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2019年6月28日金曜日

2019年6月28日(列王記上21〜22)

今日の通読箇所:使徒言行録18、列王記上21~22、ヨブ記40

列王記上21~22;
アハブ王はナボトという人のぶどう畑が気に入り、譲ってくれるように交渉しました。相当の代価を銀で払うか、もっとよいぶどう畑と交換するか。ところがナボトは言います。「先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなど、主は決してお許しになりません(21:3)」。これは、ナボトの言うとおりです。律法の中で「イスラエルの人々に属する相続地が、ある部族から他の部族に移ることはない。イスラエルの人々はそれぞれ、父祖の部族の相続地を固く守っていかなければならないからである(民数記36:7)」と定められています。アハブもイスラエル人である以上、そのことは知っていたはずです。しかし人のものを自分のものにしたいという貪りの心が、ナボトへの羨みの末に、王を怒らせました。彼はナボトの「言ったことに機嫌を損ね、激しく怒って王宮に戻った」。それを見たイゼベルは一計を案じてナボトを殺し、ぶどう畑をアハブのものにしてしまいました。
さらに、アハブの外交政策についても記録されています。当時、南王国ユダはヨシャファトという信仰深い王が治めていましたが、アハブ王とは友好的に関係を結んでいました。南北で連合して、本来は北方にあるイスラエルの領土であり、今はアラムに占領されているラモト・ギレアドという町を奪い返す作戦を始めました。ヨシャファトはあくまでも主の御心に従おうとし、「どうかまず主の言葉を伺ってみてください(22:5)」と言います。ところがアハブの前に来た預言者たちは皆自分の命を守る損得勘定のために王に忖度し、王のご機嫌取りのポジショントークしかしません。「必ず勝てます」とごまをすり、誰ひとり厳しいことは言わない。古今東西、権力の末期的な症状です。その中でただ一人、ミカヤという預言者だけが王に厳しい言葉をかけました。実はあの預言者たちの甘言は偽りを言う霊の言葉だと厳しく糾弾したのです。結局、アハブ王は奸計を図ってヨシャファトを自分の身代わりに使用としたにもかかわらず、この戦いで戦死しました。預言者ミカヤ、あるいはエリヤを通して神が言われたとおりに。
今日はアハブの最後の二つのエピソードでしたが、彼はとことん自分自身を神のようにして振る舞った人物であったと思います。自分の貪りに正直であり、すぐに怒り、厳しい言葉には耳を貸さない。自分にうれしいことを言ってくれる人だけで周りを固める。こうしてみると、なんともこの王は自分自身の姿のように思えてなりません。もしかしたら、私たちの罪の姿は、小さくてせこい「王様」に勝手になってしまっていることであるのかもしれません。端から見ると滑稽です。しかしその滑稽なことに気づき、へりくだって、神に作られたものとしての分をわきまえるには、私たちのまことの王をお迎えするしか、ないのではないでしょうか。私たちの王である方は、へりくだって、十字架に掛けられるまで身をかがめ、茨をその冠として頭に戴いた方なのです。

2019年6月27日木曜日

2019年6月27日(列王記上19〜20)

今日の通読箇所:使徒言行録17:16~34、列王記上19~20、ヨブ記39

列王記上19~20;
450人ものバアルの預言者との対決に勝ったエリヤですが、そのニュースは王妃イゼベルを激しく怒らせます。彼女はエリヤを必ず殺すと誓います。「それを聞いたエリヤは恐れを抱き、命を守ろうと直ちに逃れて、ユダのベエル・シェバに行き着いた(19:3)」。しかし、もう彼には生きる気力が残っていませんでした。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。私は先祖にまさってなどいないのですから(4節)」。深い絶望の中で、もう自分の命を取ってくださるように、神に祈ったのです。
そんなエリヤのために、神様は御使いを遣わして「起きて食べなさい」と、食べるものを与えてその道を守り、40日40夜彼は歩き続け、ついに「神の山ホレブに着いた(8節)」のです。ホレブ、それはかつてモーセが燃える柴を見た場所です。神が彼に語りかけ、奴隷として追い使われていたヘブライ人のところへと遣わした場所です。やがてモーセと共にここまで来た神の民は、この神の山ホレブで十戒を神から頂きました。つまり、ここはエリヤたち神を信じる者の、信仰者としての原点のような場所です。神が私たちをご自分の民としてくださったという恵みの事実によってだけ成り立っている場所なのです。神は、疲れ切ったエリヤを、そういう場所へ連れて来てくださったのです。
私たちが深く絶望し、命のために恐怖におののき、あるいは気力が失われてしまうとき、神は私たちをご自分の前へと導いてくださいます。他のどこかではない。私たちの生きるべき命の源は、
神の御許、つまり神を礼拝するところにあるからです。
そこで神はエリヤの前に激しい風と地震と火をもって臨まれます。ところが、そのどのなかででも神はエリヤと出会われなかった。神は、エリヤに「かすかにささやく声(12節)」で語りかけました。この声の中で、神は「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか(13節)」と言ってエリヤに出会ってくださったのです。私たちは神を礼拝し、神は私たちに静かでかすかな声で語りかけておられる。その声に聞くとき、私たちはもう一度たつことができる。なぜなら、神はこの語りかけの中で、彼が独りぼっちではないことに気づかせてくださったからです。彼は孤軍奮闘していると思い込んでいましたが、実際には7000人、バアルにひざまずかなかったものが残っていました。そして、エリシャという彼の弟子として共に歩む人も与えられた。神様はエリヤのことを本当によくご存じで、彼が一番必要としていた助けを与えてくださった。
神様は、私たちにも語りかけておられます。神様の御前で、私たちが生きる者となるための御言葉を。

