2026年8月6日木曜日

2026年8月6日の聖句

朝と夕べの始まる所に
あなたは喜びの歌を響かせてくださいます。(詩編65:9)
看守は二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。(使徒16:34)

今日の新約には「看守」という人が登場しています。この人はフィリピという町にある牢獄の看守でした。そこにパウロとシラスが投獄されていた。牢獄の中にいた二人は、真夜中、主への賛美の歌を歌って祈っていました。他の囚人たちもこれに聴き入っていました。そこに突然大地震が起こった。牢の戸が開いてしまいました。看守は囚人たちが皆逃げてしまったと思い込み、自殺しようとします。すると牢の中からパウロが大声で叫んだのです。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」このようなことがあって看守は信仰に導かれました。彼は二人を自宅に招いて一緒に食事をしました。
ところで、先日、保育園で子どもたちに聖書のお話をする機会がありました。8月ということで平和の話をしました。与えられた聖書の御言葉は「彼はその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す」でした。鋤も鎌も農業をするための道具、つまりご飯を作り出すための道具です。ご飯を作り、食べて、生きていくための、しかも自分だけではなく皆が生きていくための道具です。剣や槍という殺すための道具が人の命をつなぐための道具に変えられる、という幻を預言者イザヤは見ました。
今日私たちに与えられている聖書の御言葉も、看守は、パウロやシラス、それに他の囚人が逃げないように剣を持って見張りをしていたのでしょう。地震というハプニングのために皆が逃げたと思ったら、今度は責任を取って自分を傷つけなければならないと思い詰めてしまった。しかし、パウロに導かれ、主イエスと出会ったときに、彼は敵だと思っていたパウロやシラスと共に食事をする道に導かれました。敵対していた者たちが一緒に食事をする。ここに既にキリストの平和が始まっています。
実に、私たちは敵対し、憎しみ合い、傷つけ合うために生きているのではない。一緒にご飯を食べ、互いの命を喜び、共に賛美を献げて祈るために生きているのです。キリストが私たちの間にいてくださることに気づくとき、新しい出来事が始まります。

2026年8月5日水曜日

2026年8月5日の聖句

(主の使いへのギデオンの言葉)主が私たちと共におられるのでしたら、なぜこのようなことが私たちに降りかかったのですか。(士師記6:13)
それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊いのです。(1ペトロ1:6~7)

土や岩の中から、あるいは砂金として取り出した金には他の鉱物が混じっているので、精錬してそれを取り除きます。今では電気分解をするようですが、もちろん昔はそのような技術はありません。恐らく火で焼いていたのでしょう。そうやって純度の高い、より純粋な金を生み出します。火で精錬された金。それは本当に尊くて、庶民であればもしかしたら一生目にすることもないようなものだったのかもしれません。純度が低い金であれば庶民の手に渡ることももしかしたらあったかもしれませんが、火で精錬された金はそういうわけにはいかなかったと思います。王侯貴族だけのものだったのではないでしょうか。あるいは、ユダヤの世界ではそれは神さまに献げていましたから、神殿の奥にある祭具に使われるものでした。
しかしそんな精錬された金よりももっと尊いものがある、と使徒ペトロは言います。「それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊いのです。」試練によって精錬されたあなたがたの信仰は、どんなに純度の高い金よりももっと尊い。金などよりもはるかに貴重で、あなたたちの喜びになるはずだ、と言うのです。
「主が私たちと共におられるのでしたら、なぜこのようなことが私たちに降りかかったのですか。」私たちにも、そう言わねばならない出来事が起こる。しかしそれは私たちを精錬する火です。だから試練の時に驚き怪しんではならない。あなたたちの信仰をさらに高価な神へのささげ物とするために、今この試練の時が来ているのだ、と聖書は言います。

2026年8月4日火曜日

2026年8月4日の聖句

(主の言葉)あなたがを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。(出エジプト記19:4)
これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。(2コリント1:10)

