2026年5月8日金曜日

2026年5月8日の聖句

主よ、私たちの父よ、私たちを見捨てないでください。私たちを見放さないでください。(列王記上8:57)
(イエスの言葉)「私は天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)

今日の旧約の御言葉は、私たちの祈りや願いそのものではないでしょうか。「主よ、私たちの父よ、渡した異を見捨てないでください。私たちを見放さないでください。」私たちも同じように祈ります。神が私たちを見捨てず、見放さないでいてくださるように、主の憐れみを求めます。神さまに「父よ」とお呼びして、神さまの慈しみを慕い求めます。それが私たちの祈りなのではないでしょうか。
主イエス・キリストはおっしゃいます。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」そのお方が私たちと世の終わりに至るまでいつも共にいてくださる、と約束してくださいました。天と地の一切の権能、というのはすごい言葉です。この世で起こるすべてのことに対する権威をお持ちだとおっしゃいます。言葉を換えれば、天と地のすべてのものの王だ、ということになるのではないでしょうか。すべての王、まことの支配者でいらっしゃる方が世の終わりまで共にいてくださる。それが、私たちの祈りへの答えです。主は決して私たちを見捨てず、私たちを見放さないでいてくださる。ご自分の権威を持って私たちと共にいてくださる。
だから、今日の日を雄々しく生きていきましょう。キリストを信じ、このお方の力により頼んで、喜んで今日の一日を歩みましょう。

2026年5月7日木曜日

2026年5月7日の聖句

主よ、朝に私の声を聞いてください。
朝が来る度に、あなたに向かって身を整え
待ち望みます。(詩編5:4)
朝早くまだくらいうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

朝が来る度に神さまを呼び求め、神さまの御前で祈る。今朝私たちに与えられている詩編の祈りを最初に捧げた信仰者も、そのように毎日の信仰生活を営んでいました。私たちも、それぞれ自分なりの仕方で朝の祈りを捧げて一日を始めているでしょう。改革者ルターも、朝の祈りの指導をしています。祈りをもって神さまを呼び求めることで私たちの一日が始まる。朝の祈りについて、この詩編が「あなたに向かって身を整え」と言っているところがとても魅力的です。私たちの身を神さまに向かって整える。私たちの生き方を神さまに向けてチューニングしなおす。それが朝の祈りの時間です。私たちは、主を待ち望みます。
そんな私たちの朝の祈りの時間の先頭に、主イエスさまがいらっしゃいます。誰よりも神さまに近く、親しく祈られた方。一人神の御前で祈っておられる主イエスさまのお姿。「朝早くまだくらいうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」このお方のように祈る者になりたい、という憧れを込めてこのお方の姿を仰ぎます。キリストの祈りが、ほんの僅かにでも私の祈りとなりますように。主イエスさまを慕い求める私の祈りを、神さまが聞いてくださいますように。

2026年5月6日水曜日

2026年5月6日の聖句

彼らは泣きながら帰って来る。
私は彼らを慰めながら導き
水の流れに沿って行かせる。
まっすぐな道で、つまずくことはない。
私はイスラエルの父であり
エフライムこそ私の長子だからだ。(エレミヤ31:9)
キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。(ヘブライ5:7)

今日の旧約の御言葉の冒頭のところは、本当に慰め深い言葉です。「彼らは泣きながら帰って来る。私は彼らを慰めながら導き、水の流れに沿って行かせる。」神さまは、ご自分の民が泣き、哀願するとき、それをお見捨てにはならない。泣きながら帰る者と共に歩んでその道を同伴してくださる、と主は言ってくださいます。
無数の代々の信仰者たちがそのような慰めを経験し、主と共に生かされる幸いを味わってきたことでしょう。そしてこのような主の下さる慰めの究極のかたちが、主イエス・キリストというお方に現されたのです。
このお方はただ私たちと同伴し、側にいてくださるというだけではない。ご自身が深く嘆かれるお方です。ご自分の目から涙を流される方です。死を恐れ、神に祈り、嘆願の祈りを神様の御前にお献げになる方。私たちの代表になって深く悲しまれたお方です。
主が私たちを連れ帰ってくださる道は、まっすぐで、つまずくことはないと預言者エレミヤは言っています。キリストご自身がその道になってくださったのです。私たちが神のもとへ帰る道に。私たちのための道に。主の憐れみが私たちの歩みを支えてくださいます。

2026年5月5日火曜日

2026年5月5日の聖句

主が御顔をあなたに向けて
あなたに平和を賜るように。(民数記6:26)
「闇から光が照り出でよ」と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。(2コリント4:6)

この世界に光を創造した神は、私たちの心を照らすことがおできになる方です。私たちを、イエス・キリストという光が照らしてくださる。この光は、私たちが知っている物理現象としての光以上の光です。
主イエス・キリストの光について、今日与えられている新約の御言葉では「イエス・キリストの御顔にある神の栄光」と言っています。主イエスさまのお顔には、神の栄光が輝いている。それは、キリストが十字架にかけられることによって明らかになった栄光です。そして、キリストが復活したことによって輝いた栄光です。私たちはキリストの栄光を仰いで、このお方を賛美します。私たちは神をほめたたえて礼拝するとき、キリストの栄光に照らされて、キリストの御顔に輝く神の栄光の光に包まれているのです。
礼拝では、聖書朗読の前に「照明を求める祈り」を献げます。神が私たちにキリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださるように、私たちは願い求めます。このお方の光に照らされて、私たちは神を仰ぐことができるのです。
私たちは、お互いのために神の光に満ちた祝福を祈りましょう。「主が御顔をあなたに向けて、あなたに平和を賜るように。」祝福と平和を交わす言葉を私たちの挨拶としたい、と願います。主イエス・キリストの恵みと平和が、今日もあなたにありますように。

