2026年8月2日日曜日

2026年8月2日の聖句

今週の聖句:
すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。(ルカ12:48)

今日の聖句:
これらの国民は卜占する者や占い師の言うことを聞いているが、あなたの神、主は、あなたがそうすることをお許しにならない。(申命記18:14)
だが、今や神を知っていたのに、いや、神に知られたのに、どうしてあの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。(ガラテヤ4:9)

卜占や占いは聖書で固く禁じられています。なぜでしょうか。
その一つの理由は、占いの類が神を知ったつもりにさせるからではないか、と思います。いや、そもそも占いが知ろうとするのは神ではなく運命や運勢の類でしかないのかもしれません。いずれにしても、分かったつもりにさせる。そこで知った気になっている神にしても運勢にしても、それは聖書が証しする主なる神さまとは似ても似つきません。全然違う。知ったつもりになってもらっては困る、ということではないかと思います。
運命は心を痛めません。私たちを愛し、あるいはそのために怒り、私たちを求めて捜し回りません。占いは神の自由を認めません。私たちが主人であって、神を支配することができる、というのが占いの前提であると思います。それは聖書が証しする神ではない。不自由な神、それは偶像です。人間の欲望に従う神、それは偽りの神です。だから聖書は問います。「だが、今や神を知っていたのに、いや、神に知られたのに、どうしてあの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。」
まことの神さまは、自由な愛をもって私たちを求めてくださいます。私たちの予想もつかないほど大きな愛で私たちを捜し回ってくださいます。喜び、怒り、妬み、愛し、私たちのためにご自分の独り子さえ与えてしまうほどのお方です。占いで知ることができるような方ではない。私たちの考えを押しつけることのできるような方ではない。私たちの思いを超えて自由でいらっしゃるし、私たちが考えている以上に深く大きな愛に溢れたお方なのです。

2026年8月1日土曜日

2026年8月1日の聖句

8月の御言葉:
(イエスの言葉)私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。(ヨハネ10:10)

今日の御言葉:
隣人のものを一切貪ってはならない。(申命記5:21)
私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。(ガラテヤ5:16)

隣人のものを貪る、つまり貪欲は、今の社会の基本的な欲望です。他人のものをうらやましいと思うだけでは留まらず、自分のものにしたいと強く望む。顔が見えるくらい近しい隣人のものであれば奪い取るということはあまりしないかもしれませんが、遠くて顔が見えない相手のものを私たちは奪い取ってはいないでしょうか?
ある経済学者がこのようなことを言っていました。アボカドという果実があります。輸入に頼っています。とてもおいしい。しかしこれは生長するためにとても大量の水を必要とする植物なのだそうです。アボカドを輸入することによって、日本は大量の水を現地から輸入していることになる。さらにアボカドは発育のために大量の栄養分を必要とし、一度アボカドを生産するとその土壌では他の種類の果実などの栽培がこんなになってしまう。私たちのスーパーに並んでいるアボカドは、実は他の土壌を奪い取ってできた果実なのだ、というのです。
私たちの貪欲は留まるところを知りません。欲しいものはいくらでもある。そして「貪欲」をエネルギーにして今の社会は成り立っているところがある。そう考えると私たちが生きているのは実は非常に罪深い社会ではないかとさえ思います。
「隣人のものを一切貪ってはならない。」「私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」
今日の二つの御言葉は、私たちにこれまでとは異なる生き方を提示します。主にものとしてこの世で生きるとはどういうことなのか。今日、神さまはあなたに何と語りかけておられますか?

2026年7月31日金曜日

2026年7月31日の聖句

見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える。(エレミヤ9:6)
祈りなさい、誘惑に陥らないために。(ルカ22:40)

