2026年2月12日木曜日

2026年2月12日の聖句

私はあなたの背きを雲のように
罪を霧のようにかき消した。
私に立ち帰れ。
私があなたを贖ったからだ。(イザヤ44:22)
イエス・キリストは罪を取り除くために現れたのだということ、そして御子の内には罪がないのだということを、あなた方は知っています。(1ヨハネ3:5)

「私に立ち帰れ」と主なる神さまは私たちに呼びかけてくださっています。私に立ち帰れ、私のもとへ戻ってこい、と。神さまの救いの手から離れ、自分の好きなところへ迷いでてしまった私たちに、それでも「帰ってこい」と呼び続けてくださっている。聖書が語る神さまと人間の歴史は、その繰り返しです。
イザヤ書第44章は、ユダヤがバビロン捕囚から解放されていく時期に語られた預言の言葉です。生活が本当にメチャクチャに壊れてしまったバビロン捕囚。そこからの救いが宣言された。私たちは神さまから離れ、神さまを蔑ろにして生きてきた。その結果がこの悲惨だ。「私に立ち帰れ」という神さまの招きに応えよう、私たちを救ってくださる神さまを仰ぎ、このお方を信じよう、と預言者は言います。
それでも、ちっとも神さまの元へ帰ろうとも、悔い改めようともしないのが、いつの時代にも変わらない人間の習性であると思います。「私に立ち帰れ」という神の招きを私たちは無視し続けてきた。しかし、イエス・キリストにあって新しい出来事が起こりました。「イエス・キリストは罪を取り除くために現れた」と書かれています。「私に立ち帰れ」と言ってくださった神さまは、私たちがご自分のもとへ帰るのを座して待つのではなく、こちらまで迎えに来てくださいました。イエス・キリストです。キリストはちっとも悔い改めない私たち、神さまを無視する私たちのところに来てくださいました。神がこちらへ来てくださった。
私たちがどんなに分からず屋で、そのためにどんな悲惨を招き混んでいたとしても、ここにもキリストはいてくださる。キリストが私たちの間に現れた。それが本当のことなのです。

2026年2月11日水曜日

2026年2月11日の聖句

エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。
わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。
それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき
わたしは彼をあわれまずにはいられない。ー主のことばー(エレミヤ31:20)
神はあらかじめ選ばれたご自身の民を退けたりなさいませんでした。(ローマ11:2)

ここに出てくる「エフライム」というのは、イスラエルの民のことです。神さまに繰り返し背き、軍事力や政治力で生き延びようとしましたが、結局は滅んでいきました。しかし彼をご覧になりながら、主なる神さま言われます。「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。」神さまは私たちの背きが招く裁きの現実をご覧になりながら、しかし「お前はわたしの喜びではないのか」と言い続けてくださっています。私たちの悲惨をご覧になりながらはらわたを痛め、身も心も苦しむような呻くような思いで私たちを想ってくださり、私たちを憐れんでくださっている。今日の旧約の御言葉は、私たちを惜しんでくださる神さまの憐れみを語り出しています。
神さまはご自分の民を退けるようなことはなさらない。私たちに惜しむべき価値があるからではない。私たちにもったいないと神に思わせるような隠れた魅力があるからではない。ただご自身の憐れみのゆえに、神は私たちを捨てず、ご自分の選びを貫徹してくださいます。
「エフライムはわたしの大切な子、喜びの子」と言ってくださいます。神さまから喜びを奪い、神さまの「大切」という思いを裏切る私たちになお言ってくださっています。主の憐れみにすがりましょう。そして私たちもまた主イエス・キリストを喜びましょう。

2026年2月10日火曜日

2026年2月10日の聖句

(ヤコブの言葉)私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるには足りない者です。(創世記32:11)
(パウロの手紙)しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(1テモテ1:16)

