2026年1月20日火曜日

2026年1月19日の聖句

夢が多ければ、ますます空しくなり
言葉も多くなる。
神を畏れよ。(コヘレト5:6)
私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。(2ペトロ1:16)

今日の旧約の御言葉は私たちにとってはかなり意外な言葉ではないでしょうか。「夢が多ければ、ますます空しくなり」と言います。むしろ信仰者は夢を見、幻を描くというのが私たちのもっているイメージではないかと思います。実際に箴言には「幻がなければ民は堕落する」(29:18・新共同訳)という言葉もあります。今日の御言葉は、こういう言葉と矛盾しているように思えます。どういうことなのでしょうか。
コヘレトの言葉は、聖書の中でもある特別な輝きとメッセージを持っている、と思います。コヘレトは今・ここに私たちの目を向けさせます。未来のことや、ましてや死後のことを考えて右往左往するのではなく、今を大切にし、今幸せになることを考える。そういうメッセージが込められていると思います。
確かに、夢の中には「夢想」とでも言うべき、今この時をごまかしたり現実逃避をしたりするという危険も含まれていると思います。同じ第5章の2節では「仕事が増えれば夢を見、言葉が増せば愚かな者の声になる」とも言われている。心の余裕がなくなり「今」というときと向き合うことができなくなってしまうということは往々にして起こります。そうではなく、私を今ここに生かしてくださっている神を畏れて生きよ、とコヘレトは言います。
キリストの救いのメッセージは、現実逃避の言葉ではありません。私たちがしっかりと地に足を付けて生きることができるようにするものです。キリストをお迎えする備えをして生きるからこそ、私たちはほかの誰よりも責任をもって、この時と向き合って生きることができる。私たちはそう信じているのです。

2026年1月19日月曜日

2026年1月19日の聖句

どうかまず主の言葉を伺ってみてください。(歴代誌下18:4)
(イエスの言葉)私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)

主の言葉。これこそ、私たちの信仰の基です。主の言葉からすべては始まる。聖書は私たちにイエス・キリストを証言します。キリストこそ、人となった神の言葉。キリストにおいて、神は私たちに語りかけ、ご自身の御心を示してくださいました。「どうかまず主の言葉を伺ってみてください。」そう、私たちは何よりも先ず、キリストに耳を傾け、へりくだってこのお方の御言葉に聞き、従います。自分の自己実現のためとか、自分が認められることではなく、キリストに従うことを私たちは願いたい。
主イエスは言われます。「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」キリストの言葉は、霊の言葉だとおっしゃいます。霊の言葉とはどういう意味でしょうか。その意味を考えるために、反対を考えてみます。「霊の言葉」の反対は「肉の言葉」ということになると思います。肉というのは、私たちの人間としての思いです。それこそ自己実現だとか認められたいだとか、そういうことでしょう。私たちの中から生まれてくる言葉からは、「十字架」が答であるような問いは生まれてきません。「主に従うこと」が答えであるような言葉は、私たちの肉からは生まれてこないのです。そうであるからこそ、私たちはまず霊の言葉である主の言葉に耳を傾けなければならない。霊の言葉は、十字架にかけられたキリストに従うことを私たちに教えます。へりくだった神の子こそ救い主と私たちに証言します。キリストの言葉こそ、私たちの命の言葉です。
主の言葉に耳を傾けましょう。私たちに神の思いを現してくださるキリストに従いましょう。主の言葉に聞き、従うところに私たちのキリスト者としての命があるのです。

2026年1月18日日曜日

2026年1月18日の聖句

今週の聖句:
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)

今日の聖句:
私は平和をあなたの管理者とし
正義をあなたの監督者とする。(イザヤ60:17)
父なる神と、父の御子イエス・キリストから、恵みと憐れみと平和が、真理と愛の内に、私たちと共にありますように。(第三ヨハネ3)

主なる神さまは、平和によって私たちを管理し、正義によって監督する、と言われます。もちろん、私たち人間のつくる欺瞞に満ちた「平和」や、一部の人に都合の好い「正義」ではありません。神さまの御心に適う平和であり、正義です。主イエス・キリストによって現された平和であり、正義です。主なる神さまは私たちを暴力や威嚇で支配するのではなく、キリストのへりくだりによって御支配なさったのです。
ですから私たちの互いのための祈りは、これに尽きます。「父なる神と、父の御子イエス・キリストから、恵みと憐れみと平和が、真理と愛の内に、私たちと共にありますように。」キリストを仰ぎ、キリストの平和によって私たちが守られ、神の愛によって私たちが生かされますように。このお方の満ちあふれる恵みによって私たちは今日も朝の目覚めを頂きました。主イエス・キリストの祝福を互いのために祈る共同体として、この新しい一週間を生きていきましょう。

2026年1月17日土曜日

2026年1月17日の聖句

主はあなたにとって確かな方。(詩編91:9)
(バルティマイは)ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。(マルコ10:47)

