2026年5月19日火曜日

2026年5月19日の聖句

しかし主よ、今、あなたは私たちの父。
私たちは粘土、あなたは陶工。
私たちは皆、あなたの手の業です。(イザヤ書64:7)
ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。(ローマ9:20)

今日の旧約ですが「父と子」、あるいは「粘土と陶工」として私たちと神さまとの関係を捉えています。三行目に出て来る「私たちは皆、あなたの手の業です」も同じイメージです。
私は今三人の子どもの父です。しかし最初から父であったわけではありません。長男が生まれたときに初めて父になりました。子どもがいなければ「父」と呼ばれることはありません。陶工も、作品を作らなければ陶工と呼ばれることはありません。「父」も「陶工」も実は「父と子」あるいは「陶工と粘土」という関係を表す言葉です。子がいなければ父になることはない。そうだとすると、神さまは私たちがいなければ「父」ではなかったということになるのか?
しかし、そうではない。私たち造られた者がいようといなかろうと、神さまが父でいらっしゃることには何ら変わりがありません。それは、このお方がイエスという御子の父でいらっしゃるからです。「主よ、今、あなたは私たちの父。」神さまが私たちにそう呼ばれることをお許しになったというのは、それ自体が神さまの深いへりくだりです。子なる神の永遠の父でいらっしゃるお方が、私たちのような粘土に過ぎない者、造られただけの者にとっても「父」としてご自身を現し、紹介してくださった。だから私たちはこのお方を「父」とお呼びして崇めるのです。
「父よ」と私たちがお呼びして祈ること、それ自体が神さまの限りないへりくだりと愛の生み出した大きな賜物なのです。

2026年5月18日月曜日

2026年5月18日の聖句

主よ、私たちにではなく
私たちにではなく
あなたの何こそ、栄光を与えてください
あなたの慈しみとまことのために。(詩編115:1)
(イエスの言葉)自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不正がない。(ヨハネ7:18)

今日の新約の御言葉で主イエスがおっしゃっているのは、主イエスさま御自身のことです。「自分をお遣わしになった方の栄光を求める者」。主イエスはまさにそのように願い、実際にそうなさいました。ご自分をお遣わしになった父なる神様の栄光のために、主イエスはすべてのことをなさったのです。
私たちは神の栄光を求めているのでしょうか。それとも自分勝手に話し、主イエスが指摘しておられるとおりに自分の栄光を求めているのでしょうか。私たち自身の言葉や行いを神さまの前で静かに振り返り、考え直すことがもしかしたら必要なのかもしれません。
今日の旧約の詩編の御言葉は、まさに主イエスと同じ信仰をもって献げられた賛美です。「主よ、私たちにではなく、私たちにではなく、あなたの何こそ、栄光を与えてください。あなたの慈しみとまことのために。」私たちは知恵が足りないし、それ以上に身勝手ですし、すぐに迷ってしまう愚か者です。そのような罪深い私にも、どうか主が賛美を授けてくださいますように。神のご栄光を求める信仰者として、私を生かしてくださいますように。ただひたすら、神さまの憐れみに満ちた導きを慕い求めます。

2026年5月17日日曜日

2026年5月17日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。(ヨハネ12:32)

今日の聖句:
主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ
墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。(詩編30:4)
(イエスの言葉)「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。(ヨハネ11:43~44)

「ラザロ、出てきなさい」という主イエスの大声は、私たちの間にも響いています。主が愛しておられたラザロを墓から呼び出すために、新しい命に生かすために、キリストの大声が響いています。
ラザロにはマルタとマリアという二人の姉妹がいました。ラザロが病で死にそうになったとき、彼女たちは主イエスに来てくださいと願い、しかしなかなか来てくださらず、やっと主が来られたとき既にラザロは亡くなっていた。この二人が経験したことは、そのまま私たちの出来事です。主を信じ、祈り、助けを求めてもかなえられず、愛する人の苦しみを側で見ているしかできない。遂に最期の時を迎えていく・・・。
そうやって死んだ者に向かって、主イエスはおっしゃいます。「ラザロ、出てきなさい。」あなたが愛する、今眠りについておられる人も、同じ主イエスの声を聞くために眠っています。主に起こして頂くために、今しばしの眠りについているのです。主が起こしてくださるときがいつ来るのか私たちは知りません。しかし、死人を起こす主の声は、ラザロの名前をお呼びになったあの日から今日に至るまで響き続けていることを私たちは信じます。やがて必ず来る復活の朝、そこで私たちもはっきりと耳にすることのできる主イエス・キリストの声を慕い求めて、今日の祈りの道を上りましょう。

2026年5月16日土曜日

2026年5月16日の聖句

神は心に知恵があり、力は強い。
神に対してかたくなになって
誰が無傷でいられよう。(ヨブ記9:4)
神は、高ぶる者を退け
へりくだる者に恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5)

