2026年4月17日金曜日

2026年4月17日の聖句

(神よ、あなたは)地の深い淵から(私を)再び引き上げてくださいます。
私を大いなるものとし
慰めを与えてくださいます。(詩編71:20~21)
イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、その死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子を母親にお渡しになった。(ルカ7:14~15)

私たちは、私たちの愛する人についてもこの主イエスの御言葉を信じます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」主イエスがそうお語りくださり、私たちの愛する人のことをも起こしてくださることを私たちは信じます。若者も、年をっていても、誰であっても、キリストは御声をかけてくださって必ず起こしてくださいます。
あなたの愛する人、既に眠りについた人たちの話です。その眠りは、キリストに起こしていただくための眠りです。キリストの御声を聞くための眠りです。イエス・キリストは私たちがどんなに深い地の深い淵であっても呼び覚まし、私たちを引き上げてくださいます。主イエス・キリストに降りることのできない深みなどありません。陰府にまで降ったお方は私たちがやがて横たえられることになる地の深い淵にも来てくださいます。いや、既にキリストがそこにいて待っていてくださる。死んだときにもそこにキリストがおられるなら、それで良いのではないでしょうか。その事実こそが私たちの救いなのではないでしょうか。

2026年4月16日木曜日

2026年4月16日の聖句

主は言われた。「あなたは怒っているが、それは正しいことか。」(ヨナ書4:4)
あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。(ルカ6:36)

旧約聖書のヨナ書はとても面白い書です。ヨナという預言者がニネベという町に行くように神に命じられますが、ヨナはそれを拒みます。ニネベはアッシリアの首都です。アッシリアはやがてヨナの祖国イスラエルを滅ぼす国、ニネベはその中心地。敵の本部のようなもの。そんな相手に神さまのメッセージを伝えるなんてごめんだ、とヨナは神さまの命令を拒みました。その後、魚に呑み込まれるような大事件を経験しながら、ヨナは最終的にはニネベに向かうことになります。そこでニネベの人々に、神さまからのメッセージを伝えた。するとニネベの人々はそれを聞いて悔い改めました。これがまたヨナには面白くない。はっきり言って、ニネベの人たちには悔い改めずに滅んでほしかったのです。
ヨナが怒ったその日はとても暑い日だったようです。暑くて暑くて、ヨナは死んだほうがましだと言いました。そんなヨナに神さまは一本のとうごまの木をお与えになった。よい木陰ができてヨナは嬉しかった。しかし、すぐに虫が湧いて木は枯れてしまった。ヨナは怒りました。そんなヨナに主は問います。「あなたは怒っているが、それは正しいことか。」もちろんです。怒りのあまり死にそうです。ヨナは言います。すると、主なる神さまはヨナにおっしゃいました。お前は自分が植えたのでもなく一夜にして生えたとうごまの木を惜しんでいる。それならば、私がこの大いなるニネベの都を惜しまないはずがないではないか、と。
今日、私たちに主イエス・キリストの言葉が響きます。「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」父の慈しみは、私たちが思っているよりもずっと大きくて広いのです。私たちの敵にさえ向けられ、私たちが憎んでいる者をも神は慈しんでおられます。あなたはどう生きるのか、と主は私たちに問うておられます。

2026年4月15日水曜日

2026年4月15日の聖句

主の前に大いなる激しい風が吹き、山を裂き、岩を砕いたが、主はその風の中にはおられなかった。激しい風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。また、地震の後に火が起こったが、火の中にも主はおられなかった。しかしその火の後に、柔らかなそよ風のささやきが聞こえた。(列王記上19:11~12)
いまだかつて、神を見た者はいない。神御自身であり、御父と最も親しい交わりを結んでおられる御独り子だけが、誰が神であるのかを私たちに語り示されたのである。(ヨハネ1:18)

