2026年9月18日金曜日

2026年9月18日の聖句

私の魂を牢獄から引き出してください。
あなたの名に感謝するために。(詩編142:8)
ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神に献げられていた。(使徒12:5)

牢獄に入れられた使徒ペトロのための熱心な祈りが教会で捧げられていました。神はその祈りを聞いてくださった。ペトロは牢獄から救い出されていきます。そのために、神さまが御業を行ってくださいました。
「私の魂を牢獄から引き出してください。あなたの名に感謝するために。」
神さまは、私たちを牢獄から引き出してくださいます。人間が作った牢獄であっても、あるいは私たちの罪と悪という牢獄であっても。私たちを引き出し、解放し、自由にしてくださるのは主なる神さまです。
私たちの今日一日の歩みと私たちの言葉とが、神さまを賛美し、神さまに感謝を献げる者でありますように。私たちを自由にしてくださる方、私たちを囚われから解放してくださる方をたたえる言葉が、行いが、私たちのものでありますように。神を賛美するために私たちは自由にされた。神をほめたたえるために私たちは救われた。主イエス・キリストによって示された神の愛を賛美するために、私たちは今日という新しい一日に送り出されているのです。

2026年9月17日木曜日

2026年9月17日の聖句

あなたがたは、隣人や兄弟との間で互いに、「主は何と答えられたか。主は何と語られたか」と言わなければならない。(エレミヤ23:35)
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26:75)

私たちの問うべきことはこれだ、と主は言われます。「主は何と答えられたか。主は何と語られたか。」主が語られた事、主の言葉こそが私たちの問うべき事、私たちにとって何よりも大事なことです。
私たちのカンバーランド長老教会の「信仰告白」では、1.02でこのように告白しています。「三位一体の父・子・聖霊なる唯一の生ける神は、聖書を通して、自然や歴史の出来事を通して、また使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を通して語られるが、何よりも、肉体となったことばであるイエス・キリストにおいて比類なく語られる。」
神は今何を語っておられるのか?私たちはそれをどうやって聞くことができるのか?超自然的な託宣を求めるのではなく、瞑想や修行の果てに何かを悟るのでもない。私たちは、イエス・キリストを通して神の語りかけを聞きます。イエス・キリストこそ、神が比類なく語っておられる神の言葉そのものでいらっしゃるのです。
「信仰告白」は1.06で更にこのように言っています。「聖書において、また聖書を通して語られる神のことばは、ナザレのイエスの誕生と生涯と、死と、復活の光のもとで理解されなければならない。聖書の権威は、聖書の内にある真理と、聖書を通して語る神の声に基づいている。」
イエス・キリストの光の中で、私たちは聖書を読みます。それこそが聖書を通して「主は何と答えられたか。主は何と語られたか」を聞く、ということに他ならないのです。

2026年9月16日水曜日

2026年9月16日の聖句

主よ、あなたの慈しみが
私たちの上にありますように。
私たちはあなたを待ち望みます。(詩編33:22)
(イエスの言葉)私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける。(ヨハネ10:9)

今日の詩編の言葉こそ、私たちの祈りの言葉です。
「主よ、あなたの慈しみが私たちの上にありますように。」
神の慈しみは、主イエス・キリストを通して私たちの上に注がれます。イエス・キリストという門を通って私たちは牧場の中に入り、主イエスさまはその牧場の羊飼いでもいてくださって、私たちを養い、守ってくださいます。私たちはキリストに囲われ、キリストの慈しみの中で憩うことができる。「私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける」と主は言われます。キリストの完全な愛の中に、私たちは招かれています。
「私たちはあなたを待ち望みます。」
主イエスさまを待ち望みましょう。他の救いは、私たちにはありません。キリストは、私たちを真の神さまのところへ連れ上ってくださいます。キリストは私たちを神さまの御許に安らわせてくださいます。キリストこそ私たちの救いです。
「主よ、来てください。」私たちはそう祈り、今日という一日を歩み出します。主イエスさまを仰ぎ、主を愛し、それよりもはるかに大きい主イエス・キリストの愛の中に出発していきます。

2026年9月15日火曜日

2026年9月15日の聖句

主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。(出エジプト記14:14)
(イエスの言葉)連れて行かれ、引き渡されたとき、何を言おうかと心配してはならない。その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。(マルコ13:11)

