2026年4月12日日曜日

2026年4月12日の聖句

今週の聖句:
神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに生ける希望を与えてくださいました。(1ペトロ1:3)

今日の聖句:
満たされよ、わが魂よ、再び安らぎのうちに。
主がお前に良いことをなしてくださっているのだ。(詩編116:7)
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:26)

主イエスさまが私たちのところへ来てくださって「あなた方に平和があるように」と語りかけてくださる。これは、私たちが毎週礼拝で経験していることそのものです。キリストは私たちのところへ来てくださっています。私たちに平和の言葉を宣言してくださっています。キリストの平和が私たちを満たしています。
「満たされよ、わが魂よ、再び安らぎのうちに。主がお前に良いことをなしてくださっているのだ。」
今日の詩編も本当にすばらしい御言葉です。私たちも、自分の魂に語りかけましょう。「満たされよ」と。主はもうすでに私に良いことをしてくださっている。恵みの言葉を語ってくださっている。私たちはキリストの平和を頂いている。キリストの復活によって確かにされた平和です。キリストが私たちを訪れてくださることによって私たちにもたらされた平和です。私たちがどこにいようとも、主イエス・キリストの平和のうちに、私たちの新しい一週間の日々が始まります。

2026年4月11日土曜日

2026年4月11日の聖句

私の咎が頭を越えるほどになり重荷となって担いきれません。(詩編38:5)
(その犯罪人は)そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ22:42~43)

今日の旧約で「咎」と翻訳されている言葉があります。原語ではアーヴォーンという単語です。これはとても意味が広い言葉です。犯してしまった「罪」、あるいはその「責任」、そして罪の結果生じる「罰」までを含む意味を持っています。その意味では、日本語の「罪」とか「罰」といった言葉とは語感が違います。しかし、私たちの実感としてはよく分かる、と思います。何らかの過ちを犯してしまったとき、その責任に苦しみ、あるいは自分がしでかしてしまったことから生まれた結果に自分も苦しみ、周りの人も苦しめている。自分ではどうやっても解決できなくなってしまう・・・。そのすべてがアーヴォーンです。私たちにも身に覚えがあることではないでしょうか。
「私の咎が頭を越えるほどになり重荷となって担いきれません。」
私のアーヴォーンはもはや頭を越えてしまっている。自分で背負うことがもうできない。それはあまりに重くて私を押し潰してしまいます。
今日の新約は、主イエスが十字架にかけられた時のことを伝えています。両隣に二人の犯罪人が十字架にかけられていました。その内の一人が主に言ったのです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」すると主はこの人に言われました。「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」
自分のしてきたアーヴォーンを負いきることができず、最後は十字架にかかって責任を取らねばならない。いや、それでもその重荷のすべてを負えたことにはならない。この犯罪人も、私たちも、自分の頭を越えるアーヴォーンに押し潰されてしまいます。ところが主はそんな私たちに言ってくださるのです。「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」私たちは、主が私を思い起こしてくださること、私を憐れんでくださることにこそ望みがあります。私は自分の責任を自分で背負いきることすらできない愚か者です。私のアーヴォーンは神に赦して頂くより他ない。キリストの憐れみにおすがりするしかない。主よ、私を思い起こしてください。それが私たちの祈りですし、主はこの祈りに既に応えてくださっているのです。

2026年4月10日金曜日

2026年4月10日の聖句

私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。(創世記28:15)
イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履物も持たせずに遣わしたとき、何か足りないものがありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。(ルカ22:35)

