2025年6月14日土曜日

2025年6月14日の聖句

女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。(創世記3:6)
世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。(1ヨハネ2:17)

蛇が女を唆した言葉は、これです。「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」
「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた」と書いてありました。木の実は美味しそうだし、見た目も麗しく、いかにも賢くなりそうな魅力にあふれていた。見れば見るほど、女が感じていた誘惑は強くなっていったに違いありません。これを食べれば神のようになれる。善悪を知ることができる。そう、神は嘘をついていたのだ。これを食べても死ぬことなんてない。むしろ、神は私がこの実を食べれば善悪を知って賢くなることを知っていて嘘をついたのだ。神は私が賢くなることを妬んでいるのだ。神から解放されなければ、私は自由にはなれない。きっと、彼女はそのようなことを考えたのだと私は思います。
今日の新約には「世も、世の欲も、過ぎ去ります」と書いてあります。女の思いは「世の欲」だということになるのでしょう。他人を出し抜いて自分が賢くなろう、自分の思いに従って善悪を判断しよう。私の賢さでこの世を建て直してやろう。そういう思いは、欲です。神さま抜きだからです。神抜きの賢さは、ただ自分の願望や理想像を押しつけるだけの、甚だ罪深いただの小賢しさです。
「しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります」。私たちは自分の思う「賢さ」を追い求め、それに頼るのか。それとも、神の御心を行うのでしょうか。一度立ち止まって、考え直してみることは意義深いことです。

2025年6月13日金曜日

2025年6月13日の聖句

主にとって不可能なことがあろうか。(創世記18:14)
11人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。(マルコ16:14)

主イエスさまが復活したとき、弟子たちはその知らせを信じませんでした。聖書はそのことを赤裸々に報告しています。
「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行って、このこと(イエスの復活の知らせ)を知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられ、マリアがお姿を見たことを聞いても、信じなかった」(マルコ16:10,11)。
「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」(マルコ16:12,13)。
そして、今日の箇所では主イエスご自身が11人のところに来てくださった。そして、彼らの不信仰とかたくなな心とをおとがめになった、というのです。これはある意味意外なことではないでしょうか。十字架に掛けられた主イエスがお甦りになり、愛する弟子たちと再会を果たした。そこで再会の喜びを分かち合い、お互いの無事を確認する・・・ということではなかったのです。主イエスは彼らの不信仰を見逃さず、これを咎めたのです。
主イエスからご覧になったとき、私たちの不信仰は決して見過ごしたりなあなあにして済ませてよい問題ではない。必ず問題にし、咎め、是正されなければならない大きな問題です。私たちは、私たちに出会ってくださるキリストに信仰で応えるからです。復活して私たちのところへ来てくださるキリストの福音を聴き、信じることで私たちはキリストに応える。だから、信仰が弱く、小さくなってしまうことを主イエスは「どうでも良いような小さいこと」とはお考えにならない。私たちに、ほかの何でもなく信仰を求めておられるのです。
信仰をもって主に向かいましょう。信じましょう。ここに救いがある。ここに私たちのための神の愛がある。そのことを信じて、キリストに目を上げましょう。

2025年6月12日木曜日

2025年6月12日の聖句

あなたがたはあなたがたの神、主に従って歩み、主を畏れ、その戒めを守り、その声に聴き、主に仕え、主に付き従わなければならない。(申命記13:5)
あなたがたはこの世にあって灯火のように輝きます。命の御言葉を固く保つことによってです。(フィリピ2:15~16)

