2021年8月31日火曜日

2021年8月31日の聖句

主は言われる:かつて、この民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。(エレミヤ32:42)
愛する者たち、私たちは、今すでに神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。(1ヨハネ3:2)

時間って、一体何でしょうか?
私たちは生まれた時からずっと時間の中で生きていますし、時間とは何かと特に考えなくても時間は過ぎていきます。しかし改めてこの当たり前のように享受している時間とは何かと考え始めると、そう簡単な問題ではなさそうだと思わざるを得ません。そして、歴史上のたくさんの人がそのことを考え、哲学や自然科学などいいろいろな立場から、さまざまな答が提示されてきたのではないかと思います。
今朝私たちに与えられている聖書の御言葉は、聖書の時間論とも言えるものではないかと思います。「かつて」と始まっています。主が言われるのです。「かつて、この民に大きな災いをくだした」と。この災いは、明らかに神の裁きという意味です。人々が罪を犯し、神がそれを裁いた。罪の過去、それがわたしたちの「かつて」です。
ところが、「今や」彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える、と主は言われます。今や、罪の過去は取り払われ、神の子とされた恵みの現在がここにある。私たちは神がこの私を神の子として生かしてくださっている、神の恵みによる「今」を生きている。
そうやって今を生きる私たちに、神が約束しておられる将来がありまます。「愛する者たち、私たちは、今すでに神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。」将来、私たちがどのようなものになるのかは、まだ私たちに示されていません。しかし将来については神の子とされた恵みの今から考えることができます。私の罪を過去のものとし、今神の子としてくださった方は、同じ恵みによって私たちの将来を拓いてくださるに違いありません。
これが私たちの時間の意味です。神が罪を過去のものとし、恵みの今を生きる私たちに、キリストにある将来が約束されている。今日も、私たちは「今日」という時間を生きていきます。この「今」は神の恵みによって支えられています。神の祝福によって、今この時を歩まれますように!

2021年8月30日月曜日

2021年8月30日の聖句

災いあれ、謀を主に深く隠す者に。彼らの所業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らのことを見ているか。誰が我らのことを知っているか。」(イザヤ29:15)
すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。(エフェソ5:13)

誰も見ていなければ、ちょっとくらい良いかな。そういう誘惑は誰にでも襲ってくるのではないかと思います。特に「恥」を基準にして考えると、恥ずかしい思いをしなくて済むような状況であれば何をしたって構わないということになりかねません。そうでなければ、周りの人がやっているから良いか、となるかもしれない。しかし人目に恥をかくかどうかということではなく、神さまの目にどう映るのかということを基準にすると、生き方が変わります。「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」私たちは神さまの御顔の光の中を生きているのです。
私たちの教会はカンバーランド長老教会さがみ野教会と言いますが、長老教会と呼ばれる教会の仲間たちの一つのモットーに「コーラム・デオ」という言葉があります。ラテン語で「神の前に」という意味です。私たちは神さまの御前に生きている。そのことをモットーとし、いつもそのことを大事に覚えて生きる。
日本語には「旅の恥はかき捨て」という言葉があります。明鏡国語辞典では「旅先では知人もいないので、ふだんなら恥ずかしくてできないような行いも平気でするものだ。」という語釈があります。普段の知り合いばかりの場所では抑制されていたことを、恥というたがが外れるとしてしまうことがある。神の前ではなく人の前に生きる姿です。
ただ、神の前に生きるというのは、単に悪いことも神さまが見ているぞということだけではないと思います。今日の御言葉には「すべてのものは光にさらされ、明らかにされます」とありました。私たちは光の中にいる。それは闇の行いを照らして明らかにする光でもありますが、同時に、私たちを闇から光に連れ出す光でもあります。私たちは暗闇の中にうずくまる闇の子ではなく、キリストという光に照らされた光の子です。神さまの御前に生きるというのは、光に照らされる喜びをもたらします。私たちは謀や自分のことばかりの所業ではなく、神の愛を映す神の子として生きることができるのです。そのために、キリストが私たちを光に照らしてくださったのです。

2021年8月29日日曜日

2021年8月29日の聖句

主は言われる:もしあなたが立ち帰るならば、私はあなたを立ち帰らせる。(エレミヤ15:19)
イエスは言われる:私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。(ヨハネ14:23)

御自分に立ち帰る者を、主は御自らご自身に立ち帰らせてくださいます。私たちが自分から神さまを求めていると思っているときにも、自分で信じたいと願ったのだと思い込んでいたとしても、そこにはすでに神さまからの招きがあり、神様ご自身が私の心をも新しくして、立ち帰らせてくださっているのです。それは、「私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む」とキリストが言ってくださるとおり、神さまが私たちを愛してくださり、神さまが私と共にいたいと願っていてくださるからです。
主イエスは、驚くべきことをおっしゃいます。神さまが私と一緒に住みたいと願っていてくださる、と言うのです。私たちは多くの場合、神さまが一緒にいてくださることを願うし、主は共にいてくださるという聖書の御言葉を慰めとしているのではないでしょうか。ところが、主イエスは、そうやって私たちが願うよりも先に神が私を愛して、私と一緒に住みたいと望んでいてくださるということを明らかにしてくださいました。これは驚くべきことではないでしょうか。
今日は日曜日、主の日です。今は社会が非常に緊迫した状況にあり、新規の陽性者も覆い水準で留まっています。自由に、思うように振る舞えない不自由を一年以上にわたって経験してきましたし、それは今後もしばらく続きそうです。礼拝堂に足を運ぶことができる方も、今はまだできないかたもおられます。どのような場合であっても忘れないでいたいのは、神さまが私を求めていてくださる、という事実です。私たちはどこにいて、祈り、礼拝を献げているのだとしても、神さまの私への求めにあずかっています。私が主が共にいてくださることを願うよりも先に、神さまが私と共にいたいと願っていてくださるという、神さまの愛の事実によって生かされています。この一週間も、この私への神さまの熱い愛の思いを決して忘れないでいたいと思います。私たちが今いるところに遣わしてくださったのは、神さまです。今日から始まる一週間も、私たちは心を一つに合わせて、キリストのものとして歩んでいきます。

2021年8月28日土曜日

2021年8月28日の聖句

私は彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。(エゼキエル11:19)
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。(使徒2:39)

この約束は、神様ご自身が私たちにしてくださった約束です。神さまは私たちに一つの心を与え、新しい霊を授けてくださいます。そして、この約束は実現しました。キリストが十字架にかけられ、復活し、その後弟子たちの集まっているところに神さまの霊が降った。この霊こそ、神さまが約束し手くださった一つの心、新しい霊に他なりません。
この約束は、私たちのための約束です。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」誰にでも、と言います。時代が違っても、場所が違っても、文化や背景に背負っているあらゆるものが違っても、私たちは神さまが招いてくださっているという一点で、同じ約束にあずかっています。
私は、教会の仕事でいろいろなところに行かせて頂きました。コロンビアの田舎の山の中腹にある教会に伺いました。本当に楽しそうに賛美し、ダンスをしながら礼拝していました。フィリピンのイロイロ島の奥地にある教会にも伺いました。すごく貧しい場所でした。いきいきと礼拝を献げていました。今、あそこで一緒に礼拝を献げた人たちは、この苦難の時代にどうしているのかと思います。どのようなかたちであったとしても、それでも神を礼拝しているに違いないと思います。なぜなら、私たちの神である主が招き、御自分の新しい霊を与えてくださっているからです。
使徒言行録は、神さまの霊が降って、使徒たちはキリストの出来事を語り始めたと記録しています。神の霊は私たちをキリストの出来事にあずからせてくださいます。何度も、何度も、繰り返し、私たちはキリストと共に生きるのです。福音の言葉を聞き、これを喜び、神を賛美し、礼拝し、キリストのものとして生きていきます。今、礼拝には大変逆風が吹くような時代になってしまいました。しかしそれでも神の霊が私たちを生かしています。キリストが私たちを生かしてくださいます。キリストの福音によって、今日も生きていかれますように。心から祝福を祈ります。

