2026年4月26日日曜日

2026年4月26日の聖句

今週の聖句:
誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者、古きは過ぎ去り、新しきものが生じた。(2コリント5:17)

今日の聖句:
神は人間をまっすぐに造ったのに
人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。(コヘレト7:29)
実に、救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨てて、今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。(テトス2:11~12)

今日は教会の暦では「復活節第4主日」と言いますが、この日曜日は「よろこべ」という別名が付けられています。イースターからペンテコステまでの復活節には、それぞれにそのような別名が付けられているそうです。(由来までは調べきることができませんでした。)「よろこべ」というのは、ステキな日曜日の名前です。主イエス・キリストの復活から生まれる喜びを共に喜び、神を賛美する。それが私たちの信仰生活です。
改めて思います。私たちの喜びは、キリストの御復活から生まれるものなのか、あるいは、不敬虔とこの世の欲から生まれるものか。自分の欲を満たすことを密かな喜びとし、「本音」としているのではないか。
今週の聖句は「誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者、古きは過ぎ去り、新しきものが生じた」と言っていますが、キリストにあって新しくされる出来事は、私たちの喜びを新しくしてしまったのではないでしょうか。キリストにある喜びこそを私たちの本音に造りかえてくださった神さまの出来事は、この私のうちに起きている。そのことを、神さまがしてくださったこととして信じたい。そう願います。

2026年4月25日土曜日

2026年4月25日の聖句

神が地のしえたげられた者を救うために
裁きに立たれたとき
地は恐れて、沈黙した。(詩編76:9~10)
まず、福音がすべての民族に宣べ伝えられねばならない。(マルコ13:10)

神は地の虐げられた人を救うために裁きに立ってくださるお方です。これは、神さまがこの世界を何のためにお造りになったのかということを示す言葉です。すなわち、神さまはこの世界を悪や虐げ、搾取や暴力に支配させるためにお造りになったのではない、ということです。神さまは愛と慈しみを実現するためにこの世界をお造りになりました。「極めて良い」と言って祝福するために、神さまは天と地とそこにあるすべてのものをお造りになったのです。
強い者が弱い者を虐げ、富んでいる者が豊かさを独占し、暴力によって相手に言うことを聞かせ、他人のものを搾取することで自分の良くを満たすなら、それは神さまの創造の御心を踏みにじっていると言わねばならないのではないでしょうか。この世界の「現実」は、そうではないのかもしれません。力や豊かさが幅をきかせているかもしれない。しかし、「現実」がそうであるということと、それが神の義に適っているかどうかは別問題です。私たちは何にしたがって生きるのでしょうか。
福音というのは、神の国と神の義が実現することです。神さまの御心がこの地になることが福音です。神の国は近づいたと主イエスは宣言なさいました。この宣言を聞いた私たちには、聞いた者としての責任があるのではないでしょうか。ほんの僅かにでも神の義に従う生き方をさせてくださいと祈ります。

2026年4月24日金曜日

2026年4月24日の聖句

新たなる地を耕せ。茨の中に種を蒔くな。(エレミヤ4:3)
(イエスの言葉)「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。」(ルカ9:62)

今日の新約聖書は、ある人が「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください」と言ったのに対する主イエスのお言葉です。「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。」ですから、この場合の「鋤に手をかける」というのは、主イエス・キリストに従って生きること、あるいは信仰者として生きようとすること、と理解することができると思います。
そして続けて「後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と主はおっしゃっています。こちらも文脈から考えると、家族に別れを告げることについて「後ろを振り返る」と言っておられると理解するのが自然な流れです。そうすると、かなり厳しい言葉です。いや、受け入れがたい言葉と言った方がいいかもしれません。あまりに非常識です。キリストに従おうというときに、家族に一言別れを告げることはふさわしい振る舞いではない、と主イエスはおっしゃるのです。何も言わないで突然いなくなってしまったら大問題です。一昔の言い方をすれば「蒸発」でしょうか。あまりにも過激な御言葉ではないでしょうか。
主イエスは、私たちの肉のつながりを相対化なさいます。私たちの常識的な考えからすると、肉のつながり、あるいは血の結束がいちばん強い。家族の絆こそがもっとも優先すべき最優先の価値だと思っています。ところが主イエスはそれを絶対だとはおっしゃらない。かなり過激でにわかに受け入れがたい言葉です。しかし、もしかしたら、これはとても大切な招きではないでしょうか。主イエス・キリストは私たちを、血によらず、生まれによらず、あるいは育ちや豊かさにかかわらず、ご自分のものとしてくださいました。新しい神の家族である教会という共同体の一員にしてくださいました。かつてあなたが受けた洗礼は、実は、あなたを新しい家族の一員に迎える洗礼だったのです。今日一日かけてこの御言葉を深く思い巡らし、主の御前に、私はどういう共同体の一人として生きているのかを考えてみませんか?

