2026年3月24日火曜日

2026年3月24日の聖句

主はあなたの前に御使いを遣わされる。(創世記24:7)
「(イエスの言葉)父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:42~43)

今日の旧約聖書の御言葉は、アブラハムが息子イサクの妻になる人を探させるために自分の僕を遣わすときの言葉です。アブラハムは自分の召使いを故郷に遣わすに際し、いくつかの条件を彼に話して聞かせました。そして最後に「主はあなたの前に御使いを遣わされる」と言って彼を励まして送り出した。そういう場面です。
「主はあなたの前に御使いを遣わされる」というのは、主があなたの行く道を導き、必要を備えてくださるように、ということでしょう。もっと言えば、主が御心を行ってくださるように、ということであると思います。すべては神がお望みになるとおりになりますように。アブラハムも、そして私たちも、願うのはそのことです。
しかし、誰よりも神の御心を必死に願ったのは、主イエスさまをおいて他にはいません。主は十字架を前にして必死に祈りました。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。」主イエスは「この杯を私から取りのけてください」と心から願いながら、あくまでも神の御心をすべての基となさいました。「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」主が御心を成し遂げてくださいますようにと祈り、主の道を歩くことをお受け入れになられたのです。
主は私たちが今日歩む道の前にも御使いを遣わしてくださいます。私たちはそのことを信じ、主の御心が成し遂げられることを願い求めます。私たちの救いの道がそこに拓かれることを信じて、私たちも主を待ち望むのです。

2026年3月23日月曜日

2026年3月23日の聖句

私、私が主である。
私のほかに救う者はいない。(イザヤ43:11)
(イエスの言葉)私と父とは一つである。(ヨハネ10:30)

今日私たちに与えられている聖書の御言葉は、神さまの深い御決意の表明であると思います。「私、私が主である。私のほかに救う者はいない。」ただおひとりの救い主でいらっしゃるお方が私たちに言ってくださいます。「私、私が主である」と。
ここにある「主」というのは、神さまのお名前を現す言葉が使われています。「私、私が主である」と御自分のお名前を名乗り、他の誰でもなくこの私がお前を救うと宣言してくださっています。私たちには、主以外の救いはありません。
お名前を名乗るというのは、私たちとの関係を結ぼうという神さまのご意志の表れと言ってよいと思います。私たちにとっての真の救いというのは、私たちに向かって御自分のお名前を名乗ってくださるお方と関係を結ぶことです。神さまが私たちの名前を呼んでくださり、私たちが「主よ」とお呼びして祈る。それがもう既に救いなのです。
私たちには神さまなど分からない、神さまのことなど知りようがないと言う必要はありません。「私と父とは一つである」とイエス・キリストが言ってくださいます。私たちはキリストの言葉を聞き、イエスこそ父がお遣わしになったメシア、そして独り子なる神と信じるとき、私たちは「主」とお名前を名乗ってくださる神ご自身と出会っている。ですから、神さまとの関係を結ぶというのは、もう少し言葉を換えて言えば、イエスこそ救いと信じるということです。イエスに現された神の愛こそが神の御心と信じるということです。
「私、私が主である」と、今日、神さまはあなたに語りかけておられます。

2026年3月22日日曜日

2026年3月22日の聖句

今週の聖句:
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。(マタイ20:28)

今日の聖句:
隣人について偽りの証言をしてはならない。(出エジプト記20:16)
あなたがたが、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。(1ヨハネ2:21)