「ありがとう」は漢字では「有り難う」と書きます。「有ることが難い」という字です。よくよく考えると凄い言葉です。相手の好意やしてくれたことは決して当たり前のことではなく、このように有ることが難いこと、本来はないような希有な好意だ、という意味になるのではないかと思います。
今日の御言葉を読んで、この「有り難う」という字を思い出しました。「私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるには足りない者です。」私たちは、神さまの慈しみとまこととを受けるに値しない者です。そもそも神さまの前にいる価値のない存在です。ところが神さまは私たちに命を与え、それを保ってくださっている。それどころか、独り子を与えてくださいました。御子を殺した私たちです。神の敵である私たちです。そんな者に慈しみとまことを示してくださった。どんなに言葉を重ねても足りないほどに、文字通りに「有り難い」事実です。
その「有り難い」ことが起きたのは、ただ神の寛容だけによるのではないでしょうか。そして、神の憐れみに満ちた寛容は、私たちもそれに参与するように招きます。「しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」私もキリストにならうようにと招いておられます。
しかし、キリストが示してくださった寛容の欠片も見つからない私です。神の慈しみを受けるに値しない私です。ただただ、主にすがります。主の憐れみと赦しを請う以外には生きる道がないのです。

2026年2月9日月曜日

2026年2月9日の聖句

もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。(レビ記19:33)
(イエスの言葉)私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。(ヨハネ15:14)

主イエスは私たちをご自分の友と呼んでくださいます。主はおっしゃるのです。友はその友の考えていることやしていることを知っているはずだ、と。主イエスが私たちのためにかがみ込んで足を洗い、仕え、愛してくださったこと。私たちのためにご自分の命を捨ててくださったこと。私たちの友であるイエスさまに示された神さまの御心を知り、友としてその歩みを友にする。「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。」
今日、特に私たちに友イエスの御心として教えられているのは、このことです。「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。」寄留者というのは外国から来て寄留している人のことですから、現代の言葉で言えば移民や難民ということになります。この人たちを決して虐げてはならない、と友イエスはお命じになる。
こういうところを読むと、私たちは考えるかもしれません。「今から何千年も前の世界と現代社会は違う。出入国管理の制度や社会システムが違うし、今起きているような移民問題や外国人犯罪の問題を古代社会は知らなかったのではないか。」そうでしょうか。レビ記が書かれた時代は今よりもずっと共同体の単位が小さく、一つひとつが閉鎖的でした。寄留者に代表されるよそ者が今よりもずっと目立つ時代です。現代よりも彼ら彼女らに向けられる目ははるかに厳しかったと思います。しかし、友イエスは言われる。「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。」
私たちは現代社会を席巻する「ヘイト」や「分断」の物語を生きてはいません。外国人を排斥することで社会がよくなるという神話を信じません。よそ者がいるから社会が悪くなったという信仰は共有しません。私たちは、私たちのためにキリストが身をかがめて足を洗い、ご自分の命を献げ、私たちを愛し抜いてくださったというキリストの救いの出来事を生きています。私たちは、この世に吹き荒れる憎しみの物語に乗っかるのでしょうか。それとも、私たちの友になってくださったキリストのご命令に生きるのでしょうか。

2026年2月8日日曜日

2026年2月8日の聖句

今週の聖句:
今日、あなたがたが神の声を聞くなら心をかたくなにしてはならない。(ヘブライ3:15)

今日の聖句:
主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。
私たちは喜んだ。(詩編126:3)
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。(使徒2:46~47)

今日新約の御言葉は、最初の教会の歩みを伝えています。毎日集まって礼拝を献げていた。御言葉に耳を傾け、神を礼拝することで教会の歩みが始まりました。「パンを裂き」というのは、聖餐のことです。主が定めてくださった食卓を共に囲んだ。そして、一緒に食事をして喜んだ。そして、教会の歴史はいつの時代でも神を賛美します。思えばコロナの時代も、窓を開け、マスクをしながら歌いました。私たちは神に賛美を捧げ続けました。礼拝によって形づくられる教会の歴史に私たちも連なっています。キリストの教会の営みは、2000年前から今に至るまで、その本質において変わることがありません。主なる神さまを礼拝すること、御言葉に聞き、パンを裂き、食卓の交わりを喜び、神を賛美することです。
「主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。私たちは喜んだ。」この詩編の御言葉が告白しているとおり、神がしてくださった大いなる御業こそが私たちの礼拝の源泉です。私たちは神を仰ぎ、その御業を崇め、神を礼拝します。今日もその営みに招かれています。キリストを賛美し、キリストのものとして新しい一週間を生きていきましょう。

