2026年2月16日月曜日

2026年2月16日の聖句

見よ、わたしは使者を送る。
彼はわが前に道を備える。(マラキ3:1)
その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。(マルコ13:27)

地の果てから天の果てまで、と主イエス・キリストはおっしゃいます。凄いスケールです。地の果ての私たちには遠くても届かない場所から、天の果てという想像も付かないほどの果ての果てに至るまで。主イエス・キリストは私たちを果ての果て、そのまた向こうからも呼び集められる。
思えば、2000年前にこの主イエスさまの言葉を直接聞いた人たちからすれば、私たちがいるこの場所はまさに地の果てのまた向こうであり、今の時代は天の果てのそのまた向こうでしょう。2000年も経って、自分たちが考えたこともないような東の果ての国にもキリストの民が生まれることなど考えもつかなかったと思います。
しかし、神さまにとっては、きっとそれもまた小さな奇跡に違いないと思います。キリストは天使を遣わしてご自分の民を地の果てから天の果てに至るまで呼び集め、一つの教会としてくださいました。私たちもキリストの呼び出す声に促されて、今ここでキリストを仰いで生きているのです。
私たちには途方も付かない神さまの御業を私たちも仰ぎ、このお方を賛美し、このお方の御前で礼拝を献げて生きていきます。キリストに栄光があり、キリストのお名前が地の果てから天の果てに至るまでほめたたえられますように。

2026年2月15日日曜日

2026年2月15日の聖句

今週の聖句:
今、私たちはエルサレムへ上って行く。そして、人の子について預言者が書いたことはみな実現する。(ルカ18:31)

今日の聖句:
(ヨセフの兄たちがヨセフに懇願する言葉)どうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。(創世記50:17)
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エフェソ4:32)

私たちの悩みの多くは人間関係の悩みで、それは究極的には罪の問題であると思います。お互いの間にある罪をどう考え、処理したら良いのか。私たちの抱えている辛い思いの多くは、そこに根ざすのではないでしょうか。相手がしたことが不本意だ、容認できない、赦せない。あるいは逆に、相手に合わせる顔がない、次に会ったときに何といったら良いのか分からない。そうでなければ、どうして相手があれほど怒っているのか理解できない・・・など。
今日の旧約聖書に登場する「ヨセフの兄」たちは、かつてヨセフを殺そうとしました。そのことがきっかけでヨセフは故郷から遠く離れたエジプトで奴隷になり、無実の罪を着せられて何年も牢獄にと孤児込められた。「どうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください」と言っても、ヨセフの立場からしたら到底赦しようがない、ということになると思います。しかし、ヨセフは兄たちと和解しました。自分と兄たちとの間には実は神がおられ、これまでの自分たちの歴史も神が支配しておられる、と信じることができるようになったからです。
「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」このような私たちのあり方は、ただ、キリストを仰ぐことによってだけ可能になるのだと思います。神がキリストにあって私をも赦してくださった。私とも和解してくださった。私たちが憐れみ深い者になることができるとしたら、キリストの愛から以外に始まりうる場所はありません。

2026年2月14日土曜日

2026年2月14日の聖句

ご自身に忠実なる者たちの命を守られる方は、逆らう者たちの手から彼らを助け出してくださる。(詩編97:10)
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。(使徒9:31)

