2015年5月31日日曜日
コリントの信徒への手紙一12:12〜31a「他よりも弱く見える者こそ、かえって必要!」
どのような一週間を過ごしてこられたでしょうか。気持ちが萎えたり、疲れたりしたこともあったかもしれません。眠りたくても眠れない夜を過ごした人もいるかもしれません。主イエスさまがわたしの側にいてくだされば良いのにと思った人、いるでしょうか。もう、大丈夫です。主イエス・キリストが、今、あなたに出会ってくださっています。この教会で、この礼拝で。わたしたちはこの教会でキリストと出会うのです。子どもたちと一緒にしている暗唱聖句、今月は「誰も聖霊によらなければ『イエスは主である』とは言えないのです」という御言葉でした。「イエスは主である」と私たちが信じ、告白すること自体が既に神様の御業です。共にこの聖霊なる神様の御業にあずかる者の群れで、キリストが私たちと出会ってくださるのです。いや、それどころではありません。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」私たちさがみ野教会はキリストの体です。キリストのお体そのものなのです。「わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」例え私たちがそれぞれどんなに違っても、生活や悩みや課題が違っても、私たちは一つの体、キリストの体なのです。私たちが洗礼を受けたからです。キリストの杯である聖餐に与っているからです。福音を告げる御言葉に聞いているからです。ここにはキリストが満ちておられます。エフェソ4:13をご覧ください。使徒パウロは、キリストを信じる者はキリストの体の部分(肢体)だと言います。目が手に向かって「お前はいらない」とは言えないし、頭が足に向かって「お前はいらない」とは言えない。それどころか、体の中で他よりも格好の悪いと思われる部分がかえって必要なのです。私たちが普段晒されている声はそれとは逆のことを言います。自分とは異なる者を排除しようとします。弱い者や病んでいる者は必要ないと言います。そんなことを言われれば誰でも傷つきますし、言っている方も自分では知らないうちに魂が損なわれているのではないかと思います。しかし、キリストを信じる「わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り」(エフェ4:14)ます。キリストに結び合わされてキリストの体になったからです。何よりも尊い愛の言葉は「イエスは主である」と共に告白し、福音を喜ぶ言葉。キリストにあって、我らは一つなのです。
2015年5月24日日曜日
使徒言行録第2章1から13節「あなたの神を呼び求めよ」
今、神の御前に集まり礼拝を献げている私たちに、神はご自分の霊、聖霊を分け与えてくださいます。私たちは聖霊のお働きに与っているのです。「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えない」と聖書に書かれていますが、イエスを主と信じ、救い主と信じて神を礼拝する者に、また、自分の人生の意味や人間関係の痛み、死を迎える準備をしようと、或いは特別な理由がなく誰かに誘われたからということだけで今日ここに来ようとすることにおいても、既にそこには聖霊の働きがあったのです。弟子たちの群れに降った聖霊は「炎のような舌」であったと書かれています。この舌という単語は、4節の「ほかの国々の言葉」の言葉と同じ単語です。また11節の「わたしたちの言葉」の言葉も同様です。つまり、教会に降った聖霊の力は<言葉を与える>という仕方で働いたと言えます。14節からすぐにこの時の使徒ペトロの少し長い説教が始まります。聖書を引用して言います、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」、と。今は終わりの時だと言うのです。終わりの時とは、私たちの息子や娘から言葉が失われる時です。若者が幻を見ることを止め、老人がもはや夢を見られない時です。言葉を喪失し、将来を描くことができない時代、それは今私たちが知っているこの時代の姿そのものではないでしょうか。先日、「声なき者の友の輪」の神田英輔先生のお話を聞きました。神田先生は日本社会の特徴を、丸山真男の言葉を引用して「たこつぼ社会」と表現されました。入ると居心地が良いが横のつながりがなく、内には優しいが外は排除する。その特徴は「長いものには巻かれろ」とか「出る杭は打たれる」などの諺に表される、同調を強いる空気にあると言われます。最近、社会学者の内田樹さんの本を読みましたが、現代日本は自滅衝動に駆られていないかと指摘しています。知らず知らずのうちに自ら好んで自滅の道に突き進んでいないか、と言います。恐ろしい指摘です。かつて預言者エレミヤは「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」と言いました。彼の時代から今日に至るまで、社会は病んでいます。しかし、エレミヤは更に続けて言います。「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。」聖霊を頂いた教会は言葉を与えられました。私たちをいやし、救ってくださる神の業を語る言葉、福音の言葉です。この言葉を私たちの同胞が必要としています。福音を語るために、私たちにも聖霊が与えられているのです。
2015年5月20日水曜日
詩編第119編57から64節
(逐語訳)
57 私の分 主よ 私は言った 守るために あなたの言葉を
58 私は嘆願した あなたの顔に 全ての心において
私に好意を見せてください あなたの仰せのように
59 私はよく考えた 私の道について
そして私は戻した 私の両足を あなたの定めに
60 私は急いだ そしてない 私は遅れた