今日の旧約聖書には「偽りの証言」と書かれています。証言と言っているのですから、裁判の席のことを考えているのでしょう。もともとそりが合わなかったり、利害が一致しない隣人について偽りの証言をして陥れてはならない、と言っています。
裁判での証人になったことは私にはありません。そういう経験をしたことがある人はどれくらいおられるでしょうか。直接の「裁判」という場でなくても、他人と利害や感情が衝突することは私たちには日常的なことだと思います。そんなとき、保身のためとか自己防衛のために、あるいは妬ましい人へのちょっとした嫌がらせをなんとなくしてしまって少しの嘘を言ってしまうようなことも、時にはあるかもしれません。
「隣人について偽りの証言をしてはならない。」聖書はそのように言います。さらに今日の新約では「あなたがたが、すべて偽りは真理から生じないことを知っている」とあります。ここでの「真理」は、学者が研究室で考え出した「真理」なるものではありません。主イエスさまが父なる神様の御許から来て、私たちに神の愛を示してくださったことを信じるところで輝く真理です。つまり「隣人について偽りの証言をしてはならない」というのは、私たちの真理であるイエス・キリストの前で隣人との関係を構築する、ということを意味していると言えると思います。
私たちは、私たちが信じる真理そのものでいらっしゃるキリストの前で、どのような人間関係を築くのでしょうか。私たちは、私たちを愛してくださったキリストを前にして、どのようにして関係を築くのでしょうか、利害不一致だったり気の合わない隣人と。

2026年3月21日土曜日

2026年3月21日の聖句

あなたは食べて満足するとき、あなたの神、主をたたえなさい。(申命記8:10)
言葉では言い尽くせない賜物のゆえに、神に感謝します。(2コリント9:15)

「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。確かにその通りではありますが、私たちの現実としては「衣食足りて礼節を忘る」ということもあるかもしれません。特に神さまに対してはそうです。衣食に事欠くときには「日用の糧をお与えください」と真剣に祈っても、衣食足りたら、まるで祈っても祈らなくても大したことがないかのように、ただのルーティーンとして口にしているだけ・・・というのが私たちの実際のところであるのかもしれません。
聖書は言います。「あなたは食べて満足するとき、あなたの神、主をたたえなさい。」私たちが生きるために必要な食べ物を与えてくださっているのは神さまです。主が私たちを養ってくださっています。そのことに真剣であれ、と聖書は語りかけます。なるほどと思いつつ、実際にはとても難しいことでもあると思います。
私たちの食べるもの、飲むもの、着るものについて、神さまが心に掛けてくださっています。食卓に並んでいる、決して当たり前ではない神さまの恵みの賜物を目の前にして、新しい気持ちで神様に感謝し、主のご慈愛をたたえましょう。今日、この後に食べるご飯の時に!
私の信仰の指導をしてくださった先生が教えてくださった食卓の祈りがあります。「主よ、私たちが生きるために必要なものを今日も与えてください。日ごとの糧と、罪の赦しを。」主の前にへりくだって祈り、私たちの命を支えてくださる方に向かって、今日も賛美を献げましょう。

2026年3月20日金曜日

2026年3月20日の聖句

見てください、私の苦しみと労苦を。
取り除いてください、私の罪のすべてを。(詩編25:18)
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。(ローマ7:24~25)

今日の二つの御言葉が並べられているのを見て、驚きました。「私はなんと惨めな人間なのでしょう」と私が思うとき、恐らくそれは自分にとっての苦しみや労苦をとても感情的に捉えて言っているに過ぎない言葉になってしまうと思います。ところが、ここでは自分の罪を自分の惨めさと捉えています。
私が惨めなのは、私が罪を犯しているからです。罪人として、神に呪われた者として死ぬべきわたしの罪深さ。神が愛をもって、善い者として造ってくださったのに、神や隣人を憎んで逆さまな者になってしまった。苦しみの奥にある私の惨めさの正体をここで見据えています。
今日の旧約の御言葉も、よく読むと既に罪を問題にしています。「見てください、私の苦しみと労苦を。取り除いてください、私の罪のすべてを。」ここでもやはり「私の苦しみと労苦」は私の罪と深く結びつけられて理解されています。私が惨めな罪人だという現実が労苦を生み出している。そしてそれに喘ぎながら苦労して生きていると自分で自分を誇る・・・。こういうことをマッチポンプと言うのでしょうか。
ところが使徒パウロは突き抜けた福音を語り出します。「死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」主イエス・キリストこそが私の罪と悪と死の現実を突き破り、私を命に救いだしてくださる。神への賛美は、私の罪が王様のような顔をしている現実への強烈なアンチテーゼです。別の王がいること、真の王がおられることを確信し、このお方に栄光を帰す。私を救ってくださるお方は、私の外から来て私の罪を解決してくださるお方だけ。聖書はそう告げているのです。