2026年5月4日月曜日

2026年5月4日の聖句

主をたたえよ。
日々、わたしたちを担い、救われる神を。(詩編68:20)
(イエスの言葉)すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)

今日の御言葉は、偶像とまことの神との違いをはっきりと証言していると思います。偶像は人間が造ったものです。それがどんなにすばらしく見えたとしても、あるいは芸術的な価値がどんなに高かったとしても、所詮は人間が造ったものに過ぎません。偶像はいろいろな形をします。彫像とは限らない。時には「システム」の顔をするかもしれないし、「世間」とか「評判」、あるいは「自己実現」とか「自分が本当にしたいこと」という形をとるかもしれない。しかしいずれにしても、人間が造り、生み出したものである以上、人間が担いで運ばなければ、偶像それ自体には何もすることはできないのです。
ところがまことの神さまはそうではありません。私たちが神を造ったのではなく、神が私たちをお造りになりました。このお方は私たちに担がれなければ何もすることができないお方ではない。却って、私たちを担い、救うことがおできになる方です。私たちが神を担うのではなく、神が私たちを担ってくださいます。
主イエス・キリストは言われます。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」私たちはただの人間に過ぎませんから、疲れ、勢いを失い、想像力も減衰し、弱ってしまう時が必ずあります。キリストは、そんな私たちを招いてくださいます。この方は真の神の子として私たちを休ませてくださる。このお方がわたしたちを担い、救ってくださるのです。私たちは、まことの神でいらっしゃるお方にただただひれ伏すのです。

2026年5月3日日曜日

2026年5月3日の聖句

今週の聖句:
新しい歌を主に歌え。
まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)

今日の聖句:
ギデオンは言った。「もし御目に適いますなら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしをお見せください。」(士師記6:17)
(ニコデモの言葉)「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」(ヨハネ3:2)

今日の二つの聖書の御言葉は、どちらも「しるし」ということに言及しています。神であることのしるしです。ニコデモは主イエスがなさった奇跡をそのしるしだと信じ、イエスのもとへ来ました。
とても正直なことを言うと、私はこういうところを読むと少し困ってしまいます。ニコデモにはそうかもしれないが、私自身にはそのようなしるしが起こっていないし、目の当たりにもしていない、と思ってしまうからです。この「しるし」ということをどう考えたらいいのでしょうか。
実は、ニコデモと主イエスとの対話を見てみると、主イエスご自身がそのことをお考えだったのではないか、と私は思うのです。主イエスはニコデモが「これぞしるし」と思った奇蹟の話を深めることなく、対話が続いていくとこのようにおっしゃいます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(14,15節)。(ここで「荒れ野で蛇を上げたように」と書いてあります。これは民数記21:1~9に出て来る話がもとになっていますので、詳しくはそちらをご覧ください。)これは、主イエスご自身が十字架の上に上げられることを意味する言葉です。主が十字架に上げられることで私たちに永遠の命が与えられる。つまり、主が荒れ野の蛇のように十字架の上に上げられ、そのお姿を仰ぐ私たちが命を得ること、それが神が私たちに下さったしるしだ、と主はおっしゃいます。
私たちは昔イエス様がすごい奇跡をなさったということでもって主イエスを真の神と信じるのではなく、十字架に上げられて私たちに命をくださったという究極のしるしによってそのことを信じている。それがヨハネによる福音書が伝えているメッセージなのだと思います。
キリストの究極のしるしを、信仰の目を開いてしっかりと仰ぎましょう。ここに私たちの命があります。ここに私たちの救いがあります。

2026年5月2日土曜日

2026年5月2日の聖句

私の足取りをあなたの仰せで
確かなものにしてください。
どのような悪にも私を支配させないでください。(詩編119:133)
神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(1ヨハネ2:6)

「あなたの仰せ」、すなわち神さまの御言葉が私たちの足取りを確かにしてくださいます。神の言葉に聞き従うことが、私たちが確かなものとして生きることにほかならない、とこの詩編作者は言っています。
旧約聖書は(本当は新約聖書も同じですが)、とても具体的な信仰生活というものを考えていると思います。私たちが実際の生活で神さまを信じ、従って生きる。例えばそれは十戒の言葉に従う、ということを意味します。主の他の何ものも神とせず、人間が造った物を拝まず、神の御名をみだりに唱えず、安息日を覚えて生活リズムを刻む。そして父と母を敬い、殺さず、姦淫せず、盗まず、偽りの証言をせず、隣人の家を貪らない。どれもこれもとても具体的です。具体的な毎日の生活の中で神を信じ、神さまに従う。そうすることで私たちの足取りは確かになるのだ、と言っています。
そういうことを言われると、すぐに私たちは「自分には無理だ」と、言い訳めいた諦めの言葉を口にしたくなってしまいます。そんな私たちに与えられているのが、今朝の新約の御言葉です。今日の箇所は2:6ですが、少し文脈を遡ってみてみるとこのように書かれています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」聖書は、私たちが罪人であることを私たち以上に知っています。その上で言います。「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」神さまに従う者のために、キリスト御自らが弁護者になってくださいます。だから、聖書は言います。「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。」
これが、今日私たちに与えられた神の言葉なのです。

2026年5月8日の聖句

主よ、私たちの父よ、私たちを見捨てないでください。私たちを見放さないでください。(列王記上8:57) (イエスの言葉)「私は天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18) 今日の旧約の御言葉は、私たちの祈りや願いそのものではないでしょうか。「主よ、私たちの父...