2023年3月24日金曜日

2023年3月24日の聖句

主の言葉:私が繰り返し語り続けてきたのに、あなたがたは聞き従わなかった。(エレミヤ35:14)
イエスの言葉:幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。(ルカ11:28)

主イエスは私たちの間に神の国をもたらしてくださいました。キリストこそ神の国そのものです。神がここにおられ、神が治める新しい世界が始まっています。キリストは、神の国を神の愛の実りとして見せてくださいました。私たちは神を仰ぎ、神を礼拝し、神の愛の中に生かされていることに気付き、神を愛していきたいと願っています。
「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と主イエスは言われます。ただ聞くだけで終わらせてしまうのではなく、神の言葉を聞いてこれに従うようにと主イエスは言われるのです。なぜなら、主イエスが語りかける御言葉に神の国が始まっているからです。神の愛の国がキリストの言葉の内にもう始まっているから。だからここに生きよ、と主は言われます。
「私が繰り返し語り続けてきたのに、あなたがたは聞き従わなかった。」これは、預言者エレミヤを通して告げられた神様の激しい悲しみの言葉です。なぜ、あなたたちは私に聞き従おうとしないのか、と主は言われます。もう既に、ここに始まっている神の国になぜ生きないのか。主はそのように、悲痛な叫びを上げておられます。
それでは、主なる神様が聞き従えとおっしゃる「言葉」とはどのような言葉でしょうか。預言者エレミヤは、例えばこのように言います。「彼らは姦淫し、偽りの中を歩み、悪をなす者の手を強め、誰も自分の悪から立ち帰らない。(23:14)」ここで言う「姦淫」は、恐らく偶像礼拝のことです。偶像礼拝とは、私たちの欲望を神とすることです。欲望を神としたときに悪が大手を振るい始める。そうすると、孤児や寡婦や在留外国人といった弱者が軽んじられ、強い者におもねり、不正が横行する。そのような悪の根は、まことの神を神としないことです。つまり、私たちがどう生き、またどういう社会を形成するかというのは、私たちがどのように神を畏れ、うやまい、礼拝するかということと一つのことです。だからこそ、神様はわたしの言葉を聞き従えと繰り返しおっしゃるのです。そうでないと、私たちも私たちの社会も壊れてしまうから。
キリストは、私たちの間に神の国をもうすでに始めてくださいました。今日の御言葉はとても厳しい響きを持ちます。しかしそれは、神の国がもう始まっている、神の愛の支配がもうすでにここにあることの裏返しだと思います。キリストは私たちをたった一人でも失うことなく神の国に生かそうと、私たちに御言葉を語り続けてくださっているのです。

2023年3月23日木曜日

2023年3月23日の聖句

大海のどよめき、波のどよめき、そして諸国の民の騒ぎを鎮める方。(詩編65:8)
ザカリアの言葉:イスラエルの神は、私たちを敵の手から救われることを誓われたので、私たちは恐れなく、生涯主に仕えることができる。(ルカ1:73~75)

今日の新約聖書の御言葉は、祭司ザカリアの言葉です。後に「洗礼者」と呼ばれる息子ヨハネが誕生したときに口からあふれた賛美です。ここでザカリアは神の救いを「私たちを敵の手から救われる」と言っています。神様は私たちを敵の手から救ってくださる。
それではこの敵というのは一体誰のことなのか。この時代のことだからローマだとか、ヘロデだとか、そういうものを考えているのでしょうか。どうも、ザカリアの言葉を読んでいるとそういう具体的な人や国家ということが考えられているのではないような気がします。むしろ、私たちを束縛する悪の力や死の力、そういったものが考えられているのではないか、と思います。
神は、私たちを敵の手から救いだしてくださいます。もしもその敵が外国や独裁者だとしたら、その救いは戦争やクーデターによるのかもしれない。ところが神様はもっと根本的な敵から私たちを救ってくださる。悪から、死からの救い。それは戦争によって、武器によって、クーデターによっては成し遂げられない救いです。その救いを、ザカリアは77節のところで「罪の赦しによる救い」と言っています。罪の赦しによらなければ、私たちが悪から解放され、死から自由になることはできないのです。
「大海のどよめき、波のどよめき、そして諸国の民の騒ぎを鎮める方。」ここに登場する海は、豊穣の海というイメージを持つ、命を育む海ではありません。大海のどよめき、波のどよめき。それが諸国の民の騒ぎの譬えになっている。この諸国の民の騒ぎは、恐らく戦争の騒ぎ、騒乱です。大海や波は、ここでは命を飲み尽くす荒々しい死の象徴です。しかし、神はそのような騒ぎを鎮めることがお出来になる方。罪の赦しによって、私たちを救ってくださるのです。
私たち自身の心も騒ぎ立ちます。神様はそれをも鎮めてくださいます。私たちに罪の赦しによるまったき平和を与え、私たちに神の前での静けさを与えてくださるのです。

