先にあったことを思い起こすな。
昔のことを考えるな。
見よ、私は新しいことを行う。
今や、それは起ころうとしている。
あなたがたはそれを知らないのか。(イザヤ43:18~19)
(パウロの手紙)だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。(2コリント5:17)
今日の旧約聖書はイザヤ書第43章ですが、この言葉が語られたのはとても困難な時代でした。ユダ国がバビロンに滅ぼされ、国の主だった人々が遠くバビロンに連れ去られてしまった「バビロン捕囚」の出来事から既に数十年が経過した時代です。自分たちを滅ぼしたバビロンでさえも、さらにその後の新興国ペルシアに滅ぼされていました。
自分たちの目の前にあるのは、「今、私たちは故国から遠く離れてたところにいる」という現実であり、あの戦争から既に世代交代するほど経過した時間であり、故郷から1000キロ以上離れ砂漠を越えたところにいる自分たち、というどうにもならない厳しい現実です。ところが神さまはおっしゃいます。「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。」すごい言葉です。私たちにはどうにもならないこと、諦めるしかないこと、現実を前に手も足も出ないこと。そんな圧倒的な私たちの無力とこの世の暴力的な物語の力を前に、神さまは新し事を行うとおっしゃいます。神さまの救いの出来事が今や芽生えている、とおっしゃるのです。
神さまを信じるというのは、一つの言い方をすれば、私たちの目に映る「現実」とは異なる神さまの出来事を思い描く想像力が必要なことなのだと思います。目の前にあるものとは違う、神さまがお造りになる将来を描くイマジネーションがなければ信仰は成り立たないのではないでしょうか。
昔のことを考えるな。
見よ、私は新しいことを行う。
今や、それは起ころうとしている。
あなたがたはそれを知らないのか。(イザヤ43:18~19)
(パウロの手紙)だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。(2コリント5:17)
今日の旧約聖書はイザヤ書第43章ですが、この言葉が語られたのはとても困難な時代でした。ユダ国がバビロンに滅ぼされ、国の主だった人々が遠くバビロンに連れ去られてしまった「バビロン捕囚」の出来事から既に数十年が経過した時代です。自分たちを滅ぼしたバビロンでさえも、さらにその後の新興国ペルシアに滅ぼされていました。
自分たちの目の前にあるのは、「今、私たちは故国から遠く離れてたところにいる」という現実であり、あの戦争から既に世代交代するほど経過した時間であり、故郷から1000キロ以上離れ砂漠を越えたところにいる自分たち、というどうにもならない厳しい現実です。ところが神さまはおっしゃいます。「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。」すごい言葉です。私たちにはどうにもならないこと、諦めるしかないこと、現実を前に手も足も出ないこと。そんな圧倒的な私たちの無力とこの世の暴力的な物語の力を前に、神さまは新し事を行うとおっしゃいます。神さまの救いの出来事が今や芽生えている、とおっしゃるのです。
神さまを信じるというのは、一つの言い方をすれば、私たちの目に映る「現実」とは異なる神さまの出来事を思い描く想像力が必要なことなのだと思います。目の前にあるものとは違う、神さまがお造りになる将来を描くイマジネーションがなければ信仰は成り立たないのではないでしょうか。
神さまは「先にあったことを思い起こすな」とおっしゃっています。私たちは普通はこれまであったことを参照例として今やこれからを考えます。ですから、社会は現状維持を好むし、たまに新しいことをしようとする人が現れても、現状の否定が関の山になってしまうのだと思います。しかし神さまは私たちの思いの外にある新しい救いの御業を始めておられる。だから私たちは神さまが私たちの「現実」を越えて働いておられることを思い描き、神さまは今何をしておられるのかをイメージするのです。
私たちは何も新奇なものを頼みとしているのではありません。「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」このように言われているとおり、キリストにあって私たちを新しくしてくださる神さまの御業を待ち望み、ここにある望みによって描かれる救いの出来事を信じているのです。
私たちは何も新奇なものを頼みとしているのではありません。「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」このように言われているとおり、キリストにあって私たちを新しくしてくださる神さまの御業を待ち望み、ここにある望みによって描かれる救いの出来事を信じているのです。