2021年8月27日金曜日

2021年8月27日の聖句

主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。(詩編19:8)
聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。(2テモテ3:16)

私には、もっと知恵のある人間になりたいと思うことがよくあります。牧師として、もっと知恵に富んでいれば有意義な仕事ができるのではないかと思います。中会の仕事をしていても、もっと知恵や見識のある意見を言ったり、人の話にうまく耳を傾けたりすることができたのではないかと思います。そんな私にとって、正直に言って、今日の御言葉は少し重いものでした。「主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える」と言っています。ここでの「主の定め」は、私たちに置き換えたら「聖書」と言って差し支えないと思います。聖書の御言葉は真実であって、無知な人に知恵を与える。自分の無知は、蒙昧は、聖書の真実から遠いからなのだろうと思う。そうすると、とても心が重くなります。
特に今、社会の様相が数年前までとは変わってしまったように思います。本当に、全然先が見通せなくなってしまった。コロナもそういう状況に拍車をかけているのでしょう。そんなときは、はっきりと状況を分析したり、こうしたいいと強烈な指示を出してくれる強い言葉を求めたくなってしまいます。これまでの歴史の中に出てきた大小さまざまな独裁者は、そういう大衆の心が欲していたのかなと、まったく他人事でなく思います。
ところが、聖書はそういう「強い言葉」ではありません。「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。」義に基づいた訓練をする。訓練というのは、体の訓練であれば自分の体を動かし、苦労して鍛えなければ成し遂げられないことからも分かるとおり、人任せにはできません。信仰の訓練も同じです。自分で何も考えずに盲信すれば済んでしまう「強い言葉」は、私たちを義に基づいて訓練することはできないのです。キリストは、聖書によって私たちが自分の信仰に応じて応答することを求めておられます。
少し前に読んでいた箴言では、知恵の初めは主を畏れることだと言っていました。確かに、それは聖書に訓練されることがなければ、私たちの内から湧き上がってくることではありません。私は無知蒙昧だからこそ、主を畏れるという知恵の初めを身に着けさせてください、と神さまに祈りたいと思います。その訓練が、私に必要なさまざまな知恵をも得させるのでしょう。神様ご自身の霊感によって書かれた聖書の御言葉が、必ず私を導くと信じています。

2021年8月26日木曜日

2021年8月26日の聖句

お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。永遠に彼らを導き養ってください。(詩編28:9)
あなたたちは、神がご自分のものとしてくださった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の善き業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(1ペトロ2:9)

「永遠に彼らを導き養ってください」と祈っています。かつてエジプトの国で奴隷であったヘブライ人たち。神の民として、約束の地を目指して荒れ野を旅しました。その旅路を彷彿とさせる言葉です。
神さまは彼らのために、昼は雲の柱、夜は火の柱によってその道を導いてくださいました。どの道を進めばよいのかということだけではなく、留まるべき時には留まることを教え、出発すべき時にはそのことを教えてくださいました。このようにして私たちが毎日聖書の御言葉に聞いているというのは、私たちも同じように神さまの導きにあずかっているということにほかなりません。神さまは私たちを導いてくださる。
この旅路のために、神さまはマナというパンを与えてくださった。神さまは御自分の民を養ってくださいます。主イエスは私たちに「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることを教えてくださいました。この毎日の食卓を神さまが準備してくださっている、というとても現実的な信仰生活を、私たちは生きています。
神さまに導かれ、養われる神の民は、かつてのエジプトでは奴隷でした。その事実になぞらえて、ペトロは私たちはかつて暗闇の中にいた、と言います。しかし今は驚くべき神の光の中におかれている。今、私たちはキリストのもの。かつてはそうではありませんでした。暗闇の中にいた。それどころか暗闇の奴隷だった。暗闇の奴隷、罪の奴隷。そういう私が、神の光の中に招き入れられた。この言葉にはペトロの実感がこもっています。キリストと出会い、愛し、裏切り、それでもキリストの愛の中にいることを知らされたペトロの真心がこもった言葉です。
だからこそ、ペトロは言います。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の善き業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」この私をも光の中に招いてくださっている。この神の驚くべき御業、光の御業を、あなたが広く伝えるためにあなたは招かれた。神さまが私たちを導いてくださっているこの旅路は、独りぼっちの旅ではありません。神さまと二人きりの旅でもありません。私たちは民となって、神の導きにあずかる。キリストの光の御業に共にあずかり、共に喜ぶ神の民に、私も今日招かれている。そして、あなたも!

2021年8月25日水曜日

2021年8月25日の聖句

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1:27)
主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。(1コリント11:11~12)

人は神のかたちに造られました。「かたち」は漢字で書けば「像」、英語ならimageです。手と足が二本ずつあって直立歩行をし、道具を使いこなす。そういう意味での「かたち(形)」ではありません。それでは、神のかたちに造られたというのは何を意味しているのか。聖書は、端的に「男と女に創造された」と言っています。面白い表現です。例えば「神のかたち、すなわち男に造られた」あるいは「神のかたち、すなわち女に造られた」と書いてあるのなら、神さまのかたちというのは男のこと、あるいは女のこと、ということになるでしょう。ところが聖書はそうは言わないのです。神さまは人を御自分にかたどってお造りになった、男と女とにお造りになった、それが神のかたちだ、と言うのです。
男と女というのは、ここでは、異なる他者という意味ではないかと思います。神のかたちに造られた人間は、自分とは異質の存在、自分とは異なる他者と共に造られた。異質な者と共に生きるところに、神のかたちに造られた意味があるのではないでしょうか。神さまご自身が、父・子・聖霊という三つの関わりをご自身の中にお持ちでいらっしゃるということのこだまがここにあるのではないかと思います。
「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」これは使徒パウロが書いた手紙の1節ですが、今から2000年も前という時代を考えると、驚くべき言葉です。女が物の数に入れられていない時代に書かれた文書なのです。時代の空気にあらがって、聖書は言います。「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。」神が男と女に造られた。男なしに女はないし、女なしに男はない。私たちは異質な者を助け手とすることなしに生きることはできないのです。
私たちの性も、神さまの祝福のうちにあります。男であることも女であることも、神さまの祝福の内にある。この肉体を、神さまは祝福しておられる。そして私たちの心をも、神さまは祝福しておられる。世間の目や評価ではなく、神さまの祝福を基準として、自分を自分として尊んで生きていきたいと願います。

2021年8月24日火曜日

2021年8月24日の御言葉

神の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。(ダニエル7:14)
御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。(コロサイ1:13)

数ヶ月前に妻が運転免許を取ったので、最近は家族で移動するときは助手席に座ることが多くなりました。交通法規をしっかりと守って運転しています。免許を取って何年もするとおざなりになりがちですが、初心に戻されます。私たちは多くの場合、免許を取るまでは交通ルールを知りません。もちろん大雑把には知っていますが、細かいルールまではよくわきまえていない。しかし教習所に行って勉強をして、試験を受けて免許を取り、実際に運転してみて気付くことは、交通法規は(ほとんどの場合)とても合理的に設計されていて、守って運転すれば安全だということです。車を運転する者は、それまで歩行者だったり自転車に乗っていたときには知らなかった交通ルールに支配されることになります。しかしそれに従うことによって自由に、楽しく運転することができます。決して野放図に自分勝手に運転することが自由なのではないのです。
私たちはかつては闇の力に支配されていました。ところが私たちは自分が何かに支配されているだなんて思ってもみなかった。自分は自由に、やりたいことをしていると思い込んでいました。ところがキリストと出会い、キリストが私を救ってくださっていることを知り、キリストを信じて生きると、御子キリストの支配の中に生き始めます。キリストに支配されるだなんて、不自由なことなのでしょうか?そうではない。キリストに支配されることによって、私たちは本当に自由に、そして自分らしく生きることができるのです。
なぜなら、闇の力の支配は、自分ではそうと気付かなかっただけで私たちを欲望の奴隷にするのであり、我欲の僕になることです。私たちに巣くう罪の闇の力は強くて厳しい。ところがキリストは私たちを愛によって支配します。「愛によって支配する」なんて、聞きようによってはとても怖い言葉にもなりかねません。「あなたのため」と言いながら実際はそうではないことが、私たち人間の愛ではいくらでも起きる。ところがキリストの愛はご自分を献げる愛です。ご自分の独り子を与えてくださるほどの神さまの愛です。このキリストの愛、父なる神さまの愛は永遠です。私たちはこのキリストの愛、御父の愛と出会うことで、初めて愛を知ることができるのです。

