主よ、あなたの民に約束された恵みに従って私を顧みてください。あなたの救いを私たちに示してください。(詩編106:4)
私たちの誰もが、キリストに与えられている尺度に従って恵みが与えられています。(エフェソ4:7)
旧約聖書の出エジプト記を見ると、奴隷の家であったエジプトを脱出し、荒れ野を旅したヘブライ人たちの記録が記されています。荒れ野を旅する神のために、神さまはマナというパンを与えてくださいました。安息日以外の毎日、必ず。朝、露が渇くと地表に霜のようにうっすらと積もっていたのです。一日あたり、一人一升ずつです。明日の分まで欲張ってはいけない。その日、その日と、神さまは日ごとの糧を与えてくださった。二日分かき集めると、翌日には腐ってしまっていました。安息日の前日だけは二日分です。ここで興味深いのは、平日について、一日分であれば「ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ると、多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りなくなることもなく、それぞれ自分の食べる分を集めていた」(出16:17~18)というのです。
ここに端的に、聖書の平等観が表れています。「みんな同じ」が聖書の考える平等ではありません。その日必要な分は人によって違う。二日分(つまり必要以上に)集めることは禁じられていますが、一日の必要量については各自が分に応じて必要な量を集める。すると皆一升になっている。この「分に応じて」というのが聖書の平等観です。
「私たちの誰もが、キリストに与えられている尺度に従って恵みが与えられています。」キリストに与えられている尺度に従って、と言っています。私たちの自前の尺度ではありません。あるいは自分の欲望に従ってでもありません。世間の評価でもない。キリストの尺度に従って、神さまは私たちに分に応じて計り与えてくださっている。
しかしそうは言っても、多く与えられた方が得ではないかと私たちには見えます。しかし多く与えられた者は分に応じて多くを献げる義務があります。少なく与えられた者は、だから何もしなくて良いというのではなく、やはり分に応じて献げます。分に応じて与えられ、分に応じて献げる。そこにあるのは神さまの気まぐれや意地悪ではない。キリストによる尺度というからには、神の深い愛に満ちた尺度に違いないのです。「主よ、あなたの民に約束された恵みに従って私を顧みてください。あなたの救いを私たちに示してください。」神の恵みが、今日の私の生きる分を定めています。だからこそ、祈りつつ今日の日を生きていきたいと願います。
私たちの誰もが、キリストに与えられている尺度に従って恵みが与えられています。(エフェソ4:7)
旧約聖書の出エジプト記を見ると、奴隷の家であったエジプトを脱出し、荒れ野を旅したヘブライ人たちの記録が記されています。荒れ野を旅する神のために、神さまはマナというパンを与えてくださいました。安息日以外の毎日、必ず。朝、露が渇くと地表に霜のようにうっすらと積もっていたのです。一日あたり、一人一升ずつです。明日の分まで欲張ってはいけない。その日、その日と、神さまは日ごとの糧を与えてくださった。二日分かき集めると、翌日には腐ってしまっていました。安息日の前日だけは二日分です。ここで興味深いのは、平日について、一日分であれば「ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ると、多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りなくなることもなく、それぞれ自分の食べる分を集めていた」(出16:17~18)というのです。
ここに端的に、聖書の平等観が表れています。「みんな同じ」が聖書の考える平等ではありません。その日必要な分は人によって違う。二日分(つまり必要以上に)集めることは禁じられていますが、一日の必要量については各自が分に応じて必要な量を集める。すると皆一升になっている。この「分に応じて」というのが聖書の平等観です。
「私たちの誰もが、キリストに与えられている尺度に従って恵みが与えられています。」キリストに与えられている尺度に従って、と言っています。私たちの自前の尺度ではありません。あるいは自分の欲望に従ってでもありません。世間の評価でもない。キリストの尺度に従って、神さまは私たちに分に応じて計り与えてくださっている。
しかしそうは言っても、多く与えられた方が得ではないかと私たちには見えます。しかし多く与えられた者は分に応じて多くを献げる義務があります。少なく与えられた者は、だから何もしなくて良いというのではなく、やはり分に応じて献げます。分に応じて与えられ、分に応じて献げる。そこにあるのは神さまの気まぐれや意地悪ではない。キリストによる尺度というからには、神の深い愛に満ちた尺度に違いないのです。「主よ、あなたの民に約束された恵みに従って私を顧みてください。あなたの救いを私たちに示してください。」神の恵みが、今日の私の生きる分を定めています。だからこそ、祈りつつ今日の日を生きていきたいと願います。