2024年12月13日金曜日

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6)
イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8)

今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事を伝える話の最後の部分です。ある高い山で主イエスのお姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。そして、モーセとエリヤが現れて主イエスと語り合っていた。光り輝く主イエスを見て、弟子たちは恐れたのです。
主イエスの神の子としてのご栄光がこのように輝いていた、ということでしょう。モーセとエリヤは旧約聖書を代表する人物です。旧約聖書が預言する神の子としてのイエスの栄光が輝いている。そういう出来事です。
弟子たちがそのような主イエスのお姿を見て恐れたというのは、当然のことです。イエスが神ご自身でいらっしゃる、そのお姿を垣間見たのです。もしかしたら、私たちが忘れてしまっている恐れなのかもしれません。私たちの愛する主イエスは神ご自身。聖なるお方。光に包まれたお方を私たちは信じ、礼拝している。
しかしこの神の子は、どこか遠いところ、御簾の向こうにいて私たちとは関わりを持たないお方ではありません。「イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。『立ち上がりなさい。恐れることはない。』」主イエスの方から私たちの所に来てくださって、私たちに手を触れてくださる。だからこそ、クリスマスの出来事が起こったのです。
クリスマスはまことの神でいらっしゃるお方が来てくださった日です。神さまが私たちの間に宿ってくださった日です。恐れをもって「恐れるな」と語りかけてくださるお方を礼拝しましょう。

2024年12月12日木曜日

2024年12月11日の聖句

(神は)低い者を高く上げ、嘆く者を引き上げて救う。(ヨブ5:11)
神は強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。(1コリント1:27)

主イエスがお生まれになったとき、側に来たのは羊飼いであり、東方の博士たちでした。羊飼いは当時のユダヤ社会では最底辺にいた人々のようです。貧しく、律法を守ることもできず、町の外で暮らしていた人々。差別された人たち。そして、東方の博士たち。新共同訳は「占星術の学者」と翻訳していました。訳は変わりましたが、まず間違いなく星占いを生業としていた人々と考えられます。現代の占い師とは違い、占いをして国の命運を見極めていた彼らは国の権力者です。昔の日本でいえば陰陽師のような存在に近いと思います。しかし外国では身分が高い者であっても、ユダヤでは占いは忌み嫌われていました。聖書が禁じていたからです。生まれたばかりの主イエスを訪れたのは、カースト最下層の羊飼いであり、ユダヤ社会にとっては受け入れがたい外国の占い師でした。
神は、低い者を高く上げてくださる方です。嘆く者を引き上げてく救ってくださるお方です。羊飼いや東方の博士が最初のクリスマスの訪問客だった。それは、私たちがどんなにこの社会の中で無意味であろうとも、あるいはつまはじきにされるものであろうとも、主イエスは私たちに会いたいと願っていてくださる、ということです。私たちのすべての者のところへキリストが来てくださったということです。
ですから、私たちはキリストにお目にかかるために、何よりも先ずへりくだらなければならないのだと思います。キリストの光に照らされて、何者でもない自分に気付かせて頂く。神の前に立ち得ない罪深い者であることを教えていただく。しかし、そのような私をキリストが招いてくださっている。それが、クリスマスの出来事がもたらす驚きなのです。

2024年12月11日水曜日

2024年12月10日の聖句

正しき者の望みは喜びとなる。(箴言10:28)
主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。(ルカ12:36)

良い言葉です。励まされる言葉です。「正しき者の望みは喜びとなる。」私たちの知っている一番の「正しき者」、それは主イエス・キリストではないでしょうか。正しき人イエス・キリストの望みこそ、私たちの喜び!心の晴れるような言葉です。
だからこそ、私たちは主イエス・キリストが再び私たちの所へ来てくださるのを待ち望みます。「主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」私たちは、私たちのご主人様でいらっしゃるイエス・キリストが帰ってこられるのを待つ僕です。この正しいお方の抱いておられる望みを私たちの喜びとして、今、私たちはキリストをお待ちしています。
今、私たちは待降節、アドベントの季節を過ごしています。「待つ」ことを改めて重んじる季節です。主イエスさまがお生まれになったクリスマスを待つということであり、同時に、再び私たちの所へ来てくださると約束して天に昇って行かれたキリストを待つ、ということでもあります。待降節、それは私たちがキリストを待つ、という信仰を新たにする日々です。
今日も、祈りつつ過ごしましょう。祈りこそ、私たちの一番の「待つ」ということです。信じ、祈り、私たちはキリストをお待ちします。ここに望みがある。キリストこそ、私たちの望みを開く神さまなのです。

2024年12月9日月曜日

2024年12月9日の聖句

あなたのもとに逃れるすべての者が喜びますように。(詩編5:12)
(パウロの手紙)あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです。貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています。(2コリント6:4,10)

