今日の通読箇所:ルカによる福音書9:1~36、ヨシュア記23~24、詩編132
ヨシュア記23~24;
「今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖が、ユーフラテス川の向こうやエジプトで仕えていた神々を取り除き、主に仕えなさい。もし、主に仕えることがあなたがたの気に入らないのなら、ユーフラテス川の向こうにいた先祖が仕えていた神々でも、今あなた方が住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを今日、選ぶがよい。しかし、私と私の家は主に仕える(14~16節)」。
死を迎えようとしているヨシュアの、最後の説教です。ヨシュアは、人々にユーフラテス川の向こうに住んでいたアブラハムから話を始めます。アブラハム、イサク、ヤコブ。そしてモーセ。神がこれまで自分たちに何をしてきてくださったのか、自分たちの原点はどこにあるのかに気づかせます。それは、神が生かしてくださり、神の憐れみで生きてきた、ということです。
そして、その最後に冒頭に掲げた言葉を継げました。「今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい」。それがいやなら、どこぞの神々のもとにでも行けばいい、とまで言います。もちろん、どちらでもいいから気に入る方を選べというのではなく、主なる神に仕えよ、という力強い勧告です。
私たちは、今、誰に仕えているのでしょう。誰を私の神と信じ仕えているのでしょう。私たちの信仰の急所は、キリスト告白です。イエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白し、この方を信じ、仕えることこそ、私たちの信仰です。これから先、あなたは誰を信じ、誰に仕えますか?私と私の家は、主に仕えます。
2019年5月4日土曜日
2019年5月3日金曜日
2019年5月3日(ヨシュア記22)
今日の通読箇所:ルカによる福音書8:40~56、ヨシュア記22、詩編130~131
ヨシュア記22;
ヨルダン川西岸での戦いを終えて、ガド、ルベン、マナセの半数がヨルダン川東岸の自分たちの領地に帰っていきます。彼らは先に東岸で自分たちの割り当てを得ていましたが、他の仲間たちを見捨てずに、共に最後まで戦って、義務を果たして自分たちの地へ帰って行ったのです。
ところが、ここで事件が起きました。彼らがヨルダン川沿いのゲリロトという場所に自分たちの祭壇を造ったらしい。これは申命記第12章などでも明確に禁じられている、重大な違反でした。「あなたは自分のよいと思う場所で、焼き尽くすいけにえを献げないように気をつけなさい。ただ、主があなたの一つの部族の中に選ばれる場所で、焼き尽くすいけにえを献げ、私が命じることをすべて行いなさい(申12:13,14)」。
そこで、西岸に住む諸部族はすぐにそこへ行って、彼らのしたことを問い詰めます。あなたたちがしていることは、私たちの親たちが荒れ野でしてきた過ちを繰り返しているようなものだ、と。
これに対して東岸組は、これはいけにえを献げるための祭壇ではない、と言います。自分たちの孫子の世代になったとき、ヨルダン川東岸という遠い場所にいる自分たちが忘れ去られ、イスラエルの中でのけ者にされてしまうかもしれない。そうならたないための記念碑として、孫子に語り伝えるためのレプリカだ、と言うのです。「焼き尽くすいけにえを献げるためでなく、会食のいけにえを献げるためでもありません。私たちとあなたがたとの間の証拠なのです(28節)」。
これを読んで、私は、イスラエルの結び目は、ただ同じ神を信じていると言うことだけなのだと改めて思いました。そこが蔑ろになってしまったら、絆は消え、お互いの主張がぶつかり合うしかなくなってしまいます。神を信じ、神が下さったものを感謝して受け、神にしたがっていく。お互いにそれを求めた結果が、今回の出来事だったのでしょう。教会でも、やはり同じだと思います。私たちの結び目も、ただ神を信じていると言うことだけです。だからお互いの立場からそのことを大切にして行くべき道を定めていく。時には互いにそれがぶつかり合って話し合いも必要になります。しかし、神に従うという点でお互いを信頼し合えれば、大丈夫です。神を信じ、相手を信頼する。そんな結び目が、私たちにも与えられています。
ヨシュア記22;
ヨルダン川西岸での戦いを終えて、ガド、ルベン、マナセの半数がヨルダン川東岸の自分たちの領地に帰っていきます。彼らは先に東岸で自分たちの割り当てを得ていましたが、他の仲間たちを見捨てずに、共に最後まで戦って、義務を果たして自分たちの地へ帰って行ったのです。
ところが、ここで事件が起きました。彼らがヨルダン川沿いのゲリロトという場所に自分たちの祭壇を造ったらしい。これは申命記第12章などでも明確に禁じられている、重大な違反でした。「あなたは自分のよいと思う場所で、焼き尽くすいけにえを献げないように気をつけなさい。ただ、主があなたの一つの部族の中に選ばれる場所で、焼き尽くすいけにえを献げ、私が命じることをすべて行いなさい(申12:13,14)」。
そこで、西岸に住む諸部族はすぐにそこへ行って、彼らのしたことを問い詰めます。あなたたちがしていることは、私たちの親たちが荒れ野でしてきた過ちを繰り返しているようなものだ、と。
これに対して東岸組は、これはいけにえを献げるための祭壇ではない、と言います。自分たちの孫子の世代になったとき、ヨルダン川東岸という遠い場所にいる自分たちが忘れ去られ、イスラエルの中でのけ者にされてしまうかもしれない。そうならたないための記念碑として、孫子に語り伝えるためのレプリカだ、と言うのです。「焼き尽くすいけにえを献げるためでなく、会食のいけにえを献げるためでもありません。私たちとあなたがたとの間の証拠なのです(28節)」。
これを読んで、私は、イスラエルの結び目は、ただ同じ神を信じていると言うことだけなのだと改めて思いました。そこが蔑ろになってしまったら、絆は消え、お互いの主張がぶつかり合うしかなくなってしまいます。神を信じ、神が下さったものを感謝して受け、神にしたがっていく。お互いにそれを求めた結果が、今回の出来事だったのでしょう。教会でも、やはり同じだと思います。私たちの結び目も、ただ神を信じていると言うことだけです。だからお互いの立場からそのことを大切にして行くべき道を定めていく。時には互いにそれがぶつかり合って話し合いも必要になります。しかし、神に従うという点でお互いを信頼し合えれば、大丈夫です。神を信じ、相手を信頼する。そんな結び目が、私たちにも与えられています。
2019年5月2日木曜日
2019年5月2日(ヨシュア記20〜21)
今日の通読箇所:ルカによる福音書8:22~39、ヨシュア記20~21、詩編128~129
ヨシュア記20~21;
