2026年9月10日木曜日

2026年9月10日の聖句

ダビデとイスラエルの人々は皆、神の前で力の限り、歌をうたい、琴、竪琴、タンバリン、シンバル。ラッパを奏でた。(歴代誌上13:8)
いつも喜んでいなさい。(1テサロニケ5:16)

今日の旧約聖書はとても興味深い箇所です。出エジプトしたときにシナイの山で神さまから頂いた石の板(十戒が書かれたもの)を収めるために箱が造られました。「神の箱」と呼ばれました。やがて神の民がカナンの地に入り、王政が作られていく途上で敵に奪われてしまったことがあります。やがてダビデ王の時代になってそれを取り戻し、いよいよ自分たちのもとへ迎え入れようとした、というのが今日の箇所です。
ダビデは喜んで神に賛美を献げました。「ダビデとイスラエルの人々は皆、神の前で力の限り、歌をうたい、琴、竪琴、タンバリン、シンバル。ラッパを奏でた。」かつて神の箱を失ってから数十年経っていましたから、ダビデだけではなくすべての神の民にとって感慨深い、本当に大きな喜びであったに違いありません。喜びの限りを尽くしてダビデは歌い、奏で、踊りました。
ところが、その後事件が起こります。神の箱は牛車に乗せて運んでいました。途中で牛がよろめき、車毎倒れそうになった。神の箱がひっくり返ってしまう。とっさに手を伸ばしてウザという人が箱を押さえました。箱は落ちないで済んだ。ところが、神はウザを裁き、その場で彼は打たれて死にました。本来神の箱はレビ人や祭司しか扱ってはならず、ウザはそれでなかったからです。しかしダビデの目には神さまの仕打ちがあまりに理不尽に映りました。大切な神の箱を守ろうとしたウザをウツとは何事か。「ダビデも怒りに燃えた」(10節)と聖書は記録しています。
この時の神さまの仕打ちについてはまた別の機会に考えたいと思います。今日は、ダビデの心の動きです。大きな喜びと賛美から、事件が起こり急激に怒りに振られた。ダビデはいつでも本気でした。本気で喜び、本気で怒った。そういうダビデを神は愛されました。私たちは信じること、神を求めること、祈ることにどれだけ本気なのでしょう。本気で喜んで神を賛美していますか?神に対して本気で怒っていますか?

2026年9月9日水曜日

2026年9月9日の聖句

怒りを遅くする人は勇士にまさり
自分の心を治める人は町を占領する者にまさる。(箴言16:32)
ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある。(黙示録14:12)

私にとっては痛い言葉です。
「怒りを遅くする人は勇士にまさり、自分の心を治める人は町を占領する者にまさる。」
私は自分の心を治めることがなかなかできないし、すぐに怒ってしまいます。怒ることが自分の権利で、怒ることがむしろ自分の心を自分で治めていることだなのだと言わんばかりに、です。しかし、聖書はそのとおりだとは言ってくれません。すぐ怒ることではなく怒りを遅くすることこそが勇士に優ること。この場合の「勇士」は、怒りに任せて戦う勇士というイメージなのでしょう。そして自分の心を治めることは、町を占領する者に優る。他人の町を占領し、それを治めることよりも、怒りを御し、自分の心をしっかりと治めることのほうがずっと優れている。聖書はそう言うのです。胸に突き刺さる、とても痛い言葉です。
今日の新約聖書には「忍耐」という言葉が出てきます。怒る自分の心を治めるのには忍耐を必要とします。しかも、主イエスさまに対する信仰に基づく忍耐です。神がすべてを治めておられる。私をも、この世界をも。その事実を謙遜に受け止め、神の僕として身を低くするところから生まれる忍耐です。
今日の御言葉は、神さまの前に私たちの身を低くさせ、かがめさせる響きを持っているように思います。

2026年9月8日火曜日

2026年9月8日の聖句

主に信頼する人は慈しみに囲まれる。(詩編32:10)
主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように。(黙示録22:21)

