2026年5月3日日曜日

2026年5月3日の聖句

今週の聖句:
新しい歌を主に歌え。
まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)

今日の聖句:
ギデオンは言った。「もし御目に適いますなら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしをお見せください。」(士師記6:17)
(ニコデモの言葉)「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」(ヨハネ3:2)

今日の二つの聖書の御言葉は、どちらも「しるし」ということに言及しています。神であることのしるしです。ニコデモは主イエスがなさった奇跡をそのしるしだと信じ、イエスのもとへ来ました。
とても正直なことを言うと、私はこういうところを読むと少し困ってしまいます。ニコデモにはそうかもしれないが、私自身にはそのようなしるしが起こっていないし、目の当たりにもしていない、と思ってしまうからです。この「しるし」ということをどう考えたらいいのでしょうか。
実は、ニコデモと主イエスとの対話を見てみると、主イエスご自身がそのことをお考えだったのではないか、と私は思うのです。主イエスはニコデモが「これぞしるし」と思った奇蹟の話を深めることなく、対話が続いていくとこのようにおっしゃいます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(14,15節)。(ここで「荒れ野で蛇を上げたように」と書いてあります。これは民数記21:1~9に出て来る話がもとになっていますので、詳しくはそちらをご覧ください。)これは、主イエスご自身が十字架の上に上げられることを意味する言葉です。主が十字架に上げられることで私たちに永遠の命が与えられる。つまり、主が荒れ野の蛇のように十字架の上に上げられ、そのお姿を仰ぐ私たちが命を得ること、それが神が私たちに下さったしるしだ、と主はおっしゃいます。
私たちは昔イエス様がすごい奇跡をなさったということでもって主イエスを真の神と信じるのではなく、十字架に上げられて私たちに命をくださったという究極のしるしによってそのことを信じている。それがヨハネによる福音書が伝えているメッセージなのだと思います。
キリストの究極のしるしを、信仰の目を開いてしっかりと仰ぎましょう。ここに私たちの命があります。ここに私たちの救いがあります。

2026年5月2日土曜日

2026年5月2日の聖句

私の足取りをあなたの仰せで
確かなものにしてください。
どのような悪にも私を支配させないでください。(詩編119:133)
神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(1ヨハネ2:6)

「あなたの仰せ」、すなわち神さまの御言葉が私たちの足取りを確かにしてくださいます。神の言葉に聞き従うことが、私たちが確かなものとして生きることにほかならない、とこの詩編作者は言っています。
旧約聖書は(本当は新約聖書も同じですが)、とても具体的な信仰生活というものを考えていると思います。私たちが実際の生活で神さまを信じ、従って生きる。例えばそれは十戒の言葉に従う、ということを意味します。主の他の何ものも神とせず、人間が造った物を拝まず、神の御名をみだりに唱えず、安息日を覚えて生活リズムを刻む。そして父と母を敬い、殺さず、姦淫せず、盗まず、偽りの証言をせず、隣人の家を貪らない。どれもこれもとても具体的です。具体的な毎日の生活の中で神を信じ、神さまに従う。そうすることで私たちの足取りは確かになるのだ、と言っています。
そういうことを言われると、すぐに私たちは「自分には無理だ」と、言い訳めいた諦めの言葉を口にしたくなってしまいます。そんな私たちに与えられているのが、今朝の新約の御言葉です。今日の箇所は2:6ですが、少し文脈を遡ってみてみるとこのように書かれています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」聖書は、私たちが罪人であることを私たち以上に知っています。その上で言います。「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」神さまに従う者のために、キリスト御自らが弁護者になってくださいます。だから、聖書は言います。「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。」
これが、今日私たちに与えられた神の言葉なのです。

2026年5月1日金曜日

2026年5月1日の聖句

5月の聖句:
私たちはこの希望を、魂のための安全で確かな錨として携えているのです。(ヘブライ6:19)

今日の聖句:
必ずあなたは私を畏れ、
懲らしめを受け入れる。(ゼファニヤ3:7)
主よ、誰があなたの名を畏れず
崇めずにおられましょう。
聖なる方は、あなただけです。(黙示録15:4)

私たちは聖なる主の御名を畏れ、主を崇めます。「御名を崇めさせたまえ」と祈り、私たちは今日の日を歩んでいきます。
神さまは命の造り主です。このお方にしか命を創造することはできませんし、そうであるからこそ、すべての命には神の慈しみが込められていると私たちは信じています。私たちは生きているときにも、死にゆくときにも神とキリストのものです。どのようなときにも神さまは私たちを憶えていてくださり、髪の毛一本までも御心に留め、神の許しがなければその一本が地に落ちることすらないのです。聖なる神さまの手が今日も私たちを支えていてくださいます。
私たちが最期を迎えるときにも、キリストはそこにいてくださいます。陰府に降られたキリストは私たちを罪と死と滅びから救うことがおできになります。キリストが復活して道を拓いてくださったからです。
主を畏れ、主を賛美し、主を信頼しましょう。聖なるお方の手の大きさを、その確かさを、今日じっと信じ、祈り、主の御前に歩みましょう。

2026年4月30日木曜日

2026年4月30日の聖句

あなたの目の前には千年も
過ぎ去ればきのうのごとく、
夜の間のひと時のようです。(詩編90:4)
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペトロ3:9)

