2025年4月27日日曜日

2025年4月27日の聖句

今週の聖句:
神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに生ける希望を与えてくださいました。(1ペトロ1:3)

今日の聖句:
私は主を愛している。主は私の声、私の願いを聞いてくださる。(詩編116:1)
その借りのある者が、主人の前にひざまずき懇願した。「堪忍してください。すべてお返ししますから」。すると主人は憐れに思い、彼を放免し、全額帳消しにしてやった。(マタイ18:26~27)

今日の新約聖書の御言葉は、莫大な借金をした男の話です。主イエスがしてくださった譬え話です。どう逆立ちしても絶対に返しようのないほど、天文学的な額の借金がある男が必死に言います。「堪忍してください。すべてお返ししますから」。絶対に無理です。それでもそう言うより他ない。「堪忍してください」以外の言葉が出てきようもない。これが神様の御前にある私たちの姿です。
主人はそんな惨めな破産者を赦してくださいました。「すると主人は憐れに思い、彼を放免し、全額帳消しにしてやった。」赦してやった理由はただ一つです。憐れに思ったからです。主人の憐れみによって。ただそれだけです。他には何の理由も根拠もない。私たちはただ神の憐れみだけのお陰で生きています。
だから、私たちの賛美はただこれだけです。「私は主を愛している。主は私の声、私の願いを聞いてくださる。」私たちは主を愛します。そんな私たちに主が望んでおられるのは、私が憐れんで頂いたように、私も隣人を憐れむ者となることです。他者を赦す者となることです。赦して頂いた借財の莫大さと、圧倒的な神の赦しの恵みだけが、私をその道に生かすのです。

2025年4月26日土曜日

2025年4月26日の聖句

金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。(コヘレト5:9)
私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。(1テモテ6:7~8)

本当にそうだな、と思います。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。」本当にその通りです。私たちもそのことはよく知っている。それなのに、私たちの欲望のなんと際限のないことでしょう!もっと欲しい、もっと安心したい、もっと満たされたい。そして、金銭や富といったこの世の豊かさによって、それを満足させようとしてしまいます。しかし、その先に本当の満足はない。もっと欲しくなるだけ、もっともっとないと不安になるだけ。聖書が言うとおりです。そうであるからこそ、欲に振り回される自分を見せつけられます。
使徒パウロは若い伝道者テモテに言います。「私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」何も持たずに裸で母の胎を出てきた私たち。私たちが持っているものは、すべて与えられたものです。その「与えられた」という事実を謙虚に受け止めることを忘れたとき、私たちは与えられたものに満足することをやめ、欲望を満足させることばかりに夢中になってしまいます。旧約の時代から既に聖書が「貪るな」と教えていたというのは、本当に深い知恵です。私たちの貪りの罪がどんなに深くて恐ろしいかを聖書は見抜いています。
神は私たちが生きるために必要なものをすべて備えてくださいました。善人にも雨を降らせ、悪人にも晴れの日を恵んでくださる神の慈しみと愛に信頼して生きていきたい、と願います。神の愛が私の命を支えています。主イエス・キリストの憐れみの中をどうか今日も歩ませてください、と祈ります。

2025年4月25日金曜日

2025年4月25日の聖句

イスラエルの人々はサムエルに言った。「どうかお止めにならないでください。私たちをお助けくださるようにと、私たちの神、主に叫び続けることを。」(サムエル上7:8)
(パウロの獄中からの手紙)私は自分が今経験しているすべてのことが、最後には私を救いへと導いてくれることを知っているのです。なにしろ、あなたがたの祈りと聖霊の働きが私を支えてくれています。イエス・キリストによる聖霊が私を助けてくださるのです。(フィリピ1:19)

本当に素晴らしい御言葉です。「私は自分が今経験しているすべてのことが、最後には私を救いへと導いてくれることを知っているのです。」この手紙を書いた使徒パウロは、牢獄の中にいます。パウロには反対者もいたし、迫害も受けていたし、本当に苦しく辛いことがたくさんありました。ところがこの人は、そういうすべてが最後は私を救いに導く、と言います。本当に素晴らしい信仰の確信です。
私たちはどうでしょうか。私たちにもいろいろなことが起こります。そのすべてが私を救いに導く。そして「私」という人間の救いは私一人のものではなく、周りにいる多くの人々にとっても意味を持つ、と信じます。私も、私の隣人も、今私たちの身に起こっている一つひとつの出来事を通して神の素晴らしい救いに導かれている。
「なにしろ、あなたがたの祈りと聖霊の働きが私を支えてくれています。イエス・キリストによる聖霊が私を助けてくださるのです。」私たちを導く聖霊なる神様ご自身が、私たちに信仰を与え、私たちを神のものとして生かしてくださいます。私たちは信頼をもって神に祈り、神に向かって叫び、助けを求めます。キリストが私たちの祈りに必ず耳を傾けてくださるからです。

2025年4月24日木曜日

2025年4月24日の聖句

私の心は喜び躍ります。
あなたがこのようにまで思いを掛け、
助けてくださるのですから。(詩編13:6)
人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口の利けない人たちを話せるようにされた。」(マルコ7:37)