「主に信頼する人は慈しみに囲まれる。」この「囲まれる」というのはすてきな言葉だと思います。四方八方どこを見ても神の慈しみに囲まれているのです!なんて有り難いことでしょう。私たちは愚かにも神の慈しみを見失ってしまうことがあるし、分からなくなってしまうこともあります。しかし、心配いりません。何しろ神の慈しみはどこか遠くにあるのではなく、あるいは注意しないと見失ってしまう小さなものではなく、私たちを取り囲んでいるのです。私という存在を取り巻いている神の恵み。何とすばらしく、慈しみに満ちた事実でしょうか。
「主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように。」私たちは互いのためにそう告げ合います。祝福の挨拶を交わし、互いのために祈ります。主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にありますように!今日もあなたがキリストの恵みと慈しみに囲まれ、どこに行くにも何をするにも神と共に歩まれますように!
私たちの信仰共同体の歩みがこの事実に固く根ざし、互いのために祈り合うことによって一つとなりますように。そして今日という日がキリストの恵みに生かされる一日でありますように。

2026年9月7日月曜日

2026年9月7日の聖句

私はあなたを賛美します、主よ。
あなたは私を深淵から救い上げてくださいました。(詩編30:2)
イエスは子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。(マルコ5:41~42)

主イエス・キリストは僅か12歳で死んだ少女の手を取り、「タリタ、クム」とおっしゃいました。「少女よ、さあ起きなさい。」主がそうやって起こすと、少女は起き上がって歩き出した。聖書はそう伝えています。
私たち自身にも、私たちの大切な人にも、やがて命の終わりの時が訪れます。眠りに就くのです。しかしそれは、永遠の眠りではありません。やがて主に手を取って起こして頂くための眠りです。「少女よ、さあ起きなさい」とおっしゃったのと同じように、やがて主イエスは私たちの手を取り、私たちの名を呼んで起こしてくださいます。「さあ、起きなさい。復活の朝が来たよ」と。
私たちは主に起こして頂かなければ、ただ滅ぶだけです。主が私たちの死という境界を乗り越えて手を伸ばしてくださるから、ただその手だけが私たちの救いです。そしてこの手は他の何よりもしっかりしている、確かな救いの手です。私たちはこの手を待ち望んで、安らかに眠ることができます。
聖書は「タリタ、クム」という主イエスの言葉の音をそのまま伝えています。このキリストの声が今も響いています。私たちのためにも、そして、私たちが今思っているあの人のためにも。陰府にまで響くキリストの声。十字架にかけられて陰府に下ったお方の声です。死者の中から復活させられた方の声です。ここに私たちの救いがあります。

2026年9月6日日曜日

2026年9月6日の聖句

今週の聖句:
わがたましいよ、主をほめたたえよ。
主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩編103:2)

今日の聖句:
人のそしりを恐れるな。彼らの罵りにおののくな。(イザヤ51:7)
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。(2テモテ1:7)

臆病と信仰とは両立しない、と聖書は言います。「人のそしりを恐れるな。彼らの罵りにおののくな。」私は臆病な人間です。すぐにおののいてしまう。だから耳が痛い言葉です。しかし、臆病は決して主の前にあって望まれたあり方ではないし、主が喜んでくださる心ではありません。恐れることなく、おののかずに主を信頼する。主なる神さまに一心に仕える。それが主が私にお望みのことです。
主イエスさまの弟子たちも、何度も何度も臆病風に吹かれて失敗しました。逆風吹きすさぶ湖の上。主イエスを捕らえに来た兵士たちの前。臆病風に吹かれ、信仰が怪しくなっていく。私たちの姿そのものではないでしょうか。
そんな弟子たちが変わったのは、あのペンテコステの出来事以降です。恐れることなく、おののくことなくキリストの復活の証人として生きるようになりました。あのペンテコステの日に神がご自分の霊を与えてくださったからです。「神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。」私たちを臆病から解放するのは、神さまの霊です。力と愛と思慮を与える神の霊が私たちを新しくしてくださる。そのことを信じて、神のものとして大胆に進み行きたい、と願います。

