2026年7月9日木曜日

2026年7月9日の聖句

秘密を啓示する神が天におられます。(ダニエル2:28)
神は彼らに、この秘儀が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘儀とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。(コロサイ1:27)

今日の聖書の御言葉には「秘密」とか「秘儀」とか書かれています。ここでとても興味深いのは、「秘密を啓示する」とか「秘儀が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようと」と書かれていることです。どちらも「啓示する」や「知らせる」とある。つまりこの秘密や秘儀は秘められたままのものではなく、啓き示され、知らされるべきものだと言っている、ということになると思います。
世の中にはおかしな教えを垂れる「教会」が登場することがあります。まるで自分たちだけが神の秘儀を知り、他の人は知らない秘密を知っているかのように振る舞う。
以前はやった「ダビンチ・コード」という映画もそういう類の陰謀論のようなものを背景としていたようですし、私たちの生活に身近にいるところで言えば「エホバの証人」と呼ばれる異端的なグループも、ある一部の統治する者たちこそが神の秘儀を知るという立て付けになっているようです。私は今日の聖書の御言葉を読んで、そのようなものに惑わされてはならない、と感じました。
神さまはご自身の秘密や秘儀を私たちに知らせてくださるお方です。イエス・キリストというお方によって。キリストとその御言葉に目を注げば、私たちが知るべき事は全部明らかになる。それが聖書のメッセージです。神さまのこと、救いのこと、そういう私たちに不可欠な救いのメッセージはすべてキリストと共にある。他の神の言葉は、私たちには必要ない。キリスト集中。それが私たちの信仰です。

2026年7月8日水曜日

2026年7月8日の聖句

主が私の口に授けられたことだけを、私は告げるべきではないでしょうか。(民数記23:12)
(イエスの言葉)あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)

主が私たちに授け、私たちが互いに語り合うべき新しい起きて。それは「互いに愛し合うこと」です。主イエス・キリストは私たちに、ご自身が私たちを愛してくださったように互いに愛し合うように、とお命じになりました。私たちの生きる指針はここにある、と主は言われます。
「互いに愛し合う」というのは、私たちの中では消費され尽くした感がある言葉なのかもしれません。愛することが大事だとか、愛の関係が貴いとか、どこででも聞ける言葉です。誰でも知っているようなことです。そして「きれい事」で済まされてしまう言葉でもあるように思います。
しかし、主イエス・キリストは「私があなた方を愛したように」と言われます。主ご自身が実際に私たちを愛してくださったことをまねして愛し合え、と言われるのです。
主は、私たちのために身をかがめて足を洗ってくださるお方です。主は私たちの責めや侮辱を引き受けてくださいました。主は私たちの裏切りに対して、諦めや呪いの言葉で返すのではなく、私たちを神さまの御許へ連れ帰ってくださいました。同じようにあなたがたも互いに愛し合いなさい、と主は言われます。
主イエスの語る「愛」は絵空事ではなく、ご自身が私たちのために実際に示してくださった愛です。私たちはキリストの愛以外の場所からは出発しない。キリストが私たちにしてくださった愛だけが私たちの道標です。ですから私たちはまず、自分がこれまで見聞きしてきたことから「愛らしきもの」を思ってその成否を考えるのではなく、愛そのものでいらっしゃるキリストに目を向けることが大事なのです。キリストが私にしてくださったことが愛なのであって、他には私たちのよすがはないのです。

2026年7月7日火曜日

2026年7月7日の聖句

わが神、主よ
あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。(ヨナ2:7)
ペトロが、「アイネア、イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。(使徒9:34)

アイネアは体が麻痺して八年前から床に就いていました。ペトロが彼の住むリダの町にやって来て、主イエス・キリストの御名で彼を癒やしたのです。「アイネア、イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」。こうして彼はすぐに起き上がり、町の人々はこのようすを見て主に立ち返りました。
ペトロの宣教は、主イエスがなさっていたことそのままだった、ということなのだと思います。御国の福音を宣言し、人々に教えて主の弟子とし、あるいは病を癒やした。主がしておられたことをペトロもし、それを見て人々は主に立ち返ったのです。私たちにも同じことが託されています。私たちには主イエスがなさり、あるいはペトロがしたような奇跡を起こす力はないかもしれません。しかし出会う人の癒やしのために祈ることやその痛みに寄り添うこと、共に生きることはできます。そういうことを通して、主は御業を起こしてくださいます。
私たちは、話す言葉や手足を使ってする一つひとつのことを通してキリストを証しします。主イエス・キリストは私たちのところへ来てくださり、神の国を宣言した。神の国はキリストの福音が届けられるその場所で始まっている。神さまが私たちを滅びから救うための御業は始まっているし、私たちはそのために神さまに遣わされているのです。今日あなたも、です。

2026年7月6日月曜日

2026年7月6日の聖句

あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。(申命記5:32)
(イエスの言葉)「私に仕えようとする者は、私に従ってきなさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。」(ヨハネ12:26)

