2026年8月29日土曜日

2026年8月29日の聖句

私は苦しむ者、貧しい者。
わが主が顧みてくださるように。(詩編40:18)
(パウロの言葉)私は貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(フィリピ4:12~13)

使徒パウロは本当にこの言葉のとおりの人物で、そうであるからこそ信仰が血肉に宿っていたのだなと思います。あるときは貧しくあるいは豊かに暮らし、満腹することも飢えることも知っていた。有り余ることも乏しいことも、他のありとあらゆる境遇を生き、そしてキリストにより頼んで対処しました。パウロは本当にすごい信仰者だと思います。私は、すぐに「あれが足りない」「これがダメだ」と不満を持ったり、周囲の人や環境のせいにしてしまいがちです。ところがパウロは、主イエス・キリストを信じる信仰によって、自分の境遇を受け止めなおし、神さまに依り頼んでいたのではないでしょうか。
もしも「私は苦しむ者、貧しい者。わが主が顧みてくださるように」という詩編のとおりに、主が顧みてくださるということだけに私たちの思いが向くのなら、それはとても幸いなことです。ルカによる福音書第6章を見ると、主ご自身が「貧しい人々は、幸いである」「今飢えている人は、幸いである」「今泣いている人々は、幸いである」とおっしゃっています。キリストが神の国を来たらせ、キリストが満たし、キリストが笑いを与えてくださるからです。
私たちの生活の一つひとつのことを、豊かさや貧しさ、今日のご飯のことも含めて、そのすべてをキリストに委ねましょう。キリストの下さる神の国を待ち望み、キリストが満たしてくださることを待ち望み、キリストが私にも与えてくださる笑みをこそ求めましょう。キリストこそ私たちのただおひとりの救い主です。

2026年8月28日金曜日

2026年8月28日の聖句

主よ、私に代わって争い、私を贖い
あなたの仰せのとおりに私を生かしてください。(詩編119:154)
(イエスの言葉)「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」その時、女は治った。(マタイ9:22)

今日与えられている二つの御言葉ですが、旧約と新約とが少し矛盾しているように感じられます。旧約のほうでは「主よ、私に代わって争い」と言っています。主が私に代わってくださって、主ご自身が争ってくださいますように、と言っている。ところが新約のほうでは、主イエスが「あなたの信仰があなたを治した」とおっしゃっています。ここでは「あなたの信仰が」ということで、私たちの側の信仰がものを言っているようにも見えます。そうすると、旧約の御言葉とは矛盾しているように感じられます。どういうことなのでしょうか?
主イエスに「娘よ」と呼ばれているこの女性ですが、マタイによる福音書を開いてみると12年間も出血の止まらない病(つまり婦人病と思われますが)、に苦しんできた人でした。マタイが伝えているところによると、彼女は後ろから主イエスに近寄り、その衣にでも触れれば治していただけると信じて手を伸ばした。主イエスはそんな彼女をご覧になって「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した」と言ってくださった。つまり、このお方には私を癒やす力があると信じたところに彼女の信仰があった、ということになると思います。
そうすると、私たちの「信仰」というのは、私たちの信じる力のことではないということではないでしょうか。私たちは自分の信じる力や敬虔な生き方によって自分を救うのではない。私たちの祈りの力強さが私たちを助けるのではない。主イエスこそが私を救ってくださるお方だと信じて、主に頼り切ること。それこそが私たちの信仰です。
そうすると、今日の新約は旧約とぴったりと重なっていることに気付きます。主ご自身が私たちのために、私たちに代わって戦ってくださる。そのお方だけが私を救ってくださるまことの神。私たちはこのお方を信じます。

2026年8月27日木曜日

2026年8月27日の聖句

私の民を良いもので飽かせるーー主の仰せ。(エレミヤ31:14)
私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(フィリピ4:19)

主イエス・キリストは私たちに教えてくださいました。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈れ、と。私たちは自分のご飯のため、自分たちが食っていくために祈っていいし、むしろそういう祈りをするようにと主ご自身がお教えくださったのです。糧のための祈りは決して低俗な祈りではありません。私たちにとっては大事でも神さまから見たらどうでもいいような祈り、ではないのです。
「私の民を良いもので飽かせる」と主は約束してくださいました。必要に事欠き、食べるに困る者のための糧を本当に心配して準備してくださるのは、誰よりも主なる神さまです。思えば、私たちは、自分の糧以外のものはあまり本気で心配しないのかもしれません。ちょっと気になったり、時に大丈夫かなと思ったりはします。しかし、地球のどこかにいる、私たちがまだ会ったことのない人の今日のご飯の心配はあまり心に掛けていないのではないでしょうか。ところが神さまは、ご自分の民すべての者のために良いものを準備し、それによって飽きるほどに豊かに与えよう、と言われるのです。
私たちの家の冷蔵庫でいつの間にか腐ってしまった野菜は、今日食べるものがない人たちのためのものでした。私たちが食べないままに残してしまったおかずは、本当は今飢えている人たちのためのものでした。私たちは、すべての人のために良いものを準備してくださる神さまの手となり、足となりたい。分け合うことで神の愛を少しでも実現したい。キリストは私たちに豊かに与えてくださいました。ご自身の栄光の富に応じて与えてくださいました。その豊かさを映す鏡として生き、また祈りたいのです。「<我ら>の日用の糧を、今日も与えたまえ!」私もそのような者にならせてください、と祈ります。

2026年8月26日水曜日

2026年8月26日の聖句

(主の言葉)彼は私を慕う。
私は彼を助け出そう。(詩編91:14)
(イエスの言葉)私がお願いするのは、彼らを世から取りさることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:15)

