2026年4月29日水曜日

2026年4月29日の聖句

あなたの口を、ものを言えない人のために
捨てられた人の訴えのために開きなさい。(箴言31:8)
しかし、大勢の人がいて、御許に連れて行くことができなかったので、イエスのおられる辺りの屋根を屋根を剥がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろした。(マルコ2:4)

高座教会の信徒宣教者として仕えておられる柳沢美登里さんは、「声なきものの友」の輪という宣教団体に所属して働いておられます。社会の周縁に追いやられ、声を失い、あるいは奪われ、苦しんでいる人の友として生きる。そしてその友たちが輪を作り、連帯して声なきものと共に生きる。そういう思いが込められているのだろう、と思います。
「あなたの口を、ものを言えない人のために、捨てられた人の訴えのために開きなさい。」私たちの口は誰のために開かれているでしょうか。ものを言えない人のため、捨てられた人の訴えのためにこの口を用いているのでしょうか。それとも、社会の多数派や強いものに同調し、弱く周縁に生きるしかない人を無視した声に与してはいないか。
今日の新約は、まさに声なきものの友として生きた四人の人たちの姿が描かれています。彼らは中風の男の友でした。病気もまた一人の人間から声を奪います。自分で主イエスのところへ行くことのできない友のために、四人は連帯して彼を床ごと運びます。イエスがおられる家が満杯で入れないと見るや、屋根に上り、そこに穴を開けて友をつり降ろしました。主イエスは、彼らの信仰をご覧になって中風の人を癒やしてくださいました。「声なきものの友」の輪が一人の人を主イエスの救いに運び入れたのです。
私たちは誰の友として生きましょう。私たちは誰のために声を上げましょう。私たちの声を必要としている人のところへ、主イエスは私たちを遣わしておられるのです。

2026年4月28日火曜日

2026年4月28日の聖句

ああ、主よ、大いなる畏るべき神よ、主を愛し、その戒めを守る者には契約と慈しみを守る方。私たちは罪を犯し、過ちを犯しました。(ダニエル9:4~5)
(イエスの言葉)私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。(ヨハネ6:37)

「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」これが今日私たちに与えられている御言葉です。主イエス・キリストが私たちを招いてくださっています。誰でも、私のもとに来なさい、と。私は誰も追い出さない。キリストは私たちが例えどんな者であったとしても、ほかの誰にも見向きもされず忌み嫌われていたとしても、私たちを招いてくださっています。そのようにしてキリストに招かれた者の群れである教会に生きる私として、私たちは生きることが許されています。
「ああ、主よ、大いなる畏るべき神よ、主を愛し、その戒めを守る者には契約と慈しみを守る方。私たちは罪を犯し、過ちを犯しました。」
主のみもとには、圧倒的な赦しがあります。私たちが自分で自分を赦せず、受け入れることが全く不可能なときにも、キリストの赦しは変わりません。私たちはただただキリストを愛し、圧倒的に私を慈しんでくださるお方に祈りを捧げているのです。
あるキリスト者が、自身の最期を迎えるにあたって息子たちに残した言葉を聞かせて頂きました。主を賛美し、主を愛して生きていこうと、力強くおっしゃっていました。私たちにできるのはそれだけです。圧倒的な愛で私たちを救ってくださったお方を私たちも愛し、このお方のすばらしい恵みをほめたたえます。そのために私たちは生きている。あなたも、圧倒的なキリストの愛で赦された罪人の群れ、教会の一員なのです。

2026年4月27日月曜日

2026年4月27日の聖句

あなたの業があなたの僕らに
輝きがその子らに現れますように。(詩編90:16)
野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(ルカ12:27)

何を着て生活するのか。それは、周りの人に自分をどう見せるかということでもあります。着やすくて便利だからと言って寝間着で出歩くわけにはいきませんし、ジャージで大切なお客様を迎えることもできないでしょう。TPOに合わせて身に着ける衣服を選ぶということは、大切な社会性の一つです。
しかしそれはときに必要な社会性という範囲を超えて、自分をあまりにもよく見せたいという願望と隣り合わせにもなります。主イエスは「野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」とおっしゃいます。神が父としての慈しみをもってあなたを装ってくださる。何を着るかということで思い煩うな、と言われるのです。
私たちは、栄誉をキリストにお返しする生き方をしているでしょうか?自分が輝くことを求めて生きているのか、神の輝きが明らかにされることを求めて生きているのか?私たちの生きる目的は自分が輝くことなのか、神の輝きを礼拝することなのか。今日私たちは、衣服を切っ掛けとして、聖書からそのようなことを問われているのではないでしょうか。

2026年4月26日日曜日

2026年4月26日の聖句

今週の聖句:
誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者、古きは過ぎ去り、新しきものが生じた。(2コリント5:17)

今日の聖句:
神は人間をまっすぐに造ったのに
人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。(コヘレト7:29)
実に、救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨てて、今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。(テトス2:11~12)

今日は教会の暦では「復活節第4主日」と言いますが、この日曜日は「よろこべ」という別名が付けられています。イースターからペンテコステまでの復活節には、それぞれにそのような別名が付けられているそうです。(由来までは調べきることができませんでした。)「よろこべ」というのは、ステキな日曜日の名前です。主イエス・キリストの復活から生まれる喜びを共に喜び、神を賛美する。それが私たちの信仰生活です。
改めて思います。私たちの喜びは、キリストの御復活から生まれるものなのか、あるいは、不敬虔とこの世の欲から生まれるものか。自分の欲を満たすことを密かな喜びとし、「本音」としているのではないか。
今週の聖句は「誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者、古きは過ぎ去り、新しきものが生じた」と言っていますが、キリストにあって新しくされる出来事は、私たちの喜びを新しくしてしまったのではないでしょうか。キリストにある喜びこそを私たちの本音に造りかえてくださった神さまの出来事は、この私のうちに起きている。そのことを、神さまがしてくださったこととして信じたい。そう願います。