私たちはただの人間ですから、人間としての視野しか持ち合わせていません。千年などを見渡すことはできないし、これから先のことについては1秒後のことでさえ分かりません。いや、過ぎ去った過去のことでさえもどれだけ分かっていることでしょう。自分が「これだ」と思っている過去は他の人にとっては偽りでしかない、あるいはその逆に他の人が言う「過去」は自分にとっては創作したお話としか思えない、ということだって珍しくないのです。私たちの視野は狭いし、知恵も足りないですし、私たちは甚だ限界ある存在に過ぎないのです。
しかし、主はそうではありません。主の目には千年も一日のようであり、一日は千年のようです。「あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。」このお方がお立てになった計画に従って進む物事に私たちがとやかく言うことは、本当はできないのだと思います。神さまは、ご自身の知恵に従い、ご自分の御力によって、神様ご自身の御心に適う美しい御業を進めてくださっている。私たちはそのことを信じます。

2026年4月29日水曜日

2026年4月29日の聖句

あなたの口を、ものを言えない人のために
捨てられた人の訴えのために開きなさい。(箴言31:8)
しかし、大勢の人がいて、御許に連れて行くことができなかったので、イエスのおられる辺りの屋根を屋根を剥がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろした。(マルコ2:4)

高座教会の信徒宣教者として仕えておられる柳沢美登里さんは、「声なきものの友」の輪という宣教団体に所属して働いておられます。社会の周縁に追いやられ、声を失い、あるいは奪われ、苦しんでいる人の友として生きる。そしてその友たちが輪を作り、連帯して声なきものと共に生きる。そういう思いが込められているのだろう、と思います。
「あなたの口を、ものを言えない人のために、捨てられた人の訴えのために開きなさい。」私たちの口は誰のために開かれているでしょうか。ものを言えない人のため、捨てられた人の訴えのためにこの口を用いているのでしょうか。それとも、社会の多数派や強いものに同調し、弱く周縁に生きるしかない人を無視した声に与してはいないか。
今日の新約は、まさに声なきものの友として生きた四人の人たちの姿が描かれています。彼らは中風の男の友でした。病気もまた一人の人間から声を奪います。自分で主イエスのところへ行くことのできない友のために、四人は連帯して彼を床ごと運びます。イエスがおられる家が満杯で入れないと見るや、屋根に上り、そこに穴を開けて友をつり降ろしました。主イエスは、彼らの信仰をご覧になって中風の人を癒やしてくださいました。「声なきものの友」の輪が一人の人を主イエスの救いに運び入れたのです。
私たちは誰の友として生きましょう。私たちは誰のために声を上げましょう。私たちの声を必要としている人のところへ、主イエスは私たちを遣わしておられるのです。

2026年4月28日火曜日

2026年4月28日の聖句

ああ、主よ、大いなる畏るべき神よ、主を愛し、その戒めを守る者には契約と慈しみを守る方。私たちは罪を犯し、過ちを犯しました。(ダニエル9:4~5)
(イエスの言葉)私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。(ヨハネ6:37)

「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」これが今日私たちに与えられている御言葉です。主イエス・キリストが私たちを招いてくださっています。誰でも、私のもとに来なさい、と。私は誰も追い出さない。キリストは私たちが例えどんな者であったとしても、ほかの誰にも見向きもされず忌み嫌われていたとしても、私たちを招いてくださっています。そのようにしてキリストに招かれた者の群れである教会に生きる私として、私たちは生きることが許されています。
「ああ、主よ、大いなる畏るべき神よ、主を愛し、その戒めを守る者には契約と慈しみを守る方。私たちは罪を犯し、過ちを犯しました。」
主のみもとには、圧倒的な赦しがあります。私たちが自分で自分を赦せず、受け入れることが全く不可能なときにも、キリストの赦しは変わりません。私たちはただただキリストを愛し、圧倒的に私を慈しんでくださるお方に祈りを捧げているのです。
あるキリスト者が、自身の最期を迎えるにあたって息子たちに残した言葉を聞かせて頂きました。主を賛美し、主を愛して生きていこうと、力強くおっしゃっていました。私たちにできるのはそれだけです。圧倒的な愛で私たちを救ってくださったお方を私たちも愛し、このお方のすばらしい恵みをほめたたえます。そのために私たちは生きている。あなたも、圧倒的なキリストの愛で赦された罪人の群れ、教会の一員なのです。

2026年4月27日月曜日

2026年4月27日の聖句

あなたの業があなたの僕らに
輝きがその子らに現れますように。(詩編90:16)
野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(ルカ12:27)

何を着て生活するのか。それは、周りの人に自分をどう見せるかということでもあります。着やすくて便利だからと言って寝間着で出歩くわけにはいきませんし、ジャージで大切なお客様を迎えることもできないでしょう。TPOに合わせて身に着ける衣服を選ぶということは、大切な社会性の一つです。
しかしそれはときに必要な社会性という範囲を超えて、自分をあまりにもよく見せたいという願望と隣り合わせにもなります。主イエスは「野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」とおっしゃいます。神が父としての慈しみをもってあなたを装ってくださる。何を着るかということで思い煩うな、と言われるのです。
私たちは、栄誉をキリストにお返しする生き方をしているでしょうか?自分が輝くことを求めて生きているのか、神の輝きが明らかにされることを求めて生きているのか?私たちの生きる目的は自分が輝くことなのか、神の輝きを礼拝することなのか。今日私たちは、衣服を切っ掛けとして、聖書からそのようなことを問われているのではないでしょうか。

2026年5月3日の聖句

今週の聖句: 新しい歌を主に歌え。 まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1) 今日の聖句: ギデオンは言った。「もし御目に適いますなら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしをお見せください。」(士師記6:17) (ニコデモの言葉)「...