守るために あなたの戒めを
61 縄が 悪い者たちの 私を囲んだ
あなたの律法を ない 私は忘れた
62 夜の真夜中に 私は起きる
感謝するために あなたに あなたの正しさの裁きについて
63 友 わたしは 全てにおいて あなたを畏れるところの
そして守る者たちに あなたの命令を
64 あなたの慈しみで 主よ 満ちた 地は
あなたの掟を わたしに教えてください
この詩編の構成
57、58節、63、64節がこの連の枠を形成し、59から62節が間に挟まれている。そのしるしは、前後の枠に共に「主よ」、「守る」という共通した単語があり、また、双方に命令形の動詞が配置されている。なお、「守る」は60節にもあり、「守る」が含まれた三つの段落から構成されていると言える。
何が変化をもたらしたのか(57から58節と63から64節)
詩編作者は主の言葉を守ることが自分の取り分だと主張する。しかし、決してたやすい環境にいたのではない。58節の「嘆願した」は元々「病む」という意味の強意形であり、病みいるほどの強い願いを表す。主の好意を必要とする作者の置かれた状況の厳しさを思わせる。
対して最後では様子が異なる。自分は主を畏れる全ての人、主の命令を守る人々の友である。また、主の慈しみは地に満ちている。当初の悲壮感は感じられない。「地」は神の救いの約束を思わせる語である。この地に立つ作者は主の掟を教えてくださいと祈る。この地で道を進むための指針を求めているのだ。
なぜ、これほどの変化を見せたのか。その理由がこの段落の主題である。
真夜中の感謝(59から62節)
この部分は一節ずつa→b→a’→b’となっている。まず、59と61節だが、作者は「私の道」をよく考えた。なぜなら、この道は今悪い者に囲まれ、束縛を受け、主の道から足を踏み外し、律法を忘れかねない危機にあるからだ。だから、冒頭で作者は懇願した。主の好意が必要なのだ。この危機にあって、作者は主の定めに自分の足を戻し、律法を忘れませんと決心する。続けて60と62節。もはや悪い者らの縄目に囚われている必要はない。急ぎ、遅れることなく主の戒めを守る。そして、夜の真夜中に起きる。主の正しさの裁きに感謝するために。真夜中は主の道を見失うような闇の深さを思わせるが、もはや作者はその闇の中にあっても主の戒めを守り、主の裁きに感謝を献げるのだ。この「感謝する」という動詞は元来「知る」という意味で、感謝や告白という意味を持つ。主の力を知れば感謝だし、自分の罪深さを知れば罪の告白となる。深く神を知り、心の底からの感謝を献げるのだ。
祈りのために
なぜ、詩編作者は主に立ち返ったのか。よく考え、実は主の恵みを知っていたことを思い起こしたのだろう。真夜中の主イエスの裁判でペトロ主を裏切ったが、やがて自分の罪を知り、主の慈しみを知った。「私の羊を飼いなさい」が新しい掟だ。
資料はこちらから
2015年5月10日日曜日
ルカによる福音書10:38-42「必要なことはただ一つだけ」
一読するだけで、何が起こったのかよく分かる話です。できればお一人おひとりに伺ってみたいです、この話を聞いてどう思われたのかを。それほど、読み手にあるインパクトを残す話です。恐らく、マルタに同情的な気持ちになる人が多いのではないかと思うのです。せっかく忙しく働いてもてなしたというのに、マリアは手伝ってくれない、そればかりか、主イエスまでマリアの肩を持つようなことをおっしゃる!何ということでしょうか。マルタを応援したくなる気持ちになるという人は、案外多いのではないかと思います。主イエスは常識外れのことをなさっている。そうは思われないでしょうか。当時の社会の背景を考えると、ますますそう思います。当時、聖書の教師の話を聞くのは男性だけでした。女性はマルタのように料理を作ったり家を整えたりと、もてなしをするだけです。神殿での礼拝も、やはり男性が主でした。その意味でも、マルタの行動は当時の常識にも則っています。マリアは当時の社会からすると非常識な振る舞いをしていました。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」マルタはもてなしのためにせわしなく働いていました。この「せわしなく働いた」という言葉は、原語では「中心から引き出される」というニュアンスがあります。マルタは本当はいるべきだった中心から引っ張り出されてしまった、心が空っぽになってしまった。「忙しい」という日本語の漢字はとてもよくできていますが、まさに心がなくなってしまったのです。これは私たちも身に覚えがあることで、忙しく働いている内に本来外せない中心から外れてしまうのです。マルタはどこにいるべきだったのか。イエスの足もとです。確かに、当時の常識ではそこは女性がいる場所ではなかったのかもしれない、男たちのためにごちそうを作ることが彼女に期待されていた社会的役割だったのかもしれない。しかし、主イエスはそのようにはお考えにならないのです。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」マルタにもこの席に座って、私の話を聞いてほしいと主イエスは願っておられるのです。招いておられるのです。あなたは思い悩んでいると主イエスは指摘なさいました。「思い悩む」というこの言葉は、例えばコリントの信徒への手紙一7:32-33にも登場します。既婚者は配偶者を喜ばせようと、神とこの世との間で思い悩んでいるという話が登場しています。2日前に我が家に第二子が誕生しました。喜びのはずの子育てが時として思い悩みの種にもなります。忙しくて、本来いるべき中心から外れてしまうからです。主イエスが語ってくださる御言葉が必要なのです、誰にとっても!主はマルタを招いておられます。主の足もとへと。
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