しかし主よ、今、あなたは私たちの父。
私たちは粘土、あなたは陶工。
私たちは皆、あなたの手の業です。(イザヤ書64:7)
ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。(ローマ9:20)
今日の旧約ですが「父と子」、あるいは「粘土と陶工」として私たちと神さまとの関係を捉えています。三行目に出て来る「私たちは皆、あなたの手の業です」も同じイメージです。
私は今三人の子どもの父です。しかし最初から父であったわけではありません。長男が生まれたときに初めて父になりました。子どもがいなければ「父」と呼ばれることはありません。陶工も、作品を作らなければ陶工と呼ばれることはありません。「父」も「陶工」も実は「父と子」あるいは「陶工と粘土」という関係を表す言葉です。子がいなければ父になることはない。そうだとすると、神さまは私たちがいなければ「父」ではなかったということになるのか?
しかし、そうではない。私たち造られた者がいようといなかろうと、神さまが父でいらっしゃることには何ら変わりがありません。それは、このお方がイエスという御子の父でいらっしゃるからです。「主よ、今、あなたは私たちの父。」神さまが私たちにそう呼ばれることをお許しになったというのは、それ自体が神さまの深いへりくだりです。子なる神の永遠の父でいらっしゃるお方が、私たちのような粘土に過ぎない者、造られただけの者にとっても「父」としてご自身を現し、紹介してくださった。だから私たちはこのお方を「父」とお呼びして崇めるのです。
「父よ」と私たちがお呼びして祈ること、それ自体が神さまの限りないへりくだりと愛の生み出した大きな賜物なのです。
私たちは粘土、あなたは陶工。
私たちは皆、あなたの手の業です。(イザヤ書64:7)
ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。(ローマ9:20)
今日の旧約ですが「父と子」、あるいは「粘土と陶工」として私たちと神さまとの関係を捉えています。三行目に出て来る「私たちは皆、あなたの手の業です」も同じイメージです。
私は今三人の子どもの父です。しかし最初から父であったわけではありません。長男が生まれたときに初めて父になりました。子どもがいなければ「父」と呼ばれることはありません。陶工も、作品を作らなければ陶工と呼ばれることはありません。「父」も「陶工」も実は「父と子」あるいは「陶工と粘土」という関係を表す言葉です。子がいなければ父になることはない。そうだとすると、神さまは私たちがいなければ「父」ではなかったということになるのか?
しかし、そうではない。私たち造られた者がいようといなかろうと、神さまが父でいらっしゃることには何ら変わりがありません。それは、このお方がイエスという御子の父でいらっしゃるからです。「主よ、今、あなたは私たちの父。」神さまが私たちにそう呼ばれることをお許しになったというのは、それ自体が神さまの深いへりくだりです。子なる神の永遠の父でいらっしゃるお方が、私たちのような粘土に過ぎない者、造られただけの者にとっても「父」としてご自身を現し、紹介してくださった。だから私たちはこのお方を「父」とお呼びして崇めるのです。
「父よ」と私たちがお呼びして祈ること、それ自体が神さまの限りないへりくだりと愛の生み出した大きな賜物なのです。