2024年9月19日木曜日

2024年9月19日の聖句

(主よ、)あなたの僕を裁きにかけないでください。生ける者の中であなたの前に正しい者はいないからです。(詩編143:2)
イエスは女に、「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。(ルカ7:48,50)

主イエスさまが私たちを赦してくださるのでなければ、主が私たちを愛してくださるのでなければ、どうして私たちは生きることができるでしょうか。主が私たちの罪を一つひとつ覚え、数え、私たちを追求なさるのなら、一体どこに申し開きできる人がいるでしょうか。私たちは、誰にも知られたくないこと、誰にも話したくないこと、人に見せられないもの、人に見られたら生きていかれないようなものをたくさん抱えています。私たちは、ただただ神の憐れみを求めて祈るばかりです。「主よ、あなたの僕を裁きにかけないでください。生ける者の中であなたの前に正しい者はいないからです。」
私たちには本当に根深くて根強い思いがあります。自分は正しい。悪いのは相手であり、環境であり、神さまだ。自分に赦されなければならない罪があると認めることは本当に難しい。私たちには、神さまの前で自分のしていることを一度停止し、沈黙し、省みて、静まる時間が必要なのではないでしょうか。
私たちが生きるために本当に必要なものは、実はそう多くはないのだと思います。本当に必要なのはキリストの御言葉です。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」私たちを解放して自由を得させるキリストの言葉が、私たちにはどうしても必要なのです。

2024年9月18日水曜日

2024年9月18日の聖句

一つの星がヤコブから出て、一つの笏がイスラエルから立ち上がる。(民数記24:17)
私イエスが天使を送り、諸教会についてこれらのことをあなたがたに証しした。私は、ダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星である。(黙示録22:16)

主イエス・キリスト。このお方はダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星。私には、この「ひこばえ」という言葉が特に心に残ります。ひこばえ、それは切り株の根元から生え出でる新緑です。木を切って、木がその幹を失っても、やがて残った切り株からひこばえが生えてくる。死んだかのように見え、もう何も生まれないように見えるところに、新しい出来事が始まる。
しかも、このお方は「ダビデの」ひこばえです。ダビデ。イスラエルの王です。その子孫からまことの王が生まれる、と約束されていました。「一つの星がヤコブから出て、一つの笏がイスラエルから立ち上がる。」神が宣言してくださった約束の通り、ダビデの家に新しい王、ダビデのひこばえであるお方がお生まれになった。未来が見えないところに希望が生まれ、絶望に支配された世界に将来が与えられました。
このお方は「輝く明けの明星」です。夜は暮れてその闇が深まっても、やがて夜は明けて朝を迎える。その朝のしるしとして明けの明星が輝く。その星を見れば、もうすぐにも朝がやって来ると分かる。キリストはその望みのしるしです。このお方が私たちのところに来てくださった今、救いは近い。神の国はもう来ている。ダビデのひこばえが支配し、王となられる神の国は私たちのところにもう来ている。王イエスの御許に救いがある。私たちはその事実を信じ、このお方の光を慕い求めて、今日も祈りの道を上ります。

2024年9月17日火曜日

2024年9月17日の聖句

あなたは恵みの年を冠とされます。(詩編65:12)
神は恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださいました。(使徒14:17)

天から降る雨。それによって結ばれる実り。私たちの心を食物と喜びとで満たしてくださる。神の恵みです。神が私たちに命を与え、それを保つために恵みを与えてくださっている。私たちは神の恵みによって生かされています。
今日の旧約聖書の御言葉は、また素晴らしい御言葉です。「あなたは恵みの年を冠とされます。」主が私たちに恵みを与えてくださるその時、その日、その年を、主はご自身の冠としてくださる。神さまは私たちに恵みを与えてくださることをご自身の喜びとしてくださる、ということではないでしょうか。ご自身の栄光としてくださる、ということではないでしょうか。
これが神の愛ということではないかと思います。神さまは私たちの生きることを喜んでくださり、私たちを養うことをご自分の冠としてくださる。神さまは私たちを、生きていても死んでもどうでもいいものとはお考えにならず、私たちに与える恵みを大切にしてくださっているのです。
暑い夏がいつまで経っても終わりません。私たち人間の活動で、季節の移り変わりが大きく変わってきてしまっています。神がご自分の誉れとしてくださっている季節の実りが損なわれています。私たちが生きるために必要な物を神はすべて備えてくださっているのに、私たちの貪欲がそれを食い尽くしています。主の御前にへりくだり、足ることを知り、与えら得たものを喜んで感謝したいと願います。

2024年9月16日月曜日

2024年9月16日の聖句

主なる神が私を助けてくださる。
それゆえ、私は恥を受けることはない。(イザヤ50:7)
(ペトロは)風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。(マタイ14:30)

湖の真ん中で強風のために立ち往生していた小舟。その舟には主イエスがおられませんでした。主イエスは湖の上を歩いて、弟子たちの乗る舟に近づいてきてくださいます。ところが弟子たちは湖を歩いてくる人影を見て幽霊だと思って恐れました。主イエスだと知ったペトロは、主に願って自分も湖の上を歩いて主イエスのもとに行かせていただきます。主が来なさいと言ってくださった。その言葉に促されて彼は一歩、また一歩踏み出した。ところが「風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」それが、今日の御言葉です。
ペトロは主イエスを信じ抜くことができませんでした。だから沈んだ。ここでの「湖」は、混沌の象徴です。死の力のしるしです。私たちに襲いかかってくる死の力、悪の力、罪の力は強い。私たちにはそれを自分の力で打ち破ることができない。主イエスにだけ、それがおできになる。私たちはキリストの力を信じ抜いているでしょうか。私たちを取り巻く混沌の力よりも主イエスの方が強いお方だと、私たちは信じているでしょうか。
「主なる神が私を助けてくださる。それゆえ、私は恥を受けることはない。」この確信を私たち自身の信仰として、今日、この日を歩んでいきましょう。主イエス・キリストの恵みと祝福によって、私たちは今日も歩んでいきます。

2024年9月15日日曜日

2024年9月15日の聖句

今週の聖句:
キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。(2テモテ1:10b)

今日の聖句:
あなたが食べて満足するとき、主を忘れないように注意しなさい。(申命記6:11~12)
イエスは言われた。「よくよく言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではない。私の父が天からまことのパンをお与えになる。」(ヨハネ6:32)

キリスト者は箸の上げ下ろしも違う、と言われたことがあります。キリスト者らしい食事の仕方がある。どこが違っているのでしょう。ぜひ、ご自身の今日の食事のときに考えてみて頂ければと思います。
一つすぐに思いつくのは、食事の時に祈りを捧げるということです。この食事を与えてくださった神の恵みを感謝して、私たちは祈りを捧げます。「あなたが食べて満足するとき、主を忘れないように注意しなさい。」こう言われているとおり、私たちは主をすぐに忘れてしまいます。満腹して満足して、それを与えてくださった方のことをすぐに忘れてしまう。だから、私たちは繰り返し、食事の度に感謝をささげます。
神が、私たちのために天からまことのパンを与えてくださる。まことのパン、それは主イエスさまのことでしょう。主イエスさまを私たちのために与えてくださったお方は、主と共にすべてのものを私たちに与えてくださいます。キリストを信じ、キリストを見上げて、私たちの新しい一週間を歩んでいきましょう。今日の食卓を整えてくださるお方に、栄光と誉れがありますように。

2024年9月14日土曜日

2024年9月14日の聖句

思い煩いが私の心を占めるときも、あなたの慰めが私の魂に喜びを与える。(詩編94:19)
(イエスの言葉)「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:42~43)

自分の心を探ってみると、なんだかいつでも思い煩いに占領されているように思います。忙しいとか時間がないとか、自分のペースに合わないことがあれば周りが悪いとか、改めて考えてみると、やらなくてはいけないことにばかり追い立てられています。これでは神さまに仕えているのか、やらなくちゃいけないことに仕えているのか、よく分かりません。思い煩っている。
「思い煩いが私の心を占めるときも、あなたの慰めが私の魂に喜びを与える。」主の慰めが、私には必要です。主に慰めて頂かなくては生きていかれない。主の慰めが私の魂に喜びを与える。
主イエス・キリストは、十字架を前にして神に祈っておられます。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」主イエスは自分の願いを抱きながらもそれに固執するのではなく、神の御心にご自身を明け渡しておられます。祈りによるキリストの自由が私たちを救うのです。主イエス・キリストのこの祈りが私たちの慰めです。このように祈るお方であるからこそ、私たちを救ってくださるお方なのです。
思い煩いを抱くなら、そのときにこそキリストを見上げましょう。主イエスさまの憐れみによって、今日も生かして頂きましょう。

2024年9月13日金曜日

2024年9月13日の聖句

あなたの慈しみの業を現してください。
攻め来る者から逃れる者を、右の手をもって救われる方。(詩編17:7)
キリストの名のゆえに非難されるなら、あなたがたは幸いです。栄光の富、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(1ペトロ4:14)

キリストの名のゆえに非難される。キリスト者として生きていれば、誰もが経験することです。キリスト者であるということ、私たちの信仰、そのゆえに非難され、あるいは肩身の狭い思いをしないわけにはいかない。ところがその時、実はあなたたちは幸いだ、と聖書は私たちに語りかけます。なぜなら、栄光の富、すなわち神の霊が、その私たちの上にとどまっていてくださるから。神の霊がとどまっていてくださる。私たちは孤独ではない。神が共にいてくださる。キリストの名のゆえに非難される私たちと。
「あなたの慈しみの業を現してください」と、詩編の祈りを捧げた信仰者は言います。神の慈しみの御業によって、私たちは生かされているからです。神の憐れみによって私たちは命をいただいているからです。
神は、攻め来る者から逃れる者を、右の手をもって救われる方。私たちは神に守られ、神の右の手によって救われる。そのことを信じて、今日も生きていきたい。そう願います。

2024年9月19日の聖句

(主よ、)あなたの僕を裁きにかけないでください。生ける者の中であなたの前に正しい者はいないからです。(詩編143:2) イエスは女に、「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。(ルカ7:48,50) 主イエスさまが私たちを赦してくださる...