土地の分配が、いよいよ最後になりました。レビ族に土地が与えられます。他の部族とは違う与えられた方です。レビ族は神様に仕えることを使命として託されましたので、他の部族のような領地は持ちません。その代わりに全国に散らばっていくつかの町とその周囲の放牧地を与えられ、そこに住むのです。各部族はくじで決められたいくつかの町を提供しました。他の諸部族のように農業をするのではなく、神に仕えることが仕事です。彼らは神へのささげ物の一部をもらうことで生活したのです。
そんなレビ人の町のうちの六つは、逃れの町と呼ばれる特別な町に定められました。故意ではなく過って人を殺してしまった者が血の復讐を逃れるための場所です。その町の中にいる限り、復讐は禁じられているのです。そしてその時の大祭司が死ぬと、恩赦を受けることができる、というものです。
レビ族という存在がイスラエルの中にいることで、自分たちは一体何者なのかを知ったのではないかと思います。ただただ神に仕えることを使命とする者が、全国各地の自分たちの身近にいるのです。しかも、レビの町の中のレビの町とも言える逃れの町の存在は、自分たちの処罰感情や怒り、復讐してやらないと決して済まないという強い憎しみに「待った」をかけます。感情としては赦せないけれど、それでも神様が赦しを求めておられることを、逃れの町があることで身をもって知るのです。
主イエスは、私たちに祈りを教えてくださいました。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と私たちも祈ります。自分がされたことをじっと見つめているときには、自分に過ちをして人を赦すことはなかなかできません。ただ、自分も神様にたたただ赦して頂いただけだと知るときにだけ、私たちにも人を赦すことができるのではないでしょうか。私たちの生きているこの世界には、十字架が立っているのです。逃れの町があったように。十字架が立っていて、私たちはただそこに逃れることができる。神の憐れみの下にしか、罪深い私たちが生きうる場所はないのです。
ヨシュア記20~21;
土地の分配が、いよいよ最後になりました。レビ族に土地が与えられます。他の部族とは違う与えられた方です。レビ族は神様に仕えることを使命として託されましたので、他の部族のような領地は持ちません。その代わりに全国に散らばっていくつかの町とその周囲の放牧地を与えられ、そこに住むのです。各部族はくじで決められたいくつかの町を提供しました。他の諸部族のように農業をするのではなく、神に仕えることが仕事です。彼らは神へのささげ物の一部をもらうことで生活したのです。
そんなレビ人の町のうちの六つは、逃れの町と呼ばれる特別な町に定められました。故意ではなく過って人を殺してしまった者が血の復讐を逃れるための場所です。その町の中にいる限り、復讐は禁じられているのです。そしてその時の大祭司が死ぬと、恩赦を受けることができる、というものです。
レビ族という存在がイスラエルの中にいることで、自分たちは一体何者なのかを知ったのではないかと思います。ただただ神に仕えることを使命とする者が、全国各地の自分たちの身近にいるのです。しかも、レビの町の中のレビの町とも言える逃れの町の存在は、自分たちの処罰感情や怒り、復讐してやらないと決して済まないという強い憎しみに「待った」をかけます。感情としては赦せないけれど、それでも神様が赦しを求めておられることを、逃れの町があることで身をもって知るのです。
主イエスは、私たちに祈りを教えてくださいました。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と私たちも祈ります。自分がされたことをじっと見つめているときには、自分に過ちをして人を赦すことはなかなかできません。ただ、自分も神様にたたただ赦して頂いただけだと知るときにだけ、私たちにも人を赦すことができるのではないでしょうか。私たちの生きているこの世界には、十字架が立っているのです。逃れの町があったように。十字架が立っていて、私たちはただそこに逃れることができる。神の憐れみの下にしか、罪深い私たちが生きうる場所はないのです。
2019年5月1日水曜日
2019年5月1日(ヨシュア記19)
今日の通読箇所:ルカによる福音書8:1~21、ヨシュア記19、詩編126~127
ヨシュア記19;
すべての部族への土地の分配が終わりました。
「以上が、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、親族の頭たちが、イスラエル人の諸部族のために、シロの会見の幕屋の入り口で、主の前において、くじで相続させた土地である。こうして彼らは土地の割り当てを終えた」(51節)。
土地の分配はくじで決められました。旧約聖書を見ると、しばしばくじで大切なことを決めるています。このときの神様の御心を尋ね求めるためのプロセスだったのでしょう。誰か意見の強い人の意向による支配だとか、有力者のご機嫌を伺う忖度だとかいう「人の支配」を退けて「神の支配」を確立するための方法だったのだろうと思います。
今は教会で大切な意志決定のためにくじを引くということはほとんどありません。今は代表者を選んで意志の決定を委ね、その人たちは時間をかけて丁寧に話し合い、神様の御心を尋ねて祈りながら教会の意志を決めていきます。今、神様は教会に聖霊を与えておられ、構成員それぞれに少しずつ御心を示し、それが話し合われることによって神様のご意志の総体が明らかになっていくと信じているからです。ですので、小会の牧師や長老が神の御心から外れた決定をしないように、へりくだって神様のご意志を求めていかれるように、祈ってください。私たちの教会が神に支配された教会であるように。
さて、ヨシュア記の土地分配では、ダン族が最後でした。ところが「ダンの一族の領土は彼らのものにはならず、ダンの一族は北上し、レシェムと戦ってこれを占領し、剣にかけて討ち、そこを所有地として住み着いた(47節)」。実はその土地はダン族に分配された後ペリシテ人に奪われてしまったのです。ダン族はこの後不遇な道をたどっていきます。次の士師記の後半にも再び彼らのエピソードが登場しますので、記憶のフックにかけておいて頂ければと思います。
ヨシュア記19;
すべての部族への土地の分配が終わりました。
「以上が、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、親族の頭たちが、イスラエル人の諸部族のために、シロの会見の幕屋の入り口で、主の前において、くじで相続させた土地である。こうして彼らは土地の割り当てを終えた」(51節)。
土地の分配はくじで決められました。旧約聖書を見ると、しばしばくじで大切なことを決めるています。このときの神様の御心を尋ね求めるためのプロセスだったのでしょう。誰か意見の強い人の意向による支配だとか、有力者のご機嫌を伺う忖度だとかいう「人の支配」を退けて「神の支配」を確立するための方法だったのだろうと思います。
