今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二13、エステル記9:16~10:3
エステル記9:16~10:3;
エステルの出来事を記念して、プリムの祭が生まれました。ハマンの悪巧みが打ち砕かれ、その企みがハマンとハマンの家の上に降りかかり、ユダヤ人が生き延びたことを祝う祭です。
プリムは「プル」という言葉の複数形です。。プルは籤のことで、ハマンはプルを投げてユダヤ人殲滅の日時を決めていました。3:7に書かれています。ハマンがプルによって決めた日がアダルの月で、その13日に計画が実行されることになっていました。しかしこれまで見てきたとおり、大逆転が起こり、その日はユダヤ人の解放と救済の日になったのです。これを記念して、「アダルの月の十四日と十五日を毎年祝うことに定めた。すなわちユダヤ人が敵からの休息を得た日として、悲しみが喜びに、嘆きが祝いの日に変わった月として、これらを祝宴と喜びの日とし、互いに食べ物を送り合い、貧しい人々に施しをすることとした(9:21~22)」。アダルの月は、春の初めです。今でもプリムの祭は祝われています。プリムはユダヤの祭の中でも最も賑やかで開放的で、大人も子どもも一緒に仮装をし、オズネ・ハマン(ハマンの耳)と呼ばれるお菓子を食べるそうです。会堂ではエステル記が朗読され、朗読中に「ハマン」という名前が出てくると、人々は足を踏みならし、騒音を立てます。祭りの期間中は、あちこちで冗談を言い、お酒を飲むなど少々羽目を外した行為も許されているようです。
祭は、日常の外に人々を連れ出します。そして、日常を越えた視点で自分たちが何者だったのかに気づかせます。現代の社会には祭がすっかり失われてしまいました。せいぜい、縁日くらいでしかありません。その意味でも、礼拝の祭としての性格はとても大切です。私たちは週の初めに神の前で祭をし、日常の営みの外に出ます。外にしかない視点でアイデンティティと新たにし、日常の営みに戻っていきます。そうやって、自分が何者なのかを確認しながら生きていくのです。
2019年8月31日土曜日
2019年8月30日金曜日
2019年8月30日(エステル記8:1~9:15)
今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二12、エステル記8:1~9:15
エステル記8:1~9:15;
運命の大逆転とでもいうべき出来事が、さらに決定的になりました。民族全体に、その逆転劇が広まります。エステルの勇敢な申し出により、ユダヤ人に決定づけられていた殲滅作戦は覆されました。ハマンは王の権威を着てその作戦を立てましたが、エステルとモルデカイは王の権威を与えられてこれを中止に追い込んだのです。
さらに、このような触れを出しました。「その中で王は、すべての町にいるユダヤ人に、集まって自分たちの命を守り抜き、迫害しようとする民族や州の軍隊を、子どもや女に至るまでことごとく根絶やしにし、殺し、滅ぼし、その財産を奪い取ることを許した(8:11)」。そして、この新しい定めは実行に移され、やはりここでもハマンの身に起こったように、悪巧みをした者の上にその企みが帰って行った。逆転したのです。
エステル記後半、特にこの場面については、現代の価値観からすると戸惑いを覚えることも確かであると思います。ここで起きたことは、民族的な報復であるからです。ただ、あまりエステル記を現代の価値観で裁いてしまうよりも、この書そのものが何を言わんとしているのかを聞き取ることの方が、事柄にふさわしいのではないかと思います。
エステル記は見えない神の見えない支配を信じ、「このような時のため」というその機(カイロス)に懸ける一人の信仰者の冒険を語ります。そして、それによって起こる鮮やかな逆転劇。それは、目に見えない神が、ペルシアという超大国の歴史をも、目に見えない仕方で支配しておられることの証左です。私たちの生きるこの世界は、混乱に混乱が重なり、あまりの悲惨に陥っています。しかし、それでも神の支配を私たちは信じます。私たちの生きるこの時代、もうすでにこのような報復は許されないのかもしれません。しかし、私たちは、抑圧され、虐げられ、小さくされたものと運命を共にしておられるお方こそがこの世界の歴史を支配していることを信じ、そのお方に懸ける。そのような信仰に生きたいと願います。
