主よ、あなたは正しい方です。しかし、今日このとおり、私たちは、恥辱に直面しています。(ダニエル9:7)
そこで、王は答える。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。」(マタイ25:45)
今日の旧約聖書の御言葉に「私たちは、恥辱に直面しています」とあります。なぜ、そのような目に遭っているのか。ダニエル書の前後の文脈を読んでみると、神さまに対する自分たちの背信の罪のため、神さまに逆らって生きてきたための恥辱だ、と言っています。自分たちの生き方が招いた結果だと言います。確かに、私たちの受ける厭なことの多くは、自分のしでかしたことや口から飛び出た言葉、そうでなければ怠けてきたことの結果なのかもしれません。
そこで、王は答える。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。」(マタイ25:45)
今日の旧約聖書の御言葉に「私たちは、恥辱に直面しています」とあります。なぜ、そのような目に遭っているのか。ダニエル書の前後の文脈を読んでみると、神さまに対する自分たちの背信の罪のため、神さまに逆らって生きてきたための恥辱だ、と言っています。自分たちの生き方が招いた結果だと言います。確かに、私たちの受ける厭なことの多くは、自分のしでかしたことや口から飛び出た言葉、そうでなければ怠けてきたことの結果なのかもしれません。
ところが今日の聖句は私たちに深い驚きを与えます。今日の新約聖書の「王」の姿に託されていた主なる神さまはおっしゃるのです。「この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」と。つまり、自分の生き方のために恥を受けるしかない私の現実に、なんと主なる神さまご自身が連帯してくださっている、というのです。
私が「小さな者」に過ぎないのは、自分の生き方のせいです。ところが神さまはそんな私をお見捨てにならなかった。私の小ささをご自身のものとして引き受けてくださった。今日の二つの御言葉は、そのような神さまの憐れみ深いお取り扱いを証言しているように思います。
神さまの正しさを前にして顔を上げることのできないような私です。しかし、主はそんなどうしようもない私に連帯してくださる。主はなんと憐れみ深いお方なのでしょうか。
私が「小さな者」に過ぎないのは、自分の生き方のせいです。ところが神さまはそんな私をお見捨てにならなかった。私の小ささをご自身のものとして引き受けてくださった。今日の二つの御言葉は、そのような神さまの憐れみ深いお取り扱いを証言しているように思います。
神さまの正しさを前にして顔を上げることのできないような私です。しかし、主はそんなどうしようもない私に連帯してくださる。主はなんと憐れみ深いお方なのでしょうか。