2022年5月31日火曜日

2022年5月31日の聖句

主よ、あなたの民に約束された恵みに従って私を顧みてください。あなたの救いを私たちに示してください。(詩編106:4)
私たちの誰もが、キリストに与えられている尺度に従って恵みが与えられています。(エフェソ4:7)

旧約聖書の出エジプト記を見ると、奴隷の家であったエジプトを脱出し、荒れ野を旅したヘブライ人たちの記録が記されています。荒れ野を旅する神のために、神さまはマナというパンを与えてくださいました。安息日以外の毎日、必ず。朝、露が渇くと地表に霜のようにうっすらと積もっていたのです。一日あたり、一人一升ずつです。明日の分まで欲張ってはいけない。その日、その日と、神さまは日ごとの糧を与えてくださった。二日分かき集めると、翌日には腐ってしまっていました。安息日の前日だけは二日分です。ここで興味深いのは、平日について、一日分であれば「ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ると、多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りなくなることもなく、それぞれ自分の食べる分を集めていた」(出16:17~18)というのです。
ここに端的に、聖書の平等観が表れています。「みんな同じ」が聖書の考える平等ではありません。その日必要な分は人によって違う。二日分(つまり必要以上に)集めることは禁じられていますが、一日の必要量については各自が分に応じて必要な量を集める。すると皆一升になっている。この「分に応じて」というのが聖書の平等観です。
「私たちの誰もが、キリストに与えられている尺度に従って恵みが与えられています。」キリストに与えられている尺度に従って、と言っています。私たちの自前の尺度ではありません。あるいは自分の欲望に従ってでもありません。世間の評価でもない。キリストの尺度に従って、神さまは私たちに分に応じて計り与えてくださっている。
しかしそうは言っても、多く与えられた方が得ではないかと私たちには見えます。しかし多く与えられた者は分に応じて多くを献げる義務があります。少なく与えられた者は、だから何もしなくて良いというのではなく、やはり分に応じて献げます。分に応じて与えられ、分に応じて献げる。そこにあるのは神さまの気まぐれや意地悪ではない。キリストによる尺度というからには、神の深い愛に満ちた尺度に違いないのです。「主よ、あなたの民に約束された恵みに従って私を顧みてください。あなたの救いを私たちに示してください。」神の恵みが、今日の私の生きる分を定めています。だからこそ、祈りつつ今日の日を生きていきたいと願います。

2022年5月30日月曜日

2022年5月30日の聖句

私は貧しく、惨めです。主はしかし私を気遣ってくださいます。(詩編40:18)
希望が水疱に帰されることはありません。(ローマ5:5)

主イエス・キリストと出会って私たちが知る希望は、私たち自身に依存しない希望です。私が私自身を見つめていても、希望は生まれてきません。「私は貧しく、惨めです」と詩編は言っています。この詩編は1節を見ると「ダビデの詩」と書かれています。ダビデは王ですから、貧しいわけではありません。もちろん子どものころは羊飼いの家に生まれたのですし、王になってからも息子に起こされた政変で命からがら逃亡生活を強いられたこともあります。しかし、ここで言っている貧しさや惨めさは、そういう一時的な苦難のことに留まらないと思います。神さまの前で、私は何と貧しく、惨めなのか、ということではないでしょうか。神さまの御前にあって自分の小ささや卑しさを知る。そこでは「私は貧しく、惨めです」と告白しないわけにはいかない。状況がもたらす苦難や卑賤もあるのでしょうが、それ以上に、神さまの御前にある自分の姿を告白しているのではないかと思います。
しかし、貧しく惨めな私を、神はお見捨てにはならなかった。「私は貧しく、惨めです。主はしかし私を気遣ってくださいます。」主が私を気遣ってくださった。苦しみや悲しみを嘗める時、しかし主が私を気遣っていてくださる。主の御前にも、人の前にも顔向けできない私を、しかし主が気遣い、再び立たせてくださる。この詩編は深くその事実に信頼し、神さまの御前にある希望を告白しているのです。
この希望を、神を信じる者は抱いています。そして「希望が水疱に帰されることはありません。」決して、神さまは神さまに望みをかける私たちを捨ててしまったりはなさらない。神さまは私たちの希望を、主イエス・キリストにあってかなえてくださいます。貧しく惨めな私を、神はご自分の前に立たせ、私たちがキリストにあって神の愛の中を生きるように、私たちを今日も守っていてくださいます。
今日も、神は私たちを祝福してくださっています。いつ、どこにいようとも、神さまの祝福の手が私たちから離れることは決してないのです。

2022年5月29日日曜日

2022年5月29日の聖句

実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。ましてわたしが建てたこの宮など、なおさらのことです。(王上8:27)
いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにとどまり、神の愛がわたしたちのうちに全うされてるのです。(1ヨハネ4:12)

今日の旧約聖書の御言葉は、ソロモン王が七年の年月をかけて建造した神殿が完成し、いよいよこれを神に献げるというときの祈りの言葉です。技術の粋とたくさんの財産を献げて完成した主の神殿。しかし、「実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。ましてわたしが建てたこの宮など、なおさらのことです」と祈ります。本当に真実な、正直な思いなのだと思います。どんなに精一杯のささげ物をしても、神さまの偉大さ、その大きさ、すばらしさをこの建物に閉じ込めることなどどうしてできるでしょうか。この世界を造った方を、私が造った建物などにどうして閉じ込めることができるのか。
これは建物だけのはなしではないと思います。私の期待や、私の願い、私のこだわり、そういうものだって、神さまを閉じ込める事なんて本当はできません。しかし、私たちは自分の思惑に神さまを収めてしまいたくなります。自分の予測の範囲内に収まる小さな神さまを好みます。しかし、例え天でも、それどころか天の上に広がる天の天によっても、神さまを閉じ込めてしまうことなどできやしない。神さまは完全に自由で、私の思惑に留めてしまうことはできない。
ところが、その神さまが私たちの内にいてくださる、と聖書は言います。「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにとどまり、神の愛がわたしたちのうちに全うされてるのです。」私たちが互いに愛し合う時、神さまは私たちの内にとどまってくださって、私たちの内に神の愛を実現してくださる、と言うのです。驚くべき言葉です。
今日は主の日です。教会堂は、神さまを収めるための場所ではありません。私たちが祈り、礼拝を献げるための場所です。私たちは心を一つにして神さまを礼拝します。天も地もお造りになった方を礼拝し、この方の前にひれ伏します。私たちは、キリストに頂く愛で互いに愛し合います。主イエス・キリストの愛が私たちの間で実現し、そこにキリストは留まってくださる。その約束を信じて、愛し合う私たちの間にキリストがいてくださることを信じて、私たちは今日も神の民として礼拝を献げます。

2022年5月28日土曜日

2022年5月28日の聖句

あなた方は君主を頼みにするな。彼らは人を助けることなどできない人間なのだ。(詩編146:3)
イエス・キリストは確かな証人で、死者の中から初めて生まれた方であり、以上の王たちの君主です。(黙示録1:5)

かつて、イスラエルには王がいませんでした。周辺諸国には王がいて、国としても強く、イスラエルは外圧に晒されていました。しかも当時の指導者サムエルは年を取り、後継者と目される息子たちは堕落し、ついにイスラエルの人々は不安にかられて王を立てるように要求します。自分たちも周りの普通の国のように王がほしい。まさに君主を頼みとして生きていきたい、と要求したのです。
神さまは人々の声を聞いて「私が彼らの王となることを退けている」とおっしゃいましたが、それでも民の要求を受け入れて、イスラエルに王をお立てになります。その王がサウルという人物でした。やがてサウルは自分の王位にしがみつき、民から徴用し、民のものを奪うようになります。
「あなた方は君主を頼みにするな。彼らは人を助けることなどできない人間なのだ。」これは、サウルという特定の王、あるいはヘロデやローマ皇帝という特定の人々が殊更にあくどいという話ではありません。むしろ、君主や王というものは不可避的に人を助けない人間になってしまう、という面がどうしてもあるのだと思います。あの名君ダビデでさえ、自分の欲望を満たすために臣下ウリヤを殺し、その妻バト・シェバを手籠めにしたのです。権力は、必ず腐敗してしまう。
たった一人の腐敗しない王、それがイエス・キリストに他なりません。「イエス・キリストは確かな証人で、死者の中から初めて生まれた方であり、以上の王たちの君主です。」キリストは支配するために人を殺すのではなく、私たちに命を与えるためにご自分を殺す者の手に渡してしまいました。キリストはご自分を献げて、私たちを生かしてくださいました。十字架にかけられ、復活をした王、それがイエス・キリストです。
明日は日曜日、主の日です。キリストが復活したことを記念し、喜ぶ日です。私たちは、私たちのためにご自身を十字架につける者の手に委ね、私たちのために復活したキリストを仰ぎ、キリストの命の御業に与るために、明日、キリストの御前に礼拝を献げようとしているのです。