エステル記8:1~9:15;
運命の大逆転とでもいうべき出来事が、さらに決定的になりました。民族全体に、その逆転劇が広まります。エステルの勇敢な申し出により、ユダヤ人に決定づけられていた殲滅作戦は覆されました。ハマンは王の権威を着てその作戦を立てましたが、エステルとモルデカイは王の権威を与えられてこれを中止に追い込んだのです。
さらに、このような触れを出しました。「その中で王は、すべての町にいるユダヤ人に、集まって自分たちの命を守り抜き、迫害しようとする民族や州の軍隊を、子どもや女に至るまでことごとく根絶やしにし、殺し、滅ぼし、その財産を奪い取ることを許した(8:11)」。そして、この新しい定めは実行に移され、やはりここでもハマンの身に起こったように、悪巧みをした者の上にその企みが帰って行った。逆転したのです。
エステル記後半、特にこの場面については、現代の価値観からすると戸惑いを覚えることも確かであると思います。ここで起きたことは、民族的な報復であるからです。ただ、あまりエステル記を現代の価値観で裁いてしまうよりも、この書そのものが何を言わんとしているのかを聞き取ることの方が、事柄にふさわしいのではないかと思います。
エステル記は見えない神の見えない支配を信じ、「このような時のため」というその機(カイロス)に懸ける一人の信仰者の冒険を語ります。そして、それによって起こる鮮やかな逆転劇。それは、目に見えない神が、ペルシアという超大国の歴史をも、目に見えない仕方で支配しておられることの証左です。私たちの生きるこの世界は、混乱に混乱が重なり、あまりの悲惨に陥っています。しかし、それでも神の支配を私たちは信じます。私たちの生きるこの時代、もうすでにこのような報復は許されないのかもしれません。しかし、私たちは、抑圧され、虐げられ、小さくされたものと運命を共にしておられるお方こそがこの世界の歴史を支配していることを信じ、そのお方に懸ける。そのような信仰に生きたいと願います。
2019年8月29日木曜日
2019年8月29日(エステル記6〜7)
今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二11、エステル記6~7
エステル記6~7;
鮮やかな逆転劇が起こります。ハマンは相変わらず自分にひれ伏そうとしないモルデカイに腹を立て、モルデカイを吊すために50アンマもの高さの杭を打ち立てました。2メートル以上もあります。
ところが、ハマンの企みとは違う所で、新しい出来事が始まっていきます。ある眠られぬ夜、王は宮廷の日誌を持ってこさせ、その朗読を聞いていました。そこにはかつてモルデカイが立てた功績が記録されていた。王の宦官の悪巧みをモルデカイが防いだという出来事があったことをクセルクセス王は知り、しかもモルデカイが褒美を得ていないことを知って、彼に栄誉を与えることにしました。どうしたらいいのか。王はハマンに質問し、ハマンの提案どおりにモルデカイにしてやるようにと命じます。ハマンはてっきり褒美を得るのは自分だと思っていましたが、その栄誉はハマンではなくモルデカイに与えられました。
そして、ついにエステルの酒宴が催され、王とハマンが招待されました。エステルはハマンの企みを王に暴露し、さらに彼がエステルに命乞いしているところを見た王が勘違いしてエステルを襲っていると思い込み、ハマンは死刑にされることになった。彼は、自分がモルデカイを吊そうと思って立てた柱に吊されることになりました。
この鮮やかな逆転劇は、エステル記のクライマックスであると思います。このような逆転を起こせるのは、神様だけでしょう。人間の企みは神様の手の中にあります。一見すると人間の混乱に満ちていますが、実はその中でゆっくりと神様の御心がすすんでいきます。エステルもモルデカイも、ハマン自身も思い描いても見なかった新しい歴史が、目に見えない隠れた支配者の手によって進んでいくのです。私たちの歴史も、同じ方が支配しておられます。人間の企みを逆用なさる方の手の大きさが、私たちへの慰めであり、励ましです。
エステル記6~7;
鮮やかな逆転劇が起こります。ハマンは相変わらず自分にひれ伏そうとしないモルデカイに腹を立て、モルデカイを吊すために50アンマもの高さの杭を打ち立てました。2メートル以上もあります。