今日の旧約は預言者エリヤが神の山ホレブで経験した出来事です。山を裂き岩を砕くような激しいか善。地震。火。そのような力強く、いかにも神がかったような大きな出来事の中に神はおられなかった、と聖書は伝えています。
この時のエリヤの状況はどのようなものだったのか。エリヤの時代のイスラエルの王はアハブという人で、その妃はイゼベル。この二人は徹底して主なる神さまへの信仰を破壊し、バアルという異国の神を礼拝することをイスラエルに強いました。エリヤは350人ものバアル預言者と対決して勝ちましたが、イゼベルの怒りを買い、殺されそうになって逃げた。エリヤは疲れ果て、自分の死を望むほどになっていました。そんなエリヤを神は力づけてくださって、遂に彼はホレブまでたどり着き、上記の経験をすることになったのです。
このときのエリヤの状況を考え、彼の気持ちを想像すると、彼は何を求めていたのでしょうか。もしかしたら再びバアルの預言者に打ち勝ち、王妃イゼベルに対抗できるような神の力を見ることを求めていたのかもしれません。それこそ、山を裂く風のような力、大地を揺るがす自身のような力、すべてを焼き尽くす火のような力を。しかし、そういうエリヤの期待を裏切るようにして、柔らかなその風のようなささやき声の中に主はおられたのです。神は私たちの期待するような力や豊かさではなく、私たちの納得できるようなもっともらしさではなく、静かな語りかけによってご自身を現されるというのです。
それはまさに十字架にかけられたキリストにおいて神が示された、ということではないでしょうか。独り子イエスだけが私たちに父なる神様を示してくださいました。独り子なる神のへりくだりと弱さそのものである十字架にこそ、神の栄光は輝いています。キリストという小さなささやきの声に耳を傾けましょう。この世の大きな声の中でかき消されてしまいそうなこの御声こそ、私たちのための真理の声です。

2026年4月14日火曜日

2026年4月14日の聖句

ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、この僕の咎を取り去ってください。」(サムエル下24:10)
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9)

神さまはご自分の義と真実を実現するためにこの世界をお造りになりました。神さまの慈しみに適う世界を、神はお造りになりました。その神さまの御心を踏みにじることは、私たちの罪です。神さまの愛を裏切り、隣人を損なう私たちのあり方は、神の慈しみの発露であるこの世界にふさわしくない。私たちの咎は神さまの愛への裏切りです。
ダビデがここで告白している罪は、イスラエルの王として行った国内の人口調査です。なぜ人口調査が罪なのか。その理由はここでは詳しくは説明されていません。恐らく、ダビデが国民を神のものではなく自分の所有物であるかのように考えた、ということが問題であったのではないかと思います。人口調査をしたダビデにとっての国民は自分のための豊かさをもたらす道具でした。結局、民の数を数えたことはダビデにとって良心の呵責になりました。そして言ったのです。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、この僕の咎を取り去ってください。」ダビデの咎は、主の厳しい裁きを招くことになりました。
しかし大事なことは、ダビデは間違いを犯してもなお神に告白する信仰をもっていた、ということです。私たちは過ちを犯すし、勘違いをし、神さまの御心を蔑ろにします。神が慈しみを込めて造ったこの世界や他者を自分のものであるかのように思い込み、神さまの愛を裏切ってしまう愚か者です。しかし、そのようなどうしようもない私たちの祈りに神は耳を傾けてくださいます。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、あらゆる不正から清めてくださいます」と書かれているとおりです。キリストの憐れみにすがって、今日の祈りの道を上りましょう。

2026年4月13日月曜日

2026年4月12日の聖句

私の時は御手の中にあります。(詩編31:16)
そこで、知恵のない者ではなく、知恵のある者として、どのように歩んでいるか、よく注意しなさい。(エフェソ5:15)