今日の新約の御言葉には「教会は・・・平和のうちに築き上げられ」と書いてあります。しかしこの時の教会の状況を考えると、必ずしもすぐに「平和」と言えるようなものではなかったのではないか、と思います。
このとき、サウロというユダヤ人がいました。彼は非常に熱心なファリサイ派で、キリストの教会を激しく迫害していた。その人がダマスコに向かう途上、不思議な仕方で主イエスと出会い、回心しました。サウロは新しくなった。
しかし、教会にはそんなサウロの言い分を信じられないと思う人も少なくありませんでした。当然だと思います。ついこの前まで自分たちを迫害し、捕らえ、縛りあげて連行した人物です。ステファノという人が殉教したときにもその場に居合わせた人間です。イエスと出会ったと言われても「嘘かもしれない、これは罠だ」と思われても仕方がなかったと思います。教会の中にはサウロを殺そうと狙う人もいました。そういう状況を報告し、続けて今日の御言葉に至るのです。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。」
教会の平和は、私たちの人間としての仲の良さや気の合う・合わないには依存しません。表面上平和に見えるかどうかが決定的な意味を持つのではない。そういう意味では甚だ不完全な人間集団に、しかし聖霊なる神様が働きかけてくださり、主を畏れて歩み、神の慰めを共に頂くところに平和が生まれるのです。最初の教会は痛みを抱えながらも、そういう神さまの御業に与り、それに生かされました。そんな教会で、やがてサウロも一人の使徒としてキリストに仕え、宣教のために用いられたのです。神さまの御業に開かれ、虚心坦懐に聖霊を待ち望む教会がここにあります。

2026年2月13日金曜日

2026年2月13日の聖句

もし主の声に聞き従わないならば、主の手はあなたがたの先祖を攻めたように、あなたがたをも攻めるだろう。(サムエル上12:15)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストの内に根を下ろし、その基の上に建てられ、教えられたとおり信仰によって強められなさい。(コロサイ2:6~7)

改革者ルターは、私たちの信仰生活に大切な三つのことを挙げました。「祈り」「黙想」「誘惑」の三つです。
祈りと黙想は、よく分かるような気がします。私たちは神さまに向かう存在として造られましたから、神に祈ります。私たち自身に心を向けるのではなくただ神を待ち望む。祈る者として生きる。そして、黙想は、私たちの外から響く神の言葉に耳を傾けることから始まります。自分の内面を探るのではないし、無の境地を目指すのでもない。私たちの黙想は、外から響く神の言葉の黙想、福音の中に沈潜することです。
ところが三つ目の「誘惑」は分かりにくい言葉です。この言葉は「攻撃」と訳すこともできるそうです。誘惑にしても攻撃にしても、誰に誘惑され、攻撃されるのか。神さまです。神さまから攻撃されること、神の誘惑に身をさらすこと。
今日の御言葉ではこのように言っています。「もし主の声に聞き従わないならば、主の手はあなたがたの先祖を攻めたように、あなたがたをも攻めるだろう。」私たち人間の歴史は、まさに、神に従うことなく神からの攻撃を受け続ける歴史であるように思います。大事なのは、それが「神の攻撃である」ということを知ることです。単なる不運ではないし、巡り合わせの悪さではない。今受けているこの苦しみは、神からの攻撃に他ならない。そのことを知るとき、私たちの生き方が変わります。この苦しみにも神の語りかけがあるのです。ここで響く神の言葉の黙想が始まる。その苦しみの中で神を呼び求める祈りが始まる。
これこそ、キリストの内に根を下ろし、キリストという基に立てられ、キリストの教えによって強められる信仰ではないでしょうか。

2026年2月12日木曜日

2026年2月12日の聖句

私はあなたの背きを雲のように
罪を霧のようにかき消した。
私に立ち帰れ。
私があなたを贖ったからだ。(イザヤ44:22)
イエス・キリストは罪を取り除くために現れたのだということ、そして御子の内には罪がないのだということを、あなた方は知っています。(1ヨハネ3:5)

「私に立ち帰れ」と主なる神さまは私たちに呼びかけてくださっています。私に立ち帰れ、私のもとへ戻ってこい、と。神さまの救いの手から離れ、自分の好きなところへ迷いでてしまった私たちに、それでも「帰ってこい」と呼び続けてくださっている。聖書が語る神さまと人間の歴史は、その繰り返しです。
イザヤ書第44章は、ユダヤがバビロン捕囚から解放されていく時期に語られた預言の言葉です。生活が本当にメチャクチャに壊れてしまったバビロン捕囚。そこからの救いが宣言された。私たちは神さまから離れ、神さまを蔑ろにして生きてきた。その結果がこの悲惨だ。「私に立ち帰れ」という神さまの招きに応えよう、私たちを救ってくださる神さまを仰ぎ、このお方を信じよう、と預言者は言います。
それでも、ちっとも神さまの元へ帰ろうとも、悔い改めようともしないのが、いつの時代にも変わらない人間の習性であると思います。「私に立ち帰れ」という神の招きを私たちは無視し続けてきた。しかし、イエス・キリストにあって新しい出来事が起こりました。「イエス・キリストは罪を取り除くために現れた」と書かれています。「私に立ち帰れ」と言ってくださった神さまは、私たちがご自分のもとへ帰るのを座して待つのではなく、こちらまで迎えに来てくださいました。イエス・キリストです。キリストはちっとも悔い改めない私たち、神さまを無視する私たちのところに来てくださいました。神がこちらへ来てくださった。
私たちがどんなに分からず屋で、そのためにどんな悲惨を招き混んでいたとしても、ここにもキリストはいてくださる。キリストが私たちの間に現れた。それが本当のことなのです。

