2026年5月28日木曜日

2026年5月28日の聖句

私は知っている。
私を贖う方は生きておられる。(ヨブ記19:25)
キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂とんられました。(1コリント15:20)

今日の旧約聖書に「私を贖う方」という言葉があります。旧約聖書が書かれたヘブライ語では、この言葉は「ゴアリー」という単語で表されています。最後の「リー」の部分は「私を」という意味の接尾辞。前半の「ゴアル」は「贖う」という動詞の分詞形です。ですので「ゴアリー」というのは「私を贖う方」という意味になる。
ずいぶんと細かいことを書きました。この「贖う」という動詞ですが、聖書の中ではどのようなところで使われているのか。とても特徴的な意味を持つ動詞です。誰かが破産し、自分も家族も身売りしないとならなくなってしまう。あるいは、先祖伝来の土地を人手に渡さないといけなくなってしまう。そういうときに、家族や親族のある者がその人やその土地を買い戻す。それを聖書は「贖う」と表現します。(具体的には、ルツ記に登場するボアズという人がしたことが「ゴアル」としての振る舞いです。)
つまり、「ゴアリー・私を贖う方」というのは「私のために家族としての責任を果たしてくれる人」という意味です。聖書は、他ならぬ神さまが私のために家族としての責任を果たして、私を贖ってくださった。買い戻してくださった。私を自由にしてくださった、と言っているのです。そして、そのお方、私を贖ってくださる神は生きておられる!これが聖書が私たちに告げる良い知らせです。私を贖い、私のために家族になってくださった神は生きておられる。死者の中から復活し、死に売り渡された私を買い戻してくださった。死を超えた家族になってくださった。それがキリストが私たちのためにしてくださったことなのです。

2026年5月27日水曜日

2026年5月27日の聖句

主よ、神々のうちで
誰かあなたのような方がいるでしょうか。
誰か、あなたのように聖であって栄光に輝き賛美されつつ畏れられ
奇しき業を行うでしょうか。(出エジプト記15:11)
現に多くの神々や多くの主なるものがあるように、神々と呼ばれるものが天や地にあるとしても、
私たちには、唯一の父なる神がおられ
万物はこの神から出
私たちもこの神へと向かっています。
また唯一の主、イエス・キリストがおられ
万物はこの主によって存在し
私たちもこの主によって存在しています。(1コリント8:5~6)

今日の旧約の御言葉はモーセの歌です。ヘブライ人たちがエジプトで奴隷として抑圧され、苦しんでいた。神は彼らの叫びを聞き、モーセを遣わして奴隷の家から解放してくださいました。葦の海を通ってエジプトの手から解放されたときの賛美の歌が今日の旧約の御言葉です。
人間を抑圧し、尊厳を奪い取り、踏みにじる者たちの手から神が解放してくださった。その出来事はやがて解放された民の賛美に至ります。神の聖なる栄光、輝きを賛美する声が神の前で献げられます。唯一の神、万物を造り、今も支えておられる偉大な神への賛美が自由解放のしるしとして神に献げられる。
私たちの周りにもたくさんの「神々」と呼ばれるものや「主」とされる存在があります。かつてはバアルやアシェラという名であったかもしれませんし、アウグストゥスやピラトなどといった名前であったかもしれません。現代では完璧とさえ思える国家統制や豊かさを与えるシステムという顔を持っているかもしれません。それは「安全保障」や「安定」を約束します。私たちを保護する顔をしながら実は抑圧し、豊かさを最上の価値とする神々の支配は、実は私たちからまことの神に造られた者としての尊厳を奪い取ります。
私たちを解放してくださる神を賛美し、このお方だけの偉大さをたたえることが私たちを自由にする新しい言葉です。「万物はこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しています」と私たちも心から神をほめたたえ、まことの神でいらっしゃる方だけを礼拝する者でありたい、と願います。