今は教会で大切な意志決定のためにくじを引くということはほとんどありません。今は代表者を選んで意志の決定を委ね、その人たちは時間をかけて丁寧に話し合い、神様の御心を尋ねて祈りながら教会の意志を決めていきます。今、神様は教会に聖霊を与えておられ、構成員それぞれに少しずつ御心を示し、それが話し合われることによって神様のご意志の総体が明らかになっていくと信じているからです。ですので、小会の牧師や長老が神の御心から外れた決定をしないように、へりくだって神様のご意志を求めていかれるように、祈ってください。私たちの教会が神に支配された教会であるように。
さて、ヨシュア記の土地分配では、ダン族が最後でした。ところが「ダンの一族の領土は彼らのものにはならず、ダンの一族は北上し、レシェムと戦ってこれを占領し、剣にかけて討ち、そこを所有地として住み着いた(47節)」。実はその土地はダン族に分配された後ペリシテ人に奪われてしまったのです。ダン族はこの後不遇な道をたどっていきます。次の士師記の後半にも再び彼らのエピソードが登場しますので、記憶のフックにかけておいて頂ければと思います。
2019年4月30日火曜日
2019年4月30日(ヨシュア記18)
今日の通読箇所:ルカによる福音書7:24~50、ヨシュア記18、詩編124~125
ヨシュア記18;
「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのをいつまでためらっているのか(3節)」。すでにイスラエルの五つの部族には所有地が割り当てられましたが、まだそれを得ていない七つの部族が残されていました。ヨシュアは彼らに向かって、いつまでためらっているのか、と問います。
もうすでに神が与えてくださった。そう信じて、足の裏でその地を踏みしめるために進んでいくべき地は目の前に広がっている。後は、信じて進んでいくだけです。この期に及んで、もうためらうべきではないのです。
今朝私たちに与えられている詩編は第125編でした。「主に信頼する人はシオンの山のように、揺らぐことなく、とこしえにとどまる。」ここでもやはり主への信頼を主題としています。主に信頼して一歩踏み出すことができる人は、山のように揺らぐことなくとどまることもできます。その急所は、主なる神様への信頼です。
私たちの生きている国は、今、揺れ動いていると思います。代替わりと改元フィーバーとでも言えばいいのでしょうか。世相が慌ただしく揺らいでいる。不安感が満ちていますが、それを覆い隠すようなお祭り騒ぎになっています。天皇を基とする時代区分は、私たちには何の意味も持ちません。それははっきりしています。私たちは明日からも同じ時代を生きます。私たちは「主の年(西暦を意味するA.D.はラテン語で「主の年」という意味)」を生きていきます。私たちは、主イエスが支配する天の国に国籍を持ちます。だから、この世界がどんなに揺れ動いても主を信頼し、揺れ動くことがありません。そして、主を信頼するから、恐れずに新しい一歩を踏み出します。ためらうことなく!
ヨシュア記18;
「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのをいつまでためらっているのか(3節)」。すでにイスラエルの五つの部族には所有地が割り当てられましたが、まだそれを得ていない七つの部族が残されていました。ヨシュアは彼らに向かって、いつまでためらっているのか、と問います。
もうすでに神が与えてくださった。そう信じて、足の裏でその地を踏みしめるために進んでいくべき地は目の前に広がっている。後は、信じて進んでいくだけです。この期に及んで、もうためらうべきではないのです。
今朝私たちに与えられている詩編は第125編でした。「主に信頼する人はシオンの山のように、揺らぐことなく、とこしえにとどまる。」ここでもやはり主への信頼を主題としています。主に信頼して一歩踏み出すことができる人は、山のように揺らぐことなくとどまることもできます。その急所は、主なる神様への信頼です。
私たちの生きている国は、今、揺れ動いていると思います。代替わりと改元フィーバーとでも言えばいいのでしょうか。世相が慌ただしく揺らいでいる。不安感が満ちていますが、それを覆い隠すようなお祭り騒ぎになっています。天皇を基とする時代区分は、私たちには何の意味も持ちません。それははっきりしています。私たちは明日からも同じ時代を生きます。私たちは「主の年(西暦を意味するA.D.はラテン語で「主の年」という意味)」を生きていきます。私たちは、主イエスが支配する天の国に国籍を持ちます。だから、この世界がどんなに揺れ動いても主を信頼し、揺れ動くことがありません。そして、主を信頼するから、恐れずに新しい一歩を踏み出します。ためらうことなく!
2019年4月29日月曜日
2019年4月29日(ヨシュア記16〜17)
今日の通読箇所:ルカによる福音書7:1~23、ヨシュア記16~17、詩編122~123
ヨシュア記16~17;
ヨセフの一族への土地の分配です。ヨセフ族にはヨセフの二人の息子、エフライムとマナセの名前で相続地が割り当てられました。その中でもマナセ族の一人であるツェロフハドには息子がいませんでした。家名を継ぐお世継ぎがいない。しかし、だからといってツェロフハドの家に相続地が分配されない、ということにはならなかったのです。
ツェロフハドの娘たちの名前が記録されています。「マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァ」。彼女たちはヨシュアら指導者たちのところに来て言います。「私たちも兄弟たちの間に相続地を与えるよう、主はモーセに命じておられます(17:4)」。これを聞いたヨシュアは、モーセの主の命令に従って、彼女たちの相続地を与えました。
私たちが聖書を読んですぐに気づくことは、聖書は、とても強力な父権社会を背景に描かれている、ということです。家名も土地も、家の男子が継ぐものでした。女性の名前が記録されていること自体が異例です。しかし、彼女たちは長いものに巻かれずに相続地を与えてくれるように主張しました。その根拠は「主はモーセに命じておられます」と言っているとおり、聖書の御言葉だったのです。
もしかしたら、表面的にしか聖書を読んでいないと、社会の常識や時代の精神、みんなの意見、雰囲気、そういうものに従ってしまい、主の御言葉に従うということが難しくなってしまうかもしれません。私たちは、どのように主の御言葉に聞き、これに従うのでしょう。私たちが最終的に従い、自分の生き方を決定づけるのは、神様の御言葉なのでしょうか。それとも、他の何ものかが我が物顔で私たちの上に君臨すのを許すのでしょうか?