神様が私たちを心に掛け、助けてくださった一つひとつの出来事を今思い起こし、心喜び、踊って一日を始めましょう。
「望みも消えゆくまでに」というすてきな讃美歌(聖歌)があります。このような歌詞です。
「望みも消え行くまでに、世の嵐に悩むとき
数えてみよ、主の恵み。汝が心は安き得ん。
数えよ主の恵み、数えよ主の恵み
数えよ一つずつ、数えてみよ主の恵み。」
望みが消えてしまうと思われるとき、実はそこにはすでに神の恵みがあり、神の恵みによって私はこれまで生かされてきた。恐れや不安や不満ではなく主の恵みを数えよう、と歌います。この信頼の根拠が主イエスの十字架に示された愛であることは言うまでもありません。御子を十字架にまでつけて私たちに与えてくださった神は、御子と一緒にすべてのものを下さらないわけがない。必ず、私たちを素晴らしい恵みの数々で生かし、歩ませてくださる。
今、心を神に向けて高くあげましょう。喜びを献げましょう。賛美の歌を神に献げましょう。そうやって、新しい一日を始めましょう。

2025年4月23日水曜日

2025年4月23日の聖句

私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありなさい。(創世記17:1)
(イエスは)トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

「私の前に歩み、全き者でありなさい!」全能の神であるお方がそのようにおっしゃいます。全能の神の御前に「全き者」でいられるなんて、一体誰に可能なのでしょうか?思わずそう問わずにいられないような言葉です。神様は無理難題をふっかけておられるのでしょうか?
そのことを考えるときに、今日の新約聖書の御言葉は大きなヒントになると思います。トマスは他の弟子たちのところへ復活の主イエスが来られたときにはおらず、「主が来てくださった」という知らせを聞いても信じることができませんでした。主イエスの釘指された手にこの指を触れ、槍で刺された脇腹にこの手を差し入れなければ信じない、と言いました。そんなトマスのところへ主イエスが来てくださり、おっしゃったのです。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」この言葉を聞いて、トマスは主に言ったのです。「私の主、私の神よ」と。不信仰な者から生まれた信仰の告白を、主イエスは受け入れてくださいました。
神の御前に全き者。それは、神を信じる者です。自分の目や手よりもキリストを信じる者です。単純にキリストを信じ、信頼する者。その人を神は「全き者」と言ってくださるのです。トマスのこの信仰は、彼の心の強さが生み出したものではありません。彼の前に来てくださったキリストが与えてくださったものです。キリストは私たちのところにも来てくださっています。礼拝において、キリストは私たちと出会ってくださる。私たちはその恵みにあずかっています。

2025年4月22日火曜日

2025年4月22日の聖句

私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちのすべての過ちを、主は彼に負わせられた。(イザヤ53:6)
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。(1ペトロ2:24)

羊のようにさまよい、迷子になっているのに自分の道にこだわっている私たち。神様の御許から離れているのに、それが過ちだと認めようとしない私たち。その私たちの過ちのすべてを、主はキリストの上に負わせられた。主イエス・キリストが私たちの罪のすべてをその身に負ってくださった。
「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため」、と聖書は言います。キリストは私たちを新しくするために、その身に私たちの罪をすべて負ってくださった。私たちがなお罪と悪にこだわり続けるためではなく新しいものとして生きるために、キリストが古い私をご自分と一緒に十字架につけてくださった。
昨日、ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコが亡くなりました。この教皇が「回勅 ラウダート・シ」という文書を出しています。人間の活動によって環境的な、そして社会的な危機に直面した私たちはどう生きるのか、私たちが担うべき責任とは何か、ということについて書かれています。例えばこのような問題においても、キリストの十字架と復活という新しい現実に生きているという事実が意味を持ちます。私たちをこれまで支配してきた罪と死と悪の物語は過ぎ去ってキリストの命の物語に私たちも巻き込まれている、という新しい現実に目を向けるとき、私たちはどう生きるのか?このキリストの命がかけられた世界のために、私たちは何をするのでしょうか。

2025年4月21日月曜日

2025年4月21日の聖句

あなたがたがもし心を尽くして主に立ち帰るなら、自分たちの中から異国の神々を除きなさい。(サムエル上7:3)
忘れてはならないのは、ただ一人の神、すなわち父なる神がおられるということです。万物はこの神の中に起源を持っており、神は私たちの命の帰り行く場所でもあられます。また、ただ一人の主である方、すなわちイエス・キリストがおられます。万物はキリストによって生じ、このキリストによって私たちは命を得ているのです。(1コリント8:6)

どなたの言葉であったかは覚えていませんが、「父母未生以前の闇を恐れる」とおっしゃった方がおられるそうです。自分が生まれる前よりもさらに遡って、自分の父や母が生まれるよりもさらに前。私の存在がまだ全くなかったとき。そこはまったくの闇でしかない。恐れるしかない。
自分が死んだ後の闇を思って恐れるということは多くの人が経験することですが、確かに、自分も父も母も生まれる前もまた闇です。私たちの手の届かない場所、私たちにはどうすることもできない範囲です。
聖書はそんな私たちに言います。「万物はこの神の中に起源を持っており」。私の存在も、私の父や母も、すべての起源は神の中にある。私の命の前も後も、私たちの手には届かない闇です。どうすることもできない。しかし、始まりは神にあり、私たちが帰る場所も神の御許です。私たちは闇ですが、神はその私たちの前にも後にも、すべてを治めておられるお方です。
イエス・キリストによって神が示してくださった祝福と命の中に、私たちの存在はすっぽりと包み込まれている。それが「私」という存在の秘密です。

2025年4月27日の聖句

今週の聖句: 神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに生ける希望を与えてくださいました。(1ペトロ1:3) 今日の聖句: 私は主を愛している。主は私の声、私の願いを聞いてくださる。(詩編116:1) その借りのある者が、主人の前にひざまずき懇願した。「堪忍してください。すべて...