2026年8月26日水曜日

2026年8月26日の聖句

(主の言葉)彼は私を慕う。
私は彼を助け出そう。(詩編91:14)
(イエスの言葉)私がお願いするのは、彼らを世から取りさることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:15)

使徒パウロがフィリピの信徒への手紙の中でこのようなことを言っています。「私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、この方がはるかに望ましい。しかし、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにはもっと必要です。」世を去りたい、そしてキリストと共にいたい。この思いと、生きてあなたたちのために働く必要があるという二つの事の間で自分は板挟みになっている、とパウロは言います。どちらを選んだらいいのかパウロ自身にも分からないのです。
今日の新約の聖句、主イエスの御言葉を読んで、パウロのこの葛藤を思い出しました。パウロほど信仰に根ざした思いでなくても、私たちにも、世から取り去られてしまいたいと願うことはあるかもしれません。
私たちには世で苦難があります。あまりにも苦しくて、もう十分だ、もうたくさんだ、もう終わりにしたいとしか考えられないことがある。主イエスはそのようなときに私たちを世から取り去ってはくださいません。「もう十分だ」と私が思っても、神さまのタイミングは違っている。しかし、キリストはそんな私たちを悪い者から守ってくださいます。この世にあって、キリストご自身が私を守ってくださる。その約束は確かです。
あなたには神がお与えになったこの世での使命がある。隣人に傾ける愛、あるいはこの地にあって献げるべき祈り。キリストはご自分の使者として、この世へと今日あなたを遣わしておられるのです。大いなる守りの中で!

2026年8月25日火曜日

2026年8月25日の聖句

私はいと高き神に
私のために成し遂げてくださる神に呼びかけます。(詩編57:3)
(イエスの言葉)今までは、あなたがたは私の名によっては名にも願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(ヨハネ16:24)

今日の旧約聖書の詩編第57編には標題が付いていて、そこには「ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき」と書いてあります。サウル王の臣下であったダビデは、王の激しい妬みを買って命を狙われていました。ダビデは王の手から落ち延びて逃亡生活をします。あるとき、ダビデはアドラムという所にある洞穴に隠れて難を逃れました。その後、ダビデは国外へ逃亡し、モアブ王の庇護を求めることになります。状況は極めて悪かった。今朝の詩編はそのようなときの歌として記録されているものです。
この詩編はこのように始まっています。「私を憐れんでください。神よ、私を憐れんでください。私の魂はあなたのもとに逃れました。災いが過ぎ去るまであなたの翼の陰に私は逃れます。」そして今朝の箇所に続きます。「私はいと高き神に、私のために成し遂げてくださる神に呼びかけます。」
ダビデには、神さましか頼るべき存在がありませんでした。そしてこのような逃避行の中、神さまはダビデのために仲間を与えてくださいました。それは、困窮している者、負債のある者、不満を持つ者などおよそ400人でした。「400人」というとたくさんいるようにも聞こえますが、一国の王に狙われている立場としては僅かな味方です。しかし、神さまはこれからの長い逃避行のすべてにおいて、ダビデのために御業を成し遂げてくださいました。
私たちは苦難の中でどのように祈るのでしょうか。主にあって、神を信じ期待して神に呼びかけているでしょうか?主イエスは、主ご自身のお名前で祈れと言ってくださいます。どのようなときにも神は必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。神の子イエスのお名前で祈ることを許されているのですから。信じて、期待して、祈りましょう。祈り続けましょう。

2026年8月24日月曜日

2026年8月24日の聖句

(神の言葉)これから私が新しいことを聞かせよう
あなたの知らない秘められたことを。(イザヤ48:6)
(アテネの人々は)死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。(使徒17:32)

パウロがアテネを訪れて伝道したときのことです。最初、アテネの人々はパウロの言葉に喜んで耳を傾けました。珍しい外国の神の話をしてくれると、興味深くその話を聞いたのです。ところがパウロが主イエスの復活の話をし始めると、状況が突然一変してしまいます。「死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」彼らは誰も復活の言葉に耳を傾けることなく、それどころか嘲笑してどこかに行ってしまいました。アテネの人たちにとっては「死者の復活」などは馬鹿げた与太話に過ぎなかったのです。
しかしそれは、アテネにいたギリシア人だけのことではないでしょう。私たちの社会でだって、死者の復活などは馬鹿げた与太話です。しかしそこにこそ、私たちを救う神の福音はあるのです。
神さまの福音は私たちにはまったく新しい話、私たちの知らなかった話、私たちには予期することのできない話です。だから、私たちの常識からしたら馬鹿げた与太話にしかならないのではないでしょうか。しかし、そこにこそ神の知恵があり、神の力がある。神は私たちを想っても見なかった福音によって救ってくださるのです。

2026年8月23日日曜日

2026年8月23日の聖句

今週の聖句:
傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消すことがない。(イザヤ書42:3)

今日の聖句:
主が彼らに乾いた地を行かせるときも
彼らは渇かなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させた。(イザヤ48:21)
よく言っておく。あなたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マルコ9:41)

