2022年4月30日土曜日

2022年4月30日の聖句

主はモーセに言われた。「あなたは私の目に恵みを見出した、私は名指しであなたを選んだ。」(出エジプト記33:17)
イエスは言う:私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。(ヨハネ10:14)

「あなたは私の目に恵みを見出した。」素敵な御言葉です。モーセは、主の御目に恵みを見出した。主なる神さまと見つめ合い、その目に自身への深い恵みの光を見いだした。もちろん、神さまは私たちの目には見えない方ですから、「神さまの目」というのは比喩表現であるに違いありません。しかし、神さまと見つめ合うほどに親しく祈り、神さまを慕い、神さまに自分の目を注ぐようにして思いも心も集中する。そういうモーセの信仰生活、祈りの生活が見えてくるような御言葉です。神さまは、そのようにして神さまを愛するモーセを喜び、恵みに満ちた視線をモーセに投げかけていたのでしょう。
主イエスは言われます。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」主イエスも、やはり、主ご自身が私たちのことを知っていてくださり、主の羊である私たちも羊飼いイエスを知っている、と言われます。羊飼いである方と羊である私たちとの本当に親しく、愛に満ちた関係。羊飼いは、羊を愛し、見つめ、いつも守っていてくださることでしょう。羊もその羊飼いを愛し、その声を聞き分け、この羊飼いに導かれる平安と、この羊飼いが与える安息を喜んでいる。そういう愛に満ちた交わりの関係が、キリストと私たちの関係だと主イエスは言われます。
このようにして私たちが毎日過ごしている祈りの時間。これこそ、モーセが経験し、主イエスが教えてくださった、神さまとの尊い交わりの時間です。今、神さまは私たちを見つめていてくださいます。恵みと慈しみに満ちたまなざしを向けて。私たちが神さまに向かえば、そこには神さまのご慈愛の目があります。今、私たちは神さまに心も体も向け、神の愛の中に生かされる幸いの内に、今日の日を歩んでいきましょう。

2022年4月29日金曜日

2022年4月29日の聖句

互いに心の中で悪を企んではならない。
偽りの誓いを求めてはならない。
これらすべてを私は憎むからだーー主の仰せ。(ゼカリヤ8:17)
神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、親切で憐れみ深い心をもって、互いに赦し合いなさい。(エフェソ4:32)

今日の旧約聖書と新約聖書の二つの御言葉は、併せて読むことによって新しい輝きを放つ御言葉ではないかと思います。「互いに心の中で悪を企んではならない。偽りの誓いを求めてはならない。」主なる神さまは、預言者ゼカリヤを通してそのようにおっしゃいました。心に企む悪や偽りの誓いを、主ご自身が憎んでおられる。
ところが新約聖書に進んで行くと、更に一歩踏み込んでいると言えるのではないかと思います。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、親切で憐れみ深い心をもって、互いに赦し合いなさい。」
ゼカリヤ書では悪を企むな、偽りの誓いを求めるな、とどちらも否定的な命令が語られています。これこれのことをするな。ところがエフェソの信徒への手紙では、「親切で憐れみ深い心を持って、互いに赦し合いなさい」と、肯定的な命令の表現に変わっています。この違いは小さくないと思います。
このエフェソの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、ローマの信徒への手紙でも、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな』、そのほかどんな戒めがあっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」と言って、否定的な命令表現を凌駕する肯定的な命令を聖書から聞き取っています。「親切で憐れみ深い心を持って、互いに赦し合いなさい。」これこそ、神さまの私たちへの命令であり、肯定的な形での神さまから私たちへの期待です。
それは、他でもなく「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」という言葉に根拠があります。主なる神様ご自身が私たちを赦し、キリストを与えてくださいました。神の赦しに応えて、私たちも憐れみと赦しに生きる。それが私たちの応答です。キリストがおられるから、私たちは「○○をしない」ではなく「憐れむ」「赦す」「愛する」という肯定の世界への扉が開かれている。キリストが私たちの世界を新しくしてくださったのです。

2022年4月28日木曜日

2022年4月28日の聖句

主は多くの民のために判決を下される。
彼らはその剣を鋤に、
槍を鎌に打ち直す。(イザヤ2:4)
神は、御言葉をイスラエルの民に送り、すべての人の主であるイエス・キリストを通して、、平和を告げ知らせてくださいました。(使徒10:36)

主イエスは私たちに、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ることを教えてくださいました。この方が生まれた夜、天使たちは天高く神を賛美していいました。
「いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心に適う人にあれ。」
主イエス・キリストこそ、神の御心をこの地に行い、平和を実現してくださると私たちは信じています。この平和はすでに来ている。「神は、御言葉をイスラエルの民に送り、すべての人の主であるイエス・キリストを通して、平和を告げ知らせてくださいました。」キリストが平和を告げ知らせ、私たちのために和解の福音をもたらしてくださった。だから、私たちがなおも争いと憎しみの世界を造ってしまっていることは、神に造られたものとして自己矛盾ですし、そういうさかさまな有り様を「罪」というのだと思います。神さまは私たちを戦争ではなく平和にふさわしく造ってくださいました。神に与えられた命は奪い合うためのものではなく、祝福し合うためのものです。
今日の旧約聖書の御言葉も印象深いものです。「主は多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す。」剣を鋤に、槍を鎌に。人を殺すための武器を打ち直して、命をつなぐ作物を得るための農耕具に変えてしまう。とても美しく、また具体的な平和のイメージです。
今も、私たちの世界は損なわれています。新しい戦争が始まり、以前から起こっていた争いが続き、たくさんの人が力なく殺されている。これは、私たち人類の罪です。自分のこととして私たちはこの罪を悔い改める祈りを神に献げ、この世界の癒やしを願い求めます。私たちの平和の主であるイエス・キリストのお名前によって、私たちは今日も祈ります。

2022年4月27日水曜日

2022年4月27日の聖句

あなたがたが今日までしてきたように、主に、あなたがたの神に忠実であれ。(ヨシュア23:8)
何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません。私たちの資格は神からのものです。(2コリント3:5)

「責任」という言葉は英語でresponsibilityと言いますが、この言葉はrespondereというラテン語から生まれたそうです。「応答する」という意味です。責任とは応答すること。何に応答するのか?私たちにとっては、何よりも神への応答です。神が私たちに語りかけ、呼びかけ、それに私たちは応答する。私たちが何事かをなしたとしたら、それはただ神の呼びかけに応答した、ということだけです。
「何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません。私たちの資格は神からのものです。」だから、私たちは然りには然りと言い、否には否と言い、ただ神の僕としてしなければならないことをします。神が私たちを呼んでおられます。私たちを、私たちの生きるべき場所へと神が遣わし、神が出会うべき隣人と出会わせ、そこで私たちが神に仕えることを期待しておられる。私たちはそのことを信じて、今日も神さまに仕えていきます。それが私たちの「責任」ではないでしょうか。
私たちは、必ず何かの僕になっているのではないかと思います。お金の僕になればお金に仕えることになるし、世間体の僕になれば世間体をよくするために生きることになります。しかし私たちは神の僕です。私たちを呼ぶ声は巷に溢れていますが、羊が羊飼いの声を知っているように、私たちは神の声に従う。聖書は「あなたがたが今日までしてきたように、主に、あなたがたの神に忠実であれ」と言います。本当にありがたいことに「今日までしてきたように」と言ってくれています。私たちの思いを超えて、神さまは私たちが今日まで神に仕えてきたと見てくださっています。恐れ多いことです。しかし、大切なのは変に自己卑下的な謙遜をすることではなく、聖書が言うとおり、今日までしたきたようにこれからも神に仕えることなのだと思います。
私たちのために僕になってくださった主イエス・キリストに仕え、神さまの呼びかけに応えるために、今日、私たちに新しい命が与えられました。