ところが、ハマンの企みとは違う所で、新しい出来事が始まっていきます。ある眠られぬ夜、王は宮廷の日誌を持ってこさせ、その朗読を聞いていました。そこにはかつてモルデカイが立てた功績が記録されていた。王の宦官の悪巧みをモルデカイが防いだという出来事があったことをクセルクセス王は知り、しかもモルデカイが褒美を得ていないことを知って、彼に栄誉を与えることにしました。どうしたらいいのか。王はハマンに質問し、ハマンの提案どおりにモルデカイにしてやるようにと命じます。ハマンはてっきり褒美を得るのは自分だと思っていましたが、その栄誉はハマンではなくモルデカイに与えられました。
そして、ついにエステルの酒宴が催され、王とハマンが招待されました。エステルはハマンの企みを王に暴露し、さらに彼がエステルに命乞いしているところを見た王が勘違いしてエステルを襲っていると思い込み、ハマンは死刑にされることになった。彼は、自分がモルデカイを吊そうと思って立てた柱に吊されることになりました。
この鮮やかな逆転劇は、エステル記のクライマックスであると思います。このような逆転を起こせるのは、神様だけでしょう。人間の企みは神様の手の中にあります。一見すると人間の混乱に満ちていますが、実はその中でゆっくりと神様の御心がすすんでいきます。エステルもモルデカイも、ハマン自身も思い描いても見なかった新しい歴史が、目に見えない隠れた支配者の手によって進んでいくのです。私たちの歴史も、同じ方が支配しておられます。人間の企みを逆用なさる方の手の大きさが、私たちへの慰めであり、励ましです。
2019年8月28日水曜日
2019年8月28日(エステル記4〜5)
今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二10、エステル記4~5
エステル記4~5;
ユダヤ人を殲滅するための勅書が出され、モルデカイも、すべてのユダヤ人たちも、刈らぬのをまとって悲しみ、灰の中に座り、断食し涙を流して祈りました。王宮の中にいたエステルだけは、そのことを知りません。モルデカイはエステルから送られてきた使いである宦官に、事の次第を言付け、次のように言いました。
「(モルデカイは)ユダヤ人を滅ぼし尽くすためにスサで発布された法の書面の写しを彼に渡した。これをエステルに見せて事情を説明し、彼女に、王のもとに行って王の前で自分の民のために憐れみを請い求めるように命じるためであった(4:8,9)」。しかしこれはエステルにとっても大変なことです。例え王妃であったとしても、ペルシアでは王から呼ばれるのではなく勝手に王の前に出ることは禁じられていました。王宮の内庭にいる王のもとへ近づいたとき、もしも王が金の笏を差し伸べてくれれば事なきを得ますが、そうでなければ死刑になってしまいます。エステルは、この30日間、王の召しを受けていませんでした。エステルにとっても文字通りに「命懸け」なのです。
それを聞いたモルデカイはエステルに言います。「あなたは、その他のユダヤ人とは異なり、王宮いる自分は難を免れるだろうと思ってはならない。もし、この時にあなたが黙っているならば、ユダヤ人への解法と救済が他の所から起こり、あなたとあなたの父の家は滅びるであろう。このような時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか(13~14節)」。エステルはこの言葉によって決心し、王の前に進み出ていきました。
このモルデカイの言葉は、私たちにも、それぞれに迫ってくる言葉ではないでしょうか。私たちにも、命をかけるべき「このような時」があるのではないでしょうか。
エステル記には、神や主という言葉が出てきません。他の聖書の文書と読み比べると、これは大きな差です。神がなさったことは、あからさまには一言も書かれていません。神様はこの世界ではあたかも隠れておられるかのようです。神様のお働きは私たちの目にはっきりとは見えません。ですから、エステルの行為には何の保証もない。勇気を持って飛び込んで、結局は失敗して命を落とすかもしれない。それでも、神と人とのために自分のすべてをかけるべき「時」がある。そのために信仰のすべてを献げるべき「時」が必ずあるのです。
エステル記4~5;
ユダヤ人を殲滅するための勅書が出され、モルデカイも、すべてのユダヤ人たちも、刈らぬのをまとって悲しみ、灰の中に座り、断食し涙を流して祈りました。王宮の中にいたエステルだけは、そのことを知りません。モルデカイはエステルから送られてきた使いである宦官に、事の次第を言付け、次のように言いました。
