主の前に大いなる激しい風が吹き、山を裂き、岩を砕いたが、主はその風の中にはおられなかった。激しい風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。また、地震の後に火が起こったが、火の中にも主はおられなかった。しかしその火の後に、柔らかなそよ風のささやきが聞こえた。(列王記上19:11~12)
いまだかつて、神を見た者はいない。神御自身であり、御父と最も親しい交わりを結んでおられる御独り子だけが、誰が神であるのかを私たちに語り示されたのである。(ヨハネ1:18)
今日の旧約は預言者エリヤが神の山ホレブで経験した出来事です。山を裂き岩を砕くような激しいか善。地震。火。そのような力強く、いかにも神がかったような大きな出来事の中に神はおられなかった、と聖書は伝えています。
この時のエリヤの状況はどのようなものだったのか。エリヤの時代のイスラエルの王はアハブという人で、その妃はイゼベル。この二人は徹底して主なる神さまへの信仰を破壊し、バアルという異国の神を礼拝することをイスラエルに強いました。エリヤは350人ものバアル預言者と対決して勝ちましたが、イゼベルの怒りを買い、殺されそうになって逃げた。エリヤは疲れ果て、自分の死を望むほどになっていました。そんなエリヤを神は力づけてくださって、遂に彼はホレブまでたどり着き、上記の経験をすることになったのです。
このときのエリヤの状況を考え、彼の気持ちを想像すると、彼は何を求めていたのでしょうか。もしかしたら再びバアルの預言者に打ち勝ち、王妃イゼベルに対抗できるような神の力を見ることを求めていたのかもしれません。それこそ、山を裂く風のような力、大地を揺るがす自身のような力、すべてを焼き尽くす火のような力を。しかし、そういうエリヤの期待を裏切るようにして、柔らかなその風のようなささやき声の中に主はおられたのです。神は私たちの期待するような力や豊かさではなく、私たちの納得できるようなもっともらしさではなく、静かな語りかけによってご自身を現されるというのです。
それはまさに十字架にかけられたキリストにおいて神が示された、ということではないでしょうか。独り子イエスだけが私たちに父なる神様を示してくださいました。独り子なる神のへりくだりと弱さそのものである十字架にこそ、神の栄光は輝いています。キリストという小さなささやきの声に耳を傾けましょう。この世の大きな声の中でかき消されてしまいそうなこの御声こそ、私たちのための真理の声です。
いまだかつて、神を見た者はいない。神御自身であり、御父と最も親しい交わりを結んでおられる御独り子だけが、誰が神であるのかを私たちに語り示されたのである。(ヨハネ1:18)
今日の旧約は預言者エリヤが神の山ホレブで経験した出来事です。山を裂き岩を砕くような激しいか善。地震。火。そのような力強く、いかにも神がかったような大きな出来事の中に神はおられなかった、と聖書は伝えています。
この時のエリヤの状況はどのようなものだったのか。エリヤの時代のイスラエルの王はアハブという人で、その妃はイゼベル。この二人は徹底して主なる神さまへの信仰を破壊し、バアルという異国の神を礼拝することをイスラエルに強いました。エリヤは350人ものバアル預言者と対決して勝ちましたが、イゼベルの怒りを買い、殺されそうになって逃げた。エリヤは疲れ果て、自分の死を望むほどになっていました。そんなエリヤを神は力づけてくださって、遂に彼はホレブまでたどり着き、上記の経験をすることになったのです。
このときのエリヤの状況を考え、彼の気持ちを想像すると、彼は何を求めていたのでしょうか。もしかしたら再びバアルの預言者に打ち勝ち、王妃イゼベルに対抗できるような神の力を見ることを求めていたのかもしれません。それこそ、山を裂く風のような力、大地を揺るがす自身のような力、すべてを焼き尽くす火のような力を。しかし、そういうエリヤの期待を裏切るようにして、柔らかなその風のようなささやき声の中に主はおられたのです。神は私たちの期待するような力や豊かさではなく、私たちの納得できるようなもっともらしさではなく、静かな語りかけによってご自身を現されるというのです。
それはまさに十字架にかけられたキリストにおいて神が示された、ということではないでしょうか。独り子イエスだけが私たちに父なる神様を示してくださいました。独り子なる神のへりくだりと弱さそのものである十字架にこそ、神の栄光は輝いています。キリストという小さなささやきの声に耳を傾けましょう。この世の大きな声の中でかき消されてしまいそうなこの御声こそ、私たちのための真理の声です。