聖書が書かれた言語では、日本語で「試練」と翻訳される言葉と「誘惑」と翻訳される言葉とは同じ単語で言い表されます。同じ出来事が、場合によっては試練にもなるし、他の場合には誘惑にもなる、ということであると思います。
「祈りなさい、誘惑に陥らないために」と主は言われます。苦しい出来事が私たちを罪に誘い込む誘惑になるのか、それとも信仰を試し、あるいは精錬する試練になるのか。その鍵は祈りだ、と主イエスはおっしゃっているのではないでしょうか。苦しいときは信仰の危機です。右に行くか左に行くかが問われる。分かれ道です。神に従うのか、自分や周囲の声に従うのか。今の自分の置かれている状況や取るべき道はどこなのかを識別し、そこで神に従う道を選び取るためには祈りが欠かせません。神が聖霊によって私たちを導いてくださるのであれば、それを受け止める私たちのあるべき姿は祈ることをおいて他にないからです。
「見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える」と主は言われます。あまりありがたくない言葉のように思います。できれば試練になんて遭いたくありません。しかし、それとは逆の反応もあると思います。今起きているこの出来事は、神の手の中にある。神がお与えになった試練に他ならない。そのことを信じるならば、その出来事が苦しくとも、それは誘惑ではなく試練です。神の手の中にあるという信仰こそ、私たちにとっては「試練からの逃れる道」なのではないでしょうか。

2026年7月30日木曜日

2026年7月30日の聖句

自分の神を知る民は揺るがず行動する。(ダニエル11:32)
聖なる方、真実な方がこう言われる。「あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから試練の時に、私もあなたを守ろう。」(黙示録3:7,10)

今日の御言葉は「忍耐」と言います。必ず試練の時が来る。苦しみの時に忍耐してキリストに従い続けることがいかに大事か。聖書はそのことを私たちに語りかけます。
ナチが支配するドイツで、忍耐をもってキリストに従ったキリスト者の一人にディートリッヒ・ボンヘッファーという人物がいます。私たちキリスト者は、屁理屈で逃げることなく単純にキリストに従うことこそが大事だと考え、それを実践した人物です。(この人が書いた『キリストに従う』という本は本当に名著です。山上の説教の講解が主な内容です。今のマタイによる福音書の説教準備のための私の必読書の一つです。)
ボンヘッファーはヒットラー率いるナチがたくさんのユダヤ人やロマの人々を虐殺し、戦争の災禍を繰り返していることに心を痛め、ヒットラー暗殺計画の一員となり、ナチに捕らえられ、獄中で処刑されて最期の時を迎えました。そのときにこのような詩を残しています。

われらに苦き杯を
溢れるばかりに満たされた苦しみの苦き杯を、あなたが与え給うなら
われらはそれを恐れずに感謝して
あなたのいつくしみ深き愛する御手から受け取ろう。

しかしあなたがなおもこの世に対する喜びと
その太陽の輝きをわれらに贈り給うなら
われらは過ぎ去ったことを思い出そう。
その時われらの生は全くあなたのものとなるのだ。

ここにすでにボンヘッファーの忍耐の秘密があるように思います。神がその御手からくださるものは、どのようなものであろうと受け取ります、と彼は告白します。それは、どのようなときにも神の手は慈しみ深いからです。自分たちの生がすべて慈しみに満ちた神のものだと信じているからです。その神に私は従う。その杯が苦くても。苦い杯を飲んで十字架に向かわれたキリストの後についていく。キリストが愛した多くの人、弱い人、蹂躙されている人々を私も愛する。
この信仰は、私たち自身の信仰でもあります。私たちもキリストへの服従に招かれています。

2026年7月29日水曜日

2026年7月29日の聖句

昼も夜も、わたしは涙を食物とする。
人は日夜私に言う
「あなたの神はどこにいるのか」と。(詩編42:4)
(パウロの言葉)私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。(フィリピ1:13~14)

今朝の新約の御言葉であるフィリピの信徒への手紙ですが、「私が投獄されているのは」と著者パウロが書いているとおり、彼が牢獄に捕らえられているときに書かれた手紙です。キリストのために、福音宣教のために投獄されていました。
パウロはとても不思議なことを言っています。「主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになった」。パウロが投獄されたのを見て、多くの兄弟姉妹たちが却って力を得た。ますます確信が深まった。私が投獄され、そのことが知れ渡ったからこそ、彼ら彼女らは大胆に御言葉を語るようになった、と言うのです。普通は、逆ではないかと思います。パウロ先生がキリストの福音を語ったために牢屋に入れられてしまった。そんなことを聞かされ、意気阻喪して諦めたくなってしまわなかったのでしょうか。
ところで今日の旧約に「あなたの神はどこにいるのか」と書いてあります。これは、信仰者である詩編作者を周りの神を信じない者たちが揶揄している言葉です。「お前の神はどこにいるのか。そんな者いやしない。信じたって無駄だ」という意味です。言うなれば、パウロや他の仲間たちは「お前の神はどこにいるのか」という問いへの答をもっていた、ということであると思います。「お前の神はどこにいるのか。」「私の神であるキリストは、神の右に座しておられる。この世界を支配する真の王はこの方だ」と。
この世は、別の物語に取り込まれて生きています。この世の王は、パウロの時代であればローマの皇帝でしょう。今は誰でしょうか?総理大臣ですか?天皇ですか?時流や空気ですか?社会システムですか?私たちは、知っています。私たちの神は天におられる。その方の右に座しておられるイエスこそ真の王でいらっしゃる、と。私たちはこの世界が提供する物語には生きません。お金がすべての価値の尺度であり、自己責任が問われ、弱者は必要ないとする悪しき物語には生きない。私たちはキリストの愛の支配、小さく弱く乏しいものを愛する神の愛の物語に生かされている。パウロはそのために牢獄に捕らわれました。この世と違う物語に生き始めたからです。私たちも、同じ道を進もうとしているのです。