2021年8月23日月曜日

2021年8月23日の御言葉

主は言われる:あなたたちは聖なる私の名を汚してはならない。(レビ22:32)
召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。(1ペトロ1:15)

主なる神様は聖なるお方。預言者イザヤは、天にある御座に座しておられる主なる神様を見ました。その周りではセラフィムが飛び交いながら、互いに呼び交わし、言っています。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
主の栄光は、地をすべて覆う。」(イザヤ6:3)
イザヤはあまりの光景に恐れおののき、こう言うしかありませんでした。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。
わたしは汚れた唇の者。
汚れた唇の民の中に住む者。
しかも、わたしの目は
  王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
汚れたわたしが聖なるお方、主なる神様を見てしまった。わたしは滅ぼされるしかない。イザヤはそのように言います。イザヤを襲った聖なる方への畏れ。この恐れおののきを、私たちはもしかしたら失っているのかも知れません。私たちが信じ、仰いでいるお方は、私たち人間とは異なる畏るべき方、聖なる神さまです。
主は言われます。「あなたたちは聖なる私の名を汚してはならない」と。私たちを召し出してご自分の民としてくださった方は、聖なるお方です。私たちは人間として、この目で見てしまったら死ぬしかない。そういう方です。私たちはそのお方の聖なるお名前を身に帯びている。「キリスト者」と。
預言者イザヤは聖なる神さまを畏れてひれ伏し、自分はもうおしまいだとおののきました。ところがそんなイザヤに神さまから遣わされてきた天使が炭火を唇に触れさせて言います。
「見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
イザヤは汚れた私の罪を神様ご自身が取り去ってくださったことを知らされました。そして、神さまに召し出された聖なる務めに就くことができたのです。私たちは汚れた者、神さまは聖なるお方です。その私たちの汚れは、キリストがすべて清めてくださいました。それが本当のことなのです。だから私たちは神さまの御前に進み出ることができたのです。私たちはこの後はキリストのものとして生きていきます。

2021年8月22日日曜日

2021年8月22日の礼拝の記録

さがみ野教会の皆さま

こんにちは。
今日はとても蒸し暑い一日ですね。いかがお過ごしでしょうか。

今日は饒平名神学生が御言葉の説教をしてくださいました。
礼拝の記録です。どうぞご覧くださり、御言葉と共に一週間をお過ごしください。

音声と動画

 動画

祝福を祈りつつ。

宮井岳彦

2021年8月22日の聖句

私はあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちは私の民となる。(レビ26:12)
私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ちあふれるようになるためです。(1ヨハネ1:3~4)

昨日のこのメールで、雅歌を読み終わりました。それによって2019年1月から始めた聖書の通読とそれに基づく朝の小説教を旧新約全巻行うことができました。今日からは『日々の聖句(ローズンゲン)』に基づいて、聖書の語りかけに耳を傾けていきたいと思います。

神さまは私たちのうちを巡り歩くことで私たちの神となってくださり、私たちをご自分の民としてくださるのだ、と言います。神さまが私たちのうちを歩いてくださっている。礼拝堂の中を考えてみても良いかもしれません。神さまは私たちが座っている椅子の間を歩いておられる。そうやってご自分の方から私たちに近しい方になってくださっているのです。神さまが私たちに近づいてくださったから、私たちは神の民になったのです。
教会は交わりを大切にしてきました。「交わり」というのは教会用語の一つで、教会の外では同じ意味で使っていません。(むしろ、ほとんど使われることのない言葉です。)誤解されることも多い言葉です。教会の交わりというのは、仲良くなることとまったく同じ意味というわけではありません。それも含まれるでしょうが、主たる意味は仲良しのことではない。教会の交わりというのは、共に礼拝を献げる交わり、ということです。神の前に共にひれ伏すところで生まれる交わりです。
そしてその交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりだと言います。私たちが共に神の御前にひれ伏すとき、私たちは父なる神と御子イエス・キリストとの間に交わされる愛にあずかっている。神秘的なことですが、私たちはこの秘儀にあずかっていると聖書は約束します。
このようにして毎日聖書の御言葉に聞くことも、神の御前にある私たちの交わりを確立する。私たちはこのようにして神の愛にあずかるのです。

2021年8月21日土曜日

2021年8月21日(雅歌8)

雅歌8
愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい。
愛の炎は熱く燃えさかる炎。
大水も愛を消し去ることはできません。
洪水もそれを押し流すことはありません。
愛を手に入れるために、家の財産をすべて
  差し出す者がいたとしても
蔑まれるだけでしょう。(6~7節)

身を焦がす激しい愛。説明が不要なほど、読む者の感情を揺さぶる言葉です。
ヨハネの黙示録にこのような言葉があります。「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。熱くも冷たくもなく、生温いので、私はあなたを口から吐き出そう」(3:15~16)。神さまへの愛に熱く燃えているわけでもなく、その反対に神さまをに対して冷たい感情を表しているというのでもない。生温い。言葉を換えれば、無関心ということではないでしょうか。生温くて、食べられたものではない。まずい。だから吐き出す。神さまはそうおっしゃいます。
どうして生温くなってしまうのか。「あなたは、『私は裕福で、満ち足りており、何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)。裕福なつもり、満ち足りているつもりになっている。満足してしまっている。神さまなんて必要ないと思い込んでいる。別に神さまを憎んでいるわけではない。しかし、愛してもいない。その生ぬるさに私は耐えられない、と神さまは言われるのです。
雅歌が聖書に入れられ、私たちに伝えられているというのは、神さまへの熱い愛に生きる幸いを私たちに伝えるためです。洪水にも押し流すことのできない愛。私たちはそのような愛に招かれていますし、何よりもキリストはそうやって私たちを愛し、私たちを求めていてくださるのです。

2021年8月20日金曜日

2021年8月20日(雅歌7)

雅歌7
私は愛する人のもの。
あの方は私を求めています。(11節)

この言葉を、私たちのキリストへの愛の言葉として、私たちも告白しましょう!私は愛する人、キリストのもの。「キリスト者」というのは、キリストに身も心も献げて生きる初代教会の人々を見て、周りの人たちが付けたあだ名です。あの人たちはキリストのものだ、と。私たちもキリスト者と呼ばれる者です。私たちはキリストのもの。私たちがキリストのものであるのは、私たちのキリストへの愛が確かだからではありません。確かなのはキリストの私たちへの愛です。「あの方は私を求めています」と雅歌が言うとおり、キリストこそが私たちを求めていてくださいます。だから、私たちは自分の愛や自分の信仰や熱心さのゆえではなく、キリストの愛のゆえに、堂々と告白することができます。「私は愛する人、キリストのものです」と。

私の愛する人よ
さあ、野原に出かけましょう。
ヘンナの中で夜を過ごしましょう。
早く起きて、ぶどう畑に行きましょう。
ぶどうの木がつぼみを付けたか、花盛りか
ざくろの花が咲いたかを見ましょう。
そこで私の愛をあなたに差し上げましょう。(12~13節)

愛する人とは、どこに行っても楽しいものです。野原に行き、ぶどう畑を見るのも、世界が輝いて見える。私たちとキリストとの毎日が、そのような光り輝くものでありますように。今日、私たちの目に映るすべてのものが、私たちと共に歩いてくださるキリストのゆえに、すばらしい喜びをもたらすものとなりますように。

2021年8月19日木曜日

2021年8月19日(雅歌6)

雅歌6
私の恋人よ
あなたはティルツァのように美しい。
エルサレムのように愛らしい。
そして軍旗のように恐ろしい。
私の心を乱すその目を私からそらしてください。(4~5節)

熱烈な恋の歌です。今から2000年以上、もしかしたら3000年近く前の人たちの恋心をこのようなかたちで知ることができるというのは、不思議な気持ちになります。源氏物語よりも、万葉集よりももっともっと昔の時代です。この激しい恋の歌が聖書の一部となり、神さまへの愛の歌として読まれてきたというのは、本当に不思議な神さまの導きです。
さて、ここでは不思議な言い方をしています。恋人に向かって「あなたはティルツァのように美しい」と言います。ティルツァというのはカナンの町の一つで、その美しさと、イスラエルの王たちの宮殿のあったところとして知られているそうです。麗しの町ティルツァのようにあなたは美しい。また、ティルツァという言葉には「美しい」とか「愛嬌のある」という意味もある。二つの意味を掛け合わせているのかも知れません。そしてもう一つの都市名、エルサレムもまた愛され、その美しさをたたえられた都です。恋人の美しさや愛らしさをたたえる言葉としては、よく分かります。
ところがその先が、少しびっくりしてしまいます。「軍旗のように恐ろしい」と言うのです。この「軍旗」のところに聖書協会共同訳は訳注を付けていて、「旗を掲げた軍勢」と訳すことも可能だと指摘しています。そうだとすると、軍旗どころかその旗を掲げている軍勢そのものだということで、旗よりももっと恐ろしいものだということになります。愛する人が自分の心を支配するその力は、軍旗を掲げた軍勢よりも激しい、ということなのでしょう。さらに「私の心を乱す」という言葉には、攻撃するという意味もあります。ここを攻撃され、乱されてしまう。心を奪われてしまう。それほど激しく恋をしている、ということなのでしょう。このような激しい恋心も神さまが私たちに与えてくださったプレゼントですし、また、激しい恋心もキリストを知る手がかりになり得るのです。私たちの心も、神さまが造ってくださったものに他なりません。

2021年8月18日水曜日

2021年8月18日(雅歌5)

雅歌5
女たちの中で誰よりも美しい人よ
あなたの愛する人はほかの人より
  どこがまさっているのですか。
私たちにそれほどまでに誓わせるとは
あなたの愛する人はほかの人より
  どこがまさっているのですか。(9節)

おとめたちが友人として尋ねるのです。「あなたの愛する人はほかの人より、どこがまさっているのですか」と。尋ねられている女性は、若者から「私の妹、花嫁よ」と呼ばれている人です。彼女は婚約者を思いながら言います。
「エルサレムの娘たちよ
私に誓ってください。
私の愛する人を見つけたら
私が愛に病んでいる、と伝えると。」
おとめたちは、彼女がそこまで言う相手はどんなに素敵な人なのか、その愛がどんなにすばらしいものなのか、私たちに教えてくださいと彼女に呼びかけているのです。何ともかわいらしいやりとりとも言えます。
ところで、「あなたの愛する人はほかの人より、どこがまさっているのですか」と聞かれて、もしもその答が東大生だからとか一流企業に勤めているからだとか、家柄が良いからだとか言われたら、幻滅します。現実的にはそういうことも大事でしょうか。そうかもしれません。しかし、東大生も一流企業の勤め人も、良い家柄の人も、世の中には掃いて捨てるほどたくさんいます。あるいは逆に、男たちが一人の男性に、お前が愛するあの人のどこが魅力的なのかと尋ねられたとして、美人だからとか男を気分よくさせるからだとか言っていたら、それも幻滅です。表面的なことしか見ていないなら、愚かです。
美人だからとか東大君だからとか、そのようなものが価値基準なら、もっと優れた人がいくらでもいるし、そういう価値はいずれ変わってしまいます。むしろ内面から湧き上がる美しさを好きになりたいし、好きな相手は魅力的で輝いています。
そのような愛の世界が、キリストと私たちの関係を知るための手がかりになるというのは、神さまが私たちにくださった素敵なプレゼントではないでしょうか。

2021年8月17日火曜日

2021年8月17日(雅歌4)

雅歌4
私の妹、花嫁は閉じられた園。
閉じられた池、封じられた泉。(12節)

この章では、男性が婚約者を「私の妹、花嫁」と何度か呼んでいます。これは実際の妹と兄という意味よりももっと広い意味を持った使い方だと考えた方がよいと思います。同族の年下の女性ということであるのか、あるいは当時の男性が愛する女性を呼ぶ呼び方の一つであったのか、そのようなことでしょう。いずれにしても、恋人であったり婚約者であったり、そういう他を寄せ付けない特別に親密な関係の呼びかけであることは、文脈から考えても間違いありません。
今日の冒頭に引用したところでは、このように言っています。
「私の妹、花嫁は閉じられた園。
閉じられた池、封じられた泉。」
恋人、婚約者という園、池、泉は、閉じられ、封じられています。他を寄せ付けない。愛しい恋人と私との二人以外の者には入ることのできない、二人だけの空間。そういうことではないかと思います。
神さまと私たちとの関係も、まさにそうです。祈ることについても、聖書の御言葉を聞くことについても、他人には入り込むことのできない神さまとの二人きりの聖なる空間があります。コリントの信徒への手紙一に、夫婦の関係についてのこのような言葉があります。「互いに相手を拒んではいけません。ただし、合意の上で、祈りに専心するためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です」(7:5)。夫婦はお互いに相手を拒んではいけない、関係をおろそかにしてはならない。それはとても厳格な定めです。ただし、一つだけ例外があるのであって、祈りの時間だけは別々にもって差し支えない、と言うのです。もちろん二人で一緒に祈ったっていい。しかし、その前提はそれぞれが一人で神さまの前に出る、神さまとの閉ざされた祈りをしていることです。この祈りには、例え夫婦でも立ち入ることは許されません。親子でもそうです。例え親であっても、子どもの祈りに口を挟んではならない。それは神さまと彼・彼女との聖なる空間だからです。
恋人との二人きりの時間と空間が特別な喜びであるように、私たちの神さまとの二人きりの時間と空間は、特別な喜びの時です。甘美な祈りの時に、キリストは花嫁たる私たちを招いていてくださいます。

2021年8月16日月曜日

2021年8月16日(雅歌3)

雅歌3
荒れ野から煙の柱のように
  上ってくる人は誰でしょう。
没つ薬と乳香、商人のもたらすあらゆる香料を
  くるらせながら。
ご覧なさい、ソロモンの輿を。
イスラエルの勇士
えり抜きの60人が周りを囲んでいます。(6~7節)

恐らく、ソロモンのもとへ向かう花嫁を乗せた輿の様子を描いた言葉なのではないかと思います。もしかしたら外国からやってきた姫であったのかもしれません。厳重な警護のもとに花嫁がやってくる。その姿を喜び、おとめたちが歌っている、という歌であるのだと思います。
私はここを読んで、ヨハネの黙示録の言葉を思い出しました。「また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た」(黙21:2)。花婿であるキリストのもとへ向かうために、新しいエルサレムが花嫁の装いをしている。聖なる都、新しいエルサレム、それは神を信じる者たちのことです。私たちのことです。私たちはキリストの花嫁として迎えられる。その花嫁のための喜びは、ソロモンの花嫁の喜びよりもずっとずっと大きいことでしょう。花嫁は愛する花婿のために美しく飾ります。私たちは、愛するキリストのために美しくなり、キリストのもとに向かうことを喜びます。
キリストは私たちの愛を喜んでくださいます。それが拙く、貧しいものでしかなくても、キリストは私たちの真心を込めた愛を喜んでくださいます。花嫁の喜びをもって、私たちもキリストを愛します。

2021年8月15日(雅歌2)

