2026年10月30日金曜日

2026年10月30日の聖句

主は貧しい者をちりの中から引き上げられる。(サムエル上2:8)
そこで、マリアは言った。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に、目を留めてくださったからです。」(ルカ1:46~48)

神さまは、ご自分の独り子を一人の女性に託されました。この世界の主、聖なるお方、ただおひとりの神さまが卑しい人間の一人になられた。しかも、一人のどこにでもいるような女からお生まれになった。他の誰よりもマリア自身がそのことに驚いています。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に、目を留めてくださったからです。」
マリアを選んで御子の母としてくださったお方は、同じように卑しい人間である私たちのことにも目を留めてくださいます。小さく、弱く、罪深い私たちを御心に留めてくださり、私たちとも出会い、私たちをもご自分の御国の民としてくださいます。「主は貧しい者をちりの中から引き上げられる。」
ですから私たちは、マリアと共に神さまをほめたたえます。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」そのように主を崇め、賛美することこそが今日私たちの献げるべき祈りです。私たちにはいろいろな必要があるし、不足と感じていることもたくさんあるでしょう。あれがほしいとか、こうしてほしいとか。しかし少なくともマリアはこのとき、そのような祈りをしていません。「ヨセフと上手くいきますように」とか「町の人が変な噂を流しませんように」という祈りはしていない。主を見上げ、ただただ主をほめたたえることにだけ心を向けています。
私たちは、この卑しい私に目を留めてくださった方にどのような祈りを捧げているのでしょうか?私たちの唇に上るのは主を崇める言葉か、それとも自分の要求か。今静かに自分の祈りの言葉を振り返りたいと願います。

2026年10月29日木曜日

2026年10月29日の聖句

サムエルはサウルに言った。「あなたはしばらくここにいてください。神のことばをあなたに聞かせます。」(サムエル上9:27)
イエスは、「私に付いてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。(マルコ1:17)

今日の新約の御言葉はとても面白いところで、主イエスがシモンとその兄弟アンデレとをご自分の弟子にしたという記事です。マルコの記述は極めてシンプルです。主イエスがガリラヤ湖の畔を通り、彼ら二人をご覧になり、声をかけられた。「私に付いてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」そして、二人は網を捨てて従った。書いてあるのは、それだけです。ここに至るまでの兄弟の人生、彼らに悩みがあったのかなかったのか、何かを求めていたのかいなかったのか、どういうふうに神さまを信じ待ち望んできたのか、更にはルカは伝えているこの日の漁を巡る出来事さえも書いていません。マルコは一番大事なことだけを率直に伝えています。主イエスが彼らをご覧になり、お呼びになった。それだけなのです。
サムエルが語りかけたサウルはやがてイスラエルの初代国王になる人物です。サムエルはサウルに言います。「あなたはしばらくここにいてください。神のことばをあなたに聞かせます。」サウルにとっても、私たちにとっても、大事なことは神のことばを聞くことです。サウルはこの後国王になり、やがて神のことばに聞くことを止めてしまいました。それがサウルの大問題だった。大事なことは一つだけです。
主イエスは今日私たちにも語りかけてくださっています。耳を澄まして、主の言葉に聞きましょう。「御言葉をお聞かせください」と祈り、主の御前に静まりましょう。

2026年10月28日水曜日

2026年10月28日の聖句

主をたたえよ。
あなたの命を墓から贖い
あなたに慈しみと憐れみの冠をかぶせる方を。(詩編103:2,4)
イエスはその女を見て呼び寄せ、「女よ、あなたは病から解放された」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を崇めた。(ルカ13:12~13)

病気は苦しいです。ただ肉体が辛いだけではなく、人格をも支配してしまうような強い力です。今日の福音書に登場している女の人は18年間も病の霊に取り憑かれていて、腰が曲がったままどうしても伸ばすことができないできました。しかし、主イエスが彼女を見てくださった。そして、主イエスが彼女に言葉をかけてくださった。主イエスの御声が響いたのです。「女よ、あなたは病から解放された。」彼女を支配するのは病ではなく、主イエス・キリストです。彼女は自由です。
「主をたたえよ。あなたの命を墓から贖い、あなたに慈しみと憐れみの冠をかぶせる方を。」神さまは私たちを病気に支配されたままにはなさらないし、死に支配させては起きません。確かに私たちは病気になるし、やがて死にます。それは確実なことです。しかし、病もしも私たちを支配することはできない。私たちは神のもの、私たちはキリストのものです。私たちは病や死から神のものとして買い取られて、自由です。どのようなときにも私たちはキリストを信じ、神を崇めます。
私たち個人としても、あるいは教会としても、状況が悪くなるときや思わしく物事が進まないときはいくらでもあります。しかし、それでも私たちはキリストを信じる。目に見える状況がどうであろうとも、私たちを支配するのはキリストです。肝心なのはキリストを崇めること。私たちはキリストに買い取られた自由な者だからこそ、心柔らかく、生き方しなやかに、この時にあっても生きることができるのです。

2026年10月27日火曜日

2026年10月27日の聖句

神よ、立ち上がり、地を裁いてください。
あなたはすべての国民をご自分のものとされます。(詩編82:8)
(ペトロの言葉)神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。(使徒10:34~35)

世界を造り、それを治めておられるお方は公正な裁きをなさる方です。「神は人を分け隔てなさらない」。神がすべての国民、民族、種族の人の主でいらっしゃるからです。私たちには想像もできないほどに神さまは大きいお方です。
今はとても苦しい時代になってきました。私の子どもの頃は拡大の時代でした。その後は今振り返ると不安と横ばいの時代で、閉塞感ということも言われていました。今は明らかに下降の局面に入っていると思います。やたらと他人に厳しくなったり排外的になったりするのは、こういう時代の常なのでしょうか。悲しいことです。
だからこそ、神さまが私たちよりも大きな手と広い視野を持っておられることを、私たちがへりくだって受け入れることはとても大切なのではないでしょうか。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」私たちにとって今大切なことは、この苦しさをどこかの誰かの仕業にして溜飲を下げることではなく、神を畏れ、へりくだり、神に従うことではないでしょうか。神の裁きを畏れて誠実に生きることではないでしょうか。
この世界は神さまのものです。主なる神さまこそがまことの王様です。世界はそのようなことなど一顧だにしませんが。しかし、すべてを治める方がおられることを忘れてしまうと、私たちは化け物になってしまいます。主の前にへりくだれ、と聖書は語りかけています。

2026年10月26日の聖句

けれども、あなたを滅ぼし尽くすことはない。
私はあなたを公正によって懲らしめる。
あなたを罰せずにおくことは決してない。(エレミヤ30:11)
知らないのですか。神の慈しみがあなたを悔い改めに導くのです。(ローマ2:4)

厳しい言葉です。しかし同時に、憐れみに満ちた言葉です。
神さまは公正な方。正義と慈しみを愛するお方。私たちの不公正の罪、不義、愛のないあり方を見過ごしにはなさらない。私たちにとってそれは恐ろしいことです。私たち自身、自分がどうしようもない罪人であることは知っているつもりです。しかし神さまがご覧になったとき、私が分かったつもりになっている罪の姿など取るに足りない者でしかないのではないでしょうか。私は自分の罪深いことさえもしっかりと分かっているわけではない。「私はあなたを公正によって懲らしめる。あなたを罰せずにおくことは決してない」という主の御言葉は、私たちには恐ろしいものです。
しかし、主は言われます。「けれども、あなたを滅ぼし尽くすことはない」と。滅ぼし尽くされるべき罪の私を、しかし主は滅ぼさないでくださった。そうであるからこそ、私たちは自分の罪を知ることができたのではないでしょうか。神が憐れみ、赦し、こんな私を愛してくださったから、私にも僅かばかりに赦された罪を知れたのではないでしょうか。
「知らないのですか。神の慈しみがあなたを悔い改めに導くのです。」私たちは、自分の心根が変わったから悔い改められるのではない。このような私を滅ぼし尽くさないでいてくださる神の愛が私を悔い改めに導いたのです。私たちは、ただこのお方の前にへりくだるだけです。

2026年10月25日日曜日

2026年10月25日の聖句

今週の聖句:
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ12:2)

今日の聖句:
あなたの慈しみは命にもまさる恵み。(詩編63:4)
御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。(コロサイ1:13)

今日は日曜日、主の日、礼拝の日です。「あなたの慈しみは命にまさる恵み。」この詩編の祈りに、私たちも心を合わせて「アーメン」と応え、共に神を賛美したい。世界中のどこからであっても、神さまの慈しみをほめたたえ、神さまの恵みに感謝を献げることこそ、私たちの生きる目的なのですから。
すべては神さまから始まりました。神が深い慈しみと恵みをもって私たちに関わり、私たちをご自分の驚くべき光の中に移してくださったことがすべての源なのです。「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。」私たちは神の慈しみによって御子イエスの支配下に映されました。御子こそが私たちを治める王です。
私たちはまことの神でありまことの王でいらっしゃる方の前に身をかがめる神の民です。神を賛美します。この神に救いを求めて祈ります。私たちをご自分のものとし、永遠の慈しみを示してくださったお方を慕い求め、私たちの新しい日々が始まります。

2026年10月24日土曜日

2026年10月24日の聖句

主はその聖なる腕を
すべての国民の目の前に現されました。
地の果てのすべての者が、
私たちの神の救いを見る。(イザヤ52:10)
あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。(エフェソ2:19)

ほんの少し前まで、日本社会には差別がない、日本人は差別をしない、とまことしやかに言われていたような記憶があります。外国で人種差別をしているとか、宗教差別をしているとか、そういう話を聞くときに「日本人はそのようなことをしない」と私たちは嘯いていました。しかしこのほんの数年で、とんでもない嘘だったことが明らかになってしまいました。クルド人や「不法滞在」と呼ばれる人に対する激しい差別があからさまに吹き出している。観光地にたくさんの外国人がいるのを見るだけでイヤな気持ちになる。結局、私たちも激しい差別感情を隠し持って生きてきたのです。
神さまは教会を、ユダヤ人も異邦人もなく一つの聖なる民として生み出してくださいました。キリストの教会は、神の家族です。「あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。」私たちはこの言葉を、本気で「福音」として受け止めなければならないのです。国籍や民族性だけの話ではありません。生活習慣や異なる常識などもそうでしょう。もう少し敷衍して言えば、世代間ギャップや異なる歴史に生きてきた教会のような、私たちの常識の外にあるすべての人のことでもあると思います。そういう「ノイズ」を、私たちは、神の聖なる民への祝福として受け入れているでしょうか?
「主はその聖なる腕を、すべての国民の目の前に現されました。地の果てのすべての者が、私たちの神の救いを見る。」すべての国民に。地の果てのすべての者が。神さまの御業は、私たちが思っているよりもはるかに大きくて広い。私たちの生活者としての感情を揺さぶり、それを疑問に付してしまうほどに。私たちにとってそれは時には厄介な広がりです。しかし、その厄介さこそが神さまの尽きることのない祝福への入り口なのです。

2026年10月30日の聖句

主は貧しい者をちりの中から引き上げられる。(サムエル上2:8) そこで、マリアは言った。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に、目を留めてくださったからです。」(ルカ1:46~48) 神さまは、ご自分の独り子を一人の女性に託され...