2022年5月27日金曜日

2022年5月27日の聖句

行きなさい。主がおまえと共にいてくださるように。(サムエル上17:37)
誰かが仕えようとするなら、神が与えてくださる力をもって行きなさい。(1ペトロ4:11)

神さまは私たちが他者に仕えるための力を与えてくださいます。「誰かが仕えようとするなら、神が与えてくださる力をもって行きなさい。」普通、力をもって行くというのなら、仕えるためではなく支配するためです。仕えるためにわざわざ神さまの力を借りる必要などない、と普通は考えます。ところが聖書はとても意外なことを言います。「誰かが仕えようとするなら、神が与えてくださる力をもって行きなさい。」
そのことは、主イエス・キリストを見てもよく分かることです。キリストは神の子でありながら、僕の身分になってくださいました。へりくだって、死にいたるまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした。僕になる神の子のへりくだりの道にこそ、神の力が現されたのです。仕えるために、神さまはご自分の全能の力を発揮してくださいました。だから、私たちも仕えるために神の力により頼みます。そうでなければ、どうして私たちがキリストがそうしてくださったようにまことにへりくだり、仕えることができるでしょうか。
「行きなさい。主がおまえと共にいてくださるように。」主なる神さまが私たちと共にいてくださるというのは、私たち神を信じる者の確信するところです。どこにいるにしても、何をするにしても、神は私たちと共にいてくださる。今日、私たちが特に覚えることは、他者に仕える時、私たちの僕になってくださった主イエス・キリストが共にいてくださる、ということです。私たちと共におられ、仕えるための神の力を私たちに与えてくださる。主イエスさまが、今日もあなたと共にいて、あなたのすることに豊かな祝福を下さいますように。今日一日の神の愛を祈っています。

2022年5月26日木曜日

2022年5月26日の聖句

主の家に植えられ、私たちの神の前庭で茂る。そして年を重ねても、なお花が咲き、実を結び、生き生きとしているだろう。(詩編92:14~15)
イエスは言う:わたしはあなた方にまた会います。そしてあなた方の心は喜ぶでしょう。あなた方のその喜びを誰もあなた方から取り去ることはありません。(ヨハネ16:22)

「主の家に植えられ、私たちの神の前庭で茂る。」とても素敵なイメージです。私たちは主の家の庭に植えられた木です。さがみ野教会にも、場所を上手に使って少しの木と、花壇には花々が植えられています。少し前にはドウダンツツジがきれいでした。もう少しすればアナベルが咲くことでしょう。美しい花も緑の木の葉も私たちの楽しみです。神さまの家の庭に植えられた私たちが神さまにとっての楽しみなのだとしたら、そんなに幸せなことはありません。
木はやがては枯れます。どんなに美しい花も、永遠に咲き続けることはありえません。私たちも生きているものとして必ず衰えますし、若い時の美しさは失われていきます。しかし、神さまの庭に咲く花としては、そうではないのです。「そして年を重ねても、なお花が咲き、実を結び、生き生きとしているだろう。」神さまの御前にあって、私たちは年を重ねても花を咲かせてその美しさを神さまは喜んでくださるし、実りを楽しんでくださる。私たちは神さまの前に生き生きとし続けることができる。神さまの祝福は、私たちの衰え以上に確かで、私たちを生かす恵みに満ちているのです。私たちの死をも超えて、神さまは私たちをご自分の庭に植えていてくださいます。生きている時にも死にゆく時にも、私たちは主イエス・キリストのものです。
「わたしはあなた方にまた会います。そしてあなた方の心は喜ぶでしょう。あなた方のその喜びを誰もあなた方から取り去ることはありません。」主イエス・キリストが私たちと出会い、私たちと共にいてくださるのは、永遠のことです。私たちをとこしえまでも神の庭に植え、世話するために、キリストは私たちと出会い、永遠に神さまのものとしてくださるのです。キリストの御名があがめられますように。

2022年5月25日水曜日

2022年5月25日の聖句

あなたのものです、主よ、偉大さと力と栄光と誉れと統治権は。つまり、天と地にあるすべてのものはあなたのものです。(歴代誌上29:11)
その方、それは、ただ一人の神で、神と人間のただ一人の仲介者です。すなわち人であるキリスト・イエスで、みなの身代金としてご自分を与えられました。(1テモテ2:5~6)

今日のこの二つの御言葉が合わせて与えられているというのは、ただならないことだと思います。
旧約聖書では偉大さと力と誉れと統治権、それらはすべて主なる神さまのもの。天と地にあるすべてのものはあなたのもの、と告白しています。神さまがこの世界にあるすべてのものを造り、それらを治めておられる。神さまこそがまことの王であり、まことの神だという信仰の告白です。
この世界が単なる偶然の産物に過ぎず、強い者が力によって奪い取るのも仕方がないと考えるのか、あるいはまことの神がおられてこれを造り、今も統治しておられると信じるのか。それによってこの世界に対する見方も、人生観も全く違ってくるのではないでしょうか。聖書のまことの王を知り、この方の前にへりくだる知恵は深いと思います。神を知り、神の前に身をかがめる時、私たちは本当に希望を持って生きることができるのではないでしょうか。
新約聖書では、そのお方、ただおひとりの神、この世界を、天と地とそこにあるすべてのものをお造りになった方と私たちのと仲介者、それはイエス・キリストだと言います。しかも、単なる取り次ぎ役というのではなく、キリスト・イエスはご自分を身代金としてお与えになったのだ、と言います。
私たちが神を信じることも、神さまに祈るのも、神の愛を信じて今を生きることができるのも、すべてはキリスト・イエスのお陰です。この世界を作った方は暴君ではなく、この世を支配しているのは悪ではないと私たちが心から信じて希望を持っていきられるのは、主イエス・キリストがおられるから。キリストによって現された神の愛が、今日の私を生かしてくださっていると私たちは信じて一日過ごすことができる。キリストのお陰で。ですから、今日与えられているこの御言葉は、私たちが今日というこの日を喜んで生きるための秘訣に他ならないのです。

2022年5月24日火曜日

2022年5月24日の聖句

主よ、どうか烈しく怒らないでください。いつまでも咎を憶えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに心を留めてください。(イザヤ64:8)
ヨハネは書く:私の子どもたち、これらのことをあなたたちに書くのは、あなたがたが罪を犯さないためです。またもし誰かが罪を犯しても、私たちには父の前でとりなしてくださるイエス・キリスト、義しい方がおられるのです。(1ヨハネ2:1)

今日の御言葉を読んで、私は、以前録音で聞いた北森嘉蔵という牧師がしたパウロの回心の説教を思い出しました。パウロはかつてはファリサイ人の急先鋒としてキリスト者たちを迫害し、誰彼構わずに縛りあげ、あるいはステファノが石打にされた時に石を投げた人たちの服の番をしました。パウロがダマスコに向かう時、突然天から光がさし、パウロは倒れた。パウロに声が聞こえました。「パウロ、パウロ、なぜ私を迫害するのか。」北森牧師は、このとき、この声の主であるイエスは「パウロ、よくもやってくれたね。よくもステファノを石で打ち殺してくれた。お前が私を十字架にかけたも同然だ。痛かったぞ」とは言わなかった、と指摘します。ただ、「なぜ私を迫害するのか」と事実を問い、更に「起きて町に入れ」と言って、次にするべき事を教えてくださった。イエスはパウロに恨み辛みを告げて、この時を愁嘆場にしなかった。こうやってパウロは赦され、立ち直ったのだ、と。北森牧師が「赦すとは忘れることだ」とおっしゃっていたのが印象的でした。
主なる神さまが私の罪や咎をすべて覚え、烈しくお怒りになるのなら、一体どうやって私は生きられるのでしょうか。神さまが私に抱かれる恨み辛みはどんなに烈しいことでしょう。ところが神さまは、ご自分の義しさを赦しによって発揮してくださいました。私たちの主イエス・キリストにあって、私たちの罪をもはや思い返さず、私たちに新しい将来を拓いてくださったのです。神は私たちの罪ではなく、私たちが神の民、神の子であることを心に留め、私たちを新しくしてくださいました。
今日は、恵みの日です。今日こそ、救いの日です。主イエス・キリストにあって、私たちは神の子、神の民として、この新しい一日に送り出されています。

