2026年8月13日木曜日

2026年8月13日の聖句

主は心に留められる
主の契約をとこしえに
命じた言葉を幾千代に。(詩編105:8)
神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え、栄光を帰するのです。(2コリント1:20)

私たちの信仰の要は、神さまの御言葉です。神の言葉を聞くことで、信仰が与えられます。神の言葉に従うことで、キリスト者として生きることができます。御言葉は私たちのために与えられた羅針盤です。御言葉にいつも聞き、心に留め、そして御言葉に従いたい。そう願います。
しかし、私たちはいつも悩みます。自分は忘れっぽいし、他の声が気になってしまいます。御言葉をいつも聞ければ良いかもしれない、御言葉に従えれば一番よいだろう。でも、実際の私はそうではない。
そのような私たちのつぶやきを、もう何千年も前から聖書はよく知っていました。「主は心に留められる、主の契約をとこしえに、命じた言葉を幾千代に。」ここで聖書が言うのは、御言葉を本当に心に留めているのは私たちではなく主だ、ということです。私たちが主の言葉をちゃんと守っている、ずっと忘れないでいる、ということではありません。主は、ご自分の御言葉を幾先代にわたってお忘れになることなく、主はご自分が立てた契約をとこしえに心に留めていてくださる。私は忘れっぽいし不誠実だしどうしようもないけれど、主はそうではない。主はご自分の言葉への誠実を貫いてくださる。
主は、永遠の「然り」となってくださいました。ご自分の慈しみに、ご自分の平和に、ご自分の愛に、とこしえに「アーメン」を貫いてくださる。私たちの救いは、真実そのものでいらっしゃる神だけです。

2026年8月12日水曜日

2026年8月12日の聖句

父が子らに憐れみをもたらすように
主を畏れる者らに憐れみをもたらす。(詩編103:13)
あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。(ガラテヤ4:6)

主は、ご自分を恐れる者を憐れんでくださいます。慈しみを示してくださいます。それは「父が子らに憐れみを持たすよう」だと聖書は言います。
私も三人の子どもの父ですが、人間である私は、父になったところで大した父ではありません。理不尽に怒ることもあるし、偉そうに間違ったことを口にすることも少なくないと思います。(恐ろしいことに、自分ではなかなか気づけないのですが。)
しかし、神さまの憐れみは私たちが知っている「父親像」をはるかに超えています。このお方の憐れみに偽りはなく、このお方の慈しみに誤りはありません。神は私たちの完全な父です。
私たちがこの神様の子どもとされていることは、私たちに「父よ」と祈る言葉を与えられていることから分かります。御子イエスの霊が与えられているから、私たちにも神を父とお呼びする祈りが生まれるのだ、と聖書は言うのです。
あなたも神の子です。何とすばらしい発見でしょう!私たちは神の子としての自分を見いだすことが許されている。このすばらしい福音が今日あなたに語りかけられているのです。

2026年8月11日火曜日

2026年8月11日の聖句

歩むべき道を知らせてください。
私はあなたに向かって魂を高く上げます。(詩編143:8)
シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68~69)

今日の旧約に「私はあなたに向かって魂を高く上げます」と書いてあります。すてきな言葉だと思います。私たちも、自分の魂を神に向かって高く上げましょう。魂、それは自分の内奥の、一番奥深い部分です。神さましかご存じではない、自分の深み。自分でも知ることのできない、自分という存在の淵。そう言ってもいいのではないかと思います。しかしその深みが神に向かう。天の天におられる神、その高みに向かう。私たちは、弱く脆く、すぐに損なわれてしまう存在でしかありません。しかしそのような者を神が御心に留めていてくださる。私を深く究め、知っていてくださるのは、神さまです。そうであるからこそ、この方だけが私たちの歩むべき道を知っておられるのです。
シモン・ペトロが主に告白しています。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」本当に、「アーメン」と思います。主イエスさまこそ永遠の命の言葉を持ち、それを私たちに語りかけることのできるお方です。私たちは他の誰のところへ行きましょう。この方以外に神はいないのです。私の魂が慕い求める唯一の神、私が心を上げるただおひとりの神。イエス・キリストを慕い求め、この方を愛します。私は他のどこへ行きましょうか。

2026年8月10日月曜日

2026年8月10日の聖句

主は天に王座を据え
その王権はすべてを治める。(詩編103:19)
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくるとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められる。(マタイ25:31~32)

私たちの国は、81年前まで天皇を王として国作りをしてきました。国民は天皇の臣民、あるいは天皇の赤子とされていました。今はどうでしょうか。ここのところ起こっている天皇の世継ぎ問題に関わる世論の沸騰を見ると、心根のところではあまり変わっていないのではないか、と私は思っています。私たちの国の多くの人は、やはり天皇を王として頂くことに誇りを持っているし、それを望んでいるように私は感じています。
今日の御言葉はそれとは真っ向から対立します。「主は天に王座を据え、その王権はすべてを治める。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくるとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められる。」
天には神の王座があります。神が天にあって王権を持ち、この世界の王として支配しておられます。主イエスこそ真の王。イエスこそこの世界を支配する栄光に輝く王。それが私たちの信仰です。地上の王は、世界の真の王に仕える僕の一人に過ぎないはずです。私たち庶民と同じように。神が王であられることと矛盾するシステムや社会構造、伝承、あるいは人物は、それが例え誰であっても何であっても、神の前には相対的なもの、一時的で歴史の中に消えゆくものに過ぎません。この世界の王権をお持ちなのは、まことの神だけだからです。
私たちキリスト教会は、何かの革命運動をするわけではありません。天皇制を転覆するために剣を取るわけでもない。この国の制度も、今いる支配者も、神がお立てになったものと信じ、それを尊重し、敬意を払います。しかし、それは絶対的なものではない。天皇も神の前にはただの人間に過ぎないし、天皇制も人間の考え出した制度に過ぎない。私自身がただの愚かな罪人に過ぎないのと同じように。その事実を畏れをもって受け止めなおしたい、と願います。

