2026年5月21日木曜日

2026年5月21日の聖句

その御業のゆえに神をたたえよ
その大いなる栄光にふさわしく神をたたえよ。(詩編150:2)
詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。(コロサイ3:16)

私たちの姉妹教会である香港中会にかつておられたウィリアム・イェン牧師。香港に対する共産党政権の締め付けがひどくなっていく中で香港民衆民主化運動の先頭に立った人物のおひとりです。
2019年の香港民主化運動のときのこと。ウィリアム先生らは香港の町に出て路上に立って抵抗なさったのですが、その時、そこに立ったキリスト者たちは歌をうたったのだそうです。Sing Hallelujah to the Lord、と。この歌は次第に町中に広まり、キリスト者だけではなく民主化運動の象徴的な意味を持つ歌となったと聞きます。
Sing Hallelujah to the Lord!主に歌え、主をほめ歌え!ハレルヤと主を賛美せよ!この歌は、政府の大きな力で人々を押さえつけ、締め付け、自由を奪う暴力に対抗する力を持ちました。賛美が自由への力になりました。政府の力で押さえつけた悲しみを忘れることなく、共に嘆き、共に喜び、共に生きる力になった。賛美には、この世界に働きかける大きな力が秘められています。
私たちもうたいましょう。「詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。」この世に正義を願い求め、神の御心がこの地になることを願う祈りは、神をほめたたえる賛美と一つです。私たちの歌はこの世界を神が変えてくださることを信じる信仰の表明です。御国を来たらせたまえ!主が教えてくださった祈りが、私たちの口に賛美を上らせる原動力になるのです。

2026年5月20日水曜日

2026年5月20日の聖句

主の慈しみをとこしえに歌い
私の口はあなたのまことを
代々に告げ知らせよう。(詩編89:2)
弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた。(マルコ16:20)

「弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた」と書かれています。「出て行って、至るところで」という言葉が心に残ります。これが私たち主の弟子の姿です。出て行って、至るところで。
主の弟子たちは、ほんの僅かな人数でしかありませんでした。学がある人というわけではありませんし、洗練された都会人でもありません。彼らには、ただ、主イエスさまのご命令だけがありました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15節)と愛する主イエスに命じられた。その言葉に促されて、ただそれだけを携えて、弟子たちは出て行きました。
私たちも同じです。同じように主イエスに遣わされています。私たちも出て行き、私たちの行くあらゆる場所、至るところで、福音を宣べ伝えるために、主イエスさまに遣わされています。「主の慈しみをとこしえに歌い、私の口はあなたのまことを、代々に告げ知らせよう。」主が必ずと共にいてくださって、福音を上らせる口を祝福してくださいます。主ご自身が用いてくださいます。主が私たちの言葉を確かなものにしてくださいます。

2026年5月19日火曜日

2026年5月19日の聖句

しかし主よ、今、あなたは私たちの父。
私たちは粘土、あなたは陶工。
私たちは皆、あなたの手の業です。(イザヤ書64:7)
ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。(ローマ9:20)

今日の旧約ですが「父と子」、あるいは「粘土と陶工」として私たちと神さまとの関係を捉えています。三行目に出て来る「私たちは皆、あなたの手の業です」も同じイメージです。
私は今三人の子どもの父です。しかし最初から父であったわけではありません。長男が生まれたときに初めて父になりました。子どもがいなければ「父」と呼ばれることはありません。陶工も、作品を作らなければ陶工と呼ばれることはありません。「父」も「陶工」も実は「父と子」あるいは「陶工と粘土」という関係を表す言葉です。子がいなければ父になることはない。そうだとすると、神さまは私たちがいなければ「父」ではなかったということになるのか?
しかし、そうではない。私たち造られた者がいようといなかろうと、神さまが父でいらっしゃることには何ら変わりがありません。それは、このお方がイエスという御子の父でいらっしゃるからです。「主よ、今、あなたは私たちの父。」神さまが私たちにそう呼ばれることをお許しになったというのは、それ自体が神さまの深いへりくだりです。子なる神の永遠の父でいらっしゃるお方が、私たちのような粘土に過ぎない者、造られただけの者にとっても「父」としてご自身を現し、紹介してくださった。だから私たちはこのお方を「父」とお呼びして崇めるのです。
「父よ」と私たちがお呼びして祈ること、それ自体が神さまの限りないへりくだりと愛の生み出した大きな賜物なのです。

2026年5月18日月曜日

2026年5月18日の聖句

主よ、私たちにではなく
私たちにではなく
あなたの何こそ、栄光を与えてください
あなたの慈しみとまことのために。(詩編115:1)
(イエスの言葉)自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不正がない。(ヨハネ7:18)