2026年2月7日土曜日

2026年2月7日の聖句

その主権は増し、平和には終わりがない。(イザヤ書9:6)
キリストは、私たちの平和。(エフェソ2:14)

今日の新約聖書の御言葉は、キリスト教会で実際に起こっていることを話しています。キリストが私たちの平和になってくださった。
そうは言っても、今も昔も、教会は人間の集まりです。しかも、罪人の集まりです。弱い、私たちのような人間が集まってくる場所です。一体どこに平和なんてあるのか。途方に暮れなければならないこともいくらでもあるでしょう。使徒パウロも、エフェソ教会のいろいろな問題に直面していました。ユダヤ人と異邦人、すなわち割礼を受けている人と無割礼の人との間の軋轢。ギリシア人の多くはは知識階級に属し、生活のレベルも非常に高い。そういう人に使われる奴隷階級もいます。いろいろな社会の中にある分断線が教会の中でも意味を持っていました。一体どこに平和があるのか?人間としての努力や心がけではどうにもならない。
キリストは、そんな私たちの間にいて、私たちの平和の絆になってくださいました。キリストが私たちを神と和解させてくださった。キリストがまず私たちを愛してくださった。私たちは世間にある分裂や分断の物語に生きているのではない。自分さえよければ良いとか、自分のことで精一杯という物語には生きていない。キリストが私たちをそういうこの世の物語から解放してくださいました。私たちを愛し、和解の手を伸ばしてくださったキリストの物語に巻き込んでくださいました。そこから平和が始まるのです。
「その主権は増し、平和には終わりがない。」キリストと父なる神の主権にこそ、私たちの平和があります。このお方が主として、王として私たちを和解の物語に生かしてくださるところにこそ私たちの平和がある。ですから、共にキリストを仰ぎましょう。キリストの愛の出来事を待ち望み、祈る群れとして、キリストを礼拝しましょう。

2026年2月6日金曜日

2026年2月6日の聖句

主よ、あなたは正しい方です。しかし、今日このとおり、私たちは、恥辱に直面しています。(ダニエル9:7)
そこで、王は答える。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。」(マタイ25:45)

今日の旧約聖書の御言葉に「私たちは、恥辱に直面しています」とあります。なぜ、そのような目に遭っているのか。ダニエル書の前後の文脈を読んでみると、神さまに対する自分たちの背信の罪のため、神さまに逆らって生きてきたための恥辱だ、と言っています。自分たちの生き方が招いた結果だと言います。確かに、私たちの受ける厭なことの多くは、自分のしでかしたことや口から飛び出た言葉、そうでなければ怠けてきたことの結果なのかもしれません。
ところが今日の聖句は私たちに深い驚きを与えます。今日の新約聖書の「王」の姿に託されていた主なる神さまはおっしゃるのです。「この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」と。つまり、自分の生き方のために恥を受けるしかない私の現実に、なんと主なる神さまご自身が連帯してくださっている、というのです。
私が「小さな者」に過ぎないのは、自分の生き方のせいです。ところが神さまはそんな私をお見捨てにならなかった。私の小ささをご自身のものとして引き受けてくださった。今日の二つの御言葉は、そのような神さまの憐れみ深いお取り扱いを証言しているように思います。
神さまの正しさを前にして顔を上げることのできないような私です。しかし、主はそんなどうしようもない私に連帯してくださる。主はなんと憐れみ深いお方なのでしょうか。

2026年2月12日の聖句

私はあなたの背きを雲のように 罪を霧のようにかき消した。 私に立ち帰れ。 私があなたを贖ったからだ。(イザヤ44:22) イエス・キリストは罪を取り除くために現れたのだということ、そして御子の内には罪がないのだということを、あなた方は知っています。(1ヨハネ3:5) 「私に立ち帰...