2019年6月26日水曜日

2019年6月26日(列王記上17〜18)

今日の通読箇所:使徒言行録17:1~15、列王記上17~18、ヨブ記38

列王記上17~18;
イスラエルの王アハブは「彼以前の誰よりも主の目に悪とされることを行(16:30)」いました。特に彼の妻イゼベルは、彼女の故国シドンから異教の神であるバアルをイスラエルにもたらし、アハブも、国の人々もこれにひれ伏して礼拝をしました。もう、主なる神様に従うものは誰も残っていない。これは、そういう時代の出来事です。
エリヤという預言者がたった一人だけ残っていました。「主の預言者としては、ただ私だけが一人残った(18:22)」。たった一人だけというのは、想像以上に辛いことです。アハブは信仰者としては最悪でしたが、政治家としては有能な人物であったようです。そんな時代に。一人で空気を読むこともなく主なる神に仕え、預言者として立つのが、エリヤという人です。
しかし、神様はエリヤを独りぼっちにはなさいませんでした。たびたび、エリヤに協力者を与えてくださいます。最初は、カラスでした。ケリト渓谷に身を隠した彼の所へ、カラスが朝にはパンと魚を、夕方にもパンと肉を運んできてくれた。次に、シドンのサレプタのやもめとその息子。この親子はエリヤになけなしの粉で作ったパンを与えてくれて、神はその信仰に応えて壺の粉がつきることはなかった。そして、アハブの宮廷長オバドヤは、実は大勢の主の預言者がアハブに殺されたとき、そのうちの100人をかくまっていたのです。神様はエリヤを独りぼっちにはなさらなかった。
しかし、今エリヤはたった独りで450人のバアルの預言者、400人のアシェラの預言者の前に立ちます。彼らと、対決をします。祭壇の上に置いた雄牛がある。それぞれの預言者の祈りに火をもって応える神こそまことの神。そう言って、まずはバアルの預言者たちが大声を張り上げ、剣や槍で自分の身を傷つけながら祈祷しました。ところが、バアルはその祈りに応えない。いや、応えられなかったというべきでしょう。そこでエリヤが主なる神に静かに祈ります。「お答えください、主よ、お答えください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に戻したのがあなたであることを知るでしょう(18:37)」。これに対し、主は天から火を下らせ、生け贄も薪も、すべてを火が嘗めつくしました。こうして彼はバアルの預言者に勝利を治めることができました。
神様にあって、彼は強く、また雄々しく立つことができたのです。少しずつ、イスラエルの人々が主こそ神であると信じ、神に立ち帰ることができるように。

2019年6月25日火曜日

2019年6月25日(列王記上15〜16)

