2026年6月25日木曜日

2026年6月25日の聖句

あなたがたは強くあれ、力を落としてはならない。あなたがたの働きには、報いがあるからだ。(歴代誌下15:7)
主人は言った。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」(マタイ25:21)

「あなたがたの働きには、報いがあるからだ」と今日の旧約に書かれています。私たちが神さまからの報いをいただけるような働きというのは、いかなる働きなのでしょうか?人からの報いや自己満足ではなく、神さまから報いをいただくというのはどういうことなのか?
今日の新約の御言葉は、主人である神様がある僕を「良い忠実な僕だ」「主人の祝宴に入りなさい」と言って報いておられる、という場面です。この人は主人から5タラントンという財産を預かり、それを用いて他に5タラントンをもうけました。ここには他にも同じように2タラントン預けられた僕、1タラントン預けられた僕もいた。2タラントンの僕も5タラントンの僕と同じように、預けられたものを用いて他に2タラントンもうけ、主人から同じ言葉で報いて頂きました。ところが1タラントンの僕は主人が怖かったので、この1タラントンを無くさないように土に埋めておき、後で手つかずの1タントンを主人に差し出しました。主人は激しく彼を責めてその1タラントンを取り上げ、5タラントンの僕に与えてしまいました。1タラントンの僕の働きは報いて頂けなかった。
主人が僕に求める「良さ」「忠実さ」は、恐らく、与えられたものへの誠実さなのだと思います。もしも1タラントンの僕のように自分では何もできないと思うなら、主人自身が言っていますが、自分のタラントンを銀行に預けるということもできた。つまり、他の人に任せてそれを用いてもらうこともできたはずだ、と言うのです。自分の能力や失敗への不安の中で「自分のタラントンの大小」にこだわるよりも、その与えられたものが生かされる道を探し、それを実行することが大事なのだと思います。与えられたものに忠実に生きる。
神さまは私たちに何を預けておられ、何を期待しておられるでしょうか。私たちは、神さまに預けられたものに誠実に生きているでしょうか?主の御前で私たちはいかに生きているか?今日、御言葉はそのことを問いかけています。

2026年6月24日水曜日

2026年6月24日の聖句

どうか主よ、激しくお怒りにならないでください。いつまでも過ちを憶えていないでください。ご覧ください。私たちは皆、あなたの民です。(イザヤ64:8)
(洗礼者ヨハネの言葉)それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。(マタイ3:8)

今日の新約の御言葉はとても厳しい言葉です。「それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。」ここで「それなら」というのは、罪を悔い改めるなら、ということでしょう。罪を悔い改めて神に赦しを請うのなら、口先だけではなくそれにふさわしい実を結べ、悔い改めにふさわしい生き方をせよ、ということではないでしょうか。
罪を悔い改め、それにふさわしい実を結ぶというのは、生き方を方向転換するということです。これまでまことの神さまではない何かを神として拝んで生きてきた。現代を生きる私たちにとって、多くの場合それは直接的な「異教の神々」のような何かであるよりも、現代世界に当たり前のように流布している価値観ということが多いように思います。お金がすべてに優る価値になっていることや、暴力的で非人間的な社会システムに依存しなければ生きられない仕組み、弱い者を踏みつけた上にその声を黙殺しても構わないという空気など、いろいろな顔を持っています。どれも主なる神さまを信じてこの方に従うことなど意味のないことだと吹聴しています。この世が崇める価値の方が現実的だと嘯いています。
「悔い改める」というのは、そのようなこの世の神々に背を向けて主のもとに帰ることです。私たちはこの世の価値が求める成果ではなく、主なる神さまの前にへりくだって結ぶ実、つまり「悔い改めにふさわしい実」をこそ求める。これが自然な生き方ではないでしょうか。神のもとには大いなる赦しがあります。主は御許に立ち返る者を受け入れ、愛してくださいます。
今日、あながた結ぶ実、求める実りはどのような果実でしょうか?

2026年6月23日火曜日

2026年6月23日の聖句f

我らの神は救いの神。
わが主は死から逃れさせてくださる神。(詩編68:21)
神は、主を復活させ、また、その力によって私たちをも復活させてくださいます。(1コリント6:14)

「主われを愛す」という讃美歌があります。「主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、われを愛す。」私は弱い。しかし、主は強い。だから私は恐れない。怖くない。この讃美歌の英語の原詩の意味をもっと汲むのであれば、「イエスが私を愛してくださっている」と聖書が言っているから、私には恐れがない、ということになります。「何があっても私は怖くない」と虚勢を張っていっているのではなく、強がりで言い張るのではなく、聖書がそのように言っているから確かだ、という歌です。
「我らの神は救いの神。わが主は死から逃れさせてくださる神。」神さまは私たちの救いの神でいてくださいます。私たちの生きているときにも、そしてそれだけではなく死にゆくときにも神は私たちの救いの神でいてくださり、私たちを死からさえも救ってくださるお方。聖書がそのように言うのです。だから、私たちには恐れはない。私の弱いときにも主が強くいてくださるからです。

2026年6月22日月曜日

2026年6月22日の聖句

主はこう言われる。
私は覚えている
あなたの若い頃の誠実を
花嫁の時の愛を
種の蒔かれていない地、荒れ野であなたが私に従って来たことを。(エレミヤ2:2)
私たちは、初めの確信を終わりまでしっかりと保つなら、キリストにあずかる者となるのです。(ヘブライ3:14)