2026年4月23日木曜日

2026年4月23日の聖句

天は主の天。
地は主が人の子らに与えられた。(詩編115:16)
それゆえ私は、天と地のすべての家族がその名を源とする御父の前で膝をかがめるのです。(エフェソ3:14~15)

今日私たちに与えられている新約はエフェソの信徒への手紙ですが、この手紙では既に第2章でこのように言っていました。「このキリストによって、私たちは両方の者(異邦人もユダヤ人も)が一つの霊にあって、御父に近づくことができるのです。ですからあなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です」(2:18~19)。私たちは神の家族だ、と言っています。ユダヤ人でも異邦人でも、つまり割礼があってもなくても、あるいはこれまでの生き方や文化や背景がどうであろうとも、どんな人も神の家族として結ばれる。
そのように話ながら、この手紙を書いた使徒パウロは言います。「それゆえ私は、天と地のすべての家族がその名を源とする御父の前で膝をかがめるのです。」私たちに、キリストにあって「家族」という名を与えてくださった神に膝をかがめ、私たちは神を賛美します。神の家族として、父なる神様の御前にあってこのお方を礼拝するのです。
私たち家族の目指すところはただ一つです。「天は主の天。地は主が人の子らに与えられた。」どうか私たちの今日一日がこのようにして神をほめたたえ、神を礼拝することを第一とするものとなりますように。どのような人間にも栄光を帰すことなく、人間を礼賛するのではなく、ただ神にのみ栄光をお返しすることができますように。

2026年4月22日水曜日

2026年4月22日の聖句

人がその子を育て上げるように、あなたの神、主はあなたを育んでくださったということを、あなたは心に深く知る者となっています。(申命記8:5)
聖書全体は神から与えられたもの。教えと戒め、矯正と義に基づく訓練のために有益なのです。(2テモテ3:16)

主なる神さまは私たちを信仰者として育み、養ってくださいます。聖書の御言葉によって、私たちを神さまの民の一員として育ててくださいます。「聖書全体は神から与えられたもの。教えと戒め、矯正と義に基づく訓練のために有益なのです。」聖書こそ、神さまが私たちに与えてくださった命のパンなのです。
ここで、この手紙を書いたパウロは「聖書全体は」と言っていることに注意したいと思います。「聖書の中であなたの心に響く言葉は、神さまからあなたへのメッセージです」とは言っていません。自分のお気に入りのところだけではない。「聖書全体」です。聖書を読んでいて理解不能なところとか、とても厭なところ、読まなかったことにしておきたいところも含めての聖書全体、です。聖書はそのすべてが私たちへの神さまからのメッセージです。
「人がその子を育て上げるように」と言っています。子どもを育てるためには、甘くて柔らかい食べ物だけではなく、苦かったりエグかったりする野菜も必要です。固い食べ物も必要です。神の言葉も同じです。読めば喜びに溢れるような御言葉が必要なのと同じように、固くて呑み込みがたい御言葉も必要なのです。
神さまの御言葉を愛し、まっすぐに受け止め、耳を傾けて聞き、従いましょう。そこに私たちの命があるのです。必ず、御言葉にこそ命があります。

2026年4月21日火曜日

2026年4月21日の聖句

しかし、あなたは変わることなく
あなたの歳月は終わることがありません。(詩編102:28)
私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が、世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなくありますように、アーメン。(ユダ25)

私たちは限りある存在です。私たちの命の日々は短いです。できることも小さな事に過ぎませんし、ほとんどのことに知恵が及びません。しかし、神さまはそうではありません。「しかし、あなたは変わることなく、あなたの歳月は終わることがありません」と詩編が言っているとおり、神さまは永遠のお方です。
永遠なるお方を前に、私たちができること、またするべきことは、このお方を賛美し、ほめたたえることではないでしょうか。「私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が、世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなくありますように、アーメン。」私たちは永遠の神さまの栄光をたたえ、礼拝します。すべての始まりよりも先におられ、すべてを完成させることのできるお方です。このお方が私たち限りある者を憶えていてくださる。このお方が私たちを愛してくださる。そのすばらしい知らせを私たちは頂いています。
昨日も今日も、そしていつまでも変わることのないキリストの恵みがあなたにありますように。

2026年4月20日月曜日

2026年4月20日の聖句

主が私の旅行に恵みを与えてくださったのですから、私を引き止めないでください。(創世記24:56)
(イエスの言葉)しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。(ヨハネ16:7)

主イエスさまはおっしゃいます。「私が去って行くのは、あなたがたのためになる。」十字架を前にした主イエスさまのお言葉です。十字架にかけられ、復活して天にお帰りになる。そうして私たちの目の前から去ってしまわれる。私たちは、今、弟子たちが主をその目で見、主の手に触れ、主と共に過ごしたのと同じように主と一緒にいることができるわけではない。弟子たちがうらやましいです。同じように主イエスさまのお顔を仰ぎたいし、主の御声をこの耳で聞きたいのです。しかし、主は言われます。「私が去って行くのは、あなたがたのためになる。」もしかしたら、主イエスさまは、私たちの方が使徒たちよりももっと幸いだ、とおっしゃっているのかもしれません。
なぜなら、「私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」からです。弁護者、それは聖霊のことです。聖霊という弁護者は、主イエスさまが神の御許に帰らなければ、そこから私たちのところへお送りくださらなければ、私たちのところには来ないのです。聖霊を頂いている私たちは、使徒たち以上に幸いだと主は言ってくださっているのではないかと思います。
十字架と復活、そして天へ帰る主イエス・キリストの旅路。そしてキリストに従う私たちの旅路。その道に祝福があるようにと主は言ってくださり、私たちの旅路を導くために弁護者・聖霊を私たちにお与えくださっているのです。

2026年4月26日の聖句

今週の聖句: 誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者、古きは過ぎ去り、新しきものが生じた。(2コリント5:17) 今日の聖句: 神は人間をまっすぐに造ったのに 人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。(コヘレト7:29) 実に、救いをもたらす神の恵みは...