2026年3月7日土曜日

2026年3月7日の聖句

なぜ国々は言うのか。「彼らの神はどこにいるのか」と。
私たちの神は天にいまし
御旨のままにすべてを行われる。(詩編115:2~3)
イエスは言われた。「私を見る者は、父を見ることになるのだ。」(ヨハネ14:9)

今日の旧約聖書の御言葉は「なぜ国々は言うのか」と始まっています。ここで言われている「国々」というのは、主なる神さまを信じいない人々ということであると思います。神を信じない者が私たちに向かって言うのです。「お前が信じる神はどこにいるのか」と。一体どう答えたらいいのでしょうか。
「彼らの神はどこにいるのか」という言葉の後には、いろいろな言葉が続くのではないかと思います。「もしもあなたが信じるような神が本当にいるのなら、どうして世の中にこのように悪がはびこっているのか」「どうして不幸が続くのか」「どうして私はこんなに苦しまなければならないのか」・・・。
詩編は「彼らの神はどこにいるのか」という問いに答えています。「私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる」。神は私たちが手を届かせてコントロールすることのできるような方ではない。神は天におられる。そして、今日も生きて働いておられる。神はご自身の御旨のままに、御業を行っている。今、私たちにその意味がすべて分からなくても、私たちには「なぜ?」という問いしかのこらない現実であっても、必ず神の御業は進んでいる。すべての出来事は永遠の祝福に必ず至るプロセスです。これは、そう信じる告白です。
主イエスは天の父でいらっしゃる神を示しておっしゃいます。「私を見る者は、父を見ることになる」と。私たちが神について知るべき事はすべてキリストが現してくださった。キリストと出会うとき、私たちは神ご自身と出会っている。ですから、私たちは問いを抱えつつ、キリストに目を注ぎ、キリストの言葉に耳を傾けます。私たちは「お前の神はどこにいるのか」と繰り返し問われます。そのたびに、私たちはキリストを指さします。ここにいる、ここに神がおられる!私たちの問うすべての「なぜ」を背負っておられるキリストこそが私たちの信じる神ご自身なのです。

2026年3月6日金曜日

2026年3月6日の聖句

正しき者は弱い人の訴えを認める。(詩編29:7)
イエスは(その議員に)言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」(ルカ18:22)

今朝の主イエスの御言葉を聞くと立ちすくんでしまいます。「主よ、できません」としか言えず、それ以上の言葉が出てきません。主の言葉の通りに生きている人は知っています。しかし、自分のこととして、主イエスのこの御言葉に文字通りに従っているかと言われれば、そうではない。私もこの議員と同じように、悲しみながら立ち去らなければならない。恥ずかしいことですが、正直に言って、私はそのような人間です。
主イエスの側でこのやりとりを見ていた人たちも同じ感想を抱いたのだと思います。「それでは、だれが救われるのだろうか」と言っています。本当にそうです。一体誰が救われうるのでしょうか?いや、そのように生きている人、そのように信じて実践している人はいるでしょう。しかし、私は救われようがありませんと言わざるを得ない・・・。
主イエスはさらにおっしゃいます。「人間にはできないことも、神にはできる」。私たちはただただ神の憐れみにおすがりするしかありません。私には、私ひとりを救う力もありません。自分でも自分のことをどうすることもできないのです。しかし、神にはこんな私を救うことがおできになる、と主は言われます。持っている物に執着し、お金にしがみつき、神さまに明け渡すことのできない、バカでケチでお金の亡者のような私を、主は救うことがおできになる。そのことをひたすら信じ、ただ憐れみを請うだけです。

2026年3月5日木曜日

2026年3月5日の聖句

私の手は地の基を据え、私の右の手は天を押し広げた。
私が呼びかけると、それは共に立ち上がる。(イザヤ48:13)
私たちの主、また神よ
あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。
あなたは万物を造られ
万物はあなたの御心によって存在し
また造られたからです。(黙示録4:11)