今日の旧約聖書の御言葉は、エジプトという奴隷の家から解放してくださった神がその民に語りかけた言葉です。エジプト人に奴隷として追い使われ、喘ぎ、苦しみ、呻いていたヘブライ人たち。神が彼らの呻きを聞き、モーセを遣わして救ってくださいました。そのために神はエジプト人たちに大いなる御業を行い、強い手で海の中に道までつくって救い出してくださいました。主は言われます。「あなたがを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。」あなたたち自身が救いの出来事を経験してきたはずだ、と主は言われます。
神の民はこの記憶を共にする民です。エジプトから導き上ってくださった神は、民の歴史に関わり続け、その後もこの民を救い続けてくださいました。バビロンという国に滅ぼされ、捕囚として連れ去られたときにも、やはりエジプトから救ってくださった神が私たちを救ってくださるというのが預言者たちが語った救いのメッセージです。かつて先祖を救ってくださった神は、今日私たちをも救ってくださるに違いない。
そうであるからこそ、今同じ神の民の一員である私たちも信じます。「これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。」同じ神が私たちと共に歩んでくださっている。同じ神が私たちを救ってくださる。私たちは同じ神の出来事に巻き込まれて、神の救いの出来事を物語る民として生きているのです。

2026年8月3日月曜日

2026年8月3日の聖句

主こそ神と知れ。(詩編100:3)
(使徒ときょうだいたちは)「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を崇めた。(使徒11:18)

最初のキリスト者たちにとって、ユダヤ人ではない異邦人が神を信じるというのは、私たちには想像できないほどに大きな驚きであったのだと思います。
もともと、主なる神さまはユダヤ人にご自身を現し、ユダヤ人に関わってこられました。ユダヤ人、それはアブラハムとその子孫です。彼らの歴史と共に歩み、彼らが奴隷としてエジプトで虐げられているのをご覧になって心を痛めて救い出し、約束の地へと導き出しました。その地で彼らが国を造り、堕落し、神に背いていくのをご覧になって心を痛めました。罪の中で彼らは破滅した。遠い国に捕囚として連れらされた彼らをそれでも捨てずに再び彼の地へ連れ戻してくださったのも、主なる神さまです。そしてユダヤ人の中にご自身の独り子をお与えくださったのもこの神です。
主なる神さまは、ユダヤ人という特定の民をご自分の民とし、彼らにご自身を現してこられました。ですからユダヤ人にとっては主なる神さまは「私たちの民の神」です。その神を外国人が信じるというのは、考えてもみなかったことだったと思います。「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」というのは、本当に驚天動地だったでしょう。まさに神を崇めるよりほかない新しい出来事だったでしょう。
一つの民をお選びになってご自身を現してこられた神は、しかし、ユダヤ人だけの神ではないのです。世界のすべての者の神です。日本人であろうと韓国人であろうと中国人であろうと、ウクライナ人であろうとペルー人であろうとコンゴ人であろうと、誰であろうとも信じるべきはこのお方です。神は世界中のすべての人をお造りになった、ただおひとりのまことの神なのです。主こそ神。私たちはそのことを知り、神を崇めます。ただ一つの民と関わり、その歴史に深く関わったお方であるからこそ、どのような出自を持ったものであろうともその人の歴史に深く関わることのできるお方なのです。

2026年8月2日日曜日

2026年8月2日の聖句

今週の聖句:
すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。(ルカ12:48)

今日の聖句:
これらの国民は卜占する者や占い師の言うことを聞いているが、あなたの神、主は、あなたがそうすることをお許しにならない。(申命記18:14)
だが、今や神を知っていたのに、いや、神に知られたのに、どうしてあの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。(ガラテヤ4:9)

卜占や占いは聖書で固く禁じられています。なぜでしょうか。
その一つの理由は、占いの類が神を知ったつもりにさせるからではないか、と思います。いや、そもそも占いが知ろうとするのは神ではなく運命や運勢の類でしかないのかもしれません。いずれにしても、分かったつもりにさせる。そこで知った気になっている神にしても運勢にしても、それは聖書が証しする主なる神さまとは似ても似つきません。全然違う。知ったつもりになってもらっては困る、ということではないかと思います。
運命は心を痛めません。私たちを愛し、あるいはそのために怒り、私たちを求めて捜し回りません。占いは神の自由を認めません。私たちが主人であって、神を支配することができる、というのが占いの前提であると思います。それは聖書が証しする神ではない。不自由な神、それは偶像です。人間の欲望に従う神、それは偽りの神です。だから聖書は問います。「だが、今や神を知っていたのに、いや、神に知られたのに、どうしてあの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。」
まことの神さまは、自由な愛をもって私たちを求めてくださいます。私たちの予想もつかないほど大きな愛で私たちを捜し回ってくださいます。喜び、怒り、妬み、愛し、私たちのためにご自分の独り子さえ与えてしまうほどのお方です。占いで知ることができるような方ではない。私たちの考えを押しつけることのできるような方ではない。私たちの思いを超えて自由でいらっしゃるし、私たちが考えている以上に深く大きな愛に溢れたお方なのです。

