2026年9月22日火曜日

2026年9月22日の聖句

こうして民は、自分たちが自ら選んで献げた物を喜んだ。(歴代誌上29:9)
キプロス島生まれのヨセフは、持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。(使徒4:37)

今日は献金の話です。
カンバーランド長老教会の信仰告白にはこのような言葉があります。「神が人類に委ねたすべてのものを、ふさわしく定期的にささげることは献身の行為であり恵みの手段である。教会に対する、また教会を通してのささげものは、すべての信仰者の特権である。ささげものに対する聖書の指針である十一献金は信仰の冒険であり、豊かに報いられる業である。」
ここに「十一献金」と書いてあります。全収入の十分の一を神さまへのささげものとする、という意味です。聖書には、例えば創世記に出て来るヤコブがしたように、そういうささげものの指針が記されています。
今の社会は貨幣によって経済が成り立っていて、私たちの収入は多くの場合「お金」によります。(作物や収穫物のような「現物」ではない。)ですので、給料にしろ年金にしろ、自分が得たお金の中から適切な分を神さまに献げることは、大切な信仰の実践です。
そのときに大切なことは、信仰告白の別のところに「(ささげものの)動機は神の豊かな愛と憐れみに対する感謝であり、神からいただくあらゆる良い賜物を他の人々と分かち合いたいという願いが伴う」と書いてあるとおり、神の恵みへの感謝であり、隣人への愛です。
教会という共同体を支え、保つために、献金は欠かせません。教会という、他者と共に生き神を愛し神に仕える場所への具体的な愛を欠いたまま神を愛することはできません。自分に今与えられている収入の中から適正な献金額を自分で決めなければならないので、「いくら払えばいいのか」という話ではなく、神さまと隣人への愛をもって、与えられている物をふさわしく管理するという事ではないでしょうか。

2026年9月21日月曜日

2026年9月21日の聖句

主は私が願ったことをかなえてくださいました。(サムエル上1:27)
エリサベトの近所の人々や親類は、主が彼女を大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。(ルカ1:58)

エリサベトの夫はザカリア。この夫婦は既に年を取っていました。子どもはいません。そんなザカリアのところへ主の御使いが来て言いました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。」天使はエリサベトが男の子を産む、と告げたのです。
天使は「あなたの祈りは聞き入れられました」と言っています。この夫婦にとってはまさに「主は私が願ったことをかなえてくださいました」ということでしょう。ところが、ザカリアが天使に言ったのは「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています」です。
そう、二人は子どものことを祈り、願ってきたのでしょう。かつては。しかし与えられないままやがて二人は年を取り、子どもを望むことのできる年齢ではもはやなかった。「私は老人で牛、妻も年を取っています」という言葉に込められたこの夫婦の歴史があったのではないかと思うのです。
主は彼らの願いを聞いてくださった。それは、エリサベトとザカリア夫妻が考えていたスケールとは全然違う話でした。人間的に見ればもはや望みはなかった。しかし神さまは何でもできるお方です。人間としては及ばないところに神さまの慈しみが示されたのです。エリサベトに示された主の大いなる慈しみは、誰にも思いつくことのなかった神さまの新しい御業なのです。

2026年9月20日日曜日

2026年9月20日の聖句

今週の聖句:
キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。(2テモテ1:10)

今日の聖句:
あなたの救いを愛する人が
「主は大いなるかな」と
絶えることなく言いますように。(詩編40:17)
主は私を、あらゆる悪い行いから助け出し、天の御国へと救い入れてくださるでしょう。栄光が主に世々限りなくありますように、アーメン。(2テモテ4:18)

私たちの献げる礼拝は、神さまの救いの御業への賛美です。私たちは神さまの御業を愛し、私たちを救ってくださる神さまの愛をたたえます。「主は大いなるかな!」
もしかしたら、私たちは神さまを小さくしてしまっているのかもしれません。自分の考えの範囲、自分の常識の許すところに神さまを押し込めてしまっているのかもしれない。「こんな私を救うことなんてできないだろう」「神さまは私なんて愛してはいない」「神さまは自分の事なんて気にしていない」などと思い込んではいないでしょうか?
主は大いなる方です。「主は私を、あらゆる悪い行いから助け出し、天の御国へと救い入れてくださるでしょう。」この神をたたえ、栄光が世々限りなくありますようにと賛美するために、私たちは神さまの御許に招かれているのです。

2026年9月19日土曜日

2026年9月19日の聖句

(神の言葉)私はいつまでも争うことはなく
永遠に怒ることもない。(イザヤ書57:16)
たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。(1ヨハネ2:1)

