2026年5月1日金曜日

2026年5月1日の聖句

5月の聖句:
私たちはこの希望を、魂のための安全で確かな錨として携えているのです。(ヘブライ6:19)

今日の聖句:
必ずあなたは私を畏れ、
懲らしめを受け入れる。(ゼファニヤ3:7)
主よ、誰があなたの名を畏れず
崇めずにおられましょう。
聖なる方は、あなただけです。(黙示録15:4)

私たちは聖なる主の御名を畏れ、主を崇めます。「御名を崇めさせたまえ」と祈り、私たちは今日の日を歩んでいきます。
神さまは命の造り主です。このお方にしか命を創造することはできませんし、そうであるからこそ、すべての命には神の慈しみが込められていると私たちは信じています。私たちは生きているときにも、死にゆくときにも神とキリストのものです。どのようなときにも神さまは私たちを憶えていてくださり、髪の毛一本までも御心に留め、神の許しがなければその一本が地に落ちることすらないのです。聖なる神さまの手が今日も私たちを支えていてくださいます。
私たちが最期を迎えるときにも、キリストはそこにいてくださいます。陰府に降られたキリストは私たちを罪と死と滅びから救うことがおできになります。キリストが復活して道を拓いてくださったからです。
主を畏れ、主を賛美し、主を信頼しましょう。聖なるお方の手の大きさを、その確かさを、今日じっと信じ、祈り、主の御前に歩みましょう。

2026年4月30日木曜日

2026年4月30日の聖句

あなたの目の前には千年も
過ぎ去ればきのうのごとく、
夜の間のひと時のようです。(詩編90:4)
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペトロ3:9)

私たちはただの人間ですから、人間としての視野しか持ち合わせていません。千年などを見渡すことはできないし、これから先のことについては1秒後のことでさえ分かりません。いや、過ぎ去った過去のことでさえもどれだけ分かっていることでしょう。自分が「これだ」と思っている過去は他の人にとっては偽りでしかない、あるいはその逆に他の人が言う「過去」は自分にとっては創作したお話としか思えない、ということだって珍しくないのです。私たちの視野は狭いし、知恵も足りないですし、私たちは甚だ限界ある存在に過ぎないのです。
しかし、主はそうではありません。主の目には千年も一日のようであり、一日は千年のようです。「あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。」このお方がお立てになった計画に従って進む物事に私たちがとやかく言うことは、本当はできないのだと思います。神さまは、ご自身の知恵に従い、ご自分の御力によって、神様ご自身の御心に適う美しい御業を進めてくださっている。私たちはそのことを信じます。

2026年4月29日水曜日

2026年4月29日の聖句

あなたの口を、ものを言えない人のために
捨てられた人の訴えのために開きなさい。(箴言31:8)
しかし、大勢の人がいて、御許に連れて行くことができなかったので、イエスのおられる辺りの屋根を屋根を剥がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろした。(マルコ2:4)

高座教会の信徒宣教者として仕えておられる柳沢美登里さんは、「声なきものの友」の輪という宣教団体に所属して働いておられます。社会の周縁に追いやられ、声を失い、あるいは奪われ、苦しんでいる人の友として生きる。そしてその友たちが輪を作り、連帯して声なきものと共に生きる。そういう思いが込められているのだろう、と思います。
「あなたの口を、ものを言えない人のために、捨てられた人の訴えのために開きなさい。」私たちの口は誰のために開かれているでしょうか。ものを言えない人のため、捨てられた人の訴えのためにこの口を用いているのでしょうか。それとも、社会の多数派や強いものに同調し、弱く周縁に生きるしかない人を無視した声に与してはいないか。
今日の新約は、まさに声なきものの友として生きた四人の人たちの姿が描かれています。彼らは中風の男の友でした。病気もまた一人の人間から声を奪います。自分で主イエスのところへ行くことのできない友のために、四人は連帯して彼を床ごと運びます。イエスがおられる家が満杯で入れないと見るや、屋根に上り、そこに穴を開けて友をつり降ろしました。主イエスは、彼らの信仰をご覧になって中風の人を癒やしてくださいました。「声なきものの友」の輪が一人の人を主イエスの救いに運び入れたのです。
私たちは誰の友として生きましょう。私たちは誰のために声を上げましょう。私たちの声を必要としている人のところへ、主イエスは私たちを遣わしておられるのです。

2026年4月28日火曜日

2026年4月28日の聖句

ああ、主よ、大いなる畏るべき神よ、主を愛し、その戒めを守る者には契約と慈しみを守る方。私たちは罪を犯し、過ちを犯しました。(ダニエル9:4~5)
(イエスの言葉)私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。(ヨハネ6:37)

「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」これが今日私たちに与えられている御言葉です。主イエス・キリストが私たちを招いてくださっています。誰でも、私のもとに来なさい、と。私は誰も追い出さない。キリストは私たちが例えどんな者であったとしても、ほかの誰にも見向きもされず忌み嫌われていたとしても、私たちを招いてくださっています。そのようにしてキリストに招かれた者の群れである教会に生きる私として、私たちは生きることが許されています。
「ああ、主よ、大いなる畏るべき神よ、主を愛し、その戒めを守る者には契約と慈しみを守る方。私たちは罪を犯し、過ちを犯しました。」
主のみもとには、圧倒的な赦しがあります。私たちが自分で自分を赦せず、受け入れることが全く不可能なときにも、キリストの赦しは変わりません。私たちはただただキリストを愛し、圧倒的に私を慈しんでくださるお方に祈りを捧げているのです。
あるキリスト者が、自身の最期を迎えるにあたって息子たちに残した言葉を聞かせて頂きました。主を賛美し、主を愛して生きていこうと、力強くおっしゃっていました。私たちにできるのはそれだけです。圧倒的な愛で私たちを救ってくださったお方を私たちも愛し、このお方のすばらしい恵みをほめたたえます。そのために私たちは生きている。あなたも、圧倒的なキリストの愛で赦された罪人の群れ、教会の一員なのです。

2026年4月27日月曜日

2026年4月27日の聖句

あなたの業があなたの僕らに
輝きがその子らに現れますように。(詩編90:16)
野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(ルカ12:27)

何を着て生活するのか。それは、周りの人に自分をどう見せるかということでもあります。着やすくて便利だからと言って寝間着で出歩くわけにはいきませんし、ジャージで大切なお客様を迎えることもできないでしょう。TPOに合わせて身に着ける衣服を選ぶということは、大切な社会性の一つです。
しかしそれはときに必要な社会性という範囲を超えて、自分をあまりにもよく見せたいという願望と隣り合わせにもなります。主イエスは「野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」とおっしゃいます。神が父としての慈しみをもってあなたを装ってくださる。何を着るかということで思い煩うな、と言われるのです。
私たちは、栄誉をキリストにお返しする生き方をしているでしょうか?自分が輝くことを求めて生きているのか、神の輝きが明らかにされることを求めて生きているのか?私たちの生きる目的は自分が輝くことなのか、神の輝きを礼拝することなのか。今日私たちは、衣服を切っ掛けとして、聖書からそのようなことを問われているのではないでしょうか。

2026年4月26日日曜日

2026年4月26日の聖句

今週の聖句:
誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者、古きは過ぎ去り、新しきものが生じた。(2コリント5:17)

今日の聖句:
神は人間をまっすぐに造ったのに
人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。(コヘレト7:29)
実に、救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨てて、今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。(テトス2:11~12)

今日は教会の暦では「復活節第4主日」と言いますが、この日曜日は「よろこべ」という別名が付けられています。イースターからペンテコステまでの復活節には、それぞれにそのような別名が付けられているそうです。(由来までは調べきることができませんでした。)「よろこべ」というのは、ステキな日曜日の名前です。主イエス・キリストの復活から生まれる喜びを共に喜び、神を賛美する。それが私たちの信仰生活です。
改めて思います。私たちの喜びは、キリストの御復活から生まれるものなのか、あるいは、不敬虔とこの世の欲から生まれるものか。自分の欲を満たすことを密かな喜びとし、「本音」としているのではないか。
今週の聖句は「誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者、古きは過ぎ去り、新しきものが生じた」と言っていますが、キリストにあって新しくされる出来事は、私たちの喜びを新しくしてしまったのではないでしょうか。キリストにある喜びこそを私たちの本音に造りかえてくださった神さまの出来事は、この私のうちに起きている。そのことを、神さまがしてくださったこととして信じたい。そう願います。

2026年4月25日土曜日

2026年4月25日の聖句

神が地のしえたげられた者を救うために
裁きに立たれたとき
地は恐れて、沈黙した。(詩編76:9~10)
まず、福音がすべての民族に宣べ伝えられねばならない。(マルコ13:10)

神は地の虐げられた人を救うために裁きに立ってくださるお方です。これは、神さまがこの世界を何のためにお造りになったのかということを示す言葉です。すなわち、神さまはこの世界を悪や虐げ、搾取や暴力に支配させるためにお造りになったのではない、ということです。神さまは愛と慈しみを実現するためにこの世界をお造りになりました。「極めて良い」と言って祝福するために、神さまは天と地とそこにあるすべてのものをお造りになったのです。
強い者が弱い者を虐げ、富んでいる者が豊かさを独占し、暴力によって相手に言うことを聞かせ、他人のものを搾取することで自分の良くを満たすなら、それは神さまの創造の御心を踏みにじっていると言わねばならないのではないでしょうか。この世界の「現実」は、そうではないのかもしれません。力や豊かさが幅をきかせているかもしれない。しかし、「現実」がそうであるということと、それが神の義に適っているかどうかは別問題です。私たちは何にしたがって生きるのでしょうか。
福音というのは、神の国と神の義が実現することです。神さまの御心がこの地になることが福音です。神の国は近づいたと主イエスは宣言なさいました。この宣言を聞いた私たちには、聞いた者としての責任があるのではないでしょうか。ほんの僅かにでも神の義に従う生き方をさせてくださいと祈ります。

2026年5月1日の聖句

5月の聖句: 私たちはこの希望を、魂のための安全で確かな錨として携えているのです。(ヘブライ6:19) 今日の聖句: 必ずあなたは私を畏れ、 懲らしめを受け入れる。(ゼファニヤ3:7) 主よ、誰があなたの名を畏れず 崇めずにおられましょう。 聖なる...