2017年9月28日木曜日

詩編第88編「絶望」


何と深い絶望の詩編であろうか。死を間近に見つめつつ、祈り続ける。絶望のどん底で神を求める。しかし、主はわたしの魂を突き放し、み顔を隠しておられる。そうとしか言いようがない。最終的に口からでた言葉。それは、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」である。最後まで救いがない。まるで、主の絶望を映すかのような詩編だ。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と。キリストは絶望した者の側らにおられる。

2017年9月24日日曜日

フィリピの信徒への手紙3:2〜11「キリストの中に見いだされるために」


昨日、日本中会の伝道フォーラムが開催されました。これからのカンバーランド長老教会の各個教会の宣教のために、お互いを知り、共に祈り、共に同じ福音の御言葉に生かされていることを味わう集会でした。教会には具体的な顔があります。具体的な人間がそこにます。教会堂が建てられている地域社会の特性があり、教会の固有の歴史があります。お互いのために祈るというのは、それぞれ固有の課題のために祈るということです。詩編第56編にこのような言葉があります。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」神だけが持っていてくださる革袋に、私たちが人知れずに流した涙さえも蓄えられています。神が涙を覚えていてくださるのです。フィリピ2:10には、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」と書かれています。「その苦しみにあずかって」という言葉は、直訳すると「彼の苦しみの交わり」と書かれています。キリストの苦しみの交わりです。私たちが苦しむとき、私たちはそこでキリストの苦しみの交わりにあずかります。キリストと苦しみを共有する、いや、キリストが私たちの苦しみを共有してくださいます。教会はキリストの苦しみの交わりです。キリストにあって苦しみを共にするのです。ここにいる具体的な一人の人と、その苦しみを共にするところにキリストの苦しみを共にする交わりが生まれている。その苦しみの交わりである教会の中で、私たちは、自分が一体何者であるのかを発見するのです。私たちは、誰もが、一生懸命に生きています。プライドがあります。それが傷つかないように自分を守ります。パウロは誇り高い人物でした。自分のことをヘブライ人の中のヘブライ人と呼んではばかることがない。実際、そういう人生を生きてきた。それに熱心に信仰に生きてきました。自分はこれで良いと自信を持てた。しかし、自信はしばしば人を傷つけます。苦しみの交わりを疎外します。かつてパウロは信仰の熱心さにおいては教会の迫害者でした。非の打ち所のない行いに生きてきた。でも、私たちを救うのは、そういう自分の正しさや立派さや自分の信念を貫ける強さではないのです。「私たちには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」キリストへの信仰による義というのは、直訳すると、キリストの信仰によって、ということです。私たちがキリストを信じている信仰であるかもしれませんが、キリスト御自身が信じている信仰という意味でもあります。キリストの信仰によって私たちは救われるのです。だから、私たちには自分の立派さや強さは必要ないのです。いや、それどころかパウロはそれらを塵芥だと言い切りました。あってもなくても良いのではなくて、いらないゴミだというのです。キリストの内にいる者と認められるために。私たちは、神から、キリストの中で自分を発見して頂いたのです。私たちはキリストに包まれて、キリストの中に生きている。私たちは自分がどういう生き方をしてこられたかということで突っ張ったりいじけたりするのではなく、キリストの中に包まれていることで自分を確かめることができます。キリストの十字架が私たちを覆ってくださいます。だから、私たちは苦しみの交わりとして、隣人の痛みを共に負うことができるのです。苦しみの交わりこそ、私たちの喜びです。

2017年9月21日木曜日

詩編第87編「信仰者でなければ見えないもの」


この詩編を一読した印象を多くの方に伺いたい。人によって印象が異なると想像するからだ。傲慢な響きを感じる人もいるのではないだろうか。地上を支配し君臨する王のような印象を受けなくもない。しかし、恐らくこの詩編の背景は捕囚後の悲惨な時代である。「主は諸国の民を数え、書き記される。この都で生まれた者、と」というのは目の前の現実に逆らう。信仰の目を開いて見える幻だ。私たちも信仰がなければ見えない幻を描こう。