2022年5月23日月曜日

2022年5月23日の聖句

喜んで歌え、私の強みである神に。(詩編81:2)
あらゆることで、神の仕え人であることを態度で示しましょう。悲しみにありながら、いつも喜んでおり、貧しいものでありながら多くの人を豊かにし、何も持っていないのに、すべてを持っているのです。(2コリント6:4,10)

神に仕える者らしさ、神に仕える人らしい態度、振る舞い。それは喜びだと言います。主にあって喜ぶ人こそ、主に仕えている者らしい、と言います。
喜びは、内面からわき上がる思いです。何か良いことがあったとか、好ましい何かに巡り会ったとか、思っていたことが叶ったとか、そういうような外形的な理由から喜びを得ることも確かにあります。しかし、そういう喜びは、その理由になっているものが失われてしまえば消えてしまう。
ところがコリントの信徒への手紙を書いたパウロは言います。「悲しみにありながら、いつも喜んでおり、貧しいものでありながら多くの人を豊かにし、何も持っていないのに、すべてを持っているのです。」これはパウロ自身の話です。パウロは悲しむこともたくさんあったし、貧しかったし、何も持っていませんでした。それどころか迫害され、鞭で打たれ、病気も持っていたようです。外形的には喜ぶどころか嫌になってしまう現実ばかりです。それでもパウロは喜んでいる。内面から湧き上がる喜びがあったからです。
パウロは主イエス・キリストを喜びました。キリストが私を愛し、私のためにご自身を献げてくださったことを喜んでいました。キリストのゆえに、私も神の前に義とされていることを喜んでいました。この喜びを私たちから奪い去るものはこの世にいません。
「喜んで歌え、私の強みである神に。」神こそ私の強み。神のゆえ、キリストのゆえに私は強い。弱い時にも強い。この喜びは、永遠の喜びです。今日、私たちが生かされる喜びです。

2022年5月22日日曜日

2022年5月22日の聖句

私は彼らを火の中をくぐらせ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。それから彼らは私の名を呼ぶだろう、そして私はそれを聞き届ける。(ゼカリヤ13:9)
だから今、少しの間、そうしなければならないなら、多くの苦しみの中、悲しみますが、あなたがたの信仰が守られ、火による精錬で純化されても朽ちていく金よりももっと価値が認められることを期待するべきです。(1ペトロ1:6~7)

今日の旧約聖書の新約聖書も、火によって金属を精錬するイメージで私たちに語りかけています。これらの御言葉に触れて私が本当にありがたいと感じたのは、このイメージが銀や金という価値のあるものによって語られていることです。私たちはそこら辺の金屑とか錆びて使い道のないゴミではなく、火で精錬し、試す価値のある金や銀だと言われている。それは、本当にありがたいことです。
私たちが火のような試練をくぐり抜ける時、私たちは苦しみ、悲しみます。しかし、そこで私たちの信仰が強くされるなら、私たちは金どころではない、それどころか純金よりももっと価値があると神さまは言ってくださいます。
火のような試練の中に放り込まれた時に大切なことは、これは私の信仰を成長させるために神がお与えになった試練なのだと信じることです。そのことを信じた時、苦しいことや悲しいことの意味が、おぼろげに見えてくるのではないでしょうか。
今日の新約聖書の御言葉の手紙、ペトロの手紙を書いた使徒ペトロの最大の試練は、やはり何と言っても主イエスが十字架にかけられたときの出来事でしょう。主イエスを知らないと三度にわたって繰り返してしまった。そして主イエスは十字架にかけられ、ペトロの信仰もめちゃくちゃになってしまった。ところが、三日目に復活した主イエスはご自分の復活の知らせをペトロに伝えよと言ってくださった。主イエスと再び出会い、ペトロは立ち直ります。そして気づいたのでしょう。主イエスはこの試練によって私の信仰を成長させてくださったのだ、と。
今日の御言葉は本当に実感のこもったペトロの言葉です。試練を通して神さまは私たちを金や銀のように精錬し、本当に価値あるものにしてくださいます。私たちの信仰を練り清めてくださる。今日、何があろうとも、主イエスさまにあって私たちの一日は意味があるのです。

2022年5月21日土曜日

2022年5月21日の聖句

金銭を愛する者は、それに満足することはない。
また富を愛する者は、それで得することはない。(コヘレト5:9)
食べるものと着るものがあれば、それで十分なはずです。しかし金持ちになろうとする人たちは、誘惑に陥り、多くの、愚かで有害な欲望に飲み込まれます。(1テモテ6:8~9)

お金は汚いもの、とは聖書は教えていません。人間が独りぼっちで自給自足をしたり、物々交換の原始的な社会できいるのでもなければ、お金は必ず必要です。お金がないと社会は成り立たないし、お金がなければ社会で生活することもできません。お金を汚いものというのは、現実離れしています。
しかし、生きるためにお金が必要なのか、お金のために生きているのかとでは事情は全然変わってくるのではないでしょうか。今日の二つの御言葉はそのことを教えているのだと思います。
「金銭を愛する者は、それに満足することはない。また富を愛する者は、それで得することはない。」「食べるものと着るものがあれば、それで十分なはずです。しかし金持ちになろうとする人たちは、誘惑に陥り、多くの、愚かで有害な欲望に飲み込まれます。」
この旧約聖書の御言葉にはハッとさせられます。金銭を愛する者は、それに満足することはない。金銭を目的として生きても、決して金銭に飽きることはないし、第一手段と目的があべこべで本末転倒です。本当は、食べるものと着るものがあればそれで十分。足ることを知る知恵を身に着けることが大切なのであって、貪欲は罪に直結しています。現代は社会構造が複雑になってしまったのでいろいろなものが必要なように見えますが、食べるものと着るもので足りることを知る聖書の知恵はまことに深いのではないでしょうか。
やはり、何と言っても私たちの模範は、この点においてもキリストご自身です。生まれた時には飼い葉桶に寝かされ、大工の家に育ち、罪人と言われてつまはじきにされた人、物乞いや病気の人の友になってくださいました。キリストは私たちのために貧しくなり、私たちのためにすべてを献げてくださいました。私たちはキリストが「貧しい者は幸いである」と言われた言葉を聞きました。私たちに必要なものは、すべて神さまが備えてくださいます。神の国とその義を求めて、今日一日の歩みを始めていきたいと願います。

2022年5月20日金曜日

2022年5月20日の聖句

私の咎が頭を越えるほどになり、重荷となって、担いきれません。(詩編38:5)
キリストは、私たちに抗する要請が書かれている借用証を無効とし、それを破棄され、十字架に釘付けになさいました。(コロサイ2:14)

「私たちに抗する要請が書かれている借用証」。そこには、一体何が書かれているのでしょう。生まれてからこれまでの私の人生が事細かに記録されており、そこでの一つひとつの行状が記録されているとしたら・・・。どうなるのでしょう。そこには、「この者には10,000タラントンの借財がある」と書かれているのではないでしょうか。一生獄につながれ、返し終わるまで働けと言われても、そのような借用証は一生かけても返し終わることが不可能です。「私の咎が頭を越えるほどになり、重荷となって、担いきれません。」私の咎は頭を越えるほど。私を埋め尽くし、押し潰し、息ができなくなってしまう。それは「重荷となって、担いきれません」。私たちには、自分の罪や咎の重荷を自分で担いきることはできません。絶対に不可能です。10,000タラントンです。国家予算よりも大きな、天文学的な数字。私たちは自分の借用証に書いてある借財がどんなに大きいのかを全部把握することすらできないのです。
ただし、たった一つだけ、私たちの借用証の大きさを知る道があります。「キリストは、私たちに抗する要請が書かれている借用証を無効とし、それを破棄され、十字架に釘付けになさいました。」キリストは、私たちの借用証を無効にした上で十字架に釘付けにしてくださいました。どうやってか?キリストご自身が十字架に釘付けにされることによって、私たちの借用証も一緒に釘付けにしてくださったのです。私たちの借用証を無効にするために、キリストは御自らを十字架に釘付けにしてくださいました。私たちの借用証の大きさ、その途方もない額は、キリストの命の大きさです。キリストご自身が十字架にかけられた命の途方もない大きさが、私たちの罪や咎の途方もない大きさです。しかしその途方もない大きさこそ、キリストを与えてくださった神の愛の大きさです。
今日、この一日を、神が私たちのための途方もない御業によって守ってくださっています。私の命はキリストの十字架によって守られている。それが、私たちのために神がしてくださっていることです。