「戦い」と言っています。私たちは、今一体何と戦っているのか。パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で「私たちの戦いは、人間に対するものではない」と言います。それでは誰に対するものなのか?「支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するもの」だと言います。今この世界を覆っている罪や悪、死の力といった闇の力を相手に私たちは戦っている。
エフェソの信徒への手紙は今から2000年近くも前に書かれたものですが、今も全く同じ戦いが続いているのではないでしょうか。今もまた悪い時代です。私たち人間は悪や罪の力の虜になっています。現代社会を強固に覆い尽くしているマネーや権力、非人間的な力をも発揮する強固なシステムなどは私たちの欲望や安定を求める指向性を餌にしてこの世界の中で育ちきってしまいました。弱い人や貧しい人、傷ついた人は居場所を奪われたままです。私たちはそんなこの世の悪と戦うのです。
しかしこの勝負は、実はもう既に決着が付いていることも確かです。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。」そう言われるとおり、主が御自ら戦い、悪を打ち破っていてくださる。私たちの周りにある悪は、実は悪の残存勢力に過ぎない。勝負は既にキリストが勝利しておられます。
ですから私たちに必要なことは、キリストの勝利を証しすることです。キリストが悪に内語られたことを宣言することです。そのための言葉はキリストご自身が備えてくださっている。悪に打ち勝たれたキリストを信じ、仰ぎ、キリストを宣べ伝えましょう。

2026年9月14日月曜日

2026年9月14日の聖句

その日が来るーー主の仰せ。
私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。(エレミヤ書31:31)
(ペトロの言葉)この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださるものなら誰にでも、与えられているものなのです。(使徒2:39)

新しい契約、と主なる神さまは言われます。神さまが私たちに手を伸ばし、神さまが御自ら私たちをご自分の子とし、私たちを愛してくださった。それが「新しい契約」の中身です。私たちの立派な信仰とか、私たちの立派な行いとか、私たちの熱心な態度が生み出すのではない。神さまが働き、神さまが私たちをご自分のものとしてくださる。そういう神さまからの一方的な約束を結ぼう、と主は言われます。
聖書のすごいところは、そういう良い知らせがすべての人を対象にしている、ということです。どんな人であっても神様の愛と慈しみの対象外という人はないのです。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださるものなら誰にでも、与えられているものなのです。」だから私も神に愛されている。だから私までも神の子とされている。
私たちが生きているのは、神さまの愛の物語です。自己責任の物語とか、自助努力の物語に生きているのではないのです。私たちは私たちを一方的に、どんな私でも愛してくださった方の愛の物語に生かされている。その事実の中に、私たちは自分を発見します。私たちのアイデンティティは、神さまが新しい契約の相手としてくださった私、なのです。

2026年9月13日日曜日

2026年9月13日の聖句

今週の聖句:
一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7)

今日の聖句:
主は虐げられた人の砦
苦難の時の砦。(詩編9:10)
みなしごや、やもめの苦労を見舞うこと、それが純粋で汚れのない父なる神への礼拝です。(ヤコブ1:27)

虐げられた人の砦になってくださる神さまは、その砦としての御業を、私たちを通して行おうとしておられます。「みなしごや、やもめの苦労を見舞うこと、それが純粋で汚れのない父なる神への礼拝です。」当時の社会の中で一番弱い人々であるみなしごややもめたちのところへ、私たちを遣わしておられます。彼ら彼女らの苦労を見舞い、虐げられた人と共に生きること。そういう憐れみの業こそが私たちの献げるべき礼拝だというのです。
神さまは私たちの社会を作り直そうとしておられるのではないでしょうか。私たちが個人的に神さまを信じて、自分のパーソナルな問題を解決し、不全感を癒やすということに留まるのではなく、神を信じる者をご自分の憐れみの御業のために遣わそうとしておられるのではないでしょうか。虐げられた人の砦として、弱っている人のための慰めとして。正義と公正を行わせるために、神は私たちを用いようとしておられるのではないでしょうか。

2026年9月12日土曜日

2026年9月12日の聖句

あなた自身くれぐれも気をつけ、注意を払い、目で見たことを忘れないようにしなさい。(申命記4:9)
マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:18)

今日の御言葉を聞いて、自分は一体何を見ているのだろうかと思いました。何を見ているのか。そして、見たものの意義を心に留めているのか。ただ漫然と目に入っているだけではないだろうか?
マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
主イエスの弟子の一人であったマグダラのマリアの言葉です。彼女は墓で主イエスと出会いました。十字架にかけられたイエスは死者の中から甦られた。その事実に遭遇しました。マリア自身も、他の弟子たちも、この朝から歴史が変わりました。
しかしその墓に居合わせたのはマリアだけではありません。番兵もそこにいました。ところがその番兵の知らせを受けたところで、ヘロデもピラトも他の人にしても、誰も変わりませんでした。自分の人生を揺るがすような出会いにならなかった。見るには見ても、注意を払ってよく見たわけではない。自分やこの世界の歴史を変える大事件を見過ごしにしたのです。
私たちはどういう目をもって生きているでしょうか?いかなる眼差しでこの出来事に直面しているでしょうか?信仰の目を開いてくださるのは、神さまです。聖霊の照らしを求めて祈ります。

2026年9月18日の聖句

私の魂を牢獄から引き出してください。 あなたの名に感謝するために。(詩編142:8) ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神に献げられていた。(使徒12:5) 牢獄に入れられた使徒ペトロのための熱心な祈りが教会で捧げられていました。神はその祈...