2026年2月5日木曜日

2026年2月5日の聖句

神よ、私を守ってください。
私はあなたを頼みとしているのです。(詩編16:1)
主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3)

今日の新約聖書の御言葉ですが、直前の2節から、次の4節までを含めて改めて読むとこのように書かれています。
「また、私たちがよこしまな悪人たちから逃れられますように。すべての人に信仰があるわけではないからです。しかし、主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。そして、私たちが命じることを、あなたがたが現に行っており、これからも行ってくれるものと、私たちは主にあって確信しています。」
このように読んでみると、私たち日本のキリスト者たちが日々経験している状況がここで考えられていることに気付きます。私たちも「すべての人に信仰があるわけではない」社会の中で生きている。そしてそういう社会の中でキリストに従って生きるのは簡単なことではありません。聖書に教えられたとおりに行うことは、私たちにとってはかなり難しいことです。しかし、主なる神さまは、この社会で困難を抱えて生きる私たちを必ず守ってくださる。なぜなら、主は真実な方だから。主の真実を信じてほしい、と聖書は語りかけています。
「神よ、私を守ってください。私はあなたを頼みとしているのです。」このように祈り、主にお従いしたいと願う私たちを、神さまは守ってくださると私たちは信じています。私たちが主に従うよりも実は先に、主ご自身が私たちの味方になってくださっています。私たちにとって、自分の忍耐力や確かさは当てになりません。しかし、主の真実だけは絶対に変わらないし、私たちを裏切ることもありません。主が真実な愛で私をも愛し抜いてくださった。そのことだけを信じましょう。きっと、主に従いたいという私たちの願いをも、主はかなえてくださるに違いないのです。

2026年2月4日水曜日

2026年2月4日の聖句

主に信頼する者は
水辺に植えられた木のように
流れに向かって根を伸ばす。
干ばつの年が来ても心配せず
絶えることなく実を結ぶ。(エレミヤ17:7~8)
(イエスの言葉)私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私つながっているなら、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネ15:5)

私たちには必ず「干ばつの年」が来ます。どこにも癒やしが見つからず、渇き、求めても満たされないときが。ついつい自分の欲しいものとかしたいことによってそれを満たそうとしてしまいますが、私たちの渇きは主なる神さまに癒やして頂かなくては、満たされることはありません。神は私たちをご自身にかたどって造り、神に向かう存在として創造なさったからです。
私たちはこの方を信頼して良いのです。このお方は必ず私たちにご自身の御顔を向けてくださり、私たちを憐れみ、私たちに命の水をくださるからです。
御言葉こそ、神がくださる命の水です。主はご自分に信頼する者に必ず福音という尽きることのない泉の水を与えてくださいます。私たちはキリストの言葉に癒やされ、満たされ、生きることができる。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私つながっているなら、その人は豊かに実を結ぶ。」主イエス・キリストの愛というすばらしい樹液によって、私たちは今日も命を与えられている。それは、私たちもまたキリストの愛の実りを結ぶ者になるためです。私たちが出会う多くの人々もまた、キリストの福音に満たされる必要がある。そのための愛の実りを、主は私たちを通して必ず結んでくださいます。

2026年2月3日火曜日

2026年2月3日の聖句

貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。
人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。(箴言17:5)
神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。(ヤコブ2:5)

献金は、天国への入場料ではありません。多額の献金をすることが良い信仰者の証し、と聖書は言っていません。却って主イエスさまは貧しくなられました。そして貧しい人のところへ行って、神の国の到来を宣言なさいました。主イエスは僅か二枚のレプトン銅貨を献げたやもめの信仰をご覧になって、褒めてくださったお方です。
もしも私たちの教会がお金持ちを優遇して貧しい人を蔑むとしたら、終わりの日には厳しい神さまの裁きがあるに違いない。「貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。」神が与えてくださったものには、神に与えられたものにふさわしい使い方が求められるのだと思います。
献金は、ただただ、神さまへの「ありがとう」のしるしです。主イエスは私たちのために貧しくなられました。主の貧しさが私たちを豊かにしてくださいました。私たちのための神の愛を、主は届けてくださいました。献金は主への感謝であって、見返りを求める投資ではありません。
不思議なことに、神さまは私たちをご自分のものとして選んでくださいました。「神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」神の国がただただ神からの恵みのプレゼントであり、私たちのお金や力が勝ち取ることのできる商品ではないことが明らかにされるために、主は敢えて劣った者を選んで、ご自分のものとなさったのです。ですから、へりくだって、私たちもまた神を愛し、隣人を愛したいと願います。

2026年2月2日月曜日

2026年2月2日の聖句

イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救済者を起こして、彼らを救われた。(士師記3:9)
ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。(ヘブライ10:35)