2022年4月26日火曜日

2022年4月26日の聖句

どこに、生きていて死を見ない人が、
自分の魂を死の手から救う人がいるでしょうか。(詩編89:49)
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。(ローマ6:23)

聖書を読むと、死には二つの側面があるように思います。一つは、私たちが生きているものとして、あるいは造られたものとして、必然的に迎えるべき死です。私たちは造られたものであって神ではない。神に与えられた命は、人生の道を歩み終えた後、神にお返しすべきものです。命あるものとして、私たちはいずれ死を迎えます。それは、自然なことです。
ところが、死にはもう一つの側面があるのだと思います。そのことをローマの信徒への手紙では「罪の支払う報酬は死です」と言っています。私たちは、罪人として死ななければならない。神に裁かれ、滅ぼされ、罪の報いとして死を迎えねばならない。その死は、神の裁きとしての死です。
この二つの死は不可分に組み合わされていて別々に考えることはなかなかできませんが、しかしやはり、私たちはただ単に生物として命の終わりを迎えると言うだけではなく、神に裁かれなければならない一人の罪人だということは、忘れてはならないことなのだと思います。主イエスは十字架の上で「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。キリストは神に裁かれて死ぬことがどんなに恐ろしいことなのか、神に棄てられることがどんなに悲惨なことなのかを誰よりもご存じでした。だから、誰よりも深く絶望なさいました。罪を犯したことのない方がほんの僅か一瞬であっても御自ら神の子であることを放棄して、私たち罪人の代表として神に裁かれ、死の呪いを引き受けたのです。
だから、聖書は言います。「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。」キリストが、私たちを罪から救ってくださいました。私たちの代わりに神に裁かれた方は、私たちを命へと救ってくださいました。だから、私たちはもう神の裁きとしての死、神に棄てられ、呪いとしての死を経験しないで済むのです。私たちがなお迎えねばならない死の意味が変わった。死は、今やよりよき命に生まれるための通路に過ぎないのです。私たちは既に死んだ者たち、そして自分自身の死についても望みを持っています。キリストが命へと救いだしてくださった、という希望を。

2022年4月25日月曜日

2022年4月25日の聖句

天は喜べ。地は楽しめ。民々の間で告げ知らせよ。主が支配されると。(歴代誌上16:31)
イエスは言う:私は天と地の一切の権能を授かっている。今、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ28:18~20)

「主が支配される!」この事実を、主イエスは「神の国は近づいた」とおっしゃいました。主イエスさまのなさった宣教は、主が支配される神の国がもうここに来ている、という宣言です。主は王となられた。主が支配される。主イエス・キリストが天と地の一切の権能を神から授けられた。私たちはその事実を信じ、「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ生きています。
今日の旧約聖書の御言葉は、ダビデの献げた感謝の祈りの一節です。十戒が納められた神の箱を都に向かえ、神さまの御前に礼拝を献げた時の詩編です。「御名の栄光を主に帰せよ。」「全地よ、御前におののけ。」「海とそこに満ちるものは、とどろけ。野とそこにあるものも皆、喜び勇め。」そのように賛美に賛美を重ねて、主なる神さまの御支配を喜び、それに服して神を賛美しています。
私たちが献げる礼拝も、ダビデの献げた礼拝と同じです。私たちは何よりも神さまを礼拝する時に神さまの御支配を知り、神さまの御支配のもとに生きている。神さまの支配は私たちを圧迫し、痛めつける支配ではありません。私たちに喜びを与え、勇気を得させ、私たちが楽しんで神の支配を賛美することのできる、恵みに満ちた支配です。
「私は天と地の一切の権能を授かっている」と言われた方は、私たちのために十字架にまでかかってくださった方です。私たちを極みまで愛し抜いてくださった方です。このキリストのお姿に、神さまの御心は余すところなく現れている。ここに見える神の支配は私たちの喜びです。だから、神さまを礼拝することは私たちの喜びです。私たちが神さまの恵みを経験するかけがえのない時です。
今日も、私たちはキリストの支配する世界で生きていきます。私たちの目にそれがよく見えない時にこそ、信じましょう。この世界の根本にあるのは、混沌とか憎しみとかではなくて、キリストの愛に満ちた支配なのだ、ということを。私たちはキリストの福音によって、今日も生かされているのです。

2022年4月24日日曜日

2022年4月24日の聖句

私は主にあって喜び、わが救いの神に喜び踊る。(ハバクク3:18)
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)

今日の新約聖書のルカによる福音書の御言葉は、この段落全体を読むととても興味深い箇所です。主イエスの72人の弟子たちが伝道旅行に派遣された。行く先々で、彼らは悪霊を追い出し、服従させることにさえ成功しました。帰って来て、主イエスにそのことを喜んで報告した。すると主イエスが言われるのです。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」
せっかく成果を上げて帰って来たのに、水を差すようなことを主イエスは言われるのです。そんなことを喜ぶな、と。ある意味では、主イエスからしたらそれは当然、という思いもあったのかも知れません。私が力を授けたのだから、悪霊に打ち勝つのは当然だ。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」むしろ、このことを喜べ、といっておっしゃったのが、今日の御言葉です。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
今日、私たちは自分の喜びを点検してみたいと思います。私たちの喜びはどこから来る喜びでしょうか。自分が上げた華々しい成果なのか。それは主イエスのご用のお役に立った、という喜びであったとしても、主イエスは、私が力を授けたのだからそれは当然、と言われるかも知れません。私たちは何ができた、どういう成果を上げることができたということよりももっともっと大きな奇跡にあずかっている。そのことをこそ喜べ、と主は言われます。「あなた方の名が天に記されていることを喜びなさい。」神が私たちを覚え、私の名前も記してくださっている。私もキリストに救って頂いた。その事実をこそ喜べ、と主は言われます。
もしかしたらこの喜びは、私たちにとっては存外にしんどい喜びではないでしょうか。目に見える成果や自分の成長のほうが分かりやすいし、納得しやすいし、説得力があります。しかし本当に価値があるのは、私の力がどれだけなのかということではなく、悪霊を追い出す力を与え、私の名を天に記録することさえできるキリストのお力です。そのキリストが今日も私の救いのために働いてくださっている。その事実を私たちは喜び、主の御前に歩む。ここに、尽きることのないまことの喜びがあります。

2022年4月23日土曜日

2022年4月23日の聖句

あなたは潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。(イザヤ58:11)
私が与える水を飲む者は永遠に渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネ4:14)

アフガニスタンで活動した医師の中村哲さんは、この国を覆う病気や貧困、難民などの問題を解決するためには水が必要だと考え、現地に水路を通す働きをしました。中村さんらの活動によって、砂漠であったところに水がもたらされ、豊かな園になりました。
「あなたは潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。」水が流れ、潤えば、何も育たない荒れ地も豊かな園になります。人や動物の命をつなぎ、平和の基になることができます。園を生み出そうという中村さんの慧眼と実行力、人に命をもたらそうというあり方に心からの敬意を覚えます。
「あなたは潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。」神さまがそのようにおっしゃった時、それは大地が園になるというだけではなく、私たち自身が人に命をもたらす園になるとおっしゃったに違いありません。あの一人の医師であり、キリスト者である方がそうであったように、私たちも園のように、水の涸れない水源のようになる。それは神さまが約束してくださったことです。
私たち自身の中を探しても、水の涸れない水源なんて見つかりっこありません。自身から湧いて出るものなんて、僅かなお湿りにだってならないことでしょう。しかし、私たちには尽きることのない泉である方がおられます。「私が与える水を飲む者は永遠に渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」主イエス・キリストが私の泉となって、私の内に水をこんこんと湧き上がらせ、私たちは決して涸れることがない。主イエスさまが私の潤いになってくださるからです。
そのことを私たちは、日ごとに祈る度に経験します。そして何よりも、礼拝において経験します。キリストが私を永遠に潤してくださる。私の中には何も見つからなくても、キリストは私の命でいてくださいます。この命は私自身から溢れ出て、私の隣人をも生かす命の水になる。キリストの約束を信じて、今日、隣人に出会いましょう。