主の日の礼拝の最後の祝福の前に「派遣の言葉」というものがあります。私たちは神さまに呼び集められて礼拝を献げ、最後には再びこの世界へと派遣されていきます。私たちの家庭も、学校も、職場も、病院も、介護施設も、ありとあらゆるところが「神によって遣わされた場所」です。その遣わされた場で、私たちは主に託された務めに仕えます。私たちのしていることは主がお遣わしになったところで、主に委ねられた働きをしているのです。そして主は、私たちを遣わすにあたって私たちに必要なものをすべて備えてくださいます。
イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履物も持たせずに遣わしたとき、何か足りないものがありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。
財布も袋も履物も持たずにというのは、礼拝に行くときの恰好だ、という説があるそうです。魅力的な解釈だと思います。礼拝を献げた私たちは、この世界で生きていく時間にも主を礼拝する。そして礼拝する者として主の御業に仕え、主に委ねられことを遣わされたところでするのです。そのために必要なものは神が備えてくださいます。
「私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。」この約束が今日も私たちを導き、支え、守ります。私たちは主に仕え、隣人を愛して、主に託された一日を生きていくのです。

2026年4月9日木曜日

2026年4月9日の聖句

神の前に言葉を注ぎ出そうと
焦って口を開いたり、心をせかしたりするな。
神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。
言葉を控えよ。(コヘレト5:1)
(イエスの言葉)「あなたがたの父は、あなたがた求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(マタイ6:8)

主イエス・キリストは、父なる神様が私たちの求める前から私たちの必要をご存じだとおっしゃり、そうであるからこそこう祈れといって主の祈りを教えてくださいました。
主は、ここで私たちが祈りにおいて犯す過ちを指摘しておられます。人に見せるため、褒められるための祈り。くどくど長ったらしく祈るけれど、結局は神を信頼していない祈り。そのようなものではなく、神が父としてあなたを知っていてくださり、あなたに配慮してくださっていることを信じて祈る。人に見せるためではなく、ただ神の前で祈る。主はそのような祈りの心をお教えくださいました。本当に、そのように祈る者でありたい、と願います。
今日の旧約の御言葉を読むと、神を畏れることがどんなに大事なことかを教えられます。「神は天におられ、あなたは地上にいる」と言っています。神さまを本当に神さまらしく崇め、自分は神に造られた者としての分をわきまえる。しかも、天におられるお方が私のような者の父として愛してくださっている。祈りは、本当は途方もない営みです。神の大きさと、小さな私に向けてくださっている愛との両方を信じるところで生まれるのです。
神さまは、今日も私たちの祈りを待っていてくださいます。ですから、祈りましょう。何よりも先ず主がお教えくださったとおりに、主の祈りを祈ることから始めましょう。

2026年4月8日水曜日

2026年4月8日の聖句

寡婦、孤児、寄留者
貧しい者を虐げてはならない。(ゼカリヤ書7:10)
そうして、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私がよそ者であったときに宿を貸してくれたからだ。」(マタイ25:34~35)

今私たちが聞いている毎日の御言葉は『日々の聖句』というヘルンフート兄弟団が出している聖書日課に従っています。一年365日、毎日の旧約の御言葉をくじで引き、それに相応しい新約の御言葉が添えられています。昨日の御言葉も今日の御言葉もくじで引かれたわけですが、なんと今日の旧約の御言葉は昨日頂いた御言葉と同じ趣旨のことを言っています。それに合わせた新約ということで、昨日とほぼ同じ箇所です(昨日は34,36節で、今日は34,35節)。
ただ、昨日の旧約は申命記でしたが、今日はゼカリヤ書です。内容は同じ主旨ですが、別々の箇所の御言葉です。つまり、聖書はいろいろなところでこのことを語りかけている、ということになります。「寡婦、孤児、寄留者、貧しい者を虐げてはならない。」聖書が考える社会正義は、弱い人たちを虐げることなく分かち合うことから始まる。それが聖書の一貫した主張なのだと思います。
預言者ゼカリヤは、ユダの国が捕囚から解放された時期の人物です。エルサレムの再建に携わっていたようです。崩壊した国を再建する。そういう状況を考えると「自分のことで精一杯」だったのではないかと思います。しかしそういうときにこの預言者は「寡婦、孤児、寄留者、貧しい者を虐げてはならない」と言いました。貧しい人と共に生きるところから私たちの再生は始まる、と説いたのです。驚くべき言葉です。私たちの社会の状況も日に日に厳しさを増しています。あなたはどう生きるのかと、私たちも主に問われているのではないでしょうか。