ヨシュア記16~17;
ヨセフの一族への土地の分配です。ヨセフ族にはヨセフの二人の息子、エフライムとマナセの名前で相続地が割り当てられました。その中でもマナセ族の一人であるツェロフハドには息子がいませんでした。家名を継ぐお世継ぎがいない。しかし、だからといってツェロフハドの家に相続地が分配されない、ということにはならなかったのです。
ツェロフハドの娘たちの名前が記録されています。「マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァ」。彼女たちはヨシュアら指導者たちのところに来て言います。「私たちも兄弟たちの間に相続地を与えるよう、主はモーセに命じておられます(17:4)」。これを聞いたヨシュアは、モーセの主の命令に従って、彼女たちの相続地を与えました。
私たちが聖書を読んですぐに気づくことは、聖書は、とても強力な父権社会を背景に描かれている、ということです。家名も土地も、家の男子が継ぐものでした。女性の名前が記録されていること自体が異例です。しかし、彼女たちは長いものに巻かれずに相続地を与えてくれるように主張しました。その根拠は「主はモーセに命じておられます」と言っているとおり、聖書の御言葉だったのです。
もしかしたら、表面的にしか聖書を読んでいないと、社会の常識や時代の精神、みんなの意見、雰囲気、そういうものに従ってしまい、主の御言葉に従うということが難しくなってしまうかもしれません。私たちは、どのように主の御言葉に聞き、これに従うのでしょう。私たちが最終的に従い、自分の生き方を決定づけるのは、神様の御言葉なのでしょうか。それとも、他の何ものかが我が物顔で私たちの上に君臨すのを許すのでしょうか?
2019年4月28日日曜日
2019年4月28日(ヨシュア記14〜15)
今日の通読箇所:ペトロの手紙一1、ヨシュア記14~15、詩編120~121
ヨシュア記14~15;
土地の割り当ては、公平にくじによりました。「主がモーセを通して命じられたように、九つの部族とマナセの部族の半数の相続地はくじで割り当てられた(14:2)」。ここではその中でも特にユダ族に割り当てられた土地について記録しています。
その中でも特別な存在が、カレブでした。彼はかつてヨシュアや他の10人(10部族それぞれからの代表者)と一緒に、カナンの地を偵察に行きました。その地は飛べもすばらしい場所で、豊かな作物が実っていた。しかし、そこには自分たちより遙かに強くて大きな民がおり、とても適うとは考えられなかった。それで、偵察隊のうちの10人は、カナンの地に行くのはやめようと言い出した。ところが、カレブとヨシュアだけは、神の約束を信じて断然攻め込むべきだと主張します。人々はカレブとヨシュアの意見は無視し、他の10人の言うことを信じてしまった。そのことが原因で、この事件が起きたときにすでに成人していた者たちは一人も約束の地にはいることなく、荒れ野で死にました。神様は、神様を信じ従い通したカレブを祝福し、言ったのです。「あなたの足が踏んだ地は、とこしえにあなたと、あなたの子孫の相続地になる。あなたはわが神、主に従い通したからである(14:9)」。今、この約束が実行に移され、カレブにはヘブロンという名の土地が特別に与えられたのです。
神様がお喜びになったのは、主の約束をただまっすぐに信じるカレブの信仰です。神の恵みの約束がここに待っていると信じた。それがカレブの信仰です。そこにある神の恵みを信じるとき、その恵みは私たちの前に具体的な姿を取って現れてきます。私たちの常識や人生経験からの類推は、私たちが思っているほどには信ずべき価値があるわけではないのではないでしょうか。
ヨシュア記14~15;
土地の割り当ては、公平にくじによりました。「主がモーセを通して命じられたように、九つの部族とマナセの部族の半数の相続地はくじで割り当てられた(14:2)」。ここではその中でも特にユダ族に割り当てられた土地について記録しています。
その中でも特別な存在が、カレブでした。彼はかつてヨシュアや他の10人(10部族それぞれからの代表者)と一緒に、カナンの地を偵察に行きました。その地は飛べもすばらしい場所で、豊かな作物が実っていた。しかし、そこには自分たちより遙かに強くて大きな民がおり、とても適うとは考えられなかった。それで、偵察隊のうちの10人は、カナンの地に行くのはやめようと言い出した。ところが、カレブとヨシュアだけは、神の約束を信じて断然攻め込むべきだと主張します。人々はカレブとヨシュアの意見は無視し、他の10人の言うことを信じてしまった。そのことが原因で、この事件が起きたときにすでに成人していた者たちは一人も約束の地にはいることなく、荒れ野で死にました。神様は、神様を信じ従い通したカレブを祝福し、言ったのです。「あなたの足が踏んだ地は、とこしえにあなたと、あなたの子孫の相続地になる。あなたはわが神、主に従い通したからである(14:9)」。今、この約束が実行に移され、カレブにはヘブロンという名の土地が特別に与えられたのです。
神様がお喜びになったのは、主の約束をただまっすぐに信じるカレブの信仰です。神の恵みの約束がここに待っていると信じた。それがカレブの信仰です。そこにある神の恵みを信じるとき、その恵みは私たちの前に具体的な姿を取って現れてきます。私たちの常識や人生経験からの類推は、私たちが思っているほどには信ずべき価値があるわけではないのではないでしょうか。
2019年4月27日土曜日
2019年4月27日(ヨシュア記12〜13)
今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙1、ヨシュア記12~13、詩編119:161~176
ヨシュア記12~13;
第12章には、ヨルダン川の東側と西側、それぞれで占領した土地とそこを治めていた王たちの名前がとても丁寧に記されています。その名前の一つひとつが、イスラエルの人々にとっては、神様の力強い御業を思い起こさせるものだったのでしょう。ヨシュアたちの時代の後、やがてヨシュア記がこのように書かれる時代、今やイスラエルの領土なっている土地の名前やそこをかつて治めていた王たちの名前を記録しながら、自分たちの力だけでは到底なしえなかった事柄について、神様が力を与え、なさしめてくださったことを思い起こしていたのではないでしょうか。
第13章では、冒頭このようにあります。「ヨシュアは多くの日を重ねて年を取った。主は彼に言われた。『あなたは多くの日を重ねて年を取ったが、占領すべき土地はたくさん残っている。残っている土地は次のとおりである。・・・あなたはただ、私が命じたとおり、くじを引いて、それをイスラエルの相続地として分けなさい』」(1,2,6節)。まだ、ヨシュアたちが足の裏で踏むべき場所はたくさん残っています。なお、ヨシュアは民の先頭に立ってそこに出て行って進め、と言われます。それはすでに年を取っていたヨシュアにとって、もしかしたら喜ばしい命令ではなかったかもしれません。しかし、神様はなおヨシュアを用いようとなさいます。
