2026年7月23日木曜日

2026年7月23日の聖句

私は閉じ込められて、逃れることができません。
目は苦しみのあまり衰えました。
主よ、私はあなたを日ごとに呼び求めます。(詩編88:9~10)
すると、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに置いてもらっていたのである。(使徒3:2)

生まれつき足の不自由な男が神殿の「美しい門」におかれていました。神殿に来る人に物乞いをするためです。「置かれていた」という聖書の表現が、この人の悲しさを訴えかけているようです。まるで物のようにそこに置かれていた。彼には何らかの仕事をすることもできなかったのでしょう。彼に家族はいたのでしょうか。彼をこの場所まで運んできた人が家族であったのであれ、あるいは他の人であれ、恐らくその存在を厄介に思っていたのではないでしょうか。そんな彼の境遇が「置いてもらった」という表現に表れているように思います。彼の最後の生きるすべ、それが「美しい門」に置かれて物乞いをすることだったのではないかと思うのです。
まさに今日の旧約の祈りのとおりです。「私は閉じ込められて、逃れることができません。目は苦しみのあまり衰えました。主よ、私はあなたを日ごとに呼び求めます。」
そんな彼のところにペトロとヨハネがやって来ました。そこから新しいドラマが始まります。福音を携えてやって来た人たちがイエス・キリストの名による福音を宣言するとき、新しい出来事が始まります。閉じ込められ、逃れることができず、苦しみのあまりに目も衰えた一人の人を救う神の言葉が響いたのです。
今日私たちが耳にする福音も、彼を生かしたのと同じ福音です。同じイエス・キリストの名による福音があなたを生かしています。あなたも、イエス・キリストの名によって立つように命じられている。あなたも立てる。あなたもキリストの僕として生きることができるのです。

2026年7月22日水曜日

2026年7月22日の聖句

すると主は(モーセに)言われた。「あなたと共にいる民は皆、主の業を見るであろう。」(出エジプト記34:10)
群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。(マタイ15:31)

主の業を見るであろう、と言われています。私たちは、目を開いてそれをしっかりと見ているでしょうか?今日の新約の御言葉にはこのように書かれています。「群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。」主イエスの御業を目撃した人たちは驚きました。そして神を崇めました。こういうところを読むと、私たちは思ってしまいます。「私たちの間では、口の利けない人がものを言うようになったり、手の不自由な人が治ったり、足の不自由な人が歩いたり、目の見えない人が見えるようになったりしていない」と。私には神さまの業なんて見えない。
自分を満足させる証拠を見せてほしいという次元で考えていると、神さまの御業は見えなくなってしまうのだと思います。神さまは今何をしておられるのか。主はこの地にどのような御業をしておられるのか。そのことを祈りをもって、そしてへりくだって静かに見極め、受け止める。そういう信仰のまなざしが必要なのではないでしょうか。主は今何をしておられるのか。そのことを今日問うていきましょう。

2026年7月21日火曜日

2026年7月21日の聖句

エルサレムと共に喜び祝い、彼女のことで喜び踊れ
彼女を愛するすべての人よ。
彼女と共に大いに喜べ
彼女のために嘆いていたすべての人よ。(イザヤ66:10)
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。(ルカ19:37)

エルサレム。かつてダビデが都を築き、ソロモンが神を礼拝するための神殿を献げ、イスラエルの信仰の中心であった場所です。しかし同時に、傲慢な王政の中心地でもあり、豊かさや軍事力で国作りをしようという人間の思惑がうごめいていた場所でもあります。そして、やがて裁かれ、すべてが失われた都でもあります。
そのエルサレムについて、預言者は言います。「エルサレムと共に喜び祝い、彼女のことで喜び踊れ、彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に大いに喜べ、彼女のために嘆いていたすべての人よ。」神さまは人間の歴史の中で働いてくださいます。エルサレムという一つの都も、そういう神さまのお取り扱いを受けてきました。
私たちも同じです。今、この世界で起きていることも神さまの御支配の中にあります。神さまの前に私たちの振る舞いはいかなる意味を持っているのか?私たちの富や力に頼る傲慢な社会を神はどのようにご覧になっているのか?私たち人間はそのことを畏れ、へりくだってそのことを考え直すべきであろうと思います。
今日の新約の御言葉で、主イエスはエルサレムの都の郊外のオリーブ山に来られました。これからいよいよエルサレムにお入りになる。神の民の様々な歴史が積み重ねられてきたエルサレムに主が来られます。私たちの生きるその「現場」に主イエスは来ておられるのです。

2026年7月20日月曜日

2026年7月20日の聖句

主の仰せこそ清い仰せ。
土の炉で精錬され、七度純化された銀。(詩編12:7)
(イエスの言葉)私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。(ヨハネ18:37)