2026年2月11日水曜日

2026年2月11日の聖句

エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。
わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。
それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき
わたしは彼をあわれまずにはいられない。ー主のことばー(エレミヤ31:20)
神はあらかじめ選ばれたご自身の民を退けたりなさいませんでした。(ローマ11:2)

ここに出てくる「エフライム」というのは、イスラエルの民のことです。神さまに繰り返し背き、軍事力や政治力で生き延びようとしましたが、結局は滅んでいきました。しかし彼をご覧になりながら、主なる神さま言われます。「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。」神さまは私たちの背きが招く裁きの現実をご覧になりながら、しかし「お前はわたしの喜びではないのか」と言い続けてくださっています。私たちの悲惨をご覧になりながらはらわたを痛め、身も心も苦しむような呻くような思いで私たちを想ってくださり、私たちを憐れんでくださっている。今日の旧約の御言葉は、私たちを惜しんでくださる神さまの憐れみを語り出しています。
神さまはご自分の民を退けるようなことはなさらない。私たちに惜しむべき価値があるからではない。私たちにもったいないと神に思わせるような隠れた魅力があるからではない。ただご自身の憐れみのゆえに、神は私たちを捨てず、ご自分の選びを貫徹してくださいます。
「エフライムはわたしの大切な子、喜びの子」と言ってくださいます。神さまから喜びを奪い、神さまの「大切」という思いを裏切る私たちになお言ってくださっています。主の憐れみにすがりましょう。そして私たちもまた主イエス・キリストを喜びましょう。

2026年2月10日火曜日

2026年2月10日の聖句

(ヤコブの言葉)私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるには足りない者です。(創世記32:11)
(パウロの手紙)しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(1テモテ1:16)

「ありがとう」は漢字では「有り難う」と書きます。「有ることが難い」という字です。よくよく考えると凄い言葉です。相手の好意やしてくれたことは決して当たり前のことではなく、このように有ることが難いこと、本来はないような希有な好意だ、という意味になるのではないかと思います。
今日の御言葉を読んで、この「有り難う」という字を思い出しました。「私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるには足りない者です。」私たちは、神さまの慈しみとまこととを受けるに値しない者です。そもそも神さまの前にいる価値のない存在です。ところが神さまは私たちに命を与え、それを保ってくださっている。それどころか、独り子を与えてくださいました。御子を殺した私たちです。神の敵である私たちです。そんな者に慈しみとまことを示してくださった。どんなに言葉を重ねても足りないほどに、文字通りに「有り難い」事実です。
その「有り難い」ことが起きたのは、ただ神の寛容だけによるのではないでしょうか。そして、神の憐れみに満ちた寛容は、私たちもそれに参与するように招きます。「しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」私もキリストにならうようにと招いておられます。
しかし、キリストが示してくださった寛容の欠片も見つからない私です。神の慈しみを受けるに値しない私です。ただただ、主にすがります。主の憐れみと赦しを請う以外には生きる道がないのです。

2026年2月16日の聖句

見よ、わたしは使者を送る。 彼はわが前に道を備える。(マラキ3:1) その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。(マルコ13:27) 地の果てから天の果てまで、と主イエス・キリストはおっしゃいます。凄いスケールです。地の果ての私た...