「私に仕えようとする者は、私に従ってきなさい」と主イエスは言われます。主イエスさまに従うというのは、主の命じるように生きる、ということです。主が私たちに願っておられるように実際にしてみる。それが、キリストに従うということでしょう。
今日の旧約の御言葉でも「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに、守り行わなければならない」と言われています。主が命じられたとおりにとあります。私たちにとって大事なことは主が何とおっしゃっているのか、ということではないでしょうか。聖書の御言葉が大事なのではないでしょうか。あるいは別の言い方をすれば、聖書が証しするキリストが私たちに何と言っておられるか、ということが大事なことではないでしょうか。
聖書の御言葉こそ、私たちの生命線です。聖書に聞くことからすべてが始まるのです。右にも左にもそれることなく、聖書に。そうやって主に従うことで、私たちはキリストに仕える者として生きるのではないでしょうか。
キリストは、今日も私たちと出会おうとしてくださっています。そのために私たちに御言葉を届けてくださっています。私たちと出会い、「私に従え」とキリストは聖書を通して語りかけてくださっている。この出会いの出来事が日ごとに新しく私たちに起こりますように。

2026年7月5日日曜日

2026年7月5日の聖句

今週の聖句:
あなたがたは恵みと信仰によって救われたのです。あなたがたの力ではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)

今日の聖句:
母の胎にいたときから
あなたはわが神。(詩編22:11)
(パウロのテモテへの手紙)また、あなたの抱いている偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。(2テモテ1:5)

主は私たちがまだ母の胎にいるときから憶えていてくださり、生まれたときにはすでに私たちをご自分のものとしてくださっていました。私たちが「この神を信じよう」と選んだのではなく、神が私たちをご自分の民として選んでくださいました。神さまの選びが先にある。母の胎にいるとき、もう既に!
私たちの基準で「選ぶ」ということを考えると、とてもスケールが小さくなるように思います。これを選んだときに自分にとってどんな得があるか、役に立つか。選んだ意味があるのか。特に今は商品にしてもテレビドラマにしても、どれを選んだらいいのかという情報が溢れています。無駄なことはしたくない、という気持ちも強くなります。
神さまの選びは、私たちの思いをはるかに超えています。まだ母の胎にいるときに、私たちの目で捉えることのできない小さな細胞一つでしかなかったときに、神が既に私をご自分のものと選んでくださった。私の有用性や評判とは関係などよりもずっと先の段階で、神さまが選んで、キリストのものとしてくださっていた。
私たちはこのお方の慈しみの深さを信頼し、このお方に身を委ねるだけです。

2026年7月4日土曜日

2026年7月4日の聖句

その時、私は主の声を聞いた。「誰を遣わそうか。誰が私たちのために行ってくれるだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)
こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。(2コリント5:20)

神さまは今日、問うておられます。「誰を遣わそうか。誰が私たちのために行ってくれるだろうか。」私たちは主の御声を聞き、どうするのでしょう。主に遣わされて、主のために仕えましょうか?
もし今、主に「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応えて今日の一日を献げるのであれば、主は私たちをご自身の使者として、御言葉を託そうとしておられます。「神の和解を受け入れなさい」と。キリストにあって神が下さった和解の福音をこの世界に届けるために、神は私たちの口を通して語ろうとしておられます。私たちの手を通して神の和解の福音をこの世界に起こそうとしておられます。私たちの隣人が神との和解に生きるために、神さまはあなたを必要としておられます。
イザヤも、パウロも、そのために身を献げ、神に仕えました。隣人のために福音を届けました。神は「誰が私たちのために行ってくれるだろうか」と、使者として今日の日を献げる人を求めておられます。あなたは、今日という日をどのように生きますか?

2026年7月3日金曜日

2026年7月3日の聖句

主が語ると、そのよう成り
主が命じると、そのように立った。(詩編33:9)
(イエスは)天を仰いで呻き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになった。(マルコ7:34~35)

この人は耳が聞こえず口の利けない人でした。主イエスのところへ連れてこられた。主は彼の両耳にご自分の指を差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられて、天を仰いで「エッファタ」と言われた。「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになった。」
印象深いのは、主イエスがおっしゃった「エッファタ」という言葉の音が私たちに伝えられていることです。マルコはこの出来事を私たちに伝えるときに、単に「開け」という意味だけを伝えるのではなく、主がおっしゃったお言葉の響きをも伝えました。なぜでしょう。
耳が聞こえず、口も利けない人。この時代のユダヤに手話はあったのでしょうか。調べたことがないので確かなことは分かりませんが、恐らくまだなかったのではないかと思います。そうすると、コミュニケーションの手段は、身振り手振りや接触が主だったでしょう。今日も、わけも分からずに連れてこられたところに主イエスがおられた、ということだったのではないかと思います。彼は、閉ざされた世界に押し込められていた。しかし、主イエスの声が彼の世界を開きました。「エッファタ」。これこそ彼が初めて聞いた言葉です。この人が生まれて初めて聞いた音は主イエスの声です。マルコは、その主イエスの声の響きを私たちに届けたかったのではないかと思うのです。
私たちにも、同じ主イエスの御声が響いています。私たちのために救いの世界を開く御声です。「エッファタ」と、主は今日あなたのためにも語りかけてくださっています。

2026年7月9日の聖句

秘密を啓示する神が天におられます。(ダニエル2:28) 神は彼らに、この秘儀が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘儀とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。(コロサイ1:27) 今日の聖書の御言葉には「秘...