今日の通読箇所:使徒言行録16:16~40、列王記上15~16、ヨブ記37

列王記上15~16;
北王国、南王国、それぞれに何人もの王の名前が登場します。評価は様々です。南王国は、レハブアムの息子のアビヤム、そしてその息子のアサという二人が登場します。二人の評価は正反対。「アビヤムは、かつて父が犯したすべての罪を犯し続け、その心は、父祖ダビデの心と異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった(15:3)」と言われています。ところがアサは「父祖ダビデと同じく、主の目に適う正しいことを行い、・・・(11節)」と評価されています。
北王国の特徴は、短期間にめまぐるしく王朝が変わっていく点です。ヤロブアムの息子ナダブの治世にクーデターが起き、バシャという人の王朝が始まる。バシャの息子ティルツァの時代にまたクーデターが起き、・・・と、いろいろな王家に移り変わっていきます。しかし、一貫して、彼らは「主の目に悪とされることを行ってヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を犯し続けた(15:34)」という点で共通しています。
ダビデの道、つまり主に従う道。そして、ヤロブアムの道、つまり主の目に悪とされる道。どう違うのでしょうか?第9章で、主なる神様がソロモンに現れ、このように言われました。「あなたがもし、父ダビデが歩んだように、誠実な心で正しく私の前を歩み、命じられたことをすべて行い、掟と法を守るなら、私はイスラエルのあなたの王座をとこしえに確かなものとする」。あるいは、11:38では、ヤロブアムにも同様のことを言っておられます。
ダビデの道、それは、主の御言葉に従って生きる道です。他の神々を取り除き、一心に神に誠実を献げて生きる道です。王たちの治世は、その一点で評価されています。政治家として有能かどうかということに聖書は関心を持っていません。この人は神に従っているか、そうではないのか。ただ神のみを愛しているのか、他のものを神として祭り上げているのか。聖書が私たちに向ける目は、ただその一点だけです。
16:34以下のエリコの壁の一件は、神の言葉の力を私たちに思い出させます。歴史を作る力を持つ神の言葉を信じ、これに従って生きるのか。その一点での決断を、私たちは今求められているのではないでしょうか。

2019年6月24日月曜日

2019年6月24日(列王記上13〜14)

今日の通読箇所:使徒言行録16:1~15、列王記上13~14、ヨブ記36

列王記上13~14;
分裂した北王国の名前はイスラエル、南王国の名前はユダと言います。ソロモンの配信の結果として、神が王国を裂き、10の部族をヤロブアムに与えました。これが北王国。しかしダビデのゆえに神はその家を憐れみ、ユダともう一つの部族だけが残ったのが、南王国です。
ところが、ヤロブアムもまた、神に対して忠実な人物ではありませんでした。神は預言者を遣わして、彼を断罪します。王は預言者を畏れて接遇しようとしましたが、彼は神から当地では食事もしてはならないし、水も飲んではならないと命じられていると言って、そのまま帰ってしまいました。ところが、その地方にある年老いた預言者がいた。彼はヤロブアムの所へ来た預言者と会いたくなって彼と会い、嘘をついて、自分の家へ招いて食事をさせます。なんと、騙された預言者は、食事もするな水も飲むなと言う神の言葉に背いたとして、ライオンに食い殺されてしまいました。
あまりにも不可解な話です。裁くのなら嘘をついた老預言者にするべきではないか、と私は思いました。しかし、少し視点を変えてこの話を読んでみると、見えてくるものがあります。それは、主の言葉です。最初に登場した預言者と老預言者。二人の人間関係として考えると理不尽な話ですが、神の言葉が実現するという点から見ると、まさに、最初に神があの預言者に命じたとおりになっています。そして、彼がヤロブアムの所で預言した言葉、「見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤと言う。彼は、お前の上で香をたく高きところの祭司たちを、お前の上で屠り、人の骨をお前の上で焼く(13:2)」という言葉は、何百年という時代を経て、やがて実現していきます。御言葉が、歴史の中で実現していく。それは、一貫している。あまりに一貫しているので、時に人の目には理不尽にさえ映るのです。
それは第14章のヤロブアムの家の出来事でも、同じです。神様の御言葉は、歴史の中で出来事を起こしていく。どんなに王たちが神を無視して自分の立場のために好き勝手に振る舞っても、人の目に見えないところで歴史を作るのは、神の言葉。それは、いつでも変わることがないのです。

2019年6月23日日曜日

2019年6月23日(列王記上11〜12)