2026年4月25日土曜日

2026年4月25日の聖句

神が地のしえたげられた者を救うために
裁きに立たれたとき
地は恐れて、沈黙した。(詩編76:9~10)
まず、福音がすべての民族に宣べ伝えられねばならない。(マルコ13:10)

神は地の虐げられた人を救うために裁きに立ってくださるお方です。これは、神さまがこの世界を何のためにお造りになったのかということを示す言葉です。すなわち、神さまはこの世界を悪や虐げ、搾取や暴力に支配させるためにお造りになったのではない、ということです。神さまは愛と慈しみを実現するためにこの世界をお造りになりました。「極めて良い」と言って祝福するために、神さまは天と地とそこにあるすべてのものをお造りになったのです。
強い者が弱い者を虐げ、富んでいる者が豊かさを独占し、暴力によって相手に言うことを聞かせ、他人のものを搾取することで自分の良くを満たすなら、それは神さまの創造の御心を踏みにじっていると言わねばならないのではないでしょうか。この世界の「現実」は、そうではないのかもしれません。力や豊かさが幅をきかせているかもしれない。しかし、「現実」がそうであるということと、それが神の義に適っているかどうかは別問題です。私たちは何にしたがって生きるのでしょうか。
福音というのは、神の国と神の義が実現することです。神さまの御心がこの地になることが福音です。神の国は近づいたと主イエスは宣言なさいました。この宣言を聞いた私たちには、聞いた者としての責任があるのではないでしょうか。ほんの僅かにでも神の義に従う生き方をさせてくださいと祈ります。

2026年4月24日金曜日

2026年4月24日の聖句

新たなる地を耕せ。茨の中に種を蒔くな。(エレミヤ4:3)
(イエスの言葉)「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。」(ルカ9:62)

今日の新約聖書は、ある人が「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください」と言ったのに対する主イエスのお言葉です。「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。」ですから、この場合の「鋤に手をかける」というのは、主イエス・キリストに従って生きること、あるいは信仰者として生きようとすること、と理解することができると思います。
そして続けて「後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と主はおっしゃっています。こちらも文脈から考えると、家族に別れを告げることについて「後ろを振り返る」と言っておられると理解するのが自然な流れです。そうすると、かなり厳しい言葉です。いや、受け入れがたい言葉と言った方がいいかもしれません。あまりに非常識です。キリストに従おうというときに、家族に一言別れを告げることはふさわしい振る舞いではない、と主イエスはおっしゃるのです。何も言わないで突然いなくなってしまったら大問題です。一昔の言い方をすれば「蒸発」でしょうか。あまりにも過激な御言葉ではないでしょうか。
主イエスは、私たちの肉のつながりを相対化なさいます。私たちの常識的な考えからすると、肉のつながり、あるいは血の結束がいちばん強い。家族の絆こそがもっとも優先すべき最優先の価値だと思っています。ところが主イエスはそれを絶対だとはおっしゃらない。かなり過激でにわかに受け入れがたい言葉です。しかし、もしかしたら、これはとても大切な招きではないでしょうか。主イエス・キリストは私たちを、血によらず、生まれによらず、あるいは育ちや豊かさにかかわらず、ご自分のものとしてくださいました。新しい神の家族である教会という共同体の一員にしてくださいました。かつてあなたが受けた洗礼は、実は、あなたを新しい家族の一員に迎える洗礼だったのです。今日一日かけてこの御言葉を深く思い巡らし、主の御前に、私はどういう共同体の一人として生きているのかを考えてみませんか?

2026年4月23日木曜日

2026年4月23日の聖句

天は主の天。
地は主が人の子らに与えられた。(詩編115:16)
それゆえ私は、天と地のすべての家族がその名を源とする御父の前で膝をかがめるのです。(エフェソ3:14~15)

今日私たちに与えられている新約はエフェソの信徒への手紙ですが、この手紙では既に第2章でこのように言っていました。「このキリストによって、私たちは両方の者(異邦人もユダヤ人も)が一つの霊にあって、御父に近づくことができるのです。ですからあなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です」(2:18~19)。私たちは神の家族だ、と言っています。ユダヤ人でも異邦人でも、つまり割礼があってもなくても、あるいはこれまでの生き方や文化や背景がどうであろうとも、どんな人も神の家族として結ばれる。
そのように話ながら、この手紙を書いた使徒パウロは言います。「それゆえ私は、天と地のすべての家族がその名を源とする御父の前で膝をかがめるのです。」私たちに、キリストにあって「家族」という名を与えてくださった神に膝をかがめ、私たちは神を賛美します。神の家族として、父なる神様の御前にあってこのお方を礼拝するのです。
私たち家族の目指すところはただ一つです。「天は主の天。地は主が人の子らに与えられた。」どうか私たちの今日一日がこのようにして神をほめたたえ、神を礼拝することを第一とするものとなりますように。どのような人間にも栄光を帰すことなく、人間を礼賛するのではなく、ただ神にのみ栄光をお返しすることができますように。

2026年4月29日の聖句

あなたの口を、ものを言えない人のために 捨てられた人の訴えのために開きなさい。(箴言31:8) しかし、大勢の人がいて、御許に連れて行くことができなかったので、イエスのおられる辺りの屋根を屋根を剥がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろした。(マルコ2:4) 高...