2022年4月22日金曜日

2022年4月22日の聖句

立ち上がって、実行しなさい。主があなたと共にいてくださるように。(歴代誌上22:16)
使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かにあった。(使徒4:33)

礼拝の最後に「派遣の言葉」があります。私たちは神さまに礼拝を献げ、この世に派遣されていきます。礼拝から私たちを送り出す派遣の言葉。私は普段カンバーランド長老教会の礼拝書に従って派遣の言葉を述べていますが、その中の一つでこのように言われています。「キリストの復活の証人として、あなたがたをこの世へ遣わします。キリストに見守られている幸いを、分かち合いなさい。愛の奉仕に励み、健やかに祈りの道を上歩みなさい。」
ここで「キリストの復活の証人として、あなたがたをこの世へ遣わします」という言葉があります。礼拝を献げた私たちは何者としてこの世に出て行くのかと言えば、それは「キリストの復活の証人」です。「主は生きておられる」と、この世で証しを立てるために、私たちはこの世界に派遣されています。
「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かにあった。」キリスト教会は、誕生した最初の時からキリストの復活の証人でした。教会が宣べ伝える福音は、キリストの復活の福音という一事に集中していました。「主は生きておられる!」この事実が私たちを罪から救い出し、まさに来たる神の国に迎え入れる救いの宣言だからです。
言葉を通してでも、行動を通してでも、あるいはひっそりと祈り、静かに隣人を愛することにおいてでも、私たちはキリストの復活の証人です。私たちのすることなすことが、主が今生きて働いておられることを証言するものとなりますようにと私たちは祈りつつ一日を始めます。
「立ち上がって、実行しなさい。主があなたと共にいてくださるように。」そのための力を、主なる神さまは私たちにくださることでしょう。主が共にいて、私たちを証人として整えてくださることでしょう。今日も、キリストの祝福があなたと共にありますように。

2022年4月21日木曜日

2022年4月21日の聖句

悪を憎み、善を愛し、町の門で公正を打ち立てよ。あるいは、万軍の神である主が、憐れんでくださることもあろう。(アモス5:15)
光の子として生きなさい。光は、善と義と真理以外のものをもたらすことはありません。(エフェソ5:8~9)

旧約聖書の方に「町の門」という言葉があります。古代のユダヤの社会では、町の門に長老たちが集まって、大切なことを決めていたそうです。裁判もそこで行われていた。現在で言えば行政や司法の場、ということになるのではないかと思います。町の門での営み、それは社会の営みです。一人で生きるのではなく、家族や気の合う仲間とだけ生きるのではなく、いろいろな人がいる社会を形成して生きる時に「悪を憎み、善を愛し、町の門で公正を打ち立てよ」と、主なる神さまは私たちに命じておられます。
難しいのは、それぞれの立場によって人の数ほどの善や悪があることです。現代はそのことをとても強く考えさせられる時代でもあると思います。いろいろなトラブルの場面でも、大きく考えれば戦争をしている国々にも、それぞれの正義があるに違いない。しかし「どっちもどっち」と言って相対化して、無責任に傍観していることもできないと思います。そういうときに、一体何を基準に善悪を判断したら良いのでしょう。
町の門での営みを、聖書は「公正を打ち立てよ」と命じています。公正さ。それは聖書の中で一貫して大切にされていることです。聖書は、社会がやもめや孤児、寄留の外国人を虐げることを決して許しません。当時の社会では、今では考えられないほどの弱者でした。あるいは、週に一度の安息日は、主人だけではなく奴隷も、家畜も休ませなくてはならない。むしろ、奴隷や家畜が休むということに安息日の一つの目的があったと言っても良いと思います。聖書は強い者が強いままに、当たり前に振る舞うことを良しとしません。公正ではないからです。神さまは貧しい人、弱い人、虐げられている人を重んじ、富む者と貧しい者とが公正に生きることを望んでおられます。その辺りに、善悪の一つの基準があるのではないでしょうか。
今朝の新約聖書は言っています。「光の子として生きなさい。光は、善と義と真理以外のものをもたらすことはありません。」この御言葉は、更に、もっともっとはっきりしています。光の子として生きる。光の子、それは神の子ということです。キリストの弟として、妹として生きるということです。そこには善と義と真理以外のものは生まれこないと言います。私も光の子にして頂いている。神さまはこのように小さな私にさえも公正に振る舞ってくださっている。キリストの愛という光の中に、私たちの今日一日も置かれているのです。

2022年4月20日水曜日

2022年4月20日の聖句

イスラエルを散らした方はこれを集め、自分の群れを牧する者のようにこれを守られる。(エレミヤ31:10)
イエスは祈る:彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします。すべての人を一つにしてください。(ヨハネ17:20~21)

主イエス・キリストは私たちの羊飼いとして、私たちを集め、私たちをご自分の羊として守ってくださいます。例え私たちがちりぢりになってしまうようなことがあったとしても、主イエスさまが私たちの羊飼いである事実は変わることがないし、私たちが主の羊であることは、どんなとき、どんな場合にも変わることがありません。例え私たちが主を拒んでしまい、群れから迷い出てしまったとしても、主イエスはその失われた一匹を探して、見つかるまで探し、見つかったことを心から喜んでくださいます。このお方は、私たちを愛する羊飼いです。
「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします。」主イエスはそう祈っておられます。この「彼ら」というのは、主イエスの前にいる弟子たちのことです。主イエスは目の前にいる弟子たちのために祈り、しかし「彼らのためだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも」と言って、更に祈っておられる。主イエスの弟子が語る福音の言葉を聞いて主を信じ、主と出会った人々。つまり、私たちのことです。主イエスは私たちのためにも祈っていてくださる。
何を祈って折られるのかといえば、他ならぬ、私たちが一つとなるように、と。ちりぢり、バラバラになってしまう私たちをひとつにするために、主が祈っていてくださいます。この二年のコロナの日々は、私たちを分断する恐ろしい力に満ちていた。或いは、もともとバラバラにする力にさらされていたことが表面化したのではないかと思います。病だけではなく、それによって冷えた私たちの心が問題の急所だと思います。だからこそ、それを癒やすことができるのは、主イエスさまだけです。主イエスの愛が私たちを一つにしてくださる。そのために、私たちの羊飼いは今日も私たちを探してくださっているのです。

2022年4月19日火曜日

2022年4月19日の聖句

あなたに向かって、私は手を伸べ広げ、私のたましいは乾ききった地のように、あなたを渇望します。(詩編143:6)
渇いている者は誰でも来なさい。欲しい者は、命の水を、価なしに受け取りなさい。(黙示録22:17)

主イエス・キリストは私たちの渇きを誰よりもよく知っていてくださって、私たちを招いておられます。「渇いている者は誰でも来なさい。」この方は十字架の上で「渇く」とおっしゃいました。渇きを知っておられる方です。サマリアの井戸端でも渇き、しかも汲む者がないという失望の状況をも嘗めながら、私たちの渇きをよく知っておられます。肉体の渇きも、魂の渇きも。誰よりも渇くことを知っている方が、私たちを招いておられます。「渇いている者は誰でも来なさい。」
古代教会の代表的な指導者であるアウグスティヌスは、若いころは放埒を重ねて生きていました。渇きを満たすために欲望を満たそうとして生きていた。彼の母はとても信仰深い人でしたが、青年アウグスティヌス自身はマニ教という異教に傾倒し、しかもますます渇いて放縦にのめり込んでいった。やがて回心してキリスト者となり、司教となったアウグスティヌスが、自分の道を振り返って『告白』という本を書いています。その冒頭に彼はとても有名な文章を書きました。「あなたは人間を呼び起こして、あなたをほめたたえることをよろこびとされる。あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじないからである。主よ、どうかわたしに、知らせ悟らせてください。あなたを呼び求めることとあなたをほめたたえることと、いずれが先であるかを。・・・主よ、わたしはあなたを呼び求めながら、あなたをたずね、あなたを信じながら、あなたを呼び求めよう。」
主イエス・キリストが与える命の水によって、私たちは生きることができる。私たちの渇ききった魂は、主イエス・キリストによってしか癒やされないからです。主イエスは、私たちに何の価もなしに飲ませてくださいます。私たちが何も持っていなくても、命を得させてくださいます。このお方が、今日も、新しく私たちを招いてくださっています。「渇いている者は誰でも来なさい。欲しい者は、命の水を、価なしに受け取りなさい。」キリストの招きに、今、応えましょう。