今日の通読箇所:使徒言行録15:22~41、列王記上11~12、ヨブ記35

列王記上11~12;
悲しいことです。「ソロモンは、主の目に悪とされることを行い、父ダビデと異なり、主に従い通すことはなかった(11:6)」。彼の心は年老いたときに主から離れ、他の神々を礼拝するようになってしまったのです。
何が彼をそうさせたのか。彼には700人の王妃と300人の側女がいました。「ソロモン王はファラオの娘をはじめとして、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した(11:1)」。かつて、出エジプト記34:12で、神様は彼らと決して契約を結び、その中に入ってはならないと命じておられました。しかし、おそらくは外交政略の一環であったのでしょうが、ソロモンは彼らと契約を結んで政略結婚を繰り返し、彼女たちが輸入してきた外国の神々の前にひれ伏すようになったのです。「彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった(4節)」。
ソロモンは外交上の理由、安全保障上の理由があって、周辺諸国と婚姻関係を結んだのかもしれません。それにしても桁外れに多い妻や側女の人数を考えると、そこに彼の弱さがあったと言うことなのかもしれません。いずれにしても、「安全保障」と恐らく彼が考えてしたであろう振る舞いが、結局は王国を滅ぼすことになってしまったのです。主がソロモンに言われます。「あなたはこのようなことをして、私が命じた契約と掟を守らなかった。それゆえ私は、必ずあなたの王国を引き裂き、あなたの家臣に分け与える(11節)」。こうして、ソロモンの家臣の一人であったヤロブアムという一人の優秀な男が神に選ばれ、ヤロブアムは分裂した北王国の最初の王になるのでした。
ところが、ヤロブアムも神に対して誠実ではなかった。王国が分裂したと言っても、結局皆礼拝をするためにエルサレムの神殿に行ってしまいます。「今のままでは、私の王国はダビデの家に戻ってしまう(12:26)」と心配になったヤロブアムは、自分の手で二体の金の子牛を造り、人々にそれを拝むように言いつけました。かつてのアロンの失敗と同じように、自分たちが安心で便利に礼拝できるお手軽な神をこしらえた。結局それが、北王国にとってはずっと残り続ける罠になったのです。
ソロモンも、ヤロブアムも、そしてソロモンの息子で分裂した南王国の王となったレハブアムも、自らの行いがまき散らした種を刈り取るようになります。罪に罪を重ねるような歴史です。その根は、神に従おうとしないで自分の目に適う安心を求める、私たち人間の浅ましさなのではないでしょうか。私たちの罪の姿は、神様の御前で浅ましいものです。浅ましい私を、それでも見捨てないでいてくださる神様の憐れみの深さに、心が震えます。

2019年6月22日土曜日

2019年6月22日(列王記上9〜10)

今日の通読箇所:使徒言行録15:1~21、列王記上9~10、ヨブ記34

列王記上9~10;
シェバの女王が主の名によるソロモンの名声を聞き、やって来ました。難問をもってソロモンを試すために。この「難問」はいわゆる謎かけです。士師記14:12のように、一見すると何の関係のないものを結びつける謎を解くことで知恵を証明する。ソロモンはもちろん、シェバの女王も大変頭の切れる人物であったのでしょう。しかし「ソロモンは問いかけのすべてに答えた。王に分からないこと、答えられないことは何一つなかった。シェバの女王は、ソロモンの深い知恵と、彼が建てた宮殿に目を見張った(10:3~4)」。
彼女は食卓の料理や家臣の居住まい、給仕の振る舞いとその服装、献酌官、それに王が主の神殿で献げる焼き尽くすいけにえを目にして、息も止まるほどであった、と言います。これらはすべて第3章で神が与えると約束してくださったもの、ということなのだと思います。神が王としてお立てになったソロモンは神に与えられた知恵をもって国を治め、神に与えられた富を持ち、それに彼女は驚いた。
また、シェバというのは、アラビア半島の南端のあたりにある国です。旧約聖書の世界観では、地の果てと言っていい場所です。世界の果てにまで主にあるソロモンの名声は轟き、実際にそれを見聞きしてかの国の女王も息を止まるほどに驚いた。ソロモン王政の絶頂期と言うことができます。
そして、それは、何度でも繰り返して注目すべきことですが、すべて神が与えてくださったものです。今朝は第9章で、主なる神様が再びソロモンに現れて、ご自分の慈しみを示してくださいました。ソロモンは、与えられた恵みに応えて、主に向かって一心に仕え、神の言葉に従って生きるべきです。「あなたがもし、父ダビデが歩んだように、誠実な心で正しく私の前を歩み、命じられたことをすべて行い、掟と法を守るなら、私はイスラエルのあなたの王座をとこしえに確かなものとする(9:4~5)」。私たちのどんな絶頂期も、あるいはその逆に何をやってもうまくいかないときでさえも、それは神がお与えになった「時」であるに違いありません。私たちはどのような「時」にも神に仕えて生きるし、それが私たちの何よりたしかな幸いであると私は信じています。

2019年6月21日金曜日

2019年6月21日(列王記上8)