神様の力に頼り、またその導きに従って進むとき、自分自身の予想とは違う仕方で、神様は私たちを用いてくださいます。なお神のご命令は、意味を持ち続けている。私たちの足の裏踏むべき場所はまだ残っている。その神様の御業の幻を追い求めて、私たちは今日も進むことができるのです。
ヨシュア記12~13;
第12章には、ヨルダン川の東側と西側、それぞれで占領した土地とそこを治めていた王たちの名前がとても丁寧に記されています。その名前の一つひとつが、イスラエルの人々にとっては、神様の力強い御業を思い起こさせるものだったのでしょう。ヨシュアたちの時代の後、やがてヨシュア記がこのように書かれる時代、今やイスラエルの領土なっている土地の名前やそこをかつて治めていた王たちの名前を記録しながら、自分たちの力だけでは到底なしえなかった事柄について、神様が力を与え、なさしめてくださったことを思い起こしていたのではないでしょうか。
第13章では、冒頭このようにあります。「ヨシュアは多くの日を重ねて年を取った。主は彼に言われた。『あなたは多くの日を重ねて年を取ったが、占領すべき土地はたくさん残っている。残っている土地は次のとおりである。・・・あなたはただ、私が命じたとおり、くじを引いて、それをイスラエルの相続地として分けなさい』」(1,2,6節)。まだ、ヨシュアたちが足の裏で踏むべき場所はたくさん残っています。なお、ヨシュアは民の先頭に立ってそこに出て行って進め、と言われます。それはすでに年を取っていたヨシュアにとって、もしかしたら喜ばしい命令ではなかったかもしれません。しかし、神様はなおヨシュアを用いようとなさいます。
神様の力に頼り、またその導きに従って進むとき、自分自身の予想とは違う仕方で、神様は私たちを用いてくださいます。なお神のご命令は、意味を持ち続けている。私たちの足の裏踏むべき場所はまだ残っている。その神様の御業の幻を追い求めて、私たちは今日も進むことができるのです。
2019年4月26日金曜日
2019年4月26日(ヨシュア記10〜11)
今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一15:29~58、ヨシュア記10~11、詩編119:145~160
ヨシュア記10~11;
ヨシュア記は戦争の記録であり、土地取得の記録です。土地取得というのは、神が与えると約束なさったカナンの地です。しかし、そこにはすでに住んでいる人たちがいました。ですから、土地取得というのは、戦争でそれを奪い取るということです。今朝の箇所ではそれがより明確であったと思います。
こういう記事を読むと、ある人は聖書は戦争を正当化していると考えるかもしれません。もっと言えば、自分たちがしている戦争を正当化するために、聖書のこういうところを利用するような人も出てくるかもしれないのです。
しかし、いくつか注意すべきことがあると思います。一つには、当然のことですが、聖書は現代の政治的・地政学的・軍事的などいろいろな状況を全く前提としていないということです。私たちの時代のニードを押しつけることは慎まなければならないと思います。もう一つは、これと関係することではありますが、聖書には聖書の伝えようとするメッセージがある、ということです。それを語るための記述だということをわきまえておきたいと思います。
今朝の所では、イスラエルの戦いについて、このように言っています。「主がその僕モーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった(11:15)」。これがここでのメッセージであるのだと思います。ヨシュアは、神がお命じになったことに忠実に行いました。しかも、独自に神秘的な仕方で神の命令を聞き取ったというのではなく、モーセからそれを伝えられていた。信仰の先達の言葉に導きに忠実であったのです。ヨシュアたちはそれを戦争という危機のときにも、あるいは危機のときであるからこそ、神様に忠実に生きました。私たちの人生の導きは、一体何でしょうか。神様は、私たちがご自分に従うことを待っておられます。
ヨシュア記10~11;
ヨシュア記は戦争の記録であり、土地取得の記録です。土地取得というのは、神が与えると約束なさったカナンの地です。しかし、そこにはすでに住んでいる人たちがいました。ですから、土地取得というのは、戦争でそれを奪い取るということです。今朝の箇所ではそれがより明確であったと思います。
こういう記事を読むと、ある人は聖書は戦争を正当化していると考えるかもしれません。もっと言えば、自分たちがしている戦争を正当化するために、聖書のこういうところを利用するような人も出てくるかもしれないのです。
しかし、いくつか注意すべきことがあると思います。一つには、当然のことですが、聖書は現代の政治的・地政学的・軍事的などいろいろな状況を全く前提としていないということです。私たちの時代のニードを押しつけることは慎まなければならないと思います。もう一つは、これと関係することではありますが、聖書には聖書の伝えようとするメッセージがある、ということです。それを語るための記述だということをわきまえておきたいと思います。
今朝の所では、イスラエルの戦いについて、このように言っています。「主がその僕モーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった(11:15)」。これがここでのメッセージであるのだと思います。ヨシュアは、神がお命じになったことに忠実に行いました。しかも、独自に神秘的な仕方で神の命令を聞き取ったというのではなく、モーセからそれを伝えられていた。信仰の先達の言葉に導きに忠実であったのです。ヨシュアたちはそれを戦争という危機のときにも、あるいは危機のときであるからこそ、神様に忠実に生きました。私たちの人生の導きは、一体何でしょうか。神様は、私たちがご自分に従うことを待っておられます。
2019年4月25日木曜日
2019年4月25日(ヨシュア記8〜9)
今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一15:1~28、ヨシュア記8~9、詩編119:129~144
ヨシュア記8~9;
なんとも奇妙な話です。ヨシュア記第9章です。ギブオン人らは破竹の勢いで向かってくるイスラエルに恐れをなし、策を講じました。イスラエルの指導者ヨシュアの下に降伏しましたが、その際に嘘の情報をだし、自分たちは遠くに住むものでイスラエルが責めるべき存在ではないと騙したのです。ヨシュアたちはそれを信じ、彼らを受け入れました。「人々は彼らの食料の一部を受け取ったが、主の指示を求めることはしなかった。ヨシュアは彼らと和平を結び、彼らの命を保証する契約を結んだ(14~15節)」。