2022年4月18日月曜日

2022年4月18日の聖句

夜も昼も、この家、この場所に目を向けていてください。ここは、あなたが、「そこに私の名を置く」と仰せになったところです。(王上8:29)
週の初めの日の夕方、弟子たちが集まって、家の戸に皆鍵をかけられていたとき、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:19)

今日の旧約聖書の御言葉は、イスラエルの王ソロモンの祈りの言葉です。何年も掛けてエリサレムに神殿を建築したソロモンが完成した神殿を神に奉献したときの祈りの言葉です。この神殿で、あるいはこの場所に向かって私たちが献げる祈りを、どうか聞いてください。この祈りの家にあなたの御目をお向けください、と祈っています。神殿は、神の民の信仰の中心でした。年に三回、エルサレムの神殿に来て神を礼拝することが義務づけられていたほどです。まさに祈りの家です。
ところが、主イエスはあるときおっしゃいました。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」今や、エルサレムでもなく、あるいは他の場所に造った神殿でもないところで神を礼拝する時が来る、と主イエスは言われます。それでは、一体どこで?
今日の新約聖書では、イースターの日の夕方、恐れて家に閉じこもっていた弟子たちのところへ主イエスが訪ねてくださった出来事が報告されています。主イエスが弟子たちと再び出会い、「あなたがたに平和があるように」と言って福音の言葉を聞かせてくださいました。この続きを読むと、ここにはトマスがおらず不信に陥りますが、一週間後の安息日、今度はトマスも一緒にいる時に主イエスがもう一度来てくださり、トマスも主イエスと出会うことができた。
私たちがキリストと出会い、キリストから福音を聞き、キリストを礼拝する場所。それは、信仰共同体の中です。今、神さまは特定の建物や場所をご自身の住まいとなさるのではなく、神を信じる民をご自身の住まいとなさる。神は、そこで私たちと出会ってくださいます。
教会は神の家です。教会は、建物のことではありません。神を信じる私たちの交わりです。礼拝の交わり、主イエスと出会いが起こる交わり。そこが教会であり、そこが神のお住まいです。神が私たちに目を向け、耳を傾けてくださっていることを信じ、私たちは神を礼拝し、神に祈りを捧げています。

2022年4月17日日曜日

2022年4月16日の聖句

死期が近づいたとき、ダビデは息子ソロモンにこう言い残した。「私は、この世のすべての者がたどる道を行こうとしている。だが、あなたは強く、雄々しくありなさい。主の掟と戒め、法と定めを守りなさい。」(王上2:1~3)
復活の主は言う「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)

今日の新約聖書の御言葉は、イースターの日の夕方の出来事を伝えています。弟子たちがユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたときのことです。主イエスが来て真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言ってくださったのです。
弟子たちはユダヤ人たちを恐れた、と聖書に書いてあります。これは、単に自分たちも殺されるかも知れないという恐怖だけではなかったのではないかと思います。もちろんそれも大きかったと思いますが、それだけではないのではないか。すなわち、彼らはほんの数日前に主イエスを捨てて逃げています。ペトロは三度も繰り返してイエスとを知らないと言い放ちました。ユダヤ人たちは、自分たちの不誠実さや不信仰を知っています。それは単に恥ずかしいというだけではなくて、自分の罪の生き証人だということでもあります。ユダヤ人を恐れた弟子たちは、もしかしたら、主イエスのことも恐れていたのかも知れません。罪深くもイエスを裏切って捨てたからです。
しかし、主イエスは彼らのところに来て「あなたがたに平和があるように」と言いました。しかも「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」とも。この言葉は、「私はあなた達を赦す」という意味と考えて間違いないと思います。あなた方に平和があるように。そう言って、主イエスは彼らに新しい使命を与えて、彼らを将来に向けて出発させました。キリストの平和は、福音を宣べ伝えるところでどんどん現実化していきます。
キリストは私たちをお遣わしになります。平和の使者、キリストの福音の使者として。私たちは、キリストに遣わされた場所へ、この一週間も出発していきます。

2022年4月16日土曜日

2022年4月16日の聖句

私たちを生かしてください。私たちはあなたの名を呼び求めます。(詩編80:19)
キリスト・イエスは死を無力にし、福音を通して命と過ぎ行くことのない存在とを明らかに示してくださいました。(2テモテ1:10)

受難週の土曜日は、とても静かです。2000年前のこの日を弟子たちはどのような思いで過ごしていたのでしょうか。聖書の行間から推測されることは、恐らくペトロを初めとした11人は、このとき既に怯えながら部屋に閉じこもっていたであろう、ということ。そしてマグダラのマリアたちは安息日が明けたらすぐに主イエスのお墓へ行ってご遺体をきれいにして差し上げたいと、その時を待っていたのであろうこと。そのような様子を思い浮かべることができます。
この日の静けさは、死を前にした静けさです。愛する主イエスが十字架の上で殺された。自分も殺されるかも知れないし、愛する人の死を前に自分たちは無力でしかない。死の力の前で強いられた沈黙。それが、この土曜日の静けさです。
しかしこの土曜日の翌日、復活の朝が来ました。墓に行ったマグダラのマリアに、主イエスが出会ってくださいました。キリストの甦りの朝が来たのです。
「キリスト・イエスは死を無力にし、福音を通して命と過ぎ行くことのない存在とを明らかに示してくださいました。」
私たちは無力です。死を前にして最後は沈黙するしかありません。この肉体はやがて死んで滅びるし、霊も魂も滅びます。今生きるこの命はやがて無になって消えてしまう。人の記憶からも、しばらく経てば必ず消え失せます。ところが、キリスト・イエスが事態をまったく新しく変えてくださいました。私たちではなく、死を無力にしてくださいました。私たちの過ぎ行く命を、儚い私たちの存在を、神さまの御前に生きるものとしてくださいました。私たちは無力です。しかし、キリストはその私たちを救ってくださいます。
明日は復活の主日です。キリストの命の福音を目の当たりにします。そのためにキリストが裂いて与えてくださったお体にあずかります。キリストの命が、私たちの前に差し出されています。取って、これを頂きましょう。私たちのためのキリストの命そのものを。

2022年4月15日金曜日

2022年4月15日の聖句

不当な利益にではなく
あなたの定めに私の心を傾けさせてください。(詩編119:36)
へりくだって、死に至るまで
それも十字架の死に至るまで
従順でした。(フィリピ2:8)