私たちが私たちの神である主の御言葉に聞き、それに従って生きるとき、私たちは「この世にあって灯火のように輝く」。美しい御言葉です。今日の新約聖書の御言葉は、ドイツ語の聖書を『日々の聖句』日本語版の作成者が翻訳をしたものです。「灯火」という言い方がすごく良いな、と思います。聖書協会共同訳では「星のように輝く」と翻訳しています。これもまた美しい翻訳ですが、「灯火」というのもなかなか味わい深い言葉だと思います。星にしても灯火にしても、いずれにしても、強くて明るい輝きというよりも、もっとささやかで、ほのかな輝きです。しかし暗闇の中では確かな輝きであり、見る者に勇気を与える光です。
命の御言葉、主イエス・キリストの福音の言葉を固く保つことで、私たちは世の灯火となる。福音、それは私たちを新しい存在にするキリストの約束です。私たちはキリストを信じ、キリストに従い、新しい人生を生き始めます。「あなたがたはあなたがたの神、主に従って歩み、主を畏れ、その戒めを守り、その声に聴き、主に仕え、主に付き従わなければならない。」そう命じられているとおり、私たちは私たちの主であり師であるキリストに付き従って生きる。そうやって生きることができる者にして頂いている。私たちはそう信じています。
私たちに絡みつく罪の力は強いです。私たちを蝕む悪の力はしつこいです。しかしキリストの力はもっと強く、粘り強い。キリストが私たちを新しく自由な者にしてくださっている。この救いの事実を信じて、新しい命をもって生きていきましょう。

2025年6月11日水曜日

2025年6月11日の聖句

六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。(出エジプト20:9,10)
イエスは人々に言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4)

主なる神さまが私たちの生活に一定のリズムを刻んでくださいました。七日間という一週間の区切りと、その内の六日は働き一日はどのような仕事もしない特別な日とする。神がお定めになった独特のリズムです。
五日でも十日でも良いので、何らかの周期を守るという話ではありません。あるいは、何曜日でも良いから週に一日は休むという話でもない。今の私たちで言えば日曜日という特別な日を覚えて、その日を聖なる日とし、普段の仕事から離れて神の前に出る。それが「安息日」の掟です。
もちろん、私たちが今生きている社会は古代社会よりもずっと複雑ですし、「キリスト者だから日曜日は休みます」と言っても必ずしも通用するわけではありません。さらに言えば、私たちは日曜日でも働いてくださっている方たちのお陰で生活できています。警察も消防も電車も病院も、日曜日でも動いています。それらを使って教会に行くし、働いてくださっている方たちのお陰で私たちの生活の安全が守られています。
それでもなお一週間の中に特別な日があり、その日は神のものだというのは私たちにとっては欠かせない「福音」です。この日が定められていることは、良い知らせです。この日が善を行うべき日であり、命を救うべき日であるからです。何よりも神ご自身が私たちのために安息日にも、真夜中にも働き続けてくださっています。私たちを救うために。この神の愛に促されて、私たちも愛の業に仕えるようにと神に遣わされている。私たちは日曜日のそのことを覚え、礼拝し、新しい心で世界へ派遣される。キリストの後についていくために、私たちは日曜日を大切にします。

2025年6月10日火曜日

2025年6月10日の聖句

主はわが岩、わが城、私を救い出す力。(サムエル下22:2)
(パウロの手紙)主はそばにいて、私を強めてくださいました。それは、私を通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるためです。そして、私は獅子の口から助け出されました。(2テモテ4:17)

使徒パウロという一人の人物を通して、神さまはキリストの福音をたくさんの人々に届けてくださいました。今日の新約の御言葉であるテモテへの手紙二は、パウロが晩年に近くなって書いた手紙と考えられています。若い伝道者テモテへの遺言のような手紙です。神が自分に与えてくださった使命を振り返り、パウロはテモテに語りかけます。「主はそばにいて、私を強めてくださいました。それは、私を通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるためです。そして、私は獅子の口から助け出されました。」
「主が私を強めてくださいました。」パウロにとってはそれだけなのでしょう。主が強めてくださったから、パウロは与えられた使命を果たすことができた。誰であっても、すべての人にあまねく福音が届けられるために、主が私に力を与えてくださった。「主はわが岩、わが城、私を救い出す力。」主なる神さまご自身が私を守り、支えてくださって、私は神と人とに仕えることができた。それがパウロという人なのだと思います。
神さまは私たち一人ひとりに使命を与えてくださっています。私たちはそれぞれが神に与えられた持ち場で神に仕えている。福音の証人として生かされている。だから私たちは、私を遣わしてくださった神に託された使命に生きる。ただそれだけです。神ご自身が私たちの岩となり、城となり、私を救い出してくださる。私たちはテモテと共に神の約束を信じて、神と人とに仕えたいと願います。