ところが、すぐにギブオン人らが嘘をついていたことに気づきます。そうとなれば彼らを敵と見なして攻め上るべきなのか?何しろ、申命記ではカナンの地にいる先住民について、「あなたの神、主が彼らをあなたに渡し、あなたが彼らを討つとき、必ず彼らを滅ぼし尽くさなければならない。彼らと契約を結んだり、彼らを憐れんではならない(申命記7:2)」と言われていたのです。正確に言えば滅ぼすべき民のリストにエブス人は入ってはいませんが、それにしても主なる神様の指示を仰ぐこともなく勝手に契約を結んだというのは褒められたものではないでしょう。
それなのに、自分たちがよく確認もせず、主に問うこともなく、騙されたとはいえ軽率に契約を結んだことが判明したとき、彼らは言いました。「私たちのはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。私たちのなすべきことはこうである。彼らを生かしておこう。私たちが彼らに誓った誓いのゆえに、私たちの上に怒りが下ることはないだろう(19~20節)」。そして実際に、特に彼らがこのことで軽率な近いの罰を受けるようなことはなかったのです。なんとも奇妙で、不思議な話ではないでしょうか。
この話は、誓いの重さを伝えているのではないでしょうか。主の御名によって誓うことは、他の何にも優先されるほどに責任あること。軽々しい約束をしてはならないのだと思います。自分の口から出てくる言葉をそのような視点から顧みてみると、恐ろしくなります。私が今日、軽々しい言葉を口にしてしまわないように・・・どうか主よお守りくださいと祈りつつ一日を始めたく思います。
ヨシュア記8~9;
なんとも奇妙な話です。ヨシュア記第9章です。ギブオン人らは破竹の勢いで向かってくるイスラエルに恐れをなし、策を講じました。イスラエルの指導者ヨシュアの下に降伏しましたが、その際に嘘の情報をだし、自分たちは遠くに住むものでイスラエルが責めるべき存在ではないと騙したのです。ヨシュアたちはそれを信じ、彼らを受け入れました。「人々は彼らの食料の一部を受け取ったが、主の指示を求めることはしなかった。ヨシュアは彼らと和平を結び、彼らの命を保証する契約を結んだ(14~15節)」。
ところが、すぐにギブオン人らが嘘をついていたことに気づきます。そうとなれば彼らを敵と見なして攻め上るべきなのか?何しろ、申命記ではカナンの地にいる先住民について、「あなたの神、主が彼らをあなたに渡し、あなたが彼らを討つとき、必ず彼らを滅ぼし尽くさなければならない。彼らと契約を結んだり、彼らを憐れんではならない(申命記7:2)」と言われていたのです。正確に言えば滅ぼすべき民のリストにエブス人は入ってはいませんが、それにしても主なる神様の指示を仰ぐこともなく勝手に契約を結んだというのは褒められたものではないでしょう。
それなのに、自分たちがよく確認もせず、主に問うこともなく、騙されたとはいえ軽率に契約を結んだことが判明したとき、彼らは言いました。「私たちのはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。私たちのなすべきことはこうである。彼らを生かしておこう。私たちが彼らに誓った誓いのゆえに、私たちの上に怒りが下ることはないだろう(19~20節)」。そして実際に、特に彼らがこのことで軽率な近いの罰を受けるようなことはなかったのです。なんとも奇妙で、不思議な話ではないでしょうか。
この話は、誓いの重さを伝えているのではないでしょうか。主の御名によって誓うことは、他の何にも優先されるほどに責任あること。軽々しい約束をしてはならないのだと思います。自分の口から出てくる言葉をそのような視点から顧みてみると、恐ろしくなります。私が今日、軽々しい言葉を口にしてしまわないように・・・どうか主よお守りくださいと祈りつつ一日を始めたく思います。
2019年4月24日水曜日
2019年4月24日(ヨシュア記6〜7)
今日の通読箇所:使徒言行録1、ヨシュア記6~7、詩編119:113~128
ヨシュア記6~7;
アカンは、罪を犯してしまいました。エリコとの戦いに、主の不思議な導きによって大勝利を収めたイスラエル。高い城壁は、主の御言葉に従って城壁の周りを七日間かけてぐるぐる回り、最後の日に皆で鬨の声を上げたときに崩れ去ってしまった。本当に不思議な、そして力強い神様の道からを経験したのです。その町との戦いで奪ったぶんどりものは、すべて神様の取り分として、滅ぼし尽くすようにと命じられていました。イスラエルの人たちは皆それに忠実に従いました。「こうして、町とその中にあるすべてのものは火で焼き払われた(6:24)」。
ところが、アカンはその点で不忠実でした。彼の犯したことが発覚し、彼は告白します。「戦利品の中に、美しいシンアルの外套が一着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ棒が一本あるのを見て、私はそれらが欲しくなって取りました(7:21)」。アカンを襲ったこの貪欲の誘惑。このような思いから自由な人が、一体どこかにいるのでしょうか?
エリコは、本当に不思議な神様の御力によって勝利を収めた戦いです。神様の御業を目撃していても、なお貪欲の罪から自由になることができない。そういう私たちの性根が、この一人の人を通して現れているのだと思います。
「我らを試みにあわせず、悪より救いいだし給え」。主は、この祈りを私たちに教えてくださいました。私たちにとって、本当に切実に必要な祈りです。主イエス・キリストの御前にふさわしくない私。主よ、救ってください。主よ、憐れんでください。主の御前に、今日も新しい思いで主の祈りを祈りたい。そう願います。
ヨシュア記6~7;
アカンは、罪を犯してしまいました。エリコとの戦いに、主の不思議な導きによって大勝利を収めたイスラエル。高い城壁は、主の御言葉に従って城壁の周りを七日間かけてぐるぐる回り、最後の日に皆で鬨の声を上げたときに崩れ去ってしまった。本当に不思議な、そして力強い神様の道からを経験したのです。その町との戦いで奪ったぶんどりものは、すべて神様の取り分として、滅ぼし尽くすようにと命じられていました。イスラエルの人たちは皆それに忠実に従いました。「こうして、町とその中にあるすべてのものは火で焼き払われた(6:24)」。
ところが、アカンはその点で不忠実でした。彼の犯したことが発覚し、彼は告白します。「戦利品の中に、美しいシンアルの外套が一着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ棒が一本あるのを見て、私はそれらが欲しくなって取りました(7:21)」。アカンを襲ったこの貪欲の誘惑。このような思いから自由な人が、一体どこかにいるのでしょうか?