受難週の金曜日を迎えました。聖なる金曜日。主イエス・キリストが十字架にかけられた日。キリストが、この私のためにご自分のすべてを献げてくださった日です。今日、私たちの目は下に向かいます。キリストが誰よりもへりくだって、地に這いつくばって、陰府にまで降って行かれたからです。
今日の新約聖書の御言葉が書かれているフィリピの信徒への手紙2:6~11は、聖書の伝える福音が凝縮されているような箇所です。例えば6,7節にはこのように書かれています。「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。」主イエスさまのへりくだり、従順は、神と等しくあることに固執しないで、人間と同じ者になられたというところでまず現れた、と言っています。ご自分のあり方に固執をしなかった。そういうキリストのあり方が鏡のようになって私を映し出します。神と等しい方が神であることにさえ固執なさらなかったのに、私は何と自分のあり方に固執していることでしょう。自分を変えるのは、とても不安なことです。怖いことです。そのために心も体も硬くなって、固執し出す。そうすると、自分は変えず、変わらずに周りを変えようとします。自分を中心にし始めます。
キリストは、本当に中心におられるべき神ご自身です。しかし、キリストはそういう神の形に固執なさらずにへりくだって人間と同じ者になられた。それどころか、私たち人間だってしないことをなさいました。十字架にかけられて、死なれました。十字架は、「木に掛けられた者は皆、呪われている」と書かれているとおり、神に呪われ、罪人として死ぬということです。キリストのへりくだりは、人間になるどころか、罪人として死ぬところにまで徹底した。罪を犯したことのない方が、神に呪われた罪人としての罰として死なれたのです。このへりくだりだけが、私たちを救います。私たちは上を目指して、勝ち組になることによって救われるのではなくて、徹底してへりくだってくださった神さまの憐れみによって救われるのです。
どうか、キリストの歩みに私の心が傾けられますように。どうか自分の利得のためでなく、私のために徹底してへりくだってくださった方のために、この心も体も献げることができますように。アーメン。

2022年4月14日木曜日

2022年4月14日の聖句

すべての膝は私の前にかがみ
すべての舌は誓い
私について、「正義と力は主だけにある」と言う。(イザヤ45:23~24)
「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51)

今日は受難週の木曜日、聖なる木曜日です。私たちの暦では今晩、ユダヤの暦では日没で新しい一日が始まりますので日付が変わった直後になりますが、この夜に主イエスは弟子たちと共に食卓を囲みました。パンを取り、賛美の祈りを唱えてそれを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取って食べなさい。これは、私の体である。」食事の後、杯を取り、感謝の祈りを唱え、弟子たちに与えて言われます。「皆、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために流す私の血、契約の血である。」世々の教会は主イエス・キリストの死と復活を記念して、主イエスのご命令に従って、この食卓を囲み続けてきました。
「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」主イエスさま御自身が、「私は、天から降って来た生けるパンである」と言われます。十字架で裂かれたイエスさまのお体を頂いて、私たちは永遠の命にあずかるのです。
聖餐のことを考える時に私がよく思い出す説教があります。私は神学生の時、愛媛と高知の教会へ実習に行ったのですが、そのときにお世話になった牧師の説教です。その日の礼拝では聖餐が祝われた。牧師は説教の最後に、その場にいる未信者に向かって言いました。「皆さん、これから聖餐ですが、隣で聖餐にあずかる人の顔をよく見てください。その人は、イエスさまのお体を頂かないと自分は生きていかれないと本気で信じている人です。」
私がこの説教を特に今日思い起こすのは、旧約聖書の御言葉のゆえです。「すべての膝は私の前にかがみ、すべての舌は誓い、私について、『義と力は主だけにある』と言う。」膝をかがめ、舌で誓う。信仰者の具体的な神さまへの礼拝の姿勢。「義と力は主だけにある」と告白する、神さまへの具体的な服従。それは、このお方のお体を頂かなければ私は生きられないという信仰とぴったり重なると思います。義と力は主だけにあるのであって、私にあるのではない。私を生かす力も、義しさも、神さまにある。私たちはキリストのお体を頂いて生かされ、キリストのものとして、神さまに従う新しい命に生かされ始めています。ですから今日、この聖なる木曜日に、十字架で裂かれたキリストの肉を、十字架で流されたキリストの血潮を思い、キリストをあがめる祈りを捧げましょう。

2022年4月13日水曜日

2022年4月13日の聖句

彼は立ち上がり、主の力と
  その神、主の名によって群れを治める。
彼は安らかに住み
彼は今、大いなる者となって地の果てにまで及ぶ。(ミカ5:3)
イエスはお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:23~24)

今日与えられているミカ書第5章の御言葉は、一節から読んでみると、私たちに聞きなじみのある御言葉です。「エフラタのベツレヘムよ、あなたはユダの氏族の中で最も小さな者。あなたから、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」クリスマスに読まれるマタイによる福音書第2章6節に引用されている御言葉です。クリスマスにお生まれになった救い主、イエス・キリストは、主の名によって私たちをお治めになる。今朝のところでは「彼は今、大いなる者となって地の果てにまで及ぶ」と書かれています。
主イエスさまが大いなる者となり、地の果てにまで及んだというのはいつのことなのか?ナザレを中心に、イスラエルの中を旅した三年間でしょうか?多くの病人や貧しい人々を訪ね歩いた日々でしょうか?ラザロを生き返らせ、その名が一挙に広まった時でしょうか?主イエスはおっしゃるのです。「人の子が栄光を受ける時が来た」と。いつなのか?「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」一粒の麦、主イエス・キリストが栄光を受け、その御名が地の果てにまで及ぶ時、それは主イエスが地に落ちて死んだ時です。十字架にかけられて殺された時、主の栄光は地の果てにまで及ぶのだ、と主イエスは言われるのです。
スポーツ選手であれば、その栄光が地の果てにまで及ぼされるのは、オリンピックのような大きな大会で優勝した時でしょう。日本シリーズや天皇杯、花園、甲子園、・・・。そういった華々しい場所で栄誉ある成績を残した時です。学業であれば一流大学に合格した時かも知れませんし、学位を取得したり、すばらしい論文が世に認められた時かも知れません。そういった栄誉に浴した人に会うだけで、私たちは緊張するし、とても光栄なことだと思います。ところが主イエスの栄光は、私たちの常識からは外れています。十字架の上で殺された時、主は栄誉をお受けになる。それは、私たちが、一粒の麦が地に落ちて死ぬように、この方が死ななければ命を得ることができないからです。主イエスは十字架の上でご自分が死ぬことによって私たちに命を得させるから、ご自分の死を栄光の時と言ってくださるのです。
キリストの十字架の栄光を、今日仰ぎましょう。このお方の御苦しみによって命与えられた私と、今日新しい思いをもって信じ、その事実を受け入れましょう。私たちのために、キリストの命が注がれているのです。

2022年4月12日火曜日

2022年4月12日の聖句

喜びの声をもって告げ、聞かせよ。地の果てまで響き渡らせよ。「主はその僕ヤコブを贖われた」と。(イザヤ48:20)
御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。(コロサイ1:13)

主はその僕ヤコブを贖われた。
この「贖う」という言葉は、私が旧約聖書の中でもいちばん大好きな言葉です。「贖う」というと何か難しい専門用語のように感じるかも知れませんが、辞書を引くと最初に出て来る意味は「親戚として振る舞う」です。「主はその僕ヤコブを贖われた」、それは「主はその僕ヤコブの親戚として振る舞われた」ということになります。ヤコブというのは旧約聖書の言い方で神の民という意味です。つまり、今の時代で言えば、私たちのことです。神さまは私たちの親戚として振る舞ってくださっている、と言うのです。
親戚としての振るまい。それは、例えば、誰かが借金のために何もかも売り払い、自分自身をも売らなくてはならないような事態に陥ってしまったときに、親戚がその人のための身請けをする。あるいは孤児や寡婦になってしまったとき、ある人が親戚として彼女を、あるいはその子を引き取り、世話をする。それが古代ユダヤの親戚としての責務です。神さまは私たちのために親戚として振る舞って、私たちが何もかも失ってしまったり、そのために自分自身を売らなくてはならなくなってしまったり、寄る辺なくなってしまったときに、私たちを引き受けてくださるのです。
そのことを新約聖書のコロサイの信徒への手紙ではこのように言います。「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。」何よりも深刻なのは、私たちが闇の力に支配されてしまっていること、闇の力に売り渡されてしまったことです。言葉を換えれば、罪や悪の力の虜になっていること。ところが神さまがそんな私たちを買い戻してくださったのです。親戚としての責務を果たしてくださった。神さまは私たちを他人とはなさらず、私たちのために代償を払って、私たちをご自分の愛する御子の支配下に移してくださいました。
受難週の歩みを進めています。キリストは十字架にかけられた。私たちを買い戻すためです。私たちをご自分の愛の支配の中に移すために。喜びの声をもって告げ、聞かせましょう。地の果てまで響き渡らせましょう。「主はその僕ヤコブを贖われた」と。

2022年4月11日月曜日

2022年4月11日の聖句

昨日から受難週になりました。今年の受難週は、毎日読んでいるこの「日々の聖句(ローズンゲン)」が掲げる御言葉に導かれて、受難週の黙想をしていきたいと思います。普段は日々の聖句の日本語版を作った方が、原文のドイツ語版の聖句を日本語訳したものが掲載されているので、基本的にはこのメールでもそのまま引用しています。この一週間は聖書協会共同訳に準拠した翻訳を採用するようにします。

2022年4月11日の聖句:
勇ましくあれ、心を強くせよ。主を待ち望む人は皆。(詩編31:25)
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(ローマ5:2)

今朝のローマの信徒への手紙の御言葉は4:25から続けて読んだ方が分かりやすいと思います。
「イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」
主イエス・キリストはこの私の罪のために十字架で死に、この私を義とするために復活させられた。キリストのお陰で私たちは神との間に平和を得ている。今日の聖句で「今の恵み」と言っているのは、この神との間の平和のことです。
私たちは切に平和を求めています。ウクライナでは戦争が起こっていますし、あまりニュースになりませんがエチオピアでもひどい紛争が起こっており、あるいはミャンマーでの軍事クーデターの後の状況も依然として厳しいようです。戦争でも、もっと小さな範囲の喧嘩のようなことでも、相手を人間と思わなくなっていきます。相手が自分と同じ人間だと思っていたら、相手を苦しめることはできなくなってしまいます。
聖書は「神との間に平和を得ています」と言っています。平和を得ているということは、かつては平和ではなかったと言うことです。ある人が、私たちにとって神は不倶戴天の仇だったと言っていました。神にとって私たちは、ではありません。私たちにとって神は、同じ天の下に生きることのできないほどの仇だ。だから神を神扱いしない。神を神扱いしないときに何が起こるのか?神を殺した。神の子であるイエス・キリストを。イエスは私たちの過ちのために死に引き渡されたのです。
神を敵としていた私たちとの間に、神が平和を打ち立て、私たちに和解の手を伸ばしてくださいました。それが、イースターの朝の出来事、キリストの復活の出来事です。今や私たちは、キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられています。それどころか、神の栄光にあずかる希望を誇りにさえしている。だからこそ、この一週間、神を敵として生きてきた私を神の御前に悔い改め、そして、神との間の平和を海しなっているからこそ今痛み、争いが止まないこの世界のために平和を造り出すものに私をならせてくださいと祈り、この受難週の歩みを重ねていきたいと願います。

2022年4月10日日曜日

2022年4月10日の聖句

ヤコブの家から御顔を隠されていても、私は主に望みをかける。(イザヤ8:17)
また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13)

今日の新約聖書の御言葉は文章の途中から始まっていますが、前の節を見るとこの文章の主語は「神の恵み」です。神の恵みが、今の時代にあって私たちに幸いなる希望を待ち望むように教えている、という流れの文章です。
今の時代にあってというのは、もちろん、もともとはテトスの手紙が書かれた紀元一世紀のことでしょう。しかし今この時代を生きる私たちの時代、今この時代、と捉えても何ら差し支えないはずです。恐らく紀元一世紀も今も、同じように、社会の中に希望は見えにくいのではないかと思います。今後私たちの身の回りの状況が好転していくとは考えにくいし、ましてや神さまの御前に良い方向に社会が発展していくとはとても思えない。しかしそのようなことを時代を評論家のように論じて見せても仕方がありません。私たち自身がこの時代の子であり、この時代の精神を呼吸して生きている。しかしそういう時代を生きる私たちに対して神の恵みは幸いなる希望を待ち望めしめる、と聖書は言います。
それでは幸いなる希望とは一体何か。それは「私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ」のことだとはっきりと言います。イエス・キリストが私たちの救い主として来てくださる。この希望は、この時代がどんなに救いがたく見えても変わりません。或いはそうやって時代を裁き、世を裁いているこの私の罪がどんなに深く、深刻であったとしても、キリストは私たちのところにくるのを決しておやめにはならない。聖書はそのように言うのです。
今いちばん大切なこと、私たちにとってかけがえのない宝、決して止めてはならないことは多くはありません。いや、一つだけです。神を信じましょう。神さまの御前に敬虔に生きていきましょう。祈り、信じ、望みを抱き、キリストへのこよなき愛に生きていきましょう。必ずキリストは来てくださいます。約束のとおりに!だからいつの時代にあってもキリストを待ち望み、キリストをお迎えする準備を今日も一日重ねていきましょう。

2022年4月9日土曜日

2022年4月9日の聖句

主は王である。地は喜べ、多くの島々は楽しくあれ。(詩編97:1)
神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。(ローマ14:17)

神の国、と言っています。神の国、それは飲み食いではない。飲み食いに象徴される私たちの欲望を満足させることではない。欲望の充足は、足ることを知りません。いつでも渇き、もっともっとと求め続けて際限がない。他人のものを貪り尽くします。私たちは普段上品に振る舞っているので目の前の他人のものを奪い取ることはあまりしませんが、遠くの、会ったこともない、自分では存在を感じない人のものは簡単に奪います。周縁の国々や未来の世代に負担を押しつけているということは、最近よく指摘されることです。「飲み食い」に象徴される私たちの欲望は、満足を知りません。それを満たすために神の国が来るのではない、と言うのです。
それでは、神の国とは一体何か。「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」義と平和と喜び。しかも、聖霊が与えてくださる義と平和と喜び。
義というのは、神さまとの本来あるべき関係を意味する言葉です。神さまが私たちを造り、命を与え、極めて良いと言ってくださった。私たちは神さまを礼拝し、神さまに従って生きます。
平和は、ここでは隣人との平和のことでしょう。神さまの前で義しく生きることと、隣人と平和に生きることとは別々のことではありません。聖霊が、私たちの間に平和を打ち立ててくださいます。争いのあるところに平和をもたらすために、神さまは私たちをキリストにあって救ってくださいました。
神と共に生き、隣人と共に生きる。その喜びは誰にも消すことができません。喜びこそ、キリスト者の生活のすばらしさです。「主は王である。地は喜べ、多くの島々は楽しくあれ。」主なる神さまを王としてあがめ、主イエスさまの愛を喜んで生きる私たちを、神様ご自身も喜んでくださいます。私たちはそう信じている。神の喜びが私たちの喜びを呼び覚まし、私たちを平和の道に導いてくださいます。私たちは怒りや憎しみに生きるためではなく、喜びに生きるために命を与えられ、神の祝福の内にこの世に生み出されたのです。今日も、あなたに祝福がありますように!