「主われを愛す」というすてきな讃美歌がありますが、この中で「主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」と歌います。主イエスさまが強いお方でいてくださる。私は弱いけれども恐れることはない。私たちは、私たちを愛してくださる主の強さによって立つことができる。
「主はあなたにとって確かな方。」そうなのです。私は不確かだけれども、私は不確実だけれども、主は確かなお方。主は確固たるお方。このお方によって私も立つことができる。ここに信仰者の平安の秘訣があります。
今日の新約に登場するバルティマイという人は、盲人の物乞いでした。道端に座っていたバルティマイは、主イエスがそこに来られたと聞いた。それで叫びました。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」
主が確かなお方でいてくださる。主が必ず私を救ってくださる。そのことを信じ、私たちもバルティマイと一緒に祈りましょう。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」主の憐れみに身を沈めるようにして祈ります。息を吸うたび、吐くたびに、主の憐れみを乞い求めます。私たちは主の御前に、物乞いでしかありません。主の憐れみによってでしか生きることのできない者です。しかしこのお方の憐れみが確かでいらっしゃるからこそ、私たちは安心して生きることができるのです。

2026年1月16日金曜日

2026年1月16日の聖句

あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。(ゼカリヤ8:23)
なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。(1コリント12:13)

私たちは一つです。キリストの教会は一つ。それは、私たちが気が合うからだとか、仲良しだからではありません。同じ言葉を話すからとか、同じような文化に生きてきたからとか、そういうことでもない。世界中の教会が一つの教会であるし、私たちが会ったことなく見たこともないキリスト者たちも、一つの教会です。それは、礼拝の様式が同じだからとか、教えが完全に一致しているからとか、そういうことでもない。
私たちは、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、例え誰であっても、「一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった」のです。つまり、聖霊によって私たちは一つ。神ご自身の霊が私たちを一つにしてくださるのです。
私たちは世界中どこの教会に属すにしても、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられます。キリストがそうお命じになったからです。洗礼を授けられるとき、私たちは聖霊なる神様のお取り扱いを頂きます。主が聖霊を与えてくださったからです。主ご自身の霊によって、キリストにつなげられる洗礼を授けられて私たちは一つになった。
私たちにとってこれはとても実践的で具体的な事柄です。高座教会とさがみ野教会が一つの教会として生きることができるのは、ただ聖霊のお働きによる。目に見えるところでの主のお働きを信じることができなければ、どうして目に見えない遙かな広がりを持つ「一つの教会」を信じられるでしょうか。主を信じましょう。聖霊の起こしている出来事を信じましょう。信仰をもって、いま私たちの間で起きている出来事を仰ぎましょう。

2026年1月15日木曜日

2026年1月15日の聖句

さあ来て主に向かい、喜び歌おう。
私たちの救いの岩に喜びの声を上げよう。(詩編95:1)
あらゆる国々の民が来て
あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが
明らかにされたからです。(黙示録15:4)

私たちと同じプロテスタント教会の伝統に生きる教会の中でも例えばメソジスト教会と呼ばれる教会では、聖餐の時に聖餐卓の前に進み出てパンと杯に与ります。私たちの礼拝では会衆席に牧師や長老が来て配餐しますが、メソジストでは逆に礼拝者が前に進み出て聖餐を頂く。こういう伝統を持っている教会はいくつもあります。私は、とても良い伝統だと思っています。今日の御言葉にこのように書かれています。「さあ来て主に向かい、喜び歌おう。私たちの救いの岩に喜びの声を上げよう。」さあ来て、と書かれている。私たちが能動的に動くこと、主の前に進み出ることには大切な意味があると思います。私たちは主の前に進み出てこのお方を賛美し、主に向かって歩み出して喜びの声を上げるのです。
もちろん、それは聖餐の分餐方法の如何によらずに同じ事で、私たちの礼拝だって主の前に進み出るという心において変わるところはない。主に向かうこと、思いも肉体も主に向けること。そのことを大切にし、実際的に主に向かって礼拝を献げましょう。
今日の新約にあるとおり、主は正しいお方、正しい裁きをなさるお方です。それは、主が私たちに正面切って向かっていてくださる、ということであると思います。主が私たちを訪れ、私たちをご自分の前においてくださっている、ということであると思います。そうであるからこそ、私たちの方からも主の前に進み出ましょう。まっすぐな心、一筋の心を主に向けて祈り、賛美し、このお方を礼拝しましょう。

2026年1月14日水曜日

2026年1月14日の聖句

主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り
彼らを助け出される。(詩編34:8)
夜の間に天使は牢の戸を開け、使徒たちを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。(使徒5:19~20)

使徒たちが伝道していたのを見て、主イエスを十字架にかけた大祭司やその仲間たち、あるいは復活を否定するサドカイ派の人々は使徒たちを捕らえて牢につなぎました。ところが、主なる神さまが天使を遣わしてくださった。「夜の間に天使は牢の戸を開け、使徒たちを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。』」主ご自身が御使いを遣わして、彼らを助けてくださった。これに応えて使徒たちは再び神殿に行って、命の言葉を告げ始めました。
使徒たちの伝道は、常に困難がつきまとっていました。ペトロやヨハネやヤコブ、あるいはパウロたちにでさえ、いつも難しいことでした。増して私たちは・・・と思います。主イエスのいちばん側にいたペトロでさえこんなにも苦労して取り組んでいたことを、私たちが片手間でできるわけがない。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」主のご命令に従って、命の言葉を「残らず」に告げる覚悟と気合いが必要なのだ、と思わされます。
必ず、主に仕える私たちを主が助け、支えてくださいます。「主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される。」神の助けがあるという約束をしっかりと信じ、福音のために私たちの教会も主に仕えたい、と願います。

2026年1月19日の聖句

夢が多ければ、ますます空しくなり 言葉も多くなる。 神を畏れよ。(コヘレト5:6) 私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。(2ペトロ1:16) 今日の旧約の御言...