2026年8月1日土曜日

2026年8月1日の聖句

8月の御言葉:
(イエスの言葉)私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。(ヨハネ10:10)

今日の御言葉:
隣人のものを一切貪ってはならない。(申命記5:21)
私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。(ガラテヤ5:16)

隣人のものを貪る、つまり貪欲は、今の社会の基本的な欲望です。他人のものをうらやましいと思うだけでは留まらず、自分のものにしたいと強く望む。顔が見えるくらい近しい隣人のものであれば奪い取るということはあまりしないかもしれませんが、遠くて顔が見えない相手のものを私たちは奪い取ってはいないでしょうか?
ある経済学者がこのようなことを言っていました。アボカドという果実があります。輸入に頼っています。とてもおいしい。しかしこれは生長するためにとても大量の水を必要とする植物なのだそうです。アボカドを輸入することによって、日本は大量の水を現地から輸入していることになる。さらにアボカドは発育のために大量の栄養分を必要とし、一度アボカドを生産するとその土壌では他の種類の果実などの栽培がこんなになってしまう。私たちのスーパーに並んでいるアボカドは、実は他の土壌を奪い取ってできた果実なのだ、というのです。
私たちの貪欲は留まるところを知りません。欲しいものはいくらでもある。そして「貪欲」をエネルギーにして今の社会は成り立っているところがある。そう考えると私たちが生きているのは実は非常に罪深い社会ではないかとさえ思います。
「隣人のものを一切貪ってはならない。」「私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」
今日の二つの御言葉は、私たちにこれまでとは異なる生き方を提示します。主にものとしてこの世で生きるとはどういうことなのか。今日、神さまはあなたに何と語りかけておられますか?

2026年7月31日金曜日

2026年7月31日の聖句

見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える。(エレミヤ9:6)
祈りなさい、誘惑に陥らないために。(ルカ22:40)

聖書が書かれた言語では、日本語で「試練」と翻訳される言葉と「誘惑」と翻訳される言葉とは同じ単語で言い表されます。同じ出来事が、場合によっては試練にもなるし、他の場合には誘惑にもなる、ということであると思います。
「祈りなさい、誘惑に陥らないために」と主は言われます。苦しい出来事が私たちを罪に誘い込む誘惑になるのか、それとも信仰を試し、あるいは精錬する試練になるのか。その鍵は祈りだ、と主イエスはおっしゃっているのではないでしょうか。苦しいときは信仰の危機です。右に行くか左に行くかが問われる。分かれ道です。神に従うのか、自分や周囲の声に従うのか。今の自分の置かれている状況や取るべき道はどこなのかを識別し、そこで神に従う道を選び取るためには祈りが欠かせません。神が聖霊によって私たちを導いてくださるのであれば、それを受け止める私たちのあるべき姿は祈ることをおいて他にないからです。
「見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える」と主は言われます。あまりありがたくない言葉のように思います。できれば試練になんて遭いたくありません。しかし、それとは逆の反応もあると思います。今起きているこの出来事は、神の手の中にある。神がお与えになった試練に他ならない。そのことを信じるならば、その出来事が苦しくとも、それは誘惑ではなく試練です。神の手の中にあるという信仰こそ、私たちにとっては「試練からの逃れる道」なのではないでしょうか。

2026年8月6日の聖句

朝と夕べの始まる所に あなたは喜びの歌を響かせてくださいます。(詩編65:9) 看守は二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。(使徒16:34) 今日の新約には「看守」という人が登場しています。この人はフィリピという町にあ...