神様の御前にへりくだる信仰を、今日の御言葉は私たちに証言します。自分がどんなに高ぶった者であるのか、へりくだろうとしないのか。私はそういうことをすぐに忘れてしまいます。神様の御前に進み出て、自分の罪深いことや汚れたことを知らしめられるのでなければ、へりくだった者になることはできないのだと思います。私たちはすぐに他人と自分とを比較します。それで劣等感を抱いたり、優越感に浸ったりします。どちらもあまり変わらない心なのだと思います。神さまの前でのへりくだりは、他人との比較によっては生まれない。神さまを畏れ、神さまの前にひれ伏すのでなければ。
そしてそれは、神御自身の霊の導きを頂かなくてはできないのだと思います。自分自身の心がけも大切なのでしょうが、そういうことではどうしようもない。神様ご自身の導きを頂かなくてはどうにもならない。神の霊の促しを頂いて、神の前にひれ伏し、へりくだる。そして何よりも、私たちのあり方に先立つ神の圧倒的な赦しの御言葉に耳を傾ける。そこに初めて真実な罪の告白とへりくだりが生まれるのではないでしょうか。

2026年5月15日金曜日

2026年5月15日の聖句

(イスラエルの子らの言葉)さあ、行こう。主に連なろう。永遠の契約が忘れられることはない。(エレミヤ50:5)
こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(2ペトロ1:5~7)

今朝のエレミヤ書の御言葉ですが、前の節から改めて読んでみると、このように書かれています。「彼らは泣きながらひたすらあるき、彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンを訪ね、顔をその方向に向けて言う。『さあ、行こう。主に連なろう。永遠の契約が忘れられることはない』と。」泣きながら歩き、主を尋ね求める。「シオン」は、彼らの故国であり、礼拝を献げた場所です。主とその民とを仰ぎながら、主との永遠の契約を頼りに主を尋ね求める。今朝の御言葉は、そういう言葉です。
私たちは今、どういう思いを込めて主を尋ね求めているでしょうか。どのようにして主に祈りを捧げているでしょうか。今日のこの御言葉のように、一心に主を求める心、主に向かうまっすぐな心を私も抱きたい、と願います。
今朝の新約の御言葉は、そういう私たちの神に向かう「信仰」が、隣人と共に生きる生活において何を意味するのかを語っています。「信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と言っている。神に向かう私たちの信仰は、共に生きる主にある兄弟姉妹への愛につながっている。私たちは、共に主を尋ね求める群れ。教会という主の共同体の一員です。

2026年5月14日木曜日

2026年5月14日の聖句

心で罪人を妬むことなどせず
日夜、主を畏れよ。(箴言23:17)
(イエスの言葉)「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あなたがたは、これらのことの証人である。」(ルカ24:46~48)

聖書は本当に鋭いと思います。「心で罪人を妬むことなどせず、日夜、主を畏れよ」と書いてあります。私たちが自分に罪を犯した人を妬むことと、主を畏れることとは両立しない、と言うのです。自分の心を省みてみると、確かに、「あの人は悪い」「自分に対して悪を行った」と感じるときには少なからず「妬み」も共存しています。実は妬ましいという本音があるのにそれを覆い隠すようにして「あの人が悪い」と自分を納得させている、ということが起きているのではないか。実はその心は神を畏れる心とは正反対のものだ、と聖書は言うのです。痛い言葉です。
日夜、主を畏れる。聖書は私たちを神の前に引き出します。神の前に身をかがめ、神を畏れる。そこから私たちの人間関係も新しく始まる。
今日はイースターから40日目で、教会の暦では「昇天日」と呼ばれています。今日の新約の御言葉は主が昇天なさったときに弟子たちに語りかけた御言葉です。メシアの苦しみと復活。そしてメシアの御名による罪の赦しの福音の宣教。これは、主の御前にひれ伏し、このお方を畏れる信仰です。私たちはキリストの死と復活という福音によって、キリストを畏れ、崇める新しい私に造りかえられている。この福音に仕える新しい人生に、私たちは送り出されているのです。

2026年5月13日水曜日

2026年5月13日の聖句

すべての魂と、生きているものは、御手の内にある。(ヨブ記12:10)
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカ23:46)

十字架にかけられた主イエスはご自分の霊を神の御手にお委ねになって、息を引き取られました。ご自身の存在の深みを、ご自分の霊を、神の御手にお委ねになった。「すべての魂と、生きているものは、御手の内にある」とヨブ記に書かれているとおり、私たちの命も魂も霊も、すべては神の御手の中にあります。主イエスは十字架にかけられてもなおそのことを信じ、神にご自分のすべてを任せてしまわれました。
ペンテコステは、神が、このキリストの霊を私たちにお送りくださった日です。キリストが十字架の上で神の手に委ねたキリストご自身の霊が私たちのところへ降って来られた。十字架にかけられたキリストの霊によって教会が誕生しました。私たちは、十字架にかけられた方の霊を与えられています。私たちは、十字架の上で神を信頼し、神にすべてをお委ねになった方の霊によって生かされています。私たちは、十字架にかけられたキリストのものです。
私たちは私たち自身をこれからどうしていくのでしょう?神に委ねるのか、あるいは自分で自分の命のことを心配して生きていくのか?「父よ、私の霊を御手に委ねます。」このキリストの祈りは、このお方の霊を頂いた私たち教会の祈りでもあるはずです。

2026年5月19日の聖句

しかし主よ、今、あなたは私たちの父。 私たちは粘土、あなたは陶工。 私たちは皆、あなたの手の業です。(イザヤ書64:7) ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。(ローマ9:...