2026年7月28日火曜日

2026年7月28日の聖句

私たちは日夜、神を誇り
あなたの名にとこしえの感謝を献げます。(詩編44:9)
主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。(エフェソ5:19)

今日の朝をどのような思いでお迎えでしょうか。平和のうちに、喜んで朝を迎えた方もおられるでしょう。昨日の疲れが抜けず、憂をまとっておられる方もおられると思います。悲嘆と呻きの中、今日の朝が来てほしくなかったという方もおられるかもしれません。私たちはいろいろな思いを抱えながら毎日を生きています。しかし私たちが共通して、この朝耳を傾けている御言葉は、賛美の言葉です。神をほめたたえる言葉が今日私たちに与えられました。
「私たちは日夜、神を誇り、あなたの名にとこしえの感謝を献げます。」「主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。」
私たちは喜びの日にも悲しみの日にも、神を賛美します。昼も夜も、どのようなときにも私たちの誇りは神さまです。神が私たちを一方的に愛してくださったこと。この世界が重視する「能力」とか「成果」とかを問うことなく、主は私たちを愛してくださいました。この世界が要求する「自己責任」とは関わりなく、主は私たちをご自身の目の瞳のように守ってくださいました。私たちはこの神をほめたたえる民です。私たちは主に向かって心から歌い、賛美する礼拝者の一員です。
私たちは喜ぶ日に高慢になることなく、悲しみの日に自分の中に沈み込むこともなく、神を見上げ、神をたたえます。そのために私たちは造られました。主を賛美することで、今日の私たちの一日が始まります。

2026年7月27日月曜日

2026年7月27日の聖句

主の目は正しき人に注がれ
その耳は彼らの叫びを聞く。(詩編34:16)
ピラトが裁判の席に着いているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」(マタイ27:19)

ピラトの妻の言葉が報告されています。「あの正しい人に関わらないでください。」もちろん、主イエスさまのことです。主イエスを裁く者である総督ピラト。ピラトの妻は、この人が正しい人であると知っていたようです。ピラトもそのことには気付いていました。イエスに罪を見いだすことはできなかった。ピラトの妻は、この人とこれ以上関わるのは危険だ、と気付きました。イエスが正しい人だからではないでしょうか。主イエスの正しさから目をそらしたかったのではないでしょうか。
主イエスの正しさが私にとって苦しいというのは、言葉を換えると、自分の罪を目の当たりにする痛みだと思います。主イエスのお姿を通してこそ、私たちは本当に自分の罪を知ることになります。主イエスが生きた愛に、信仰に、自分の姿が照らされるとき、私たちは自分の罪を知らされる。その意味では、ピラトの妻は主イエスの放つ光の強さを察知していたのではないか、と思います。
しかし神さまがご覧になるのは正しき人であり、主が耳をお傾けになるのは正しき人の叫びです。神の御目は主イエスにこそ注がれている。私たちの目はどこに向いているでしょうか?私たちは「あの正しい人」を見つめているでしょうか?このお方は、神が私たちにもたらしてくださった福音そのものです。このお方の正しさによって私たちは救われたのです。

2026年8月2日の聖句

今週の聖句: すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。(ルカ12:48) 今日の聖句: これらの国民は卜占する者や占い師の言うことを聞いているが、あなたの神、主は、あなたがそうすることをお許しにならない。(申命記18:14)...