2023年11月30日木曜日

2023年11月30日の聖句

わが名を畏れるあなたがたには、義の太陽が昇る。
その翼には癒やしがある。(マラキ3:20)
夜は更け、昼が近づいた。(ローマ13:12)

今日で11月が終わります。12月になると一年を振り返る機会が多くなるかも知れません。今年の大きなニュースを考えると、やはり、イスラエルとパレスチナの出来事を忘れるわけにはいきません。それだけではなく、イスラエル・パレスチナの問題がニュースになってから報道される機会が減りましたが、ウクライナの戦争もいまだ終わったわけではない。そのような暗いニュースが多かったです。私たちの世界は痛んでいます。呻いています。救いが見つからず、混乱が深まっています。夜の闇が濃くなっている。
私たちはそういう時代に、そういう世界の中で、救いの光であるイエス・キリストが再び来てくださるのを待ち望んでいます。キリストが再び来て私たちを救ってくださる。その日を私たちは待ち焦がれている。
「夜は更け、昼は近づいた」と書かれています。夜が更け、闇が濃くなっていく。しかしそれは、実は朝の光が近づいている証拠に他ならない。主イエス・キリストは必ず来てくださる。キリストの来臨は近い。私たちは、私たちを救ってくださるキリストを待ち望んでいます。
この世の罪の闇は、考えられないほどに濃い。私たちにはその濃さをいくら見つめても、どこにも救いの徴なんて見えません。私たちはただひたすらに、キリストの約束を信じて待ち望みます。必ずキリストは私たちを救うために再び来てくださる。「わが名を畏れるあなたがたには、義の太陽が昇る。その翼には癒やしがある。」キリストは義の太陽として、癒やしの翼を広げて、私たちのところへ来てくださる。その日を待ち望んで、今日も私たちは希望をもって生きていきます。

2023年11月29日水曜日

2023年11月29日の聖句

お助けください、主よ。
敬虔な人は減り、人の子の中で忠実な人々は少ないのです。(詩編12:2)
イエスは十二人に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた。(ヨハネ6:67)

主イエスから福音の言葉を聞いた人の多くは、却ってそれに躓いて主イエスのもとから離れていきました。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(ヨハネ6:66)」それをご覧になって、主イエスは12人に言われます。「あなたがたも去ろうとするのか」と。
福音の言葉を聞いたとき、人々の反応は、喜びではありませんでした。感動ではなかった。捜していた人生の意味を見出したと言ったのでも、これまで抱えてきた問題の解決がここにあると言ったのでもありませんでした。躓きました。こんな話は聞くに値しないと、イエスの側から離れていきました。
「あなたがたも去ろうとするのか」と尋ねられた12人は、答えました。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。(68節)」彼らは主イエスを信じた。しかし、その信仰をこれからずっと貫くことができたわけでもありません。やがて、彼らも主イエスのもとから立ち去ってしまう日が来る。しかも、それは主イエスが十字架にかけられ、復活させられるという、究極の福音の出来事の時でした。最も鮮やかに神の愛が示されたとき、12人もイエスに躓き、イエスの側から立ち去ってしまった。
福音は、私たちの躓きです。私たちはキリストが差し出してくださった神の良き知らせを拒み、拒否して、イエスのもとから立ち去ってしまうのです。どんな時代でも、どんな人でも、それが人間の姿なのだと思います。私たちが今主イエス様の御側にいるのは、そのような不敬虔で不忠実な私たちをそれでも見捨てないでいてくださる主イエスさまの憐れみによるのではないでしょうか。キリストがそれでもなお私たちを愛してくださるから、ただそれだけの理由で、私たちはキリストのものにして頂いているのです。

2023年11月28日火曜日

2023年11月28日の聖句

あなたの言葉が開かれると光が射し、無知な者にも悟りを与えます。(詩編119:130)
あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ5:8)

今日の旧約聖書の御言葉は、文語訳が素晴らしいのでご紹介いたします。
「聖言(みことば)うちひらくれば光をはなちて愚かなるものをさとからしむ。」
神さまの御言葉が、うちひらかれる。良い言葉です。ただ単に開くというよりも勢いがあります。御言葉が迫ってくる。御言葉の力、しかも光をもたらす力が私たちに差し込んでくる。すると、愚かな者をさとからしめる。御言葉の光によって私たちの愚かさが照らされ、明らかになり、もはや暗くなくなる。私たちは御言葉の光に照らされている。
照明を求める祈りを、礼拝の時に献げます。聖霊なる神様が私たちの光となってくださって、私たちに御言葉を聞かせてくださいという祈りです。神様こそ、私たちの光です。
更に驚くべきことを聖書は言います。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。」神様が光だというだけではありません。神様は光だけど私は闇で、私は暗闇の中にうずくまったままだというのではない。神の光に照らされるとき、御言葉の光が打ち開くとき、聖霊の照明に照らされるとき、私たち自身もまた光となる。以前は私たちも暗闇でした。しかし今は違う。今や私たち自身も光になっている。神がそうしてくださった。私たちも光として生かされている。私たちは光の子。
これから、私たちは光の子として生きていきます。光の子として歩みなさい、という聖書の勧めは、本当に明るい私たちに向かう福音への招きです。私たちを光としてくださった方の御言葉に励まされて、御言葉の光に照らされて、私たちは光の子として生きていきます。

2023年11月27日月曜日

2023年11月27日の聖句

寡婦、孤児、寄留者、貧しい者を虐げてはならない。(ゼカリヤ7:10)
あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。(エフェソ4:20)

主イエス・キリストは、息子を亡くしたナインのやもめと出会い、その葬送の列を留めてくださいました。彼女のために息子を死から取り戻し、返してくださいました。子どもたちの頭に手を置いて祝福し、外国人と友になり、人々には「貧しい人は、幸いである」と宣言なさいました。主イエス・キリストは社会の中の無に等しい人、顧みられない人、軽んじられ、蔑ろにされている人々を覚え、重んじ、慈しみをお向けになりました。キリストは私たちの先頭に立って、愛のわざを行っておられます。
「寡婦、孤児、寄留者、貧しい者を虐げてはならない。」それは神の正義に反することです。寡婦、孤児、寄留者、貧しい人。この人たちは、社会の中で一番弱い人たちです。そういう事情は恐らく人間の歴史の中では殆どの時間、殆どの場所で同様だったのではないでしょうか。今でも、政治が優遇するのは企業や金持ちであって、外国人や貧乏な人のために積極的に手を打ち、その人たちを一番重んじるような政策を立案する人など見たことがない。しかしそのようなことは政治家をあげつらう必要もないのであって、この私をよく見てみれば、明らかなことです。私こそ、弱い立場に立たされている人々への愛に欠いている愚か者だということを認めないわけにはいかない・・・。
キリストはそのような私たちの間に立って、今日も、神の愛の御業を進めておられます。キリストの歩まれるその道には、いつでも、寡婦が、孤児が、寄留者が、貧しい人がいます。社会の中で特に顧みられることもない寡婦や孤児を、主はご覧になっている。差別され、すぐに犯罪者のような扱いを受け、危ない人のように白い目を向けられる外国人を、キリストは愛しておられます。自業自得と周囲から裁かれ、汚いとか臭いと鼻つまみ者のような扱いを受ける貧しい人のところへ、キリストは今日も進んで行かれます。
キリストが先頭に立って進む道へ、私たちも招かれている。愛の道へ、キリストは私たちを連れ出しておられるのです。