私は銀を炉で純化したことはありませんが、どんなにたいへんな作業なのだろうか、と思います。熱くて危険ですし、たいへん過酷な仕事でしょう。しかもそれを七度も繰り返す。どんなにきれいに純化されるのでしょうか。
「主の仰せこそ清い仰せ。土の炉で精錬され、七度純化された銀。」
主の仰せこそ、七度精錬して純化した銀のように、あるいはそれ以上に清い。神さまの言葉こそが私たちの尊い宝。主イエスはその言葉を「真理についての証し」と言われます。主は私たちに真理を教えてくださる。真理を証しするために主イエスは私たちのところへ来てくださった。
真理、それは神さまの御心でしょう。キリストが私たちに教えてくださった神の愛でしょう。イエス・キリストという道を通って、私たちが神の御許に行くことができる。これこそ主イエスが私たちに示してくださった真理です。ですから私たちは他の何でもなく神さまの御言葉に耳を傾けるのです。

2026年7月19日日曜日

2026年7月19日の聖句

今週の聖句:
あなたがたはもはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する神の家族です。(エフェソ2:19)

今日の聖句:
主よ、怒りに燃えて私を責めず
憤りに任せて懲らしめないでください。(詩編6:2)
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。(2コリント5:21)

あまりにもすごい御言葉です。「私たちが、その方に会って神の義となるためです。」神さまは言ってくださるのです。「お前たちが私の義だ」と。他の誰でもなく私たちを「私の義」と神が言ってくださる。驚くべき御言葉です。
そのために、神はさらに驚くべきことをなさった。「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。」罪を知らないイエスを神は罪となさった。主イエスは罪になり、私たちは義になった。イエスが持っておられたすべての尊さと聖さ、神の子としての身分が私たちのものとなり、私たちの罪や汚れ、裁かれるべき悪がすべてイエスのものとなった。聖書はそのように言います。
このようなことがあっていいのでしょうか。私たちは、ただ「主よ、怒りに燃えて私を責めず、憤りに任せて懲らしめないでください」と祈るより他ない者です。神は私たちの願い以上のことをしてくださいました。この神を畏れましょう。この神を崇めましょう。あなたの人生をまったく新しいものに一変させたのは、イエス・キリストの父である神です。

2026年7月18日土曜日

2026年7月18日の聖句

神は彼らを男と女に創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、人と名付けられた。(創世記5:2)
相手に敬意をもって丁寧に接しなさい。(ローマ12:10)

とても面白い御言葉の組み合わせだと思います。神が男と女とを創造された日に、彼らを人と名付けられた。これこそ神が人に敬意をもって接してくださったということに他ならない。そういうことでしょう。
人を人と名付けたのは、人をお造りになった神ご自身です。私たちは神に造られ、命を与えられ、神に名前を付けられて生きています。私たちに命を与えてくださったときから神はご自身との関係の内に置き、私たちを人と呼ぶことでご自分との関係を確かなものとしてくださいます。神は私たちをご自身との関係の中で生かしてくださいます。
今日の私たちも、神さまとの関わりの中で新しい一日が始まっています。聖書を通して語りかける神さまの御言葉を聞き、神さまにお祈りをしています。神さまの呼びかけを聞くことこそが私たちを本当に自分らしく生かすよすがです。
明日は主の日です。礼拝で、そして礼拝で語られる神の言葉によって私たちは神様と出会います。朝毎、週ごとに神さまは私たちに新しい御言葉をもって語りかけてくださいます。福音が証しされることで私たちは神と出会う。そういう出会いの言葉を求めて私たちは神様の御前に進み出ます。私たちは自分の神と出会う備えをし、今日この備えの一日を祈りの内に歩みたい。神は、もったいなきことに敬意をもって私たちを呼んでくださっています。私たちも最大限の敬意をもって神の前に進み出たい。そのように願います。

2026年7月17日金曜日

2026年7月17日の聖句

天から見下ろし
聖なる美しいお住まいからご覧ください。
あなたの情熱と力強い御業はどこにあるのですか。(イザヤ63:15)
(イエスの言葉)私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14:18)

天から私たちを見下ろされる神さまは、天にどっかりと構えたままではおられません。天でゆっくり眺めているのではなく、私たちのところにまで降りて来てくださいます。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」そうおっしゃるとおり、主は天で落ち着いていることなく私たちがいるところに降りて来てくださるお方です。神は、落ち着かない神でいらっしゃいます。
私たちのところに来てくださる神は、私たちをみなしごにはしておかれません。私たちのところに来て、私たちをご自分のものにしてくださいます。それはまさに「あなたの情熱と力強い御業はどこにあるのですか」という祈りに応える情熱と力強さです。
今日私たちが聞いている福音は、神が情熱的なお方でいらっしゃる、ということです。神さまは冷めた心をお持ちの方ではない。情熱的で、熱く、私たちのことを放っておかないでいてくださるお方だ、ということです。
今日も神さまは情熱的な愛をもってあなたのところへ来ておられます。神はあなたに何をしておられるか、神は今どのような御業をなさっているか。私たちが問うべきは、そのことではないでしょうか。

2026年7月23日の聖句

私は閉じ込められて、逃れることができません。 目は苦しみのあまり衰えました。 主よ、私はあなたを日ごとに呼び求めます。(詩編88:9~10) すると、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のと...