2026年10月10日土曜日

2026年10月10日の聖句

主の手は短いのだろうか。(民数記11:23)
弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った。(マルコ4:41)

「主の手は短いのだろうか。」つまり、神さまには力がないのだろうか、何もすることはできないのか、結局は無力で祈っても無駄ではないか。そういう問いです。あなたは、どう思いますか?主の手は短いのでしょうか?
私たちにそう思わせるような出来事はたくさん起きています。この世界で数多起きている悲惨や不正、権力ある者の横暴、あるいは自然災害などもそうかもしれません。どうしてこのようなことが?神がおられるなら、なぜ?私たち自身もそう思うかもしれないし、また私たちがそういう問いに晒されることも少なくないのです。
今日の新約は弟子たちの言葉が伝えられています。主イエスについて、彼らは言いました。「一体この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」これは、ガリラヤ湖での出来事です。夕方になって主イエスに促されて弟子たちは向こう岸へ渡るために船に乗り込みました。すると激しい突風で舟は水浸しになってしまった。弟子たちは溺れ死ぬと思いましたが、主イエスは艫の方で枕して眠っておられます。彼らは主を起こし、主は彼らのために風を叱り、湖を静めてくださった。
マルコがこの出来事を福音書に伝えたとき、恐らく彼は単なるイエス様のすごいエピソードとして伝えたのではなく、もっと具体的な身の回りの教会の状況を思いながらこれを書いた筈です。つまり、マルコを取り巻く教会の状況は、この時の湖の上で突風に襲われる舟と同じだったのです。ところが主イエスは、まるで眠っておられるように何もしてくださらない。神さまは一体何をしておられるのか?無力なのか?私たちを救うことなんてできないのではないか?しかし、主の御言葉が響くとき、新しい出来事が起こる。湖を静め、私たちを滅びから救ってくださる。ちょうど、無力にも十字架にかけられた主イエスが三日目に復活させられたのと同じように。主イエスは眠っておられるように見えたけれど、実は復活して私たちとずっと共にいてくださった。マルコはそういう信仰をここで伝えているのだと思います。
私たちの信じる主なる神さまは、一見すると無力です。眠っておられるみたいです。しかし、それが十字架というしるしの意味です。私たちの神の子は無力にも十字架の上で殺された。しかし、そのお方が復活して今も共にいてくださる。私たちはこのお方の力と救いを信じます。このお方には私たちを救う力がある。そのことを信頼します。

2026年10月9日金曜日

2026年10月9日の聖句

見よ、主なる神が私を助けてくださる。
誰が私を罪に定められよう。(イザヤ50:9)
死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。(ローマ8:34)

私たちのキリスト、王でいらっしゃるお方、まことの神の子イエスが私たちのために今日も祈っていてくださいます。神の右で、神の一番近い場所で私たちのために神さまに祈りを捧げていてくださいます。十字架にかけられ、復活したお方です。私たちのために死者の中から甦らされたお方です。私たちを愛してやまない主イエスさまが今日していてくださるのは、私たちのための執り成しの祈りなのです。
なんて深く安心な事実なのでしょう!主イエスさまの祈りがあるから、私たちには何があっても大丈夫。誰が私に敵してもなんてことはない。代々の信仰者たちはそのことを固く信じ、喜んでキリストに仕えました。
それは、まさに今日の旧約の御言葉が言うとおりです。「見よ、主なる神が私を助けてくださる。誰が私を罪に定められよう。」主なる神さまが私を助けてくださる。誰も私を罪に定めることはできない。神から引き離すことはできない。神ご自身が私の味方でいてくださるから。
今日私たちがどこにいても、何をしていても、主は私たちのための祈りを決してお止めになることはありません。この完全な平安と絶対的な約束の中に、私たちの一日はおかれているのです。

2026年10月8日木曜日

2026年10月8日の聖句

この幻は、なお、定めの時のため
終わりの時について告げるもので
人を欺くことはない。
たとえ、遅くなっても待ち望め。(ハバクク2:3)
見なさい、農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ち望みます。(ヤコブ5:7)

私たちの心を騒がせる出来事がたくさんある世の中です。政治の腐敗、終わることのない戦争の噂、度重なる自然災害、将来起こるであろう大地震、ネットの普及が人心の悪いところに養分をまき散らしているようにも見えます。いくらでもそのような事例は挙げられるでしょう。「もう私たちの社会は終わりなんじゃないか」と思ってしまいます。
しかし、聖書はそういう批評家のような言葉に終始しているわけではありません。もっと長い視野を持って事柄を見ていると思います。つまり、「終わりの時」を見据えている。終わりの時は、神さまの領域です。私たちの世界が悪くなっていくからとか、逆に少しずつよくなっていくから、終わりの時が来るのではない。神さまが支配し、神さまが完成させるときがやがて必ず来る。それが聖書の見方です。神の国は定められたときにこの世界で完成する。私たちはそれを待ち望みます。
それは、農夫が春や秋になれば雨が降るのを知っているのと同じことだ、と主イエスは言います。もうすぐ雨の時期が来る。農夫はそのことをわきまえて畑の世話をする。必ず降る雨を待ち望んで。私たちも、必ず神が御業を完成させてくださることを信じて、今日、神に仕え隣人を愛します。

2026年10月7日水曜日

2026年10月7日の聖句

善を求めよ、悪を求めるな
あなたがたが生きるために。(アモス5:14)
誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。(1テサロニケ5:15)