雅歌2
私はシャロンのばら、谷間の百合。
娘たちの中で
  私の恋人はあざみの茂みに咲く百合のよう。
若者たちの中で、私の愛する人は
  森の木々に囲まれたりんごの木のようです。
私はその木陰を慕って座ります。
その果実は私の口に甘いのです。(1から3節)

愛する人との関わりは、比較の世界ではありません。あの人がいて、この人がいて、また別の人がいて、その中からいちばんいい人を選んだ。それが比較の世界です。あなたは私のどう言うところが好きなのと尋ねて、Aさんと比べれば高収入だったからとか、Bさんよりも美人が多いからとか、Cさんよりも面白いからとか、そういう答えで相手の愛を感じ、満足する人はすくないのではないかと思います。愛は比較の世界ではありません。例え他に男の人や女の人がいたとしても、愛の世界に住むかぎりは「あなただけ」です。たった一人のあなたを見つめ、お互いに視線をそらさずに見つめ合うのです。
「娘たちの中で
  私の恋人はあざみの茂みに咲く百合のよう。
若者たちの中で、私の愛する人は
  森の木々に囲まれたりんごの木のようです。」
ここで雅歌が歌うのは、まさに比較の世界ならぬ愛の世界の歌です。雅歌はキリストから私たちへの愛の歌であり、キリストへの私たちの愛の歌です。私たちは比較の世界ではなく、愛の世界でキリストを見つめているでしょうか。Aという宗教の御利益、Bという趣味、Cという憂さ晴らし・・・との比較の中でキリストは他よりもいい、というのは、キリストへの愛になりません。キリストは私たちを見て言ってくださいます。「娘たちの中で、私の恋人はあざみの茂みに咲く百合のよう。」そして、私たちをご自分の花嫁として迎えてくださるのです。キリストの一途でまっすぐな愛に、私たちも応えたいと願います。

2021年8月14日土曜日

2021年8月14日(雅歌1)

雅歌1
あの方が私に口づけをしてくださるように。
あなたの愛はぶどう酒よりも心地よく
あなたの香油はかぐわしい。
あなたの名は注がれた香油。
だから、娘たちはあなたを慕っています。(2~3節)

雅歌は不思議な書物です。雅歌が最初に生み出されたときは、純粋な愛の歌だったのではないかと思います。しかしそれが聖書の一巻として加えられたとき、新しい意味を持つことになりました。神への愛の歌、しかも新約聖書を知る私たちからしてみれば、イエス・キリストへの愛の歌として、この歌をよむことができます。
雅歌はかなり情熱的な歌です。ここで詠まれている愛は、性愛です。「あの方が私に口づけをしてくださるように。」このように情熱的な思いで恋人を求める言葉が重ねられています。「あなたの愛はぶどう酒よりも心地よく、あなたの香油はかぐわしい。」恋人が付けている香水の香りが大好きで、それを嗅ぐと恋人を求める思いがわき上がる、ということでしょうか。そしてその人の愛はどんなにおいしいワインよりも心地よく、私の甘美な楽しみだ、ということなのでしょう。
雅歌が興味深いのは、一方通行ではないというところです。
「女たちの中で誰よりも美しい人よ
もしあなたが知らないのなら
羊の群れの足跡をたどり
羊飼いたちの住みかのそばで
あなたの子山羊を飼いなさい。」
これは「あなたに会いたい、あなたはどこにいるの」というようなおとめの言葉への返歌のような箇所です。わたしはここにいる、ここにおいで、と呼びかけています。一方通行のラブレターは空しい。お互いに呼ばわり、お互いに求め合う。私たちと神さまとの関係はどうなのでしょうか。神さまは私たちを求めていてくださいます。雅歌が聖書に収められていることから考えても、それは確実です。私たちは神さまにどう応えるのでしょうか。

2021年8月13日金曜日

2021年8月13日(コヘレトの言葉12:8~14)

コヘレトの言葉12:8~14
わが子よ、これ以外のことにも注意せよ。
書物はいくら記しても果てしなく
体はいくら学んでも疲れるばかり。
聞き取ったすべての言葉の結論。
神を畏れ、その戒めを守れ。
これこそ人間のすべてである。
神は善であれ悪であれ
あらゆる隠されたことについて
すべてのわざを裁かれる。(12~14節)

コヘレトの言葉と今では呼ばれている本書は、昔使われていた口語訳聖書では「伝道の書」という書名でした。ずいぶん違います。コヘレトというのは、ヘブル語でカーハルという動詞の分詞形です。カーハルは「集める」とか「集まる」という意味で、コヘレトという分詞のかたちになると「集める者」、「集会を招集する者」といった意味になります。そういうことから昔の「伝道の書」という訳書名になったのでしょう。コヘレトの言葉の最後の部分、今日の箇所の9節に「コヘレトは知恵ある者であり、さらに知識を民に与えた」とありますが、まさにコヘレトという名前の通りに集会を招集し、集まった者たちに知恵を与え、民を一つにした、ということであろうと思います。コヘレトは民を一つにする言葉を求めたのです。
しかし、それを書物の言葉にしようとしても、果てがありません。「書物はいくら記しても果てしなく、体はいくら学んでも疲れるばかり」です。コヘレトはあらゆる言葉を聞き取り、語り、民に教え、その上での結論はこれです。「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。」神を畏れ、神の前にへりくだることによって、神の民は初めて一つになるのです。
「神は善であれ悪であれ、あらゆる隠されたことについて、すべてのわざを裁かれる。」神の前で生き、神と共に私たちは生きていきます。ただ、この書で繰り返し語られてきたとおり、世界は不条理に満ちています。報酬やご褒美を期待して神に従うわけではありません。神さまは取引の相手ではないからです。しかしそれでも私たちは神の前で生きている。太陽の下、私たちは神に与えられた人生を生きていきます。ここに私たちのために神が備えてくださった幸せがあるのです。

2021年8月12日木曜日

2021年8月12日(コヘレトの言葉12:3~7)

コヘレトの言葉12:3~7
塵は元の大地に帰り、息はこれを与えた神に帰る。(7節)

今日の箇所は、ぜひ聖書を開いてご自身で全体を読み返してください。ここは老齢の隠喩として知られている言葉です。以下の注を参考にしながら読み返してくださるとよいかと思います。
3節 家を守る男たち:肋骨と腰。力ある男たち:足。粉挽く女:歯。窓辺で眺める女たち:目。
4節 粉を挽く音:歯の音。通りの門:口、耳、肛門。鳥のさえずりで…歌声は小さくなる:耳が遠くなる。
5節 アーモンドは花を咲かせ:白髪。ばったは足を引きずり:足が弱る。ケッパーの実はしぼむ:食欲や性欲の減衰。永遠の家:墓。
人が年をとっていく姿、その現実の厳しさを言い表し、肉体が衰えていくことをじっと見つめています。
ヘルマン・ホイヴェルスという神父が「最上のわざ」という詩を紹介しています。今日はこれをご紹介して終わりたいと思います。

  最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、
親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつ外していくのは、
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、
臨場の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

2021年8月11日水曜日

2021年8月11日(コヘレトの言葉11:7〜12:2)

コヘレトの言葉11:7〜12:2
若き日に、あなたの造り主を心に刻め。
災いの日々がやって来て
「私には喜びがない」と言うよわいに
  近づかないうちに。(12:1)

