2026年6月3日水曜日

2026年6月3日の聖句

主は見えない人の目を開く。(詩編146:8)
それで、(イエスは)こうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(ルカ7:22)

今日の新約の中に「ヨハネ」という名前が登場しています。主イエスにヨルダン川で洗礼を授けた洗礼者ヨハネのことです。主イエスがヨルダン川に来たときに「私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言い、このお方こそ私たちの待ち望んでいた救い主だと証言した人物です。しかしその後ヨハネはヘロデに捕らえられて牢につながれていました。それでも、主イエスのご登場を喜び、この方に望みをかけ、このお方がしてくださる救いの御業を待っていたのでしょう。ところが、一向にヨハネが待ち望んでいたようなめざましい活躍の噂が届いてこない。それで、ヨハネは牢の中から自分の弟子を遣わして、主イエスに尋ねさせました。「来たるべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」
こうやって改めて問いたくなるヨハネの気持ちは、私たちにも想像できるのではないでしょうか。信じて待っているのに何も始まらない。主イエスを信頼して祈っているのに、その祈りが無視されているとしか思えない。私はこのままこのお方を信じていいのか?もしかしたら他の救い主を待つべきだったのではないか?
主イエスはお答えになります。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。」主はおっしゃるのです。ここに神の国が始まったしるしがあるだろう、と。あなたたちは実はそれを目の当たりにしているではないか、と。
私たちは、ここで主イエスが言っているような「目の見えない人は見え、耳の聞こえない人は聞こえ・・・」とういうような言葉を聞くと、「イエス様のときはそうだったかもしれないけど、私はそんな出来事を見たことがないな」と思ってしまいます。しかし実は、神の国が始まっているしるしはいろいろなところに起きていて、私たちがそれを見逃しているだけなのかもしれません。ヨハネもヨハネの弟子たちも、私たちも、ここに始まっている神の国のしるしを見逃していないか、と主はおっしゃっているのだと思います。
今日の最後に「貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われています。これがいちばんの鍵であると思います。福音が宣べ伝えられてる。ここに神の国が始まっている。すべての人に福音が向けられ、語られ出している。あなたはそれを見ているではないか。そのように主は言われます。私たちのところにも神の国は始まっている。この方を来たるべきお方として待ち望んでよい。このお方こそ私たちの救い。私こそそれだ、と主は語りかけておられます。

2026年6月2日火曜日

2026年6月2日の聖句

(ボアズからルツへの言葉)「あなたがたもその翼のもとに逃れてきたイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(ルツ記2:12)
神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神がご自分を求める者に報いてくださる方であることを、信じていなければなりません。(ヘブライ11:6)

本当にその通りだなと思います。「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神がご自分を求める者に報いてくださる方であることを、信じていなければなりません。」神に近づくというのは、「祈る」と言い換えてもいいかもしれません。「礼拝する」と言ったり、「賛美する」と言ってもいいかもしれません。祈るならば、その祈りを聞いてくださる神がおられることを信じるのは当然でしょう。しかしそれだけでは不十分だ、と聖書は言います。神がおられるだけではない。その神は求める者に報いてくださるお方だと信じなければならない。神は必ず祈りを聞いてくださっているし、その祈りに何倍もの報いをくださり、私たちが望んだ以上のことをしてくださることを信じて祈る。それが神に近づこうとする信仰だ、と言うのです。
自分の祈りの心を省みてみると、どうも、留保を付けてしまっているように思います。半信半疑で祈っているところがあるように思います。それは、自分が願ったとおりにならなかったとき傷つかないための予防線です。つまり、不信仰なのです。神さまに信頼していないのです。しかしそれは祈りの信仰ではありません。
今日の旧約の御言葉でボアズがルツに言っているとおり、神はご自分の翼のもとに逃れてきた者に必ず報いてくださるし、必ず受け入れて守ってくださいます。そのことを単純に信じ、まっすぐに神を信頼したい。何よりも、神の慈しみ深さを信頼したい。そう願います。

2026年6月1日月曜日

2026年6月1日の聖句

6月の御言葉:
自分も一緒に捕らえられているつもりで、捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人たちを思いやりなさい。(ヘブライ13:3)

今日の聖句:
神によって御言葉を賛美します。
主によって御言葉を賛美します。(詩編56:11)
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)

生ける神の言葉ご自身として、イエス・キリストは私たちのところへ来てくださいました。神さまの御言葉は空しい言葉ではない。空虚な、地に落ちてしまう言葉ではない。必ず出来事を起こす言葉、また、リアルな実態を伴う言葉です。神はご自身がお語りになった言葉を、私たちの間でこれ以上なく最上の仕方で実現してくださいました。独り子なる神として、神はご自身の言葉を私たちの間の出来事にしてくださったのです。
「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
イエス・キリストがお生まれになり、私たちの間に神ご自身が宿ってくださった。そのようにして、神はご自分の御言葉を私たちの間の現実の出来事として現してくださいました。こうして、私たちはこの世界も神の言葉で造られ、私の命も神の語りかけによって与えられたものであることに改めて気付いたのです。イエス・キリストの栄光が私たちの命をも照らしています。
御言葉こそ私たちの救い、私たちの命です。御言葉に聞きましょう。神の言葉に耳を傾けましょう。ここに私たちのための神の愛が実っているのです。

2026年5月31日日曜日

2026年5月31日の聖句

今週の聖句:
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にありますように。(2コリント13:13)

今日の聖句:
神よ、あなたの計らいは、私にはいかに貴いことか。
その数のいかに多いことか。(詩編139:17)
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。(ローマ11:33)