今日の新約の御言葉で主イエスがおっしゃっているのは、主イエスさま御自身のことです。「自分をお遣わしになった方の栄光を求める者」。主イエスはまさにそのように願い、実際にそうなさいました。ご自分をお遣わしになった父なる神様の栄光のために、主イエスはすべてのことをなさったのです。
私たちは神の栄光を求めているのでしょうか。それとも自分勝手に話し、主イエスが指摘しておられるとおりに自分の栄光を求めているのでしょうか。私たち自身の言葉や行いを神さまの前で静かに振り返り、考え直すことがもしかしたら必要なのかもしれません。
今日の旧約の詩編の御言葉は、まさに主イエスと同じ信仰をもって献げられた賛美です。「主よ、私たちにではなく、私たちにではなく、あなたの何こそ、栄光を与えてください。あなたの慈しみとまことのために。」私たちは知恵が足りないし、それ以上に身勝手ですし、すぐに迷ってしまう愚か者です。そのような罪深い私にも、どうか主が賛美を授けてくださいますように。神のご栄光を求める信仰者として、私を生かしてくださいますように。ただひたすら、神さまの憐れみに満ちた導きを慕い求めます。

2026年5月17日日曜日

2026年5月17日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。(ヨハネ12:32)

今日の聖句:
主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ
墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。(詩編30:4)
(イエスの言葉)「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。(ヨハネ11:43~44)

「ラザロ、出てきなさい」という主イエスの大声は、私たちの間にも響いています。主が愛しておられたラザロを墓から呼び出すために、新しい命に生かすために、キリストの大声が響いています。
ラザロにはマルタとマリアという二人の姉妹がいました。ラザロが病で死にそうになったとき、彼女たちは主イエスに来てくださいと願い、しかしなかなか来てくださらず、やっと主が来られたとき既にラザロは亡くなっていた。この二人が経験したことは、そのまま私たちの出来事です。主を信じ、祈り、助けを求めてもかなえられず、愛する人の苦しみを側で見ているしかできない。遂に最期の時を迎えていく・・・。
そうやって死んだ者に向かって、主イエスはおっしゃいます。「ラザロ、出てきなさい。」あなたが愛する、今眠りについておられる人も、同じ主イエスの声を聞くために眠っています。主に起こして頂くために、今しばしの眠りについているのです。主が起こしてくださるときがいつ来るのか私たちは知りません。しかし、死人を起こす主の声は、ラザロの名前をお呼びになったあの日から今日に至るまで響き続けていることを私たちは信じます。やがて必ず来る復活の朝、そこで私たちもはっきりと耳にすることのできる主イエス・キリストの声を慕い求めて、今日の祈りの道を上りましょう。

2026年5月16日土曜日

2026年5月16日の聖句

神は心に知恵があり、力は強い。
神に対してかたくなになって
誰が無傷でいられよう。(ヨブ記9:4)
神は、高ぶる者を退け
へりくだる者に恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5)

神様の御前にへりくだる信仰を、今日の御言葉は私たちに証言します。自分がどんなに高ぶった者であるのか、へりくだろうとしないのか。私はそういうことをすぐに忘れてしまいます。神様の御前に進み出て、自分の罪深いことや汚れたことを知らしめられるのでなければ、へりくだった者になることはできないのだと思います。私たちはすぐに他人と自分とを比較します。それで劣等感を抱いたり、優越感に浸ったりします。どちらもあまり変わらない心なのだと思います。神さまの前でのへりくだりは、他人との比較によっては生まれない。神さまを畏れ、神さまの前にひれ伏すのでなければ。
そしてそれは、神御自身の霊の導きを頂かなくてはできないのだと思います。自分自身の心がけも大切なのでしょうが、そういうことではどうしようもない。神様ご自身の導きを頂かなくてはどうにもならない。神の霊の促しを頂いて、神の前にひれ伏し、へりくだる。そして何よりも、私たちのあり方に先立つ神の圧倒的な赦しの御言葉に耳を傾ける。そこに初めて真実な罪の告白とへりくだりが生まれるのではないでしょうか。

2026年5月15日金曜日

2026年5月15日の聖句

(イスラエルの子らの言葉)さあ、行こう。主に連なろう。永遠の契約が忘れられることはない。(エレミヤ50:5)
こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(2ペトロ1:5~7)

今朝のエレミヤ書の御言葉ですが、前の節から改めて読んでみると、このように書かれています。「彼らは泣きながらひたすらあるき、彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンを訪ね、顔をその方向に向けて言う。『さあ、行こう。主に連なろう。永遠の契約が忘れられることはない』と。」泣きながら歩き、主を尋ね求める。「シオン」は、彼らの故国であり、礼拝を献げた場所です。主とその民とを仰ぎながら、主との永遠の契約を頼りに主を尋ね求める。今朝の御言葉は、そういう言葉です。
私たちは今、どういう思いを込めて主を尋ね求めているでしょうか。どのようにして主に祈りを捧げているでしょうか。今日のこの御言葉のように、一心に主を求める心、主に向かうまっすぐな心を私も抱きたい、と願います。
今朝の新約の御言葉は、そういう私たちの神に向かう「信仰」が、隣人と共に生きる生活において何を意味するのかを語っています。「信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と言っている。神に向かう私たちの信仰は、共に生きる主にある兄弟姉妹への愛につながっている。私たちは、共に主を尋ね求める群れ。教会という主の共同体の一員です。

2026年5月21日の聖句

その御業のゆえに神をたたえよ その大いなる栄光にふさわしく神をたたえよ。(詩編150:2) 詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。(コロサイ3:16) 私たちの姉妹教会である香港中会にかつておられたウィリアム・イェン牧師。香港に対する共産党...