2026年6月15日月曜日

2026年6月15日の聖句

見よ、闇が地を覆い
密雲が諸国の民を包む。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:2)
(イエスの言葉)私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12)

「闇が地を覆い、密雲が食の民を包む」と書かれています。恐らく具体的には、ユダの民がバビロンに捕囚として連れて行かれ、さらに何十年と経ち、故国へ帰っていって灰燼に帰した様子を目の当たりにしている。どうやって再建したらいいのか、全く将来を描くことができない。そのような本当に厳しい現実を言い表している言葉であると思います。「闇が地を覆い、密雲が諸国の民を包む」というような詩的な言語でなければ言い表すことのできない現実の厳しさがあるのだと思います。戦後の焼け野原や震災の後の瓦礫、あるいは今もウクライナやイランなどで広がる現実と同じものを見つめているところで生まれた言葉であると思います。
こういう言葉を読んだときに私たちは何を考えるでしょうか。「自分の生きている世界とは違う。」確かにそれはそのとおりです。私たちには簡単に「分かる」とは言えません。しかし他方で思うこともあります。自分とは関係がない世界だと思い込み、自分が享受している生活の安定や安心できる状態が永遠に続くという素朴な思い込みはとても危険だ、ということです。この世界には、神さま以外には永年なものはありません。私たちが当たり前だと思っている安心安全便利快適な生活は決して永遠ではないし、いつまでも続くものでもありません。私たちは「闇が地を覆い、密雲が諸国の民を包む」という聖書の御言葉を想像力豊かに聞き、へりくだることが大切なのではないでしょうか。
そして闇の中、密雲の中でこそ、希望の光は輝く。イエス・キリストという光はそのような悔い改めの中ででしか仰ぐことができないのではないでしょうか。

2026年6月14日の聖句

今週の聖句:
すべて重荷を負って労苦している者は、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)

今日の聖句:
私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。(エレミヤ24:7)
二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

私たちが主を知ることができるのは、主ご自身が私たちにご自分を示してくださるからです。主が私たちに主を知る心を与えてくださるから。それだけが私たちに信仰が生まれるただ一つの理由です。
「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。」この神さまのお働きを、新約聖書では聖霊のお働きと言っています。神さまを知る心を私たちに与え、主を求める心を私たちに生み出してくださるのは、神様ご自身の霊のお働きです。
これは、私たちの信仰生活にとってとても大切な真理だと思うのです。私たちはとかく自分の信仰を小さく見積もりがちです。自分がそれほどしっかりと神さまを信じているとは考えようとしないし、自分の信じる気持ちを疑いがちではないでしょうか。確かに私たちはとっても不確かですし、自分を正直に振り返れば神さまに申し訳ない者でしかない。しかし、そんな私に信仰を与えてくださったのは神様ご自身です。そして神さまは、からし種一粒のような信仰から、新しくすばらしいことを始めてくださいます。
主イエスの二人の弟子たちは語り合いました。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」主は私たちのために御言葉を語りかけ、私たちと出会い、ご自分の霊によって私たちに信仰を与えてくださる。主の御業に素直に開かれた心でありたい、と願います。

2026年6月13日土曜日

2026年6月13日の聖句

あなたの神、主は、あなたを良い地に導き入れようとしている。そこは、平地でも山でも川の流れがあり、泉や地下水が湧いている地である。(申命記8:7)
神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。こうして、あなたがたは常にすべてのことに自足して、あらゆる善い業に満ちあふれる者となるのです。(2コリント9:8)

平地でも山でも川が流れ、泉や地下水が湧き出る地。荒れ野の民にとって、それはどんなにすばらしい場所と映ったことでしょう。古代の文明は沃野に生まれた、と何十年も前に授業で教わった記憶があります。そういう場所は人間が住みやすいし、安定した生活は社会生活の欠かせない基盤です。主なる神さまが導き入れようとしている土地は、そのようなすばらしい土地です。別の所では「乳と蜜の流れる地」という表現もありました。同じイメージなのだと思います。神さまは私たちを良いもので満たし、私たちを豊かに養ってくださる恵み深いお方です。「神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」
そして、神さまのあらゆる恵み深いお取り扱いは、私たちに「善い業」を生み出す。それが聖書の一貫した主張であると思います。自分に与えられた良いものを一人で満足して、自分だけのためにそれを使うのではない。私たちは与えられたものを神が期待する善き業のために用いる者となる。「こうして、あなたがたは常にすべてのことに自足して、あらゆる善い業に満ちあふれる者となるのです。」
今日、神は私たちに何を期待しておられるでしょうか。隣人のために何をすることができるでしょうか?神の御心をよく考え、そしてそれを実際にしてみる。そのような一日でありたいと願います。

*「日々の聖句」で与えられている御言葉に基づいてメッセージを配信していますが、12日の聖句と13日の聖句を誤って入れ替えてしまいました。失礼いたしました。

2026年6月12日金曜日

2026年6月12日の聖句

若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は力を得、
鷲のように翼を広げて舞い上がる。
走っても弱ることがなく
歩いても疲れることはない。(イザヤ書40:30~31)
すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブライ12:1~2)