2022年5月19日木曜日

2022年5月19日の聖句

神はいつくしみを忘れたのか。怒って、あわれみを閉ざされたのか。(詩編77:10)
罪が力強くなったところでは、恵みはよりいっそう力強くなりました。(ローマ5:20)

今日の旧約聖書の御言葉は、私たちが繰り返し、そしていろいろな仕方で繰り返しつぶやいている言葉なのではないでしょうか。「神はいつくしみを忘れたのか。怒って、あわれみを閉ざされたのか。」神さまは私のことなど気にかけてはおられない、神さまの愛なんて実感できはしない・・・。私が悪いからなのか?神さまに怒られているのか?神さまの憐れみの対象にはなっていないのか?
しかし、今日の新約聖書の御言葉はそんな私たちの世界を一変させます。「罪が力強くなったところでは、恵みはよりいっそう力強くなりました。」これは私たちにとっては、常識の外にある言葉です。私たちの知恵の及ばない言葉ではないでしょうか。罪が力強くなれば、普通は罰が強くなります。そうでないと正義が貫かれない、と私たちは思う。しかし、聖書はそうは言いません。罪が力強くなったところで、恵みが一層力強くなった、と言います。これは、イエス・キリストによって初めて開かれた世界です。
神さまは罪深い私たちをかえって憐れみ、愛してくださいました。神の怒り、罪の咎を、イエス・キリストに負わせられたのです。改革者マルティン・ルターは、その事態を結婚指輪のようだと言います。花嫁である私たちが持っていた一切の負債をキリストはご自分のものとして引き受けてくださった。代わりに、花婿キリストの持っておられたすべての豊かさを私たちのものとしてくださった。まるで結婚指輪を交換するように、キリストと私たちとの間に喜ばしい交換が起こったのだ、と。
自身をかえりみて、つぶやいてはいないでしょうか。神さまは私の事なんて気にしていないのだと思い込んではいないでしょうか。それは、思い込みです。私たちに主イエス・キリストを与えてくださった神さまは、キリストと共に私たちにすべてを下さいます。今日、この一日の私たちの歩みがキリストの御前にあり、主と共に生きる喜びにあずかるものでありますように。
祝福を祈っています。

2022年5月18日水曜日

2022年5月18日の聖句

世界の基礎は主のもので、主はその上に地を据えられた。(サムエル上2:8)
はじめにことばがあった。このことばは神のもとにあった。神はこのことばであった。(ヨハネ1:1)

神は御言葉によって世界の基礎を据えました。神が「光あれ」と言われれば光があり、「大空あれ」と言われれば大空がありました。「世界の基礎は主のもの」。その基礎は、神さまの御言葉そのものです。神の言葉の上に、この世界のあらゆるものは存在しているのです。
ですから、世界は神の語りかけを待っています。この世界は神の言葉を待っている。神が光と闇を分け、命を生み出し、私たちを創造してくださった御言葉に向かって、私たち世界は開かれています。
「はじめにことばがあった。このことばは神のもとにあった。神はこのことばであった。」言葉として御自らを私たちに示し、私たちに関わってくださった神さま。このお方は、私たちを選んでご自分の言葉を語りかけてくださる。私たちは今その言葉を聖書を通して、主イエス・キリストを証言する言葉として聞いています。
聖書は、書かれた言葉です。考えてみれば、書かれたものを正典としているというのも興味深いことです。口伝えの伝承とか、神秘的な宗教体験とか、そういうものをもって神の言葉を聞くのではなく、書かれた文書を読むことを通して神さまの御言葉を聞いています。もしかしたら、厳しい修行の果てに到達できる神秘的な語りかけというほうが、ありがたくて神の言葉っぽかったのかもしれません。しかし神さまは不思議とそういう方法は採用なさいませんでした。書かれた言葉を通して、私たちに語りかけておられる。
それは、一つには、私たちに改ざんできないという意味があるのではないかと思います。私たちの都合の好いように聖書を書き換えることはできない。そして、聖書が私たちに与えられているというのは、私たちが孤独ではないということです。私たちは聖書が語るイエス・キリストの福音によって生かされ、この福音によって今生きる人生に送り出され、この福音によって隣人との間に神がおられることを知らされます。私たちは孤独ではない。聖書を開いて御言葉に聞き、この私を、そしてこの世界をも造ってくださった御言葉を今日も聞いて、一日の歩みに送り出されていきます。主イエス・キリストご自身が、神の言葉です。私たちを独りぼっちのまま放っておかず、私たちに語りかけてくださる神の愛の言葉、それがイエス・キリストなのです。

2022年5月17日火曜日

2022年5月17日の聖句

主の助言は驚くべきもので、それをみごとに成し遂げる。(イザヤ28:29)
また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。(エフェソ2:17)

この二つの御言葉が組み合わされているというのはたいへん興味深いことだと思います。旧約聖書では「主の助言」と言われています。助言というのは面白い言葉です。辞書で意味を引くと、「役に立ちそうな言葉をかけること。また、その言葉。アドバイス」と語釈されていました。人からの助言を受け入れてそれまでのやり方や自分のあり方を変える人もいますが、聞くだけ聞いて無視する人、結局自分を変えようとはしない人もいます。「助言」は、受け取る人によって重んじられることもあれば、軽んじられてしまうこともあります。
続けて新約聖書の御言葉を見ると、ここでは「平和」という言葉が繰り返されている。平和の福音。キリストが来て、遠くにいる者にも近くにいる者にも平和の福音を告げてくださった。平和が福音、良い知らせであるのだとしたら、現状は平和ではないということではないでしょうか。今現にあるものは特に良い知らせにはなりません。平和ではないところに平和がもたらされる。争いが終り、憎しみがあるところに和解が打ち立てられる。平和は、争いや憎しみや無関心を終わらせる愛の力です。ですから、平和がもたらされるというのは、私たちが変わるということを意味します。憎しみや無関心を内に秘めたままで平和になるということはあり得ない。私たちと誰かとの間が平和になるということは、お互いの間にあったわだかまりが解決されるということです。
神さまが私たちにもたらしてくださる平和の福音は、私たちを新しくする神さまの大いなる助言です。それを聞いて自分が変わることを、私たちは喜んで受け入れるのでしょうか。それとも、平和になることを拒んで頑固に自分の意地に凝り固まるのでしょうか。主イエス・キリストは、神の子でありながら私たちのためにへりくだり、十字架にかかるまで従順を貫きました。私たちのためにご自分を変えてくださいました。私たちを新しい平和の人にするために、キリストがまずご自分を変えてくださった。このようにしてキリストは私たちのところに来てくださったのです。

2022年5月16日月曜日

2022年5月16日の聖句

ヨブの三人の友人が、ヨブにおとずれた不幸を聞き、やって来て、ヨブと一緒に、地べたに七日七晩座り続け何も語り合わなかった。彼らはヨブの痛みが非常に大きいのを見て取った。(ヨブ2:11,13)
互いの重荷を担い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ6:2)

ヨブが何の理由もなく不幸に見舞われた時、ヨブの三人の友人がやって来ました。最初、彼らは何も言うことができずにただ彼の側にいただけでした。七日七晩であった、と聖書に書いてあります。その間、彼らはヨブの苦しみの大きいのを見て取り、あまりのことに言葉が出て来なかったのでしょう。しかし、その後になって、ヨブの嘆きがあまりにも激しかったので我慢できず、友人たちも口を開きます。そして彼らが共感を示してくれなかったので、ヨブの苦しみは更に深くなっていくのでした。
もしかしたら、あの三人の友人にとっては、言葉を失ってヨブと共にたたずむということが最善の道だったのかも知れないと思います。何も言うことができず、何もすることができないというのは無力です。しかし、苦しんでいる人を前にして何かを言ってあげよう、何かをしてあげようというのは、もしかしたらどこか傲慢なのかも知れない。自分の考えややりたいことの押しつけになりがちです。苦しむ人が口を開くのを待ち、口にした言葉を受け止めるということが、まず最初にしなければならないことなのかも知れません。
「互いの重荷を担い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」この手紙を書いた使徒パウロは、互いの重荷を負いあうということがどんなに難しいことなのかをよく知っていたのだと思います。だからこそ、互いの重荷を負い合うことはキリストの律法を成就することだとまで言ったのではないでしょうか。それは私たちにはとても難しいこと。しかし、聖書はそれを不可能だとは言っていないと思います。キリストがしてくださったように、私も隣人を愛するものになる道がある、と言っているのではないでしょうか。
今日、私たちが、苦しみ、悲しむ隣人のための耳になることができますように。それを受け入れる手になることができますように。主イエス・キリストが共にいて、そのために私たちを励まし、支えてくださいますように。

