2022年8月15日月曜日

2022年8月15日の聖句

義しいものの小屋で喜びをもって勝利が歌われる。「主の右の手は挙げられた。主の正しさは勝利を得た。」(詩編118:15,16)
私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。(ルカ1:46~47)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスさまを胎に宿した母マリアの賛歌です。「私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。」マリアは、この世界でただひとり、神の子を胎に宿すという恵みの経験をしました。たった一人の特別な存在。しかし、私たちも信仰においてマリアと共にいます。主イエスさまは私たちの間にも聖霊によって宿っていてくださる。私たちはそう信じています。ですから、私たちもマリアと共に神さまを賛美します。「私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。」
そのような賛美の言葉として、今日は詩編の一節が与えられています。「義しいものの小屋で喜びをもって勝利が歌われる。『主の右の手は挙げられた。主の正しさは勝利を得た。』」これは、勝利の歌です。私たちが主をほめたたえる賛美の歌は、主の勝利を喜ぶ歌。主の勝利とは何か。それは、私たちの罪に打ち勝って私たちを救うキリストの歌です。私たちは歌いつつ主イエスさまをほめたたえ、歌いつつ神を礼拝し、この新しい一日の歩みを織りなしていくのです。
主イエス・キリストの恵みと平和が、今日もありますように!

2022年8月13日土曜日

2022年8月14日の聖句

わたしをお引き留めにならないでください。主がわたしの旅に、祝福をくださったのですから。(創世記24:56)
道を進んでいくうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」(使徒8:36)

妨げは、ないのです。私たちのために御子をさえ惜しまずに与えてくださった方の愛を押しとどめる妨げは、どこにも、一つもないのです。私たちの目には「絶対」と映るような妨げがあるかも知れません。しかし、この世にあるどのようなものよりも神の愛は強いのです。神の愛を、神の祝福を留めるものは何一つない。今日も、そしてこの一週間も、主イエス・キリストにある新しい命の恵みに生きていかれますように。祝福を祈っています。

2022年8月13日の聖句

主の僕は言った:打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。辱めと唾から私は顔を隠さなかった。(イザヤ50:6)
見よ、これが世の罪を担う神の小羊です。(ヨハネ1:29)

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊です。」これは、洗礼者ヨハネが主イエスを指さして言った言葉です。主イエス・キリスト。この方こそ、世の罪、私たちの罪を取り除く神の小羊。旧約聖書を読むと、罪の赦しの祭儀をするために、小羊が屠られ、血を流されると書かれています。主イエスさまが神さまの御前に小羊として血を流し、私たちの罪を負う犠牲になってくださいました。聖書は、このお方の血によってでしか、私たちの罪はゆるされなかったと訴えます。
「打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。恥ずかし目と唾から私は顔を隠さなかった。」主の僕は、打とうとする者にその背中を差し出し、ひげを抜こうとする者にその方を任せ、辱めと唾を甘んじて受けます。そうやってご自分を差し出す方によってでしか、私たちが救われることがないからです。
イザヤ書が伝える主の僕は、洗礼者ヨハネが指さす神の小羊、主イエス・キリストのことです。傷つけられ、辱めを受け、血を流す救い主によってでないと、私たちは救われない。それは、神さまが私たちに与えてくださった救いが、罪の赦しの救いだからです。私たちのために犠牲になり、罪を代わりに負ってくださる方でなければ、私たちを罪から救うことができないのです。
キリストがいてくださるので、私たちは神さまに向かって顔を上げることができます。キリストが血を流してくださったので、私たちは神さまとの間にも隣人との間にも平和を得ています。キリストが小羊になってくださったので、私たちは死を恐れずに済みます。キリストが私たちのための犠牲になってくださったので、私たちは孤独ではないのです。
今日も、主イエス・キリストの恵みと平和があなたにありますように。心から、キリストの祝福を祈っています。

2022年8月12日金曜日

2022年8月12日の聖句

主は抑圧されている者たちに「法」をもたらし
飢えているものに食事を与える。(詩編146:7)
それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。(マルコ8:6)

