2026年4月2日木曜日

2026年4月2日の聖句

幸いな者、ヤコブの神を助けとし
望みをその神、主に置く人。(詩編146:5)
また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マタイ28:27~28)

私たちの助けは、主イエス・キリストにある。私たちはそう信じています。キリストが私たちのために肉を裂き、血を流してくださった。その肉と血を頂く聖餐の食卓こそ、私たちの命の食卓です。キリストはご自分の御言葉の通りに生きられました。ご自分を私たちのために献げ、私たちを愛するためにご自分のすべてを傾けてくださいました。そのキリストが「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」と言ってくださる杯こそ、私たちの救いです。
この杯について、主は「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」。契約の血、と主は言われます。この「契約」は、かつてヘブライ人たちがエジプトを脱出したときに神が起こした過越の血、あのときに結ばれた契約のことです。エジプトで奴隷であった民をご自分のものとするために、神は大いなる御業を行われました。過越の血は、彼らが神のものとされたことのしるしです。キリストはご自分の流す血こそが究極の過越の血だと言われます。私たちはキリストが流した血によって、永遠に神の民だというしるしを付けられたと主は言われるのです。
私たちはキリストを「私の救い」と信じ、主に望みをおきます。私たちが十字架に掛けて流したこのお方の血が私たちを救ってくださることを信じます。私たちはこのお方がいなければ生きられない。その事実が私たちの原点なのです。

2026年4月1日水曜日

2026年4月1日の聖句

今月の聖句:
イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)

今日の聖句:
私は大いなる集いの中で、あなたに感謝し、
多くの民の中で、あなたをほめたたえるでしょう。(詩編35:18)
すべての舌が
「イエス・キリストは主である」と告白して
父なる神が崇められるためです。(フィリピ2:11)

今日、私たちの舌に上る言葉が「イエス・キリストは主である」と告白し、父なる神を崇める声でありますように。私たちの心に思うことが主をほめたたえ、私たちの行いが神の前にひれ伏すものでありますように。
今日の詩編は歌います。「私は大いなる集いの中で、あなたに感謝し、多くの民の中で、あなたをほめたたえるでしょう。」賛美は、「大いなる集会の中で」「多くの民の中で」献げられる、とこの詩編は言っています。私たちは神の民の一員としてキリストに賛美を献げます。共にキリストの前で身を低くして祈ります。私たちは神を崇めることで一つに結び合わされるのです。
受難週の木曜日を迎えました。パンを裂き、杯を取り、祝福して与えてくださったキリストを思い起こしましょう。十字架に掛けられたキリストの御前にひれ伏し、このお方を崇める一日を過ごしましょう。

2026年3月31日火曜日

2026年3月31日の聖句

私たちの神である主は、ご自分がなさるすべての業において正しいのです。(ダニエル9:14)
メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。(ルカ24:26)

「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」これは主イエスご自身の御言葉です。「はず」とここで主は言っておられます。この言葉は「その必要がある」とか「それが必然だ」とか「それが事柄にふさわしい」とか、そのような意味を持つ言葉です。イエスは、苦しみをお受けになった。それは主イエスがメシアとしてお受けにならなければならないものだった。そう言っておられます。しかも、十字架の苦しみをお受けになり、その後、復活という栄光に入ることもまた必然であり、必要なことであった。メシア・イエスにとって、十字架の苦しみと復活の栄光は一つにつながる必然的な道だ、と主は言われるのです。
自分の心の奥底にある願いのようなものをよくよく振り返ってみて、思うのです。私は実は、十字架のない復活を求めているのではないか、と。私たちの信じる神の子は、十字架に掛けられました。しかもそれが必ず必要なのだ、とおっしゃいます。十字架は、極悪人にしか下されない残忍な死刑です。そこにはほんの僅かにもロマンや現実逃避の入り込む余地はありません。十字架は、圧倒的な死と痛みと屈辱です。主は、私は必ず十字架に掛けられなければならなかったのだ、とおっしゃるのです。「私たちの神である主は、ご自分がなさるすべての業において正しいのです。」御子が十字架に掛けられることを正しいとなさるお方が私たちの信じる神様なのです。
受難週を迎えています。今日、私たちは、じっと十字架に掛けられたキリストのお姿を仰ぎましょう。復活したのは十字架の上で屈辱的な死を味わったお方だと、しっかりとこの心に刻んで頂きましょう。十字架、そして復活に、神の正しさがある。この謎めいた福音に、私たちの思いを向ける祈りの時を過ごしましょう。

