2022年8月31日水曜日

2022年8月31日の聖句

イスラエルよ、主を望め。主のもとには恵みがあり、豊かに救いが主のもとにはある。(詩編130:7)
神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(2コリント9:8)

「神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。」あらゆる恵みを、あふれるばかりに。この御言葉を聞いて、どのように思われるでしょうか。神があなたに与えておられる恵みは、あなたが必要とするあらゆる恵みであり、それはあふれるほどに与えられている。聖書はそのように言います。あらゆる、とまで言えるのか?本当にあふれているのか・・・と思われるかも知れません。
この御言葉は6節から続いています。「惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。・・・喜んで与える人を神は愛してくださるのです。」種をケチってあまり蒔かなければ、当然、収穫は少ない。たくさん蒔けばたくさん刈り取ることができる。それと同じように、あなたたちは惜しまずに人に与えなさい、と言っています。神はあらゆる恵みを、あふれるほど与えることがおできになるから、と言うのです。
神の「恵み」という言葉を使っていることに注意したいと思います。「恵み」ということは、それが信仰に属するということです。報酬とか御利益とは言っていません。神が何の価もなしに、無条件にくださる恵み。それはあなたに満たされている。そのことを信じて、与えられたものを無条件に与えてほしい、と聖書は言うのです。これは信仰に属すること。
ですから、今日の旧約聖書は言っています。「イスラエルよ、主を望め。主のもとには恵みがあり、豊かに救いが主のもとにはある。」主を待ち望むことも、豊かな救いを期待することも、信仰の事柄です。神は必ず豊かな恵みを与え、あふれるほどに恵みをくださる。いや、既にくださっている。その事実に目が開かれ、それを信じるとき、私たちの生き方は変わります。

2022年8月30日火曜日

2022年8月30日の聖句

モーセが手を海へ伸ばすと、主は強い東風で海を押し戻された。(出14:21)
信仰によって、人々は乾いた陸地をいくのと同じように紅海を渡りました。(ヘブライ11:29)

エジプトで奴隷にされていたヘブライ人たちの助けを求める叫びを聞き、主なる神さまはモーセをお遣わしになりました。モーセと民はエジプトを出ましたが、出したことを後悔したファラオがエジプトの軍勢を率いて荒れ野を行くヘブライ人たちを追ってきます。ところが、一行の目の前には海が広がっている。絶体絶命のとき、神がモーセにお命じになりました。「あなたは自分の杖を挙げ、海に向かって手を伸ばし、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んでいける」(出14:16)。そして「モーセが手を海へ伸ばすと、主は強い東風で海を押し戻された。」こうしてヘブライ人たちは海の中に現れた乾いた道を通って行くことができました。そして、追撃してきたエジプト軍は海に飲み込まれてしまったのです。
神さまは海の中であっても新しい道を拓いてくださいます。私たちはそれを信じるのでしょうか?「信仰によって、人々は乾いた陸地をいくのと同じように紅海を渡りました。」信仰によって、と書かれています。信仰がなければ、例え海が風に押し戻されて道が生まれても、そこを通ろうとはしないでしょう。神さまを信じ、信頼しているから、海の中の道だって通ることができる。信じるというのは尊いし、強さでもあります。
私たちの生きている社会は、信仰の価値をほとんど認めなくなってしまいました。しかし私たちは多数におもねるのではなく、永遠なる神さまの御前に本当に尊いことは何かを心静かに見極めたいと思います。神さまは、例えそこに海があっても新しい道を拓いてくださいます。あなたは、そのことを信じますか。今日、私たちは再び新しく信仰に招かれています。

2022年8月29日月曜日

2022年8月29日の聖句

おはじめください、神よ、あなたのすべき事柄をなさってください。(詩編74:22)
神は私たちにご自分の意志の奥義を、前もってキリストにおいてお決めになった神意に従い、知らせてくださいました。時が満ちて、すべて天と地にあるものが、キリストにあって、キリストを通して一つにされるためです。(エフェソ1:9~10)

あなたのすべき事柄をなさってください、神さまどうか始めてください。そのように祈っています。神さまのすべきことを始めてください。ずいぶん大胆な祈りのように感じます。それに、神さまがすべきことというのは何のことなのでしょうか。
それについて、今日の新約聖書のエフェソの信徒への手紙の言葉に耳を傾けています。「神は私たちにご自分の意志の奥義を、前もってキリストにおいてお決めになった神意に従い、知らせてくださいました。」神さまはご自分のご意志を、主イエス・キリストにおいてお決めになり、またキリストにおいて私たちに知らせてくださった。ですから、私たちは主イエス・キリストに注目すれば神さまの御心が分かる、ということになります。私たちはキリストに目を注ぐとき、神さまご自身のなすべき事柄が一体何なのかが分かる、というのです。
それでは、キリストにあって示してくださった神さまのご意志は一体何か、何を目指した奥義なのか。使徒パウロは続けてこのように書きます。「時が満ちて、すべて天と地にあるものが、キリストにあって、キリストを通して一つにされるためです。」キリストにあって、キリストを通して、すべて天と地にあるものが一つにされる。時が満ちて、すべてのものが一つにされるときが来る、と言っています。
私たちの世界の現実はそれとは正反対です。人と人とが反目し、人は自然から搾取しようとしてしっぺ返しを食らい、ありとあらゆるところで「一つ」とはほど遠い現実が世界に満ちています。しかし神さまは、私たち天と地の下にいるすべてのものをキリストにあって、キリストを通して一つにしてくださる。その御心を果たすために、今日も働いてくださる。聖書はそのように宣言します。私たちを敵対ではなく和解へ、憎しみではなく愛をもたらすキリストの御業は、もうすでに始まっているのです。

2022年8月28日日曜日

2022年8月28日の聖句

告知せよ、この方の栄光を国々の間で
あらゆる民の間に
この方の不思議な業を。(詩編96:3)
パウロは書く:私たちのために祈ってください、神の言葉のために門を私たちに開けてくださるように。(コロサイ4:3)

あらゆる民の間に神の栄光が告知されなければならない。そのために、神が門を開き、すべての妨げがなくなるように祈ってください、と聖書は言います。神さまの栄光が、主イエス・キリストの福音が、すべての人に証しされ、宣べ伝えられますように。それが主イエスさま御自身の命令でもあり、パウロを初めとした使徒たちの仕えた業です。
今日は日曜日です。世界中の教会が神さまを礼拝します。私たちの礼拝は神さまの御言葉に聞くことによって献げられます。福音が告知され、神さまの不思議な御業を覚え、神さまが私たちの口に与えてくださる賛美をささげ、私たちは神さまを礼拝します。この方を愛し、礼拝を献げる信仰を神さまが与えてくださっていることを信じて、私たちは神さまの御前に礼拝を献げます。
今日、世界中の教会が献げるこの営みに神さまの祝福がありますように、私たちも祈りましょう。すべての門が開きますように。あらゆる障壁が取り除かれて福音が証しされ、世界中でキリストの御業がたたえられますように。そして私たちもそのような営みを神さまに心を込めて献げることができますように。
主イエス・キリストの恵みと平和に生かされ、神さまの御前に献げる私たちの祈りに、神さまの祝福がありますように。

2022年8月27日土曜日

2022年8月27日の聖句

主よ、あなたは、憐れみを私から背けようとなさらないでください。あなたの恵みとまことがいつも私を守ってくださいますように。(詩編40:12)
あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(1テサロニケ5:24)

今日の旧約聖書の詩編第40編は苦しみの中から神を賛美し、神に祈る祈りの言葉が連ねられています。例えば3から4節では、「主は私を滅びの穴、泥沼から引き上げて、私の足を岩の上に立たせ、歩みを確かなものとし私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった」と言っています。苦しみの日、悲しみの日にも神さまへ献げる賛美は変わらない。それは神様ご自身が私の口に新しい歌を与えてくださるから。
神が与えてくださった新しい歌を献げ、神に祈り、この人は言います。「主よ、あなたは、憐れみを私から背けようとなさらないでください。あなたの恵みとまことがいつも私を守ってくださいますように。」主なる神さまの憐れみを求め、主の慈しみを慕い求め、神さまに祈っています。
私たちは、苦しみの日、悲しみの日にも神さまに祈り、神さまに望みを置き、神さまを賛美します。神さまの憐れみを知っているから。神さまの慈しみを知っているからです。この方こそ、私に命を与えてくださるお方。
「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」神さまの憐れみは、神様ご自身の真実にかかっています。だからこそ、どんなときにも確かです。盛暑にはこのように書いてあります。「私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからである」(2テモテ2:13)。主イエス・キリストの真実が、今日も私たちを生かしてくださるのです。だから、私たちは今日も神が与えてくださった新しい歌を歌います。

2022年8月26日金曜日

2022年8月26日の聖句

主に歌え、その名を称えよ、日から日へとその救いを告げ知らせよ。(詩編96:2)
知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ3:16)

神を賛美し、ほめたたえるために、私たちは造られ命を与えられました。私たちも、この世界も。
詩編には賛美が溢れています。「天は神の栄光を語り、大空は御手の業を告げる(詩19:2)」という詩編の言葉は、忘れがたい高らかな賛美です。この世界の天も大空も、神さまを賛美し、神さまをほめたたえて歌っている。
「あなたは天上の威厳をこの地上に置き、幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた(詩8:2~3)」という言葉も、忘れがたいものです。幼子のたどたどしい言葉や乳飲み子の喃語も、やっぱり神さまをほめたたえて歌っている。神さまは小さな子どものご自分への賛美を耳を拡げて聞いてくださるお方です。
「主に歌え、その名を称えよ、日から日へとその救いを告げ知らせよ。」私たちも、日から日へと、神さまのすばらしさを語り伝え、神さまをほめたたえて、神さまの救いの御業を喜びましょう。私たちは神さまを賛美するために造られたのです。
「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」この言葉は、賛美が個人的で孤独な業ではなく、私たちの共同の業であることを深く教えています。互いに教え、語り合う。そういう営みの中で神を賛美する賛美の歌が生まれ、賛美共同体として私たちは調えられていくのです。神を賛美する時、私たちは教会の仲間とも、神のみもとにいる聖徒たちとも連なっています。
主イエス・キリストと父なる神、聖霊なる神様に栄光と誉れがありますように。アーメン!

2022年8月25日木曜日

2022年8月25日の聖句

私は神に呼びかける、主は私を救ってくださる。(詩編55:17)
これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。あなたがたも祈りによって、私たちに協力してください。(2コリント1:10~11)

主は私を救ってくださる。これが私たちの望みであり、私たちの確信です。主は私たちを救ってくださる。私たちはそのことを信じています。神さまはこの確信を決して裏切りません。神は必ず私たちを救ってくださる。
主イエス・キリストこそ、その確かなしるしです。キリストは神の愛そのもの。神さまが私たちを愛してくださっていることは、神が私たちのために独り子を与えてくださった事実から始まります。私たちの確信も、私たちの望みも、私たちの信仰も、すべてはキリストによって示された神の愛から始まります。キリストの愛が確かだから、私たちの信じることも確かだと希望を抱くことができる。
この前の日曜日の週報にも書きましたが、平成34年が今年だと気づかずに運転免許を失効してしまいました。失効後半年以内であれば救済措置があるのですが、それでもいろいろと不利益を蒙りました。しかし、そもそも自分の不注意がいけないので、誰に文句を言うこともできません・・・。一事が万事、自分は不確かだなと思います。こういうついうっかりという失敗であればカバーできるかも知れませんが、もっと深刻で、人に迷惑をかけてしまうことだって少なくありません。自分の不確かさは、恐ろしいものです。だからこそ、キリストの確かさは私にとっては本当に尊いものです。キリストの愛の確かさには、ついうっかりがないのです。いつでも、どのようなときにも、絶対であり続ける。
私たちの今日一日の、リアルな希望を、キリストの愛におきましょう。主は私を救ってくださる。その事実は、今日も絶対に変わることがありません。私たちは互いのために祈り、祈ることによって協力し、今日の日を共に生きていきましょう。

2022年8月24日水曜日

2022年8月24日の聖句

私は広いところを生きていきます。
あなたの命令を探しているのです。(詩編119:45)
私たちは私たちを愛してくださった方によって、圧倒的に勝っています。(ローマ8:37)

「私は広いところを生きていきます。」すてきな言葉です。私たちも、広いところを生きている。神さまが私を広いところで生かしてくださっている。私たちを圧迫したり、閉じ込めたり、私たちを狭いところに追いやる縛りから自由に、私たちは広いところを生きていく。
新約聖書の御言葉を思い出します。「あなたがたの信仰によって、キリストがあなた方の心の内に住んでくださいますように。あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように」(エフェソ3;17~19)。
キリストの愛は、広いのです。私たちはキリストの愛の広さに包まれている。こここそ、本当に広い場所、私たちを包み込む自由の場です。私たちは果てしなく広いキリストの愛の中に生かされている。
だから、今日私たちに与えられているローマの信徒への手紙でも言っています。「私たちは私たちを愛してくださった方によって、圧倒的に勝っています。」何に勝っているのか。私たちを罪に定める悪の力に、です。私たちを愛してくださるキリストの愛によって、私たちは圧倒的勝利をおさめている。キリストの広い愛が、私たちを悪の力から自由にしてくださる。
「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。」そのように祈り、今日の日を始めていきましょう。祝福がありますように。

2022年8月23日火曜日

2022年8月23日の聖句

わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の状態から導き出した。(出20:2)
主の霊がおられるところには自由があります。(2コリント3:17)

今週の日曜日は私の夏休みということもあり、また家族全員がコロナの隔離期間だったので、オンラインで別の教会の礼拝に出席しました。鎌倉雪ノ下教会でした。この教会では礼拝の中で十戒を唱えています。今日の旧約聖書の御言葉は十戒の冒頭の言葉です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の状態から導き出した」とある。十戒といえばその後に来る戒めにばかり目が行きがちですが、このような神さまの自己紹介から全体が始まっているというのは意外なことではないでしょうか。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の状態から導き出した。」そして、今日の新約聖書の御言葉も趣旨はよく似ていると思います。「主の霊がおられるところには自由があります。」どちらも、私たちの自由にかかわる。神さまはご自分を信じる私たちを自由にしてくださるのだ、と宣言しています。神を信じるとは、自由になって生きるということです。
このしばらくの間、コロナになってずいぶんと不自由を強いられました。どこにも外出できません。家でじっとしていないと生けないというのは不自由です。いつでもどこにでも、行きたいところへ行ってしたいことをする自由は尊い。しかし、ウイルスを体に秘めている状態では、誰かと会えば病気をうつしてしまいますし、そこらを出歩けば人に迷惑をかけてしまいます。ですから縄で括られていなくても家にいることを選ぶことになる。もう少し事柄を敷衍して考えると、私たちには他者のために自分に不自由を強いる自由がある、ということではないかと思います。他者を愛するために自分の自由を一時停止する自由に生きることができる。
十戒は奴隷であった者を自由にしてくださった方がお与えになった「法」です。それに従うことを求める。神の霊は私たちを野放図にするのではなく、神に従う自由に招きます。私たちは自由です。今日、この自由な命によってどのように生きるのでしょうか?

2022年8月22日月曜日

2022年8月22日の聖句

あなたではないでしょうか、主、私たちの神よ、私たちが待ち望んでいるのは。(エレミヤ14:22)
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブライ4:16)

私たち人間には、永遠なる方、神さまを求める思いが、誰にでもあるのだと思います。その表れやかたちは様々です。しかし、人間を超えた存在、自分の命の根底を支える方、永遠な存在を求める渇き、そういう大いなる存在への憧れのような思い自体は、多くの人が共有しているのではないかと思います。
「あなたではないでしょうか、主、私たちの神よ、私たちが待ち望んでいるのは。」預言者エレミヤは言います。私たちがそのようにして待ち望んでいるのは、主よ、あなたはでありませんか、と。エレミヤの時代にも、人々はいろいろな神々を信じていました。日照りが続けば雨を降らせてくれる神を求め、戦争になれば戦勝の神を呼びます。しかしそういうときに本当に私たちが求め、待ち望んでいたのは、例え私たちがそのことを知らなかったとしても、主なる神さまに他ならなかったのではないでしょうか。
神さまは、主イエス・キリストを通してご自身を現してくださいました。私たちはキリストによって神さまを知ります。キリストによって神様と出会います。「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」キリストのお陰で、私たちは大胆に神の恵みの御座に近づくことができる。近づいてよい。
今日も、主イエス・キリストを通して、神の恵みがあなたにありますように。私たちをご自分のもとへ近づけてくださる神さまの慈しみが、今日も私たちのうちに働きますように。

2022年8月21日日曜日

2022年8月21日の聖句

誰が、主、私たちの神と同じだろうか、
高いところに座し、天と地を深いところからご覧になる。
塵から弱いものを起こされる。(詩編113:5~7)
神のかたちであったイエス・キリストは、神と等しくあることを、奪ってでも得る利益とは見なされなかった。そうではなく、ご自身を手放され、僕のかたちをとられて人と同じになられた。(フィリピ2:6~7)

神さまは私たちの思いをはるかに超えたお方です。「高いところに座し、天と地を深いところからご覧になる」と聖書は言います。私たちの考えからすると、神さまはただ高い所からだけご覧になっている方ではないでしょうか。高い天の上から、私たちのような小さな人間をご覧になっている。だから私たちは高い所に上り詰めようとします。繁栄を求めます。もっと偉くなり、もっと大きくなりたいと願います。
ところが、聖書は神さまがただ高いところにだけおられるとは書いていない。「天と地を深いところからご覧になる。」深く、低く、中心ではなく周縁から、神さまはこの世界をご覧になっているというのです。
ピラミッドを想像してみると、とても象徴的だと思います。ピラミッドは見えるところでも見えないところでも、数え切れないほどのたくさんの石が積み重なって、一番てっぺんにある一つの石を支えています。ところがキリストのピラミッドはちょうどそれがひっくり返った形をしている。キリストという一番てっぺんにあるべき石がたった一つ一番下にあり、他のたくさんの石を支えている。ピラミッドがちょうどひっくり返っている。主なる神さまは、深いところからこの世界をご覧になっています。
主イエス・キリストは僕のかたちになられました。へりくだって、私たちに仕えてくださいました。私たちのために十字架にかけられました。私たちはこの方を私たちの神として崇め、今日も礼拝します。主イエス・キリストの恵みと祝福が豊かにありますように。私たちのためにご自分を投げ出して、私たちの一番下に立って支えてくださっているお方の祝福が、この一週間もありますように。

2022年8月20日土曜日

2022年8月20日の聖句

神は言う:私はイスラエルにとって露のようになり、イスラエルは百合のように花を咲かせる。(ホセア14:6)
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなた方は何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)

今日のこの御言葉を読む場所が森の泉か高原のような場所だったらどんなに素敵なことだろうと、思わず考えてしまいました。「わたしはイスラエルにとって露のようになり」と神さまはおっしゃいます。朝のきらやかな露のように、神さまが私たちを潤し、渇きを癒やしてくださいます。この露をいただいたら、私たちは花を咲かせます。「イスラエルは百合のように花を咲かせる。」
ここが森の泉か高原であったら、どんなに素敵なことでしょう。しかし、実はどこであっても構わない。主イエスさまに祈り、主イエスが「父よ」とお呼びした方の前に進み出るとき、私たちは神の国にいる。神さまの御前、この世界でもっとも美しい場所にいるのですから。
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」と主イエスは言われます。私たちはキリストという幹につながったぶどうの枝。このお方につながる私たちに実が結ばれる。神さまはそのための露となって私たちを潤し、また農夫として私たちを世話してくださいます。今日も、私たちを御自身の慈しみに従って世話してくださる神さまの御手の中で、私たちは一日を過ごします。キリストの慈愛に満ちた露に潤され、神さまの憐れみによって今日も渇きを癒やされる一日でありますように。そして、キリストが結んでくださる実りを神様と隣人にお返しする一日でありますように。

2022年8月19日金曜日

2022年8月19日の聖句

私の魂はあなたにすがり、あなたの右の手は私を支えてくださいます。(詩編63:9)
パウロは書く:私は自分が信頼している方を知っており、私に委ねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(2テモテ1:12)

「私は自分が信頼している方を知っており」とパウロは書きます。自分が信頼している方、その方は主イエス・キリスト。パウロも、私たちも、そのことを知っています。この方の愛を、この方の慈しみを知って、私たちは信頼している。
「私の魂はあなたにすがり、あなたの右の手は私を支えてくださいます。」この詩編は「あなたにすがり」「あなたの右の手は」と言っています。主なる神さまは「あなた」とお呼びする方、よく知って信頼している方。この信頼する方に私はすがって祈り、この方の手が私を支えてくださる。
祈るというのは、そういうことです。ただ漠然と、よく知らない神さまに、愛と信頼を寄せて心から祈ることはできない。私たちはキリストを知り、キリストの慈しみを知っているから、真心からこの方に祈るし、この方を信頼して祈ることができる。ですから、大切なことはキリストがいかに慈しみ深い方であるかということを骨身に染みて知ることです。
どうか今日も、慈しみ深いキリストがあなたを祝福し、守り、聖霊の力によってあなたを祝福してくださいますように。心から祈ります。

2022年8月18日木曜日

2022年8月18日の聖句

主は正義を愛される。(詩編37:28)
それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。(ルカ20:25)

キリスト教会は誕生してすぐに、迫害の時代に突入しました。使徒言行録にも少し書かれているとおり、教会誕生の数年後には殉教者が生まれました。あるいは福音書の背後にも、書かれた時代の迫害の痕跡を確認することができるし、ヨハネの黙示録の背後にも明らかに迫害の強い影響が見られます。そして、聖書が書かれたのよりももう少し後の時代に更にその手は過酷さを増していき、たくさんのキリスト者たちが信仰のために殺されてきました。
しかし、だからといって歴史のキリスト教会はこの世から退却して、閉鎖的で内にこもった集団にはなりませんでした。(修道院は、迫害から逃れるために閉鎖的になったのではなく、むしろもっと積極的に祈りに打ち込むために自分たちを整えたと捉えた方が良いと思います。)キリストの教会は、この世にあってキリストの福音を証しすること、この世の中でキリストの愛を生きることを大切にしてきたと言ってよいと思います。2000年間の歴史の中には数え切れないほどの過ちや失敗がありますが、それでも、主なる神さまの愛と正義に生きることを志してきました。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とキリストは言われます。これは、皇帝に税金を納めてもよいのか、という質問への答えです。硬貨には皇帝の肖像と銘が刻まれている。それならば、皇帝のものは皇帝に返せばいい。ただ、神を信じる者はそこにもっと根本的な基準をもっている。すなわち、神のものは神に返す。私たちは神に似たものとしてつくられたのであって、私たちには神の肖像と銘が刻まれている。神のものは神に返しなさい。私たちは自分自身を神のものとして神に返し、皇帝の正義ではなく、神の愛する正義に従おうと言われるのです。
私たちは、この世で、神に従います。他の場所、別の世界ではなく、この世界で。ここで、神の正義に従う者として生きる道に、私たちは送り出されています。

2022年8月17日水曜日

2022年8月17日の聖句

主を畏れ、主に心から忠実に仕えなさい。というのも、ご覧なさい、どんなに大きな事を主はあなた方にしてくださったことか。(サムエル上12:24)
あなたたちはすべきことに怠惰であってはなりません。霊に燃えてください。主に仕えなさい。(ローマ12:11)

霊に燃えてください。聖書はそのように私たちに告げます。霊に燃えるというのは、「熱心さ」以上のことです。「集中する」とか、「心を込める」以上のことです。霊に燃える。霊は、神さまが人間をお造りになったときに吹き入れた命の息そのものです。復活したキリストが、聖霊を受けなさいと言って吹きかけた息です。神が与えてくださる息吹に、私たちは燃やされる。私たちの内面から湧き上がってくるどのような感情よりも確かで、熱く、消えることのない炎です。
霊に燃えてください。キリストが、私たちのうちに燃やしてくださる炎です。その火を私たちは自分で消してはならない。私たちの神さまを求める思いや、人生を問う疑問や、「なぜ」という問い、それらもすべて神の霊が私たちのうちで燃やす火です。私たちに神を求める思いを心の中で燃やしているのです。それを押しとどめてはいけないのです。
「主に仕えなさい」と、今日の旧約聖書の御言葉も新約聖書の御言葉も口をそろえます。主に仕えるとは、主を礼拝することです。主がしてくださった一つひとつの御業を思い起こし、この方を礼拝し、賛美する。そうやって私たちは主に仕えます。私たちのうちにともしてくださった霊の火に燃やされるままに、私たちは主への愛を献げ、主に仕える。今日もそのような一日でありますように。

2022年8月16日火曜日

2022年8月16日の聖句

私たちは来たるべき世代に、主の栄光と主がなさた力強い不思議とを告げよう。(詩編78:4)
また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。(マタイ5:15)

ボタン一つで明るくなる懐中電灯の話ではありません。2000年前にどうやって灯の火を点けていたのか、火打ち石か何かだったのか寡聞にして知りませんが、いずれにしても起こすのものたいへんだったに違いない貴重な明かりです。燭台に載せて家を照らすべき光です。その光をわざわざ陰に隠して部屋を暗くするような人は一人もいない。当然のことです。明かりは、照らすためにある。
それと同じように、福音は宣べ伝えられるために私たちの間にあります。「私たちは来たるべき世代に、主の栄光と主がなさった力強い不思議とを告げよう。」主の栄光と主のなさった力強い不思議。それは今ここにいる私たちも分かち合うし、それだけではなく後の世代にも告げ広められなければなりません。それが必然的であり、それが自然なことだ、と聖書は言います。灯に明かりを点けたら燭台にのせるのと同じように。
福音は私たちを照らす、世の光です。主イエス・キリストの愛が私たちを明るくします。この光を掲げるために、私たちも、それぞれの持ち場へと神さまから遣わされているのです。

2022年8月15日月曜日

2022年8月15日の聖句

義しいものの小屋で喜びをもって勝利が歌われる。「主の右の手は挙げられた。主の正しさは勝利を得た。」(詩編118:15,16)
私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。(ルカ1:46~47)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスさまを胎に宿した母マリアの賛歌です。「私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。」マリアは、この世界でただひとり、神の子を胎に宿すという恵みの経験をしました。たった一人の特別な存在。しかし、私たちも信仰においてマリアと共にいます。主イエスさまは私たちの間にも聖霊によって宿っていてくださる。私たちはそう信じています。ですから、私たちもマリアと共に神さまを賛美します。「私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。」
そのような賛美の言葉として、今日は詩編の一節が与えられています。「義しいものの小屋で喜びをもって勝利が歌われる。『主の右の手は挙げられた。主の正しさは勝利を得た。』」これは、勝利の歌です。私たちが主をほめたたえる賛美の歌は、主の勝利を喜ぶ歌。主の勝利とは何か。それは、私たちの罪に打ち勝って私たちを救うキリストの歌です。私たちは歌いつつ主イエスさまをほめたたえ、歌いつつ神を礼拝し、この新しい一日の歩みを織りなしていくのです。
主イエス・キリストの恵みと平和が、今日もありますように!

2022年8月13日土曜日

2022年8月14日の聖句

わたしをお引き留めにならないでください。主がわたしの旅に、祝福をくださったのですから。(創世記24:56)
道を進んでいくうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」(使徒8:36)

妨げは、ないのです。私たちのために御子をさえ惜しまずに与えてくださった方の愛を押しとどめる妨げは、どこにも、一つもないのです。私たちの目には「絶対」と映るような妨げがあるかも知れません。しかし、この世にあるどのようなものよりも神の愛は強いのです。神の愛を、神の祝福を留めるものは何一つない。今日も、そしてこの一週間も、主イエス・キリストにある新しい命の恵みに生きていかれますように。祝福を祈っています。

2022年8月13日の聖句

主の僕は言った:打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。辱めと唾から私は顔を隠さなかった。(イザヤ50:6)
見よ、これが世の罪を担う神の小羊です。(ヨハネ1:29)

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊です。」これは、洗礼者ヨハネが主イエスを指さして言った言葉です。主イエス・キリスト。この方こそ、世の罪、私たちの罪を取り除く神の小羊。旧約聖書を読むと、罪の赦しの祭儀をするために、小羊が屠られ、血を流されると書かれています。主イエスさまが神さまの御前に小羊として血を流し、私たちの罪を負う犠牲になってくださいました。聖書は、このお方の血によってでしか、私たちの罪はゆるされなかったと訴えます。
「打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。恥ずかし目と唾から私は顔を隠さなかった。」主の僕は、打とうとする者にその背中を差し出し、ひげを抜こうとする者にその方を任せ、辱めと唾を甘んじて受けます。そうやってご自分を差し出す方によってでしか、私たちが救われることがないからです。
イザヤ書が伝える主の僕は、洗礼者ヨハネが指さす神の小羊、主イエス・キリストのことです。傷つけられ、辱めを受け、血を流す救い主によってでないと、私たちは救われない。それは、神さまが私たちに与えてくださった救いが、罪の赦しの救いだからです。私たちのために犠牲になり、罪を代わりに負ってくださる方でなければ、私たちを罪から救うことができないのです。
キリストがいてくださるので、私たちは神さまに向かって顔を上げることができます。キリストが血を流してくださったので、私たちは神さまとの間にも隣人との間にも平和を得ています。キリストが小羊になってくださったので、私たちは死を恐れずに済みます。キリストが私たちのための犠牲になってくださったので、私たちは孤独ではないのです。
今日も、主イエス・キリストの恵みと平和があなたにありますように。心から、キリストの祝福を祈っています。

2022年8月12日金曜日

2022年8月12日の聖句

主は抑圧されている者たちに「法」をもたらし
飢えているものに食事を与える。(詩編146:7)
それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。(マルコ8:6)

主は抑圧されている者たちに法をもたらす、と書かれています。この「法」と翻訳された言葉は「ミシュパート」という単語です。とても大切な言葉で、裁きや正義などの意味があります。抑圧されているもののために、主ご自身が裁きを行い、正義を貫いてくださる。この言葉を読むと、抑圧されているものをそのままに放っておくことは主の正義にもとるという強い思いを感じます。
現代社会の「法」は、必ずしも抑圧されているものを自由にするために働くとは限りません。むしろ、多数者に都合の好いようにできていることが多い。少数者や弱者の権利を守る場面ももちろんあるのでしょうが、そうではない現実が幅をきかせているのではないでしょうか。少し前に大問題になった入管行政のことも、その一つだと思います。しかしそれでいいのか、と聖書は私たちに問うているのです。
抑圧されているものと並んでここで指摘されているのは、飢えている者たちです。この人たちのために、主なる神さまは食事を与えてくださる。主イエス御自身がそのことを大切になさいました。「それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。」この出来事は、どういう場所で起こったのか?少し前を見ると「イエスはティルス地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られた」と書いてあります。聖書の後ろに地図があるので確かめてみると、イスラエルの北の外れからヨルダン川の向こう側のかなり広い地域を歩いておられたことが分かる。そして、それらはどこも異邦人の地です。恐らく、七つのパンを分けた奇跡は異邦の地でなされました。主イエスは飢えた異邦人をご覧になって、憐れみに心を動かされて彼らを養ったのです。
この憐れみや愛の御心こそが、主イエスさまのミシュパート、正義であり裁きであり、法です。主イエス・キリストのこの御心が私たちを今日も生かすし、私たちの進むべき道を照らしているのです。

2022年8月11日木曜日

2022年8月11日の聖句

主を愛せ、すべての主のものたちよ。(詩編31:24)
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているものは愛です。(1コリント13:13)

8月は子どもたちが夏休みで、我が家にも、基本的に毎日子どもが家にいます。昔、まだ私が学生のころ、教会におられた子育て中のキリスト者の方が、お子さんの夏休みを迎えるときに「試みの40日間」と言っておられました。あの方のユーモアと共に、この季節になるとよく思い出す言葉です。つくづく思わされるのは、子どもだけではなくて親であっても夫婦であっても、あるいは家族ではない他の人でも誰でも同じですが、人間にとっていちばん大切なのは、愛情に溢れた関係なのだと思わされます。例の「試みの40日間」の方がときおりおっしゃっていたのですは、子どもはご飯だけ与えていれば育つわけではない、ということでした。ご飯に代表される生活の世話をしていれば勝手に育っていくわけではない。愛情を注がなければ育たない、ということだと思います。どのような関係でも、一番大切なのは愛情です。
他の誰よりも先に、神さまは私たちを愛してくださいました。私たちのために御子までも与えてくださいました。神さまは私たちが生きるために必要な「ご飯」に代表されるあらゆるものを準備し、与えてくださいますが、それだけでは生きられない私たちのために、ありとあらゆる愛を注いでくださっています。「人はパンのみによって生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と書いてあるとおり、神さまは愛の言葉によって私たちを養ってくださいます。
だからこそ、神さまは私たちの愛をお求めになります。私たちが御利益や自分の損得を考えてお供えをすることではなく、かたちや見栄えばかり整えた供物を持ち出すことではなく、ご自分への私たちの愛を求めておられます。「主を愛せ、すべて主のものたちよ」というのは、至言です。まさに愛を、主なる神さまは求めておられるのです。ここで「主のものたちよ」と呼ばれています。私たちも、主のお名前で呼ばれています。キリスト者。それは、キリストのものということです。主のものでありキリストの者である私たちに神さまが求めておられるのは、主を愛せという一点に尽きるのです。
まさに愛するということにおいて失敗を重ねる私たちです。だからこそ夏休みは試みの40日ですし、育児だけではなく介護や家事での家族の世話も、他のあらゆる人間関係も、愛の試練ではないでしょうか。しかし愛ほど高貴で偉大なものはありません。私たちは光栄なことに、この世界で最も尊い試みをいただいている。そして、その試みは主イエス・キリストが伴ってくださる価値ある試練に他ならないのです。

2022年8月10日水曜日

2022年8月10日の聖句

あなたが水の中を渡るとき、私はあなたと共にいる。そして大河を渡るときも、大河はあなたを溺死させない。火の中を行くときもあなたは燃えず、炎はあなたを焦がさない。(イザヤ43:2)
何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ。(マタイ8:26)

とても正直に告白すると、私はとても臆病です。臆病は疑いにすぐにつながりますし、疑いは不信仰です。ですから臆病は褒められたものではないし、信仰と対立する心です。決して正当化できません。しかし、自分という人間を考えると、正直に言って臆病であることを否定することはできません。
主イエスは言われます。「何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ」と。これは、弟子たちが主イエスと一緒に舟に乗り込んだときのことです。激しい嵐が舟を襲い、舟は波にのまれそうになりました。ところが主イエスは眠っておられた。弟子たちは怖くてたまらないので、主イエスさまを起こします。するとイエスさまが言われるのです。「何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ。」そして、風と湖を叱って、嵐を鎮めてくださいました。
弟子たちの臆病は、不信仰でした。彼らはイエスさまが寝ていて何もしてくださらないと信じ込んでいましたが、本当に眠っていたのは弟子たちの信仰でした。主が共にいてくださるというのは、主が寝ていて何もしてくれないという不信仰に打ち勝つことです。主が寝ているというのは、私たちの目に映る状況でもあります。イエスさまが私たちと共にいてくださるというのは、信仰の言葉としては知っていても、リアリティがない。本当に共にいるのかよく分からない。イエスさまは何もしてくださらない。それは、弟子たちに襲いかかるのと同じ不信仰です。しかし実のところ、舟の中に主はおられるのです。
「あなたが水の中を渡るとき、私はあなたと共にいる。そして大河を渡るときも、大河はあなたを溺死させない。火の中を行くときもあなたは燃えず、炎はあなたを焦がさない。」この言葉のいちばん大切なポイントは、「私はあなたと共にいる」という言葉です。神さまが共にいてくださるというのは、本当に力強く、私たちの恐怖心や疑いの入る余地のない事実です、本来は。どうかこの疑い深い、不信仰な私を救ってください、私の恐れや疑いの嵐を鎮めてください、とひたすら祈ります。主イエスのみ声が、私の内に騒ぎ立つ不信仰の嵐を、必ず静かにしてくださることを信じて。

2022年8月9日火曜日

2022年8月9日の聖句

私は
あなたを恐れるすべての人
あなたの戒めを守る人たちの仲間です。(詩編119:63)
フィリポは宦官に聞いた。「お読みになっていることが分かりますか。」しかし彼は言った。「誰かが導いてくれなければどうやって理解できるでしょうか。」そしてフィリポに馬車に乗り込み、自分の隣に座ってくれるように頼んだ。(使徒8:30~31)

宦官は高官でありながら、差別される存在でもありました。それは洋の東西を問わず、同じであったようです。聖書でも、宦官は非常に厳しい扱いを受けています。「睾丸の潰れた者、陰茎の切り取られた者は、主の会衆に加わることはできない(申命記23:2)」とあります。
しかし、フィリポは馬車に乗って聖書を読んでいる宦官を見つけたとき、走って行って声をかけ、言います。「お読みになっていることが分かりますか。」すると宦官はこたえました。「誰かが導いてくれなければどうやって理解できるでしょうか。」それで、フィリポは馬車に乗り込み、隣に座って、福音を語り始めました。この宦官はフィリポから洗礼を受けることになります。
聖書を字面だけで読んでいれば、宦官を差別する正当性を引っ張り出してくることは可能です。しかしフィリポは文字の奴隷になってこの人を福音の門前払いにしませんでした。隣に座り、膝つき合わせて語り合い、福音を伝えました。フィリポは主の御言葉を求める人の仲間、友になって、心から心へと福音を告げたのです。これこそ、神さまの御心に沿ったあり方ではないでしょうか。
先ほどの宦官を排除する聖書の言葉に対立するような言葉が他の所にも書かれています。このようにある。「宦官も言ってはならない。『見よ、私は枯れ木だ』と。主はこう言われる。宦官が私の安息日を守り、私が喜ぶことを選び、私の契約を固く守っているならば、私の家と城壁の中で、私は、息子、娘に勝る記念のしるしと名を与える(イザヤ56:3~4)」。神さまの御腕は、私たちが思っているよりもずっと長いのです。
私たちは神さまのこの長い御腕に、本当に驚くばかりです。私たちがいつの間にか主の囲いの外にいると決めつけている人を獲得するために、神さまはどんなことをしてでも、一人の魂を求めておられます。主を畏れ、主を信じて生きる幸いは、すべての人に開かれています。

2022年8月8日月曜日

2022年8月8日の聖句

その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:5)
私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちに留まる人は神の内に留まり、神もその人の内に留まっておられます。(1ヨハネ4:16)

今日の旧約聖書の御言葉はヘンデルのメサイアの第12曲の歌詞になっています。イザヤ書第9章5,6節です。このように書かれています。
「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。主権がその肩にあり、その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」
メサイアの、この第12曲を含む第一部は「預言」を主題としていて、メシアがお生まれになるという神の約束を聖書の言葉をつむぎながら歌っていきます。その預言の言葉の中でも、この第12曲は特に美しく、すばらしい一曲です。今日、私たちが一日を歩んでいくために、私たちのメシア、救い主でいてくださるお方が、私たちの羊飼いになって導いてくださいます。このお方の名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるのです。私たちの神であり、救い主であり、私たちの王である方です。
これに続く新約聖書も、本当にすばらしい御言葉です。「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちに留まる人は神の内に留まり、神もその人の内に留まっておられます。」私たちに向けられた神の愛への信仰を喜ぶ言葉です。「神は愛です」というすばらしい福音に私たちは今日も生かされている。
神の愛を私たちに告げ、届け、神の愛によって打ち立てられる神の国の君として、主イエス・キリストが私たちのところへ来てくださいました。私たちは愛の内に留まるなら、神の内に留まっているのです。神の愛が私たちの内に満ちている。
御言葉を愛する歌声、神さまに献げる賛美の声、福音を喜ぶ聖書の喜びの声の中、今日の一日を歩んでいきましょう。主イエス・キリストの恵みと平和があなたにありますように。心から祈っています。

2022年8月7日日曜日

2022年8月7日の聖句

恐れるな、神により愛されている人よ、平和があなたと共にあるように。安心しなさい、安心しなさい。(ダニエル10:19)
しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。(ヨハネ16:20)

今日の旧約聖書の御言葉は、本当に大いなる、偉大な平安の言葉です。「恐れるな、神により愛されている人よ、平和があなたと共にあるように。安心しなさい、安心しなさい。」私は特に、この最後の「安心しなさい、安心しなさい」と二度繰り返しているところが好きです。一度言っただけで終わらせずに繰り返すのは、一回だけでは私たちの心がまだ安心できず、恐れに取りつかれているからではないでしょうか。神さまは、私たちを言い聞かせてくださいます。「安心しなさい、安心しなさい」と。本当に、ありがたいことです。小さな子どもに語りかけるように、主は私たちに語りかけてくださいます。
「恐れるな、神により愛されている人よ、平和があなたと共にあるように。」平和があなたと共にあるように、と言っています。私たちは今、平和でしょうか。「平和」は関係を表す言葉です。関係と言ったときに、聖書は三つの関係を考えています。神さまとの関係、他人との関係、自分との関係。どれかが平和でなくなってしまえば、他の関係も平和ではいられません。目に見える兄弟姉妹を憎んでいれば目に見えない神を愛することはできないし、神さまとの関係を無視して他者との関係を結ぶことはできません。自分自身を憎みながら他者を健全に愛することはできないし、神に愛されていることを無視したら自分を愛することもできない。「平和があなたと共にあるように」と、神さまは私たちに言ってくださいます。そこには、神様ご自身が私たちとの平和を打ち立てるという決意が込められています。キリストの愛を知っているから、私たちは平和に生きることができる。
「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」今、悲しみに心を奪われてはいないでしょうか。悲しみのあまりに神さまが見えず、神さまの声を聞く耳を塞いではいないでしょうか。平和の主が私たちのところに来てくださっています。キリストが神の愛を携えて、私たちと出会うために来てくださっています。このキリストに向かって、今、心を開き、どうか主を迎え入れてください。

2022年8月6日土曜日

2022年8月6日の聖句

あなた自身ただ気をつけ、あなたの魂を守って、あなたの目が見たことを忘れないようにしなさい。(申命記4:9)
あなたが福音をどのように受け、聞いたかを思い起こしなさい。そしてそれを守り、回心しなさい。(黙示録3:3)

旧約聖書の申命記は、モーセが40年間の荒れ野の度の最後に、これまで共に旅をしてきた民に謂わば遺言のようなかたちで語りかけた言葉が記録されています。モーセ自身は約束の地にはいることがない。荒れ野で死にます。自分の最期を前にして、約束の地に入っていく神の民に、信仰の言葉を語りかけています。
「あなた自身ただ気をつけ、あなたの魂を守って、あなたの目が見たことを忘れないようにしなさい。」
あなたの目が見たことを忘れないようにしなさい、と言っています。これまで荒れ野で見た来た事のことでしょう。この荒れ野で神が私たちをどのように生かしてくださったのか、どうやって神が私たちを守ってきてくださったのか、そのことをあなたたちはよく見てきたはずだ。それを忘れないようにしなさい、とモーセは言います。それが、あなた自身に気をつけ、あなたの魂を守ることになるのだから、と言うのです。
荒れ野で神さまは、たとえばマナというパンでもって民を養ってくださいました。荒れ野の水がないところで、岩から水を湧き上がらせてくださったこともありました。40年の旅路の間、彼らの服や靴がすり切れて使えなくなってしまうこともありませんでした。彼が生きるために必要なものはすべて神が準備してくださっていた。モーセは言うのです。あなたたちはそのことをよく目の当たりにしてきたでしょう。神の守りを決して忘れないでいなさい、と。
今日の新約聖書はヨハネの黙示録の御言葉ですが、このように書かれています。「あなたが福音をどのように受け、聞いたかを思い起こしなさい。そしてそれを守り、回心しなさい。」ここでもやはり、思い起こしなさい、と言っています。ここでは先ほどよりも更に突っ込んで、どのように福音を受けたのかということを思い起こせ、と言うのです。恵みの中の恵み、究極の神の愛である福音をどのように受けたのか。それを思い起こし、そこに立ち帰れ、と。
今日、私たちを生かすのは神の恵みです。究極の神の愛である福音です。これを、あなたはどう受けましたか?あなたを生かす神の恵み、あなたのための神の愛を、あなたはどのように受け、どのようにこれまで生かされてきたのでしょうか。忘れずに、思い起こしてください。その事実が、あなたの魂を今日も守るのです。

2022年8月5日金曜日

2022年8月5日の聖句

私の神によって城壁を飛び越えることができます。(詩編18:30)
神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。(2テモテ1:7)

今日の旧約聖書は詩編第18編の言葉です。表題として「主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から助け出した日、彼はこの歌の言葉を主に語った」となっています。サウルはダビデの前のイスラエルの王ですが、たいへん嫉妬深い人物で、王である自分よりも人望の篤いダビデを執拗に妬み、追い回し、命を狙っていました。ダビデはただただ神さまに助けを求めていました。
そのダビデの祈りの言葉です。「私の神によって城壁を飛び越えることができます。」サウルは城壁に守られた場所に住んでいます。ダビデは命からがら、野宿をしながら落ち延びていました。兵力は圧倒的に負けていますし、何よりも相手は王です。しかしダビデは言います。どんなに高い城壁も、どんなにたくさんの軍勢も、私は神にあって飛び越えることができる。神は必ず私を助けてくださる。そのことを固く信じていたのです。
使徒パウロは言います。「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」神さまが私に与えてくださったのは、臆病の霊ではない。様々な不安が鳥のように私たちに飛んできます。ダビデが陥ったように、非常につらい状況に追い込まれることもあるし、そういう周囲の状況のために意気消沈してしまうことも私たちにはあります。臆病の霊は私たちの中に巣を作って、住み着こうとします。そのようなとき、私たちは神さまの霊のもとに逃れます。力と愛と慈しみの霊です。神さまは私たちを強くいて、愛を下さいます。力強く、慎みをもって他者を愛することができるのは、神さまの霊が私たちの内に働いていてくださるからです。
臆病と愛は対立する。パウロは言います。神が私たちにお与えになったのは臆病の霊ではない、愛の霊だ。神への信頼と、意欲とをもって私たちは隣人を愛する。それこそが、苦難の日に生きる秘訣だからです。
ダビデも、自分を激しく攻撃するサウロを憎むのではなく、神がお立てになった王として尊重し続けました。この人は、愛する勇気を持っていたのです。私たちも同じ神の霊をいただいています。

2022年8月4日木曜日

2022年8月4日の聖句

ヒゼキヤはその手紙を読んだとき、主の家に上り、主の前にそれを拡げた。(列王記下19:14)
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(フィリピ4:6)

南王国ユダをヒゼキヤ王が治めていた時代のことです。北王国イスラエルは既にアッシリアという超大国に攻め滅ぼされてしまいました。アッシリアは主の声に聞き従わず、主との契約を破り、結局は破滅してしまったのです。ヒゼキヤ王は正しい人で、主の命令に従い、主も彼と共におられました。しかし、アッシリアの脅威はすさまじく、北王国が滅ぼされた後、その手は南王国にも伸ばされてきたのです。ヒゼキヤ王はこのままではもはやユダ国が滅ぼされてしまうと考え、ついに、主の神殿と王宮の宝物庫を開け、すべての銀と主の聖所の金の扉と柱までも供出してしまいました。しかしそれでも、アッシリアの侵攻は留まることを知らなかったのです・・・。
アッシリアから遣わされたラブ・シャケという使者は徹底的にユダ国を嘲り、恫喝し、信仰を否定しました。「この度、私が主ご自身と関わりなくこの場所を滅ぼしに攻め上ってきたと思うのか。この地に攻め上り、これを滅ぼせと私に言われたのは主ご自身なのだ」と、主なる神さまの名前を騙って、ユダを脅しにかかります。
更にラブ・シャケは言います。「お前はエルサレムがアッシリアの王の手に渡されることはないなどと言って、神に頼っているが、その神にだまされるな。実際お前は、アッシリアの王たちがすべての国々を滅ぼすために行ったことを聞いているであろう。自分だけは救い出されると言うのか。」お前たちだけが神に救い出されるわけがない、そもそも、お前の信じる神よりも我々の方が強いのだ、と彼は言ったのです。
今日の御言葉のヒゼキヤが主の前に拡げた手紙というのは、この恫喝の言葉が連ねられた手紙のことです。ヒゼキヤはこの最悪の状況をそのまま神さまの前に持っていき、拡げました。主の御名を騙って脅し、侮辱してくる者の言い様を、そのまま神さまに訴えて救いを求めたのです。ヒゼキヤは祈ります。「主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてみてください」と。
今日の新約聖書の御言葉は言っています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」私たちも、率直に祈りましょう。屈辱的な、あるいは脅威的な現実を、そのまま神さまの御前に差し出しましょう。神は「聞いてください、見てください」という私たちの祈りを必ず聞き、それに応えてくださる方です。

2022年8月3日水曜日

2022年8月3日の聖句

起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇ったのだから。(イザヤ60:1)
あなたがたは皆、光の子ども、昼のこどもなのです。(1テサロニケ5:5)

神学生のとき、夏期伝道実習を東大宮教会で受けさせて頂きました。この教会の長老に児童養護施設を立ち上げ、運営しておられる方がおられ、そこの子どもたちが毎週の教会学校に通っていました。光の子どもの家という施設です。
「あなたがたは皆、光の子ども、昼の子どもなのです。」聖書はそのようにはっきりと言います。今日のこの御言葉を読んだときに、あの光の子どもの家のことを思い出しました。私が研修に伺った20年前でも、もう既に、入居している子どもたちの入居理由のほとんどが保護者による虐待だと伺いました。大人だって心身の暴力を受ければ深く傷つきます。まして子どもが、しかも自分を愛してくれるはずの存在から繰り返し傷つけられてきて、どんなに痛んできたことかと思います。そういう子どもたちと共に生きるときに何を伝えるのかということを考えて、あなたたちは光の子どもだし、ここは光の子どもであるあなたたちの家なのだと伝えたかったのだろうと思います。そして、それは私たちも同じです。私たちも光の子どもたちです。
光の子どもたちである私たちに、聖書は言います。「起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇ったのだから。」主の栄光の光に照らされているあなたたち光の子どもは、起きて、自ら光を放つことができるのだ、と言うのです。驚くべき言葉です。私のイメージでは、どちらかというと、私たちは太陽ではなく月のようであって、自分で光ることはできないけれど神さまの光を反射させることなら・・・と思っていました。しかし聖書は「起きよ、光を放て」と言うのです。あなた自身が光を放て、と言います。ただそれにはちゃんとそうできるだけの根拠がある。あなたの光が来たのだから。主の栄光があなたを照らしているのだから。だから、起きよ、光を放て!
私たちが神さまに愛される光の子として生きるというのは、すでに光を放っているということなのではないでしょうか。神さまの愛を証言したとしたら、それこそが私たちの光ではないでしょうか。私たちはどんなに悲しいときにも、孤独なときにも、どうしてもうまくいかないときにも、光の子どもです。主イエス・キリストの光が私たちの内面から照っている。私たち自身が光とされている。この聖書の言葉を大胆にも信じ、光の子として今日の日を生きていきましょう。

2022年8月2日火曜日

2022年8月2日の聖句

私たちにはみな、一人の父がいるのではないのか。私たちをつくられたのは、一人の神ではないのか。なぜ私たちはお互いに蔑むのか。(マラキ2:10)
謙虚になり、他人を自分自身よりも優れていると重んじなさい。(フィリピ2:3)

主イエスさまは私たちに「父よ」と祈ることを教えてくださいました。「アッバ、父よ」と、主イエス御自身が祈っておられた。その祈りを口伝えにして私たちにも教え、神が私たちも「父よ」と祈ることを喜んで受け入れてくださっていることを、主イエスは知らせてくださったのです。
主イエスが私たちに知らせてくださった父としての神さまのお姿は、慈しみと愛に満ちたお姿です。父の財産の分け前をもらったと思ったら遠い外国に出て行ってしまって、何もかも失って、惨めにとぼとぼ帰ってくる息子がまだ遠く離れていたのに走り寄って抱きしめる父です。その兄が、弟への父の憐れみを受け入れられずに外に立って怒っていたときに、兄のところへ出て行って一緒に喜ぼうと招きなだめてくださる父です。
私たちは、神さまの慈しみを信じ、神さまの愛を信じて「父よ」と祈ります。私たちが神の子とされたことは、神様ご自身が私たちの口に「父よ」と祈る言葉を授けてくださっている事実から分かります。
私たちにはみな、一人の父がいる。私たちは、一人の神に造られた。私たちに命を与え、私たちをこのような私としてつくり、今生かしてくださっているのは、同じ神さまです。このお方の御手の中で、私も、私の隣人も生かされている。その事実が私たちの間にある蔑みの心を取り去り、私たちを謙虚にするはずだ、と聖書は言います。神さまの慈しみによって、私たちは自分の心に救う傲慢や他人を見下す卑しさから解放されるのです。
「他人を自分自身よりも優れていると重んじなさい。」それは、自分はたいしたことないとわきまえることによってではなく、あるいは他の人を立てる奥ゆかしさによってではなく、私たちお互いをお造りになった神さまの父としての慈しみを信じるときに生まれます。父の慈愛だけが、あの弟息子の父を捨てる罪深さや、父の憐れみを拒む兄息子の傲慢さからの救いです。私たちは、神の子。「天にまします我らの父よ」と、祈る群れなのです。

2022年8月1日月曜日

2022年8月1日の聖句

平和、平和があるように
遠くにいる者にも、近くにいる者にも
「私は彼らを癒やそう」と主は言われる。(イザヤ57:19)
平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように。(ローマ15:33)

平和。私たちは本当に切実に平和を必要としています。今日から8月になったということを考えるときに求める平和、という意味においてもそうです。それに、もっと身近な、家族や仲間たちとの平和、あるいはどうしてもわだかまりが残っている人との間の平和もあります。あらゆる人との間に平和がほしいのに、なかなかそれが実現しないというのが私たちの実際のところではないでしょうか。
主なる神さまはおっしゃいます。「私は彼らを癒やそう」と。私たちには神さまの癒やしが欠かせないからです。神さまに癒やされることなくして、私たちが平和に生きることはできないからです。私たちの隣人との間の平和には、どうしても、神さまの平和が必要なのです。
「平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように。」あなたがた一同と共に、と言っています。私に個人的に平和の神が訪れるのではない。他の人から隔絶した私に、ひっそりと平和の神が来るというのではない。「平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように。」平和の神は、実に、私たちの間におられるのです。神さまは、私にとって気に触る人や、ちょっと厭な感じがする人、できれば顔を合わせたくない人との間におられる。そして、私たちがその人に和解の手を伸ばすとき、キリスト御自身がその手を取ってくださるのです。
平和。そのことを考えると、私には主イエス・キリストの憐れみにすがるしかないと痛切に思わされます。他に一体どうして私が平和に生きることができるのでしょうか。平和の神、主イエス・キリスト、このお方の真実と関係のないところで、一体どうして私に平和が訪れるのでしょうか。キリストが私のために血を流して、和解の手を伸ばしてくださいました。キリストが私のために肉を裂いて、私の平和になってくださいました。このお方こそが私の平和、私の救いなのです。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...