがそれは、僕として生きることのできる自由だ、とルターは言います。「キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。」キリストのために仕え、隣人のために仕えることのできる自由な僕になる。私たちは与えられた自由を罪を犯す機会とするのではなく、愛をもって隣人に仕えるために用いる。ルターはそう言うのです。
私たちは広い大地に立たせて頂きました。息をつくことができるし、大きくのびをすることができる。私たちは自由です。ですからしっかりと立ちましょう、この足で。キリストがしてくださったように、誰に対しても僕として仕える自由をもって、自由な大地を歩いて行きましょう。

2026年6月18日木曜日

2026年6月18日の聖句

ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またも罪を犯し、心がかたくなになった。(出エジプト記9:34)
きょうだいたち、あなたがたのうちに、不信仰という悪しき心が芽生えて、生ける神から離れ去る者がないように気をつけなさい。(ヘブライ3:12)

「喉元過ぎれば熱さ忘れる」を地で行くような姿です。
エジプトのファラオは、モーセがヘブライ人たちを去らせてほしいと要求したことに対して全く耳を貸しませんでした。まともに取り合おうともしなかった。そこで神はモーセを通して次々にエジプトに災いをもたらします。ナイル川の水が血に変わったり、ブヨやら蛙やらが大量発生したり、エジプト人やその家畜がいるところにだけ雹が降ってきたり。だんだんとファラオはヘブライ人たちが出て行くことを承知するようになってきましたが、災いが終わるたびに心を翻してしまいました。「ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またも罪を犯し、心がかたくなになった。」この心のかたくなさは、私たちにもよく分かります。他人事ではなく、私たち自身の問題ではないでしょうか。
「頑固」という言葉があります。「頑なで固い」と書きます。よくできた字だと思います。私の心だって別にどこもかしこも頑固なわけではない。しかし、神さまにも他人にも譲れないと自分で勝手に思い込んでいる頑固な部分があって、そこは本当にこわばっているし、凝り固まっています。
整骨院で治療してもらうと、私の体を触った先生は、ここの筋肉が固まっていますね、だからこっちが痛くなっているんですよ、とおっしゃいます。コリを甘く見て放置すると、その内ぎっくり腰のような大けがにつながってしまいます。心のコリも甘く見てはいけない。心を柔らかくするために、つまり不信仰という悪しき芽生えを摘み取るために、私たちはキリストの前に進み出て、へりくだり、悔い改めの祈りを捧げることが大切ではないでしょうか。魂の整体しキリストが私たちの心を柔らかくしてくださいますから。

2026年6月17日水曜日

2026年6月17日の聖句

私があなたの救い主、主であり
あなたの贖い主である。(イザヤ60:16)
すべての人、とりわけ信じる人々の救い主である生ける神に望みを置いています。(1テモテ4:10)

この冒頭の「私が」という言葉が、本当にすばらしいと思います。主なる神さまは言ってくださいます。「私があなたの救い主、主であり、あなたの贖い主である」と。他でもなくこの私、私こそが、と私たちに語りかけてくださるのです。
もとの言葉の語順をより生かすなら、ここは「私が主、あなたの救い主、そしてあなたの贖い主」となります。主というのは、神さまのお名前を現す言葉です。神さまは私たちに向かって「私が主、私こそが主」とお名前を名乗ってくださいます。主であるこの私があなたの救い主、あなたの贖い主だ、と言われる。「救い主」や「贖い主」は、神さまのお働きを現す言葉です。「主」とお名前を名乗ってくださる神さまは、私たちの前に「救い主」や「贖い主」という役割を果たしてくださるお方。そうやって私たちと関わってくださるお方。神さまは私たちに語りかけ、働きかけ、私たちと関係を築いてくださるお方です。
そういう神さまから結んでくださった関わりこそが私たちの望みだ、と今日の新約は言います。「すべての人、とりわけ信じる人々の救い主である生ける神に望みを置いています。」今日も生きて働き、信じる人々を救ってくださるこの方が私に望みを与えてくださる。
私たちが今日一日の歩みの中で問うべきは、この神さまが今日私たちに何をしてくださっているのか、です。神さまは今日も生きて働いて、「私が主」と言って私たちに関わり、私たちに働きかけておられます。主は、今何をしておられるでしょうか。そして、私を通してこの世界に何をしようとしておられるのでしょうか。主の手として、足として、あるいは口として、私たちをこの世界にどのように生かそうとしているのか?そのことを問いつつ今日の日を歩みたいと願います。

2026年6月16日火曜日

2026年6月16日の聖句

主を畏れるところには強い信頼が生まれる。(箴言14:26)
神から生まれた人は誰も罪を犯しません。(1ヨハネ5:18)

今日の新約の御言葉を聞くと、私たちは脳内で勝手に変換してしまうのではないでしょうか。「罪を犯した人は神から生まれた人ではありません」「罪を犯す私は神から生まれた人ではありません」、と。
ヨハネの手紙一の殆ど冒頭に近いところにこのように書かれています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」この手紙は、私たちが罪人であることを私たち以上によく知っています。そうであるからこそ私たちに罪の告白を求めます。罪を告白し、真実で正しい神の赦しをいただき、このお方に清めて頂こう、と私たちを励まします。
ですから「神から生まれた人は誰も罪を犯しません」というのは、完全無欠であれとか、失敗するなとか、そのような言葉ではありません。私たち罪人が神さまの圧倒的な愛の光の中に置かれていることに気付かせる御言葉なのです。私たちは自分の力で罪を犯さない人になることなんて絶対にできません。私たちはただひたすら、誠実に罪を告白し、赦して頂き、主が私をも新しくし、清くしてくださることを信頼するだけです。私のうちにも神さまは御業を始めてくださる。私たちは神さまを待ち望みます。
「主を畏れるところには強い信頼が生まれる。」主を畏れ、主を待ち望み、主を信頼しましょう。私たちのうちにも御業を始めてくださるお方を信じましょう。私たちの罪よりももっと深く、神さまの御業は私たちを捕らえてくださっているのです。

2026年6月15日月曜日

2026年6月15日の聖句

見よ、闇が地を覆い
密雲が諸国の民を包む。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:2)
(イエスの言葉)私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12)

「闇が地を覆い、密雲が食の民を包む」と書かれています。恐らく具体的には、ユダの民がバビロンに捕囚として連れて行かれ、さらに何十年と経ち、故国へ帰っていって灰燼に帰した様子を目の当たりにしている。どうやって再建したらいいのか、全く将来を描くことができない。そのような本当に厳しい現実を言い表している言葉であると思います。「闇が地を覆い、密雲が諸国の民を包む」というような詩的な言語でなければ言い表すことのできない現実の厳しさがあるのだと思います。戦後の焼け野原や震災の後の瓦礫、あるいは今もウクライナやイランなどで広がる現実と同じものを見つめているところで生まれた言葉であると思います。
こういう言葉を読んだときに私たちは何を考えるでしょうか。「自分の生きている世界とは違う。」確かにそれはそのとおりです。私たちには簡単に「分かる」とは言えません。しかし他方で思うこともあります。自分とは関係がない世界だと思い込み、自分が享受している生活の安定や安心できる状態が永遠に続くという素朴な思い込みはとても危険だ、ということです。この世界には、神さま以外には永年なものはありません。私たちが当たり前だと思っている安心安全便利快適な生活は決して永遠ではないし、いつまでも続くものでもありません。私たちは「闇が地を覆い、密雲が諸国の民を包む」という聖書の御言葉を想像力豊かに聞き、へりくだることが大切なのではないでしょうか。
そして闇の中、密雲の中でこそ、希望の光は輝く。イエス・キリストという光はそのような悔い改めの中ででしか仰ぐことができないのではないでしょうか。

2026年6月21日の聖句

今週の聖句: 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10) 今日の聖句: 苦難の中から私が主に呼びかけると 主は答えてくださった。(ヨナ書2:3) (パウロの言葉)主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れる...