2026年10月20日火曜日

2026年10月20日の聖句

彼らは金の神々を造りました。
どうか彼らの罪をお赦しください。(出エジプト記32:31~32)
(パウロの言葉)道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう。(使徒17:23)

偶像の特徴は、いろいろな顔や姿を持っていることです。単に「像だからいろいろな形がある」というだけではありません。偶像というものの持っている、何か本質的なことがそこにはあるのだと思います。
エジプトから脱出したヘブライ人たち。モーセに導かれてシナイ山にたどり着きました。モーセは神に仕えるためにその山に登った。しかしなかなか降りてこない。それで、彼らは自分たちの持っていた貴金属を寄せ集めて金の子牛の像を造ってそれを拝みました。「彼らは金の神々を造りました。」
金だった、というところにこの時のヘブライ人たちの思いが表れているのだと思います。それは富や豊かさの象徴かもしれません。彼らはこれまで奴隷でしたから。あるいは権威や高貴さを欲したということかも知れない。力の誇示、いかにも安心できそうな権力の現れだったのかもしれません。人間の欲望が偶像の神を造るし、その欲がいろいろな顔を神々に押しつける。ですので、問題は「像」ではなく、私たち人間の貪欲です。私たちの貪欲がいろいろな顔や形を押しつけて、像が生まれるのです。
しかしこのような偶像でさえも、もしかしたらそれは私たちが神を求める者であるということの欠片なのかもしれません。私たちは実は「知られざる神」をいつも求めていて、しかしそれをどう求めて良いか分からなくて、結局は自分たちの欲望を神にしてしまっている、ということであるのかもしれません。
私たちが神を知るには、ただただ、神様ご自身が私たちのところに来てくださるのを待ち望むより他ない。そして、イエス・キリストという方において、神さまは実際に私たちのところへ来てくださったのです。私たちが思ってもみなかったお方として。私たちの想像を超えたすばらしいお方として。十字架にかかって私たちの貪欲を裁き、赦し、癒やしてくださるお方として、キリストは私たちのところへ来てくださったのです。

2026年10月19日月曜日

2026年10月19日の聖句

祭司の唇は知識を守り
人々は彼の口から律法を求める。
彼こそ万軍の主の使者だからである。(マラキ2:7)
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。(2テモテ4:2)

神さまは私たちをこの世界の祭司としてくださいました。祭司は祈り、礼拝し、御言葉を証しする者です。「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から律法を求める。彼こそ万軍の主の使者だからである。」神さまはあなたをご自分の使者として、この世界へとお遣わしになっているのです。
「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から律法を求める」と書いてあります。神さまは、私たちの口を通してこの世界へご自分の言葉、聖書の御言葉を広めようとしておられます。私たちが御言葉を証言し、あるいはそこに実際に生きることで、この世界に福音が広められていくのです。
「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。」時が良くても悪くても、と書いてあります。しかし実際には、時が良いように見えることはほとんど無いような気がします。私たちの人間としての判断からすれば、あまりよくないように見える時ばかりではないでしょうか。今は伝道するのにあまり良い時期ではないな・・・という材料はいくらでも見つかります。
しかしどうであるからこそ、この世界には本当に福音が必要なのでしょう。本当はこの世界はキリストを求めている。殆ど誰もそのことに気付いていないけれど。この世界のための主イエス・キリストの恵みの言葉を、神さまは私たちに託しておられるのです。

2026年10月18日日曜日

2026年10月18日の聖句

今週の聖句:
何が善で主は何を求めておられるか。
公正と慈しみを愛し行って、謙遜に神と共に歩むことである。(ミカ書6:8)

今日の聖句:
この場所に私は平和を与えるーー万軍の主の仰せ。(ハガイ2:9)
(イエスの言葉)「こう書いてあるではないか。
『私の家は、すべての民の
祈りの家と呼ばれる。』」(マルコ11:17)

教会が、神の家、まことに祈りの家であること、しかもすべての民の祈りの家であること。それが神が私たちにお与えになる平和です。私たちの教会も、神はご自身の家としてくださり、祈りの家としてくださっています。それが私たちの群れのアイデンティティです。キリストがそうしてくださったとおりに、私たちはこの家をすべての人のための祈りの家として主に献げていきましょう。
誰でも、どんな人でもここで祈りを捧げることができる。そして、ここに来て、自分のための祈りを求めることができる。私たちは互いのために祈ります。人生の課題を負っている人のために祈ります。喜びの時にも、困ったときにも、悲しいときにも祈ります。そして、誰にとっても人生で一番大事なことである祈りのために、私たちは私たちの教会を神に献げます。
教会は私たちが好きなことをするための場所ではありません。私たちは趣味で集まっているわけではない。祈りの家の一員として、神さまが私たちを招いてくださったのです。
あなたもキリストに仕える祭司として、祈りの働きに召されています。この世界のために、あなた自身のために、神が尊い祈りの人としてあなたを招いておられるのです。

2026年10月17日の聖句

公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待してはならない。(エレミヤ22:3)
互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。(ガラテヤ6:2)