エリコは、本当に不思議な神様の御力によって勝利を収めた戦いです。神様の御業を目撃していても、なお貪欲の罪から自由になることができない。そういう私たちの性根が、この一人の人を通して現れているのだと思います。
「我らを試みにあわせず、悪より救いいだし給え」。主は、この祈りを私たちに教えてくださいました。私たちにとって、本当に切実に必要な祈りです。主イエス・キリストの御前にふさわしくない私。主よ、救ってください。主よ、憐れんでください。主の御前に、今日も新しい思いで主の祈りを祈りたい。そう願います。
2019年4月23日火曜日
2019年4月23日(ヨシュア記4〜5)
今日の通読箇所:ヨハネによる福音書21:15~25、ヨシュア記4~5、詩編119:97~112
ヨシュア記4~5;
「彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中で祭司たちが足を止めてたっていた場所から十二の石を取り、それを持って来て、今夜あなたがたが夜を過ごす場所に据えなさい(4:3)」。何のために、そのようなことをするのか。「将来、子どもたちが、『これらの石は何ですか』と尋ねたなら、こう答えなさい。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。これらの石は、とこしえにイスラエルの人々の記念となる』(7節)」。主がしてくださった大いなる御業の記念として、この石を立てておけということのようです。
これは、私たちにも大事な示唆を与えてくれる出来事だと思います。私たちは今何かの建築物を主の御業の記念とはしません。私たちの何よりの記念は、聖餐です。「私の記念としてこのように行いなさい(一コリント11:24)」。聖餐を祝うたびに、私たちはキリストを記念し、その体と地を味わいます。信仰は、ある意味では、記念することです。思い出すことです。何を?神がしてくださったすばらしい御業を。主イエス・キリストの十字架と復活を思い出し、これを記念して心に刻む。そうやって、新しくそれを味わい続ける。それが信仰の営みです。
神の御業を記念しつつ、この足の裏で新しい地を踏みしめるとき、私たちは過去だけではなく将来に待つ神の御業を目撃することになります。ヨシュアがエリコにいたとき、抜き身の剣を手にした人がいるのを見ました。その人は主の軍勢の長であると言います。彼はヨシュアに言いました。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である(5:15)」。これから私が進んでいこうとする場所は、もうすでに神のものであり、神の聖なる場所。今日、私たちが進んでいく所もまた神の聖なる土地です。永遠に記念すべき神の聖なる御業は、今日、私たちが進む先でも行われています。
ヨシュア記4~5;
「彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中で祭司たちが足を止めてたっていた場所から十二の石を取り、それを持って来て、今夜あなたがたが夜を過ごす場所に据えなさい(4:3)」。何のために、そのようなことをするのか。「将来、子どもたちが、『これらの石は何ですか』と尋ねたなら、こう答えなさい。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。これらの石は、とこしえにイスラエルの人々の記念となる』(7節)」。主がしてくださった大いなる御業の記念として、この石を立てておけということのようです。
これは、私たちにも大事な示唆を与えてくれる出来事だと思います。私たちは今何かの建築物を主の御業の記念とはしません。私たちの何よりの記念は、聖餐です。「私の記念としてこのように行いなさい(一コリント11:24)」。聖餐を祝うたびに、私たちはキリストを記念し、その体と地を味わいます。信仰は、ある意味では、記念することです。思い出すことです。何を?神がしてくださったすばらしい御業を。主イエス・キリストの十字架と復活を思い出し、これを記念して心に刻む。そうやって、新しくそれを味わい続ける。それが信仰の営みです。
神の御業を記念しつつ、この足の裏で新しい地を踏みしめるとき、私たちは過去だけではなく将来に待つ神の御業を目撃することになります。ヨシュアがエリコにいたとき、抜き身の剣を手にした人がいるのを見ました。その人は主の軍勢の長であると言います。彼はヨシュアに言いました。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である(5:15)」。これから私が進んでいこうとする場所は、もうすでに神のものであり、神の聖なる場所。今日、私たちが進んでいく所もまた神の聖なる土地です。永遠に記念すべき神の聖なる御業は、今日、私たちが進む先でも行われています。
2019年4月22日月曜日
2019年4月22日(ヨシュア記2〜3)
今日の通読箇所:ヨハネによる福音書21:1~14、ヨシュア記2~3、詩編119:81~96
ヨシュア記2~3;
受難週が挟まりましたが、今日からまた旧約聖書ヨシュア記に戻ります。ヨシュア記の主題は第1章に出てきていました。「私はモーセに告げたとおり、あなたがたの足の裏が踏む所をことごとく与える。あなたはただ、大いに強く、雄々しくありなさい。私の僕モーセがあなたがたに命じた律法をすべて守りなさい。そこから右にも左にもそれてはならない(1:3,7)」。神さまは、ヨシュアたちがその足の裏で踏む所をすべて与えてくださる。だから、それを信じて、聖書を羅針盤として実際に踏み出し、進んでいく。それがヨシュア記のメッセージです。
今日のところでも、そのメッセージは通底しています。カナンの地にあった巨大都市カナンに潜入した二人の斥候らは、遊女ラハブに助けられました。彼女は言います。「主があなたがたにこの土地を与えられたこと(2:9)」を私は知っています、と。ラハブは当然異邦人で主なる神様を信じていたわけではありません。しかし、主の言葉を信じて、斥候に協力しました。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た者たちを穏やかに迎え入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びることはありませんでした(ヘブライ人への手紙11:31)」と言われているとおりです。