2022年5月15日日曜日

2022年5月15日の聖句

主の名を呼ぶものは、救出される。(ヨエル3:5)
ペトロはイエスについて言う:この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。(使徒4:12)

聖書を通して私たちが知る神さまは、ご自分のお名前を教えてくださる方です。名前は、他のものと区別をするために使うものです。ですから、本来は相対的なものです。例えば、私は子どものことを名前で呼びます。しかし子どもたちは私のことを「宮井」だとか「岳彦」とは呼びません。父と呼びます。それは「父」といえば彼らにとっては私しかいないからです。私が子どもを名前で呼ぶのは、世界中にいるたくさんの子どもの誰でもなくあなたのことだよ、という意味です。しかし子どもにとって私は世界中の父親たちと比較されているのではなく、父と言えばこの人しかいない存在です。少なくとも、今のところは。
神さまと私たちとの関係は、その関係を比喩として考えることができと思います。神さまは神さまであって、特別な名前は必要ありません。他に神さまはいないのだから。別の神々と区別をする必要は、本当はないのです。ところが私たちの神さまはご自分の聖なるお名前を明らかにし、私たちに示してくださいました。私たちは新約聖書に従って、ただおひとりの神さまを「主イエス・キリストの父なる神様」とお呼びしています。神さまは私たちの前でご自分の名前を示し、私たちの相対的な世界の中に入ってきてくださいました。私たちがご自分を呼ぶことを喜んで受け入れてくださったのです。神さまを呼び求めることができる。それ自体が既に神さまの愛のしるしです。
今日の二つの御言葉は、どちらも神さまのお名前を呼ぶことの幸いを教えます。私たちは神さまをお呼びし、神さまに救って頂くことが許されています。神さまはそのことを喜んでくださいます。ですから、今日も神さまを呼び求めましょう。「主イエス・キリストを私たちに与えてくださった神さま!」と。どうか私を救ってください、どうか私を助けてください。ご自分に向かう私たちの祈りを、この方は決して聞き逃したり、無視したりすることはなさらないのです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。アーメン!

2022年5月14日土曜日

2022年5月14日の聖句

主の憐れみはいまだに終わりがなく、朝ごとに新しく、そしてあなたの誠実さは偉大です。(哀歌3:22~23)
ですから、私たちは疲れることがありません。たとえ私たちの外見は衰えていっても、内側は日々新しくされます。(2コリント4:16)

今日の旧約聖書の哀歌は、その名の通り哀しみの歌。戦争に敗れ、荒廃した祖国を思いつつ、神さまの御前に悲しみを注ぎ出す言葉です。今日は哀歌第3章ですが、その冒頭はこのように始まっています。

私は主の怒りの杖で苦しみを受けた者。
主は私を駆り立て
光ではなく闇の中を歩かせた。
そして、一日中幾度となく
  御手で私を責められた。

このように始まる言葉の中に、あの輝くような希望の言葉が出てきます。「主の憐れみはいまだに終わりがなく、朝ごとに新しく、そしてあなたの誠実さは偉大です。」これは、恐らく夜の歌なのではないでしょうか。必ず朝が来る。必ず希望の時が訪れる。そのことを神さまに期待しつつ待ち望んでいる。そういう言葉であるのだと思います。終わることのない主の憐れみ、必ず果たされる偉大な神の誠実さに賭けて、今この苦しみの時を忍耐している。必ず朝が来ることを信じているから、忍耐できるのです。
「ですから、私たちは疲れることがありません。」まさに、「ですから」です。神の憐れみの朝が来ることを信じているからこそ、疲れることなく、落胆せずに、希望を持って生きていくことができる。「たとえ私たちの外見は衰えていっても、内側は日々新しくされます。」ここでの「外見」は単に傍からの見た目という意味ではなくて、私たちのこの肉体のことであろうと思います。若く、美しく装うことはできるかも知れません。運動をして健康を保つこともできるでしょう。しかしどうしたってあらがえない肉体の衰えがある。そういう外から見えるものは必ず衰えるけれど、内側は日々新しくされる。この「内」というのも、単に精神力とか気力ということではないと思います。神の御前にある霊の話です。私たちはそもそも肉体も魂も霊も、滅びるべき存在です。しかし朽ち果てるべき私を、永遠なる神が覚え、御心に止めてくださった。私の霊を日々神が新しくしてくださる。主ご自身の憐れみによって。私たちの肉体はやがて滅びる。しかし、キリストは必ず私たちに復活の体を与え、手を取って起こしてくださるときがくる。主の憐れみによって。だから、私たちは今このときを忍耐して生きることができるのです。

2022年5月13日金曜日

2022年5月13日の聖句

主よ、私の神よ、私があなたに叫んだので、私を健康にしてくださいました。(詩編30:3)
イエスは病を治された人に語った:あなたの家、家族のもとへ戻りなさい。そして彼らに主がどのような大きな事をあなたになさったか、どんなにあなたを憐れまれたのかを知らせなさい。(マルコ5:19)

ある人が汚れた霊に取り憑かれて墓場で暮らしていました。しかし彼は主イエス・キリストと出会い、主が彼に取りついていた悪霊を追い出し、彼は癒やされて正気を取り戻しました。彼のもとから立ち去ろうとする主イエスに、彼はお供させてくださいと願います。すると、主イエスは言われるのです。「あなたの家、家族のもとへ戻りなさい。そして彼らに主がどのような大きな事をあなたになさったか、どんなにあなたを憐れまれたのかを知らせなさい。」
この人の気持ちを考えると、どんなに主イエスと一緒に旅をしたかったことだろうかと思います。もしも私が主イエスの立場だったら、「一緒にいらっしゃい」と言って自分の下に置いておいたのではないかなと思います。しかし、主はそうなさいませんでした。むしろ彼が家族のもとへ戻り、主が癒やしてくださったこと、主が憐れんでくださったことを知らせることをお命じになりました。出家せずに、家族や身の回りの人に主イエスの御業と憐れみを宣べ伝えよ、と言うのです。
海外の見知らぬ地に行って福音を宣べ伝える。それは本当に尊く、すばらしい働きです。私たちの国にも、そうやって宣教に来られたたくさんの人々がいました。私たちになじみのある宣教師で言えば、へール兄弟もそういう存在です。しかし、家族と共に生き、地域に根付きながら、周りの人に主がしてくださった良いことを証しし、主の憐れみを証言することも、それと同じように尊い使命です。主イエス・キリストは、今日、そういう伝道旅行に私たちを派遣しておられます。
私たちが今日出て行く場所は、主から遣わされた場所です。主イエス・キリストの使者として、私たちはそこで主の憐れみを証しします。主が必ず共にいてくださいます。今日、主イエス・キリストの祝福が豊かにありますように。

2022年5月12日木曜日

2022年5月12日の聖句

あなたは私に命と慈しみを授け、私を顧みて、わたしの霊を見守りました。(ヨブ10:12)
あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主がもたらした結末を知っています。主は憐れみに満ち、慈しみ深い方です。(ヤコブ5:11)

ヨブの忍耐。旧約聖書の中でもヨブはある特別な人物であると思います。ヨブは無垢な正しい人でした。ところが理由もなく次々と不幸なことが起こり、財産を、そして子どもたちを失い、最後は自分自身がひどい皮膚病にかかってしまいました。何一つ身に覚えのない苦難に、ヨブは呻き、また神さまに訴えます。その訴えはあまりにも激しく、真剣なものでした。それで、ヨブのところに来た友人たちや、あるいはしばしば現代の読者も、ヨブは傲慢であって彼の物言いは神に対する罪だと断じてしまう。しかし、ヨブ記の最後を読むと、神様ご自身がヨブの正しさを認め、また今日のヤコブの手紙でもヨブの忍耐を覚えていることを考えると、やはりヨブの叫びを神さまは受け入れておられたのだと思います。ヨブは想像を絶する苦しみの中で神に訴え、激しい言葉で神をなじるような言葉も口にしましたが、やはり神に向かい続けるその姿は「忍耐」であったのです。
私たちのイメージする忍耐は、どちらかというと「我慢」だと思います。つらいことがあっても、文句を言わずにじっと我慢する。しかしそれはヨブの姿とはずいぶん違います。神さまは、ご自身に食ってかかるような祈りを聞いてくださる憐れみ深い方です。むしろ、醒めた目で最初から諦めている聞き分けのいい人よりも、神さまにしがみつくような祈りを、神さまはお喜びになるのではないでしょうか。ヨブは神の慈しみを信じているからこそ、それと矛盾する現実を神さまに訴え、悪いのは神さまの方だと言わんばかりの大胆な祈りをしたのです。
「あなたは私に命と慈しみを授け、私を顧みて、わたしの霊を見守りました。」ヨブの言葉です。命を与えてくださり、慈しみを授けてくださった神さま。わたしの霊を見守ってくださった神さま。この神さまへの深い信頼が、激しく神さまに訴える祈りを生み出します。神の慈しみが神に食いかかる私たちの祈りを導くのです。

2022年5月11日水曜日

2022年5月11日の聖句

主は彼と共におられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。(サムエル上3:19)
イエスは言われる:あなたがたに耳を傾けるものは、私に耳を傾ける。(ルカ10:16)

今日の旧約聖書では「主は彼と共におられ」と言っています。この「彼」というのは、預言者サムエルのことです。少年であったサムエルに神さまが語りかけ、そして彼が成長していく日々においても主がサムエルと共にいてくださり、主なる神さまの御言葉を取り次ぐ預言者として働いていきます。そのとき、「主は彼と共におられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった」というのです。
また今日の新約聖書の御言葉は、主イエスが72人の弟子たちを伝道旅行に送り出す時の御言葉です。福音の言葉を彼らにたくし、主イエスはおっしゃいます。「あなたがたに耳を傾けるものは、私に耳を傾ける。」弟子たちが主イエス・キリストの福音を証言する時、それによって主ご自身が語ってくださっているのであり、彼らの言葉を聞くものは主ご自身の言葉を聞いているのだ、と言います。
主イエス・キリストは、私たちのことも、ご自分の福音の証人としてくださっています。私たちの言葉も、あるいは毎日の生活も、主イエスはご自分の福音の証しとして必ず用いてくださいます。主が共にいてくださるから、主を証しするための私たちの言葉や、非言語的な言葉も含めて、一つも地に落ちることはない。私はそう信じています。
私たちの目にはなかなか成果は見えないかも知れません。私たちのすることは種まきかも知れないし、水やりかも知れないし、収穫かも知れない。それはどこの部分なのか、どういう意味があるのか、どう役に立ち得ているのか、私たちには分かりませんが、神さまは必ず私たちの証しを用いてくださる。そのことを信じて、主の証し人として今日一日を生きていきましょう。
私が高校生の時に通っていた教会で伺った話なのですが、あるご婦人の方が教会の帰りにスーパーに買い物に行った。聖書を買い物かごに入れて店内を歩いていたらお友達に会った。その方はかごに入っている聖書に目を留めて、そこから話が弾んで、ご自身の信仰の証しをする機会を得たそうです。神さまは買い物かごに入った聖書も用いてくださるのね、とその話をしてくださった方はおっしゃっていました。
私たちの言葉も、買い物かごに入った聖書も、あらゆるものを神さまは福音の証言のために用いてくださいます。今日、祝福がありますように。

2022年5月10日火曜日

2022年5月10日の聖句

もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」といって教え合うことはない。小さな者から大きな者にいたるまで、彼らは皆、私を知るからであるーー主の仰せ。(エレミヤ31:34)
そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ6:28~29)

神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか。主イエスの周りに集まった人々がそう尋ねます。私たちも、よく分かります。私たちも神さまの御業を行いたいし、神さまの御心に適う生き方をしたい。そう願っています。どうしたらそうなれるのか?一体何をしたら良いのか。主イエスの周りにいる人たちも、同じ気持ちだったのではないかと思います。主イエスと出会い、主を愛し、主を信じて生きたいと願った時、私は一体どうやって生きたら良いのでしょうか?
主イエスはそれに答えておっしゃいました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」神がお遣わしになった者とは、主イエスさま御自身のことでしょう。神に遣わされて私たちのところに来てくださった主イエスを信じる。それが神さまの御業であり、主イエスを信じる時私たちは神さまの御心に従っている、ということではないでしょうか。主イエスさまを信じて生きるのは、本当に尊いことです。私たちはキリストを信じる幸いを与えられていて、キリストのものとして生きる喜びの中で、毎日を過ごしています。
今日の旧約聖書の御言葉はこのように言います。「もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」といって教え合うことはない。小さな者から大きな者にいたるまで、彼らは皆、私を知るからであるーー主の仰せ。」私はこの御言葉が大好きです。私たちは、もはや「主を知れ」と言い合う必要さえなくなる時を迎える、といいます。皆が主を知っているから。まだ、そのときは来ていないでしょう。神が遣わしてくださったキリストを知らない人はまだたくさんいます。しかし、必ず神さまはこの約束の言葉のとおりに、皆がキリストを知り、キリストに生かされる幸いを知って、共にこの喜びにあずかる時が来る。それは、主がそう仰せであるのだから、確実なことです。
私たちは今日、「御国を来たらせたまえ」と祈り、主イエスさまの御業が私たちの間で行われることを祈り求めつつ、歩んでいきましょう。

2022年5月9日月曜日

2022年5月9日の聖句

主は正しく、正義を愛される。(詩編11:7)
またあなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。(エフェソ4:23~24)

キリスト者になると新しい衣を身に纏います。それまでの服を脱いで、新しい服を着るのです。「神にかたどり造られた新しい人を着る」。聖書はそのように言います。神さまを信じる人は、新しい人、しかも神にかたどって造られた新しい人を身に纏って生きることになる。それまでの服ではなく、新しい服を着ます。
牧師になってしばらくして、父がスーツをプレゼントしてくれたことがありました。私はそれを日曜日の礼拝の時に着ました。新しい服を着て礼拝に向かっていく。礼拝に向かって身も心も整える、一つの作法なのだと思います。
私たちは日曜日以外の日も、神さまの御前に生きています。日曜日だけは神さまの前にいて、他の日は神さまから遠い娑婆で生きているというのではありません。いつでも、どこにいても、神さまは私たちと共にいてくださるし、私たちは神さまの御前に生きている。ですから、実際に身に着けている服がどうであれ、私たちはいつでも神にかたどって造られた新しい人を着て、神さまの御前にふさわしい霊の身なりで生きることが大切なのではないでしょうか。
かつて、私たちはこの世の常識とされていた作法に従って生きていました。自分のために、自分の欲望のために。ところが今や私たちは霊と心において新しくされ続けているのであって、真理に基づく義と聖をもって生き始めています。それにふさわしい霊の服を神さまが私たちのために準備してくださったのです。
「主は正しく、正義を愛される。」今日の旧約聖書の御言葉はそのように言います。主が愛される正義に従って生きていく。この正義は自分の正義感を満足させるための正義ではありません。キリストに示された神の真理によって打ち立てられる正義です。キリストが示してくださった神の愛に基づく正義です。神さまはそういう衣を私たちに着させてくださいました。今日、私たちは、今来ているこの服の上に新しい人を纏って、キリストのものとして神さまに遣わされているのです。

2022年5月8日日曜日

2022年5月8日の聖句

私は目の見えない人に知らない道を行かせ
知らない道を歩かせる。(イザヤ42:16)
神はあなたがたを闇の中から、神の驚くべき光へと呼び出してくださいました。(1ペトロ2:9a)