「岩から水を流れ出させた」というのは、私たちからしたら全く不可能なことです。乾いた地、荒れ野の岩から水を流れ出させる。私たちには思いもつかないし、私たちにはできないことです。
しかし、主なる神さまはその不可能なことをしてくださいます。私私たちのために想像も付かない御業を行ってくださいます。私たちを渇かせることなく、私たちを生かすために、神が御業を進めてくださる。
主は、私たちに水を与えるために、共に生きる隣人を私たちに与えてくださいました。隣人の愛の手を通して、神は私たちが生きるための水を与えてくださいます。「よく言っておく。あなたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」今日、私たちがこの世界で生きることができるのは、そのようにして私たちのための神の恵みの御業を担ってくれる隣人が与えられているからです。

2026年8月22日土曜日

2026年8月22日の聖句

私の舌はあなたの仰せを歌います。
あなたの戒めはすべて正しい。(詩編119:172)
同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあってはなりません。(ヤコブ3:10)

私たちの口から出る言葉、私たちの舌に上ってくる言葉が神を賛美する言葉でありますように。そして、主ご自身の言葉が私たちの歌でありますように。「私の舌はあなたの仰せを歌います。」私たちも、神の言葉を歌って神をほめたたえる者でありたい、と願います。
神の言葉は、私たちに新しい将来を開く言葉です。私たちの狭くて浅い知恵では計り知れない、神が造り出す新しい出来事を私たちに幻によって見せる言葉です。だから、そのような言葉は「歌」によってでしか私たちが知ることのできないのです。私たちの知恵に収まる散文によって説明することはできない。歌によって、賛美によってでしか私たちには口にすることのできない言葉です。
大きな神さまを仰ぎ、神さまの自由な御業に期待をし、ただこのお方を賛美して待ち望む。そういう祈りの内に今日の日を過ごしていきたい、と願います。

2026年8月21日金曜日

2026年8月21日の聖句

主に贖い出された者たちが帰って来る。
歓声を上げながらシオンに入る。
その頭上にとこしえの喜びを抱きつつ。
喜びと楽しみが彼らに追いつき
悲しみと呻きは逃げ去る。(イザヤ51:11)
あなたがたは、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたの信仰の目標である魂の救いを得ているからです。(1ペトロ1:8~9)

今日の旧約の御言葉は、今現に悲しんでいる人への言葉です。故国を失い、遠くバビロンの地に捕囚として連れ去られた者たち。しかも、それからすでに何十年も経過している。捕囚地で生まれた二世や三世の時代に変わっていく。世界史的な政情の激変によって捕囚から解放されるという知らせはもたらされたものの、故郷には何千キロという距離があり、その間には砂漠が広がっています。そういう者たちに対して「歓声を上げながらシオンに入る」という途方もない幻を見せる言葉が今日の御言葉です。
神さまの救いの御業は、私たちからしたら途方もないものです。私たちの常識からしたら絵空事です。
今は教会が加速度的に弱体化しています。いい話なんて殆ど聞こえてきません。人が少ない、増して若い人がいない、奉仕者が不足している、誰も教会なんて見向きもしない・・・。そのように「もう無理だ」という理由を挙げればいくらでもあります。しかし、預言者は言います。「喜びと楽しみが彼らに追いつき」と。「彼ら」つまり神の民の方が先に進むのです。神の見せてくださる幻、この世界の救いの幻を追い求めて私たちが歩むとき、喜びや楽しみの方が後になって追いついてくる。民の歩みはその先を進みます。神は、必ず自由と解放の御業、私たちを一つの民とする救いの御業を実現してくださる。それを信じて、生きよと主は私たちに言われます。

2026年8月20日木曜日

2026年8月20日の聖句

わが住まいは彼らと共にあり、私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。(エゼキエル37:27)
言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。(ヨハネ1:12)

主は私たちの神となり、私たちをご自身の民としてくださいます。私たちは神の民、神の国の国民、神の御支配によって生きる者たちです。それは、神さまのお住まいが私たちの間にあるということだ、と聖書は言います。
夏の教会の行事で、ボーイスカウトやガールスカウトのキャンプが行われています。私は今年いくつかのキャンプに参加しています。スカウトたちと寝食を共にします。そうでないと知ることのできない子どもたちの様子が見えてきます。同じ場所に寝起きして生活すると、お互いが近くなる。大雨もトラブルも一緒に経験します。まして神様は、ほんの数泊のキャンプを一緒にしたというのではなく、住まいそのものを私たちの間に定めてくださいました。一緒に泊まったのではなく、一緒に住んでくださいました。私たちが生きている生活の場所に神さまは来てくださり、そこに留まって、私たちがいる場所をご自分の住居にしてくださった、というのです。
この神をあなたは受け入れるのか、と聖書は今日私たちに問いかけています。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。」神の言であるイエス・キリストは、私たちの間に宿ったこのお方を受け入れた者を神の子としてくださいます。私たちの間に住んでいてくださるこのお方を、私たちも愛し、敬い、信じていく。私たちは神の住まいで生きる神の子にしていただいたのです。

2026年8月26日の聖句

(主の言葉)彼は私を慕う。 私は彼を助け出そう。(詩編91:14) (イエスの言葉)私がお願いするのは、彼らを世から取りさることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:15) 使徒パウロがフィリピの信徒への手紙の中でこのようなことを言っています。...