コヘレトの言葉もいよいよクライマックスが近づいてきました。12:1はコヘレトの中でも特に愛されている言葉であるのではないかと思います。私は最初口語訳聖書でこの言葉を覚えました。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」今回11:7から連続した箇所としてここを読んだときに気付いたのは、若い日だけではなく人生のさまざまな日々に対する大いなる肯定の言葉の中に、この言葉があるのだ、ということでした。
7節の「光は快く、太陽を見るのは目に心地よい」というのは、まさに人生への大いなる「然り」だと思います。太陽の下で行われていることをつぶさに見てきたコヘレトです。不条理や不正が横行している有り様も見つめてきました。私たちの人生には労苦が多い。しかし太陽の下に生きる私たちが太陽の光を浴び、その光の中に生きることは快く、すばらしい喜びがあるのだ、と言います。しかも、その喜びは若者だけが謳歌できるものではありません。
「人が多くの年月を生きるなら
これらすべてを喜ぶがよい」
と言います。もちろん「闇の日が多いことも」、コヘレトはよく知っています。そうであるからこそ、若い者も年を重ねた者も、神が与えてくださった人生の楽しみを喜べ、と言って励ますのです。
冒頭の言葉、「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」というのは、私たちに喜びも悲しみもある人生の日々を与えてくださった神さま、私たちを照らす太陽も、夜の闇もお造りになった方を心に刻み、この方を畏れ、この方のゆえに喜べ、ということであろうと思います。私たちに命を与えてくださった方の前で、私たちは生きている。だから、若い日々も、年を重ねた時にも、同じ神さまの祝福と慈しみの中を私たちは生きているのです。造り主なる神様を覚えることこそ、私たちの最高の幸せなのです。

2021年8月10日火曜日

2021年8月10日(コヘレトの言葉11:1〜6)

コヘレトの言葉11:1~6
すべてをなす神の業は知りえない。(5節)

今日の箇所では、将来に対する私たちの無知が繰り返されています。
「あなたのパンを水面に投げよ。
月日が過ぎれば、それを見いだすからである。」
私はこの言葉が好きです。水面に向かってパンを投げるという一見すると無駄な行為を勧めている。パンを水に投げても、流されて失われてしまうだけです。私たちの知恵で分かるのはそこまで。しかし、驚くべきことが起こる、と言います。「月日が過ぎれば、それを見いだすからである。」水面に投げたパンを後の日に見いだすというのは、私たちの考えからは起こりえないことです。しかし現在しか見えないゆえに無意味にしか映らないことを、神さまに期待して誠実にするならば、後の日にそのパンを見いだす。もちろん、そのパンに養われることになるだろう、という意味に違いありません。この言葉はユダヤの伝統では慈善の行為をせよという意味で考えられてきたそうです。慈善の行いも、相手がお返しをしてくれるとか自分の慈善を見た周りの人が褒めてくれるとか、そういう見返りやお返し、ご褒美を期待できない行いです。期待しては慈善にならない。まさに水面にパンを投げるようなことであって、その先を生み出すのは神さまの御手の業です。私たちは将来に対して無知ですが、神さまはその手の中に治めておられます。
その他の言葉も同じだと思います。私たちは将来に対して無知だ。しかし、その将来は神さまの手の中にある。そのことへの信頼と、信頼するがゆえに今を誠実に生きることを求めています。6節にはこのようにあります。
「朝に種を蒔き
夕べに手を休めるな。
うまくいくのはあれなのか、これなのか
あるいは、そのいずれもなのか
  あなたは知らないからである。」
何がうまくいくのか、実りをもたらすのか、私たちには分かりません。だから私たちは今するべきこと、つまり種を蒔くことにいそしみます。最初から諦めたり、コストパフォーマンスをよくしたりするのではなく、今を誠実に生きる。そうしうるのは、将来が神さまの御手の中にあるからです。私たちには「すべてをなす神の業は知りえない」。だからこそ神を信頼し、神の業は神に委ねるのです。

2021年8月9日月曜日

2021年8月9日(コヘレトの言葉10:1〜20)

コヘレトの言葉10:1~20
死んだ蠅は香料職人の油を臭くし、腐らせる。
少しの愚かさは知恵や栄光よりも高くつく。(1節)

この章は賢さと愚かさを巡る格言集です。賢さと愚かさが一貫した主題とも言えますが、むしろいろいろな格言が納められているという印象を受けます。
例えば2節の「知恵ある者の心は右に、愚かな者の心は左に」という言葉は、知恵ある者と愚かな者とを鮮やかに対比します。両者は右と左に別れるほどに異なる結末を迎える。恐らく、文脈からすると当然、知恵ある者は幸いになり、愚かな者は不幸になると言っているのでしょう。
あるいは3節では「愚かな者は道行くときも思慮に欠け、誰にでも自分が愚かな者だと言い触らす」と言っていますが、思慮に欠けた愚かさを戒め、熟慮して知恵を持って生きることを勧めています。この3節に続く言葉も、思慮に欠ける浅はかさへの警告だろうと思います。「支配者があなたに憤っても、自分の場所を離れてはならない。」これに関わる言葉がこの章の最後のところに登場します。「心の中で王を呪ってはならない。寝室で富める者を呪ってはならない。空の鳥がその声を運び、翼を持つものがその言葉を知らせてしまう。」支配者、権力者、力ある者、富める者。彼らが横暴に振る舞うことがある。しかしそれに対して寝室の中でさえも呪うな、と言うのです。空の鳥がそれを運んでしまう。人の口に戸はかけられないということでしょうか。必ずその呪いの言葉は支配者の元に届き、あなたが罰せられてしまうから、ということであろうと思います。この世の権力者との関わりにおいても、知恵が必要です。
この章の冒頭の1節の言葉が特に私の心に残りました。
「死んだ蠅は香料職人の油を臭くし、腐らせる。
少しの愚かさは知恵や栄光よりも高くつく。」
愚かであることの代償は、知恵や栄光をも腐らせてしまうことだ、と言うのです。こういう言葉を読むと、改めて自分の愚かさが恨めしくなります。知恵ある人、賢い言葉を持っている人、そういう人に本当に憧れます。ただ、聖書の知恵はいわゆる頭の良さであるよりも、むしろ箴言が言っていたとおり、神を畏れることから始まる知恵であろうと思います。信仰や敬虔さと知恵との関わりは深い。そうとすると愚かさというのは、神を蔑ろにする愚かさでしょう。知恵は、悔い改めをもってしか求め得ないのではないでしょうか。

2021年8月8日日曜日

2021年8月8日(コヘレトの言葉9:13〜18)

コヘレトの言葉9:13~18
知恵は武力に勝るが
貧しい男の知恵は侮られ
その言葉は聞かれることがない。(16節)

僅かな住民がいる小さな町に大王が攻め込んできた、とコヘレトは語り出します。大王は町を包囲し、巨大の塁を築いた。町にしてみれば絶体絶命です。ところがこの町に知恵ある者がおり、その知恵によってこの町を救った。けれどもこの知恵ある男は貧しい人だったので人々は彼の知恵と貢献を心に留めることなく、すぐに忘れてしまった。それを見てコヘレトがいった言葉が、冒頭の言葉です。彼の知恵はすばらしく、武力にも勝る。しかし貧しいからという理由で、彼を覚える人はいない。
コヘレトが言及している出来事が歴史的にどの出来事を指しているのかは読んだだけでは分かりませんが、しかしそのようなことは分からなくても、この賢い男を巡る町の人々の扱いについては、私たちにもよく分かります。私たちの間でもこういうことは実際に起きているからです。
私たちは実際にこの人が賢いのかだとか、誠実なのか、熟考すべき言葉を語るのか、そういったことよりも、豊かなのか、社会的に信用されているのか、皆が認めているのか、といったことに左右されてしまいます。海外の立派な賞を獲った映画を手放しにありがたがる心理と似ているのかも知れません。映画は作品としての中身の質で評価されるべきです。そんなことはよく分かっているのに、実際には権威に弱い。
コヘレトは言います。
「静けさの中で聞かれる知恵ある者の言葉は
愚かな者たちの支配者が叫ぶ声にまさる。」
人気のある指導者の絶叫や魅力的な言葉に注意しましょう。知恵は、語られた言葉の中身で測られるべきです。その言葉は人々を造り上げ、あるいは弱者に寄り添う言葉でしょうか。それとも、聞いている者の快楽に資する言葉でしかなく、結局は人気を集めの甘言に過ぎないのでしょうか。知恵の言葉を聞き分ける虚心坦懐な心を求めたいと願います。この世界で進む神の御業に少しでもかなう道を私たちが責任的に選ぶことができますように、祈ります。