2023年11月26日日曜日

2023年11月26日の聖句

今週の聖句:
腰に帯を締め、灯をともしていなさい。(ルカ12:35)

今日の聖句:
主はいつくしみ深く、苦難の日の砦。
ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。(ナホム1:7)
求めなさい。そうすれば、与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。(マタイ7:7)

聖書は私たちが普通に世間で耳にするのとは違う言葉を語り出します。「ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。」普通は、逃げるなと言われます。神様に自分の身を避けるなんて、現実逃避だと言われてしまいます。ところが神様はご自分に身を避ける私たちを憶えてくださっている。喜んで受け入れてくださる。私たちを御心に留めて、慈しみをもって扱ってくださいます。神は私たちの苦難の日に砦になって私たちを守ってくださいます。
何という安心でしょう。なんと幸せなことでしょう。神様が私たちの逃れ場になってくださるのです。神様が私たちの逃れてくるのを待っていてくださるのです。
教会で、ときおり、泊まりがけの集会が計画されることがあります。一日であっても、少し集中した祈りの時を持つこともある。時には教会堂や普段生活をしている場を離れて、環境の違うところに行くこともあります。そういうような集会を、横文字でリトリートと呼ぶことがあります。リトリートというのはもともとは軍隊用語で、「撤退」を意味するそうです。戦況が思わしくないとき、兵士が戦場を退いて休息を取ることを意味したのだそうです。一度撤退し戦場を俯瞰してみて、もう一度作戦を練り直す。私たちには霊的なリトリートが必要です。信仰の戦いの場から一度退き、休息し、作戦を練り直す場が必要です。この朝の祈りの時間も小さなリトリートとして、そのような時、そのような場になればと願っています。そして、主の日の礼拝こそ、私たちの最も大切なリトリートです。私たちの普段している営みを一度中断して、神様の前に逃れる。神様のもとに避けて、わが身を退けて出て行く。そうやって普段の営みをやめてしまうことなしに、私たちには信仰の戦いを戦うことができないのではないでしょうか。
主イエスは言われます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」ご自分を求める者に、神様は必ず御顔の光を向けてくださいます。神様の御許での休息を下さいます。主イエス・キリストの御腕の中へ、今こそ帰って行きましょう。私たちの魂のリトリートです!

2023年11月25日土曜日

2023年11月25日の聖句

主が語られたことをすべて行い、聞き従います。(出エジプト記24:7)
聞くだけではなく、御言葉を行う人でありなさい。さもなくば、あなたがたは自分自身を欺くことになります。(ヤコブ1:22)

私たちはただ神の恵みだけによって救われます。私たちが正しいからとか、立派な信仰者だから救われるのではありません。ただ神がご自分の恵みによって、神のご厚意で私たちを愛し、救ってくださった。それが私たちのすべてです。ただしその事実は、私たちが私たちを愛してくださったお方に信頼をもって<従う>ということと矛盾しません。それどころか、神を愛し、神の恵みに応えるときに、神の言葉に従うというのは自然なことであると思います。
「聞くだけではなく、御言葉を行う人でありなさい。さもなくば、あなたがたは自分自身を欺くことになります。」
ここに、とても興味深いことが書いてあります。神の言葉を行わないならば、私たちは自分自身を欺いている。自分に嘘をついている。あなたを愛してくださった神の言葉を聞くだけで従わないなら、あなたはあなたらしくなくなっている、と聖書は言います。
自分らしく生きるというのは、神様に従うということとは矛盾するように勘違いしてしまいがちです。自分らしく生きるというのは、自分のしたいことをすること。普通はそう考えられます。いや、確かにその通りです。私たちにとっては、私たちを愛し、ご自分の独り子まで下さった神さまに従うことこそが自分の一番したいことです。神様に従うときにこそ、私たちの本領がいよいよ発揮されるときです。私たちは本当に自分らしく生きることができるのです、神様の御前でこそ。神様のまなざしの中でこそ、神様に従うときにこそ、私は本当に自分が生きたいように生きている。
繰り返し、繰り返し、神様の愛に私たちは立ち帰ります。キリストの愛が私に迫っているから、私は神を喜び、神に従うことを喜びとして生きる。主イエス・キリストの十字架にかけられたままのお姿を仰ぐから、私はこのお方に付いていくことを最大の喜びとする。他には、私たちには何もないのです。

2023年11月24日金曜日

2023年11月24日の聖句

わたしは彼らに言おう、「あなたがたは私の民」と。
すると彼らは答えるだろう、「主よ、あなたこそわたしたちの神」と。(ゼカリヤ13:9)
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(黙示録21:3~4)

すべては神さまから始まりました。神様が私たちに「あなたがたは私の民」と呼んでくださいました。私たちが神様を捜して、選んで、「あなたが私の神」とお呼びしたのではありません。神さまの方から私たちと出会い、私たちを選んでご自分の民と呼んでくださいました。神様からです。すべては神様から始まりました。その神様の呼びかけに応えて、私たちも答えます。「主よ、あなたこそわたしたちの神」と。
もしも私自身にかかっているのだとしたら、こんなにも不安定で、不確かで、危ないことはありません。私の神様を求める心なんて本当にどうしようもなく自分勝手です。気分に左右されたり、今にも消えてしまいそうで、偽善的です。私の祈りも、私の信仰も、何の頼りにもなりません。しかし、真実はそうではない。私自身にかかっているのではなく、神様の呼びかけにかかっている。神様の「あなたがたは私の民」という御声こそが頼り。だからこそ、こんなにも確かなことはないし、こんなにも安心できる根拠は他にはありません。
このお方はご自分の民と呼ぶ私たちを深く慰めるために、私たちのところに来てくださるお方です。「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」神は私たちを捨て置くことなく、私たちの目の涙を拭うために私たちの側近くにまで来てくださる。だから、大丈夫。自分がどんなに不安定で、頼りなくて、自分の信仰がどんなに疑わしく見えたとしても、あるいは実際にそうであっても、私たちを救う神の宣言はどのようなときにも確かだからです。神は私たちをご自分の民として、慰め、励まし、共にいてくださいます。

2023年11月23日木曜日

2023年11月23日の聖句

神よ、あなたは私の愚かさをご存じです。
私の犯した罪もあなたには隠すことができません。(詩編69:6)
神の恵みが豊かであることから、私たちはイエス・キリストにあって、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(エフェソ1:7)

主イエス・キリストが十字架の上で流した血が、私たちを神のものとして買い戻してくださいました。キリストは私たちを神のものとして取り戻すために十字架にかけられました。私たちは今や罪赦され、神のものとして生きています。神の豊かな恵みが私たちのためにイエス・キリストをお送りくださったのです。
神様が私たちにくださったのは、罪の赦しです。神に敵対する私たちのための和解の手です。キリストに示された大いなる愛です。尽きることのない、永遠に豊かな恵みです。私たちが神に返すものは全然それにふさわしくないものばかりです。神に背き、罪深く、神を蔑ろにしてはばからない。
「神よ、あなたは私の愚かさをご存じです。
私の犯した罪もあなたには隠すことができません。」
ところが神は私たちがどんなに愚かで、隠しおおせない罪に覆われていても、私たちに対する和解の言葉を引っ込めようとはなさらないのです。私たちに愛の言葉をかけることを中止なさらないのです。神様は、本当に憐れみ深く、忍耐に満ちたお方です。
だからこそ、私たちの語り合う言葉も和解であり、赦しの言葉でありたいと願います。私たちの口から生まれる言葉が神の愛を、憐れみを映し出すものでありますように。主イエス・キリストにあって、切に願います。

2023年11月22日水曜日

2023年11月22日の聖句

人はどうして神に対して正しくありえようか。
人と神は争うことを望んでも、千に一つも答えることはできない。(ヨブ記9:2~3)
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」(ルカ15:18)

主イエスのなさった譬え話の中でも最も印象的な話である「失われた息子」の話の一節です。父の家を離れて放蕩の限りを尽くし、やがて破産しても誰にも助けてもらえず、惨めな姿で家路に就いたときに口にした言葉です。
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」
私たちの姿です。この父の姿に託された神様。神様の御許を離れた私。しかし、私たちは自分の惨めさに気づきません。ハイデルベルク信仰問答は、神を愛し、隣人を愛して生きるはずの私がそのような愛に生き得ていないところに惨めさを見つめます。愛に破綻した私は、惨め。神様に対して何の申し開きもできない。ただ、後悔と悔い改めの言葉を申し上げるしかない。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」そう、そのような私は雇い人の一人にでもして頂くしかない。
ところが父はこの人を息子として迎え入れました。走り寄って抱きしめました。道々練習してきた悔い改めの言葉を最後まで言わせませんでした。この息子は、父の圧倒的な赦しの前で、ただその腕に取りすがるだけでした。これが私たちの姿です。
私たちは神様と争って何かを申し上げることなどできない存在です。しかし、そんなことはすぐに忘れて不遜な態度をとってしまう。それでもなお私たちは父の圧倒的な赦しによって生かされている。父なる神の圧倒的な赦しによって、私も生きることができる。それだけが私の生きるよすがです。

2023年11月21日火曜日

2023年11月21日の聖句

主は今に至るまで我々を助けてくださった。(サムエル上7:12)
(パウロの言葉)私は今日まで神の助けを経験してきて、今、ここに立ち、神の証しをなしているのです。(使徒26:22)

「主は今に至るまで我々を助けてくださった。」この「今に至るまで」という言葉がすごく良いなと思います。主なる神様は私たちのことを、今に至るまでいつも助けてくださった。神が助けてくださって今日の私がある。
しかし私たちはそのことをつい忘れがちです。それほど毎日の生活が自分に押し寄せてきているということかも知れません。それだけ不安や心配事が降りかかってきているのでしょう。しかし神さまは私たちが例え愚かに忘れてしまったとしても、それでも私たちを助けてくださるお方です。神様の助けを頂いて、私たちは今を生きている。神に生かされている。それは私たちも日々の生活の中でよく知っていることではないでしょうか。
今日のこのサムエル記の御言葉は、イスラエルの信仰と政治の指導者であったサムエルの言葉です。改めて、この節全体を引用するとこのように書かれています。
「サムエルは石を一つ取り、ミツパとパシェンの間に置き、『主は今に至るまで我々を助けてくださった』と言って、それをエベン・エゼルと名付けた。」このエベン・エゼルという言葉は、助けの石という意味のようです。きっと庭石のような大きな石をある場所に据えて、それをエベン・エゼル、助けの石と名付け、それを人々が見るたびに主が私たちを今に至るまで助けてきてくださったことを思い出すようにしたのでしょう。石を見て、その度に、人々は今に至るまでの主なる神様の助けを思い起こす。
使徒パウロは言います。「私は今日まで神の助けを経験してきて、今、ここに立ち、神の証しをなしているのです。」今日まで神が助けてくださった。私はその事実を経験してきた。だから、神の助けを証言し、神の良き御業、福音の出来事を証しする。そのように言うのです。
私たちも、神の助けを思い起こしましょう。一つの石でも、神の助けを証言します。私たちも神の助けを証言し、また、共に生きる仲間たちの証言に耳を傾け、神の助けを確信して生きていきましょう。主イエス・キリストの私たちへの助けは、どんなときにも絶対で、揺らぐことが決してありません。

2023年11月20日月曜日

2023年11月20日の聖句

主よ、いつかきっと再び私たちのもとに帰って来てください。そしてあなたの僕たちを憐れんでください。(詩編90:13)
(イエスの言葉)「また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。私がいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14:3)

主イエス・キリストは再び私たちのところへ来てくださる。私たちはそのことを信じ、主イエスさまを待ち望んでいます。私たちの今この時は、キリストが来てくださるのを待っている時間です。
福音書を読んでみると、主イエスはしばしば天の国の話をしておられます。そしてそういう話は少なからず、天の国の、主イエスの到来を待つ話です。10人のおとめがいて、花婿の到着を待っていた。5人は灯のための油の予備を備えていたが、他の5人は予備の油を準備していませんでした。花婿は主イエスさま御自身を指している。花婿の到着、つまり天の国が来ることを待ち望んで備えているか、という話です。
私たちは天の国を待ち、そこから来てくださるキリストを待ち望んでいます。キリストが来てくださる時、それが私たちの救いの完成の時だからです。主よ、来てください。それが救いを待つ私たちの祈りです。
私たちには、この世で生きるための思い患いや労苦がたくさんあります。疲れてしまうことも、心がいっぱいになってしまうこともあります。そんな私たちの救い主であるお方が来てくださらなければ、私たちは救われません。私たちを神の国に生かすために、、主イエス・キリストが来てくださる。その約束を信じ、私たちはキリストの来てくださるのを待ち望んでいます。
「また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。私がいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」
アーメン、主よ、来てください。改めて、そう祈りましょう。救いの完成を待ち望んで、そのために祈る一日の歩みを、始めていきましょう。

2023年11月19日日曜日

2023年11月19日の聖句

今週の聖句:
私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされなければなりません。(2コリント5:10a)

今日の聖句:
祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口からみおしえを求める。彼が万軍の主の使いだからだ。(マラキ2:7)
あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(1ペトロ3:15)

改革者マルティン・ルターが明らかにした信仰の真理はたくさんありますが、その中の一つに「普遍的祭司職」というものがあります。昔は「万人祭司」といったこともあったようですが、こちらの方がよりふさわしい表現のようです。キリスト者は誰もが、普遍的に、主イエス・キリストの祭司として召されている。キリスト者は誰もが隣人のための祭司である。そういう教えです。
「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口からみおしえを求める。彼が万軍の主の使いだからだ。」
祭司は主なる神様の使いとして、隣人に神を証しします。。その口を通して、その唇によって、その生き方を通して。ルター以前の教会では、祭司はごく少数の、選ばれた司祭職についた者だけの専売特許と考えられていました。いつしかそれは特権的で、市井のキリスト者とは関わりのないもののように理解されていきました。しかし、そうではない。私たちはすべての人が隣人のための祭司です。すべての人がキリストを証ししうる。そして誰もがキリストに向かって、隣人のために祈ることができるのです。私たちは皆キリストの祭司です。
「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」
私たちが証言するのは、希望です。キリストが下さった希望です。嬉しいことです。私たちは厳しい裁きやこの世の絶望的な運命を証しするのではない。主イエス・キリストにある神の愛を証しし、キリストに示された神の恵みを証言する。私たちの存在そのものを通して、神ご自身が語ってくださり、証ししてくださる。私たちは大胆にそのことを信じます。

2023年11月18日土曜日

2023年11月18日の聖句

軍馬は助けとならない。期待に適わず、その強靱さも救いとなることがないからだ。見よ、主の目は主を畏れるすべての人、主の慈しみを待ち望む人にこそ向けられる。(詩編33:17~18)
私たちは、この世的で人間的な利点を土台とするのではなく、ただイエス・キリストに属していることを誇りとするのです。(フィリピ3:3)

「軍馬は助けとならない。」現代であれば、戦車は助けとならない、戦闘機は助けとならない、機関銃は、爆弾は、核は助けとならない、となるのでしょうか。そのような強靱さは期待に適わず、救いとはならない。力で相手を制圧し、武力で威嚇しても、平和が訪れることはない。私たち人類の無数の失敗がそれを証明しています。それなのに、今日も武力が行使され続けています。
何も海の向こうの話だけをしていれば済むわけではありません。私の助けは、私の救いは一体何か。私は何と信じているでしょうか。私は戦車も鉄砲も持っていません。しかし誰かに言うことを聞かせたい、自分の思うとおりにしたいという思いがどこかによぎるなら、同じことなのかも知れません。私の助けは、私の救いは、一体何でしょうか。
「私たちは、この世的で人間的な利点を土台とするのではなく、ただイエス・キリストに属していることを誇りとするのです。」
聖書がすごいのは、ただただひたすらに、主イエス・キリストだけに集中することです。キリストだけをひたすら信じ、このお方だけが救いという一点から決してぶれません。だからこそ、聖書は私たちの羅針盤であり、私たちの道を照らす光なのです。
私たちはこの世的で人間的な利点を土台とするのではない。ただイエス・キリストを誇りとし、キリストに属していることをわが誇りとする。この世で歓迎され、あがめられる力ではありません。主イエス・キリストによって示された神の愛だけに集中する。この世界の平和もそこに初めて開かれるし、、私たちの歩みの平和も、そこに初めて生まれる。私たちはそう信じます。信じて、イエス・キリストだけを誇りとします。

2023年11月17日金曜日

2023年11月17日の聖句


私の思いは、あなたがたの思いとは異なり、
私の道は、あなた方の道とは異なるーー主の仰せ。(イザヤ55:8)
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(1コリント1:25)

私たちの思い描いた理想とは違うことを神様はなさいます。しばしばそのようになさいます。こうなったら良いな、こうだろうな、これからについていろいろなかたちで抱く希望や予測と打ち崩すようなことが起こる。しかも、大事な場面で起こります。
「私の思いは、あなたがたの思いとは異なり、私の道は、あなた方の道とは異なるーー主の仰せ。」
私たちとは違う神の思い、私たちの道とは違う神の道。しかしその「違い」は、私たちに意地悪をしたり、私たちに嫌がらせをするための違いではありません。私たちが思い描いていたよりももっと素晴らしく、私たちの願いを遙かに超えた、素晴らしい救いの道です。私たちの思いとは異なる、想像を超えた神の御業です。
その救いの御業について、今日与えられている新約聖書の御言葉ではこのように言います。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」ここで神の愚かさとか神の弱さと言っているのは、主イエス・キリストの十字架のことを指しています。キリストが弱い存在になって、無力にも十字架にかけられて惨殺される。神様はこの世で弱くなることをお選びになりました。ご自分の力を発揮して人間を制圧し、黙らせ、言うことを聞かせるのではない。弱くなって、人々の横暴をその身に引き受けることをお選びになった。しかし、その神の弱さは私たちよりも強い。神の愚かな選択は私たちよりも遙かに賢い。聖書はそう言います。
私たちとは違う神の思い、私たちの道とは異なる神の道。それは、ご自分の独り子を十字架にかけて私たちを救う神の思い、キリストの死による私たちの救いという神の道です。この神の思いこそ、私たちのための救いの道なのです。
ですから、神が私の願ったこと、望んでいること、予測していることとは違うことをなさるというのは、実は私たちにとっては救いの徴です。私の思いと異なるからこそ、ここに救いの道が開かれている。私たちはそう信じることができるのです。今日、私たちのために主が準備してくださっているのはいかなる道でしょう。この道はキリストのかけられた十字架へと続く道です。

2023年11月16日木曜日

2023年11月16日の聖句

私は自分の民と永遠の契約を結ぶゆえに、彼らに対して善きわざをなすのをやめることはない。(エレミヤ32:40)
神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。(1ヨハネ4:9)

私の小さな趣味は野球観戦です。シーズンがすべて終わって、今はストーブリーグの季節を迎えました。つまり、チームの選手が戦力外やトレード、フリーエージェントなどで移動する時期です。先日、あるチームと三年間の長期契約を結んでいた選手が契約二年残して途中で破棄して別の球団に移籍することになったとニュースになりました。野球選手と球団との契約であれば、年俸はいくらだとか、どういう活躍をしたら出来高がいくら付くかとか、その他の労働条件だとか、多岐にわたって細かく決められていることでしょう。しかし場合によっては、途中でどちらかから破棄されることもあるようです。
私たちに身近ないろいろな契約があります。売買契約、賃貸契約、雇用契約、その他様々。契約には始まりがあって、やがて終わりがあります。どんなに会社を愛し、会社もその社員を必要としていても、いつかは退職する日が来ます。借りたものはいつかは返すし、買ったものも手放すときが来るでしょう。どんなに長い契約も、当事者が亡くなればそれで終わりになります。契約には、始めも終わりもある。
ところが、神様が私たちと結んでくださった契約は、そうではないのです。「私は自分の民と永遠の契約を結ぶ」。永遠の契約です。神様の契約は永遠であって、途中で破棄されることがない。いや、私たち人間は、何度も何度も契約を裏切り、中途破棄し、契約を台無しにしてきました。ところが神様はご自分が結んだ契約を永遠の契約とし、初めはあっても終わりはないものとしてくださった。
永遠の契約は、イエス・キリストによって余すところなく私たちに示されました。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。」キリストという神から伸ばされた手は決して変更されることなく、なかったことにはされないのです。神の私たちへの契約は、永遠です。
神は私たちにしてくださる善きことを決してお止めにはなりません。主イエス・キリストによって示された神の愛は決して変わることがありません。神様の永遠の祝福の中に、私たちは今日も生かされているのです。

2023年11月15日水曜日

2023年11月15日の聖句

さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。(イザヤ55:1)
夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれてた者を皆、御もとに連れて来た。(マルコ1:32)

主イエス・キリストが私たちを招いてくださっています。渇いている私たちを、苦しみ、嘆いている私たちを、キリストが招いてくださっている。
「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。」そう言ってくださったキリストは、渇く私たちに必ず命の水を飲ませてくださいます。
「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める」と、ある信仰者が祈りました。あえぎつつ神を求める。神に渇いている。神がくださる命の水でなければ、私の渇きは癒やされることがない。
ここのところ、ほんの数日で一気に季節が進んでしまいました。とても寒くなりました。こういうとき、私たちは自分の肉体の弱さを感じます。肉体をもって生きるというのは、弱い者として生きるということです。秋深まれば寒さに凍えるし、風邪をひけば苦しい。寒さに手がこわばれば思うように動かないし、肉体に食い込むような痛みを覚えることもあるでしょう。
今日の御言葉で、渇きとか、主イエスのもとに来た人たちの病気や悪霊の苦しみなど、心身に辛さを生み出す欠乏が数えられていることは、とても大切なことだと思います。私たちは皆肉体の弱さや苦しみを抱えている。聖書には、私たちと同じ弱い人々の、神との出会いの歴史が書かれている。弱くて脆い肉体をもって生きた者が、その渇きの中で神にいやして頂いたのです。キリストは私たちの肉体の弱さをよく知っておられます。弱い私たちが神と出会うためにご自分に渇きや痛みを引き受けてくださいました。主イエス・キリストが渇く私たちを招いてくださっています。私たちに、命の水を飲ませるために。主の招きに応えて、恵み深いキリストの手から、命の水を頂きましょう。

2023年11月14日火曜日

2023年11月14日の聖句

(神の言葉)「私はいつまでも争うことはなく、永遠に怒ることもない。」(イザヤ57:16)
神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。(2コリント5:19)

北森嘉蔵という先生がおられます。『神の傷みの神学』という本を書きました。私は面識がありませんが、私の卒業した神学校の先生を昔なさっていました。サウロの回心を伝える使徒言行録第9章の説教を北森先生がされた、その録音を聞いたことがあります。サウロが激しくキリスト者たちを迫害していたときのことです。主イエスは光の中でサウロの前に現れた。サウロは「あなたはどなたですか」と言うしかない。そこでイエスは「よくもやってくれたな」とか「お前を恨んでいるぞ」などとはおっしゃらなかった。ただ、「なぜ、私を迫害するのか」と事実だけを伝え、また「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ」と、次にすべきことを教えてくださった。もしもイエスが恨み辛みを述べていたら、この時の出来事は愁嘆場になっただろう。しかしイエスはそうではなく、これからするべきことだけを教えてくださった。そして、北森先生はおっしゃいました。赦すというのは、忘れることだ。相手の不義や罪、相手への恨みを忘れること。思い出していつまでも言っていては赦しにならない。忘れて、これからに向かうこと。それが赦すということ。サウロは主イエスに赦して頂いた。
「神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」神がキリストにあって私たちに与えてくださったのは、和解の言葉です。私たちの罪の責任を問い、責任を取らせ、やっつけるための言葉ではありません。和解です。私たちのために神が手を伸ばしてくださった。そのために、神様はおっしゃいます。「私はいつまでも争うことはなく、永遠に怒ることもない。」神様はいつまでも争わず、永遠に怒ることもなさらない。私たちのために、私たちの不義や罪を忘れ、赦してくださる。私たちのために和解の手を伸ばしてくださる。だから、私たちも生きられる。
主イエスさまの和解の福音に、私たちは今日送り出されています。和解や赦しが私たちの人生の彩りです。罪や自己責任、糾弾ではない。愁嘆場が私たちの生きるべき場ではない。そのような運命に落ち込む私たちのための神の赦しの宣言、和解の福音こそが、私たちへの神様からのラブコールです。

2023年11月13日月曜日

2023年11月13日の聖句

主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。(イザヤ50:5)
(イエスの言葉)その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。(ヨハネ10:16)

「主よ、私の耳を開いてください。」
私たちは、神さまの御言葉を聞くためにそう祈ります「主よ、私の耳を開いてください。」聖書を通して私たちに語りかける神さまの御言葉を聞くために、私たちは心を静め、耳を傾ける。しかしその耳を神が開いてくださるからこそ、私たちは聖書から「福音」を聞き取ることができるのです。
主イエスは羊飼いとして、羊の群れである私たちの世話をし、また導いてくださる。そのようにおっしゃいました。羊は羊飼いの声を聞き分けるのだそうです。私が学生の頃、私の教会に研修に来ていた神学生の通っていた神学校には実際に羊がいたそうで、本当に羊は羊飼いの声を聞き分けていたと証言していました。羊のように、私たちも私たちの羊飼いである主イエスさまの声を聞き分ける。即ち、福音の言葉を聞き分ける。そのための耳を、神様が開いてくださいますように。
羊の声に導かれる私たちは、一人の羊飼いによって「一つの群れ」になる。共に羊飼いの声に生かされる私たちは、一つの教会になる。羊飼いは、危ないときや困難なときに羊たちを守ります。羊がバラバラにならないように、羊飼いは懇ろに世話してくれます。お腹をすかせた羊のために、青草の原に導いてくれる。そんな羊飼いの声、愛する主イエスさまの福音の言葉によって、私たちは一つの群れにされています。
今日も尊い主イエスの福音によって一つに呼び集められているのですから、主の御声の中を共に歩んでいきましょう。

2023年11月12日日曜日

2023年11月12日の聖句

今週の聖句:
平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

今日の聖句:
ヨセフは兄弟たちに言った。「途中で言い争ったりしないでください。」(創世記45:24)
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:13)

今週の聖句では「平和を造る人々は、幸いである」と言われています。そうするとすぐに、政治が悪いから平和にならないとか、自分の力なんて小さすぎて意味がないとか、そういうことを考えてしまいがちです。確かにそういう面もあるのかも知れません。しかし、主イエスは非力で芥子粒のような私たちに向かって「平和を造る人々は、幸いである」とおっしゃったのです。何も当時の王ヘロデやローマの総督ポンテオ・ピラトに向かって言ったのではなく、吹けば飛ぶような民衆にお命じになった。だから、私たちもこの言葉を聞く。
今日の旧約聖書はヨセフという人が兄たちにいった言葉です。「途中で言い争ったりしないでください。」責任のなすりつけ合いをしないでください、という意味です。自分たちが犯してしまった過ちについて、お互いに人のせいにして責め合わないでください、と弟ヨセフは兄たちに言う。平和を造る関係を築いてください、ということではないでしょうか。私たちもよく知っています。過ちや間違ったことを人のせいにし、自分の責任を回避しようとする心を。そういう小さな責任転嫁の心は既に平和を傷つける心です。
平和を造り出す秘訣について、今日の新約聖書の御言葉では忍耐と赦しと言います。他人への不満を抱いたとき、主があなたを赦してくださったことを思い出しなさい、と言うのです。
主が赦してくださった。これこそ、平和の礎です。この土台の上にしか平和は成り立たない。この平和にすべての人が生きられるように、というのは私たちの祈りの課題です。私たちは平和のために、何よりも祈る。神の赦しの恵みにすべての人が気づきますように。そして私がその先頭に立って、私を無限に赦してくださった神の憐れみを思い知ることができますように、と。