さらに、第3章ではヨルダン川を渡ります。橋はありません。春の水量が多い時期でした。約60万人のイスラエルの兵士が一体どうやって渡るのか。主が言われます。「全地の主である主の箱を担いだ妻子たちの足の裏がヨルダン川の水につかるや、上流から流れてくるヨルダン川の水がせき止められ、一つの堰ができるであろう(3:13)」。ここでも、やはり「足の裏」です。神を信じて、ごうごうと水が流れるヨルダン川に踏み込まねばならない。しかし、主を信じて一歩進んだとき、果たして水はせき止められて新しい道ができるのです。
神様は、私たちの神を信じた新しい一歩を待っていてくださいます。私たちの足の裏は、今日、どこを踏むのでしょうか。
ヨシュア記2~3;
受難週が挟まりましたが、今日からまた旧約聖書ヨシュア記に戻ります。ヨシュア記の主題は第1章に出てきていました。「私はモーセに告げたとおり、あなたがたの足の裏が踏む所をことごとく与える。あなたはただ、大いに強く、雄々しくありなさい。私の僕モーセがあなたがたに命じた律法をすべて守りなさい。そこから右にも左にもそれてはならない(1:3,7)」。神さまは、ヨシュアたちがその足の裏で踏む所をすべて与えてくださる。だから、それを信じて、聖書を羅針盤として実際に踏み出し、進んでいく。それがヨシュア記のメッセージです。
今日のところでも、そのメッセージは通底しています。カナンの地にあった巨大都市カナンに潜入した二人の斥候らは、遊女ラハブに助けられました。彼女は言います。「主があなたがたにこの土地を与えられたこと(2:9)」を私は知っています、と。ラハブは当然異邦人で主なる神様を信じていたわけではありません。しかし、主の言葉を信じて、斥候に協力しました。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た者たちを穏やかに迎え入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びることはありませんでした(ヘブライ人への手紙11:31)」と言われているとおりです。
さらに、第3章ではヨルダン川を渡ります。橋はありません。春の水量が多い時期でした。約60万人のイスラエルの兵士が一体どうやって渡るのか。主が言われます。「全地の主である主の箱を担いだ妻子たちの足の裏がヨルダン川の水につかるや、上流から流れてくるヨルダン川の水がせき止められ、一つの堰ができるであろう(3:13)」。ここでも、やはり「足の裏」です。神を信じて、ごうごうと水が流れるヨルダン川に踏み込まねばならない。しかし、主を信じて一歩進んだとき、果たして水はせき止められて新しい道ができるのです。
神様は、私たちの神を信じた新しい一歩を待っていてくださいます。私たちの足の裏は、今日、どこを踏むのでしょうか。
2019年4月13日土曜日
2019年4月13日(ヨシュア記1)
今日の通読箇所:ルカによる福音書6:27~49、ヨシュア記1、詩編119:65~80
ヨシュア記1;
「さあ今、あなたとこの民は皆立ち上がり、このヨルダン川を渡りなさい。その先には、私がこの民、イスラエルの人々に与える地がある。私がモーセに告げたとおり、あなたがたの足の裏が踏む所をことごとくあなたがたに与える(2~3節)」。
昨日読んだモーセの最後の説教でもそうであったように、神はすでに約束の地を与えてくださいました。しかし、今現にそこにはカナン人、エブス人、ヒビ人などがいます。現実的には、まだイスラエルのものになっていない。しかし、神はもうすでにこれを与えたと約束しておられます。この約束は、棚からぼた餅が落ちてくるようには実現しません。神は、「あなたがたの足の裏が踏む所を」与えると言われます。私たちが神の約束を信じて、この足で約束の地を踏みしめ、進んでいかなければ、神の約束は実現に移らないのです。神は、今日、私たちがこの足の裏で踏む所を与えてくださいます。私たちは神を信じるがゆえに「大いに強く、雄々しく(7節)」進んでいきます。
ところで、足の裏が踏む所をすべて与えると言ったとき、好き勝手に自分の好みに任せて、欲しいものは何でももらえるというわけではありません。「私の僕モーセがあなたに命じた律法をすべて守り行い、そこから右にも左にもそれてはなならい。そうすれば、あなたはどこに行っても成功を収める。この律法の書を口から離さず、昼も夜もこれを唱え、書かれているすべてのことを守り行いなさい(7~8節)」。私たちがこの足でまっすぐに進むための羅針盤が与えられています。モーセが与えた律法、私たちで言えば、聖書の御言葉です。聖書が私たちの羅針盤となり、私たちが右にも曲がらず左にもそれずにただまっすぐ進むことができる。それこそ、私たちの幸いに他ならない。神様こそ、私たちの幸いを準備していてくださるからです。神が約束してくださったすばらしい祝福に、神が私たちを導き入れてくださいます。
ヨシュア記1;
「さあ今、あなたとこの民は皆立ち上がり、このヨルダン川を渡りなさい。その先には、私がこの民、イスラエルの人々に与える地がある。私がモーセに告げたとおり、あなたがたの足の裏が踏む所をことごとくあなたがたに与える(2~3節)」。
昨日読んだモーセの最後の説教でもそうであったように、神はすでに約束の地を与えてくださいました。しかし、今現にそこにはカナン人、エブス人、ヒビ人などがいます。現実的には、まだイスラエルのものになっていない。しかし、神はもうすでにこれを与えたと約束しておられます。この約束は、棚からぼた餅が落ちてくるようには実現しません。神は、「あなたがたの足の裏が踏む所を」与えると言われます。私たちが神の約束を信じて、この足で約束の地を踏みしめ、進んでいかなければ、神の約束は実現に移らないのです。神は、今日、私たちがこの足の裏で踏む所を与えてくださいます。私たちは神を信じるがゆえに「大いに強く、雄々しく(7節)」進んでいきます。
ところで、足の裏が踏む所をすべて与えると言ったとき、好き勝手に自分の好みに任せて、欲しいものは何でももらえるというわけではありません。「私の僕モーセがあなたに命じた律法をすべて守り行い、そこから右にも左にもそれてはなならい。そうすれば、あなたはどこに行っても成功を収める。この律法の書を口から離さず、昼も夜もこれを唱え、書かれているすべてのことを守り行いなさい(7~8節)」。私たちがこの足でまっすぐに進むための羅針盤が与えられています。モーセが与えた律法、私たちで言えば、聖書の御言葉です。聖書が私たちの羅針盤となり、私たちが右にも曲がらず左にもそれずにただまっすぐ進むことができる。それこそ、私たちの幸いに他ならない。神様こそ、私たちの幸いを準備していてくださるからです。神が約束してくださったすばらしい祝福に、神が私たちを導き入れてくださいます。
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