2026年7月21日火曜日

2026年7月21日の聖句

エルサレムと共に喜び祝い、彼女のことで喜び踊れ
彼女を愛するすべての人よ。
彼女と共に大いに喜べ
彼女のために嘆いていたすべての人よ。(イザヤ66:10)
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。(ルカ19:37)

エルサレム。かつてダビデが都を築き、ソロモンが神を礼拝するための神殿を献げ、イスラエルの信仰の中心であった場所です。しかし同時に、傲慢な王政の中心地でもあり、豊かさや軍事力で国作りをしようという人間の思惑がうごめいていた場所でもあります。そして、やがて裁かれ、すべてが失われた都でもあります。
そのエルサレムについて、預言者は言います。「エルサレムと共に喜び祝い、彼女のことで喜び踊れ、彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に大いに喜べ、彼女のために嘆いていたすべての人よ。」神さまは人間の歴史の中で働いてくださいます。エルサレムという一つの都も、そういう神さまのお取り扱いを受けてきました。
私たちも同じです。今、この世界で起きていることも神さまの御支配の中にあります。神さまの前に私たちの振る舞いはいかなる意味を持っているのか?私たちの富や力に頼る傲慢な社会を神はどのようにご覧になっているのか?私たち人間はそのことを畏れ、へりくだってそのことを考え直すべきであろうと思います。
今日の新約の御言葉で、主イエスはエルサレムの都の郊外のオリーブ山に来られました。これからいよいよエルサレムにお入りになる。神の民の様々な歴史が積み重ねられてきたエルサレムに主が来られます。私たちの生きるその「現場」に主イエスは来ておられるのです。

2026年7月20日月曜日

2026年7月20日の聖句

主の仰せこそ清い仰せ。
土の炉で精錬され、七度純化された銀。(詩編12:7)
(イエスの言葉)私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。(ヨハネ18:37)

私は銀を炉で純化したことはありませんが、どんなにたいへんな作業なのだろうか、と思います。熱くて危険ですし、たいへん過酷な仕事でしょう。しかもそれを七度も繰り返す。どんなにきれいに純化されるのでしょうか。
「主の仰せこそ清い仰せ。土の炉で精錬され、七度純化された銀。」
主の仰せこそ、七度精錬して純化した銀のように、あるいはそれ以上に清い。神さまの言葉こそが私たちの尊い宝。主イエスはその言葉を「真理についての証し」と言われます。主は私たちに真理を教えてくださる。真理を証しするために主イエスは私たちのところへ来てくださった。
真理、それは神さまの御心でしょう。キリストが私たちに教えてくださった神の愛でしょう。イエス・キリストという道を通って、私たちが神の御許に行くことができる。これこそ主イエスが私たちに示してくださった真理です。ですから私たちは他の何でもなく神さまの御言葉に耳を傾けるのです。

2026年7月19日日曜日

2026年7月19日の聖句

今週の聖句:
あなたがたはもはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する神の家族です。(エフェソ2:19)

今日の聖句:
主よ、怒りに燃えて私を責めず
憤りに任せて懲らしめないでください。(詩編6:2)
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。(2コリント5:21)

あまりにもすごい御言葉です。「私たちが、その方に会って神の義となるためです。」神さまは言ってくださるのです。「お前たちが私の義だ」と。他の誰でもなく私たちを「私の義」と神が言ってくださる。驚くべき御言葉です。
そのために、神はさらに驚くべきことをなさった。「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。」罪を知らないイエスを神は罪となさった。主イエスは罪になり、私たちは義になった。イエスが持っておられたすべての尊さと聖さ、神の子としての身分が私たちのものとなり、私たちの罪や汚れ、裁かれるべき悪がすべてイエスのものとなった。聖書はそのように言います。
このようなことがあっていいのでしょうか。私たちは、ただ「主よ、怒りに燃えて私を責めず、憤りに任せて懲らしめないでください」と祈るより他ない者です。神は私たちの願い以上のことをしてくださいました。この神を畏れましょう。この神を崇めましょう。あなたの人生をまったく新しいものに一変させたのは、イエス・キリストの父である神です。

2026年7月18日土曜日

2026年7月18日の聖句

神は彼らを男と女に創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、人と名付けられた。(創世記5:2)
相手に敬意をもって丁寧に接しなさい。(ローマ12:10)

とても面白い御言葉の組み合わせだと思います。神が男と女とを創造された日に、彼らを人と名付けられた。これこそ神が人に敬意をもって接してくださったということに他ならない。そういうことでしょう。
人を人と名付けたのは、人をお造りになった神ご自身です。私たちは神に造られ、命を与えられ、神に名前を付けられて生きています。私たちに命を与えてくださったときから神はご自身との関係の内に置き、私たちを人と呼ぶことでご自分との関係を確かなものとしてくださいます。神は私たちをご自身との関係の中で生かしてくださいます。
今日の私たちも、神さまとの関わりの中で新しい一日が始まっています。聖書を通して語りかける神さまの御言葉を聞き、神さまにお祈りをしています。神さまの呼びかけを聞くことこそが私たちを本当に自分らしく生かすよすがです。
明日は主の日です。礼拝で、そして礼拝で語られる神の言葉によって私たちは神様と出会います。朝毎、週ごとに神さまは私たちに新しい御言葉をもって語りかけてくださいます。福音が証しされることで私たちは神と出会う。そういう出会いの言葉を求めて私たちは神様の御前に進み出ます。私たちは自分の神と出会う備えをし、今日この備えの一日を祈りの内に歩みたい。神は、もったいなきことに敬意をもって私たちを呼んでくださっています。私たちも最大限の敬意をもって神の前に進み出たい。そのように願います。

