2026年2月25日水曜日

2026年2月25日の聖句

わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。(イザヤ42:6)
すると、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と言う声がした。(マタイ17:5)

今日の旧約の御言葉には「義をもってあなたを召し」と書いてあります。この「義をもって」というのは、どういう意味なのでしょうか。そう思って原典に当たってみますと、ここには、直訳すると「義の中で(あるいは、義の中へ)」という表現が使われていました。主なる神さまは、義の中で、あるいは義の中へとご自分の僕をお召しになった。
義というのは、神さまとの正しい関係、罪のないあり方であり、倫理的には共同体の他者を生かすあり方です。また神様ご自身の御性質としては、孤児や寡婦の権利を守り、寄留者を愛するお方、という文脈で「義」という言葉が使われることもあります。神さまはご自分の僕を、そのような「義の中で」、あるいは「義の中へ」とお召しになった。神様の御前にも義なるお方として、そして私たちの間にあって義なるお方として、そして私たちに向かう神様ご自身の義そのものでいらっしゃる方として、神の僕は召された。
「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から響いた、と今日の新約の御言葉に書かれています。私たちが聞くべきお方、神の子でいらっしゃるお方、それはイエス・キリストに他ならない。神がお召しになった僕、それは主イエス・キリストです。
私たちにはイエス・キリストに現された神の義が神の御心として知らされています。私たちはこのお方に耳を傾けます。この方こそ私たちのための神の言葉です。「神の義」は学者が机の上で考えた理論とか原理とかではなく、イエス・キリストというお方によって現された神の現実的なご意志であり、なさっている事柄なのです。

2026年2月24日の聖句

私は知っている
主が苦しむ人の訴えを取り上げ
貧しい人のために裁きを行うことを。(詩編140:13)
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょう。(ヤコブ2:15~16)

私たちにとっては考えたくない事実ですが、私たちの社会の中で貧しくて着る物や食べる物に事欠いている人の声は、実際には無視されることが多いです。しかしそれは私たちが作っている社会であり、私たち自身がその一員である社会の話です。他の人の責任にしたり、行政や政治家のせいにして済む話ではないのだと思います。私たちにできることには限りがあります。しかし、今朝のヤコブの手紙が「もし、兄弟か姉妹が」と言っているとおり、私たちが出会い、その人と「兄弟、姉妹」という関わりを持つことができるその人にまず寄り添い、共に生き、分かち合って生きることができるならば・・・神さまはその小さな業をも用いてくださるはずです。
私たちにとって今朝の詩編の言葉はとても大切な示唆を与えていると思います。「私は知っている、主が苦しむ人の訴えを取り上げ、貧しい人のために裁きを行うことを。」この社会に神さまが望んでおられる正義は、苦しむ人の訴えに耳を傾け、貧しい人と公平に接することから始まるのではないでしょうか。今の社会で力を持ち成功している人は「このままがいい」と思いますから、苦しみ嘆き、悲しむ声に耳を傾けようとはしません。もしも私たちキリスト教会がその声に耳を傾け、分かち合い、共に生きるならば、この社会の中にあって神に立てられた預言者としての務めに仕えているのではないかと思います。嘆きの声に耳を傾けることから、始まるのではないでしょうか。

2026年2月23日月曜日

2026年2月23日の聖句

声を響かせ、賛美して言え。
「主よ、あなたの民をお救いください。」(エレミヤ31:7)
イスラエルの神である主は
ほめたたえられますように。
主はその民を訪れて、これを贖われた。(ルカ1:68)