パウロは主イエス・キリストの使徒として生き、人間的にはいろいろなものを失いました。ユダヤ人社会での立場や名誉もそうです。キリストに従うことがなければ牢獄に捕らわれることもなかったでしょうし、鞭で打たれることも、難船することもなかったでしょう。パウロはキリストのためにあらゆるものを失いました。そのパウロが言うのです。「(私は)貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています」と。
私たち人間の基準で言えば、パウロは間違いなく貧しいです。しかしそのパウロが実は多くの人を富ませている。もちろん、金持ちになる御利益を得させているという意味ではありません。多くの人がパウロの証言するキリストの福音を信じ、神の前に富む者になっている。
あるいは、パウロは何も持っていない。ところがそのパウロの語る言葉を聞いてキリストと出会った人々はすべてものを所有するようになっている。主イエス・キリストを信じ、神が必要な物をすべて与えてくださっていることを知り、すべてを与えられた王のように自由にふるまうことができる。キリスト者として自由にされた。パウロの語る福音の言葉が自由にしたのです。
「あなたのもとに逃れるすべての者が喜びますように。」ある信仰者がそのように言います。神の御許に逃れる。それは、パウロのように生きるということです。パウロの証言する福音を信じるということです。貧しくても、何も持たなくても、神が私を生かしてくださっていることを知り、それを信じる。そこに私たちの豊かに生きうる道があるのです。

2024年12月7日土曜日

2024年12月7日の聖句

主は(カインに)言われた。「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。」(創世記4:10)
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。(1テモテ1:15)

ブラッド・ダイヤモンドという映画があります。血塗られたダイヤモンド。日本を含む先進国で流通しているダイヤモンドは、実は産出国のたくさんの犠牲の上に採掘され、出回っているという現状を告発する映画です。そういう貴金属に限らず、私たちの生活は知らないところで他人に犠牲を強いているものなのかもしれません。食料にしても、衣類にしても、私たちが安く手に入れることができているのは、もしかしたらどこかの誰かが不当に安い賃金で働いているからなのかもしれません。
「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。」私たちの弟や妹であるべき人々の血が、土の中から叫んでいる。神に向かって叫んでいる。神はその声を決して聞き漏らすことがありません。
私たちは本当に罪深い存在です。生きているだけで他人の犠牲を強いているし、私たちは多くの時間そういうことに対して無関心で無頓着です。一体どうしてそんな私たちが生きていて良いのでしょうか。私たちは、ただキリストにある神の赦しに頼り、神に救って頂く以外に道がないのではないでしょうか。
「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。」これは使徒パウロの言葉です。キリストの救いを信じ、そして自分こそ救われなければ生きられない罪人の先頭にいる、最大の罪人に他ならない。これは、パウロの本当に実感のこもった言葉。そして、私たち自身の言葉です。主よ、憐れんでください。私たちはひたすら、そう祈る。そして、少しでも愛の人として、そして日毎に悔い改める人として生かしてください、と願うものです。

2024年12月6日金曜日

2024年12月6日の聖句

ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたにできないことは何一つありません。(エレミヤ32:17)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

この世界とそこに満ちるすべてのもの、見えるものも見えないものもお造りになったお方には、何でもおできになります。神はどんなことだってすることがおできになる。
神はその全能の力を、私たちを救うために奮ってくださいました。罪と死と悪の力に支配され、押し潰され、自ら罪と悪の虜になって死んでいた私たちを救うために、神はご自身の全能の力を見せてくださったのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
神は、ご自分の独り子をお与えになるという仕方で私たちへの愛を示してくださいました。神は独り子を十字架にかけるということによって、私たちを罪と死と悪の力から解放してくださいました。神には何でもおできになる。私たちを愛し、極みまで愛し抜き、私たちのために独り子をお与えになることさえも神はなさる。ここに神の全能が現されたのです。
主イエス・キリストを見つめましょう。聖書が私たちに証しするキリストのお姿を、何度でも心に刻み、そのお姿を思い起こしましょう。ここに神の御心が見えてきます。神の御力が現れています。私たちへの愛そのものでいらっしゃるキリストをこそ私たちは信じ、私たちを決して滅ぼさない神の情熱的な思いを私たちは喜びとするのです。

2024年12月5日木曜日

2024年12月5日の聖句

真実と平和を愛せよ。(ゼカリヤ8:19)
あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。(フィリピ4:7)

私の心と考えとを、神が守ってくださる。しかも、「あらゆる人知を超えた神の平和」が守ってくださる、と言います。他では決して聞くことのできない福音の宣言ではないでしょうか!
私のうちには、本当にどうしようもないような思いばかりが詰まっています。人にはとてもお見せできないし、自分でも省みたくない。私の心や考えは本当に何の価値もないもの、あっても仕方ないしあるだけ害悪の方が多いものです。ところが驚くことに。そんな私の心や考えを、キリスト・イエスにあって神が守ってくださるのです。
神の平和、それはイエス・キリストによって打ち立てられた神の平和です。主イエス・キリストを和解のささげ物としてくださった。十字架にかけられてながされたこのお方の血によって、神が私たちとの間に平和を打ち立ててくださった。あらゆる人知を超えた神の平和です。私たちには作ることのできない平和を、神ご自身が確かにしてくださいました。この平和の出来事、福音の出来事が、私の心と考えとをキリストにあって守り、そして新しくしてくださるのです。
「真実と平和を愛せよ」と今日の旧約は言います。このような心と考えとを私たちが抱くのは、キリストの平和が私たちの思いを支配してくださるからです。主イエス・キリストを崇め、キリストの愛の中、私たちは生かされているのです。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...