2025年11月9日日曜日

2025年11月9日の聖句

今週の聖句:
平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

今日の聖句:
あなたがたは気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の彫像も、自分のために造らないようにしなさい。(申命記4:23)
神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。(ローマ1:20)

主が私たちと結んでくださった契約、すなわち神さまの愛に満ちた御心を忘れることのないように、と聖書は私たちに語りかけます。この世界を造り、私たちに命を与えてくださった神さま。私たちが生きるために必要なものをすべてこの世界に与えてくださった神さま。このお方の慈しみがこの世界に見えるはずだ、と言うのです。
ところが私たちはしばしばそれを見失います。足りないだとか不安だとか、もっと必要だと思い込んでしまう。貪欲の虜になってしまいます。「主が禁じられたいかなる形の彫像」というのは、そんな私たちの貪欲が生み出すのだと思います。彫像は、神の慈しみを私たちが見失ったところに生まれる。
主なる神さまの契約、私たちに向けてくださったご慈愛に立ち帰るときにこそ、私たちは偶像崇拝から解放されるのではないでしょうか。私たちが貪欲から自由になる場、それは神の愛の御手の中ではないでしょうか。

2025年11月7日金曜日

2025年11月7日の聖句

あなたを尋ね求める人すべてが、あなたによって喜び楽しみますように。(詩編40:17)
主の名によって来られる王に祝福があるように。天には平和、いと高き所には栄光があるように。(ルカ19:38)

主なる神さまのお名前で私たちのところへ来てくださった真の王、イエス・キリスト。私たちはこのお方を喜び、ほめたたえて礼拝します。「主の名によって来られる王に祝福があるように。天には平和、いと高き所には栄光があるように。」主イエスさまを喜んで迎えた人々と私たちも心を合わせて、王でいらっしゃるお方を今日新しい思いでお迎えしましょう。
このお方にこそ平和と栄光がありますように。それが私たちの願いです。私たちの祈りは「御名を崇めさせたまえ」です。キリストを賛美し、キリストが私たちと父なる神様とを、そして隣人とを平和にしてくださったことを信じ、キリストの平和に生かしてください、と祈ります。
「あなたを尋ね求める人すべてが、あなたによって喜び楽しみますように。」この「喜び楽しむ」という言葉が本当にすてきな言葉だと思います。私たちは神さまをほめたたえ、神さまを礼拝することを喜び、楽しむ。神を喜ぶこと、神を楽しむことが私たちには許されている。「楽しむ」というとなんだか不遜な感じもしますが、聖書はとても大胆です。神を楽しんでよい。神を賛美、ほめたたえ、礼拝を献げる大きな喜びに神さまが招いてくださっているのです。

2025年11月6日木曜日

2025年11月6日の聖句

私は、自らの名のために、怒りを遅らせ、自らの誉れのために、これを押さえてあなたを絶ち滅ぼさなかった。(イザヤ48:9)
(ヨセフへの天使の言葉)マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ1:21)

「自らの名のために」と主なる神さまはおっしゃいます。主は、御自らのお名前のために、「怒りを遅らせ、自らの誉れのために、これを押さえてあなたを絶ち滅ぼさなかった」。私たちに理由があるから、私たちに見所があるから、ではありません。私たちの側に理由を探しても、どこにも見つからない。私たちに神に愛していただける理由などはない。しかし、神様ご自身のお名前のゆえに、つまり神ご自身の側の理由によって、神はわたしたちに怒ることなく、滅ぼさず、救ってくださいました。
神さまはそのお名前を「イエス」と名乗ってくださいます。イエス、このお名前は「主は救い」という意味です。このお方がイエスと名付けられるのは、「この子は自分の民を罪から救うから」と言われています。私たちをご自分の民としてくださり、私たちを罪から救ってくださる。私たちのためのひとり子なる神、その名は「イエス」。
イエスというお名前のゆえに、私たちは救われる。私たちも罪から救われる。このお方の側に理由があるからです。私たちのゆえではない。どこをどう見渡しても罪しか見つからず、真っ暗闇でしかない私たちにイエスという光が射し、私たちを救ってくださる神ご自身の憐れみのために、私たちも神の民とされ、キリストの教会の一員にしていただいた。この神の愛の中にあなたも今日迎えられているのです。

2025年11月5日水曜日

2025年11月5日の聖句

私たちは自らの道を探し、調べて、主のもとへ帰ろう。(哀歌3:40)
私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。そして、キリストに日には純粋で責められるところのない者となりますように。(フィリピ1:9~10)

「愛」というと、私たちはうっかりすると温かさや優しさといった「気持ちの問題」と考えてしまうことがあります。もちろんそれはとても大切ですが、今日の聖書の御言葉によると、少なくともそれだけではないことを教えられます。
「あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。」
深い知識とあらゆる洞察が愛を豊かにする、とパウロは言います。相手を知ること、相手をよく見ること、そして相手の喜びや悲しみを想像し、もっと知ろうと願い努めること。そういうことが愛するということには不可欠だ、と言っています。
そのように考えると、キリストこそ最大の愛のお方だということに改めて気付きます。キリストは私たちと同じ一人の人間になり、私たちの弱さをご自身のこととして負ってくださいました。神から捨てられたキリストがご存じでない絶望はないのです。
今日の旧約の御言葉は「私たちは自らの道を探し、調べて、主のもとへ帰ろう」と言っています。主なる神さまへの洞察、主なる神さまに向かう愛に満ちた想像力。しかし、そんな私たちの小さな愛よりも先に、主ご自身が私たちを知り、深い洞察をもって愛してくださいました。そうであるからこそ私たちも主を知り、愛し、隣人を愛するための想像力に満ちた愛を求めて、歩みたいと願います。