公正と正義は、聖書が証言する平和の心です。具体的には、ここで預言者エレミヤが言っているとおり、寄留者、孤児、寡婦といった人々を抑圧しないこと、虐待しないことです。あなたたちはこれらの人々から搾取している。預言者はそう言います。その権利を踏みにじって、この人たちのものであるはずの権利を奪い取っている。聖書が求める公正と正義は、社会の中で一番困っている人を基準に構築されています。
その公正と正義について、今日の新約では「互いに重荷を担いなさい」と言っています。重荷を担うというのは言い得て妙な表現だと思います。困っている人は重荷を負っている。私よりもたくさんの、そしてとても重いものを背負っている。この御言葉を読んでハッとさせられました。
他の人の背負っているものの重さはなかなか分かりません。想像力が求められます。そして、ただ思うだけではなく実際にそれを一緒に担う愛や、声をかけ手を伸ばす優しさと勇気が必要です。それは、主イエスさまが私たちに見せてくださった心です。主イエスは一番弱っている人や困っている人を愛してくださいました。
今日の御言葉は私たちに「キリストのように生きてほしい」と言っているように思います。あなた自身がキリストに愛されているのだからそうできるよ、と神さまは私たちに語りかけてくださっているのではないでしょうか。

2026年10月16日金曜日

2026年10月16日の聖句

救いは主を畏れる者に近く
栄光は私たちの地に住む。
慈しみとまことは出会い
義と平和が口づけする。(詩編85:10~11)
光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にある。(エフェソ5:9)

今日の旧約にも出てきますが、旧約聖書が書かれたヘブライ語にはシャロームという言葉があります。日本語では、通常は平和とか平安とか、そのように翻訳されます。深い含蓄に満ちた、すばらしい言葉です。今日の御言葉は私たちにシャロームのすばらしいビジョンを描いています。
「救いは主を畏れる者に近く、栄光は私たちの地に住む。慈しみとまことは出会い、義と平和が口づけする。」慈しみとまことが出会う。慈しみだけなら、もしかしたら「なあなあ」で済ませてしまうこともあるかもしれません。まことだけなら、もしかしたら冷たすぎてしまうこともあるかもしれません。しかし神のシャロームにおいては、慈しみとまことが出会います。両者が共にある。慈しみに満ちたまことであり、まことを貫いた慈しみです。そしてそのシャロームは正義と口づけするシャロームです。神さまの正義、それは弱い者を犠牲にしません。声なき者を見て見ぬ振りしません。一部の人にとってだけ都合の好い正義ではなく、誰かをのけ者にして得られる平和ではない。神の前では義と平和が口づけをする。
このシャロームは、主イエス・キリストが体現したものです。だからこそ、キリストにおいて救いは私たちに近くなった。主イエスが私たちのところへ来てくださったから。このお方こそ私たちの平和、私たちの平安。このお方こそ私たちの救い。私たちはキリストをほめたたえます。私たちはキリストの光の内に、今日の歩みへ送り出されています。

2026年10月15日木曜日

2026年10月15日の聖句

主は、ご自分に希望を置く者に
ご自分を探し求める魂に恵み深い。(哀歌3:25)
見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。(黙示録3:20)

今日の新約の御言葉の後半は、少し変わった表現をしていると思います。「もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」普通は、「もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をするであろう」で終わりだと思います。主イエスは、ご自分のノックの音を聞いて扉を開く者と一緒に食事をしてくださる。そこで話が完結していても差し支えない。ところが続きがあります。「彼もまた私と共に食事をするであろう」。彼も主イエスと食事をする。主イエスが彼と一緒に食事をなさるということを裏返せば、彼は主イエスと一緒に食事をする、ということです。どうして、同じ内容を繰り返しているのでしょうか。「主イエスが・・・」だけで完結してもよさそうなものなのに。
主は、私たちが主と共に食事をする、という私たちの側の主体性を大事になさったのではないかと思います。主が来てくださって、主が私と一緒に食事をしてくださった、と受け身でいるだけではない。私が主をお迎えし、私が主と共に食卓に着き、私が主と共に食事を頂く。私たちの側でも積極的に主を受け入れて、主との食事を喜ぶ、という姿勢を大事になさったのではないかと思います。
今日の旧約には「主は、ご自分に希望を置く者に、ご自分を探し求める魂に恵み深い」と書かれています。私の希望を主におく。私の魂は主を捜し求める。この積極性です。私たちの信仰は「棚からぼた餅」式のものではないのです。
今日、主はあなたの戸口に立って叩いておられます。あなたがこの戸を開けることを待っておられます。主はあなたの食卓に共につこうとしておられます。そこにあなたが迎え入れてくれることを、主は待っておられます。主はあなたを訪ね、あなたと出会おうとされているのです。

2026年10月14日水曜日

2026年10月14日の聖句

光は正しき人に
喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。(詩編97:11)
宴会を催すときには、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。(ルカ14:13~14)

私たちが日ごとの祈りのために用いている「日々の聖句」では、上に書いてあるとおり今日の旧約の御言葉にこの新約の御言葉を合わせて提示しています。御言葉が新しい響きを立てる組み合わせだと思います。
神さまが私たちに求めておられる正しさ、心のまっすぐさ、それは宴会に体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招くことです。不便を覚えて生きている人、あるいは恐らく社会の中で差別されている人、あるいはいろいろな意味で弱さを抱えている人。彼ら彼女らと共に生き、その不都合を共に負う。それが神さまが私たちに求めておられる正しさであり、心のまっすぐさなのではないでしょうか。
その人には神さまの光が差す。その人を神さまが喜ばせてくださる。この明るい喜びは、共に生きることそのものがもたらす喜びに違いないと思います。自分と異質な他者と共に生きることに神さまが喜びを与えてくださる。共に相手の不自由を負い、一緒に生きることを喜びとして仕え合うことを喜びとするように、神さまは私たちを造ってくださったのです。
私たちが今日出会う人と、私たちはどうやって共に生きるのか?主イエスさまは私たちにそのことを問うておられるのではないでしょうか。

2026年10月20日の聖句

彼らは金の神々を造りました。 どうか彼らの罪をお赦しください。(出エジプト記32:31~32) (パウロの言葉)道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいる...