主は、ご自分に希望を置く者に
ご自分を探し求める魂に恵み深い。(哀歌3:25)
見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。(黙示録3:20)
今日の新約の御言葉の後半は、少し変わった表現をしていると思います。「もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」普通は、「もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をするであろう」で終わりだと思います。主イエスは、ご自分のノックの音を聞いて扉を開く者と一緒に食事をしてくださる。そこで話が完結していても差し支えない。ところが続きがあります。「彼もまた私と共に食事をするであろう」。彼も主イエスと食事をする。主イエスが彼と一緒に食事をなさるということを裏返せば、彼は主イエスと一緒に食事をする、ということです。どうして、同じ内容を繰り返しているのでしょうか。「主イエスが・・・」だけで完結してもよさそうなものなのに。
主は、私たちが主と共に食事をする、という私たちの側の主体性を大事になさったのではないかと思います。主が来てくださって、主が私と一緒に食事をしてくださった、と受け身でいるだけではない。私が主をお迎えし、私が主と共に食卓に着き、私が主と共に食事を頂く。私たちの側でも積極的に主を受け入れて、主との食事を喜ぶ、という姿勢を大事になさったのではないかと思います。
今日の旧約には「主は、ご自分に希望を置く者に、ご自分を探し求める魂に恵み深い」と書かれています。私の希望を主におく。私の魂は主を捜し求める。この積極性です。私たちの信仰は「棚からぼた餅」式のものではないのです。
今日、主はあなたの戸口に立って叩いておられます。あなたがこの戸を開けることを待っておられます。主はあなたの食卓に共につこうとしておられます。そこにあなたが迎え入れてくれることを、主は待っておられます。主はあなたを訪ね、あなたと出会おうとされているのです。
ご自分を探し求める魂に恵み深い。(哀歌3:25)
見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。(黙示録3:20)
今日の新約の御言葉の後半は、少し変わった表現をしていると思います。「もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」普通は、「もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をするであろう」で終わりだと思います。主イエスは、ご自分のノックの音を聞いて扉を開く者と一緒に食事をしてくださる。そこで話が完結していても差し支えない。ところが続きがあります。「彼もまた私と共に食事をするであろう」。彼も主イエスと食事をする。主イエスが彼と一緒に食事をなさるということを裏返せば、彼は主イエスと一緒に食事をする、ということです。どうして、同じ内容を繰り返しているのでしょうか。「主イエスが・・・」だけで完結してもよさそうなものなのに。
主は、私たちが主と共に食事をする、という私たちの側の主体性を大事になさったのではないかと思います。主が来てくださって、主が私と一緒に食事をしてくださった、と受け身でいるだけではない。私が主をお迎えし、私が主と共に食卓に着き、私が主と共に食事を頂く。私たちの側でも積極的に主を受け入れて、主との食事を喜ぶ、という姿勢を大事になさったのではないかと思います。
今日の旧約には「主は、ご自分に希望を置く者に、ご自分を探し求める魂に恵み深い」と書かれています。私の希望を主におく。私の魂は主を捜し求める。この積極性です。私たちの信仰は「棚からぼた餅」式のものではないのです。
今日、主はあなたの戸口に立って叩いておられます。あなたがこの戸を開けることを待っておられます。主はあなたの食卓に共につこうとしておられます。そこにあなたが迎え入れてくれることを、主は待っておられます。主はあなたを訪ね、あなたと出会おうとされているのです。