士師記は、カナンの地に定住し始めた神の民にまだ王がいなかった時代の歴史を伝えています。
エジプトを出て荒れ野で過ごしていた頃に民の指導をしていたのはモーセでした。カナンの地に入ってその地を獲得したときにはヨシュアという人が指導者でした。モーセもヨシュアも、主なる神さまに仕え、人々を信仰に導くリーダーでした。ところが、問題は次の世代です。「ヨシュアが生きている間はもとより、ヨシュアよりも長く生きた長老たちが生きている間、民は主に仕えた」(士2:7)。ところが、そのような状況は長続きしませんでした。「その世代の者も皆、先祖の列に加えられると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた業も知らない別の世代が起こった。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、多くのバアルに仕えた」(士2:10-11)のです。士師記は信仰的に転がり落ちていく民の姿を伝えています。
神さまから離れ、主を礼拝することを蔑ろにしたとき、民は堕落し、国は荒れ、生活はメチャクチャになり、他国に攻め滅ぼされる。そのような負のスパイラルに陥ります。そんなときに民は主に助けを求めて祈りました。都合の良い祈りです。困った時の神頼みです。しかし、主はその祈りに耳を傾けてくださいました。「イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救済者を起こして、彼らを救われた。」こうして主が起こしてくださった救済者は「士師」と呼ばれ、人々を主のもとへ引き戻した。ところが士師が死ぬと再び民は堕落し、不幸になり、また祈り、主はそれを聞いてくださって・・・ということが繰り返された。それが民の歴史でした。
私たち人間のダメな歴史そのものだと思います。しかしなお主は私たちを見捨てず、憐れんで祈りを聞いてくださっている。だから私たちも生かされている。「ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。」この聖書の御言葉を信じ、主を呼び求めましょう。主の憐れみにすがりましょう。ここに救いがある。こんなにダメな、不信仰な私を救ってくださるのはこのお方以外にはいない。そのことを信じ、主を呼び求めましょう。

2026年2月1日日曜日

2026年2月1日の聖句

2月の聖句:
あなたの神、主があなたとその家に与えられたすべての恵みを、あなたと、あなたの中にいる寄留者と共に楽しみなさい。(申命記26:11)

今週の聖句:
あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:2)

今日の聖句:
お前たちの愛は朝の霧
すぐに消え失せる露のようだ。(ホセア6:4)
(イエスの言葉)私の愛にとどまりなさい。(ヨハネ15:9)

聖書が言うとおりです。「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消え失せる露のようだ。」一言もありません。私の愛、神さまに向かう私の愛は朝の霧が日差しの中ですぐに渇いてしまうように、あっという間になくなってしまう。露が消えるように、私の愛も不確かでしかない。そういう自分の情けなさを思うと悲しいですし、自分には信仰などと言えるものは何もないことを告白せねばなりません。
しかしそうであるからこそ、主イエスさまは言ってくださいます。「私の愛に留まりなさい。」私たちが自分の愛を探しても空しいだけです。見つけられません。これが愛です、私はこんなに愛していますと胸を張って神さまに言うことなんてできない。しかし、キリストが私を愛してくださっていることだけは確かです。キリストの愛は絶対です。私たちは、自分の愛の中に神さまを招くのではありません。キリストの愛に迎え入れられているのです。
自分を見つめて絶望するのは、もう止めましょう。キリストに目を向けましょう。キリストの愛のゆえに望みを抱きましょう。私たちを確かに愛してくださるお方がここにおられるのです。

2026年1月31日土曜日

2026年1月31日の聖句

主よ、あなたの働きは私を喜ばせる。
私はあなたの手の業を喜び歌おう。(詩編92:5)
(足が不自由であった男は)躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、(ペトロとヨハネ)二人と一緒に境内に入って行った。(使徒3:8)

使徒ペトロとヨハネとに足を癒やしてもらったこの男は、金や銀をもらうよりももっと大きな喜びをもらいました。生まれつき不自由だった足がしっかりして、立ち上がることができた!そしてその歩けるようになった足で、この人はペトロとヨハネと共に歩き出し、一緒に神殿の境内に入っていったのです。歩き回り、踊り、神を賛美しながら。
この人に起こったのは、私たちにも起こる主イエスさまとの出会いの出来事です。ペトロやヨハネ、そしてこの2000年間の無数の証人たちの言葉や業といった証しによって、キリストとの出会いの出来事が起こってきました。このお方との出会いが私たちの人生を変えます。金や銀を手にするよりももっと決定的に、根本的に、私たちはキリストによって新しくなる。
「主よ、あなたの働きは私を喜ばせる。私はあなたの手の業を喜び歌おう。」私たちの今日の営みや言葉が、主を賛美するものでありますように。主の御前にあって、主に心を向けて、私たちの存在そのものが神を賛美するものとなりますように。主ご自身が働いてくださって、私をも、そのようなものにならせてくださいますように。

2026年1月30日金曜日

2026年1月30日の聖句

主は民に答えられた。
「私は穀物と新しいぶどう酒
また新しいオリーブ油を送り
あなたがたを満ち足らせる。」(ヨエル書2:19)
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、感謝し、パンを裂き、それを弟子たちに分配するようにと渡され、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。(マルコ6:41~42)

穀物も新しいぶどう酒も、新しいオリーブ油も、すべてを生み出し、私たちを養ってくださるのは主なる神さまです。この世界を造り、命を生み出し、私たちをも造ってくださった方は私たちを今も養い、生かしてくださっています。神さまのご慈愛と深い愛の中で、今日の私たちが保たれていることを信頼し、主なる神さまを賛美しましょう。
主は5000人の大群衆にも、僅か五つのパンと二匹の魚を取り、これを祝福し、分け与えてくださいました。五つのパンと二匹の魚。小さなものです。僅かな食べ物です。私たちの小さな両手でも持てるほどのものです。大群衆という「現実」を前にしたら、それはあまりに非力だし、自分には何もできないし、私たちは途方に暮れてしまいます。厳しい現実は私たちの力の外にあって、手出しすることができない。
しかし、主はその僅かなものを用いて人々を養ってくださいます。この世界を造り、保ち、私たちをも愛してくださっている主は必ず私たちのことも養ってくださるし、私たちの目の前にいる人々のことをも愛し、養ってくださいます。主の力を信じ、主の御業を信頼しましょう。私たちはただ主を待ち望む主の民です。

2026年2月5日の聖句

神よ、私を守ってください。 私はあなたを頼みとしているのです。(詩編16:1) 主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3) 今日の新約聖書の御言葉ですが、直前の2節から、次の4節までを含めて改めて読むとこのように書かれています。 「...