主はその聖なる腕を
すべての国民の目の前に現されました。
地の果てのすべての者が、
私たちの神の救いを見る。(イザヤ52:10)
あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。(エフェソ2:19)
ほんの少し前まで、日本社会には差別がない、日本人は差別をしない、とまことしやかに言われていたような記憶があります。外国で人種差別をしているとか、宗教差別をしているとか、そういう話を聞くときに「日本人はそのようなことをしない」と私たちは嘯いていました。しかしこのほんの数年で、とんでもない嘘だったことが明らかになってしまいました。クルド人や「不法滞在」と呼ばれる人に対する激しい差別があからさまに吹き出している。観光地にたくさんの外国人がいるのを見るだけでイヤな気持ちになる。結局、私たちも激しい差別感情を隠し持って生きてきたのです。
神さまは教会を、ユダヤ人も異邦人もなく一つの聖なる民として生み出してくださいました。キリストの教会は、神の家族です。「あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。」私たちはこの言葉を、本気で「福音」として受け止めなければならないのです。国籍や民族性だけの話ではありません。生活習慣や異なる常識などもそうでしょう。もう少し敷衍して言えば、世代間ギャップや異なる歴史に生きてきた教会のような、私たちの常識の外にあるすべての人のことでもあると思います。そういう「ノイズ」を、私たちは、神の聖なる民への祝福として受け入れているでしょうか?
「主はその聖なる腕を、すべての国民の目の前に現されました。地の果てのすべての者が、私たちの神の救いを見る。」すべての国民に。地の果てのすべての者が。神さまの御業は、私たちが思っているよりもはるかに大きくて広い。私たちの生活者としての感情を揺さぶり、それを疑問に付してしまうほどに。私たちにとってそれは時には厄介な広がりです。しかし、その厄介さこそが神さまの尽きることのない祝福への入り口なのです。
すべての国民の目の前に現されました。
地の果てのすべての者が、
私たちの神の救いを見る。(イザヤ52:10)
あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。(エフェソ2:19)
ほんの少し前まで、日本社会には差別がない、日本人は差別をしない、とまことしやかに言われていたような記憶があります。外国で人種差別をしているとか、宗教差別をしているとか、そういう話を聞くときに「日本人はそのようなことをしない」と私たちは嘯いていました。しかしこのほんの数年で、とんでもない嘘だったことが明らかになってしまいました。クルド人や「不法滞在」と呼ばれる人に対する激しい差別があからさまに吹き出している。観光地にたくさんの外国人がいるのを見るだけでイヤな気持ちになる。結局、私たちも激しい差別感情を隠し持って生きてきたのです。
神さまは教会を、ユダヤ人も異邦人もなく一つの聖なる民として生み出してくださいました。キリストの教会は、神の家族です。「あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。」私たちはこの言葉を、本気で「福音」として受け止めなければならないのです。国籍や民族性だけの話ではありません。生活習慣や異なる常識などもそうでしょう。もう少し敷衍して言えば、世代間ギャップや異なる歴史に生きてきた教会のような、私たちの常識の外にあるすべての人のことでもあると思います。そういう「ノイズ」を、私たちは、神の聖なる民への祝福として受け入れているでしょうか?
「主はその聖なる腕を、すべての国民の目の前に現されました。地の果てのすべての者が、私たちの神の救いを見る。」すべての国民に。地の果てのすべての者が。神さまの御業は、私たちが思っているよりもはるかに大きくて広い。私たちの生活者としての感情を揺さぶり、それを疑問に付してしまうほどに。私たちにとってそれは時には厄介な広がりです。しかし、その厄介さこそが神さまの尽きることのない祝福への入り口なのです。