「(モルデカイは)ユダヤ人を滅ぼし尽くすためにスサで発布された法の書面の写しを彼に渡した。これをエステルに見せて事情を説明し、彼女に、王のもとに行って王の前で自分の民のために憐れみを請い求めるように命じるためであった(4:8,9)」。しかしこれはエステルにとっても大変なことです。例え王妃であったとしても、ペルシアでは王から呼ばれるのではなく勝手に王の前に出ることは禁じられていました。王宮の内庭にいる王のもとへ近づいたとき、もしも王が金の笏を差し伸べてくれれば事なきを得ますが、そうでなければ死刑になってしまいます。エステルは、この30日間、王の召しを受けていませんでした。エステルにとっても文字通りに「命懸け」なのです。
それを聞いたモルデカイはエステルに言います。「あなたは、その他のユダヤ人とは異なり、王宮いる自分は難を免れるだろうと思ってはならない。もし、この時にあなたが黙っているならば、ユダヤ人への解法と救済が他の所から起こり、あなたとあなたの父の家は滅びるであろう。このような時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか(13~14節)」。エステルはこの言葉によって決心し、王の前に進み出ていきました。
このモルデカイの言葉は、私たちにも、それぞれに迫ってくる言葉ではないでしょうか。私たちにも、命をかけるべき「このような時」があるのではないでしょうか。
エステル記には、神や主という言葉が出てきません。他の聖書の文書と読み比べると、これは大きな差です。神がなさったことは、あからさまには一言も書かれていません。神様はこの世界ではあたかも隠れておられるかのようです。神様のお働きは私たちの目にはっきりとは見えません。ですから、エステルの行為には何の保証もない。勇気を持って飛び込んで、結局は失敗して命を落とすかもしれない。それでも、神と人とのために自分のすべてをかけるべき「時」がある。そのために信仰のすべてを献げるべき「時」が必ずあるのです。
2019年8月27日火曜日
2019年8月27日(エステル記2〜3)
今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二9、エステル記2~3
エステル記2~3;
クセルクセス王の後宮に新しい娘たちが集められました。その中の一人にユダヤ人の娘ハダサがいました。ハダサという名前にはヘブライ語で銀梅花という意味があります。ハダサは、しかし後宮に入ったときに自分のユダヤ人として出自を明らかにしませんでした。彼女の後見人である伯父のモルデカイの指示によるものです。恐らく、ペルシアの国でマイノリティであったユダヤ人というアイデンティティを明らかにすることは、生きにくさに直結したのであろうと思います。そこで、ハダサはペルシア語の名前を名乗りました。それがエステル、これは星という意味の名前です。エステルはクセルクセス王の寵愛を受け、妃としての冠を戴き、王は彼女のことを喜んで、諸州に免税までも行いました。
ちょうどその頃、ペルシアにハマンという大臣がいました。エステル記に登場するハマンの振る舞いを見ると、いかにも権威主義的で弱い者には威張り散らし、王には媚びへつらう人物として描かれています。ハマンは自分の権威を笠に着て、人々に対し、自分に向かってひざまずいてひれ伏すように要求しました。ところが、人をまるで神のように拝めという要求をはねつける人がいた。それが、エステルの後見人であったモルデカイです。エステルにはユダヤ人であることを隠すように言っていましたが、モルデカイ自身はそのことを隠してはいなかった。ただお一人の神にのみひれ伏すモルデカイは、ハマンの前に膝をかがめることは最後まで拒んだ。彼のそのまっすぐな態度が、ハマンの怒りを買いました。ハマンは王を唆して、ユダヤ人を殲滅する計画を立て、その勅令に王の印を押させることに成功してしまったのです。「この文書は急ぎの死者たちによって王のすべての州に送られ、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちに、ユダヤ人を若者から老人、子ども、女に至るまで一人残らず根絶やしにし、殺し、滅ぼし、また彼らの財産を奪い取ることとなった(3:13)」。