2025年11月4日火曜日

2025年11月4日の聖句

主の前を私は歩む、生ける者の地で。(詩編116:9)
あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。(ローマ6:11)

キリスト・イエスは私たちのために死んでくださいました。しかも私たちが罪人であり、弱く、不敬虔であるときに、キリストが私たちのために死んでくださいました。このお方が十字架にかけられて死なれたとき私たちも一緒に死んだのだ、と聖書は私たちに告げます。だから、今私たちが生きているのは、ただ神に対する信仰によって生きているということに他ならない。「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。」洗礼を受けて生きるというのはそういうことです。
洗礼のとき、頭に水がかけられます。もともとは水に沈めていたようです。今でもそのようにして洗礼を授ける教会もあります。頭に水をかけるというのは全身が水に沈められることの象徴です。水に沈められた私たちは、一度水の中で溺れ死んでいる。古い私は死んだ。ところが困ったことに「古い私」はとても泳ぐのが上手です。罪の私はなかなか死んでくれない。せっかく洗礼を授けられ、新しい私にしていただいたはずなのに、古い私がいつでも顔をのぞかせている。途方に暮れます。
私たちを新しくしてくださるというのは、神さまの約束に属していることです。だから私たちはそれを信じて待ち望むだけです。キリストは古く、しぶとく、そのくせ弱くて不敬虔な私のために、もう既に死んでくださった。その事実を信じ、このお方が私を神に対して生かしてくださることを受け入れて、神の御前に生きていきたい、と願います。
キリストに栄光があり、あなたの今日一日の歩みに祝福がありますように。

2025年11月3日月曜日

2025年11月3日の聖句

見よ、今も天に私の証人がいる。私のために証言してくれる方が高い所にいる。(ヨブ16:19)
私たちには、もろもろの天を通って来られた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。(ヘブライ4:14)

ヘブライ人への手紙は著者は、今となっては著者が分からない手紙です。もともとは実際に語られたいくつかの説教が手紙の形式でまとめられたものではないか、と推測されているようです。説教者の名前としてはパウロの手紙に名前が出て来るアポロという人物が候補に挙げられているとか。真相は分かりませんが。ただ、そのような想像をするのは楽しいことです。当時の教会の息づかいが聞こえてきます。
ヘブライ人への手紙がこのようにまとめられた事情は謎ですが、この説教を最初に聞いた人々が苦難の中にあったことは強く推測されます。今日の御言葉では「信仰の告白をしっかり保とうではありませんか」と勧められています。信仰の告白が保たれなくなりかねない状況にあった、ということであると思います。
私たちはそういう意味での迫害に遭っているわけではありません。キリスト者であるからといって命を取られるということは、今の日本であれば基本的にはありません。しかしそうだからといって、ヘブライ人への手紙が証しする真理が私たちに関係ないということはありえません。私たちもまた、信仰の告白をしっかり保つ戦いのさなかにいるのではないでしょうか。例えば人間関係で、例えば親子や夫婦の間で、例えば仕事のことで。他にもいろいろな場面で何を第一にし、何を選び取り、あるいは選ばないのかというときに、キリストへの信仰はどれだけ実質的な意味を持っているのか。それは私たちに対する一つの問いであると思います。私たちは、どう生きているのでしょうか。
神の子イエスがいる。ヘブライ人への手紙はその事実に目を向けよう、と語りかけています。このお方がいて私たちの祭司として執り成しの祈りを献げてくださっている。だからこそ、私たちは信仰の告白をしっかりと保つことができる。そう断言します。
主イエスさまを仰ぎ、このお方から励ましをいただいて、主の道を歩んでいきたいと改めて思います。キリストを信じる者として歩ませてください、と祈ります。

2025年11月2日日曜日

2025年11月2日の聖句

今週の聖句:
何が善で主は何を求めておられるか。公正と慈しみを愛し
行って、謙遜に神と共に歩むことである。(ミカ6:8)

今日の聖句:
多くの国民が主に連なり、私の民となる。(ゼカリヤ2:15)
神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となる。(黙示録21:3)

神は、私たちをご自分に連なる神の民としてくださる。私たちは神の国に生きる神の民。それが、教会に生きる私たちです。教会は、今ここに来ている神の国の始まりです。神はここで公正と慈しみが行われ、神の御前に謙遜に歩むことを求めておられる、と私たちは信じています。
この世界はそうなってはいないし、私たちの現実も神さまの御心とはかけ離れていると言わないわけにはいきません。教会も疵無しというわけにはいかない。しかし、それでもなお私たちは信じます。キリストはご自分の和解の御業を私たちの間に現実のものとしてくださったことを。キリストが私たちに手を伸ばし、私たちを互いに結びつけてくださったことを。
「多くの国民が主に連なり、私の民となる」と主は言われます。多くの国民、です。今教会に通っている私たちだけではない。主が呼び集めておられる多くの人々を主は御心に留めておられる。そのことを信じて、主と隣人を愛する私にならせてください、と祈ります。

2025年11月9日の聖句

今週の聖句: 平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9) 今日の聖句: あなたがたは気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の彫像も、自分のために造らないようにしなさい。(申命記4:2...