2026年8月9日日曜日

2026年8月9日の聖句

今週の聖句:
幸いな者。主を神とする国民、主がご自分のものとして選んだ民。(詩編33:12)

今日の聖句:
見よ、先にあったことは実現した。
そこで、私は新しいことを告げよう。
それが起こる前に
私はなた方に聞かせよう。(イザヤ書42:9)
良い種を蒔く者は人の子、畑は世界。(マタイ13:37~38)

少し前に「閉塞感」という言葉がいろいろなところで聞かれました。私たちの社会は閉塞感に包まれている。成長の兆しも見えず、その可能性も途絶えているのではないか。希望が見えてこない。そのようなことが言われていたと思います。その後のコロナや各地の地震などを経て、今でも経済的な成長の停止や賃金の停滞が続いており、人心に余裕がない状況はますます悪化しています。
ところが聖書は、私たちには思いもつかないような神さまの新しい御業を私たちに告げています。「私は新しいことを告げよう」と神さまは私たちにおっしゃいます。それは荒れ地に道を通し、砂漠に大河を流れさせる出来事です。滅びと絶望と私たちが思っているところに命への道を神が拓いてくださる。
あなたは、それを信じますか?私たち教会に託されているのは希望の福音です。尽きることのない望みをもたらす言葉を神は私たちに託してくださいました。十字架の上で惨殺された方が復活したことで示された望みです。私たちはもはや奴隷ではなく自由にされた、という知らせです。あなたはこれを信じるか、と主は私たちに問うておられます。

2026年8月8日土曜日

2026年8月8日の聖句

あなたこそ、我が救いの神。
私は日夜、あなたを待ち望んだ。(詩編25:5)
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)

聖書は、私たちが忍耐して待ち望み、神に求め続けることの大切さを私たちに教えます。私たちがそのようにして待ち望むのは、神ご自身です。「あなたこそ、我が救いの神。私は日夜、あなたを待ち望んだ。」主こそが私たちの救いの神。このお方を「あなた」とお呼びし、待ち望む。昼も夜も、絶えず待ち続ける。それが私たちの信仰生活です。
これは、主なる神さまにしか救いを求めることのできない人の祈りです。他のどこにも救いがない人の言葉です。もしも今日の御言葉に響き合うものを感じていないとしたら、それは主以外のものに救いがあるとどこかで思い込んでいるからではないでしょうか。
しかし主は、ご自身にしか望みがないと感じている人に無限の慈しみを示してくださいます。他のどこにも寄る辺がない人を必ず迎え入れてくださいます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる」と命じてくださったキリストは、生きるために必要なものを持たない人、大切なものを失った人、戸を閉ざされて社会から締め出された人を受け入れ、愛してくださるお方です。

2026年8月7日金曜日

2026年8月7日の聖句

娘シオンよ、喜び歌え。
イスラエルよ、喜びの声を上げよ。
娘エルサレムよ、心の底から喜び祝え。
主は、あなたに対する裁きを取り去られた。(ゼファニヤ3:14~15)
キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。(エフェソ2:17)

キリストが私たちに告げ知らせてくださったのは、平和の福音です。キリストの平和が私たちの内に宿るように、キリストは私たちのところへ来られて平和の福音を宣言してくださいました。
キリストは、力で脅しませんでした。お金の力で言うことを聞かせませんでした。権力で相手を黙らせるということもなさいませんでした。そういうものの陰にこっそり隠れませんでした。この世が「平和」と嘯くものに、主イエスは与しませんでした。
私たちは昨日8月6日を迎え、今度の日曜日に9日を迎えようとしています。キリストの平和が私たちに告げ知らされたということの意味を、今日、へりくだって考え直したいと願います。キリストは国と国とが争い、人々が傷つくことを絶対にお喜びにはならないでしょう。「仕方のないことだ」とはおっしゃらないでしょう。私たちの世界が「現実はこうだ」と言い張っている見せかけの「平和」を、ご自分の平和だとはおっしゃらないでしょう。
私たちの国も、この国の歴史も、神の裁きの前に立っています。私たちには、本当に見つめるべき絶対の基準があります。神という究極の視座から私たち自身を見つめ直す。それが旧約の預言者たちがしたことです。自分たちの現状を肯定し、私たちが享受している豊かさや安心が維持されることと、キリストの十字架と復活によって打ち立てられた平和が実現することと、どちらの道を進むのか?私たちは問われています。

2026年8月13日の聖句

主は心に留められる 主の契約をとこしえに 命じた言葉を幾千代に。(詩編105:8) 神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え、栄光を帰するのです。(2コリント1:20) 私たちの信仰の要は、...