今日の旧約聖書の御言葉は、最初の分と二つ目の分のつながりがとても興味深いと思います。後半の「主よ、あなたの民をお救いください」という祈りは賛美だと言っています。普通に私たちがイメージする賛美とは違うのではないでしょうか。「救ってください」は賛美的な響きというよりも、祈願とか嘆願とか、そういう言い方の方がぴったりのような気がします。ところが預言者エレミヤは言うのです。「声を響かせ、賛美して言え。『主よ、あなたの民をお救いください』」と。主に救いを求めることは、主を賛美することに他ならないのです。
私たちが苦しみの中で主なる神さまを呼び求めて「救ってください」と祈るとき、私たちは主を賛美しています。私たちがどうにもならない現実の中で主の助けを求めて叫ぶとき、私たちは主を賛美しています。私たちのどうにもならない悲しみや嘆きを神に向けるとき、実は私たちは神を賛美しています。そして、神を賛美することこそが私たちの救いなのです。
私たちを苦しめる出来事や人はたくさんあります。私たちは呻くし、嘆くし、どうしていいのか分からなくなってしまう。その思いを神さまにそのままぶつけましょう。主が教えてくださったとおり「悪より救い出したまえ」と祈りましょう。主は憐れみ深いお方ですから、私たちのその声に耳を傾けてくださいます。私たちの声をご自分への賛美として聞いてくださいます。主は必ず私たちをご自分の民として悪から救いだしてくださいます。

2026年2月22日日曜日

2026年2月22日の聖句

今週の聖句:
神の子が現れたのは、悪魔の働きを滅ぼすためです。(1ヨハネ3:8)

今日の聖句:
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い
貧しい人々は
イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。(イザヤ29:19)
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。(2コリント8:9)

「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるため」と使徒パウロは言います。神の子でいらっしゃる方が一人の人間になられて、私たちの間に、私たちと同じ肉体をもってお生まれになりました。王の家でも大臣の家でもなく、小さな田舎の片隅の、小さな小さな家庭の中にお生まれになりました。主は貧しくなられた。すべてを与え尽くして、ご自身の手には何も残しませんでした。
主の貧しさは他のどこよりも、十字架の上で明らかになりました。主イエス・キリストは何一つ持たず、服さえも剥ぎ取られて十字架にかけられました。このキリストの貧しさが私たちを豊かにしてくださいました。もしも主がお与えくださった豊かさがこの世の中で普通に意味されるような豊かさだったら、そのようなものはどんなに立派ですてきに見えてもすぐに消えてなくなります。形のあるものはどんなものでも、なくなってしまいます。しかしキリストは私たちを神の御前で豊かな者にしてくださいました。キリストは私たちにすべてを与え、まるで私たちが神の前ではキリストご自身であるかのように装ってくださいました。私たちに神の子の装いをまとわせ、私たちを神の前に立たせてくださったのです。
キリストをほめたたえ、賛美しましょう。主イエス・キリストの恵みと平和を祈り求めて今日という日を生きていきましょう。主イエスさまの恵みと祝福の中で豊かにして頂いたことを喜び、主を礼拝しましょう。

2026年2月21日土曜日

2026年2月21日の聖句

先にあったことを思い起こすな。
昔のことを考えるな。
見よ、私は新しいことを行う。
今や、それは起ころうとしている。
あなたがたはそれを知らないのか。(イザヤ43:18~19)
(パウロの手紙)だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。(2コリント5:17)

今日の旧約聖書はイザヤ書第43章ですが、この言葉が語られたのはとても困難な時代でした。ユダ国がバビロンに滅ぼされ、国の主だった人々が遠くバビロンに連れ去られてしまった「バビロン捕囚」の出来事から既に数十年が経過した時代です。自分たちを滅ぼしたバビロンでさえも、さらにその後の新興国ペルシアに滅ぼされていました。
自分たちの目の前にあるのは、「今、私たちは故国から遠く離れてたところにいる」という現実であり、あの戦争から既に世代交代するほど経過した時間であり、故郷から1000キロ以上離れ砂漠を越えたところにいる自分たち、というどうにもならない厳しい現実です。ところが神さまはおっしゃいます。「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。」すごい言葉です。私たちにはどうにもならないこと、諦めるしかないこと、現実を前に手も足も出ないこと。そんな圧倒的な私たちの無力とこの世の暴力的な物語の力を前に、神さまは新し事を行うとおっしゃいます。神さまの救いの出来事が今や芽生えている、とおっしゃるのです。
神さまを信じるというのは、一つの言い方をすれば、私たちの目に映る「現実」とは異なる神さまの出来事を思い描く想像力が必要なことなのだと思います。目の前にあるものとは違う、神さまがお造りになる将来を描くイマジネーションがなければ信仰は成り立たないのではないでしょうか。
神さまは「先にあったことを思い起こすな」とおっしゃっています。私たちは普通はこれまであったことを参照例として今やこれからを考えます。ですから、社会は現状維持を好むし、たまに新しいことをしようとする人が現れても、現状の否定が関の山になってしまうのだと思います。しかし神さまは私たちの思いの外にある新しい救いの御業を始めておられる。だから私たちは神さまが私たちの「現実」を越えて働いておられることを思い描き、神さまは今何をしておられるのかをイメージするのです。
私たちは何も新奇なものを頼みとしているのではありません。「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」このように言われているとおり、キリストにあって私たちを新しくしてくださる神さまの御業を待ち望み、ここにある望みによって描かれる救いの出来事を信じているのです。