主は抑圧されている者たちに法をもたらす、と書かれています。この「法」と翻訳された言葉は「ミシュパート」という単語です。とても大切な言葉で、裁きや正義などの意味があります。抑圧されているもののために、主ご自身が裁きを行い、正義を貫いてくださる。この言葉を読むと、抑圧されているものをそのままに放っておくことは主の正義にもとるという強い思いを感じます。
現代社会の「法」は、必ずしも抑圧されているものを自由にするために働くとは限りません。むしろ、多数者に都合の好いようにできていることが多い。少数者や弱者の権利を守る場面ももちろんあるのでしょうが、そうではない現実が幅をきかせているのではないでしょうか。少し前に大問題になった入管行政のことも、その一つだと思います。しかしそれでいいのか、と聖書は私たちに問うているのです。
抑圧されているものと並んでここで指摘されているのは、飢えている者たちです。この人たちのために、主なる神さまは食事を与えてくださる。主イエス御自身がそのことを大切になさいました。「それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。」この出来事は、どういう場所で起こったのか?少し前を見ると「イエスはティルス地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られた」と書いてあります。聖書の後ろに地図があるので確かめてみると、イスラエルの北の外れからヨルダン川の向こう側のかなり広い地域を歩いておられたことが分かる。そして、それらはどこも異邦人の地です。恐らく、七つのパンを分けた奇跡は異邦の地でなされました。主イエスは飢えた異邦人をご覧になって、憐れみに心を動かされて彼らを養ったのです。
この憐れみや愛の御心こそが、主イエスさまのミシュパート、正義であり裁きであり、法です。主イエス・キリストのこの御心が私たちを今日も生かすし、私たちの進むべき道を照らしているのです。

2022年8月11日木曜日

2022年8月11日の聖句

主を愛せ、すべての主のものたちよ。(詩編31:24)
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているものは愛です。(1コリント13:13)

8月は子どもたちが夏休みで、我が家にも、基本的に毎日子どもが家にいます。昔、まだ私が学生のころ、教会におられた子育て中のキリスト者の方が、お子さんの夏休みを迎えるときに「試みの40日間」と言っておられました。あの方のユーモアと共に、この季節になるとよく思い出す言葉です。つくづく思わされるのは、子どもだけではなくて親であっても夫婦であっても、あるいは家族ではない他の人でも誰でも同じですが、人間にとっていちばん大切なのは、愛情に溢れた関係なのだと思わされます。例の「試みの40日間」の方がときおりおっしゃっていたのですは、子どもはご飯だけ与えていれば育つわけではない、ということでした。ご飯に代表される生活の世話をしていれば勝手に育っていくわけではない。愛情を注がなければ育たない、ということだと思います。どのような関係でも、一番大切なのは愛情です。
他の誰よりも先に、神さまは私たちを愛してくださいました。私たちのために御子までも与えてくださいました。神さまは私たちが生きるために必要な「ご飯」に代表されるあらゆるものを準備し、与えてくださいますが、それだけでは生きられない私たちのために、ありとあらゆる愛を注いでくださっています。「人はパンのみによって生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と書いてあるとおり、神さまは愛の言葉によって私たちを養ってくださいます。
だからこそ、神さまは私たちの愛をお求めになります。私たちが御利益や自分の損得を考えてお供えをすることではなく、かたちや見栄えばかり整えた供物を持ち出すことではなく、ご自分への私たちの愛を求めておられます。「主を愛せ、すべて主のものたちよ」というのは、至言です。まさに愛を、主なる神さまは求めておられるのです。ここで「主のものたちよ」と呼ばれています。私たちも、主のお名前で呼ばれています。キリスト者。それは、キリストのものということです。主のものでありキリストの者である私たちに神さまが求めておられるのは、主を愛せという一点に尽きるのです。
まさに愛するということにおいて失敗を重ねる私たちです。だからこそ夏休みは試みの40日ですし、育児だけではなく介護や家事での家族の世話も、他のあらゆる人間関係も、愛の試練ではないでしょうか。しかし愛ほど高貴で偉大なものはありません。私たちは光栄なことに、この世界で最も尊い試みをいただいている。そして、その試みは主イエス・キリストが伴ってくださる価値ある試練に他ならないのです。

2022年8月10日水曜日

2022年8月10日の聖句

あなたが水の中を渡るとき、私はあなたと共にいる。そして大河を渡るときも、大河はあなたを溺死させない。火の中を行くときもあなたは燃えず、炎はあなたを焦がさない。(イザヤ43:2)
何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ。(マタイ8:26)

