2026年5月14日木曜日

2026年5月14日の聖句

心で罪人を妬むことなどせず
日夜、主を畏れよ。(箴言23:17)
(イエスの言葉)「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あなたがたは、これらのことの証人である。」(ルカ24:46~48)

聖書は本当に鋭いと思います。「心で罪人を妬むことなどせず、日夜、主を畏れよ」と書いてあります。私たちが自分に罪を犯した人を妬むことと、主を畏れることとは両立しない、と言うのです。自分の心を省みてみると、確かに、「あの人は悪い」「自分に対して悪を行った」と感じるときには少なからず「妬み」も共存しています。実は妬ましいという本音があるのにそれを覆い隠すようにして「あの人が悪い」と自分を納得させている、ということが起きているのではないか。実はその心は神を畏れる心とは正反対のものだ、と聖書は言うのです。痛い言葉です。
日夜、主を畏れる。聖書は私たちを神の前に引き出します。神の前に身をかがめ、神を畏れる。そこから私たちの人間関係も新しく始まる。
今日はイースターから40日目で、教会の暦では「昇天日」と呼ばれています。今日の新約の御言葉は主が昇天なさったときに弟子たちに語りかけた御言葉です。メシアの苦しみと復活。そしてメシアの御名による罪の赦しの福音の宣教。これは、主の御前にひれ伏し、このお方を畏れる信仰です。私たちはキリストの死と復活という福音によって、キリストを畏れ、崇める新しい私に造りかえられている。この福音に仕える新しい人生に、私たちは送り出されているのです。

2026年5月13日水曜日

2026年5月13日の聖句

すべての魂と、生きているものは、御手の内にある。(ヨブ記12:10)
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカ23:46)

十字架にかけられた主イエスはご自分の霊を神の御手にお委ねになって、息を引き取られました。ご自身の存在の深みを、ご自分の霊を、神の御手にお委ねになった。「すべての魂と、生きているものは、御手の内にある」とヨブ記に書かれているとおり、私たちの命も魂も霊も、すべては神の御手の中にあります。主イエスは十字架にかけられてもなおそのことを信じ、神にご自分のすべてを任せてしまわれました。
ペンテコステは、神が、このキリストの霊を私たちにお送りくださった日です。キリストが十字架の上で神の手に委ねたキリストご自身の霊が私たちのところへ降って来られた。十字架にかけられたキリストの霊によって教会が誕生しました。私たちは、十字架にかけられた方の霊を与えられています。私たちは、十字架の上で神を信頼し、神にすべてをお委ねになった方の霊によって生かされています。私たちは、十字架にかけられたキリストのものです。
私たちは私たち自身をこれからどうしていくのでしょう?神に委ねるのか、あるいは自分で自分の命のことを心配して生きていくのか?「父よ、私の霊を御手に委ねます。」このキリストの祈りは、このお方の霊を頂いた私たち教会の祈りでもあるはずです。

2026年5月12日火曜日

2026年5月12日の聖句

主はすべてを失った者の祈りを顧み
その祈りを軽んじませんでした。(詩編102:18)
正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(ヤコブ5:16)

今日の新約の御言葉はヤコブの手紙の末尾に近いところのものです。ここには「執り成しの祈り」のことが書かれています。ヤコブは言います。「あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗って、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。」そして、今日の御言葉に続いているのです。
病気のとき、自分のための祈りを教会に求める。自分で祈ることができないときにも、教会が祈ってくれる。信仰による祈りが弱っている自分を救ってくれる。自分が罪を犯していても、教会の執り成しの祈りを神が聞いてくださってその罪を赦してくださるとさえ言っています。祈りには、私たちが思っている以上の力があります。神さまは祈りによって私たちの罪に対する処遇さえ思い直してくださるというのです。驚くべき言葉です。
私たちも祈りましょう。お互いのために。教会の仲間のために祈りましょう。病気の友のために、困窮し、喘いでいる友のために。罪を犯し過ちを犯してしまった友のために。私たちも祈りましょう。キリストが私たちのために祈ってくださったように、私たちも互いのために祈り合いましょう。

2026年5月11日月曜日

2026年5月11日の聖句

主のように聖なる方はなく
あなたに並ぶ者はいません。(サムエル上2:2)
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
全能者である神、主。
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」(黙示録4:8)

今日の二つの御言葉は、どちらも「聖」とあります。神さまは聖なるお方。
この「聖」という言葉について、ある聖書学者がこのように言っています。「『聖』という概念はイスラエル宗教において最も深く、最も謎に満ち、最もすばらしく、最も厳しいものを意味する。」謎に満ちている、と言います。「聖」は神御自身の御性質であって、私たちには捉えきることができない。私たちにとっては謎に他ならない。なぜなら、神は聖なるお方であり、「あなたに並ぶ者はいません」と言われるべきお方だからです。私たちが他の何かしらから類推して「神の聖なることとはこういうことだ」と、自分の概念に押し込めてしまうことができないのです。神の聖でいらっしゃることは私たちにとっては謎であり、畏るべきことです。
旧約聖書のレビ記を読むと、とても細かい祭儀の規定があります。そこでは徹底して私たちの「汚れ」が語られています。現代の感覚で読むと理不尽なほどに徹底しています。普通に生活していれば必ず汚れてしまう。しかしレビ記の徹底した「汚れへの感覚」は、逆説的に、神の聖でいらっしゃることを語ります。私たちは、自分の汚れを汚れと指摘されることによってでしか聖が分からないのです。
そんな私たちにできるのは、聖なる神を賛美することだけです。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
全能者である神、主。
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」
私たちも心合わせて神を賛美し、聖なるお方を礼拝する。私たちの汚れた唇に聖なる神への賛美が授けられます。ここに私たち人間のあるべき姿があるのではないでしょうか。