2017年9月17日日曜日

フィリピの信徒への手紙3:12〜21「我らの本国は天にあり」

8月の終わりに日本中会の仕事で東日本大震災の被災地に伺いました。今回は石巻市を中心に動きましたが、最終日に、さがみ野教会の元会員のHさんがおられる多賀城市へ行くことができました。ご自宅がきれいに改装され、最近のご様子を伺うことができました。リビングに、今日のこの召天者記念礼拝でもお名前を挙げて覚えるご主人のMさんの遺影が飾ってありました。私は何気なく、ああMさんのお顔だと眺めていましたが、Hさんからその写真の物語を聞いて自分がなんとうっかりしていたことかと恥じました。Hさんのお宅はあの日、私の背よりも高い津波が押し寄せ、家の中をめちゃくちゃにしていったのです。ほとんどのものが失われました。家族の思い出や写真も・・・。数日後、家の片付けに来た息子さんが泥の中からお父様の遺影を見つけ出したのだそうです。写真は大切です。お墓も、大切です。その存在は私たちに生きることを問いかけます。愛する人の生や死は遺された私たちの生き方を問います。この一年で、二件の葬儀がありました。2月にはNさんの葬儀がありました。ボーイスカウトの指導を長くされた方です。私も小学生の頃から入っていたので、その意味でも親しい思いを抱いていました。ご家族からお話を伺い、Nさんのスカウト活動には、亡くなった息子さんの存在が欠かせないのだと私は思いました。こういう文章を残しておられます。「人は誰かに奉仕するために生まれてきたものである。人から奪うためでなく、与えるために生まれたものである。どうしたら人に奉仕できるか、どうしたら、人に喜びを与えることができるかを、常に考えよう。人を喜ばせることのできる人こそ、ほんとうの喜びを知っている人ということができよう。」人間として経験する中でももっとも悲しい出来事を経験された方です。その方が、人に喜びを与えることを考えようとおっしゃったのは、重い言葉だと思います。Nさんの存在も、息子さんの存在も、私たちに何かを語りかけてはいないでしょうか。また、今月Iさんの葬儀も行われたばかりです。Iさんの91年間の人生をご家族に伺い、生まれてから亡くなるまで、ずっと神様に担われてきた方だったのだと感じ入りました。1943年に横浜英和女学校を卒業されています。ご家族にも英和女学校を出たとおっしゃっていました。しかし、実は1939年に学校の名前は成美と改められていたそうです。英和の「英」が敵国名だったから。しかし、戦後ずいぶん経ってから卒業生たちの強い要望もあって「英和」と名前を戻しました。Iさんも英和という名を愛していたにちがいない。Iさんはそこではっきりとした信仰教育を受けておられました。なかなか受洗には至りませんでしたが、ついに2004年にさがみ野教会で受洗。神に自分をお委ねしたいとおっしゃっています。今日の御言葉の18節には、パウロの情熱と愛がほとばしる言葉が記されています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」キリストの十字架に敵対するというのは、自分で自分を救おうとする生き方のことです。そうしたら、傲慢になるか卑屈になるかしかない。いずれにしてもキリストの十字架などいらないということになる。しかし、十字架のキリストが私たちを救ってくださいます。だから、私たちは神のもの、天国人です。天の国の国民として、今、この日本での生き方を定めていくのです。   

2017年9月14日木曜日

詩編第86編「一筋の心を与えてください」


「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」キリストのこの言葉を思い起こさせる詩編だ。私は貧しいと訴える詩編作者は一心に主に依り頼む。他に頼るべきものがないのだ。哲学者の今道友信はこの主イエスの言葉を、差別語に注意しつつ、霊における乞食と理解する。神が下さるものを何でも有り難がる者の幸いだと言う。詩編は一筋の心で主を求めている。主の憐れみをこそ有り難がる幸いに私たちも招かれている。

2017年9月10日日曜日

ルカによる福音書第10章25から37節「あなたの友だちは誰ですか?」

憐れみ深いサマリア人の譬え。人類の宝とも言えるこの物語は、主イエスがなさった譬え話、フィクションである。フィクションは実にしばしばノンフィクションよりも深い真実を描き出す。この物語も例外ではない。いや、主イエスのなさった譬えであればこそ、それはなおさらのことと言うべきであろう。ある人がエルサレムからエリコへの道で追いはぎに襲われた。半殺しの目に遭い、道に捨てられた。しかし、そこを通りがかった祭司もレビ人も、見て見ぬ振りをして道の反対側を通り過ぎてしまった。実に薄情。そう思ってしまう。しかし、むしろ常識的な振る舞いである。以前、ブラジルからお客さんがいらした。彼もブラジルで強盗に遭ったという。しかし、誰も助けてくれなかった。助けたら自分が危ないからだ。強盗に遭わないように気をつけるのは自己責任なのである。もしかしたら行き倒れの振りをした強盗かもしれないし、あるいは彼を餌にして近くに潜んで次の獲物を狙っているかもしれない。あるいは、もしも彼が本当に死んでいたとしたら、祭司やレビ人は死体に触ると大切な神殿での仕事がしばらくできなくなってしまう。だから、彼らの振る舞いはごく常識的なのだ。そう、私たちは実にしばしば「常識」を言い訳にして愛をおろそかにする。私たちは忙しくて、大切な仕事をいくつも抱えている。台所には皿が積み上がっているかもしれないし、部屋の中は散らかっているかもしれない。子どもの要求に応えていてはそれは片付かないままだ。洗濯物を畳んで夕食を作らねば、家族の介護も進まない。社会的な責任を果たさないと、家族に飯を食わせることもできないのだ。ボンヘッファーは指摘する。「自分が今日行うつもりの重要な事柄に没頭して、しかも場合によっては聖書に読みふけりつつ、助けを必要とする人たちの側らを通り過ぎて行ってしまうのである。しかもその結果、われわれは、人間の道ではなく神の道こそが重要であると示そうとしてわれわれの生活の中によく見えるように立てられた十字架のしるしを見逃して、その側らを通り過ぎて行ってしまうのである。」心に突き刺さる。主は三番目の通行人を登場させる。サマリア人だ。ユダヤ人とサマリア人とは激しくいがみ合っていた。しかし、彼は倒れている人を見つけたら憐れに思い、近寄って介抱してやった。この時、サマリア人はきっと何も難しいことを考えていなかったのだろう。自分が襲われるかもしれないだとか、この人の自己責任だとか、この後の自分の予定に差し障るだとか、この人は大嫌いなユダヤ人だとか。常識外れの行いだ。底抜けのお人好しだ。自分が危ないのだ。自分の大切な予定に差し障るのだ。自分の感情に逆らうのだ。そんなことはバカがすることだ。しかし、このサマリア人はそうした。そして、この宝のような物語を聞かせてくださったキリストもまた、私たちのためにそうしてくださった。私たちには考えられないほどのかきむしられるような憐れみの心に突き動かされて、私たちのために神の子である方がすべてを捨ててくださったのだ。そうやって、私たちの隣人、友になってくださった。主イエスは誰の友にもなってくださる。その方が言われる。「行って、あなたも同じようにしなさい。」私たちにも、そうできる。キリストがしてくださったことを私たちも知っているからだ。   

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...