あなたがたは強くあれ、力を落としてはならない。あなたがたの働きには、報いがあるからだ。(歴代誌下15:7)
主人は言った。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」(マタイ25:21)
「あなたがたの働きには、報いがあるからだ」と今日の旧約に書かれています。私たちが神さまからの報いをいただけるような働きというのは、いかなる働きなのでしょうか?人からの報いや自己満足ではなく、神さまから報いをいただくというのはどういうことなのか?
今日の新約の御言葉は、主人である神様がある僕を「良い忠実な僕だ」「主人の祝宴に入りなさい」と言って報いておられる、という場面です。この人は主人から5タラントンという財産を預かり、それを用いて他に5タラントンをもうけました。ここには他にも同じように2タラントン預けられた僕、1タラントン預けられた僕もいた。2タラントンの僕も5タラントンの僕と同じように、預けられたものを用いて他に2タラントンもうけ、主人から同じ言葉で報いて頂きました。ところが1タラントンの僕は主人が怖かったので、この1タラントンを無くさないように土に埋めておき、後で手つかずの1タントンを主人に差し出しました。主人は激しく彼を責めてその1タラントンを取り上げ、5タラントンの僕に与えてしまいました。1タラントンの僕の働きは報いて頂けなかった。
主人が僕に求める「良さ」「忠実さ」は、恐らく、与えられたものへの誠実さなのだと思います。もしも1タラントンの僕のように自分では何もできないと思うなら、主人自身が言っていますが、自分のタラントンを銀行に預けるということもできた。つまり、他の人に任せてそれを用いてもらうこともできたはずだ、と言うのです。自分の能力や失敗への不安の中で「自分のタラントンの大小」にこだわるよりも、その与えられたものが生かされる道を探し、それを実行することが大事なのだと思います。与えられたものに忠実に生きる。
神さまは私たちに何を預けておられ、何を期待しておられるでしょうか。私たちは、神さまに預けられたものに誠実に生きているでしょうか?主の御前で私たちはいかに生きているか?今日、御言葉はそのことを問いかけています。
主人は言った。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」(マタイ25:21)
「あなたがたの働きには、報いがあるからだ」と今日の旧約に書かれています。私たちが神さまからの報いをいただけるような働きというのは、いかなる働きなのでしょうか?人からの報いや自己満足ではなく、神さまから報いをいただくというのはどういうことなのか?
今日の新約の御言葉は、主人である神様がある僕を「良い忠実な僕だ」「主人の祝宴に入りなさい」と言って報いておられる、という場面です。この人は主人から5タラントンという財産を預かり、それを用いて他に5タラントンをもうけました。ここには他にも同じように2タラントン預けられた僕、1タラントン預けられた僕もいた。2タラントンの僕も5タラントンの僕と同じように、預けられたものを用いて他に2タラントンもうけ、主人から同じ言葉で報いて頂きました。ところが1タラントンの僕は主人が怖かったので、この1タラントンを無くさないように土に埋めておき、後で手つかずの1タントンを主人に差し出しました。主人は激しく彼を責めてその1タラントンを取り上げ、5タラントンの僕に与えてしまいました。1タラントンの僕の働きは報いて頂けなかった。
主人が僕に求める「良さ」「忠実さ」は、恐らく、与えられたものへの誠実さなのだと思います。もしも1タラントンの僕のように自分では何もできないと思うなら、主人自身が言っていますが、自分のタラントンを銀行に預けるということもできた。つまり、他の人に任せてそれを用いてもらうこともできたはずだ、と言うのです。自分の能力や失敗への不安の中で「自分のタラントンの大小」にこだわるよりも、その与えられたものが生かされる道を探し、それを実行することが大事なのだと思います。与えられたものに忠実に生きる。
神さまは私たちに何を預けておられ、何を期待しておられるでしょうか。私たちは、神さまに預けられたものに誠実に生きているでしょうか?主の御前で私たちはいかに生きているか?今日、御言葉はそのことを問いかけています。