今日の新約聖書の御言葉はヨハネの黙示録です。聖書の最後に収められているこの小さな書は、パトモス島に流刑にされていた一人の人が見た幻を書き記したものです。著者ヨハネを取り囲んでいる現実は果てしなく厳しい。信仰のために島流しになってしまった。圧倒的な帝国の力がある。逆らいようもないし、救いも見えない。しかしそれでも、ヨハネは日曜日になるたびに神に礼拝を献げていました。そして、礼拝を献げる中で彼は知ったのです。今、私を取り囲んでいる「現実」よりももっと確かなことがある。私の小さな礼拝は、ただの無力な、あってもなくても大して意味もないものではない。この小さな礼拝は天での礼拝に共鳴しているのだ。ヨハネはこの信仰によって生かされた。
今日の御言葉は天での礼拝の様子を描いている場面です。天の玉座におられる神の前で礼拝が献げられ、栄光に神にお返しする言葉です。神こそすべての栄光と誉れと力を受けるにふさわしいお方。このお方が万物を造り、万物は神の御心によって存在している。この圧倒的な神の御業を、絶海の孤島である流刑地パトモスで信じたのがヨハネという人でした。
今あなたを取り囲んでいる現実は、どのようなものでしょうか。その現実と神さまと、どちらの力が強いとあなたは信じているのでしょうか?あなたが献げる礼拝は、ただの世界の片隅の小さな営みに過ぎないのでしょうか?あってもなくてもどちらでも構わない、趣味を同じくする人のサークル活動に過ぎないのでしょうか?
そうではありません。あなたが献げる礼拝は天の礼拝と共鳴しています。あなたが献げる賛美は神の前で栄光をお返しする天の声と同じ声です。あなたが礼拝しているお方は、この世界を造り、今も支配しておられる方です。その圧倒的な事実を、あなたは信じていますか?

2026年3月4日水曜日

2026年3月4日の聖句

主を喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩編37:4)
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。(マタイ7:11)

「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と聖書は言います。この言葉を聞いてどのように思われるでしょうか。「本当にそのとおりです」と思われるでしょうか。それとも「嘘だ。私には良いものをくださらなかった」と思われるか。感じ方は人によって様々ではないかと思います。あなたはどのように思われますか。
主イエスは言われます。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。」主は、私たちの「親心」を引き合いに出しておられます。親であれば子どもに良い物を与えたいと考えるはずだ。パンを欲しがる子どもに石を与える親はいないし、魚を食べたいと言っている子どもに蛇を与えるようなことはしない。もしあなたが悪人だったとしても、親として自分の子どもには良い物を与えようとするではないか。私たちでさえそのような親心を持っているならば、まして天におられる父はいちばん良い物をくださるはずだ。主の御言葉に促されて、まず何よりも天の父の慈しみを信頼しましょう。
さらに問わないわけにはいかない。私たちにとって一番良い物とは一体何か。私たちは何を求めて生きているか。私たちの深いところにある求めやニードは一体何か。少し角度を変えて問います。私たちは「十字架」が答であるような求めを持っているでしょうか。「キリストの復活」が自分の必要であると気付いているでしょうか。「主の弟子として従うこと」が自分にとって何よりも大事な価値だと私たちは知っているでしょうか。私たちは、何を求めて生きているでしょうか?
「主を喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」この御言葉は私たちの願いや求めを新しくします。主を喜びとし、主を賛美することこそが私たちの真の幸せだと気付かせます。私たちが主を賛美するために生きているのだと、私たちはキリストの与えてくださった賜物によって知るのです。つまり、キリストが私たちに与えてくださる最良の贈り物である聖霊によって、私たちは新しくなり、神に向かって生き、神を求める者として新しく生まれるのです。天の父の子として!

2026年3月3日火曜日

2026年3月3日の聖句

イスラエルの人々は主に向かって叫び、言った。「私たちはあなたに対して罪を犯しました。私たちの神を捨てたのですから。」(士師記10:10)
(洗礼者ヨハネの言葉)「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ3:2)