2022年4月8日金曜日

2022年4月8日の聖句

ダビデはナタンに言った。「私は主に罪を犯しました。」ナタンは言った。「そうであれば、主もまたあなたの罪を取り除かれる。あんたは死なない。」(サムエル下12:13)
神は、罪によって死んだ者であったあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。(コロサイ2:13)

ダビデが預言者ナタンに罪を告白しています。「私は主に罪を犯しました。」ここでダビデが言っている罪というのは、ダビデが自分の臣下であったウリヤの妻バト・シェバと関係を持ったことです。そして、彼女が身ごもり、ダビデはウリヤを戦地の一番過酷な場所に送り込んで置き去りにし、死なせたことです。ダビデは隣人の家を貪り、また、人を殺しました。預言者ナタンの指摘によってそのことを思い知らされたダビデ王は、もはや「私は主に罪を犯しました」と告白しないわけにはいかなかったのです。
ここで言う罪、あるいは聖書が言う罪とは、これこれの法律のこの条文に違反しましたということではありません。それにはとどまらない。確かに、ダビデは十戒の命じる第6戒と第10戒に違反している。「殺してはならない。」「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切ほっしてはならない。」しかし、ダビデが「罪」と言っているのは、単にこの条文を犯しましたというだけには留まらず、そのような振る舞いをしてしまう自分の存在の歪みを告白していたのではないでしょうか。自分がねじ曲がって、さかさまな存在になってしまっている。もはや神の愛を映し出す者ではなくなってしまっている。その有り様に築いたとき、「私は主に罪を犯しました」と告白しないわけにはいかなかったのではないでしょうか。
罪とは、自分が自分でなくなってしまうことです。神さまの愛を映さなくなってしまうことです。私たちは神さまの御許にいるときにこそ、造られた私として、私らしく生きることができます。神の愛を映す存在として生きることこそ、私たちにとって本当に自然な生を生きるということです。
「神は、罪によって死んだ者であったあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。」キリストは、私たちを生かすために私たちのところへ来てくださいました。私たちはキリストと共に生き、キリストを愛し、隣人を愛して生きる。私が本当の意味で私らしく生きるために、キリストが私たちを神の御許に連れ戻してくださっているのです。

2022年4月7日木曜日

2022年4月7日の聖句

お前は神によって助けられ、全能者によって祝福される。(創世記49:25)
そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、心に確信を抱くことができます。たとえ自分の心が責めたとしても、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだと。(1ヨハネ3:19~20)

神さまが私たちを助け、全能者が祝福してくださっていることは、私たちが信ずべき事柄です。しかしそれ以上に、神がそうしてくださっているという「事実」です。神の祝福は信ずべきことですが、例え私たちが信じなかったとしても、神の祝福や助けという事実は変わることがありません。どのようなときにも、私がどのようなものであったとしても、神さまの側の事実には揺らぎがないのです。
「私たちは自分が真理に属していることを知り」と言っています。これはたいへんな言葉です。真理に属している。口幅ったくて、おいそれと人に言うことなんてできません。「私は真理に属しています」だなんて、隣近所の人にでも言ったら、頭がおかしくなったと思われるかも知れません。しかし、これも事実に属する事柄です。私たちは、事実として、真理に属している。神が私たちを真理の中に引き入れてくださったからです。神がしてくださったこと、神の側の事実だから、心に確信を抱くことができる。私たちのありよう以上の事柄、神がしてくださった事柄だからです。
「私は真理に属しています」と誰かに言ったときに、もしかしたら好奇な目で見られるかも知れない。しかし本当は、他人の目の問題ではないのだと思います。自分自身、正直に省みれば、とても真理に属しているとは言えないことを曲がりなりにも知っています。自分が知る自分の実態は、聖書の宣言とはあまりにも違う。聖書が「お前は真理に属している、神がお前を守り、全能者がお前を祝福している」と言っているこの宣言は、私たちの実態とはあまりにもかけ離れているように思えます。
だからこそ、「たとえ自分の心が責めたとしても、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだ」と聖書は言います。神さまは私たちの心よりも大きく、すべてをご存じ。私以上に私を知っているし、ご自分の御業の確かさをよくご存じです。やはり、この事実は私に依っているのではない、ひたすら神の御業・・・。私たちには祝福を「頂く」という謙遜さも、大切なのではないでしょうか。

2022年4月6日水曜日

2022年4月6日の聖句

誰が主の霊を計り、助言者として主に教えたのか。(イザヤ40:13)
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。(ローマ11:33)

神さまの富、知恵、知識の深さは、私たち人間には計りがたく、たどることができない。神の裁きに助言することのできる人など、どこにもいない。「誰が主の霊を計り、助言者として主に教えたのか。」
ところが、実にしばしば、自分は神さまよりも知恵があると私たちは思い込みます。そう思っていなくても、実はそう思っているかのように振る舞ったり、口にしたりします。神さまのなさることに注文を付けたり、バツ印を付けたり。
一方では、旧約聖書の例えば詩編などを見ると、神さまに食いかかるような祈りの言葉がたくさんあります。「なぜですか」「いつまでですか」と叫びます。あるいはヨブも言います。「私は知りたい。どうしたら、私はその方に会えるのか、御座にまで行けるのか。私は御前で訴えを並べ、口を極めて抗議したい。(ヨブ23:3~4)」ヨブも、詩編の祈り手たちも、決して上品にとどまるようなことはせず、神さまにくってかかるような激しい言葉を口にしています。特にヨブについては傲慢だというような評価をする人もいますが、私はそう思いません。実際に、ヨブ記の最後でも神さまはヨブを認めておられるのです。神さまはご自身にくってかかるような激しい言葉を受け入れてくださいます。
しかし他方で、まるで主の助言者であるかのように振る舞うことは、人間として、私たちにはできません。陶器が陶工に向かって意見することができないのと同じように、なぜ私をこのように作ったのかと不平を言うことができないのと同じように。
そうすると、急所は神さまへの信頼です。詩編の祈り手にしても、ヨブにしても、神さまを深く信頼しているからこそ生まれる激しい言葉だったのではないでしょうか。神さまの愛や正義を深く信頼し、そこに賭けて生きているからこそ、他ならぬ神さまに食ってかかる。他の場所に保険を掛けるようなことをしないからです。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。」この言葉には神さまのなさることへの深い驚きがあります。私の思いを超え、願いを超え、私の可能性を超えて働かれる神の御業への深い驚きと信頼。ここに聖書の祈りの秘儀があるのです。

2022年4月5日火曜日

2022年4月5日の聖句

彼らは主への賛美を唱和し、主に感謝した。「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに及ぶ。」(エズラ3:11)
一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコ14:26)

「主は慈しみ深く、その慈しみはとこしえに及ぶ。」私たちも、アーメンと言って共に神さまを賛美します。「主は慈しみ深く、その慈しみはとこしえに及ぶ。」主の深い慈しみが私を生かし、とこしえに及ぶ慈しみが私を今日も守ってくださいます。神さまのこの慈しみと祝福が、今日もあなたにありますように!
今日の二つの御言葉は、賛美の歌を歌っているということの他に、もう一つの共通点があります。「彼らは主への賛美を唱和し」、そして「一同は賛美の歌を歌ってから」。独りぼっちで唱和することはできません。一同が声を合わせて賛美することは、一人ではできません。ここで神を賛美するのは「民」です。心を合わせた神の民が、共に神を賛美している。この民は、聖書が書かれた時代から今に至るまでの、無数の神を信じる者たちが含まれます。これまで神を賛美してきた数多の神の民の一員として、私たちも今日新しい思いをもって神を賛美します。
今日の新約聖書の御言葉は、主イエスさまと共に囲む食卓を終えた弟子たちの賛美です。主イエスさまと一緒に過越の食卓を囲んだ。その食卓を終えて、賛美の歌を歌ってからオリーブ山に出かけて行った。過越は神さまの救いの出来事。過越の食卓は神の救いの御業を思い起こし、心に刻み、神さまの慈しみの中に生かされていることを共に喜ぶ祭りです。神の慈しみの中を共に生きる者たちが心を合わせて神を賛美したのです。この賛美の群れに、私たちも参加しています。
私たちも聖餐としてこの食卓を繰り返し味わい、神の救いの御業を喜び、神さまの御前に賛美を献げながら歩んでいます。私たちの賛美の歩みを神が祝福し、私たちと共にいて、私の口に新しい歌を主が授けてくださいますように。

2022年4月4日月曜日

2022年4月4日の聖句

主は私を緑の牧場へ草を食ませ、新たな水へ導く。主は私の魂を生き返らせてくださる。(詩編23:2~3)
イエスは言う:私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。(ヨハネ10:27~28)