2023年3月22日水曜日

2023年3月22日の聖句

私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。(エゼキエル34:16)
羊飼いは家に帰り、友だちや近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言うであろう。(ルカ15:6)

今日の新約聖書の主イエスの御言葉は、100匹の羊を持つ羊飼いがいて、その内の一匹が失われたら残りの99匹を野に残して、いなくなった一匹を探しに行くだろう、というたとえ話の最後の場面です。
いい話だなと思いながらも、実際的に考えるとちょっとつまずく話でもあります。野に残された99匹はどうなってしまうのか?子ども向けの聖書絵本とか紙芝居とかを見ると、羊飼いは何人かいて残りの99匹は仲間に託して一匹を探しに行くような絵が描かれているものがありました。確かにそういう話だと思えば安心できます。ところが、主イエスご自身はそのようなことをひと言もおっしゃっていません。主イエスはただ「99匹を荒れ野に残して」と言っただけなのです。むしろ、私たちに「え?」と思わせることがこの話の狙いなのではないかとすら思います。
聖書は失われたものを情熱的に捜し出す神様のお姿を描き続けています。創世記の最初の話でも、主なる神様はエデンで蛇に唆されて神に食べるなと命じられた実を食べてしまった二人を「どこにいるのか」と言って探しておられました。今日の旧約でも「私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける」と言われています。神様が失われた者を、つまりアダムやエバを探しているのは、叱責し、断罪するためではありません。散らされた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、病めるものを力づけるためです。
100匹の羊のたとえ話は、よく読んでみると、99匹を荒れ野に残したということよりももっと異常なことが書かれています。「羊飼いは家に帰り、友だちや近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」ユダヤ人にとっての羊はペットではなく家畜であり、財産です。恐らく普通の羊飼いはたった一匹見失っても諦めていたと思います。惜しいでしょうが、家畜の一匹がいなくなっても生活に支障はないからです。むしろ99匹の無事の方が大事です。しかし主イエスという羊飼いはそうではない。たった一匹が大事だし、見つかったら嬉しいのです。この譬えで本当に以上なのは見つけたときの羊飼いの喜びようです。明らかに喜びすぎです。しかし、それだけ一匹が宝物なのです。
神様は、ご自身の宝である私たちを探し、抱き、癒やし、包んでくださるお方です。私たちへの神の情熱が、私に命を与えるのです。

2023年3月21日火曜日

2023年3月21日の聖句

人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。(申命記8:3)
主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。(ヨハネ6:68)

「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」この言葉は今日の旧約聖書の言葉ですが、それだけではなく新約聖書では主イエスさまの口から語られる言葉でもあります。私たちの日ごとのパンのために祈れとおっしゃった方は、同時に、私たちはパンだけで生きるのではない、と言われるのです。
ご飯は毎日食べないとお腹がすいて、飢えてしまいます。一日だって食べないとお腹がすいてお腹がすいて、いても立ってもいられなくなってしまいます。やがて餓死します。ところが、主の口から出る言葉、神の言葉はどうでしょうか。本当は、主の言葉を聞かなければ私たちの魂は飢えているはずです。霊魂の飢餓、霊性の危機に陥っている筈です。しかし、私たちは魂の飢えをなかなか自覚できません。お腹がすくように苦しくなり、すぐに自覚して対処できない。しかしそれだけに、私たちの魂の飢餓の深刻なことを主イエスは深くご存じなのではないでしょうか。
「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」この言葉は、旧約聖書では、神がモーセに導かれて荒れ野に出てきた民のためにマナというパンを与えて食べさせたという話の中で出てきます。彼らにマナをお与えになったのは「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ということを知らせるためであった、というのです。神様は私たちにパンと御言葉と、その両方が必要なことをよくご存じです。ですから私たちも、毎日のご飯を求めるのと同じ真剣さを持って神の言葉を求めましょう。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」神の言葉は私たちにとっては命の言葉、命を与える言葉だからです。私たちを生かす命そのものである言葉に今日も生かされて、生きていきましょう。

2023年3月20日月曜日

2023年3月20日の聖句

さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。(イザヤ2:5)
イエスの言葉:私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12)