2026年3月19日木曜日

2026年3月19日の聖句

しかし私は、群れの残りの者を、追いやったすべての地から集め、自分たちの牧場へ帰らせる。彼らは多くの子を産み、増える。(エレミヤ23:3)
(イエスの言葉)私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。(ヨハネ10:10)

預言者エレミヤは、ユダの国が滅んでいく時代の人物です。国が坂道を転がり落ちるようにして悪くなり、自滅していく時代に生き、神さまからのメッセージを語って警告し、信仰へと連れ戻そうとした。神の言葉を語り続けました。しかし、ユダの国も、そこに生きる人々も、加速度的に神さまから離れ、滅亡に突き進んでいきます。
この預言者のすごいところは、そういう時代を目の当たりにしながら、ただただ滅びや裁きだけを語ったのではない、というところだと思います。私たちは両極端のどちらかに触れてしまいがちだと思います。つまり、「あまり深刻にならなくていい、大丈夫だ」と事態を甘く見てしまう。あるいはその逆に、「もう終わりだ、何の希望もない」とひたすら悲観的になって諦めてしまう。エレミヤは、裁きの言葉を語りながらもそれだけに終始したわけではありません。「しかし私は、群れの残りの者を、追いやったすべての地から集め、自分たちの牧場へ帰らせる。彼らは多くの子を産み、増える。」主なる神さまによる回復の希望をも語ったのです。
これは私たちにも大きな示唆を与える言葉であると思います。心ある人が「今」を見れば、その悪さに耐えがたい時代ではないでしょうか。今この時代は、徹底的に神さまから果てしなく遠いところに迷い出てしまいました。この時代に生きる一人のキリスト者として本当に神さまに申し訳ないことです。しかし私たちにとって、周囲を裁いていたずらに悲観的になってみせるということもまたふさわしくないのだと思います。私たちはキリストを信じています。この時代にあって。今を生きる私たちの救い主であるお方として、キリストを信じている。だから、私たちにもなお希望がある。「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。」キリストは今を生きる私たちの世界に命を与えるために来てくださいました。このお方が実現してくださった救いを、この世界の中で証しすることが私たちの務めです。今を生きる私たちの救いは、イエス・キリストにあるのです。

2026年3月18日水曜日

2026年3月18日の聖句

私を顧み、憐れんでください。
あなたの僕に力を与えてください。(詩編86:16)
よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。(ヨハネ16:23)

私たちのお祈りは、多くの場合「主イエス・キリストの御名によって、アーメン」と終わります。「主イエス・キリストの御名によって」というのは、祈りを終えるための締めの言葉ではありません。キリストが「私の名によって祈れ」と教えてくださったから、私たちはキリストのお名前におすがりして祈っているのです。
例えば悪いことをしてしまったとき、子どもは親に一体どうやって事の顛末を説明し、謝ったらいいのか分からなくなってしまいます。親は怒っているだろうか、赦してくれるだろうか。そんなときに母が「わたしも一緒に謝ってあげるから」と言ってくれたら、どんなに気持ちが軽くなることでしょうか。父の前に進み出る勇気が湧いてくるでしょう。
主イエスは御自分のお名前で祈るように、と私たちに教えてくださいました。神さまの愛する独り子のお名前で私たちは祈っていいのです。神は必ず聞いてくださいます。そして私たちがイエスのお名前で祈るときに知ることは、神は実は怒って私たちを罰するお方ではなく、独り子を与えてくださるほどにわたしを愛してくださるお方だった、という事実です。
「私を顧み、憐れんでください。あなたの僕に力を与えてください。」私たちも、神さまを信頼して同じように祈ります。キリストのお名前で!主イエスさまの憐れみに導かれるようにして、神の憐れみを求めて祈ることができる。この祈りが私たちの力となるのです。

2026年3月24日の聖句

主はあなたの前に御使いを遣わされる。(創世記24:7) 「(イエスの言葉)父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:42~43) 今日の旧約聖書の御言葉は、ア...