エステル記は、ここから大きく物語が動いていきます。しかしこの続きは、また明日。今朝のところでは、モルデカイという一人の信仰者が貫いた神を信じる者としてのはっきりとした態度を、私たちの記憶にしっかりと留めたいと思います。
エステル記2~3;
クセルクセス王の後宮に新しい娘たちが集められました。その中の一人にユダヤ人の娘ハダサがいました。ハダサという名前にはヘブライ語で銀梅花という意味があります。ハダサは、しかし後宮に入ったときに自分のユダヤ人として出自を明らかにしませんでした。彼女の後見人である伯父のモルデカイの指示によるものです。恐らく、ペルシアの国でマイノリティであったユダヤ人というアイデンティティを明らかにすることは、生きにくさに直結したのであろうと思います。そこで、ハダサはペルシア語の名前を名乗りました。それがエステル、これは星という意味の名前です。エステルはクセルクセス王の寵愛を受け、妃としての冠を戴き、王は彼女のことを喜んで、諸州に免税までも行いました。
ちょうどその頃、ペルシアにハマンという大臣がいました。エステル記に登場するハマンの振る舞いを見ると、いかにも権威主義的で弱い者には威張り散らし、王には媚びへつらう人物として描かれています。ハマンは自分の権威を笠に着て、人々に対し、自分に向かってひざまずいてひれ伏すように要求しました。ところが、人をまるで神のように拝めという要求をはねつける人がいた。それが、エステルの後見人であったモルデカイです。エステルにはユダヤ人であることを隠すように言っていましたが、モルデカイ自身はそのことを隠してはいなかった。ただお一人の神にのみひれ伏すモルデカイは、ハマンの前に膝をかがめることは最後まで拒んだ。彼のそのまっすぐな態度が、ハマンの怒りを買いました。ハマンは王を唆して、ユダヤ人を殲滅する計画を立て、その勅令に王の印を押させることに成功してしまったのです。「この文書は急ぎの死者たちによって王のすべての州に送られ、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちに、ユダヤ人を若者から老人、子ども、女に至るまで一人残らず根絶やしにし、殺し、滅ぼし、また彼らの財産を奪い取ることとなった(3:13)」。
エステル記は、ここから大きく物語が動いていきます。しかしこの続きは、また明日。今朝のところでは、モルデカイという一人の信仰者が貫いた神を信じる者としてのはっきりとした態度を、私たちの記憶にしっかりと留めたいと思います。
2019年8月26日月曜日
2019年8月26日(エステル記1)
今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二8、エステル記1
エステル記1;
エステル記はクセルクセスが支配していた時代のペルシアでの出来事です。キュロス王以降にイスラエルへ帰還した人々もいましたが、むしろそれは少数派で、大多数はペルシアに残って生きていました。その中にいたのががこの話に登場するエステルであり、モルデカイです。しかし今朝のこの第一章では、まだエステルもモルデカイもあずかり知らぬところから話が始まっています。
クセルクセス王と王妃ワシュティの出来事が、物語の第一幕となりました。宴席で上機嫌になったクセルクセス王は、集まった者たちにワシュティの美しさを自慢しようと考え、彼女に王妃の冠をかぶらせて皆に見せびらかそうとしました。クセルクセスは宦官に命じてワシュティを召し出そうとしましたが、彼女はこれを拒否。立腹しがクセルクセスは大臣たちに相談をします。彼らはワシュティの振る舞いは王のみならず国内すべての男たちにとって不都合だとして、ワシュティを王妃の座から追い落とすようにクセルクセス王に進言しました。王は言われてとおりにします。
ワシュティを巡って起きたことは、男性と女性の社会的な性差の問題と映ります。王の召しを断ったワシュティ。その理由は書いてありません。見世物にされることを拒んだのか、その日は体調が悪かったのか。いずれにしても、断るには大変な勇気が必要だったに違いない。思えばこのエステル記は、そのようにして命をかけて王という権力者の前に一人屹立する人たちの物語とも言えます。そう考えると、クセルクセスは自分の王という権力ある立場に寄りかかっているとも考えられます。私たちは、今、自分の足で立っているのでしょうか?