洗礼者ヨハネが「天の国は近づいた」と言っています。たいへんな言葉です。天の支配、つまり神の御支配がもうここに来ている。そうであるならば、「私の支配」は終わるということを意味します。私のために生きてきた私はもう死なねばならない、ということを意味するはずです。天の国が来たからです。神の前に古い私は死なねばならない。その事実を認めるのが「悔い改める」ということではないでしょうか。
「悔い改めよ」と言われても、悔い改めなければならないほど悪いことをした覚えなんてないと思われるかもしれません。小さな嘘やちょっとした隠し事はしたことがあるかもしれないし、ケンカをしたときに悪い言葉が口からついて出てきたことくらいはあるかもしれない。しかし、そんなに大げさに「悔い改め」と言われなければならないほどのことなのでしょうか。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」この言葉はヨハネだけの言葉ではありません。主イエスも同じ言葉で福音を宣言なさいました。「天の国は近づいた。」主イエスがそのように宣言なさるとき、その言葉は具体的な出来事に裏打ちされていました。主イエスが来られた、という出来事です。私たちのところへ来た天の国、それは主イエス・キリストご自身です。キリストこそ、私の支配を終わらせる神の御支配そのものです。キリストを仰ぐときに私たちは気付かないわけにはいきません。私はこのお方を捨てた。私は神の子を捨てた。私たちも今日の旧約の御言葉と共に祈らなければならない。「私たちはあなたに対して罪を犯しました。私たちの神を捨てたのですから。」
主が求めておられる悔い改め、それはあんな失敗こんな悪いことという話ではありません。私の存在そのものが歪んでしまって神を捨てて生きてきたことそのものを意味している。私がひねくれ、ねじれてしまって、神様と隣人を愛して生きることができなくなっている。そんな私という存在の性根の部分が歪んでいることを主は見ておられる。存在の土台の部分において私は死なねばならないのです。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これは、しかし、福音の宣言です。天の国が来たのです。死んだ者を神が復活させてくださる。復活させてくださるのは、天を支配する神さまです。私があなたを復活させる。キリストを死者の中から引き上げられた神ご自身がそう宣言しておられます。

2026年3月2日月曜日

2026年3月2日の聖句

地の果てに至るまで、すべての人が主に立ち帰るように。(詩編22:28)
東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。(マタイ8:11)

「東から西から」と言ったとき、私たちがいるのは、マタイがこの福音書を書いていたときには思ってもみなかった東の果ての果てでしょう。そこにも主の民が起こされています。西の果てのそのまた果てでも同じです。神さまは私たちの小さな頭で考えられる限界をはるかに超えた御業を行ってくださって、私たちは世界中から神の民として呼び集められました。人間にはできないことです。
そんな大勢の人、私たちのような地の果てにいる者も、天の国の宴会に招いてくださいました。アブラハム、イサク、ヤコブと一緒にその席に着く、と主イエスはおっしゃいます。いつか私たちがアブラハムと同じ食卓に着くことになるというのは、神さまにしかおできにならない御業ですし、想像すると愉快なことです。考えられないような神さまの御業の広がりの中に、私たちの今日の一日もおかれています。
私たちは今日私たちが生きるべく遣わされているところで、主を賛美し、主を崇めて生きていきましょう。神様の御前に、主の招きに応えましょう。そして、私たちばかりでなくすべての人に主の招きを届けるために、証しを立てる者となれますように。

2026年3月1日日曜日

2026年3月1日の聖句

3月の聖句:
イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)

今週の聖句:
まだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んだことにより、神は愛を示されました。(ローマ5:8)

今日の聖句:
あなたがたは生きていくために、あなたがたの神、主を愛するようにひたすら心がけなさい。(ヨシュア23:11)
神の戒めを守ること、これが神を愛することだからです。その戒めは難しいものではありません。(1ヨハネ5:3)

今日の旧約聖書の御言葉は、日本語版の『日々の聖句』を作成した人がドイツ語訳聖書から和訳したものだそうです。私はこの訳の中に出て来る「ひたすら心がけなさい」という言葉がとっても強く心に残りました。好い言葉です。私たちがひたすら心がけていることは、一体何でしょうか。聖書は他の何でもなく、主を愛することをひたすら心がけるように私たちに求めます。そうありたい、とわが心に語りかけます。
その主はどういうお方なのかというときに、今月の聖句として与えられている御言葉が心に残ります。「イエスは涙を流された。」主イエスさまは涙を流されるお方です。悲しまれるお方です。家族を亡くし、泣いている者たちをご覧になったとき、主は涙を流してくださる。その悲しみを共にしてくださる。私たちの悲しみの中に来てくださるお方です。悲しみを共にするという仕方で私たちを愛してくださったお方です。
私たちも、主イエスさまを愛します。主を愛することをひたすら心がけます。私と共に悲しみ、私のために涙を流してくださる憐れみに満ちたお方を、私たちも愛します。

2026年3月7日の聖句

なぜ国々は言うのか。「彼らの神はどこにいるのか」と。 私たちの神は天にいまし 御旨のままにすべてを行われる。(詩編115:2~3) イエスは言われた。「私を見る者は、父を見ることになるのだ。」(ヨハネ14:9) 今日の旧約聖書の御言葉は「なぜ国々は言うのか」と始まっています。ここ...