今日の旧約聖書の御言葉は16節の前半が指定されていますが、後半にはこのように書かれています。

私は彼らの前で暗闇を光に変え
起伏のある地を平らにする。
私はこれらのことを行い
彼らを見捨てることはない。

目の見えない人が知らない道を行くことができるように、神さま御自らが目の見えない人のための光を輝かせる、と言ってくださっています。私たちは、神さまの御前ではまるで目が見えていません。自分の姿も、周囲も見えない。この先を知ることもなく、今についての知恵も足りない。しかし、そんな私たちが知らない道を進むことができるように、神さまは闇を光に変えようと言ってくださいます。
使徒ペトロはそのことを「神はあなたがたを闇の中から、神の驚くべき光へと呼び出してくださいました」と言います。私たちは暗闇の中にいたけれど、神が驚くべき光の中に呼び出してくださった。今、私たちは神の光に照らされて、光の中に生きている。それが神を信じる者の確信です。
この暗闇や光というのは、私たちの罪の暗闇と私たちを救うキリストの光というイメージにぴったりです。私たちを覆う罪の闇は、単に私が個人的にいたらないところがあるというだけでは留まらなくて、私たち人間のつくる世界の罪の闇でもあります。深い闇の中に私たちは生きていて、そのために殺されたり、故郷を追われたりするひともいるし、それとは逆に安全な場所で知らぬ存ぜぬで済ます者もいます。そんな私たちを神さまの驚くべき光の中に呼び出すために、神さまはキリストを送ってくださいました。
私たちは、神さまの救いの光を求めて今日も祈ります。御国を来たらせたまえ!御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ!必ず、キリストという光が私たちを照らしてくださっていることを信じ、私たちはこの世界で今日も生きていきます。

2022年5月7日土曜日

2022年5月7日の聖句

ああ主よ、どうか救ってください。
ああ主よ、どうか栄えさせてください。(詩編118:25)
平和の神が、み心を行うため、すべての良いものをあなたがたに装備してくださるように。(ヘブライ13:20~21)

「すべての良いものをあなたがたに装備してくださるように」と、今日の新約聖書の御言葉は告げています。ぜひ実際に聖書を開いて読んでください。今日の新約聖書の御言葉は、ヘブライ人への手紙の最後に登場する祝福の言葉です。羊の大牧者の祝福などと呼ばれることもある御言葉です。私たちの礼拝では多くの場合、コリントの信徒への手紙二第13章13節の言葉をもって礼拝の最後の祝福の言葉として告げられています。それと並んで多く用いられる祝福の言葉が、この羊の大牧者の祝福です。
ここに、「すべての良いものをあなたがたに装備してくださるように」と言われている。「すべての良いもの」です。例えば、この羊の大牧者の祝福が礼拝で告げられて、家路の途中で交通事故に遭ってしまったら、どうなのでしょうか。その礼拝では祝福が足りなかったのでしょうか。「良いもの」とは到底考えられないことが私たちには起きます。それもすべて神さまの御心なのだと言えばその通りかも知れませんが、つらい目に遭っている人に他人がおいそれと言って良い言葉ではないと思います。例え正しくても、著しく思いやりを欠いた言葉になりかねません。
しかしそれでも、私たちには、神の祝福という現実を信じる信仰がやはり大切なのです。どのようなことがあろうとも、神は私を祝福してくださっている。この羊の大牧者の祝福は、冒頭で「私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が」といいます。主イエスは死者の中におられた。祝福に反する現実の中に主イエスは身を横たえてくださいました。その主イエスを引き上げられた平和の神の祝福が、私たちにも届けられています。陰府にまで降った方は、私たちが例えどこにいても祝福を届けることがおできになる。
「ああ主よ、どうか救ってください。」私たちも、同じように祈ります。主イエスさまに救いを求め、助けを求めて祈ります。そして、祈る者は知っています。主イエスは私のために死んでくださったのだ、と。私を祝福するために、この方が死者の中に沈み込んだのだと。そして、その方を引き上げられた平和の神が、私を祝福してくださっているのだ、と。この祝福の事実はどのような時にも揺らぐことがないのです。

2022年5月6日金曜日

2022年5月6日の聖句

神はすべての業を裁きの場に持ち込まれる、隠れていることもすべて、良いことであれ悪いことであれ。(コヘレト12:14)
私たちのそれぞれが自分自身のために神に釈明することになります。だから、もうお互いに裁き合うのは止めましょう。(ローマ14:12~13)

今日の御言葉は、旧約も新約もどちらも神の裁きについて語っています。「神はすべての業を裁きの座に持ち込まれる。」それは良きにつけ悪しきにつけ、明らかなことも隠されたことも、すべて。すべてのことについて、私たちは自分自身のために釈明しなければならない、と言います。
現代社会が忘れ去った恐れを取り戻させる御言葉です。自分の生き方や考え方、してきたことやしなかったことが神の前で裁かれる。そういう事実への恐れをなくしたから、私たちはこんなにも恥知らずな行いを続けてしまっているのではないでしょうか。あるいは、「現代社会」というよりも、私たち人間の営みはずっと昔からそうなのかも知れません。昔から「旅の恥はかき捨て」という言葉があります。世間の目が届かないところなら多少は羽目を外しても良い、ということです。世間や社会を超えた絶対的な目を意識していたら、そういう言葉は出て来ないと思います。
聖書がすごいところは、そういう神さまの裁きの目を考える時に「だから、もうお互いに裁き合うのは止めましょう」と言って、私たちの裁きの心に注目していることです。私たちが簡単に人を裁いてしまう現実に、私たちの罪の姿をじっと見据えている。この人間を見る目は鋭いと思います。私たちは簡単に人を裁きます。特にテレビの中に出て来る人やネットの向こうにいる人、つまり顔の見えない人や自分と縁遠い人のことは簡単に裁いてしまう。しかしそれだけではなく、家族であっても不満を持ち、同僚については陰口を言い、友だちのあらを何気なく探してしまうところにも、裁きの心は顔をのぞかせている。ファリサイ根性と言ってもいい。しぶとく、根強い私たちの心根ではないでしょうか。主イエスは、そういう私たちの心に裁かれて十字架に掛けられたのではないでしょうか。ですから、キリストが十字架にかけられた時、神の子が人間に裁かれたのと同時に、神の子を裁く私たちのファリサイ根性が神に裁かれたということに他ならないのだと思います。裁きの心の餌食になっている私たちを救うために、神さまは、ご自分が裁かれるという方法を選んでくださいました。私たちは、私たちに裁かれた救い主によってでなければ、救われない。そして、その方がおられるから、私たちは確かに神に救われたのです。

2022年5月5日木曜日

2022年5月5日の聖句

わたし、主は義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。(イザヤ42:6)
キリスト・イエス、私たちの主にあって、私たちには神への自由に近づく術がある。(エフェソ3:12)

今日の新約聖書で「自由に」と翻訳されている言葉ですが、聖書協会共同訳では「確信をもって」、新共同訳では「大胆に」と訳されています。原語は「パレーシア」という単語で、いろいろな翻訳が苦心して訳語を当てていることからもわかるように、少し日本語にしにくい言葉であるように思います。辞書を引くと、自由に話すこと、恐れなく自由な自信、明るい勇気、大胆さ、確信、人目を引く身なり、などの語釈が書かれています。聖書は、私たちが神さまに向かって、大胆で、勇気を持って、自由に、近づくことができる、と言います。主イエスさまのお陰で!聖なる神さま、この天と地とをお造りになった方に、私たちはキリストにあって近づく自由さを与えられているのだ、と言うのです。
私たちの側から見ると大胆に、自由に近づくことができるということになりますが、これを神さまの側からご覧になると、どういうことになるのか。そのことを今日の旧約聖書の御言葉は伝えています。「わたし、主は義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。」主なる神さまが私たちを呼び出し、私たちの手を握ってくださる。神さまが呼んでくださった。それが「キリスト・イエス、私たちの主にあって」ということです。
礼拝は「招きの言葉」から始まります。神さまが私たちを招いてくださって、神さまに呼び出されて、私たちは神さまの御前に進み出ます。今日、私たちを新しい一日に呼び出してくださったのも、神さまです。それは私たちが今日という一日を神さまに献げて、神さまに栄光をお返しして、神さまを礼拝するためです。神さまの呼び声に答えて一日の歩みに出て行く時、私たちは本当に自由になって、神さまの御前にある祝福の中を生きていく。その事実のなかで、今日私たちはそれぞれの場所に神さまに招かれて生きていくのです。