神さまの御心をどうして私たちが知りえましょうか。天地をお造りになった方、御心によってそれを保っておられる方、聖なる神、造られたのではなく造ったお方を、どうして私たちが理解できましょう。私たちは人間に過ぎなく、その生涯は短く、知恵は浅はかです。何かを成し遂げたと思ってもそれは小さな事に過ぎず、神さまの御前にどれだけの意味があるのでしょう。
しかし、神さまはそのような小さな私たちに、ご自分の永遠を仰ぐことをおゆるしくださいました。私たちは汚れた唇しか持ち合わせていませんが、この舌で神を賛美することが赦されています。私たちは限りある知恵しかありませんが、神は私たちにご自身とその御心を知らせてくださいます。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。」
私たちは神を賛美し、ほめたたえ、このお方にひれ伏して礼拝します。そうやって私たちは造られたものとしての本性に帰る。ここに私たちがまことに人間らしく生きる道があるのです。

2026年5月30日の聖句

(ヒゼキヤの言葉)「恵み深い主よ、彼らをお赦しください。彼らは心を定めて神を、先祖の神、主を求めたのです。」(歴代誌下30:18~19)
(イエスのたとえ話)そこで、彼は、そこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカ15:20)

神さまは私たちの慈しみ深い父でいてくださいます。私たちが父の愛を拒んで出奔し、放蕩の限りを尽くして父の財産のすべてを無駄づかいしてしまうろくでなしであったとしても、神の私たちへの愛は変わりません。私たちが神の下さった良いものも、命も、命を支えるすべも、全部を無駄にしてしまっても、どんなにダメな私でも神の愛は変わらない。主イエス・キリストはそう言ってくださいます。
「そこで、彼は、そこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
このように、一人の悔い改める罪人を神は愛してくださいます。自分の罪のために損なわれた私を見て、憐れに思い、走り寄って抱きしめ、接吻して迎えてくださる。神さまの愛は熱いのです。熱烈な愛です。この愛があなたにも向けられている、と主は言われます。
ですから私たちの祈りは一つです。「恵み深い主よ、彼らをお赦しください。彼らは心を定めて神を、先祖の神、主を求めたのです。」私たち自身のため、そして隣人のために罪の悔い改めと赦しを求める祈りを捧げる。それが私たちの祈りの営み、私たちの神の御前にある歩みです。

2026年5月29日金曜日

2026年5月29日の聖句

主よ、私は知っています。
人間はその道を確かにできないことを。(エレミヤ書10:23)
(富める者の言葉)「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。」(ルカ12:19~20)

この金持ちの言葉は私たちの言葉そのものではありませんか?
「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」
これだけ蓄えがあれば安心だ。これで大丈夫だ。あるいはその逆もあるかもしれない。こんな貯金の残高じゃ心配だ。これでは備えにならない。「だから投資に回せ」と現代であれば続くでしょうか。
もちろん、これは預貯金を禁じるような話ではないし、将来への備えは必要ないと主イエスがおっしゃっているわけではないでしょう。ただ主イエスが、あなたの魂は何によって確かにされるのかと問うていることは真剣に受け止めたい。どんなに財産があっても、それによって将来の生活に安心を求めても、死んでしまえばそれを天国に持って行けるわけではない。地獄の沙汰も金次第とはいかない。私たちには本当の意味で自分の道を確かにすることができないのです。「主よ、私は知っています。人間はその道を確かにできないことを。」
私たちを造り、命を与え、生かし、最後の日にそれを取り上げ、私たちの死ぬときにもご自分のものとしてくださるイエス・キリストと父なる神様に真剣に依り頼み、このお方に信頼する信仰を「私の信仰」としたいと願います。私には私の道を確かにすることはできない。しかし神さまにはおできになります。慈しみに満ちた神さまを、今日を生活し明日を迎える上でしっかりと信頼する者でありたい、と願います。

2026年5月28日木曜日

2026年5月28日の聖句

私は知っている。
私を贖う方は生きておられる。(ヨブ記19:25)
キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂とんられました。(1コリント15:20)

今日の旧約聖書に「私を贖う方」という言葉があります。旧約聖書が書かれたヘブライ語では、この言葉は「ゴアリー」という単語で表されています。最後の「リー」の部分は「私を」という意味の接尾辞。前半の「ゴアル」は「贖う」という動詞の分詞形です。ですので「ゴアリー」というのは「私を贖う方」という意味になる。
ずいぶんと細かいことを書きました。この「贖う」という動詞ですが、聖書の中ではどのようなところで使われているのか。とても特徴的な意味を持つ動詞です。誰かが破産し、自分も家族も身売りしないとならなくなってしまう。あるいは、先祖伝来の土地を人手に渡さないといけなくなってしまう。そういうときに、家族や親族のある者がその人やその土地を買い戻す。それを聖書は「贖う」と表現します。(具体的には、ルツ記に登場するボアズという人がしたことが「ゴアル」としての振る舞いです。)
つまり、「ゴアリー・私を贖う方」というのは「私のために家族としての責任を果たしてくれる人」という意味です。聖書は、他ならぬ神さまが私のために家族としての責任を果たして、私を贖ってくださった。買い戻してくださった。私を自由にしてくださった、と言っているのです。そして、そのお方、私を贖ってくださる神は生きておられる!これが聖書が私たちに告げる良い知らせです。私を贖い、私のために家族になってくださった神は生きておられる。死者の中から復活し、死に売り渡された私を買い戻してくださった。死を超えた家族になってくださった。それがキリストが私たちのためにしてくださったことなのです。

2026年6月3日の聖句

主は見えない人の目を開く。(詩編146:8) それで、(イエスは)こうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ...