2022年8月15日月曜日

2022年8月15日の聖句

義しいものの小屋で喜びをもって勝利が歌われる。「主の右の手は挙げられた。主の正しさは勝利を得た。」(詩編118:15,16)
私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。(ルカ1:46~47)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスさまを胎に宿した母マリアの賛歌です。「私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。」マリアは、この世界でただひとり、神の子を胎に宿すという恵みの経験をしました。たった一人の特別な存在。しかし、私たちも信仰においてマリアと共にいます。主イエスさまは私たちの間にも聖霊によって宿っていてくださる。私たちはそう信じています。ですから、私たちもマリアと共に神さまを賛美します。「私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。」
そのような賛美の言葉として、今日は詩編の一節が与えられています。「義しいものの小屋で喜びをもって勝利が歌われる。『主の右の手は挙げられた。主の正しさは勝利を得た。』」これは、勝利の歌です。私たちが主をほめたたえる賛美の歌は、主の勝利を喜ぶ歌。主の勝利とは何か。それは、私たちの罪に打ち勝って私たちを救うキリストの歌です。私たちは歌いつつ主イエスさまをほめたたえ、歌いつつ神を礼拝し、この新しい一日の歩みを織りなしていくのです。
主イエス・キリストの恵みと平和が、今日もありますように!

2022年8月13日土曜日

2022年8月14日の聖句

わたしをお引き留めにならないでください。主がわたしの旅に、祝福をくださったのですから。(創世記24:56)
道を進んでいくうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」(使徒8:36)

妨げは、ないのです。私たちのために御子をさえ惜しまずに与えてくださった方の愛を押しとどめる妨げは、どこにも、一つもないのです。私たちの目には「絶対」と映るような妨げがあるかも知れません。しかし、この世にあるどのようなものよりも神の愛は強いのです。神の愛を、神の祝福を留めるものは何一つない。今日も、そしてこの一週間も、主イエス・キリストにある新しい命の恵みに生きていかれますように。祝福を祈っています。

2022年8月13日の聖句

主の僕は言った:打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。辱めと唾から私は顔を隠さなかった。(イザヤ50:6)
見よ、これが世の罪を担う神の小羊です。(ヨハネ1:29)

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊です。」これは、洗礼者ヨハネが主イエスを指さして言った言葉です。主イエス・キリスト。この方こそ、世の罪、私たちの罪を取り除く神の小羊。旧約聖書を読むと、罪の赦しの祭儀をするために、小羊が屠られ、血を流されると書かれています。主イエスさまが神さまの御前に小羊として血を流し、私たちの罪を負う犠牲になってくださいました。聖書は、このお方の血によってでしか、私たちの罪はゆるされなかったと訴えます。
「打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。恥ずかし目と唾から私は顔を隠さなかった。」主の僕は、打とうとする者にその背中を差し出し、ひげを抜こうとする者にその方を任せ、辱めと唾を甘んじて受けます。そうやってご自分を差し出す方によってでしか、私たちが救われることがないからです。
イザヤ書が伝える主の僕は、洗礼者ヨハネが指さす神の小羊、主イエス・キリストのことです。傷つけられ、辱めを受け、血を流す救い主によってでないと、私たちは救われない。それは、神さまが私たちに与えてくださった救いが、罪の赦しの救いだからです。私たちのために犠牲になり、罪を代わりに負ってくださる方でなければ、私たちを罪から救うことができないのです。
キリストがいてくださるので、私たちは神さまに向かって顔を上げることができます。キリストが血を流してくださったので、私たちは神さまとの間にも隣人との間にも平和を得ています。キリストが小羊になってくださったので、私たちは死を恐れずに済みます。キリストが私たちのための犠牲になってくださったので、私たちは孤独ではないのです。
今日も、主イエス・キリストの恵みと平和があなたにありますように。心から、キリストの祝福を祈っています。

2022年8月12日金曜日

2022年8月12日の聖句

主は抑圧されている者たちに「法」をもたらし
飢えているものに食事を与える。(詩編146:7)
それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。(マルコ8:6)

主は抑圧されている者たちに法をもたらす、と書かれています。この「法」と翻訳された言葉は「ミシュパート」という単語です。とても大切な言葉で、裁きや正義などの意味があります。抑圧されているもののために、主ご自身が裁きを行い、正義を貫いてくださる。この言葉を読むと、抑圧されているものをそのままに放っておくことは主の正義にもとるという強い思いを感じます。
現代社会の「法」は、必ずしも抑圧されているものを自由にするために働くとは限りません。むしろ、多数者に都合の好いようにできていることが多い。少数者や弱者の権利を守る場面ももちろんあるのでしょうが、そうではない現実が幅をきかせているのではないでしょうか。少し前に大問題になった入管行政のことも、その一つだと思います。しかしそれでいいのか、と聖書は私たちに問うているのです。
抑圧されているものと並んでここで指摘されているのは、飢えている者たちです。この人たちのために、主なる神さまは食事を与えてくださる。主イエス御自身がそのことを大切になさいました。「それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。」この出来事は、どういう場所で起こったのか?少し前を見ると「イエスはティルス地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られた」と書いてあります。聖書の後ろに地図があるので確かめてみると、イスラエルの北の外れからヨルダン川の向こう側のかなり広い地域を歩いておられたことが分かる。そして、それらはどこも異邦人の地です。恐らく、七つのパンを分けた奇跡は異邦の地でなされました。主イエスは飢えた異邦人をご覧になって、憐れみに心を動かされて彼らを養ったのです。
この憐れみや愛の御心こそが、主イエスさまのミシュパート、正義であり裁きであり、法です。主イエス・キリストのこの御心が私たちを今日も生かすし、私たちの進むべき道を照らしているのです。

2022年8月11日木曜日

2022年8月11日の聖句

主を愛せ、すべての主のものたちよ。(詩編31:24)
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているものは愛です。(1コリント13:13)

8月は子どもたちが夏休みで、我が家にも、基本的に毎日子どもが家にいます。昔、まだ私が学生のころ、教会におられた子育て中のキリスト者の方が、お子さんの夏休みを迎えるときに「試みの40日間」と言っておられました。あの方のユーモアと共に、この季節になるとよく思い出す言葉です。つくづく思わされるのは、子どもだけではなくて親であっても夫婦であっても、あるいは家族ではない他の人でも誰でも同じですが、人間にとっていちばん大切なのは、愛情に溢れた関係なのだと思わされます。例の「試みの40日間」の方がときおりおっしゃっていたのですは、子どもはご飯だけ与えていれば育つわけではない、ということでした。ご飯に代表される生活の世話をしていれば勝手に育っていくわけではない。愛情を注がなければ育たない、ということだと思います。どのような関係でも、一番大切なのは愛情です。
他の誰よりも先に、神さまは私たちを愛してくださいました。私たちのために御子までも与えてくださいました。神さまは私たちが生きるために必要な「ご飯」に代表されるあらゆるものを準備し、与えてくださいますが、それだけでは生きられない私たちのために、ありとあらゆる愛を注いでくださっています。「人はパンのみによって生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と書いてあるとおり、神さまは愛の言葉によって私たちを養ってくださいます。
だからこそ、神さまは私たちの愛をお求めになります。私たちが御利益や自分の損得を考えてお供えをすることではなく、かたちや見栄えばかり整えた供物を持ち出すことではなく、ご自分への私たちの愛を求めておられます。「主を愛せ、すべて主のものたちよ」というのは、至言です。まさに愛を、主なる神さまは求めておられるのです。ここで「主のものたちよ」と呼ばれています。私たちも、主のお名前で呼ばれています。キリスト者。それは、キリストのものということです。主のものでありキリストの者である私たちに神さまが求めておられるのは、主を愛せという一点に尽きるのです。
まさに愛するということにおいて失敗を重ねる私たちです。だからこそ夏休みは試みの40日ですし、育児だけではなく介護や家事での家族の世話も、他のあらゆる人間関係も、愛の試練ではないでしょうか。しかし愛ほど高貴で偉大なものはありません。私たちは光栄なことに、この世界で最も尊い試みをいただいている。そして、その試みは主イエス・キリストが伴ってくださる価値ある試練に他ならないのです。

2022年8月10日水曜日

2022年8月10日の聖句

あなたが水の中を渡るとき、私はあなたと共にいる。そして大河を渡るときも、大河はあなたを溺死させない。火の中を行くときもあなたは燃えず、炎はあなたを焦がさない。(イザヤ43:2)
何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ。(マタイ8:26)

とても正直に告白すると、私はとても臆病です。臆病は疑いにすぐにつながりますし、疑いは不信仰です。ですから臆病は褒められたものではないし、信仰と対立する心です。決して正当化できません。しかし、自分という人間を考えると、正直に言って臆病であることを否定することはできません。
主イエスは言われます。「何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ」と。これは、弟子たちが主イエスと一緒に舟に乗り込んだときのことです。激しい嵐が舟を襲い、舟は波にのまれそうになりました。ところが主イエスは眠っておられた。弟子たちは怖くてたまらないので、主イエスさまを起こします。するとイエスさまが言われるのです。「何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ。」そして、風と湖を叱って、嵐を鎮めてくださいました。
弟子たちの臆病は、不信仰でした。彼らはイエスさまが寝ていて何もしてくださらないと信じ込んでいましたが、本当に眠っていたのは弟子たちの信仰でした。主が共にいてくださるというのは、主が寝ていて何もしてくれないという不信仰に打ち勝つことです。主が寝ているというのは、私たちの目に映る状況でもあります。イエスさまが私たちと共にいてくださるというのは、信仰の言葉としては知っていても、リアリティがない。本当に共にいるのかよく分からない。イエスさまは何もしてくださらない。それは、弟子たちに襲いかかるのと同じ不信仰です。しかし実のところ、舟の中に主はおられるのです。
「あなたが水の中を渡るとき、私はあなたと共にいる。そして大河を渡るときも、大河はあなたを溺死させない。火の中を行くときもあなたは燃えず、炎はあなたを焦がさない。」この言葉のいちばん大切なポイントは、「私はあなたと共にいる」という言葉です。神さまが共にいてくださるというのは、本当に力強く、私たちの恐怖心や疑いの入る余地のない事実です、本来は。どうかこの疑い深い、不信仰な私を救ってください、私の恐れや疑いの嵐を鎮めてください、とひたすら祈ります。主イエスのみ声が、私の内に騒ぎ立つ不信仰の嵐を、必ず静かにしてくださることを信じて。

2022年8月9日火曜日

2022年8月9日の聖句

私は
あなたを恐れるすべての人
あなたの戒めを守る人たちの仲間です。(詩編119:63)
フィリポは宦官に聞いた。「お読みになっていることが分かりますか。」しかし彼は言った。「誰かが導いてくれなければどうやって理解できるでしょうか。」そしてフィリポに馬車に乗り込み、自分の隣に座ってくれるように頼んだ。(使徒8:30~31)

宦官は高官でありながら、差別される存在でもありました。それは洋の東西を問わず、同じであったようです。聖書でも、宦官は非常に厳しい扱いを受けています。「睾丸の潰れた者、陰茎の切り取られた者は、主の会衆に加わることはできない(申命記23:2)」とあります。
しかし、フィリポは馬車に乗って聖書を読んでいる宦官を見つけたとき、走って行って声をかけ、言います。「お読みになっていることが分かりますか。」すると宦官はこたえました。「誰かが導いてくれなければどうやって理解できるでしょうか。」それで、フィリポは馬車に乗り込み、隣に座って、福音を語り始めました。この宦官はフィリポから洗礼を受けることになります。
聖書を字面だけで読んでいれば、宦官を差別する正当性を引っ張り出してくることは可能です。しかしフィリポは文字の奴隷になってこの人を福音の門前払いにしませんでした。隣に座り、膝つき合わせて語り合い、福音を伝えました。フィリポは主の御言葉を求める人の仲間、友になって、心から心へと福音を告げたのです。これこそ、神さまの御心に沿ったあり方ではないでしょうか。
先ほどの宦官を排除する聖書の言葉に対立するような言葉が他の所にも書かれています。このようにある。「宦官も言ってはならない。『見よ、私は枯れ木だ』と。主はこう言われる。宦官が私の安息日を守り、私が喜ぶことを選び、私の契約を固く守っているならば、私の家と城壁の中で、私は、息子、娘に勝る記念のしるしと名を与える(イザヤ56:3~4)」。神さまの御腕は、私たちが思っているよりもずっと長いのです。
私たちは神さまのこの長い御腕に、本当に驚くばかりです。私たちがいつの間にか主の囲いの外にいると決めつけている人を獲得するために、神さまはどんなことをしてでも、一人の魂を求めておられます。主を畏れ、主を信じて生きる幸いは、すべての人に開かれています。

2022年8月8日月曜日

2022年8月8日の聖句

その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:5)
私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちに留まる人は神の内に留まり、神もその人の内に留まっておられます。(1ヨハネ4:16)

今日の旧約聖書の御言葉はヘンデルのメサイアの第12曲の歌詞になっています。イザヤ書第9章5,6節です。このように書かれています。
「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。主権がその肩にあり、その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」
メサイアの、この第12曲を含む第一部は「預言」を主題としていて、メシアがお生まれになるという神の約束を聖書の言葉をつむぎながら歌っていきます。その預言の言葉の中でも、この第12曲は特に美しく、すばらしい一曲です。今日、私たちが一日を歩んでいくために、私たちのメシア、救い主でいてくださるお方が、私たちの羊飼いになって導いてくださいます。このお方の名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるのです。私たちの神であり、救い主であり、私たちの王である方です。
これに続く新約聖書も、本当にすばらしい御言葉です。「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちに留まる人は神の内に留まり、神もその人の内に留まっておられます。」私たちに向けられた神の愛への信仰を喜ぶ言葉です。「神は愛です」というすばらしい福音に私たちは今日も生かされている。
神の愛を私たちに告げ、届け、神の愛によって打ち立てられる神の国の君として、主イエス・キリストが私たちのところへ来てくださいました。私たちは愛の内に留まるなら、神の内に留まっているのです。神の愛が私たちの内に満ちている。
御言葉を愛する歌声、神さまに献げる賛美の声、福音を喜ぶ聖書の喜びの声の中、今日の一日を歩んでいきましょう。主イエス・キリストの恵みと平和があなたにありますように。心から祈っています。

2022年8月7日日曜日

2022年8月7日の聖句

恐れるな、神により愛されている人よ、平和があなたと共にあるように。安心しなさい、安心しなさい。(ダニエル10:19)
しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。(ヨハネ16:20)

今日の旧約聖書の御言葉は、本当に大いなる、偉大な平安の言葉です。「恐れるな、神により愛されている人よ、平和があなたと共にあるように。安心しなさい、安心しなさい。」私は特に、この最後の「安心しなさい、安心しなさい」と二度繰り返しているところが好きです。一度言っただけで終わらせずに繰り返すのは、一回だけでは私たちの心がまだ安心できず、恐れに取りつかれているからではないでしょうか。神さまは、私たちを言い聞かせてくださいます。「安心しなさい、安心しなさい」と。本当に、ありがたいことです。小さな子どもに語りかけるように、主は私たちに語りかけてくださいます。
「恐れるな、神により愛されている人よ、平和があなたと共にあるように。」平和があなたと共にあるように、と言っています。私たちは今、平和でしょうか。「平和」は関係を表す言葉です。関係と言ったときに、聖書は三つの関係を考えています。神さまとの関係、他人との関係、自分との関係。どれかが平和でなくなってしまえば、他の関係も平和ではいられません。目に見える兄弟姉妹を憎んでいれば目に見えない神を愛することはできないし、神さまとの関係を無視して他者との関係を結ぶことはできません。自分自身を憎みながら他者を健全に愛することはできないし、神に愛されていることを無視したら自分を愛することもできない。「平和があなたと共にあるように」と、神さまは私たちに言ってくださいます。そこには、神様ご自身が私たちとの平和を打ち立てるという決意が込められています。キリストの愛を知っているから、私たちは平和に生きることができる。
「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」今、悲しみに心を奪われてはいないでしょうか。悲しみのあまりに神さまが見えず、神さまの声を聞く耳を塞いではいないでしょうか。平和の主が私たちのところに来てくださっています。キリストが神の愛を携えて、私たちと出会うために来てくださっています。このキリストに向かって、今、心を開き、どうか主を迎え入れてください。

2022年8月6日土曜日

2022年8月6日の聖句

あなた自身ただ気をつけ、あなたの魂を守って、あなたの目が見たことを忘れないようにしなさい。(申命記4:9)
あなたが福音をどのように受け、聞いたかを思い起こしなさい。そしてそれを守り、回心しなさい。(黙示録3:3)

旧約聖書の申命記は、モーセが40年間の荒れ野の度の最後に、これまで共に旅をしてきた民に謂わば遺言のようなかたちで語りかけた言葉が記録されています。モーセ自身は約束の地にはいることがない。荒れ野で死にます。自分の最期を前にして、約束の地に入っていく神の民に、信仰の言葉を語りかけています。
「あなた自身ただ気をつけ、あなたの魂を守って、あなたの目が見たことを忘れないようにしなさい。」
あなたの目が見たことを忘れないようにしなさい、と言っています。これまで荒れ野で見た来た事のことでしょう。この荒れ野で神が私たちをどのように生かしてくださったのか、どうやって神が私たちを守ってきてくださったのか、そのことをあなたたちはよく見てきたはずだ。それを忘れないようにしなさい、とモーセは言います。それが、あなた自身に気をつけ、あなたの魂を守ることになるのだから、と言うのです。
荒れ野で神さまは、たとえばマナというパンでもって民を養ってくださいました。荒れ野の水がないところで、岩から水を湧き上がらせてくださったこともありました。40年の旅路の間、彼らの服や靴がすり切れて使えなくなってしまうこともありませんでした。彼が生きるために必要なものはすべて神が準備してくださっていた。モーセは言うのです。あなたたちはそのことをよく目の当たりにしてきたでしょう。神の守りを決して忘れないでいなさい、と。
今日の新約聖書はヨハネの黙示録の御言葉ですが、このように書かれています。「あなたが福音をどのように受け、聞いたかを思い起こしなさい。そしてそれを守り、回心しなさい。」ここでもやはり、思い起こしなさい、と言っています。ここでは先ほどよりも更に突っ込んで、どのように福音を受けたのかということを思い起こせ、と言うのです。恵みの中の恵み、究極の神の愛である福音をどのように受けたのか。それを思い起こし、そこに立ち帰れ、と。
今日、私たちを生かすのは神の恵みです。究極の神の愛である福音です。これを、あなたはどう受けましたか?あなたを生かす神の恵み、あなたのための神の愛を、あなたはどのように受け、どのようにこれまで生かされてきたのでしょうか。忘れずに、思い起こしてください。その事実が、あなたの魂を今日も守るのです。

2022年8月5日金曜日

2022年8月5日の聖句

私の神によって城壁を飛び越えることができます。(詩編18:30)
神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。(2テモテ1:7)

今日の旧約聖書は詩編第18編の言葉です。表題として「主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から助け出した日、彼はこの歌の言葉を主に語った」となっています。サウルはダビデの前のイスラエルの王ですが、たいへん嫉妬深い人物で、王である自分よりも人望の篤いダビデを執拗に妬み、追い回し、命を狙っていました。ダビデはただただ神さまに助けを求めていました。
そのダビデの祈りの言葉です。「私の神によって城壁を飛び越えることができます。」サウルは城壁に守られた場所に住んでいます。ダビデは命からがら、野宿をしながら落ち延びていました。兵力は圧倒的に負けていますし、何よりも相手は王です。しかしダビデは言います。どんなに高い城壁も、どんなにたくさんの軍勢も、私は神にあって飛び越えることができる。神は必ず私を助けてくださる。そのことを固く信じていたのです。
使徒パウロは言います。「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」神さまが私に与えてくださったのは、臆病の霊ではない。様々な不安が鳥のように私たちに飛んできます。ダビデが陥ったように、非常につらい状況に追い込まれることもあるし、そういう周囲の状況のために意気消沈してしまうことも私たちにはあります。臆病の霊は私たちの中に巣を作って、住み着こうとします。そのようなとき、私たちは神さまの霊のもとに逃れます。力と愛と慈しみの霊です。神さまは私たちを強くいて、愛を下さいます。力強く、慎みをもって他者を愛することができるのは、神さまの霊が私たちの内に働いていてくださるからです。
臆病と愛は対立する。パウロは言います。神が私たちにお与えになったのは臆病の霊ではない、愛の霊だ。神への信頼と、意欲とをもって私たちは隣人を愛する。それこそが、苦難の日に生きる秘訣だからです。
ダビデも、自分を激しく攻撃するサウロを憎むのではなく、神がお立てになった王として尊重し続けました。この人は、愛する勇気を持っていたのです。私たちも同じ神の霊をいただいています。

2022年8月4日木曜日

2022年8月4日の聖句

ヒゼキヤはその手紙を読んだとき、主の家に上り、主の前にそれを拡げた。(列王記下19:14)
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(フィリピ4:6)

南王国ユダをヒゼキヤ王が治めていた時代のことです。北王国イスラエルは既にアッシリアという超大国に攻め滅ぼされてしまいました。アッシリアは主の声に聞き従わず、主との契約を破り、結局は破滅してしまったのです。ヒゼキヤ王は正しい人で、主の命令に従い、主も彼と共におられました。しかし、アッシリアの脅威はすさまじく、北王国が滅ぼされた後、その手は南王国にも伸ばされてきたのです。ヒゼキヤ王はこのままではもはやユダ国が滅ぼされてしまうと考え、ついに、主の神殿と王宮の宝物庫を開け、すべての銀と主の聖所の金の扉と柱までも供出してしまいました。しかしそれでも、アッシリアの侵攻は留まることを知らなかったのです・・・。
アッシリアから遣わされたラブ・シャケという使者は徹底的にユダ国を嘲り、恫喝し、信仰を否定しました。「この度、私が主ご自身と関わりなくこの場所を滅ぼしに攻め上ってきたと思うのか。この地に攻め上り、これを滅ぼせと私に言われたのは主ご自身なのだ」と、主なる神さまの名前を騙って、ユダを脅しにかかります。
更にラブ・シャケは言います。「お前はエルサレムがアッシリアの王の手に渡されることはないなどと言って、神に頼っているが、その神にだまされるな。実際お前は、アッシリアの王たちがすべての国々を滅ぼすために行ったことを聞いているであろう。自分だけは救い出されると言うのか。」お前たちだけが神に救い出されるわけがない、そもそも、お前の信じる神よりも我々の方が強いのだ、と彼は言ったのです。
今日の御言葉のヒゼキヤが主の前に拡げた手紙というのは、この恫喝の言葉が連ねられた手紙のことです。ヒゼキヤはこの最悪の状況をそのまま神さまの前に持っていき、拡げました。主の御名を騙って脅し、侮辱してくる者の言い様を、そのまま神さまに訴えて救いを求めたのです。ヒゼキヤは祈ります。「主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてみてください」と。
今日の新約聖書の御言葉は言っています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」私たちも、率直に祈りましょう。屈辱的な、あるいは脅威的な現実を、そのまま神さまの御前に差し出しましょう。神は「聞いてください、見てください」という私たちの祈りを必ず聞き、それに応えてくださる方です。

2022年8月3日水曜日

2022年8月3日の聖句

起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇ったのだから。(イザヤ60:1)
あなたがたは皆、光の子ども、昼のこどもなのです。(1テサロニケ5:5)

神学生のとき、夏期伝道実習を東大宮教会で受けさせて頂きました。この教会の長老に児童養護施設を立ち上げ、運営しておられる方がおられ、そこの子どもたちが毎週の教会学校に通っていました。光の子どもの家という施設です。
「あなたがたは皆、光の子ども、昼の子どもなのです。」聖書はそのようにはっきりと言います。今日のこの御言葉を読んだときに、あの光の子どもの家のことを思い出しました。私が研修に伺った20年前でも、もう既に、入居している子どもたちの入居理由のほとんどが保護者による虐待だと伺いました。大人だって心身の暴力を受ければ深く傷つきます。まして子どもが、しかも自分を愛してくれるはずの存在から繰り返し傷つけられてきて、どんなに痛んできたことかと思います。そういう子どもたちと共に生きるときに何を伝えるのかということを考えて、あなたたちは光の子どもだし、ここは光の子どもであるあなたたちの家なのだと伝えたかったのだろうと思います。そして、それは私たちも同じです。私たちも光の子どもたちです。
光の子どもたちである私たちに、聖書は言います。「起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇ったのだから。」主の栄光の光に照らされているあなたたち光の子どもは、起きて、自ら光を放つことができるのだ、と言うのです。驚くべき言葉です。私のイメージでは、どちらかというと、私たちは太陽ではなく月のようであって、自分で光ることはできないけれど神さまの光を反射させることなら・・・と思っていました。しかし聖書は「起きよ、光を放て」と言うのです。あなた自身が光を放て、と言います。ただそれにはちゃんとそうできるだけの根拠がある。あなたの光が来たのだから。主の栄光があなたを照らしているのだから。だから、起きよ、光を放て!
私たちが神さまに愛される光の子として生きるというのは、すでに光を放っているということなのではないでしょうか。神さまの愛を証言したとしたら、それこそが私たちの光ではないでしょうか。私たちはどんなに悲しいときにも、孤独なときにも、どうしてもうまくいかないときにも、光の子どもです。主イエス・キリストの光が私たちの内面から照っている。私たち自身が光とされている。この聖書の言葉を大胆にも信じ、光の子として今日の日を生きていきましょう。

2022年8月2日火曜日

2022年8月2日の聖句

私たちにはみな、一人の父がいるのではないのか。私たちをつくられたのは、一人の神ではないのか。なぜ私たちはお互いに蔑むのか。(マラキ2:10)
謙虚になり、他人を自分自身よりも優れていると重んじなさい。(フィリピ2:3)

主イエスさまは私たちに「父よ」と祈ることを教えてくださいました。「アッバ、父よ」と、主イエス御自身が祈っておられた。その祈りを口伝えにして私たちにも教え、神が私たちも「父よ」と祈ることを喜んで受け入れてくださっていることを、主イエスは知らせてくださったのです。
主イエスが私たちに知らせてくださった父としての神さまのお姿は、慈しみと愛に満ちたお姿です。父の財産の分け前をもらったと思ったら遠い外国に出て行ってしまって、何もかも失って、惨めにとぼとぼ帰ってくる息子がまだ遠く離れていたのに走り寄って抱きしめる父です。その兄が、弟への父の憐れみを受け入れられずに外に立って怒っていたときに、兄のところへ出て行って一緒に喜ぼうと招きなだめてくださる父です。
私たちは、神さまの慈しみを信じ、神さまの愛を信じて「父よ」と祈ります。私たちが神の子とされたことは、神様ご自身が私たちの口に「父よ」と祈る言葉を授けてくださっている事実から分かります。
私たちにはみな、一人の父がいる。私たちは、一人の神に造られた。私たちに命を与え、私たちをこのような私としてつくり、今生かしてくださっているのは、同じ神さまです。このお方の御手の中で、私も、私の隣人も生かされている。その事実が私たちの間にある蔑みの心を取り去り、私たちを謙虚にするはずだ、と聖書は言います。神さまの慈しみによって、私たちは自分の心に救う傲慢や他人を見下す卑しさから解放されるのです。
「他人を自分自身よりも優れていると重んじなさい。」それは、自分はたいしたことないとわきまえることによってではなく、あるいは他の人を立てる奥ゆかしさによってではなく、私たちお互いをお造りになった神さまの父としての慈しみを信じるときに生まれます。父の慈愛だけが、あの弟息子の父を捨てる罪深さや、父の憐れみを拒む兄息子の傲慢さからの救いです。私たちは、神の子。「天にまします我らの父よ」と、祈る群れなのです。

2022年8月1日月曜日

2022年8月1日の聖句

平和、平和があるように
遠くにいる者にも、近くにいる者にも
「私は彼らを癒やそう」と主は言われる。(イザヤ57:19)
平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように。(ローマ15:33)

平和。私たちは本当に切実に平和を必要としています。今日から8月になったということを考えるときに求める平和、という意味においてもそうです。それに、もっと身近な、家族や仲間たちとの平和、あるいはどうしてもわだかまりが残っている人との間の平和もあります。あらゆる人との間に平和がほしいのに、なかなかそれが実現しないというのが私たちの実際のところではないでしょうか。
主なる神さまはおっしゃいます。「私は彼らを癒やそう」と。私たちには神さまの癒やしが欠かせないからです。神さまに癒やされることなくして、私たちが平和に生きることはできないからです。私たちの隣人との間の平和には、どうしても、神さまの平和が必要なのです。
「平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように。」あなたがた一同と共に、と言っています。私に個人的に平和の神が訪れるのではない。他の人から隔絶した私に、ひっそりと平和の神が来るというのではない。「平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように。」平和の神は、実に、私たちの間におられるのです。神さまは、私にとって気に触る人や、ちょっと厭な感じがする人、できれば顔を合わせたくない人との間におられる。そして、私たちがその人に和解の手を伸ばすとき、キリスト御自身がその手を取ってくださるのです。
平和。そのことを考えると、私には主イエス・キリストの憐れみにすがるしかないと痛切に思わされます。他に一体どうして私が平和に生きることができるのでしょうか。平和の神、主イエス・キリスト、このお方の真実と関係のないところで、一体どうして私に平和が訪れるのでしょうか。キリストが私のために血を流して、和解の手を伸ばしてくださいました。キリストが私のために肉を裂いて、私の平和になってくださいました。このお方こそが私の平和、私の救いなのです。

2022年8月15日の聖句

義しいものの小屋で喜びをもって勝利が歌われる。「主の右の手は挙げられた。主の正しさは勝利を得た。」(詩編118:15,16) 私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。(ルカ1:46~47) 今日の新約聖書の御言葉は、主イエスさまを胎に宿した母マリアの賛歌です。「私の魂...