女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。(創世記3:6)
世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。(1ヨハネ2:17)
蛇が女を唆した言葉は、これです。「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」
「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた」と書いてありました。木の実は美味しそうだし、見た目も麗しく、いかにも賢くなりそうな魅力にあふれていた。見れば見るほど、女が感じていた誘惑は強くなっていったに違いありません。これを食べれば神のようになれる。善悪を知ることができる。そう、神は嘘をついていたのだ。これを食べても死ぬことなんてない。むしろ、神は私がこの実を食べれば善悪を知って賢くなることを知っていて嘘をついたのだ。神は私が賢くなることを妬んでいるのだ。神から解放されなければ、私は自由にはなれない。きっと、彼女はそのようなことを考えたのだと私は思います。
今日の新約には「世も、世の欲も、過ぎ去ります」と書いてあります。女の思いは「世の欲」だということになるのでしょう。他人を出し抜いて自分が賢くなろう、自分の思いに従って善悪を判断しよう。私の賢さでこの世を建て直してやろう。そういう思いは、欲です。神さま抜きだからです。神抜きの賢さは、ただ自分の願望や理想像を押しつけるだけの、甚だ罪深いただの小賢しさです。
「しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります」。私たちは自分の思う「賢さ」を追い求め、それに頼るのか。それとも、神の御心を行うのでしょうか。一度立ち止まって、考え直してみることは意義深いことです。
世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。(1ヨハネ2:17)
蛇が女を唆した言葉は、これです。「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」
「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた」と書いてありました。木の実は美味しそうだし、見た目も麗しく、いかにも賢くなりそうな魅力にあふれていた。見れば見るほど、女が感じていた誘惑は強くなっていったに違いありません。これを食べれば神のようになれる。善悪を知ることができる。そう、神は嘘をついていたのだ。これを食べても死ぬことなんてない。むしろ、神は私がこの実を食べれば善悪を知って賢くなることを知っていて嘘をついたのだ。神は私が賢くなることを妬んでいるのだ。神から解放されなければ、私は自由にはなれない。きっと、彼女はそのようなことを考えたのだと私は思います。
今日の新約には「世も、世の欲も、過ぎ去ります」と書いてあります。女の思いは「世の欲」だということになるのでしょう。他人を出し抜いて自分が賢くなろう、自分の思いに従って善悪を判断しよう。私の賢さでこの世を建て直してやろう。そういう思いは、欲です。神さま抜きだからです。神抜きの賢さは、ただ自分の願望や理想像を押しつけるだけの、甚だ罪深いただの小賢しさです。
「しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります」。私たちは自分の思う「賢さ」を追い求め、それに頼るのか。それとも、神の御心を行うのでしょうか。一度立ち止まって、考え直してみることは意義深いことです。