私は世の光である、と主イエスは言われます。世の光ということは、主イエスはご自分お一人が光り輝いているとおっしゃっているのではなくて、ご自身のその光で世に生きる私たちを照らしてくださるということでしう。私たちはキリストの放つ光に照らされている。それが今日私たちが聞く福音です。
今日の旧約の御言葉はイザヤ書第2章の言葉です。ぜひお手元の聖書をひらいて、1節から5節までをお読みいただければと思います。とても印象深い言葉です。2節で「終わりの日に、主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」と言っていますが、終わりの日、すなわち神が起こしてくださる救いの日について預言者イザヤが見たの幻が書かれています。主の家の山、救いの山が立ち、そこに多くの民がやってくる。そこで起こる救いの出来事は「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない」と言っているとおり、平和と和解の福音として告げられています。そして、今日の御言葉に続きます。「さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。」
預言者イザヤは戦いによって痛めつけられ、疲弊し、生きる気力を失った人々を目の当たりにしていたのでしょう。たくさんの人々が暗闇の中を生きていました。しかし、主の光の中に私たちは生かされている。神が私たちを必ず救ってくださる。そのことを信じ、そのことによって希望を抱いていました。私たちも同じです。私たちの世界の現実がどんなに平和から遠くても、和解が不可能に思えても、必ず神はご自分の光で私たちを照らしてくださる。私たちは主の光の中に今生かされている。私たちはそのことを信じることができます。
主イエス・キリストご自身が、私たちの光として私たちのところへ来てくださったからです。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」キリストの命の光に私たちも照らされている。十字架にかけられたキリストを見上げ、キリストの放つ光の中、私たちもこのお方に望みを今日の日を置いて歩んでいきましょう。

2023年3月19日日曜日

2023年3月19日の聖句

今週の聖句:
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)

今日の聖句:
主のように聖なる方はなく、あなたに並ぶ者はいません。(サムエル上2:2)
召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。(1ペトロ1:15)

聖書には謎に満ちた言葉がいくつもありますが、その中でも、今日出てきている「聖」という言葉が、もっとも謎であるのではないかと思います。これは、まだこなれた日本語になっていないからよく分からない、というわけではないようです。旧約聖書が書かれたヘブル語でも、「聖」という言葉は日常の言葉から派生したものではない。特別な用例しかないのだそうです。聖ということについては生活の延長からは分からない。聖書にい聞く以外に知りようがないのです。
「主のように聖なる方はなく、あなたに並ぶ者はいません」と言っています。主こそが聖なる方。聖、それは主なる神様の御性質をあらわす言葉です。モーセはミデヤンの地で燃える柴の間から語りかける主なる神様と出会ったとき、「こちらに近づいてはならない。履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である」と言われました。預言者イザヤは高く上げられた玉座に主が座っておられるのを見ました。あまりの光景でした。ただ彼は天上で「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と声が響いているのを聞くことしかできず、聖なる神の御前に恐れました。聖なる方、それはただ神様だけです。
そして、「聖」は、神のものとされた者をもあらわします。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」神を信じる者は神のものとされる。だからこそ、神のものとしてふさわしく生きよ、と言うのです。
私たちは神のものです。聖なるお方のものです。私たちは聖を自分のものとすることはできないし、逆に放棄することも許されていません。神と出会い、この後は神のものとして生きるように召し出されている。聖なる者として生きる。それが私たちの新しい命の意味なのです。

2023年3月18日土曜日

2023年3月18日の聖句

すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。
善を行う者はいない。一人もいない。(詩編14:3)
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。(マタイ7:14)

「狭い門から入れ」と主イエスはお命じになります。狭い門。私たちは普通この言葉を、例えば東京大学に入学するとか、司法試験に合格するとか、そういう意味で使います。この門を通ることのできる人はごくわずかしかいない。尋常ではない才能や努力によらなければ通過することができない。だから頑張らなければならない。主イエスも、そういう意味でおっしゃったのでしょうか。
「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」
確かにこの門を見出す人はわずかだ、と主はおっしゃっています。この門は狭く、その道も細い。これを見出す人は少ない。だからそれを見出すように普段から頑張れ、もっと努力しろ。そういうことなのか。
主イエスは、そうはおっしゃっていないと思います。確かにこの門は狭いし、その道は細い。それを見出す人は少ない。というよりも、自分の努力や頑張りでそれを見つけよう、その門を通ろうと思ってもそれは不可能だ、ということではないでしょうか。しかし主イエスはなんとしても私たちにその門を通ってほしいと願っていてくださいます。だからこそ、私たちのところにまで来てくださった。私たちがこの門を通るために。なぜなら、この門はいのちの門に他ならない。私たちがこの門を通って命を得ることを主は御心としていてくださいます。
「すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。善を行う者はいない。一人もいない。」主イエスはいのちの門を見出すことのない私たちの現実を私たち以上にご存じです。だから、ご自分が道になって私たちをいのちの門へと導いてくださいます。ここに命がある、私を通って行け、と主イエスは招いていてくださいます。
私たちの努力によって、この門を通るのではない。そうではなくて、主が招いていてくださる。主がこの門を開いていてくださる。ここに命に至る道があると呼びかけていてくださる。ですから、今こそ主イエスさまの呼び声に応じて、この門から入りましょう。ここに命があります。

2023年3月24日の聖句

主の言葉:私が繰り返し語り続けてきたのに、あなたがたは聞き従わなかった。(エレミヤ35:14) イエスの言葉:幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。(ルカ11:28) 主イエスは私たちの間に神の国をもたらしてくださいました。キリストこそ神の国そのものです。神がここにおられ...