2026年10月3日土曜日

2026年10月3日の聖句

この民は口で近づき
唇で私を敬うが
その心は私から遠く離れている。(イザヤ29:13)
(イエスの言葉)口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである。(マタイ15:11)

口にすべきではないことを口にしてしまったとき、「思ってもみなかったことなのに」と自分や相手に対して言い訳をしてしまいます。しかし、恐らく、口から出てきた言葉こそが私が思っていたことなのでしょう。口から次々と、疲れを知らずに飛び出してくる悪意のある言葉。それが私の本性。恐ろしいことです。
「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである。」
主イエスの前にいた人たちは、例えば豚とかウナギのような、旧約聖書が「汚れ」と定めた物は決して食べませんでした。自分の身を汚してはならないから。ところが主イエスは言われるのです。口から入ってくるものが人を汚すのではない。口から入ってくるものなんて、ただ入って来てそのまま体の外に出てしまうものに過ぎない。そうではなく、本当に人を汚すのは心から出てきて口から飛び出してくるもの、つまり汚れた言葉こそが人を汚すのだ、と言われるのです。厳しい言葉です。
私の心の中には何が詰まっているのか?何が隠れているのか?考えるだけで恐ろしいことです。しかし、人に見せられないものがぎっしり詰まっているのは、本当のことです。主の憐れみを求めます。そうでなければ、私は救われようがない。キリストの憐れみと、キリストの愛の中で、私たちはこの心の奥底までも清めていただくことにのみ救いの望みがあるのです。

2026年10月2日金曜日

2026年10月2日の聖句

主よ、お話しください。僕は聞いております。(サムエル上3:9)
(イエスの言葉)私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(マタイ7:24)

主イエスは私たちに、ご自分の言葉を聞くこと、そして聞くだけではなくそれに従って実際に行うことを求めておられます。キリストの言葉を聞いて行う人は岩の上に自分の家を建てた人のよう。強い雨風が来ても土台がしっかりしているので問題ない。ところが聞くだけで行わないなら、それは砂の上に家を建てたよう。建てるのは簡単ですが、土台が弱いので雨風に耐えることができない。試練に耐えられない見せかけの信仰だ、とおっしゃっています。
神さまの言葉を聞いて行う。それでは神さまは私たちに何をおっしゃっているのでしょうか。別の所で、主イエスは聖書の中でいちばん大切なことは心を尽くし思いを尽くし力を尽くして主なる神を愛すること、そして、隣人を自分自身のように愛することだ、とおっしゃっています。それでは、その愛をどうやって表すことができるのか?旧約の律法を読むと、神さまが私たちに繰り返し求めておられるのは公正と正義です。それは、孤児ややもめの権利を守ることであり、貧しい人や困難な人を重んじることです。自分よりも弱い立場の人を愛すること、神が与えてくださった隣人として重んじることです。
私たちがキリストに教えていただいて愛を実践するなら、それは岩の上に自分の家を建てた者の生き方に他ならない、と主は言われます。ここにこそ、私たちのために神が備えてくださった平和の道があるのではないでしょうか。

2026年10月1日木曜日

2026年10月1日の聖句

10月の聖句:
自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)

今日の聖句:
あなたは多くの苦しみと災いを
私に思い知らせましたが
再び命を与えてくださいます。(詩編71:20)
主は、敬虔な人々を試練から救い出す。(2ペトロ2:9)

私たちの受ける苦しみも災いも、喜びも楽しみも、すべては神さまの御手の内にあります。私たちの喜びの時、晴れやかな時、私たちはへりくだってそれを神さまのくださったものとして受け、決して高慢にならず、しかし卑屈になるのでもなく、感謝して受け取ります。そして、苦しみや災いも同じです。運が悪かったのでも偶然が重なったのでもない。目の前にいる誰かの悪意が決定的なのでもない。神の手がお与えになった試練です。へりくだってその事実を私たちは受け入れる。
「あなたは多くの苦しみと災いを私に思い知らせましたが、再び命を与えてくださいます。」
神さまは私たちを必ず救ってくださいます。今は苦しいし、厭だし、辛いけれども、それは永遠の祝福に至るためのプロセスです。私たちの狭い視野にはそれが映りません。私たちには今後の行程表は見えない。しかし、私たちは、私たち自身もこの世界も最終的にどこに向かっているのかを知っています。神はすべてを完成させ、私たちをご自分の永遠の祝福へと至らせてくださる。今日の私たちの覚えるいろいろな思いも、それを主に持ち出すならば永遠に連なる意味を持つのです。主なる神さまを信頼して、今日の日を生きたいと願います。

2026年9月30日水曜日

2026年9月30日の聖句

もしあなたが主を求めるなら、主はあなたがたに現れてくださる。(歴代誌下15:2)
女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私が、それである。」(ヨハネ4:25~26)

今朝の新約の御言葉は、主イエスがサマリアで出会われた一人の女の言葉です。主は彼女に言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝するときが来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」この言葉に応えて彼女が口にしたのが、今日の御言葉です。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
父がまことの礼拝を献げる者を求めておられる。私たちと出会おうと、キリストと呼ばれるメシア、つまり主イエスをお送りくださった。私たちはイエスという神の子と出会い、まことの神を礼拝している。聖書はそう語りかけます。
「もしあなたが主を求めるなら、主はあなたがたに現れてくださる。」私たちは、本物の神様と出会っているのです。主イエスさまを信じるというのはそういうことです。主イエスを信じ、口先だけでも体制を取り繕うのでもなく、私たちの霊を尽くして祈り、礼拝する。イエスもご自身の霊をもって私たちと出会ってくださいます。信仰の神秘がここにあります。