2021年8月7日土曜日

2021年8月7日(コヘレトの言葉9:11〜12)

コヘレトの言葉9:11~12
太陽の下、私は振り返って見た。
足の速い者のために競争があるのでもなく
勇士のために戦いがあるのでもない。
知恵ある者のためにパンがあるのでもなく
聡明な者のために富があるのでもなく
知者のために恵みがあるのでもない。
時と偶然は彼らすべてに臨む。
人は自分の時さえ知らない。(11~12a節)

今ちょうど大きなスポーツイベントが開催されていますが、実際の試合では必ずしも前評判が高い選手が勝つとは限りません。世界ランクの上位者が勝つとは限らず、時に番狂わせが起きます。卓球で勝つこともあれば柔道で負けることもあります。だからこそスポーツはおもしろい。勝ち負け関係なくスポーツを楽しめるのは、勝つか負けるか前もって分からないからです。
ここで「足の速い者」とか「勇士」とか言っているのは、恐らくそのようなスポーツの場面の話です。「コヘレトの言葉」がギリシアの文化を知っていたのか否かは研究者の間でも意見が分かれているようです。ですから古代オリンピアでの競争と関係があるのかどうかは分かりません。いずれにしても、足が速いからといって競争に勝てるとは限らないし、勇士だからといって戦いに勝つとは限らない。知恵ある者、聡明な者、知者が成功するとも限りません。肉体の鍛錬も知恵の鍛錬も、人間の努力の範疇の影響が大きい部分ですが、私たちの人生を左右するのは自分の鍛錬ではどうにもならないことも多いです。「時と偶然は彼らすべてに臨む。人は自分の時さえ知らない。」
私たちは自分の「時」に対して、無知です。自分がこれからどうなるのかも分からないし、努力をしたから必ず報われるとも限らない。あるいは神さまがすべてをすでに決めているのでその運命を推し量れば不幸から免れることができるということでもない。だから、聖書は占いを忌み嫌います。私たちは時に対して無知です。時は神さまの手の中にあります。「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない」(3:11)。だから、神さまに信頼しよう、というのがコヘレトが私たちに伝える信仰です。私たちの努力ではどうすることもできない人生の「時」は、神の麗しい業の中にあるのだから、この美しい神の御業を信頼しよう。聖書は私たちにそのように語りかけます。

2021年8月6日金曜日

2021年8月6日(コヘレトの言葉9:7〜10)

コヘレトの言葉9:7~10
愛する妻と共に人生を見つめよ
  空である人生のすべての日々を。
それは、太陽の下、空であるすべての日々に
  神があなたに与えたものである。
それは、太陽の下でなされる労苦によって
あなたが人生で受ける分である。(9節)

空である人生のすべての日々、と言っています。コヘレトの言葉に登場するこの「空」という言葉には「つかの間」という意味もあります。空である人生というのは、とても短い、つかの間の人生と理解することも可能です。私たちの短い人生、つかの間の人生を、あなたの妻と共に見つめよ、とコヘレトは言います。
ブラジルに行って見た風景を思い出しました。ブラジルの都会ではなく、田舎のほうです。舗装されておらずデコボコで、アップダウンもかなり激しい道の両脇に、たくさんの家が建っていました。ブラジルではいわゆる自分の土地でなくても、家を造って何年間か住んだという実績があれば、そこは自分の土地になるのだそうです。そういう家がたくさんありました。そこには電気なんてありませんが、自分で電柱から勝手に電線を引っ張って電気を拝借して生活していました。見るもの聞くものすべてがカルチャーショックです。たくましいと思います。私にとってとても印象的ですごく好きだった光景は、夕方になると、人々が家の前に出てきて座っているのです。家の中にいる家族は、可能な限りほとんど皆出てきていたのではないかと思います。椅子を置いて玄関に座り、通りを眺めておしゃべりをしている。その日一日を振り返り、一日の労苦を分かち合っているのだろうと思います。
私は今日の御言葉を読んで、この光景を思い出しました。そして、聖書が私たちの謂わば「庶民的な幸い」のようなものを肯定し、そこに神の恵みを見ていることを感じ、とても嬉しくなりました。私たちの人生の歩みはつかの間のことであり、私たちにできることは空でしかないかもしれません。しかし、私たちは神に与えられたものとしてこの人生を楽しみ、一日の労苦を妻や夫、親や子どもといった愛する者と分かち合う喜びに生きることが許されています。それは幸いなことです。あるいはそれだけではなく、一緒に働く同僚や隣近所の人と言葉を交わし、一日の労苦をねぎらい合います。それが神が与えてくださった私たちの人生の分なのです。

2021年8月5日木曜日

2021年8月5日(コヘレトの言葉9:1〜6)

コヘレトの言葉9:1~6
私はこれらすべてを心に留め、明らかにした。すなわち、
正しき者も知恵ある者も
  彼らの働きは神の手の中にある。
人は、愛も憎しみも
目の前にあるすべてのことを知ることはない。
すべての人に同じことが起きているにすぎず
一つの運命が
正しき者にも悪しき者にも、善人にも、
清い人にも清くない人にも
いけにえを献げる人にも献げない人にも臨む。(1~2節)

どのような人にも同じ運命が臨む。コヘレトはここで誰であっても必ず死ぬときが来る、と言っています。「その後は死者のもとへ行く」(3節)。その人がどんなに正しい人であったとしても、逆にどんなに悪い人であったとしても、同じように死にます。私たちの愛も憎しみも、死を乗り越えることはできません。これまで人間が生まれてから無数の人々が経験してきたこの事実をコヘレトはじっと見つめます。
「メメント・モリ(あなたの死を覚えよ)」という言葉があります。自分自身の死をいつも忘れず、覚え、これを見つめて生きよ、という言葉です。コヘレトは「メメント・モリ」の人だったのではないかと思います。私は必ず死ぬ。私の愛する人も。じっとその事実を見つめてたとき、コヘレトはここまで読んできたことからも明らかなとおり、今日神さまに与えられた命を喜び、楽しもうと言い続けてきました。食べることや飲むことも楽しもう。神が与えてくださった命、神が与えてくださった喜びではないか、と。自分の最期の時を見つめることは、今を生きるということでもあります。私たちは自分の死を見つめることによって、自分の命を見つめるのです。
私たちにとって死を見つめるというのは、私たちの生きているときにも死ぬときにも私たちの真実な救い主でいてくださるイエス・キリストを見つめるということに他なりません。「主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです」(フィリピ4:4~5)。私たちを死から救うために私たちのところへ来てくださっているキリストを見つめ、喜んで今日の日を生きていきましょう。

2021年8月4日水曜日

2021年8月4日(コヘレトの言葉8:1〜17)

コヘレトの言葉8:1~17
地上に起こる空なることがある。
悪しき者にふさわしい報いを正しき者が受け
正しき者にふさわしい報いを悪しき者が受ける。
私は、これも空であると言おう。(14節)
私は神のすべての業を見た。太陽の下で行われる業を人は見極めることはできない。人を探し求めようと労苦しても、見極めることはできない。たとえ知恵ある者が知っていると言っても、彼も見極めることはできない。(17節)