何と慰めに満ちた御言葉でしょう。神さまの豊かな赦しを告げる御言葉です。
そもそも、私たちは罪深いのです。「たとえ罪を犯しても」とありますが、実のところ私たちの罪は「たとえ」ではなく、「現に」と言わねばならないのではないでしょうか。現に私たちは罪を犯している。しかし、聖書はそんなことは百も承知の筈です。私たちが罪深い者だということなど。その上で「たとえ罪を犯しても」と言っているのはなぜなのか。それは、私たちがどんなに罪深くとも、それが当然と言ってはならない、ということではないかと思います。私たちは罪を犯して当然ではない。罪を犯さないようになることが、実は私たちが本当に私たちらしく生きる道なのではないでしょうか。
しかし(再びひっくり返してしまいますが)それでもなお罪を犯してしまうのが私たちです。どんなに真剣に自分の罪を認め、あるいは誠実に告白し、悔い改めたとしても、私たちはそれでもなお罪の中に生きている。しかし、聖書は言います。「たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」キリストのゆえに、私たちはそれでもなお赦されている。自分でもどうすることもできない私たちの罪を、神が赦してくださった。「私はいつまでも争うことはなく、永遠に怒ることもない。」ここに私たちの救いがあるのです。

2026年9月18日金曜日

2026年9月18日の聖句

私の魂を牢獄から引き出してください。
あなたの名に感謝するために。(詩編142:8)
ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神に献げられていた。(使徒12:5)

牢獄に入れられた使徒ペトロのための熱心な祈りが教会で捧げられていました。神はその祈りを聞いてくださった。ペトロは牢獄から救い出されていきます。そのために、神さまが御業を行ってくださいました。
「私の魂を牢獄から引き出してください。あなたの名に感謝するために。」
神さまは、私たちを牢獄から引き出してくださいます。人間が作った牢獄であっても、あるいは私たちの罪と悪という牢獄であっても。私たちを引き出し、解放し、自由にしてくださるのは主なる神さまです。
私たちの今日一日の歩みと私たちの言葉とが、神さまを賛美し、神さまに感謝を献げる者でありますように。私たちを自由にしてくださる方、私たちを囚われから解放してくださる方をたたえる言葉が、行いが、私たちのものでありますように。神を賛美するために私たちは自由にされた。神をほめたたえるために私たちは救われた。主イエス・キリストによって示された神の愛を賛美するために、私たちは今日という新しい一日に送り出されているのです。

2026年9月17日木曜日

2026年9月17日の聖句

あなたがたは、隣人や兄弟との間で互いに、「主は何と答えられたか。主は何と語られたか」と言わなければならない。(エレミヤ23:35)
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26:75)

私たちの問うべきことはこれだ、と主は言われます。「主は何と答えられたか。主は何と語られたか。」主が語られた事、主の言葉こそが私たちの問うべき事、私たちにとって何よりも大事なことです。
私たちのカンバーランド長老教会の「信仰告白」では、1.02でこのように告白しています。「三位一体の父・子・聖霊なる唯一の生ける神は、聖書を通して、自然や歴史の出来事を通して、また使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を通して語られるが、何よりも、肉体となったことばであるイエス・キリストにおいて比類なく語られる。」
神は今何を語っておられるのか?私たちはそれをどうやって聞くことができるのか?超自然的な託宣を求めるのではなく、瞑想や修行の果てに何かを悟るのでもない。私たちは、イエス・キリストを通して神の語りかけを聞きます。イエス・キリストこそ、神が比類なく語っておられる神の言葉そのものでいらっしゃるのです。
「信仰告白」は1.06で更にこのように言っています。「聖書において、また聖書を通して語られる神のことばは、ナザレのイエスの誕生と生涯と、死と、復活の光のもとで理解されなければならない。聖書の権威は、聖書の内にある真理と、聖書を通して語る神の声に基づいている。」
イエス・キリストの光の中で、私たちは聖書を読みます。それこそが聖書を通して「主は何と答えられたか。主は何と語られたか」を聞く、ということに他ならないのです。

2026年9月16日水曜日

2026年9月16日の聖句

主よ、あなたの慈しみが
私たちの上にありますように。
私たちはあなたを待ち望みます。(詩編33:22)
(イエスの言葉)私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける。(ヨハネ10:9)

今日の詩編の言葉こそ、私たちの祈りの言葉です。
「主よ、あなたの慈しみが私たちの上にありますように。」
神の慈しみは、主イエス・キリストを通して私たちの上に注がれます。イエス・キリストという門を通って私たちは牧場の中に入り、主イエスさまはその牧場の羊飼いでもいてくださって、私たちを養い、守ってくださいます。私たちはキリストに囲われ、キリストの慈しみの中で憩うことができる。「私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける」と主は言われます。キリストの完全な愛の中に、私たちは招かれています。
「私たちはあなたを待ち望みます。」
主イエスさまを待ち望みましょう。他の救いは、私たちにはありません。キリストは、私たちを真の神さまのところへ連れ上ってくださいます。キリストは私たちを神さまの御許に安らわせてくださいます。キリストこそ私たちの救いです。
「主よ、来てください。」私たちはそう祈り、今日という一日を歩み出します。主イエスさまを仰ぎ、主を愛し、それよりもはるかに大きい主イエス・キリストの愛の中に出発していきます。

2026年9月22日の聖句

こうして民は、自分たちが自ら選んで献げた物を喜んだ。(歴代誌上29:9) キプロス島生まれのヨセフは、持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。(使徒4:37) 今日は献金の話です。 カンバーランド長老教会の信仰告白にはこのような言葉があり...