使徒パウロがフィリピの信徒への手紙の中でこのようなことを言っています。「私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、この方がはるかに望ましい。しかし、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにはもっと必要です。」世を去りたい、そしてキリストと共にいたい。この思いと、生きてあなたたちのために働く必要があるという二つの事の間で自分は板挟みになっている、とパウロは言います。どちらを選んだらいいのかパウロ自身にも分からないのです。
今日の新約の聖句、主イエスの御言葉を読んで、パウロのこの葛藤を思い出しました。パウロほど信仰に根ざした思いでなくても、私たちにも、世から取り去られてしまいたいと願うことはあるかもしれません。
私たちには世で苦難があります。あまりにも苦しくて、もう十分だ、もうたくさんだ、もう終わりにしたいとしか考えられないことがある。主イエスはそのようなときに私たちを世から取り去ってはくださいません。「もう十分だ」と私が思っても、神さまのタイミングは違っている。しかし、キリストはそんな私たちを悪い者から守ってくださいます。この世にあって、キリストご自身が私を守ってくださる。その約束は確かです。
あなたには神がお与えになったこの世での使命がある。隣人に傾ける愛、あるいはこの地にあって献げるべき祈り。キリストはご自分の使者として、この世へと今日あなたを遣わしておられるのです。大いなる守りの中で!

2026年8月25日火曜日

2026年8月25日の聖句

私はいと高き神に
私のために成し遂げてくださる神に呼びかけます。(詩編57:3)
(イエスの言葉)今までは、あなたがたは私の名によっては名にも願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(ヨハネ16:24)

今日の旧約聖書の詩編第57編には標題が付いていて、そこには「ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき」と書いてあります。サウル王の臣下であったダビデは、王の激しい妬みを買って命を狙われていました。ダビデは王の手から落ち延びて逃亡生活をします。あるとき、ダビデはアドラムという所にある洞穴に隠れて難を逃れました。その後、ダビデは国外へ逃亡し、モアブ王の庇護を求めることになります。状況は極めて悪かった。今朝の詩編はそのようなときの歌として記録されているものです。
この詩編はこのように始まっています。「私を憐れんでください。神よ、私を憐れんでください。私の魂はあなたのもとに逃れました。災いが過ぎ去るまであなたの翼の陰に私は逃れます。」そして今朝の箇所に続きます。「私はいと高き神に、私のために成し遂げてくださる神に呼びかけます。」
ダビデには、神さましか頼るべき存在がありませんでした。そしてこのような逃避行の中、神さまはダビデのために仲間を与えてくださいました。それは、困窮している者、負債のある者、不満を持つ者などおよそ400人でした。「400人」というとたくさんいるようにも聞こえますが、一国の王に狙われている立場としては僅かな味方です。しかし、神さまはこれからの長い逃避行のすべてにおいて、ダビデのために御業を成し遂げてくださいました。
私たちは苦難の中でどのように祈るのでしょうか。主にあって、神を信じ期待して神に呼びかけているでしょうか?主イエスは、主ご自身のお名前で祈れと言ってくださいます。どのようなときにも神は必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。神の子イエスのお名前で祈ることを許されているのですから。信じて、期待して、祈りましょう。祈り続けましょう。

2026年8月24日月曜日

2026年8月24日の聖句

(神の言葉)これから私が新しいことを聞かせよう
あなたの知らない秘められたことを。(イザヤ48:6)
(アテネの人々は)死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。(使徒17:32)

パウロがアテネを訪れて伝道したときのことです。最初、アテネの人々はパウロの言葉に喜んで耳を傾けました。珍しい外国の神の話をしてくれると、興味深くその話を聞いたのです。ところがパウロが主イエスの復活の話をし始めると、状況が突然一変してしまいます。「死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」彼らは誰も復活の言葉に耳を傾けることなく、それどころか嘲笑してどこかに行ってしまいました。アテネの人たちにとっては「死者の復活」などは馬鹿げた与太話に過ぎなかったのです。
しかしそれは、アテネにいたギリシア人だけのことではないでしょう。私たちの社会でだって、死者の復活などは馬鹿げた与太話です。しかしそこにこそ、私たちを救う神の福音はあるのです。
神さまの福音は私たちにはまったく新しい話、私たちの知らなかった話、私たちには予期することのできない話です。だから、私たちの常識からしたら馬鹿げた与太話にしかならないのではないでしょうか。しかし、そこにこそ神の知恵があり、神の力がある。神は私たちを想っても見なかった福音によって救ってくださるのです。

2026年8月23日日曜日

2026年8月23日の聖句

今週の聖句:
傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消すことがない。(イザヤ書42:3)

今日の聖句:
主が彼らに乾いた地を行かせるときも
彼らは渇かなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させた。(イザヤ48:21)
よく言っておく。あなたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マルコ9:41)

「岩から水を流れ出させた」というのは、私たちからしたら全く不可能なことです。乾いた地、荒れ野の岩から水を流れ出させる。私たちには思いもつかないし、私たちにはできないことです。
しかし、主なる神さまはその不可能なことをしてくださいます。私私たちのために想像も付かない御業を行ってくださいます。私たちを渇かせることなく、私たちを生かすために、神が御業を進めてくださる。
主は、私たちに水を与えるために、共に生きる隣人を私たちに与えてくださいました。隣人の愛の手を通して、神は私たちが生きるための水を与えてくださいます。「よく言っておく。あなたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」今日、私たちがこの世界で生きることができるのは、そのようにして私たちのための神の恵みの御業を担ってくれる隣人が与えられているからです。

2026年8月29日の聖句

私は苦しむ者、貧しい者。 わが主が顧みてくださるように。(詩編40:18) (パウロの言葉)私は貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(フ...