2026年9月5日土曜日

2026年9月5日の聖句

あなたを待ち望む人も皆
恥を受けることがないように。
わけもなく裏切る者が恥を受けるように。(詩編25:3)
岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。(ルカ8:13)

今日の新約は主イエスのたとえ話です。種蒔く人の手から、ある種が岩の上に落ちた。薄い土の層があったのでしょう。すぐに芽を出した。ところがその下の岩地に突き当たってそれ以上根を伸ばすことができず、すぐに枯れてしまった。それは「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たち」だ、と主は言われます。
思い当たる節があまりにもある、わが身に痛い言葉です。簡単に御言葉を受け入れた気になっている。何ならすぐに芽が出たと自分を誇った気持ちにもなる。ところがちょっとした日照りにも耐えることができない。試練に遭ったらすぐに躓いてしまう。それは根がないからだと主は指摘なさいます。しっかりと根を下ろして、自分の中に根を張った足腰の強い信仰になっていない。それでは、その「根」とは何か?足腰の強い信仰とは一体何か?
私はそれは、御言葉を聞いた最初の時から「まずやってみる」ということではないかと思います。聖書に従って祈ってみる、隣人を少しでも愛してみる。何よりも、主なる神以外のものを拝まずに生きてみる。そういう一つひとつのことが、私たちが自分という土地を耕すことなのだと思います。自分を耕すと、自分の中にゴロゴロ転がっていた岩に気付くことができる。御言葉に従ってみようとしてすぐに気付くのは、全然従えない自分だということです。実際に従いもせずに「無理だ」と言いのけるのと、やってみて自分がどんなに神さまから遠いのかを思い知るのとでは全然違います。自分の罪深さに失望し、しかしそこにあるキリストの赦しにすがるとき、私たちは少しずつ良い地に変えて頂いているのではないでしょうか。

2026年9月3日木曜日

2026年9月3日の聖句

主よ、あなたに向かって目を上げます。
私はあなたを信じます。
私を死へと葬り去らないでください。(詩編141:8)
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の刺はどこにあるのか。私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。(1コリント15:55,57)

2001年に起きた同時多発テロの後しばらくして、ウォルター・ブルッゲマン先生という米国の神学者がこのような祈りの文章をお書きになりました。

「あなたの敵のために祈れ」というあなたの命令は、心に焼き付くほど明快です。ですから、これを後世のために記録させ、まだ生まれていない人々があなたを賛美するようにしてください。あなたが聖なる高みから、復活の命から地上を見下ろし、人々を満たす恐怖を抑え、戦争計画の必然性を断ち切ってくださったことを。復活の命こそがあなたの課題であり、使徒その代理人こそがあんたの「最後の敵」です。
御国の道のキリストよ、私たちの敵を贖ってください。オサマ、サダム、アルカイダ、そして破壊をもたらす彼らの多くの友人たちを。彼らの死の王国を、あなたの命の王国で侵略してください。あなたは平和の君であり、すべての新しいものの王です。「最後の敵として滅ぼされるのは、死である。」今、それを滅ぼしてください。

死はイエス・キリストの勝利に呑み込まれました。もはや死の勝利はどこにもありません。キリストの復活の命が私たちに勝利をもたらしたのです。死と死をもたらす憎しみに神が打ち勝ち、私たちをキリストの命の祝福へと招き寄せてくださっています。あなたもキリストの命の民の一人です。
この世界には、キリストの愛が必要です。主イエスさまの命をもたらす福音が必要です。あなたは憎しみや孤立を生み出す知らせではなく、平和と命、永遠の祝福に至る知らせのための使者です。今日、キリストはあなたを平和の使者としてこの世界へと送り出しておられるのです。

2026年9月10日の聖句

ダビデとイスラエルの人々は皆、神の前で力の限り、歌をうたい、琴、竪琴、タンバリン、シンバル。ラッパを奏でた。(歴代誌上13:8) いつも喜んでいなさい。(1テサロニケ5:16) 今日の旧約聖書はとても興味深い箇所です。出エジプトしたときにシナイの山で神さまから頂いた石...