2026年3月30日月曜日

2026年3月30日の聖句

あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。(申命記4:2)
(パウロの手紙)私は、キリストが私を通して働かれたこと以外は、何も話そうとは思いません。キリストは異邦人を従順へと導くために、(私の)言葉と行いを通して働かれました。(ローマ15:18)

私が自分を省みて思うことは、自分の耳は都合良くできているな、ということです。自分には関係ないと思うこと、自分に都合悪いと思うことはうまく聞かないようにできてしまうのです。目も同じです。LINEでもメールでも、自分にとってあまり読みたくないことはうまく見逃してしまう。結局後で「言った」「言わない」の争いや禍根を残してしまうわけですが、無意識に聞き漏らし見ないで済ませてしまっているので、なかなか改善するのは難しいです。
「あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。」
主はそう言われます。神の言葉に勝手に付け加えたり、勝手に削ったりして、自分の好いように造りかえるな、と言われるのです。本当にその通り。そう思います。しかし現に自分がしているのは、まさにここで戒められていることそのもの・・・と思います。
例えば、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。この言葉を聞くとき、「悔い改めて」と主イエスが言われたのと同じ真剣さをもって聞いているだろうか。悔い改めなき神の国になっていないか。「罪を隠蔽した赦し」や、「赦しをカッコに入れた癒やし」になっていないか。弟子として従うことのない心の安寧になっていないか。神の恵みを、そのようにしてとても安っぽいものにしてしまってはいないだろうか。それは、B級品の恵みです。
パウロは、「キリストは異邦人を従順へと導くために」と言います。私たちは従順へ導かれました。実際に従うことです。罪を悔い改めることであり、弟子としてキリストの言葉を守ることであり、神の言葉をすべて信じる信仰です。
あなたも、私に従いなさい。主イエス・キリストは今日私たちにそのように語りかけておられます。

2026年3月29日日曜日

2026年3月29日の聖句

今週の聖句:
人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:14~15)

今日の聖句:
モーセは(主に)言った。「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをこころから上らせないでください。」(出エジプト記33:15)
(群衆は)なつめやしの枝を持って(イエスを)迎えに出た。そして、叫び続けた。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように
イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

いよいよ受難週を迎えました。その始まりは、主イエスがエルサレムに入城なさった出来事です。人々はなつめやしの枝を振り、主イエスを王としてお迎えしました。ヨハネが伝えるところによると、側で見ていた弟子たちにはこの出来事の意味が分からなかったそうです。(ルカとはずいぶん違う書きぶりです。ぜひ、読み比べてみてください。)ヨハネにおいてその意味が彼らに明らかになったのは、主が栄光をお受けになったとき、すなわち復活なさったときでした。
つまり、ヨハネによると、この時の出来事は主の復活の栄光の小さな先取りだったということだと思います。主の復活は、王としての栄光です。私たちは、私たちの王でいらっしゃるお方の前にいる。今日、この受難週の最初の日にそのことを改めて覚え、畏れをもってへりくだりたいのです。
王であるお方が、これから十字架へと向かって行かれます。王であるお方を私たちは十字架につけた。その事実を深く心に刻み、祈りを献げつつ、この一週間を歩んでいきましょう。そのためにも、可能な方はぜひ受難週祈祷会にご出席ください。さがみ野チャペルでは木曜日10時30分から行われます。南林間の礼拝堂でも月曜日から金曜日まで、朝9時30分から行われます(木曜日は加えて19時からも)。Zoomでの配信(ID:844 9208 4685 パスコード:046)もあります。十字架にかけられた主の前にへりくだって進み出ましょう。