2026年4月7日火曜日

2026年4月7日の聖句

(主は)孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。(申命記10:18~19)
そうして、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が裸のときに着せてくれたからだ。」(マタイ25:34,36)

寄留者というのは、文字通り、一時的に滞在している人という意味です。従って、その土地に先祖代々住んでいる人とか、腰を落ち着かせて生活しそれが安定している人というのではありません。移民や難民という意味です。その人たちを愛しなさい、と聖書は私たちに命じます。この一事をもって、私たちには移民や難民を排斥するという選択肢はないということになります。主なる神様ご自身がこれらの人々を愛しておられ、食物や衣服といった生活必需品の配慮をしておられるからです。
現代社会でも、聖書の舞台となった古代の社会でも同じです。移民や難民のような寄留者は、社会を不安定にします。「よそ者」なのですから、先にいた人たちにとっては時に邪魔になるし、これまでの和や秩序を乱す存在です。しかしその人々を神が愛しておられ、そうであるからこそあなた方も彼ら彼女らを愛しなさいというのは、私たちにとってはかなり思い切ったご命令です。
私たちは主が寄留者を愛しておられ、主は私たちが寄留者を愛することを求めておられるという事実によって、知らされます。この世界は私たちだけのためのものではなく、自分たちの生活が安定することを目的としたものではない、ということを。よそ者であったり、時に邪魔になる人が共に生きられるように受け入れ、愛し合うことが、むしろ神さまの目的に合致しているのです。安定よりも、分かち合いを。秩序よりも、愛し合うことを。主は私たちに求めておられます。
ここで言う「寄留者」は、何か抽象的な「寄留者的存在」みたいな話ではなく、文字通りの寄留者のことに違いありません。それは今日本にも増えつつある移民であり、あるいはこの国が排除しようとしているオーバーステイの人々や、社会が犯罪者扱いしている外国人のことです。そして日本がかたくなに受け入れようとしない難民のことです。この人たちを愛しなさい、と主は私たちの愛を試しておられるのです。

2026年4月6日月曜日

2026年4月6日の聖句

主は民をご自分の瞳のように守られる。(申命記32:10)
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38~39)

今日の新約の御言葉は、私の最愛の聖句の一つです。私たちは、移ろいます。心も、生き方も、不確かです。そして信仰も。神さまを信じる思いが揺らいでしまうこともあるし、かつての情熱は消え去って冷めた信仰生活を送るときもあります。祈っても独り言のような気がして空しくなることもあるし、聖書を読んでも他人事のようで全然面白くもなく興味も湧かないということだってあります。私たちは移ろいます。人間ですから。
しかし、神さまは人間ではありません。そうであるからこそ、神さまの愛はどんなときにも決して変わることがないし、取り消されてしまうことはありません。その確かな愛によって私たちはいつ、どんなときにも神さまに掴まれています。
「私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」
私は決して神さまから離れません、とは言っていません。私の信仰の確かさや私の決心の固さが問題なのではない。神さまの側の話をしています。神の愛が私たちを掴んではなさい、誰もそこから私を引き離すことはできない。私たちが信じられるのは、神の愛の確かさだけです。そして、それだけで十分です。
自分自身のことではなく神の愛の確かさ、それだけを信じましょう。そのことにおいて確信をもちましょう。自分から目を離して神さまに私たちの眼を向けましょう。「主は民をご自分の瞳のように守られる。」これは確かな知らせです。

2026年4月12日の聖句

今週の聖句: 神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに生ける希望を与えてくださいました。(1ペトロ1:3) 今日の聖句: 満たされよ、わが魂よ、再び安らぎのうちに。 主がお前に良いことをなしてくださっているのだ。(詩編116:7) 戸にはみな鍵がかけて...