子どもの頃に父に山登りに連れて行ってもらったことがあります。すごく疲れて辛かったのです。それでも頑張れたのは、頂上があるということを知っていたからだと思います。ゴールがなければ、忍耐は続かないでしょう。
私は走るのは好きではありません。仲間の牧師にはマラソンを趣味にしている人がいます。どんなことを考えながら42キロを走っているのでしょうか。日々のトレーニングに余念がないようですしそもそも走ることも好きみたいですが、それでもゴールがあるということは大切ではないでしょうか。目指すべき場所があるかないかも分からないようなレースはできないのではないかと思います。
「すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」
私たちの人生の競争にも、目指すべきゴールがあります。天の故郷です。そして、信仰の創始者また完成車であるイエス・キリストを仰ぎつつ与えられた競争を走ります。だから忍耐することができる。この上ないゴールがあるからです。
私たちは弱い存在です。絡みつく罪はしつこいし、私たちの意気を阻喪させる。天の故郷という目指すべき先を見失ってしまうこともある。そうであるからこそ、目を開いてしっかりとキリストを仰ぎましょう。主が翼を広げて私たちを迎えてくださっていることを信頼し、主の御腕の中に憩いましょう。キリストの深い憐れみが、私たちの今日生きる気力を新しくしてくださるのです。

2026年6月11日木曜日

2026年6月11日の聖句

強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか。(ヨシュア1:9)
(パウロの言葉)私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。(2コリント1:9~10)

今日の旧約の御言葉で主なる神さまは「強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか」とおっしゃっていますが、聖書を開いて前後を読んでみると、その根拠がちゃんと語られています。「私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。」「あなたがどこに行っても、あなたの神、主があなたと共にいるからだ。」私たちが強く、雄々しく生きることができる根拠、それは神が共にいてくださることです。神が私たちを見放すことも、見捨てることもなさらないことです。例え私たちがどこに行っても、主なる神さまは共にいてくださる。だから、私たちは強く、雄々しく生きることができる。
つまり、私たちの生き方の根拠は神さまです。神さまがどのようなお方でいらっしゃるのかという事実が私たちの生きる方向性を決めるのです。
このお方は、十字架にかけられたイエス・キリストを死者の中から復活させられたお方です。そうであるからこそ、使徒パウロは言うことができました。「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。」キリストの十字架と復活という事実がパウロの生き方を定め、パウロに希望を与えたのです。
同じ神が私たちと共にいてくださいます。このお方は私たちを見捨てることも見放すこともなさらない。キリストを死者の中から引き上げられた平和の神ご自身が私たちの神でいてくださる。この事実が私たちの生き方を定めます。

2026年6月10日水曜日

2026年6月10日の聖句

さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。(イザヤ55:1)
(イエスの言葉)「私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)

もうすぐ夏になります。暑くなると喉の渇きを自覚しやすいですが、意外と冬でも体は渇いているそうです。「喉が渇いた」と思うよりも前にしっかりと水分を摂ることが大切だ、と聞いたことがあります。魂の渇きも、もしかしたら同じなのかもしれません。渇きを自覚するよりも前に、既に私たちの魂は渇いてしまっているのかもしれない。そして、その渇きは私たちの知らないところで魂を損なっているかもしれません。
「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。」渇いている者、です。渇きを自覚している人ではない。自分でも知らないうちに渇いている人も含めて、誰のことをも、主は招いてくださっています。「私を信じる者は決して渇くことがない」と言われる方は、ご自身が生ける水の泉として私たちに命の水を飲ませてくださいます。
もう既に、今、私たちの魂は渇いている。そんな私たちの魂を癒やしてくださるのはこの方です。夏でも冬でも、普通の水を飲む者はまた再び渇きます。何度もその水を汲まなければならない。しかし、キリストという命の泉から飲む者には永遠の命に至る水が湧き出ます。主イエス・キリストこそ私たちの救いなのです。

2026年6月9日火曜日

2026年6月9日の聖句

ヤコブは旅を続けたが、その時、神の使いたちが現れた。(創世記32:2)
(パウロの言葉)「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」(使徒27:23~24)

パウロはイエスこそキリスト、私たちが待ち望んでいた真の王であり神の子だと宣教しました。そのために捕らえられた。しかしパウロはローマの市民権を持っていたので皇帝に上訴し、ローマの都に護送されることになります。海路で連行されましたが、その途上で暴風に襲われ、一行は難船してしまいました。その様子を聖書は「幾日もの間、太陽も星も見えず、嵐が激しく吹きすさぶので、ついに助かる見込みも全く絶たれてしまった」(20節)と描写しています。
その場にいた全員が絶望し、諦め、死を待つだけだと思っていたときに一人パウロだけが希望をもっていました。囚人パウロは自分を護送する兵士や、同じ船に乗り合わせたたくさんの人たちに向かって言います。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち誰一人として命を失う者はないのです。」そしてそれに続けて口にしたのが、今日の御言葉です。「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」
パウロの希望は神に根ざしています。だから、どんな状況にあっても希望を抱き続けています。この船の中で囚人パウロがいちばん自由です。死の力に捕らわれずに希望を抱き、それどころか人々に希望を与える言葉を語り続けました。どんなときにも絶望しなかった。私たちは自分の考える状況の厳しさや、自分を取り囲む環境がどんなにひどいのかということ以上に、今ここで神が何をしておられるのかということを信仰をもって受け止めなおしたいのです。神さまは新しい出来事をお始めになっている。神さまは希望を生み出す御業を今日も進めておられる。そのことを信じて、キリストを待ち望みましょう。そしてこの希望の言葉を周囲の人々に証ししましょう。

2026年6月15日の聖句

見よ、闇が地を覆い 密雲が諸国の民を包む。 しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:2) (イエスの言葉)私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12) 「闇が地を覆い、密雲が食の民を...