2025年6月9日月曜日

2025年6月9日の聖句

正しい人には苦しみが多い。しかし、主はそのすべてから救いだしてくださる。(詩編34:20)
あなたがたが連れて行かれ、引き渡されたとき、何を言おうかと心配してはならない。その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。(マルコ13:11)

今日の新約聖書に記されている主イエスのお言葉は、迫害されているときにどうやって信仰を弁明するのか、という話です。「あなたがたが連れて行かれ、引き渡されたとき」というのはそういう意味です。私たちが今の日本で生活している限りは、とりあえず当面のところ、そういう意味での迫害に遭うことはないと思います。特高警察に捕まることもないし、教会に集まることが犯罪とされるわけでもありません。しかし、そうであるからと言って私たちと無関係の話とは言えないと思います。もっと小さく、命をかけているのではない場面で転んでしまうということが私たちにはいくらでも起こるからです。何気ない隣人との会話の中で、周りの人と調子を合わせてしまうときに、自分に何かしらの言い訳をしながら・・・など、どのようなときであっても、信仰の弁明をせずに済ませてしまう誘惑は私たちに多いのではないでしょうか。
しかし、主イエスは約束してくださいます。「その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」聖霊が私たちに代わって、私たちの口を通して弁明し、キリストの福音をまさに福音として証言してくださる。だから大丈夫、と主イエスはおっしゃいます。私たちに必要なのは、聖霊の御業の邪魔をしないことなのかもしれません。
苦しい目に遭わなければならなくなったとき、信仰の危機に陥ったとき、自分が一体どうなってしまうのかと思うととても不安になります。そんなときに耐えられる強い信仰を自分は持ち合わせていないのではないか。主イエスは、私たちがそういうことを心配するとご存じでいらっしゃるからこそ、聖霊が話してくださると約束しておられるのではないかと思います。私たちは不安になったり心配になったりしてしまう。だからこそ、聖霊が語り出すことに委ねてほしい。主イエスはそうおっしゃっているのではないでしょうか。

2025年6月8日日曜日

2025年6月8日の聖句

今週の聖句:
武力によらず、権力によらず
わが霊によるーー万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6b)

今日の聖句:
主よ、あなたはすべてを生かしておられます。天の軍勢はあなたを礼拝しています。(ネヘミヤ9:6)
祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語り出した。(使徒4:31)

今日はペンテコステ、聖霊降臨の主日です。キリストが十字架に掛けられ、復活し、天に昇り、その後祈る弟子たちの群れに聖霊が降りました。聖霊、それは私たちに堂々と神の言葉、即ち福音の言葉を証言させる神ご自身の力です。私たちも聖霊を頂いて、福音の証言者として頂いています。
「主よ、あなたはすべてを生かしておられます。天の軍勢はあなたを礼拝しています。」まさにこれこそ、福音ではないでしょうか。天の軍勢さえも礼拝するおかた。すべてのものに命を与え、生かし、今日もこの世界を保っていてくださるお方。この神が今日あなたに御顔を向け、あなたを祝福してくださっています。聖霊の力を頂いて私たちはその事実を知ることができるし、聖霊は私たちを単なる傍観者ではなく福音の当事者として巻き込んでしまう。聖霊の火は私たちのところにも及んで、少し表現は悪いかもしれませんが放火犯のように私たちを燃やしていく。あなたにも聖霊の火はもう点いてしまっています。

2025年6月14日の聖句

女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。(創世記3:6) 世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。(1ヨハネ2:17) 蛇が女を唆した言葉は、これです。「いや、決して死ぬことはない。それを...