2026年5月26日火曜日

2026年5月26日の聖句

主を愛する者よ、悪を憎め。(詩編97:10)
きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。(1テサロニケ5:14)

今日の御言葉から新しい思いで教えられるのは、「すべての人に寛大でありなさい」というのは「悪を愛する」とか「悪を大目に見る」ということではない、ということです。「主を愛する者よ、悪を憎め」と聖書は教えます。それではいかなる意味での悪を憎まなければならないのか。というのも、私たちはたいていの場合、自分は正しいと信じていますし、自分が憎んでいるものは悪なのだ、と思い込んでいるからです。つまり、単に自分が気に入らないだけなのに「悪は自分の外にあり、正義は自分の中にある」と勘違いしてしまうのです。
ここで聖書は「秩序を乱す者を戒めなさい」と言っています。「秩序」です。これは、自分勝手な意味での正義ではないということではないでしょうか。「秩序」というからには共同体が関わっているはずです。ここで問われているのは「教会共同体を建て上げる」という意味での正義であり、「教会共同体を毀損する」という意味での悪なのだと思います。
しかしここでもやはり私たちの正義や悪はとても厄介です。私たちは何かがあればすぐに教会を傷つけているのは相手だと思って自分を正当化します。本当の意味で教会を損なっているのはあの人だと相手を断罪します。そうすると大切なのは、教会を形成するというのはどういうことか、ということではないでしょうか。
教会はキリストの体です。教会がまことにキリストの体として建て上げられるためには、何よりもキリストにある愛が大切なのでしょう。だから聖書は「気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい」と言います。気落ちし、弱くなっている人に向かう愛に教会の実力あるいは教会に生きる者としての私の信仰の力が問われるのであると思います。へりくだりが問われます。主がしてくださったように、相手のために命を差し出す愛が求められます。そのことに気付いたとき、そこには傲慢にも他人を断罪する余地は消え失せるのではないでしょうか。ただひたすらに主の憐れみをこいねがい、主の愛を願い求める。それしか私たちにはないのです。

2026年5月25日月曜日

2026年5月25日の聖句

その慈しみは私たちに力強く
主のまことはとこしえに絶えることがない。ハレルヤ。(詩編117:2)
さて、エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、人々は驚き怪しんで言った。「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使徒2:5,7,11)

「神の偉大な業」を語るように、私たちはキリストに託されています。私たちが語る言葉は自分の成功談ではないし、愚痴でもありません。私たちはキリストを証しします。キリストのすばらしい御業を宣べ伝えます。そのために私たち教会は神に召し出されているのです。
「その慈しみは私たちに力強く
主のまことはとこしえに絶えることがない。ハレルヤ。」
そのように神をほめたたえる口を神は憶えていてくださることを信じます。主イエス・キリストの恵みと慈しみが私を追い、私の食卓を整え、私を生かしてくださることを私たちは喜んで証しします。
言葉が氾濫しています。それらしい言葉、もっともらしい言葉が幅をきかせています。私たちはただひたすらに神の偉大な御業が伝えられることを望み、そのことを願って、自分の唇を神に整えて頂きたいのです。

2026年5月24日日曜日

2026年5月24日の聖句

今週の聖句:
武力によらず、権力によらず、わが霊によるーー万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6)

今日の聖句:
門よ、頭を上げよ。
とこしえの扉よ、上がれ。
栄光の王が入る。(詩編24:7)
突然、激しい風が吹いてくるような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。すると、一同は聖霊に満たされた。(使徒2:2,4)