「知恵」とエフェソの信徒への手紙は言います。知恵のある者として、自分がどのように歩んでいるのかをよく注意しなさい、と。聖書は、知恵の初めは主を畏れることにあると言います。主を畏れ、主に従順になることから知恵が始まる。主を畏れる知恵のある者として自分がどのように歩んでいるのかに注意する。主の前に歩く者としてふさわしいのか?主に生かされた命を主に献げているのか?
「私の時は御手の中にあります。」今日の旧約の御言葉はそう言います。神さまの手の中に私の時がある。私の生きるときも死ぬときも、すべては神さまの慈しみに満ちた手の中にある。主を畏れる知恵を持って自分に注意を払うというのは、神さまの御手の中に私のすべての時間があるという事実に習熟することです。神さまに与えられている命であり、この時間だということを畏れ、神さまを敬うことです。
私たちの今日一日に何が待ち受けているのか、私たちには分かりません。しかしそのすべてを神がご自分の手の中に治めていてくださることを私たちは信じます。キリストの御名が崇められ、キリストに従う私として生きられますように。

2026年4月12日日曜日

2026年4月12日の聖句

今週の聖句:
神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに生ける希望を与えてくださいました。(1ペトロ1:3)

今日の聖句:
満たされよ、わが魂よ、再び安らぎのうちに。
主がお前に良いことをなしてくださっているのだ。(詩編116:7)
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:26)

主イエスさまが私たちのところへ来てくださって「あなた方に平和があるように」と語りかけてくださる。これは、私たちが毎週礼拝で経験していることそのものです。キリストは私たちのところへ来てくださっています。私たちに平和の言葉を宣言してくださっています。キリストの平和が私たちを満たしています。
「満たされよ、わが魂よ、再び安らぎのうちに。主がお前に良いことをなしてくださっているのだ。」
今日の詩編も本当にすばらしい御言葉です。私たちも、自分の魂に語りかけましょう。「満たされよ」と。主はもうすでに私に良いことをしてくださっている。恵みの言葉を語ってくださっている。私たちはキリストの平和を頂いている。キリストの復活によって確かにされた平和です。キリストが私たちを訪れてくださることによって私たちにもたらされた平和です。私たちがどこにいようとも、主イエス・キリストの平和のうちに、私たちの新しい一週間の日々が始まります。

2026年4月11日土曜日

2026年4月11日の聖句

私の咎が頭を越えるほどになり重荷となって担いきれません。(詩編38:5)
(その犯罪人は)そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ22:42~43)

今日の旧約で「咎」と翻訳されている言葉があります。原語ではアーヴォーンという単語です。これはとても意味が広い言葉です。犯してしまった「罪」、あるいはその「責任」、そして罪の結果生じる「罰」までを含む意味を持っています。その意味では、日本語の「罪」とか「罰」といった言葉とは語感が違います。しかし、私たちの実感としてはよく分かる、と思います。何らかの過ちを犯してしまったとき、その責任に苦しみ、あるいは自分がしでかしてしまったことから生まれた結果に自分も苦しみ、周りの人も苦しめている。自分ではどうやっても解決できなくなってしまう・・・。そのすべてがアーヴォーンです。私たちにも身に覚えがあることではないでしょうか。
「私の咎が頭を越えるほどになり重荷となって担いきれません。」
私のアーヴォーンはもはや頭を越えてしまっている。自分で背負うことがもうできない。それはあまりに重くて私を押し潰してしまいます。
今日の新約は、主イエスが十字架にかけられた時のことを伝えています。両隣に二人の犯罪人が十字架にかけられていました。その内の一人が主に言ったのです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」すると主はこの人に言われました。「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」
自分のしてきたアーヴォーンを負いきることができず、最後は十字架にかかって責任を取らねばならない。いや、それでもその重荷のすべてを負えたことにはならない。この犯罪人も、私たちも、自分の頭を越えるアーヴォーンに押し潰されてしまいます。ところが主はそんな私たちに言ってくださるのです。「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」私たちは、主が私を思い起こしてくださること、私を憐れんでくださることにこそ望みがあります。私は自分の責任を自分で背負いきることすらできない愚か者です。私のアーヴォーンは神に赦して頂くより他ない。キリストの憐れみにおすがりするしかない。主よ、私を思い起こしてください。それが私たちの祈りですし、主はこの祈りに既に応えてくださっているのです。

2026年4月17日の聖句

(神よ、あなたは)地の深い淵から(私を)再び引き上げてくださいます。 私を大いなるものとし 慰めを与えてくださいます。(詩編71:20~21) イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、その死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子を...