2026年7月17日金曜日

2026年7月17日の聖句

天から見下ろし
聖なる美しいお住まいからご覧ください。
あなたの情熱と力強い御業はどこにあるのですか。(イザヤ63:15)
(イエスの言葉)私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14:18)

天から私たちを見下ろされる神さまは、天にどっかりと構えたままではおられません。天でゆっくり眺めているのではなく、私たちのところにまで降りて来てくださいます。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」そうおっしゃるとおり、主は天で落ち着いていることなく私たちがいるところに降りて来てくださるお方です。神は、落ち着かない神でいらっしゃいます。
私たちのところに来てくださる神は、私たちをみなしごにはしておかれません。私たちのところに来て、私たちをご自分のものにしてくださいます。それはまさに「あなたの情熱と力強い御業はどこにあるのですか」という祈りに応える情熱と力強さです。
今日私たちが聞いている福音は、神が情熱的なお方でいらっしゃる、ということです。神さまは冷めた心をお持ちの方ではない。情熱的で、熱く、私たちのことを放っておかないでいてくださるお方だ、ということです。
今日も神さまは情熱的な愛をもってあなたのところへ来ておられます。神はあなたに何をしておられるか、神は今どのような御業をなさっているか。私たちが問うべきは、そのことではないでしょうか。

2026年7月16日木曜日

2026年7月16日の聖句

神は我らの逃れ場、我らの力。
苦難の時の傍らの助け。
それゆえ私たちは恐れない。(詩編46:2~3)
イエスは、母とその側にいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネによる福音書19:26~27)

主イエスの母マリアが登場しています。主イエスが十字架にかけられている、その場所です。母は息子イエスが十字架にかけられている姿を目の当たりにしていました。母にとって、どんな地獄よりももっともっと辛く、筆舌に尽くしがたい悲痛のどん底ではないでしょうか。
そのどん底で、主イエスは側にいる人の弟子を示して母におっしゃいました。「女よ、見なさい。あなたの子です。」その弟子にも同じように言われます。「見なさい。あなたの母です。」主イエスが生み出す新しい家族は、十字架の下で、悲しみの淵にたたき込まれたときに与えられました。悲嘆を共にする家族です。
「神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍らの助け。それゆえ私たちは恐れない。」詩編はそう祈ります。これは、キリストに生み出された新しい家族である私たちキリスト教会の祈りです。共に祈り、共に生き、共にキリストを仰ぎます。私たちは、自分たちの気が合うからということではなく、キリストに結ばれた家族であるからです。神が逃れ場でいてくださること、それだけが私たちの救い。神が私たちの力でいてくださること、それだけが私たちの勇気。神が私たちの苦難の中に傍らで助けとなってくださるから、私たちは恐れない。私たちは、私たちの前で十字架にかけられているキリストを仰いで、共に生きていきます。

2026年7月15日水曜日

2026年7月15日の聖句

私の心は激しく揺さぶられ
憐れみで胸が熱くなる。
私は神であって、人ではない。
あなたのただ中にあって聖なる者。
怒りをもって臨むことはない。(ホセア11:8~9)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

神さまの激しいお心の内が明かされる御言葉です。「私の心は激しく揺さぶられ、憐れみで胸が熱くなる。」神さまがご自分の心をかきむしるほどに私たちのことを思い、ご自身の胸を焦がすほどに私たちを激しく憐れみ、痛みを覚えておられることを、私たちは知っているでしょうか?私たちは、神さまのこの熱いお心の内を少しでも考えたことがあるでしょうか。
神さまは私たちを憐れみ続けてくださいます。それは、この方が人ではなく神でいらっしゃるから。神として、その思いを貫いてくださいます。聖なるお方が私たちに対して怒りではなく、憐れみを抱いて臨んでくださいます。驚くべきお言葉です。
神の憐れみは、イエス・キリストにおいてこの上なくはっきりと示されました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」私たちの間にあって憐れみを貫く神ご自身、それがイエス・キリストです。この方が今日も私たちの間にいてくださいます。私たちと共にいてくださいます。畏れをもって、その事実を信じ、受け止めたいと願います。

2026年7月21日の聖句

エルサレムと共に喜び祝い、彼女のことで喜び踊れ 彼女を愛するすべての人よ。 彼女と共に大いに喜べ 彼女のために嘆いていたすべての人よ。(イザヤ66:10) いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高ら...