以前、車で首都高速を通過したときのことです。どこかの国の要人(大統領や首相級の人物でした)が日本に来て都内を通過するということで、高速道路のいろいろなところに警察官が配備されていました。(そのために車が詰まっていて辟易しました・・・。)この世の王が来るときでさえ、庶民の生活に大きな影響を与えるような騒ぎになります。まして私たちの栄光の王、とこしえの王でいらっしゃるお方が私たちのところに来られるというのです。私たちは今のままでいていいのでしょうか?
「門よ、頭を上げよ。とこしえの扉よ、上がれ。栄光の王が入る。」
門は頭を上げ、とこしえの扉でさえも上がってしまわなければならない。王が入ってこられるからです。私たちの真の王・キリストであるイエスが来られるとき、私たちはこのお方をお迎えするために全神経をそちらに向け、王をお迎えするために生き方を変えなければならないはずです。
このお方は「武力によらず、権力によらず」、ご自身の霊によって私たちのところへ来られます。命を与える神の愛の息吹です。神は、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。すると、一同は聖霊に満たされた」という、新しい時代を始める霊として、私たちのところへ来てくださいました。
私たちの王であるキリストの霊です。このお方をお迎えするために、私たちは今日この日を迎えました。私たちの主イエス・キリストに栄光があり、私たちがこのお方の霊に生かされて祈り、賛美を献げる者として今日の日を生きられますように。

2026年5月23日土曜日

2026年5月23日の聖句

神は私たちが知りえない偉大な業を行う。(ヨブ37:5)
父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ5:45)

まさにその通り、しかしすぐに忘れてしまう。それが今日の御言葉だと思います。「神は私たちが知りえない偉大な業を行う。」私たちには、神さまのなさることを見極めることなんてできません。人間に過ぎませんから。神さまのなさることや神さまの思いを何でも知っているなんて、傲慢です。しかし、何とたびたびその傲慢を犯してしまうことでしょう!そして、現実が自分の意にそぐわないときに悪いのは神さまの方であるかのように考え、そのような言葉を口にし、あるいは不機嫌のままに振る舞ってしまう。傲慢なことです。しかし、現によくしてしまっていることです。
主イエスはおっしゃいます。「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」私の基準からすれば、私が「悪人」と思う人には悪いことがたくさん起きて、ちゃんと懲らしめられることが正義だと考えてしまいます。私の見えていることとか計算できることを前提にすれば、自分が思う正義が貫徹され、自分が悪と思う人が酷い目に遭うことが道理に適っていることになる。しかし、主イエスは「その通り」とはおっしゃいません。誰にでも太陽は昇る。善人にも悪人にも。それはどんな人をも愛する神さまの、父としての愛と慈しみに他ならない。むしろ神の大きな御心を知ってほしい、と主は言われるのです。
私たちに知りえないこと、私たちには謀りがたいことがあることを、謙遜に受け止め、喜びましょう。私たちの思いの外にあることこそ、神さまの愛の無限な大きさの証拠なのですから。

2026年5月22日金曜日

2026年5月22日の聖句

主こそあなたの誉れ、あなたの神。(申命記10:21)
父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。(ヨハネ16:27)

なんとすばらしい二つの御言葉を与えられたことでしょう!父なる神様ご自身が私たちを愛してくださっている。その事実こそが私たちの誉れです。私たちの誇り、私たちの喜びは神が私を愛してくださっていること!
ローマの信徒への手紙にもこのように書かれています。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしているのです」(5:10,11)。
父なる神ご自身が私たちを愛してくださっているというのは、敵であった私たちを愛してくださっている、ということです。御子の命によって私たちを救ってくださるほど私たちを愛してくださっている神です。私たちはこのお方の途方もない愛をイエス・キリストを通して知りました。だから、「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています」と言うのです。
「主こそあなたの誉れ、あなたの神。」本当にそうです。その通りです。主なる神さまが私を愛してくださり、和解の手を伸ばしてくださり、救ってくださって、私たちをご自身のものとしてくださった。その事実が私の誉れです。主にあって誇り高き者として、与えられた一日を歩みましょう。

2026年5月28日の聖句

私は知っている。 私を贖う方は生きておられる。(ヨブ記19:25) キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂とんられました。(1コリント15:20) 今日の旧約聖書に「私を贖う方」という言葉があります。旧約聖書が書かれたヘブライ語では、この言葉は「ゴ...