ある程度社会が順調に進んでいるときには、何らかの意味で因果律が働きます。悪しき者には悪しき者としての報いがあり、正しき者には正しき者としての報いがある。言葉を換えれば、完全ではないにしてもおおよそ社会は公正であると言うことができる。しかし、そういう因果律を前提にできなくなってしまう時代もあります。例えば戦時です。あるいは疫病の蔓延が今よりもっとひどくなり、社会が崩壊してしまう事態に陥れば、そういう時にもやはり社会の公正さはこれまで以上に崩壊してしまうでしょう。私はコヘレトが見ていた社会は、因果律や公正さが崩壊した社会なのであろうと思います。「悪しき者にふさわしい報いを正しき者が受け、正しき者にふさわしい報いを悪しき者が受ける。」そしてそれは空だと言うのです。
同じような時代を背景としたものとしては、例えばヨブ記も挙げられると思います。ヨブは無垢な人で、神さま御自らがヨブについて「地上には彼ほど完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけている者はいない」とおっしゃっていました。しかし、まさにヨブは「悪しき者にふさわしい報いを正しき者が受け」たのです。何の謂われもなく不幸な目に遭いました。子どもたちを失い、家財産をすべて失い、本当にひどい皮膚病に冒されたのです。ヨブの妻は「神を呪って死んでしまいなさい」と言わざるを得なかった。あまりに不公正な目に遭っているからです。
コヘレトが見つめているのも、同じような不公正な社会、正しき者への報いが期待できず、悪しき者が栄える社会です。デタラメな社会です。そんな社会の中でもコヘレトは信仰を失わず、神さまを信頼します。太陽の下で行われる神の業のすべてを見極めることはできない、だからそれを神に委ねるのです。従って、人間にふさわしいのは「太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに人の幸せはない」とここでも繰り返し言います。神がそれを与えてくださったのだから、と。
私たちの目に映る「現実のゆえに」神を信じるのではなく、「それにもかかわらず」神を信じるということが問われます。世界の不条理を本当に甘んじて受け、不公正な苦しみを苦しんだのは、本当はキリストご自身です。このお方が与えてくださった今日一日の命を誠実に、また楽しく生きるところに価値を見るコヘレトのまなざしは、真実なものです。

2021年8月3日火曜日

2021年8月3日(コヘレトの言葉7:23〜29)

コヘレトの言葉7:23~29
ただし、見よ、これを私は見いだした。
神は人間をまっすぐに造ったのに
人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。(29節)

神は、人間をまっすぐに造った。これが聖書の基本的な人間観です。そもそも人間はまっすぐなもの、良いものとして造られた。「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです」(エフェソ2:10)。それなのに、まっすぐに造られたはずの人間がさまざまな策略を練ろうとし、その策略のためにさかさまな者になってしまっている。コヘレトは人間が自滅的に生み出した悲惨をつぶさに見てきたのです。
私はこの言葉を読んで、ハイデルベルク信仰問答の言葉を思い出しました。ハイデルベルク信仰問答では、聖書の中で最も大切な戒めは、主イエスが教えてくださった神への愛と隣人への愛、すなわち「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉であると言います。ところが、私たちは「生まれつき、神と隣り人とを憎む傾向にある」、愛し得ない現実があるといいます。そこでこのように問います。「神が人間を、そんなに悪く、さかさまなものに、お造りになったのでしょうか。」私は今日のコヘレトの言葉を読んで、この「さかさまなもの」という言葉を思い出しました。生まれつき神を愛することにも隣人を愛することにも失敗し続けてきた私は、そもそも神にさかさまにつくられたのか?愛に生きることなんて最初から不可能な悪い存在なのか?ハイデルベルク信仰問答はこう答えます。「いいえ、神は、人間を、よいもの、つまり、まことにご自身の姿に似せて、正しい聖いものに、お造りになったのでありますから、人間は、神を、自分の造り主として正しく知り、心から愛し、神とともに永遠の祝福の中に生き、神をほめたたえるようにしてくださっているのであります。」そしてそのためにこそイエス・キリストが来てくださり、十字架にかかってくださったのだという話をしていきます。
神さまは私たちをまっすぐに造ってくださいました。良いもの、神のかたちに造ってくださいました。私たちが神に造られた者として、まさに「私らしく」生きるために、キリストが私たちのところへ来て、十字架へと進んでくださったのです。

2021年8月2日月曜日

2021年8月2日(コヘレトの言葉7:1〜22)

コヘレトの言葉7:1~22
幸せな日には幸せであれ。
不幸な日にはこう考えよ。
人が後に起こることを見極められないように
神は両者を造られたのだ、と。(14節)

とても卑近な例ですが、この一週間私は腰痛に悩まされていて、小さな不幸の日々を過ごしています。腰が痛くなると「腰」というこの漢字はよくできているといつも思います。コヘレトにとっては幸せな日に幸せを楽しむのはふさわしいことですし、逆に不幸な日の過ごし方も知っているのだ、と言うのです。不幸な日には「人が後に起こることを見極められないように、神は両者を造られたのだ、と」考えよ、と言います。私たちはいつ、何が、どう起こるのかは分かりません。後に起こることについて私たちは無知です。後になって振り返ってみることしかできません。そして、後になって振り返ったときに、不幸だと思っていた出来事が奇貨となって別のよい意味を持つことがあるのです。神さまがどの出来事をどのように用いるのか、私たちには分かりません。それは神さまの範疇なのだから、幸か不幸かで一喜一憂するのではなく、神さまにお任せして今を楽しんで生きよ、とコヘレトは言います。


あなたは義に過ぎてはならない。
賢くありすぎてはならない。
どうして自ら滅びてよかろう。
あなたは悪に過ぎてはならない。
愚か者であってはならない。
あなたの時ではないのに、どうして死んでよかろう。(16,17節)

私はこの言葉が好きです。聖書が教える人間関係の極意、という感じさえ受けます。義に過ぎたり悪に過ぎたりしてしまうのは、自分が絶対だという思い込みから始まるのかも知れません。本当は「あなた自身が何度も他人を呪ったことを、心は知っているはずだ(22節)」と言うとおりで、私は絶対でも何でもなく、正しくないのです。今日の御言葉は、神さまの前にある私たちの小ささを気付かせる言葉だと思います。

2021年8月1日日曜日

2021年8月1日(コヘレトの言葉6:1~12)

コヘレトの言葉6:1~12
太陽の下、私はある災いを見た。それは人間に重くのしかかる。神が富と宝と栄誉を与えて、望むものは何一つ欠けることのない人がいた。だが、神はそれを享受する力をその人に与えず、他の人がそれを享受することになった。これも空であり、悪しき病である。(1~2節)
空である短い人生の日々に、人にとって何が幸せかを誰が知るのだろう。人はその人生を影のように過ごす。その後何が起こるかを、太陽の下、誰も人に告げることができない。(12節)

太陽の下、コヘレトがみたある災い。これは第4章などで「私は再び太陽の下で行われるあらゆる虐げを見た」と言っているのに対応しています。この社会の虐げや不正を見たコヘレトが、今度は災いを見つめている。人間に重くのしかかるその災いとは、いかなるものなのか。このように言います。
「神が富と宝と栄誉を与えて、望むものは何一つ欠けることのない人がいた。だが、神はそれを享受する力をその人に与えず、他の人がそれを享受することになった。」
神さまがせっかく富と宝と栄誉を与えてくださったのに、その人はそれを享受する力を持たなかった。結局、他の人がそれを享受することになった、と言います。何を言っているのでしょうか?小友聡というコヘレトの言葉の研究をしておられる先生によると、この言葉の背景には「黙示批判」がある。私なりに言い換えると、死後の救いばかりに心を奪われて極端な禁欲をし、この世の楽しみをまったく否定する人たちがいた。コヘレトは彼らの考え方の誤りを指摘している。小友先生がおっしゃっているのはそういうことだと思います。
コヘレトは食べたり飲んだりする楽しみを肯定します。「人の労苦はすべて口のためである。」ただし、ただ美食を楽しんで放埒に生きるというのでもない。「だが、それだけでは魂は満たされない。」それではどうしたら良いのか?「空である短い人生の日々に、人にとって何が幸せかを誰が知るのだろう。」ある人たちはよの楽しみを否定し、あるいはその価値を認めずに禁欲に心を傾けます。しかし食べる物も飲むものも神が造った良いものであって、神に与えられたものとして感謝して受けるのであれば、すべては良いものであるはずです。だからコヘレトは言います。「神が富と宝と栄誉を与えて・・・」と。神が与えてくださったものとして感謝して受けるということが大切なのです。神に与えられた人生の中で、神に与えられた楽しみを喜ぶ。コヘレトはその尊さを私たちに伝えます。神さまに頂いたものとして、私たちの小さな楽しみも神の祝福の内にあるのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...