今日の旧約には「善を求めよ、悪を求めるな」と命じられています。ここで言う「善」や「悪」というのはどういうことでしょうか。というのも、恐らくこれは現代だけの話ではないと思いますが、私たちにはそれぞれ自分の立場から見える「善」や「悪」があり、たいていの場合は善と善とがぶつかって混乱しているのです。特に今は「価値観の多様化」などと言ってそれぞれの善があるかのようにさえ言われます。
聖書は何をもって「善」と呼ぶのか。それは明らかです。今日の箇所に先立つ7節には「公正を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てる者よ」と書いてあります。公正と正義を捨ててしまっている。そこに人々の悪がある。つまり、聖書が言う善とは、公正と正義です。そしてこの公正と正義も、一般的な公正や正義、あるいは私たちが自分でイメージする公正や正義ではありません。聖書、特に律法が教える公正と正義です。
預言者イザヤも言っています。「善を行うことを学べ。公正を追い求め、虐げられた者を救い、孤児のために裁き、寡婦を弁護せよ」(イザヤ1:17)。出エジプト記にはこのように書かれています。「寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。・・・いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない」(出22:20a、21)。神を愛し、弱っている隣人を愛するところに、聖書が言う公正と正義がある。そしてこれは、神ご自身が私たちのためにしてくださったことです。
公正と正義は、神さまから私たちへの贈り物であるのと同時に課題でもあります。私たちは聖書が告げる善を擁護する務めがあります。権力者がこれを蔑ろにするなら「否」と言い、私たち自身がそのような小さな権力者の顔をしないように自らを戒めます。「誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。」

2026年10月6日火曜日

2026年10月6日の聖句

私が恥をさらすことがないようにしてください。
私はあなたのもとに逃れます。(詩編25:20)
(イエスの言葉)私が生きているので、あなたがたも生きることになる。(ヨハネ14:19)

今日の新約の御言葉は主イエスのお言葉ですが、直前にはこのように記されています。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。」そして、今日の聖句に続きます。「私が生きているので、あなたがたも生きることになる。」
ここで主イエスはご自分の十字架の出来事のことを語っておられます。主イエスが十字架にかけられる。それは、まるで私たちがみなしごになってしまうような出来事です。私たちだけ取り残される。世は誰もイエスを見なくなる。イエスはかつての宗教的偉人ではあるかもしれないが、既に死んだ過去の人に過ぎない、と。現代の人々もそう思っています。歴史や倫理の教科書に登場するキリスト教の開祖。世間はそう思っているでしょう。偉大な人物ではあるかもしれないが過去の人。それが「私たちがみなしごだ」ということの意味です。
ところが、世はイエスを見ないが、私たちはイエスを見ています。主イエスは生きておられる。復活したイエスの霊である聖霊が今私たちを生かしてくださっている。「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」と主イエスご自身が言われるとおりに。
主イエスの命のリアリティの中で今日の日を生きていきたいと願います。キリストは今日生きておられ、私たちと共にいてくださる。これはあなたにとっても真実である、紛れもない事実なのです。

2026年10月5日月曜日

2026年10月5日の聖句

塵や灰に過ぎない私ですが、あえてわが主に申し上げます。(創世記18:27)
女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」(マタイ15:27~28)

私たちの祈りの心、それは今日のアブラハムの言葉そのものです。「塵や灰に過ぎない私ですが、あえてわが主に申し上げます。」神さまの前で、塵や灰に過ぎない私。しかし、そんな取るに足りないつまらない私が神に祈ることを許されています。神はこんな私の祈りを待っていてくださる。神さまの愛と憐れみに信頼して、私たちは大胆にも天地を造られた神に祈ります。
今日の新約に登場する女も、大胆な人です。大胆に主イエスに詰め寄り、説得しました。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」ユダヤ人にとっての「犬」は汚れた動物です。日本語では「小犬」というととてもかわいいイメージですが、聖書の世界ではそうではありません。主イエスの前で私は取るに足りない小犬に過ぎない。神の憐れみを要求できるような私ではない。しかし、彼女は大胆に主イエスに訴えます。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
私たちも、大胆に祈りましょう。自分の小ささやつまらなさ、罪や汚れに意気阻喪してしまうことなく、祈ることにおいては大胆でありましょう。神さまは私たちが祈ることを待っていてくださるし、喜んでくださる。憐れみ深いお方なのです。

2026年10月4日の聖句

今週の聖句:
すべてのものがあなたに目を向けて待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物をくださる。(詩編145:15)

今日の聖句:
立って、あなたがたの神、主をほめたたえよ。
いにしえからとこしえまで
あなたの栄光の御名がほめたたえられますように。
それはあらゆる祝福と賛美にまさります。(ネヘミヤ9:5)
食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10:31)

「食べるにも、飲むにも、何をするにも」と言っています。私たちが今日することの一つひとつが神の栄光を現すものでありますように。
「キリスト者は箸の上げ下ろしが違う」と聞いたことがあります。神さまを信じるとご飯の食べ方が変わる、と言うのです。この言葉を教えてくれた人はその答までは教えてくれませんでした。何が変わるのでしょうか。まず、お祈りをしてから食べるということがあるでしょう。しかし「箸の上げ下ろし」と言っているのですから、祈ったあとに食べる、その食べている姿そのものが変わってくるはずだ、と思います。そうすると、今日の御言葉がヒントになるのでしょう。私たちの食べ方は、「食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」という御言葉のとおりであるのか?神を賛美する食事の仕方なのか?
食べることも、飲むことも、歩くことや掃除をすること、今日の仕事をすること、遊ぶこと。そういう一つひとつのことが神を賛美し、ほめたたえるものでありたい。それが私たちの切なる願いです。

2026年10月10日の聖句

主の手は短いのだろうか。(民数記11:23) 弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った。(マルコ4:41) 「主の手は短いのだろうか。」つまり、神さまには力がないのだろうか、何もすることはできないのか...