とても正直に告白すると、私はとても臆病です。臆病は疑いにすぐにつながりますし、疑いは不信仰です。ですから臆病は褒められたものではないし、信仰と対立する心です。決して正当化できません。しかし、自分という人間を考えると、正直に言って臆病であることを否定することはできません。
主イエスは言われます。「何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ」と。これは、弟子たちが主イエスと一緒に舟に乗り込んだときのことです。激しい嵐が舟を襲い、舟は波にのまれそうになりました。ところが主イエスは眠っておられた。弟子たちは怖くてたまらないので、主イエスさまを起こします。するとイエスさまが言われるのです。「何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ。」そして、風と湖を叱って、嵐を鎮めてくださいました。
弟子たちの臆病は、不信仰でした。彼らはイエスさまが寝ていて何もしてくださらないと信じ込んでいましたが、本当に眠っていたのは弟子たちの信仰でした。主が共にいてくださるというのは、主が寝ていて何もしてくれないという不信仰に打ち勝つことです。主が寝ているというのは、私たちの目に映る状況でもあります。イエスさまが私たちと共にいてくださるというのは、信仰の言葉としては知っていても、リアリティがない。本当に共にいるのかよく分からない。イエスさまは何もしてくださらない。それは、弟子たちに襲いかかるのと同じ不信仰です。しかし実のところ、舟の中に主はおられるのです。
「あなたが水の中を渡るとき、私はあなたと共にいる。そして大河を渡るときも、大河はあなたを溺死させない。火の中を行くときもあなたは燃えず、炎はあなたを焦がさない。」この言葉のいちばん大切なポイントは、「私はあなたと共にいる」という言葉です。神さまが共にいてくださるというのは、本当に力強く、私たちの恐怖心や疑いの入る余地のない事実です、本来は。どうかこの疑い深い、不信仰な私を救ってください、私の恐れや疑いの嵐を鎮めてください、とひたすら祈ります。主イエスのみ声が、私の内に騒ぎ立つ不信仰の嵐を、必ず静かにしてくださることを信じて。

2022年8月9日火曜日

2022年8月9日の聖句

私は
あなたを恐れるすべての人
あなたの戒めを守る人たちの仲間です。(詩編119:63)
フィリポは宦官に聞いた。「お読みになっていることが分かりますか。」しかし彼は言った。「誰かが導いてくれなければどうやって理解できるでしょうか。」そしてフィリポに馬車に乗り込み、自分の隣に座ってくれるように頼んだ。(使徒8:30~31)

宦官は高官でありながら、差別される存在でもありました。それは洋の東西を問わず、同じであったようです。聖書でも、宦官は非常に厳しい扱いを受けています。「睾丸の潰れた者、陰茎の切り取られた者は、主の会衆に加わることはできない(申命記23:2)」とあります。
しかし、フィリポは馬車に乗って聖書を読んでいる宦官を見つけたとき、走って行って声をかけ、言います。「お読みになっていることが分かりますか。」すると宦官はこたえました。「誰かが導いてくれなければどうやって理解できるでしょうか。」それで、フィリポは馬車に乗り込み、隣に座って、福音を語り始めました。この宦官はフィリポから洗礼を受けることになります。
聖書を字面だけで読んでいれば、宦官を差別する正当性を引っ張り出してくることは可能です。しかしフィリポは文字の奴隷になってこの人を福音の門前払いにしませんでした。隣に座り、膝つき合わせて語り合い、福音を伝えました。フィリポは主の御言葉を求める人の仲間、友になって、心から心へと福音を告げたのです。これこそ、神さまの御心に沿ったあり方ではないでしょうか。
先ほどの宦官を排除する聖書の言葉に対立するような言葉が他の所にも書かれています。このようにある。「宦官も言ってはならない。『見よ、私は枯れ木だ』と。主はこう言われる。宦官が私の安息日を守り、私が喜ぶことを選び、私の契約を固く守っているならば、私の家と城壁の中で、私は、息子、娘に勝る記念のしるしと名を与える(イザヤ56:3~4)」。神さまの御腕は、私たちが思っているよりもずっと長いのです。
私たちは神さまのこの長い御腕に、本当に驚くばかりです。私たちがいつの間にか主の囲いの外にいると決めつけている人を獲得するために、神さまはどんなことをしてでも、一人の魂を求めておられます。主を畏れ、主を信じて生きる幸いは、すべての人に開かれています。

2022年8月15日の聖句

義しいものの小屋で喜びをもって勝利が歌われる。「主の右の手は挙げられた。主の正しさは勝利を得た。」(詩編118:15,16) 私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。(ルカ1:46~47) 今日の新約聖書の御言葉は、主イエスさまを胎に宿した母マリアの賛歌です。「私の魂...