2026年2月20日金曜日

2026年2月20日の聖句

主よ、私に憐れみを閉ざさないでください。
あなたの慈しみとまことが
絶えず私を守ってくださるように。(詩編40:12)
憐れみと平和と愛を、神があなたがたに豊かに与えてくださいますように。(ユダ2)

今日の新約の御言葉によって、私も皆さんに朝のご挨拶を申し上げます。「憐れみと平和と愛を、神があなたがたに豊かに与えてくださいますように。」あなたの今日一日が神の憐れみと平和と愛の中にあり、神の豊かさの中でさらに豊かに祝福を頂くものでありますように!
今日、例えあなたに何が訪れるとしても、神の憐れみと平和と愛はあなたから離れません。恐れてはいませんか?不安になってはいないでしょうか。例えあなたが恐れていたとしても、神があなたに下さる恵みには一切変更がありません。私たちに受け止めきることのできないこともあるでしょう。嘆くしかない現実もあるでしょう。そのようなときには、嘆いて良いし、悲しんでよい。神さまに「なぜですか」と訴えていいし、「間違っているのはあなたではありませんか」と糾してよいのです。むしろ、神さまはあなたのその祈りを待っていてくださいます。
「主よ、私に憐れみを閉ざさないでください。あなたの慈しみとまことが、絶えず私を守ってくださるように。」
主は、私たちが願うよりも先にご自身の慈しみとまことであなたを必ず守ってくださっています。主があなたへの憐れみを閉ざすことは絶対にありません。どのようなときにも。主イエス・キリストの恵みと平安があなたにありますように。

2026年2月19日木曜日

2026年2月19日の聖句

もろもろの民よ、われらの神をたたえ、その栄光をとどろかせよ。
神は私たちの魂を生かし、その足をよろめかすことがない。(詩編66:8~9)
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。(ローマ15:5~6)

今日の新約聖書は祈りの言葉です。すごい祈りです。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。」私たちも心を合わせて同じ祈りを捧げましょう。主イエスご自身が既に「御名を崇めさせたまえ」という祈りを教えてくださいました。私たちもこのように祈りたいのです。
私たちが神を崇め、賛美することにおいて同じ思いになり、心を合わせることができますように。これこそ、主イエス・キリストに倣うことです。神への賛美で一つになるところで、私たちはキリストのまねをする者にならせて頂く。すてきな言葉です。
私たちは声を合わせて賛美を歌います。思いを合わせ神を賛美して祈ります。私たちの願いは神さまのお名前が崇められ、神さまの栄光あるお名前が全地にとどろくこと。このお方は私たちの魂を生かしてくださいます。主は私たちの足がよろめかないようにしてくださいます。ですから、そのように私たちに配慮してくださる神を賛美する心はそのまま、人間を非人間的に扱う悪や、神が与えてくださったものを独り占めしようとする貪欲とは戦う心をも生み出します。私たちは神がお造りになったこの世界の美しさを保ち、神がお造りになった命の尊厳を尊重する。そして、息あるものはこぞって神の御名をほめたたえますように。そして、私たち自身の存在そのものが賛美となりますようにと祈ります。

2026年2月25日の聖句

わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。(イザヤ42:6) すると、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と言う声がした。(マタイ17:5) 今日の旧約の御言葉には「義をもってあなたを召し」と書いてあります。この「義をもって」というのは、ど...