2022年5月4日水曜日

2022年5月4日の聖句

見よ、子どもたちは主の賜物。(詩編127:3)
イエスは一人の子どもを連れてきて、みんなの中に立たせて、抱き寄せて言われた。「だれでも、このような子を私の名によって受け入れるものは、わたしを受け入れることになる。そして私を受け入れるものは私ではなくて、私を送られた方を受け入れることになる。」(マルコ9:36~37)

主イエスさまは本当にお優しい方です。この子は何歳くらいなのでしょうか。そういうことを想像するだけでも、楽しいことです。一人の子どもをみんなの中に立たせて、抱き寄せてくださる。この子にとっては一生の宝です。この子の親にとっても、生涯忘れられない経験になったことでしょう。主イエスが抱き寄せてくださった。膝に乗せ、頭をなでてくださったのでしょうか。主イエスの慈しみを、私たちがこのようにして知ることができるというのは、本当にありがたいことです。
「見よ、子どもたちは主の賜物。」御言葉はそのように言います。現代社会には「子どもを作る」という言葉があります。聖書の考え方と相容れない表現だと思います。子ども、つまり命を人間は造ることができません。傲慢な言葉です。「子どもたちは主の賜物」と告白する聖書の知恵と謙遜に学ぶことがなければ、命を軽んじる現代社会の病気は治らないと思います。主イエスさまの子どもを見つめる慈しみは、神が与えてくださった命への慈しみに他ならない。私たち自身にしても、あるいは周りの子どもたちにしても、例えどのような経緯を経て生まれてきたのだとしても、そこに親のエゴや欲望や無思慮があったのだとしても、それでもやはり子どもは神の賜物だと私たちは信じます。神がお与えになった命です。キリストの教会は、神が与えてくださった宝として一人の子を子を慈しみ、愛します。キリストは、一人の子どもを私たちの真ん中に立たせ、ご自分の御腕で抱き寄せたのです。
主イエスは言われます。「だれでも、このような子を私の名によって受け入れるものは、わたしを受け入れることになる。そして私を受け入れるものは私ではなくて、私を送られた方を受け入れることになる。」主イエス・キリストにあって一人の子どもを受け入れる者が経験する幸い。それは神の途方もない愛に触れる幸いです。私たちのための主イエス・キリストの慈しみと恵みを、私たちは目の前の一人の子どもを通して味わうことができるのです。

2022年5月3日火曜日

2022年5月3日の聖句

歌え、主に新しい歌を、主の栄誉を
地の隅々で。(イザヤ42:10)
あなたがたは聞いた福音の希望に固執してください。それは世のいたるところで、空が続くかぎりどこまでも、告げられています。(コロサイ1:23)

本当にすばらしい御言葉が今日与えられています。今日の御言葉でわたしは特に「地の隅々で」「空が続くかぎりどこまでも」という言葉がとても好きです。主に新しい歌を献げ、主の栄誉を歌う。それを、私たちは空が続く限りどこまでも、地の隅々でもします。空の下、隅から隅にいたるまで、あらゆるところで。イザヤ書のこの御言葉が最初に語られた時、まさかそれから2500年以上経って、見たことも聞いたこともない遠い東の果ての国にも、主の栄誉をほめ歌う民が起こされることを、誰が想像したでしょうか。これを語る預言者や、この言葉を聞いた人々の思いをはるかに超えて、地の隅っこででも、私たちは新しい歌をうたって神を賛美しています。
「地の隅々」という言葉は、他のイメージも駆り立ています。「隅」は、中央ではありません。周縁です。真ん中にいられない人がいる場所です。真ん中は、この世的な価値観からして、あらゆる「良いもの」が集まる場所です。隅々に残るのは余り物であったり、いらないものです。あるいは、真ん中にいる人たちは、周縁から収奪したもので自分たちの豊かさを維持します。天然資源だったり、労働力だったり、食物だったり、いろいろなものを考えることができるでしょう。イザヤ書第42章が書かれた時代を考えると、神の民は隅々にいる賤民でした。しかし、聖書は言います。「歌え、主に新しい歌を、主の栄誉を、地の隅々で。」神さまは、私たちの口にも新しい歌を授けてくださいます。
「あなたがたは聞いた福音の希望に固執してください。それは世のいたるところで、空が続くかぎりどこまでも、告げられています。」この空の下、どこででも告げ知らされる福音の言葉、主イエス・キリストの福音の言葉は、どこででも、誰のことをも救う、神さまの力強い愛の言葉です。この福音の言葉に固執してください、とこの手紙を書いた使徒パウロは訴えます。私たちが例えどんなに賤しく、人から見捨てられるものであっとしても、神は私たちを救ってくださいます。この世界のどこにあっても、誰であっても、御心に留めてくださるキリストの福音だけに、今日、固執しましょう。

2022年5月2日月曜日

2022年5月2日の聖句

主よ、あなたの昔からのみ心は誠実で真実です。(イザヤ25:1)
愛から、神はわたしたちをご自分の息子・娘たちになるように定められました、イエス・キリストを通して。(エフェソ1:5)

アメリカ合衆国長老教会がつくった信仰問答、「はじめてのカテキズム」はこのように始まっています。

問 あなたは誰ですか。
答 わたしは神さまの子どもです。
問 神さまの子どもであるとはどういうことですか。
答 わたしが、わたしを愛してくださる神さまのものだということです。

一度読むと忘れることのできない、名文だと思います。わたしは神さまの子ども。しかも、わたしをいじめたり虐待したりするのではなく、わたしを愛してくださる神さまの子どもです。
「愛から、神はわたしたちをご自分の息子・娘たちになるように定められました、イエス・キリストを通して。」ここで、「愛から」と言っています。神さまが私たちをご自分の子ども、息子、娘と呼んでくださる動機は、愛だと言います。他の思いを持っておられるのではない。主イエス・キリストにある愛から、私たちをご自分の子どもとしてくださいました。
「主よ、あなたの昔からのみ心は誠実で真実です。」この神さまの御心は、誠実で真実です。私たちは神さまの愛を信頼し、神さまの慈しみに満ちた真実を信じて、安心して生きることができる。それが、神さまの私たちに向けていてくださる御心に他ならないのです。今日も、この神の誠実が私たちを生かしてくださいます。

2022年5月1日日曜日

2022年5月1日の聖句

天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55:9)
私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。(1コリント13:9~10)

今日の旧約聖書の御言葉は、歴史の激変期を背景としています。ユダヤの人々は神さまを蔑ろにし続け、結局国は滅び、人々はバビロンに捕囚されてしまいました。現在のイラクの方、かなり遠い場所です。それから既に数十年の時間が経過しました。世界史的な出来事ですが、新しくペルシアが台頭し、バビロンを滅ぼしました。ペルシアの王はユダヤを含むバビロンの属国について、解放政策をとりました。これによって、思わぬことにユダヤの人々は遠い故国に帰ることができたのです。イザヤ書第55章の背景になっているのは、そういう激変の時代です。
「天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」ここで言う「あなたたちの道」とか「あなたたちの思い」というのは、言葉を換えれば「諦め」のことだと思います。預言者を通して神さまの御言葉を聞いていたユダヤの人々は、遠いバビロンの国で、自分たちはもうだめだと思っていたはずです。ペルシアがバビロンを滅ぼし、新しい出来事が起こっているらしい。しかしそのようなことは何年も時間が経って歴史として知っている私たちから見れば明らかであっても、当時の一般市民にとってはあずかり知らぬことです。もう自分たちは駄目だ、このまま先祖に神が与えてくださった地に帰ることもできず、ここで滅んでいくしかないのだ。そう思っていたとしても、何も不思議はありません。しかし神さまは、私たちが諦めるしかない時、人間としての力及ばず、万策尽きた時にも、なおおっしゃるのです。「天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」私たちの思いを超えた神さまの救いの御業を準備していてくださる。わたしが始める新しい出来事に期待してほしい、と神さまは言われます。
私たちは、今、途方に暮れるような状況に囲まれているのかも知れません。しかし、神を信じる者は神に期待します。わたしの思いを超えて働く神、わたしの諦めの向こうでも御業をなす神に、私たちは期待します。神を待ち望みます。神さまは、私たちの前に新しい世界を切り拓いてくださるのです。

2024年11月11日の聖句

イスラエルの子らは帰って来て、彼らの神である主と彼らの王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。(ホセア3:5) 誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。(マタイ7:8) 私たちは求めることが許されています。「誰でも、求める者は受け、探す...