2026年3月28日土曜日

2026年3月28日の聖句

私たちを生かしてください。
私たちはあなたの名を呼び求めます。(詩編80:19)
しかし規定の病にかかっていた十人の男たちのうちのひとりは、自分が癒やされたことを見て取ると、引き返して来て、大声で神を賛美した。(ルカ17:15)

規定の病というのは、旧約の律法で規定された皮膚の病です。この病にかかると、その人は律法の規定に従って共同体の外に出なければなりませんでした。住まいは町の外。もしも誰かが自分に近づいてきたら「汚れている、汚れている」と叫ばなければなりません。その苦しみは肉体だけではない。心の底にまで食い込むような傷を負ったに違いないと思います。
この病は、他の病とは違って、自分で「治った」と言っても、治ったことにはなりません。あるいは医者から「治った」と言われても、それだけでは不十分です。祭司のところに行って「清くされた」と宣言してもらわないと、社会復帰することができませんでした。
主イエスは規定の病にかかった十人の人と出会います。主は彼らを癒やされました。上に書いたような社会通念に生きる人々にとってはたいへんな出来事です。規定の病に冒された人は汚れた人であって、自分たちとは違うもの。別の世界に生きる者。それがこの世界の常識だったのです。主はその常識や社会通念を打ち破って彼らを癒やされたのです。
主は、彼らに「祭司に体を見せなさい」とおっしゃいました。社会の中で彼らが生きられる道を拓いてくださった。主の優しさではないでしょうか。ところがその内の一人は、癒やされたことを知ると祭司のところへ行かずに主イエスのところへ戻って来たのです。「しかし規定の病にかかっていた十人の男たちのうちのひとりは、自分が癒やされたことを見て取ると、引き返して来て、大声で神を賛美した。」この物語は、私たちを本当に生かすのは誰なのか、と問いかけているように思います。社会通念や常識、あるいは祭司に見せるという手続きに代表される社会システム。通常はそういったものが私たちを生かしめていると考えられています。しかしあの人はそうではありませんでした。社会のあらゆる壁を侵犯して自分のところへ来てくださったお方こそが私を本当に生かしてくださるお方だと信じたのです。
私たちは「普通」になるために神を信じるのではありません。「みんなと同じ」になるためにキリスト者になったのではない。私たちの当たり前を犯して侵入する神の子は、この世界の常識では救われない私たちを神のものとするために、今日、あなたに御声を響かせておられるのではないでしょうか。

2026年3月27日金曜日

2026年3月27日の聖句

正義は命に
悪を追い求める者は死に至る。(箴言11:19)
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。(ガラテヤ6:8)

「正義」という言葉が今日の旧約の御言葉にあります。そこで、旧約聖書の事典を引いたところ、「義」についてこのように書かれていました。
「一般的には『義』は、共同体に対する責任に言及する際に用いられる。(中略)義の最も広い適用範囲は、命と幸福を願う創造者によって規定される、創造の良い秩序に関係がある。ゆえに、責任をもって生きることとは、創造者が命じた範囲と要求に従うことなのである。従って、義とは、神の来たるべき統治の最も重要なしるしとなるのである。」
私たちに命を与え、私たちの幸福を願っていてくださる神さまがお命じになる要求に従うことこそが聖書の「正義」なのだ、と言います。
ですから「私の正義感」とか「人それぞれの正義」が問題になっているのではありません。神さまの慈しみを現し、共同体に共に生きる人への神の愛を体現することこそが真の正義なのだと思います。
私たちは、そのような意味での義を求めて生きているでしょうか?それとも、自分の満足ばかりに心を占められて悪を求める結果に陥ってはいないでしょうか。「悪を追い求める」は、言葉を換えれば「自分の肉に蒔く」ということです。私たちは自分の肉を満足させるために自分の正義に凝り固まるのか。それとも、神の義を求め、創造者の愛に従い霊に蒔く者として生きるのか。あなたはどう生きるか、と主は私たちに問いかけておられます。

2026年4月2日の聖句

幸いな者、ヤコブの神を助けとし 望みをその神、主に置く人。(詩編146:5) また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マタイ28:27~28) 私たちの助けは、主イ...