2023年11月11日土曜日

2023年11月11日の聖句

ヤコブは旅を続けたが、その時、神の使いたちが現れた。(創世記32:2)
御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。(ヘブル1:14)

改革者マルティン・ルターが『小教理問答』といいう小さな本を書いていますが、その中で、日ごとの祈りの仕方を教えています。そう考えるとルターという人はとても実践的な牧師だったのだと思います。この本は私たちが祈りの生活を送るための指南書としてもとても有益な書物です。
この中でルターは朝毎の祈りのためにこのように祈るように教えています。「天の、私の父よ、私はあなたの愛する御子イエス・キリストによってあなたに感謝します。あなたは私をこの夜もあらゆる害と危険から守ってくださいました。また私はお願いします。どうかこの日も罪とすべての悪から守って、私の行いと生活のすべてがあなたの御心にかなうようにしてください。私は私のすべて、私の体と魂とすべてをあなたの御手の内にお委ねしているからです。あなたの聖なる天使が私と共にいて、悪い敵が私に力を振るうことのないようにしてください、アーメン。」
この祈りの最後のところで「あなたの聖なる天使が私と共にいて」と祈っています。主の天使が共にいてくださいますように、と祈る。それは、神の遣わしてくださる天使の支えがなければ悪い敵に打ち勝つことができないからです。私たちを罪の力に縛り付ける悪の力は強い。神ご自身が私を支え、守って、悪から救いだしてください。そのために、主の聖なる天使を遣わしてください。私たちはそう祈る。主の御力によらなければ、悪に打ち勝てないからです。
必ず神は私たちのために助けを遣わしてくださいます。主の聖なる天使が共にいて、今日もあなたの歩みを守ってくださいますように。

2023年11月10日金曜日

2023年11月10日の聖句

災いだ、自分の目には知者であり、うぬぼれて、賢いと思う者は。(イザヤ書5:21)
皆互いに謙遜を身に着けなさい。(1ペトロ5:5)

今日の旧約聖書の御言葉は、一見すると明らかで分かりやすい言葉です。確かに自分が知者だとうぬぼれている人は感じが悪いです。偉そうとか、今の言葉で言うと「上から目線」といった感じがします。むしろ謙遜な人の方が好ましいでしょう。しかしそれだけのことなら何も聖書に言われなくても良さそうな気もします。
今日の御言葉はイザヤ書第5章の中に出てきます。直前の4節にはこのような言葉があります。「災いあれ、悪を善と言い、善を悪と言う者に。彼らは、闇を光とし、光を闇とする。」この悪を善と言い、善を悪と言う者というのは、今日私たちに与えられているところの自分を知者と考えてうぬぼれている人と明らかに並行しています。悪を善と言い、善を悪と言う者は、自分の知恵を誇り、うぬぼれて、自分の賢さに溺れて悪と善をぐちゃぐちゃにしている、ということなのだと思います。
更に、この善や悪というのは、神様との関係の中で明らかになる善悪です。16節にはこうあります。「万軍の主は公正によって高くされ、聖なる神は正義によって、自らが聖なる者であることを示す。」神様の御目に適う正義がここで問題になっている。私たちが神様の御言葉を軽んじ、神様の愛にもとる生き方をするなら、それは自分の知恵を誇り、自分は正しいと信じ込んで生きるうぬぼれた生き方だ、と言われているのだと思います。
とても厳しい言葉です。怯んでしまいます。神様の知恵に完全にしたがい、正義と善を行ったのは、やはり主イエスさまお一人だったと言わなければならないのではないでしょうか。主イエスこそが私たちの間で神の正義を行い、神の善をつらぬき、神の御前にへりくだって謙遜のかぎりを尽くしたお方です。キリストのお姿によって明らかにされる謙遜を私たちが身に着ける道は、ただキリストを救いとへりくだって受け入れることにあると信じています。

2023年11月9日木曜日

2023年11月9日の聖句

私はうろたえて言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ」と。しかし私の願いの声をあなたは聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。(詩編31:23)
霊は私たちの弱さを助けてくださいます。というのも、私たちは何を祈るべきか、またどう祈るのがふさわしいのか分からずにいるのですが、霊自らが私たちのために、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。(ローマ8:26)

「霊は私たちの弱さを助けてくださいます。」ここで言及されている「霊」は、神の霊、聖霊のことです。聖霊なる神様ご自身が私たちを助けてくださる。その私たちは、弱い。とても弱い。肉体も心も弱く、そして何よりも信仰が弱い。私というトータルな存在の弱さ、ということでしょう。
私たちもそれぞれに知っています、自分の弱さを。自分は強い人間でちょっとやそっとのことではびくともしないという自負を持っている人はあまり多くないのではないかと思います。しかしそのような自負があろうとなかろうと、本当のところ私たちは弱くて脆い存在です。私たちの弱さの真相は、聖書が見抜いている。「私はうろたえて言いました。『私はあなたの目の前から断たれたのだ』と。」問題の急所はここにあると思います。私たちは何かがあるとうろたえ、神様を疑う。神様の慈しみを、神様の御目に守られていることを、神様の慈しみに満ちた手に支えられていることを、疑ってしまう。この疑いに見られる弱さこそ、私たちの弱さの真相ではないでしょうか。
ところが、その弱い私たちを神ご自身の霊が助けてくださいます。私たちの弱さを助けてくださる。弱くて、神様にお見せできない私の恥部を神ご自身の霊が助けてくださるのです。どう助けてくださるのか?聖霊は私たちに祈りの言葉を与えてくださいます。「神様」とたった一言お呼びして祈る言葉を与えてくださる。神を求めたいという願いを呼び覚ましてくださる。呻くようにして神に喘ぐとき、そこには神ご自身の助けがあります。神が私たちの口に祈りを授けてくださる。
そして呻きつつ神を求めるとき、私たちは知ります。聖霊ご自身が呻きながら共に祈っていてくださることを。神の霊ご自身が私たちの呻きの生きに伴っていてくださることを。私たちの言葉にならない祈りさえも、神が憶えていてくださいます。

2023年11月8日水曜日

2023年11月8日の聖句

祝福あれ、主の名によって来る人に。(詩編118:26)
しかし、彼を受け入れた人々、すなわちその名を信じる人々には、それがいかに多くとも、彼は神の子となる権能を与えた。(ヨハネ1:12)

今日の旧約聖書の御言葉は、主イエスがエルサレムの都に入城されたときに人々が枝を振って口にした言葉として有名です。「祝福あれ、主の名によって来る方に。」私たちのところへ来てくださった主イエスさまをほめたたえて、人々は喜びました。
よくよく考えると、少し不思議な言葉遣いをしていると思います。「祝福あれ」と言っています。普通、祝福というのは神様から人に対して向けられるものです。ところがここでは、神の子でいらっしゃる主イエスさまに向かって、人々が祝福を叫んでいる。考えてみれば少し不思議ではないでしょうか。人から神に祝福の言葉を向けるということがありうるのでしょうか。
「祝福する」と訳されている言葉は、もともとのギリシア語の言葉の成り立ちを見てみると、「良いことを言う」というような字を書きます。これが神から人に向けられると、祝福するという意味になります。人から神に向けられると、多くは「賛美する」ということだと理解されます。神から人に向かうと祝福、人から神に向かうと賛美と訳される。しかし、もともとは同じ単語の訳し分けです。
私たちがキリストを賛美するというのは、キリストを祝福するということです。私たちのありうるかぎりの良き言葉をお献げする。私たちのところに来てくださる方、私たちの救い主、神の子でいらっしゃる方に最高の賛美と祝福を献げる。
そのようにしてキリストを受け入れ、お迎えし、賛美と祝福の声を献げる者を、神はご自分の子として迎えてくださいます。私たちは祝福に満ち溢れている。私たちは呪いの言葉ではなく祝福の言葉を口にするために生きています。私たちは悪い言葉ではなく祝福の良き言葉を耳にするために生まれてきました。主イエス・キリストという究極の良き言葉、福音の言葉こそ、私たちに向けられた神の祝福であり、また私たちがお迎えして祝福すべきはこのお方なのです。祝福の交流が始まっています。

2023年11月7日火曜日

2023年11月7日の聖句

わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。(エゼキエル34:23)
イエスは群衆を見て深く憐れまれた。彼らが羊飼いのいない羊のように恐れに駆られ、散り散りになっていたからである。(マタイ9:36)

「羊飼いのいない羊のよう」というのは、旧約聖書以来の独特の表現で、王のいない、あるいは悪くいて無能な王しかいないために苦しむ民を表す言い回しです。主イエスがご覧になった民は、本来であれば彼らを治めて正義と慈しみを行うべき王がおらず、苦しみながら生きていました。この世で苦しむ人々をご覧になって、主イエスは深く憐れんでくださるお方です。主イエスさまの憐れみが、新しい出来事を起こす。
なぜなら、主イエスさまこそが私たちの真の王であるからです。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。」神が起こしてくださった牧者、私たちの王、それは主イエス・キリストに他ならない。主イエスは私たちのために神の国を宣言し、私たちのための神の支配を始めてくださいました。神の憐れみが支配するまことの国の王として、主イエスは私たちの間に来てくださった。
群衆が飼い主のいない羊のように恐れに駆られているのをご覧になって、主イエスはおっしゃいます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」羊飼いのいない羊のように怯えている人々をご覧になって、まことの羊飼いがおられるという福音の言葉を届ける人が必要だと主イエスはおっしゃった。私たちの真の王、正義と慈しみに満ちたまことの王がおられると宣言する福音の知らせを届ける働き手が必要だ、と主イエスはおっしゃる。そして、それは何よりも祈りの課題です。「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」自分たちで頑張れなどと主イエスはおっしゃっていない。働き手を送ってくださるように祈りなさい、とおっしゃいました。
私たちのカンバーランド長老教会にも新しい働き手、福音を宣べ伝えるための働き手を送ってくださるようにと私たちも祈りましょう。神の国は、宣言されなければなりません。まことの羊飼いが来ておられるからです。まことの羊飼いをみんなが必要としているからです。そのために仕える働き手を増し加えてください、と私たちも主イエスに促されて祈りましょう。

2023年11月6日月曜日

2023年11月6日の聖句

神よ、あなたの道は聖なる道。(詩編77:14)
(イエスの言葉)私は父のもとから出て、世に来た。(ヨハネ16:28)

父のもとから出て、私たちの生きる世に来てくださった主イエス・キリストの道。それは聖なる道。神の子の聖なる道です。
カール・バルトという神学者がいます。主イエスさまが私たちの世に生まれ、十字架への道を歩んでいかれた。バルトはこの出来事を「異郷に赴く神の子の道」と言い表しました。天にこそご自身のいるべき場所をお持ちの神の子イエスにとって、この世は異郷です。私たちの生きるこの場所に、しかし神の子がへりくだって降ってきてくださった。クリスマスの出来事です。更に主イエスの出来事はクリスマスで終わりません。主イエスのへりくだりは更に徹底し、最も低いところにまでへりくだり、十字架の死に至るまで従順でした。異郷に赴く神の子の道は、十字架への道です。
主イエス・キリスト、神の子であるお方の道、聖なる道。それは神の子がへりくだって一人の人間になる道。へりくだって、十字架の死に至るまで従順を貫く道です。この聖なる道は、私たちのための救いの道です。神の子は父のもとから出て、私たちのところにまで来てくださったのです。
異郷へ赴いて私たちのところへ来てくださった神の子は、私たちのために伸ばされた神様の和解の手そのものです。私たちのところにまで主イエスが来てくださったのは、私たちを神さまのものとして取り戻すために他ならない。
このお方を仰ぎ、見上げ、このお方を求める一日を過ごしていきましょう。主イエスさまを求め、主イエスさまの道こそ私たちの救いの道と信じて今日の日を歩んでいきましょう。神さまの方から手を伸ばしてくださっています。神の子キリストへの祈りの中でこの一日の祈りの道を上っていきましょう。

2023年11月5日日曜日

2023年11月5日の聖句

今週の聖句:
赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れられるために。(詩編130:4)

今日の聖句:
正義と慈しみを追い求める人は、命と正義と誉れを得る。(箴言21:21)
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。(マタイ6:33)

正義と慈しみ、と言っています。聖書は正義と慈しみの両方を大事にします。慈しみのない正義は、隣人を生かすことができなくなってしまうこともあるでしょう。正義のない慈しみは、ただただだらしなくなってしまうときもあるかも知れません。私たちは得てしてどちらかに傾きがちです。ところが聖書は正義と慈しみを両方とも重んじます。
聖書を読んでいつも驚くのは、愛に際限がないということです。このくらいまで愛せば十分かなという線を、聖書は決して引きません。隣人の痛みへの胸のかきむしられるような慈しみ、人を痛めつける正義にもとる力への抵抗、それらに限界を設けてしまうことがない。
それは、神様が際限なく愛してくださるお方だからです。「正義と慈しみを求める人は」と言いますが、何よりも先ず、神ご自身の正義、神ご自身の慈しみなのではないでしょうか。だからこそ、主イエスはおっしゃるのです。「神の国と神の義を求めなさい。」ここで、<神の>国、<神の>義とおっしゃっていることを心に留めたいと思います。主イエスは、あくまでも神ご自身が告げ、もたらしてくださった国を、義を求めるようにと命じておられます。私たちが打ち立て、私たちが確立する国や義ではない。キリストが宣言する国であり、キリストが確かにしてくださった義です。キリストが留まることを知らぬ愛によって貫いてくださった国を、義を、私たちは求めて生きている。
神は、必ず私たちにすべてのものを与えてくださいます。私たちの生きるべき使命に私たちを生かしてくださる。主イエス・キリストを見上げ、この方に礼拝を献げ、今日の日を生きていきましょう。

2023年11月4日土曜日

2023年11月4日の聖句

母がその子を慰めるように、私はあなたがたを慰める。(イザヤ書66:13)
求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになります。(ヨハネ16:24)

私が教会堂の二階にある牧師室で仕事をしていたら、妻がすぐ脇にある水場に来て礼拝の時に飾る生け花の準備をしだしました。すると一番下の娘が来て、少し泣きながら何かを話しかけました。妻は手を止めて娘の話を聞いてあげていました。最初は泣いていましたが、少しずつ安心したような声になっていきました。
「母がその子を慰めるように、私はあなたがたを慰める。」
この言葉自体が慰めに満ちた言葉です。神が私たちを慰めてくださる。
更に、今日は新約にある主イエスの言葉も与えられています。「求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになります。」娘は、今は声をかけたら迷惑かななんて全然考えていませんでした。今、自分は母の慰めを必要としている。そして、母のところへ行けば必ず慰めてくれる。そのことしか考えていなかった。私たちには、神様へのそういう思いがあるでしょうか。神様は、私たちの肉の母がそうであるのにまして、そらには比較にならないほどに深く、慰めに満ちたお方です。このお方を信頼し、必ず慰めてくださる神様の優しさを信じて、私たちも慰めを求めましょう。
「求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになります。」求めなさい、と主イエスは言われます。私たちは他の何でもなく、神ご自身を求めます。神の御顔を求め、神がくださる慰めを求める。私たちの慰めは、主なる神様ご自身です。私たちは主が観顔を向けてくださることを更に深く知るとき、最高の喜びを頂くのではないでしょうか。
主イエス・キリストは私たちを慰めるために、私たちに御顔の光を照らして待っていてくださいます。キリストの恵みと慰めの内に歩む一日でありますように。

2023年11月3日金曜日

2023年11月3日の聖句

11月の聖句:
神は自ら天を広げ、大海の高波を踏み歩く。神は大熊座、オリオン座、プレアデス、そして南の星座を造られた。(ヨブ9:8~9)

今日の聖句:
主を求めよ。地の苦しむすべての者たち、主の法を行った者たちよ。義を求め、謙遜を求めよ。(ゼファニヤ2:3)
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。(コロサイ3:12)

神を信じ、神を求めて生きる私たちすべての者に向かって、聖書は語りかけます。私たちの苦しみを知り、私たちの疲れや呻きややるせなさを見つめながら、私たちに語りかけるのです。
「主を求めよ。地の苦しむすべての者たち、主の法を行った者たちよ。義を求め、謙遜を求めよ。」
義を求め、謙遜を求めよ。神様の御前にへりくだれ、ということでしょう。私たちは生きるためのいろいろなことがあります。喘いでいます。そんな私たちにとっていちばん大切なことは、ただ一つです。神を愛し、神を求め、神の御前にへりくだること。これです。これこそ、私たちが人間らしく生きるのに最も大切なことです。
「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」私たちが憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着ける前提として、聖書は「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」だ、と宣言します。神が私たちを愛してくださり、選んでくださっている。その絶対的な事実の中で、私たちは今日も生きている。その事実が憐れみの心を、慈善を、謙遜を、寛容を私たちの内に結ぶ。それは、神がしてくださる神の御業です。
今日、この一日を、安心して生きていきましょう。私たちはキリストのものです。キリストが私たちへの愛を示し、聖なる者としてくださいました。圧倒的なキリストの出来事を信頼して、生きていきましょう。

2023年11月2日木曜日

2023年11月2日の聖句

主なる神は、弟子が持つような舌を私に与えた。
疲れた者たちに、時宜に適って言葉を語るすべを弁えるようにと。(イザヤ50:4)
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。(マタイ25:39)

疲れた者に時宜に適って語るように、神が私に舌を与えてくださったと言います。疲れた人や傷ついた人に寄り添い、適切な時に適切な言葉で語りかけ、本当の意味で慰めになることは簡単なことではありません。神がそのための舌を与えてくださる、と今日の御言葉では言っています。確かに、これまで何度不適切なタイミングや不適切な言葉のために人を傷つけてしまったか分からないような者にとって、神が舌を授けてくださるのでなければ、一体どうして良き言葉を語りうるのか、途方に暮れるばかりです。
メンノ・ジモンズという人がこのように言っているそうです。「まことの教師とは、キリストと共に、散らされた者たちを集め、傷ついた者に包帯をし、病気の者を癒やす人たちのことです。」この「まことの教師」というところを、「まことのキリスト者」と言い換えてもよいと思います。ただ、自分の言動が散らされた者を集め、傷ついた者に包帯をし、病気の者を癒やすようなものであるのかと考えると、あまりにも申し訳ない思いにならざるを得ない。神が舌を与えてくださるのでなければ、どうしてこのような慰めの人になり得るのでしょうか。
今日の新約聖書の御言葉にはこのようにあります。「いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」この言葉に、主なる神様はこの最も小さな者の一人にしたことは私にしたことであるとお答えになります。とても大切なことは、ここでこのように言った者は、一体自分がいつ神様の御心に適うような愛に生きられたのか、自覚もないということです。本人も自覚しないような小さな愛の業を神が憶えていてくださる。そして、その小さな愛の業をなす舌も手も神が与えてくださったものです。神は憐れみ深いことに、自分でも気がつかないような小さな愛の業に私たちを生かしてくださるし、同時にそれを憶えてくださるお方です。この神を信じて、大胆に今日の日を生きていきたいと願います。

2023年11月1日水曜日

2023年11月1日の聖句

昔の日々を思い出して、世々の歳月を顧みよ。あなたの父に問えば、答えてくれる。長老たちも、あなたに話してくれる。(申命記32:7)
あなたが抱いている偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスとエウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。(2テモテ1:5)

神様を信じる信仰は、私たちの発明品ではありません。私よりも先に信じた人から伝え聞き、それを自分も信じる。そういう連綿とした信仰者たちの営みが静かに続いてきました。今日私たちに与えられている新約聖書の御言葉は、使徒パウロが若き伝道者テモテに書き送った手紙に書かれているものです。テモテの祖母ロイス、そして母エウニケは既にキリスト者だった。祖母や母から口伝えに主イエスの福音を聞き、信じ、やがてテモテ自身も伝道者として生きるように召された。そのテモテの原点は、祖母や母に宿った信仰でした。この二人が信じる神を、テモテもまた信じた。
何もそれは新約の時代だけの話ではありません。旧約の時代から、ずっと続いている営みです。「昔の日々を思い出して、世々の歳月を顧みよ。あなたの父に問えば、答えてくれる。長老たちも、あなたに話してくれる。」あなたの父が、母が、神と共に歩んだ神の民の歴史をあなたに語ってくれる、と言います。
この父や母というのは、血のつながりのことだけを言っているのではないと思います。私たちは教会という共同体で神を信じて、新しい家族を得ます。信仰者としての自分の父や母が教会にはたくさんいる。この人たちが、私たちに神の恵みの歴史を口移しに語り聞かせてくれる。そして、その神の民の歴史に私もまた加わっている。そうやって、私たちも神の民の一員として生きています。
私たちも、信仰の次の世代へと神の恵みを証しします。人間、生まれたばかりの時は赤ちゃんです。言葉を知らないけれど、母や父が自分に愛をもって語る言葉を聞いて、言葉を獲得します。神を信じた私たちも、赤ちゃんでした。神の恵みを語り聞かせる言葉に触れて、私たちも信仰の言葉を獲得する。今、あなたの周りにも信仰の言葉を待っている神の子どもたちがいます。主イエス・キリストの恵みを分かち合う愛の言葉を待つ神の民が、ここにいます。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...