主なる神さまが選んでご自分の民としてくださり、鷲の翼に乗せてエジプトから荒れ野まで運んでくださった。神の民として私たちは生きる。それが聖書の民(私たちもその一員です)の原点です。「若い頃の誠実」「花嫁の時の愛」というのは、エジプトを脱出して旅した「種の蒔かれていない地、荒れ野」で神に従ったことを指しています。何もない場所、神に頼る以外に生きるすべを持たない者として、神の民は生きたのです。
やがて約束の地に入り、生活が安定すると、民は最初の愛を忘れました。神が私たちを選んでくださったという事実も、神が種の蒔かれていない地、荒れ野で生かしてくださったという恵みの出来事も、忘れてしまった。神が愛してくださった事実も、神を愛してきたことも、まるで意味を持たないかのような生き方をした。
その姿は、そのまま私たちのものです。神さまが選び出してくださったという原点も、神を愛して生きることこそ私らしい生き方であるということも、私たちはすぐに忘れてしまう。それが人間らしくない私たちの社会の現実を生み出してしまっている。
しかし、私たちが忘れても神さまは忘れないでいてくださいます。私たちが神さまのことを考えなくても、神さまは私たちのことを考え続けてくださっています。そこに私たちの救いがあるのです。神さまが私たちを御心に留め続けてくださっているという事実だけに。

2026年6月21日日曜日

2026年6月21日の聖句

今週の聖句:
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

今日の聖句:
苦難の中から私が主に呼びかけると
主は答えてくださった。(ヨナ書2:3)
(パウロの言葉)主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。(2コリント12:9)

神は弱い人をご自分の御許に引き寄せてくださるお方です。ご自身の力を、私たちの弱さの中で現してくださいます。この世界が好み、礼賛する力とは異質な力です。弱い人に力を与えて人並みに強くするのではなく、弱さそのものの中にご自身の力を現されます。
パウロには持病があったようです。その肉体の刺を去らせてくださるように彼は祈りましたが、神はその祈りを叶えてはくださいませんでした。神の答は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」です。弱いままで、その弱さの中で、神の恵みの力が十分に現される、と神は言われるのです。驚くべき言葉です。
このお方は、私たちのために御子を与えてくださったお方です。誰よりも弱くなられた御子のへりくだりを私たちを救う力としてくださったお方です。このお方がそのようなお働きのゆえに、私たちはこのお方を賛美し、礼拝します。今日、私たちが御前で献げる営みは、この神の御業を喜び、たたえることです。

2026年6月20日土曜日

2026年6月20日の聖句

私の唇は喜び歌い、あなたに贖われた私の魂はあなたをほめ歌います。(詩編71:23)
父親は書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。すると、たちまちザカリアや口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。(ルカ1:63~64)

今日の新約に登場する「父親」は祭司ザカリア。彼と妻エリサベトは既に年をとっていました。二人には子どもがいませんでした。ある日、ザカリアのもとに天使が来て「あなたの妻エリサベトは男の子を産む、その子をヨハネと名付けなさい」と言われました。しかしザカリアは「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています」と言い、天使の言葉を信じませんでした。それで、天使はこのことが起こるときまで彼の口を利かなくしたのでした。
遂にエリサベトが天使の言葉のとおりに男の子を出産し、八日目を迎えたときのことです。近所の人々や親類は男児に割礼を授けるために集まりました。この日は幼子の命名の日でもあります。人々は父親の名前を取って「ザカリア」と名付けるのが良かろうと言い合いました。父親の名前や親類の名前をもらうのが当然の習慣だったのです。しかしエリサベトは、ザカリアから伝えられていたのでしょう、天使が告げた「ヨハネ」という名でなければならないと言った。そこで人々はザカリアに尋ねた。何と名付けるか?それで、父親は書き板を持って来させ、「その名はヨハネ」と書いたのです。
この名付けは、天使を通して語られた神の言葉を受け入れ、それを信じますという告白です。神さまの出来事が私にもおこっていることを信じ、それに従い、それを喜びます。ザカリアもエリサベトも、そう告白しました。そのとき、彼の口が開き、舌がほどけた。そして開かれた口に彼が最初にのぼらせたのは神をほめたたえる賛美の言葉だったのです。
今日の私たちの語る言葉が神を信頼するものであり、神をたたえる歌でありますように。

2026年6月19日金曜日

2026年6月19日の聖句

あなたは私の両足を広々とした場所に立たせてくださる。(詩編31:9)
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかり立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)

改革者マルティン・ルターの名著『キリスト者の自由』は、一見すると相矛盾する次の二つの命題から始まっています。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。」
キリストは私たちを自由にしてくださいました。私たちは律法の下に管理された奴隷(僕)ではありません。
主イエスは、「真理はあなたがたを自由にする」とおっしゃいました。キリストの真理は私たちを解放する。自由にする。私たちはキリストを信じて不自由になるのではない。キリストを信じたら窮屈で不自然な生き方を強いられるのではない。自由にされる。神様の御前に、私らしく、伸び伸びと生きることができる。
ところがそれは、僕として生きることのできる自由だ、とルターは言います。「キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。」キリストのために仕え、隣人のために仕えることのできる自由な僕になる。私たちは与えられた自由を罪を犯す機会とするのではなく、愛をもって隣人に仕えるために用いる。ルターはそう言うのです。
私たちは広い大地に立たせて頂きました。息をつくことができるし、大きくのびをすることができる。私たちは自由です。ですからしっかりと立ちましょう、この足で。キリストがしてくださったように、誰に対しても僕として仕える自由をもって、自由な大地を歩いて行きましょう。

2026年6月25日の聖句

あなたがたは強くあれ、力を落としてはならない。あなたがたの働きには、報いがあるからだ。(歴代誌下15:7) 主人は言った。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」(マタイ25:21) 「あなたがた...