エステル記1;
エステル記はクセルクセスが支配していた時代のペルシアでの出来事です。キュロス王以降にイスラエルへ帰還した人々もいましたが、むしろそれは少数派で、大多数はペルシアに残って生きていました。その中にいたのががこの話に登場するエステルであり、モルデカイです。しかし今朝のこの第一章では、まだエステルもモルデカイもあずかり知らぬところから話が始まっています。
クセルクセス王と王妃ワシュティの出来事が、物語の第一幕となりました。宴席で上機嫌になったクセルクセス王は、集まった者たちにワシュティの美しさを自慢しようと考え、彼女に王妃の冠をかぶらせて皆に見せびらかそうとしました。クセルクセスは宦官に命じてワシュティを召し出そうとしましたが、彼女はこれを拒否。立腹しがクセルクセスは大臣たちに相談をします。彼らはワシュティの振る舞いは王のみならず国内すべての男たちにとって不都合だとして、ワシュティを王妃の座から追い落とすようにクセルクセス王に進言しました。王は言われてとおりにします。
ワシュティを巡って起きたことは、男性と女性の社会的な性差の問題と映ります。王の召しを断ったワシュティ。その理由は書いてありません。見世物にされることを拒んだのか、その日は体調が悪かったのか。いずれにしても、断るには大変な勇気が必要だったに違いない。思えばこのエステル記は、そのようにして命をかけて王という権力者の前に一人屹立する人たちの物語とも言えます。そう考えると、クセルクセスは自分の王という権力ある立場に寄りかかっているとも考えられます。私たちは、今、自分の足で立っているのでしょうか?
2015年11月8日日曜日
エステル記第9章1から6節「自分で復讐せずに」
キリスト教会は三つの祭りを祝います。主イエスの誕生を神に感謝するクリスマス。そのイエスが十字架にかけられ、三日の後に復活させられたことを祝うイースター。そして、神の霊が弟子たちに降り、教会が生まれたことを記念するペンテコステ。これら三つの祝いは、それを祝う度に、私たちがどのような信仰に生きているのかを確認する機会になります▼エステル記はユダヤの「プリム」という祭りの由来を伝えます。かつてペルシアにいたユダヤ人を悪臣ハマンが殲滅しようと策略しました。ユダヤ人モルデカイを嫌い、民族全体を皆殺しにしようとしたのです。ハマンは手始めにモルデカイを高い杭に吊そうと企てます。しかし、モルデカイの養女でペルシア国王の妃であったエステルの捨て身の賭により、ハマンの悪事は暴かれ、モルデカイを吊そうと準備した杭にハマン自身が吊されました。更にユダヤ人は難を逃れ、自分たちを迫害した者たちに復讐する権利を王から認められます。その出来事を記念してユダヤ人はプリムの祭を祝い、今も毎年春先に行います。その度に自分たちが一体何者であるのかを確認するのです。自分たちは弱くて、迫害され、権力に圧迫され、信仰を脅かされているけれど、神が必ずいつの日にかその立場を逆転してくださって、私たちを貶める者らをやがて我らが支配する日が来る、その日を信じよう、と▼今日の説教題を「自分で復讐せずに」としました。今日の準備では随分と悩みました。エステル記はユダヤ人の復讐の書物です。これをどう受けとめたら良いのでしょう。歴史を学ぶと、世界中殆どどこの歴史であっても、それは殆ど戦争の歴史です。ある国が支配されて、その国をまた別の国が支配して、その度にたくさんの人が死んでいる。やられた者がやり返すこともあります。第二次世界大戦後のイスラエルの歴史を考えてみても、「復讐」をどう考えたら良いのか、簡単ではありません。しかし、私は思いました。自分はあまりにも事柄を外から眺めていたのではないか、と。聖書を開いてみると、例えば詩編にも復讐を求める言葉はたくさん出てきます。そういうものを私はあまり積極的に読んではきませんでした。しかし、復讐を求める心は私にもあります。本当は、それを神に訴えるべきだったのではないか。神に訴えることと本当にやり返すこととは違います。エステル記を読み、この歴史を追体験することが、本当は人間を復讐の歴史から解放するのではないか。抑圧された経験は誰にでもあります。親子ででも、社会ででも。そこで生まれる復讐心から解放されるには、まずちゃんと神に訴えることです。神は正義と公正を愛されると信じることです。そして復讐心から解放されるとしたら、それは倫理的な目標ではなく、神が下さる賜物以外のものではありえません。