2026年9月29日火曜日

2026年9月29日の聖句

神の名が代々とこしえにたたえられますように。
知恵と力は神のもの。(ダニエル2:20)
アーメン。賛美、栄光、知恵
感謝、誉れ、力、権威が
世々限りなく私たちの神にありますように。(黙示録7:12)

人生の主な目的は神を礼拝すること。改革者カルヴァンはそのように言います。今日、私たちもこの聖書の御言葉に心を合わせて神を賛美し、礼拝しましょう。
「神の名が代々とこしえにたたえられますように。知恵と力は神のもの。」
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、権威が世々限りなく私たちの神にありますように。」
神さまが代々とこしえに賛美されますように。そして全地で献げられるたくさんの賛美の歌声の中に私たちの声も加えられますように。
アーメン、というのは「真実に」という意味です。私たちの真実を込めて、賛美も栄光も知恵も感謝も誉れも力も権威も、神さまにお返ししましょう。私も誉められたいなとか、私も認められたいなという思いがどうしても先に立ってしまいます。しかしそういう心を神さまに献げ、神さまに栄光をお返しする。それが礼拝の心ではないでしょうか。
私たちは今日それぞれの場に遣わされていて、バラバラの場所で生きています。しかし、主を礼拝する者としてつながっています。神に賛美を献げる物として私たちは一つです。それぞれの遣わされている場で神に栄光をお返しする者として、共に今日の日を生きていきましょう。

2026年9月28日の聖句

私はあなたと、とこしえの契りを結ぼう。
私は正義と公正、慈しみと憐れみをもって
あなたと契りを結ぶ。(ホセア2:21)
(イエスの言葉)あなたがた私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。(ヨハネ15:16)

聖書を読むと、神さまの正義と公正、慈しみとお哀れみは、常に人間が持っているそれと衝突しています。私たちの考える「正義」は、自分の正義感の満足でしかありません。自分が悪と思う者が懲らしめられるのが正義、公正であるとすぐに考えてしまいます。私たちの抱く敵愾心がすっきりするときに私たちは正義が成し遂げられたと思い込む。しかし相手からしてみれば不正義以外の何ものでもないし、味方と思っている人の中にも不公正に苦しめられている人はいくらでもいるのではないでしょうか。
あるいは、私たちの考える慈しみや憐れみは、狭い範囲での依怙贔屓でしかなかったり、偽善を含んだ優しさでしかなかったりします。結局は自分が優先で、自分に対する他人の評判やその場の事しか考えようとしない浅さのようなものがつきまといます。
ところが、神さまの正義と公正、慈しみと憐れみはそうではない。神さまは貧しい人や弱い人を守り、その尊厳を重んじることを求めます。強い人が幅をきかせる「正義」を正義とはなさらず、神さまに造られた者として私たちを公正に扱われます。神さまは縁故や仲間内の慈しみや憐れみで物事をなあなあにはせず、キリストに示された慈しみと憐れみを最後まで貫かれます。私たちがこの神さまが良い、この公正や正義が良いといって選んだのではない。神のほうが私たちを選んで、ご自身の正義や憐れみの相手にしてくださったのです。

2026年9月27日日曜日

2026年9月27日の聖句

今週の聖句:
世に勝つ勝利、それは私たちの信仰です。(1ヨハネ5:4)

今日の聖句:
主はその偉大な御名のゆえに、ご自分の民をおろそかにはなさらない。(サムエル上12:22)
(イエスの祈り)私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。(ヨハネ17:26)

主なる神さまは私たちにご自分のお名前を知らせてくださいました。旧約聖書を見ると、それは英語のアルファベットに置き換えると「YHWH」と現されるお名前です。私たちの人間関係に置き換えて考えてみると、自分の名を名乗るというのは相手との関係を築こうとしている、ということであると思います。通りすがりの人や、行きずりでその場限りのおしゃべり相手には名乗らないでしょう。自分の名前を名乗るのは、相手との人格的な関係を結ぼうとするときです。そうすると、神さまは私たちとそういう関係を結ぼうとして御自分のお名前を教えてくださった、ということではないでしょうか。そして主はその尊いお名前にかけて、私たちを決しておろそかにすることはなさらないのです。ご自分が名乗った、という事実に忠実でいらっしゃるのです。
神さまが私たちを愛してくださっているというのは、そういう人格的な関係の相手にしてくださった、ということではないでしょうか。私たちは神の名乗りという神の愛の内にいる。旧約においてYHWHと名乗られた方は、今、イエス・キリストの父というお名前を持って私たちに関わっておられます。神の大きな愛の中で、私たちはこの御名を愛し、慕い求めているのです。

2026年10月3日の聖句

この民は口で近づき 唇で私を敬うが その心は私から遠く離れている。(イザヤ29:13) (イエスの言葉)口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである。(マタイ15:11) 口にすべきではないことを口にしてしまったとき、「思ってもみなかったこと...