先日、岳父の誕生日の祝いに一族郎党連れだって牧場に行きました。羊がいました。昼間は牧草地で放牧されていましたが、夕方に差しかかるころに家畜小屋に連れてこられていました。昼間は大きな牧草地で思い思いに草を食んでいましたが、夕方になって帰ってくるときには一団になって羊飼いに導かれるまま寝床に戻って来ていて、偉いものだと思いました。
主イエス・キリストは私たちの羊飼いです。私たちを悪しき者から守り、私たちを緑の牧場へ導き、水を与えて命を得させます。主は私の魂を生き返らせてくださる。私たちが例えどんなに弱く、乏しく、ちっぽけであったとしても、主が私の羊飼いとして私を守っていてくださるので、私には乏しいことがない。羊飼いイエスは、確かで、良い羊飼いです。この方がいてくだされば、大丈夫です。例え死の陰の谷を歩むことになろうとも、必ず羊飼いが守ってくださいます。
「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。」私たちに大切なことは、羊飼いの声を聞き分けることです。牧場にいた羊たちは、確かに客たちの呼びかけには反応しませんでした。差し出した餌には食らいついていましたが、他人がいくら言っても叫んでも、羊たちを小屋に導くのは不可能でしょう。私たちは、キリストの声を聞き分けているでしょうか。聖書を通して響く声です。私たちを神の御許へ導く声です。世には誘いの声が満ち溢れています。ただキリストの声を聞き分け、この方の御許に身を寄せましょう。「私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。」主イエス・キリストという羊飼いは、私たちに永遠の命を与え、決して滅ぼすことなく、キリストの愛の中に永遠に留め置いてくださいます。キリストの祝福が、今日も豊かにありますように。

2022年4月3日の聖句

天からの御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はこどもが横たわっているところで、、その声を聞いたからだ。立って、その子を抱き上げ、手を引いて行きなさい。私はその子を大きな民にするから。」(創世記21:17~18)
萎えた手とがくがくする膝を強くしなさい。そして、自分の足でしっかりと歩みなさい。(ヘブライ12:12~13)

「自分の足でしっかりと歩みなさい」と、神さまは私たちを励まし、立たせてくださいます。手が萎え、膝ががくがくし、おぼつかない私たちの歩みを、神さまは立たせてくださいます。一人の信仰者として神さまの御前に立つことができるように。
ここにハガルという一人の母が登場しています。息子がいます。名前はイシュマエル。アブラハムの長男です。アブラハムの妻サラは不妊の人で、二人には子どもが生まれませんでした。サラは自分の召使いであるハガルを夫のもとに入らせ、子をもうけさせます。その子を自分の子として育てようと考えた。サラの思惑どおりハガルは身ごもりました。ところが、いざハガルが身ごもるとサラは面白くなく、サラはハガルをいじめました。耐えきれずに逃げ出すハガル。そこでハガルは神と出会い、生まれてくる子どものための祝福の言葉を頂いた。ハガルはサラのもとに帰って、彼女に仕えました。
やがてサラ自身も子どもを授かります。すると、ハガルは完全に居場所を失いました。サラはアブラハムに言って、ハガルとイシュマエルを追放させたのです。ハガルは完全に絶望し、もはや息子を放置して死ぬに任せようと思った。そのとき、神が語りかけた言葉が今日の御言葉です。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はこどもが横たわっているところで、、その声を聞いたからだ。立って、その子を抱き上げ、手を引いて行きなさい。私はその子を大きな民にするから。」
神さまは、ハガルが再び神の御前で立つために何が一番必要なのかをよく知っていました。彼女の萎えた手、ガクガク震える膝を立たせるために、必要なものは何か?神がイシュマエルのことも、ハガルのことも覚え、救ってくださるという約束です。ハガルはその約束を聞いて、再び息子を抱き上げることができたのです。この息子も、アブラハムの子どもなのです。神は、私たちの声をも聞いてくださっています。私たちの泣き声やうめき声も、声にもならない、言葉にもならない、言葉以前のものも、神は聞いてくださっています。私たちを覚え、私たちの萎えた手を、震える膝を、立たせてくださる。神の祝福と約束は、私たちにも向けられています。

2022年4月2日土曜日

2022年4月02日の聖句

神は民を、紅海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。(出13:18)
神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8:28)

奴隷の家エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の道を歩き始めました。他の近道もありました。しかしそこはペリシテ人が住む道で、彼らが戦いを目前にして後悔して、エジプトに戻ってしまわないようにと神さまが配慮をしたからです。しかし神に導かれて進み出しましたが、彼らはやがて海にいたり、そうこうしているうちにエジプト軍がイスラエルの民を連れ戻すために戦車と馬に乗ってやって来ました。結局彼らはエジプトを出たことを後悔し、「エジプトに墓がないから、荒れ野で死なせるために私たちをエジプトから導き出したのですか」と言い出したのです。ところが神は海の中に道を拓き、イスラエルの人々を助けてくださいました。
神さまが私たちのために準備してくださっている道は、不思議です。一見すると無駄な遠回りに見えたり、失敗に見えたり、私たちにはそのときそのときに意味が分からないことが多いです。しかし神さまは、私たちを救うために深い思慮とすばらしい計画を持って私たちの道を導き、私たちが神さまの圧倒的な奇跡の中を生きることができるようにと準備してくださっている。今日、私たちはそのことを信じましょう。
「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」万事が益となる、と言っています。すごい言葉です。そのために共に働く。誰が共に働くのか?神さまです。神さまが私たちのために今日も働いてくださって、万事を益としてくださる。ただ、そのお働きは私たちにはよく見えません。あるいは、わたしの目から見て「益だ」とすぐ納得できるものではないかもしれません。信じれば良いことがある、という御利益を求めるのではない。神さまの目からご覧になって最も最善のことをなすために、神は今日も生きて働いてくださっています。神さまの最前は私たちにとっても最善です。この神の良きことを信頼し、今日一日の歩みを神さまにお委ねしましょう。

2022年4月1日金曜日

2022年4月1日の聖句

主よ、私の唇を開いて、私の口にあなたの誉れを告げ知らせてください。(詩編51:17)
私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えます。(1ヨハネ1:3)

普段私の唇に載っている言葉は一体どういう言葉なのだろうとフト考えると、恐ろしなります。自分のしゃべった言葉は自分の耳にも届いているはずですし、しかも無意識ではなく何かを考えながらしゃべっているはずです。ところがあまり自分ではよく分かっていないように思います。自分がどういう顔をしているのか、写真で見せられると思っていたのと違う。録音した声を聞いてみると、自分の声だと思っていたものと違う。そういう自己イメージと客観的な姿のズレはよく起こりますが、自分の言葉についても、恐るべきズレが起こりがちではないでしょうか。朝から晩まで、自分の口から出る言葉をすべて記録してそれを突きつけられたら・・・そう考えると、本当に恐ろしいと思います。
「主よ、私の唇を開いて、私の口にあなたの誉れを告げ知らせてください。」そんな私たちの口に、主なる神様の誉れを告げ知らせる言葉が上ってくるとしたら、それは神さまが起こしてくださる奇跡です。私の口が良い言葉で溢れ、神さまを誉めたたえる言葉で満ちるのなら、それは神さまが私に起こしてくださったすばらしい恵みの業です。
「私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えます。」今日の新約聖書の御言葉は「命の言」、すなわちイエス・キリストを伝えますという使徒ヨハネの宣言です。私たちの口に上る究極の良き言葉は、命の言、イエス・キリストの福音です。この喜びの知らせを、神さまが私たちの口に授けてくださる。それが私たちの信仰です。
今日、私たちが誰かと出会うとき、何かを語り合うとき、そこにイエス・キリストが共にいてくださいますように。そして私たちがキリストの福音を証しし、私のこの口にも、神がキリストの良き言葉を上らせてくださいますように。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。「地」にも。「地」に生きるこの私の唇においても!
私たちは祈りつつ、今日一日の歩みへと出発していきます。

2024年10月12日の聖句

(主は言われた。)私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す。(レビ10:3) このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。(ローマ5:1) 今日の旧約聖書の御言葉ですが、そのも...