2026年11月6日金曜日

2026年11月6日の聖句

飢えた人にパンを分け与えよ。(イザヤ書58:7)
あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせた。(マタイ25:35)

今日の旧約の御言葉は、聖書が考える正義が凝縮されたような言葉です。飢えた人にパンを分け与える。虐げられた人を自由にすること、家がなくて苦しんでいる人を家に招くこと、裸の人に服を着せること。あるいは律法を開いてみると、このような言葉もあります。「あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出23:9)。弱い立場にいる人、困っている人、病気の人、社会の中でのけ者にされている人。その人たちの尊厳を重んじ、人間として接し、実際に手を伸ばすこと。聖書が考える正義というのは、そういうことではないでしょうか。
主イエスさまはそうやって苦しんでいる人の中におられるます。「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせた。」最後の審判の時に主からそのように言われる人たちは、これに答えて言います。「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、見知らぬ方であるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お尋ねしたでしょうか。」すると、主は言われます。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」
聖書が語る正義の人の姿と私の実際の姿とは、正直に申し上げれば果てしなく遠いです。このような愛に私は生き得ていない。しかし、そうありたいとは願っています。どうか主イエスさま御自身が私を新しくしてくださって、このような愛に満ちた正義に生かしてくださいますように。

2026年11月5日木曜日

2026年11月5日の聖句

彼は立ち上がり、彼らは主の力のうちに牧草をはむ。(ミカ5:3)
(イエスの言葉)私の羊たちを私の手から奪う者はいない。(ヨハネ10:28)

今日の旧約聖書では、「彼」や「彼ら」という人称代名詞が何の説明もなく使われているので、ここだけでは少し分かりにくいです。そこで少し前に遡ると、このようなことが書いてあります。
「エフラタのベツレヘムよ、あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。あなたから、私のために、イスラエルを治める者が出る」(5:1)。
東方の博士たちが来た場面でも引用されている箇所です。ここで言われている「イスラエルを治める者」は主イエスにおいて成就した、と福音書記者マタイは信じました。私たちも同じ信仰に立っています。
そして今日の3節に至る。「彼は立ち上がり、彼らは主の力のうちに牧草をはむ。」つまり、この「彼」はイスラエルを治める者、まことの王、つまりメシアです。このお方が立ち上がって人々を治める。神の民は主の力がもたらすまことの王の御支配の中で牧草を食む。平安のうちに生きることができる。まさに主イエスさま御自身が「私の羊たちを私の手から奪う者はいない」と言われるとおりです。
イエスこそまことの王。今日の二つの御言葉はそのことを証言しています。私たちを治めるのはこの世の国ではない。神がお遣わしになった王イエスです。神の国の民として、羊飼いイエスの羊の群れとして、私たちは今日の日を迎えています。なんてすばらしいことでしょう!

2026年11月4日水曜日

2026年11月4日の聖句

主は再びシオンを慰められる。(ゼカリヤ1:17)
(イエスの言葉)あなたがたには、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネ16:22)

あなたが今どのような苦しみの中にいようとも、主イエスさまは必ず再びあなたと会ってくださる。主ご自身がそう約束してくださいました。私たちが主とお目にかかる喜び、その出来事への希望、主と私たちの愛の関わりを奪うことは誰にもできない。私たちは不確かだし、私たちは弱いし、私たちは主に喜んでいただけるような者ではないかもしれないけれど、それでもなお主が私たちを愛してくださっているからです。主御自らがあなたを望んで、「再びあなたと会う」とおっしゃっているのです。
昨日、ボーイスカウトの地区の集会があり引率してきました。私は3から5年生の部門に同行しました。とても楽しい一日でしたが、朝早くから集まって解散したときにはもうずいぶん暗くなっていましたので、子どもたちもさすがに疲れたのでしょう。解散したあと、ある子どもがお迎えに来たお母さんにギューッと抱きついて甘えていました。そのようすを見て、一日頑張ったのだなとほっこりした気持ちになりました。
主イエスがおっしゃったことは、子どもが一日スカウト活動をしたというのとは違うでしょう。もっと過酷だったり、もっと深刻だったりする苦しみを生きる者への言葉であると思います。しかし、あの子がお母さんの胸に飛び込んだような純真さを持って主イエスを求め、主イエスさまとお目にかかれる日を待ち望みたいと思うのです。「しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」このイエス様の言葉を素直に信じて、今、主を待ち望んで生きていきたいのです。

2026年11月3日火曜日

2026年11月3日の聖句

あなたは知らないのか
聞いたことはないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、弱ることなく
その英知は究めがたい。(イザヤ40:28)
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(ローマ11:36)

主なる神さまについて、預言者は言います。「疲れることなく、弱ることなく、その英知は究めがたい。」私たちははるかに及ばない神さま、この世界をお造りになった方。私たちの知恵では計り知ることのできないお方。使徒パウロも言います。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」
私たちには計り知れない英知。すべてのものが出てきたその始まりであり、それを保っておられるお方。神さまがそのようなお方であるならば、そしてそのことを私たちがしっかりと信じているならば、私たちのいろいろな物事への向かい方が変わるのではないでしょうか。私たちの目に好ましく映らないことも、私たちには受け止めることのできないことも、私たちには意味の分からないことも、神さまの御手の中にあるということなのではないでしょうか。
神さまの英知は私たちには計り知れない、大きなもの。そうであるならば、私たちに理解できないことがたくさんあるのは当然なことです。しかし、それを保っておられるのは神さまです。私たちはそのことを信頼し、神さまの愛を信じてよい。聖書はそう語りかけます。

2026年11月2日月曜日

2026年11月2日の聖句

主はもろもろの民の裁きに当たられる。(詩編7:9)
神は先にお選びになった一人の方によって、この世界を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。(使徒17:31)

今日の御言葉は、どちらも神の裁きということを語っています。今日の新約の箇所の直前には「さて、神はこのような無知な時代を大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と書いてあります。さらに、ここにある「無知な時代」というのは、文脈を見ると「神ならぬものを神とする時代」ということになるようです。
神ならぬものを神とするというのを、あまり単純に「異教の神々」とか「何かしらの像」と決めつけないほうが良いと思います。主なる神さまを信じる言いながらも自分の貪欲を一番にしているとか、祈っているようだけど実は自己実現しか考えていないとか、いろいろなかたちの神々を私たちは持っているのではないか。それは神の御前での恐るべき無知なのではないか。そう思います。
神は、私たちを裁かれます。私たちはそのことを本当に畏れなくてはならない。神さまの公正と正義が実現する。私たちはその時に立ちうるのでしょうか?
先日もご紹介しましたが、ルターの95箇条の提題の最初に書かれていたのは「悔い改め」でした。しかも「私たちの全生涯が悔い改めであること」です。私たちは裁き主の前で真実な悔い改めをして生きていきます。そこにしか私たちの信仰の誠実はないのではないでしょうか。

2026年11月1日日曜日

2026年11月1日の聖句

11月の聖句:
主は国々の間を裁き
多くの民のために判決を下される。
彼らはその剣を鋤に
その槍を鎌に打ち直す。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦いを学ぶことはない。(イザヤ2:4)

今週の聖句:
赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れられるために。(詩編130:4)

今日の聖句:
彼は今、大いなる者となって地の果てにまで及ぶ。(ミカ5:3)
(イエスの言葉)あなたがたはエルサレム、ユダとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。(使徒1:8)

大いなる主イエス・キリストは、地の果てにいる私たちのところにまで来てくださいました。代々のキリスト教会を通して。2000年前の使徒たちの一体誰が、その存在知らなかったはるか東洋の島国に福音がもたらされると考え得たでしょうか。しかし事実として、今や主の大いなる御名は私たちのところにも届けられています。
それは、私たちがキリストの福音の証人になるためです。私たちも、「地の果て」でキリストの救いの出来事を証しする人として神さまに配置されている。
私たちはキリストの福音を証言します。それは今週の聖句に「赦しはあなたのもとにあります」とあるとおり、キリストの赦しの福音です。そして今月の聖句に「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す」とあるとおり、平和の福音です。私たちを新しくし、この社会を新しくするキリストの福音を証言するために、私たちはこの世界へ送り出されているのです。

2026年10月31日土曜日

2026年10月31日の聖句

不正に得た宝は役に立たず、正義は人を死から救い出す。(箴言10:2)
キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。(ローマ3:24)

今日は10月31日、マルティン・ルターの教会改革の運動が始まったことを記念する日です。1517年10月31日にルターが公開した当時の教会への質問状では、このようなことを言っています。
1.私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ・・・・・・」と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。
ルターは、神様の御前で真実に悔い改め、私たちの生き方が新しくなることを第一のこととしました。神さまは私たちをこれまでの生き方の功績や、ましてやお金の問題で救ったり滅ぼしたりするのではない。全生涯の、日ごとの悔い改めこそが求められている、とルターは言います。更に続けてこれを読んでいくと、このような言葉も出てきます。
37.真実のキリスト者ならだれでも、生きている者も死んでいる者も、贖宥の文書がなくても神から彼に与えられたものである、キリストと教会とのすべての宝にあずかっているのである。
ここでの「贖宥の文書」というのは、いわゆる「免罪符」として知られている当時の教会が発行していたお札です。罪の赦しを確約するお札を教会が販売していた。ルターはそれについては罪の赦しや救いの問題をお金の問題にしてしまったと厳しく批判しました。そして、神が下さる宝には、贖宥の文書ではなく神の真実な恵みによってあずかるのだ、と言います。
「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。」私たちは、神が私たちを憐れんで、恵みによって与えてくださる以外には救いの道がありません。それ以外の仕方で得た神の宝は、不正なものです。私たちは今日も神様の御前に悔い改めます。神の憐れみを頂くために、神さまの御前にへりくだります。

2026年11月6日の聖句

飢えた人にパンを分け与えよ。(イザヤ書58:7) あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせた。(マタイ25:35) 今日の旧約の御言葉は、聖書が考える正義が凝縮されたような言葉です。飢えた人にパンを分け与える。虐げられた人を自由にすること、家がなくて苦しんで...