2026年5月10日日曜日

2026年5月10日の聖句

今週の聖句:
ほむべきかな。神。
神は私の祈りを退けて、御恵みを私から取り去らなかった。(詩編66:20)

今日の聖句:
私たちが仕える神は、火の燃える炉の中から、私たちを救い出すことができます。たとえそうでなくとも、私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません。(ダニエル3:17~18)
聖なる方、真実な方
ダビデの鍵を持つ方
この方が開けると、誰も閉じることができない。
「あなたがたは力の弱い者であるが、私の言葉を守り、私の名を否まかったからである。」(ヨハネ黙示録3:7,8b)

ダニエルはネブカドネツァル王が支配するバビロンに生きた信仰者として聖書に登場します。故国ユダを滅ぼした圧倒的な軍事力を持つ国。バビロニアには発展した文明とすばらしい文化が満ちあふれていたに違いありません。そして、それを支えるバビロンの宗教があった。ネブカドネツァル王はあるとき巨大な金の像を造り、これにすべてのものがひれ伏すことを要求しました。ところが、ダニエルは主なる神さまのみを礼拝する信仰者でしたから、それを拒んだ。そのために、彼は燃えさかる火の炉に投げ込まれることになりました。
その時にダニエルが言った言葉が今日の御言葉です。神は火の燃える炉から私を救うことがおできになる。そう、実際に神はそのようにダニエルを助けてくださった。しかしもっと大事なのは彼の言葉の後半です。「たとえそうでなくとも、私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません。」この「たとえそうでなくとも」がダニエルの信仰です。私たちは神がどうにかしてくれるという保証があるから従うのではない。神が事態を好転してくれることが期待できるから信じるのではない。ご褒美があるから信じるのではない。この方こそまことの神でいらっしゃるから、他の何ものも神とはしない。神は私を助けることがおできになる。しかしたとえそうでなくても、私は主だけを礼拝する。
異教社会に生きるダニエルです。私もこの人のようでありたい、と願います。

2026年5月9日土曜日

2026年5月9日の聖句

私があなたがたを救い
あなたがたは祝福となる。(ゼカリヤ8:13)
神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。(2コリント1:4)

今日の旧約の御言葉として与えられているのはゼカリヤ書8:13の一部ですので、改めて13節全体をここに引用します。
「ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは、かつて諸国民の中で呪いとなったが、今や私があなた方を救い、あなたがたは祝福となる。恐れてはならない。勇気を出せ。」
かつてユダとイスラエルは諸国民の中で呪いであった、と言います。主なる神さまを捨て、国が破滅し、人々の呪いの的となった歴史をユダとイスラエルの国は持っている。そのことを言っているのでしょう。かつては諸国民の中の呪いであった者たちを神が救ってくださって、今や諸国民の祝福に変わる。あなたたちの罪はかつては諸国民にとっても呪いでしかなかった。ところが今やあなたたちによって私の祝福が諸国民にもたらされる。神はそう言ってくださっているのではないでしょうか。
「救い」ということを私たちはとかく個人的に考えがちです。これまでの私の不全感やコンプレックス、個人的な不幸や悩みから解放されることが私の救い。「私の罪責感からの救い」に限定して考えてしまうところがある。ところが聖書の描く救いはもっとスケールが大きい。神の民の救いは諸国民の祝福だと言うのです。
今朝の新約聖書の御言葉も同じです。パウロの慰めはコリント教会の人々にももたらされ、彼らにとっての慰めにもなる。神はあらゆる苦難のときに私を慰め、あなたをも慰める。ここでの「あなた」が意味する範囲は決して小さくないと思います。世界中を巻き込み、2000年後の私たちをも巻き込みました。パウロは、神さまは個人的に私に関わって私だけを慰めてくれた、とは言わないのです。
主なる神さまは、私たちをこの世界のための祝福の基、慰めの源としてくださいます。私たちも主に遣わされた使者として祝福を携えてここから出て行くのです。

2026年5月8日金曜日

2026年5月8日の聖句

主よ、私たちの父よ、私たちを見捨てないでください。私たちを見放さないでください。(列王記上8:57)
(イエスの言葉)「私は天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)

今日の旧約の御言葉は、私たちの祈りや願いそのものではないでしょうか。「主よ、私たちの父よ、渡した異を見捨てないでください。私たちを見放さないでください。」私たちも同じように祈ります。神が私たちを見捨てず、見放さないでいてくださるように、主の憐れみを求めます。神さまに「父よ」とお呼びして、神さまの慈しみを慕い求めます。それが私たちの祈りなのではないでしょうか。
主イエス・キリストはおっしゃいます。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」そのお方が私たちと世の終わりに至るまでいつも共にいてくださる、と約束してくださいました。天と地の一切の権能、というのはすごい言葉です。この世で起こるすべてのことに対する権威をお持ちだとおっしゃいます。言葉を換えれば、天と地のすべてのものの王だ、ということになるのではないでしょうか。すべての王、まことの支配者でいらっしゃる方が世の終わりまで共にいてくださる。それが、私たちの祈りへの答えです。主は決して私たちを見捨てず、私たちを見放さないでいてくださる。ご自分の権威を持って私たちと共にいてくださる。
だから、今日の日を雄々しく生きていきましょう。キリストを信じ、このお方の力により頼んで、喜んで今日の一日を歩みましょう。

2026年5月14日の聖句

心で罪人を妬むことなどせず 日夜、主を畏れよ。(箴言23:17) (イエスの言葉)「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あ...