2015年11月1日日曜日
エステル記第4章13から14節「あなたにしかできないことを」
昨日、さがみ野教会が所属しているカンバーランド長老教の青年たちの集まりがありました。北海道の教会の牧師、青年への伝道に力を入れて活動している先生を招いて、賛美の集会をしたのです。大勢の青年が集まり、喜んで神を賛美する歌をうたっていました。規模が大きな集会でしたが、実は今年の中会青年会には役員が一名しかいません。希望が丘教会の青年が一人で会をまわしています。昨日の集会のためには大勢の協力者がいましたが、責任は彼が一人で負って集会を開いてくださいました。責任を一人で負うというのには、孤独なこともあっただろうと思います。準備を始めてからここまで熱心に奉仕してこられたことを思いつつ、昨日ステージに立つ姿を見て、胸が熱くなるものがありました。今日は旧約聖書のエステル記を読んでいます。エステルという一人の女性が登場します。彼女もまた孤独な決断をせねばならなかった人です。ユダヤ人エステルはひょんなことから捕囚民として暮らしていたペルシアの後宮に入り、王妃になります。エステルは自分がユダヤ人であることは黙っていました。王はエステルをたいそう気に入り、寵愛を受けます。しかし、同じ頃、王宮に仕えるハマンという役人がユダヤ人を憎み、1年後にユダヤ人を殲滅しようという計画を立てます。在ペリシアのユダヤ人立ちの間で大いなる嘆きが起こります。それで、エステルの養父モルデカイはエステルに手紙を書き、民族の危機を救うべく王に懇願するように求めました。しかし、当時のペルシアは徹底した男尊女卑社会。王の召しがなく王に近づけば、例え王妃であろうとも死刑に処せられるかもしれません。エステルは当初難色を示します。そこで、モルデカイはエステルに重ねて言いました。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時に当たってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解法と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるに違いない。」そこで、エステルはモルデカイと他のユダヤ人の仲間たちに、三日間の断食による祈りを求めつつ、言います。「定めに反することではありますが、私は王のもとへ参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」エステルは今一人です。アドバイスをくれる養父や祈り支えてくれる仲間はいても、実際に行動すべきはエステルただ一人。孤独に思考し、行動するのです。しかも、これは賭です。神のお姿は見えません。どこで何をしておられるのか、本当に救ってくださるのか、保証はありません。しかし、神がおられないようにしか見えない場所で、神と共に生きます。必ず、神が救ってくださると信じました。孤独な賭を、目に見えない神が必ず覚えていてくださると信じていたのです。
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2026年9月14日の聖句
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。(詩編39:13) (一人の罪深い女が)イエスの背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。イエスは女に言われた。「あな...