今日の通読箇所:使徒言行録14、列王記上8、ヨブ記33

列王記上8;
ソロモンによる神殿奉献の祈りです。ソロモンは「あなたのために荘厳な神殿、とこしえのあなたの住まい」として、主の神殿を建築しました。神殿は神の家、神がその名を留めてくださる場所です。しかし、この天地を造った神様をしまい込んでしまえる場所など、この世界の中にはありません。「神は果たして地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです(27節)」。
それでは、一体何のために神殿を建てるのか。神殿で神を礼拝するとき、信仰者は一体何をしているのか。「わが神、主よ。あなたの僕の祈りとその願いを顧みてください。今日、あなたの僕の祈りとその願いを顧みてください。今日、あなたの僕が御前に献げる嘆きと祈りを聞き入れてください(28節)」。神殿とそこで献げられる礼拝は、ただ神がこの祈りに耳を傾けてくださることを願い、それを信じて献げられるものです。神のために献げた神殿に向かう祈りを、どうか、天と地を造りすべてのものを超える神が耳を傾けて聞いてくださいますように。それが、神殿という存在なのです。
ここで捧げる祈りは、ソロモンの祈りを聞くと、ほとんどが罪の悔い改めの祈りです。「あなたの僕と、あなたの民イスラエルが、この所に向かって献げる願いを聞き入れてください。あなたの住まいである天からそれを聞いてください。聞いて、お赦しください(30節)」。そして、31節、33節、35節、37節などで、罪の赦しを求めています。罪を犯した者が神に立ち帰って悔い改めの祈りをするなら、この神殿に向かって祈るならば、どうかその祈りを聞いて彼らを憐れみ、赦してください。ソロモンはそう願います。
教会は、今私たちに与えられている神殿です。ソロモンの神殿は、建造物でした。私たちの神殿は教会です。ただし、教会は「教会堂」という建物のことではありません。神に呼び集められ、礼拝を献げる私たちの集まりです。私たちの神殿、それはキリストの体である私たち一人ひとりです。キリストのゆえに私たちが集まり、罪を悔やんで悲しみ、十字架の主の赦しを求めて祈るとき、神は必ずその祈りを聞いてくださることでしょう。今朝も、私たちは教会の一員であることを心にいたしつつ、悔い改めの祈りをもって一日を始めていきたいと願います。

2019年6月20日木曜日

2019年6月20日(列王記上7)

今日の通読箇所:使徒言行録13:31~52、列王記上7、ヨブ記32

列王記上7;
ソロモンは王宮も建築しました。神殿は7年でしたが、王宮は13年かけて造った。その年数を比較すると、結局王宮の方が手をかけているように見えます。しかし、聖書の書き方は、サイズが大きくて年月もかかった王宮建築については僅かにしか書かれておらず、記述のメインは明らかに神殿建築です。彼が神殿を建てたのは、「主は約束されたとおり、ソロモンに知恵を授けられ(5:26)」たというその知恵を用いてのことです。そして建てられたときの「私はイスラエルの人々のうちに住み、わが民イスラエルを見捨てたりはしない(6:13)」という主の約束。少なくともこの時期、彼は御言葉の中に生きていたのです。
さて、王宮の話を簡単に済ませて、すぐに神殿の話に戻ります。ティルス人のヒラムという人が細工師として呼ばれました。ティルスの王と同じ名前ですが、別人と思われます。彼は母はナフタリ族の人でしたが、父はティルス人でした。つまり、友好国とはいえ父はイスラエル人ではなかったのです。その人が神殿で使う祭具を造ったというのは、示唆に富んだ事実です。
確かに、イスラエル人、ユダヤ人の子孫であることは、大きなことです。「ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それは、あらゆる点でたくさんあります(ローマ3:1,2)」。神様は、具体的な一つの民を選んで、実際の歴史の中でご自分のものとなさいました。しかし、ある特定の血統になければ排除される、という信仰を私たちは生きていません。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく・・・(ローマ2:28)」。神の約束に生きるものは、誰であっても神の民です。ティルスの人も、礼拝のための大切な奉仕をします。私たちも、同じように神様の御前、礼拝へと招かれています。
ですから、どのような民族なのかとかいかなる血統に生まれたのかということにこだわりすぎることは、私たちの信仰とは相容れません。確かに私たちはある歴史を背負った具体的な国民の一人ですが、その私を神が召して、天の国の国民にしてくださいました。それは、私たちが礼拝に仕えるためです。神の御前で仕えるためです。神は、私たちをすばらしく広い場所へと招いてくださっています。

2019年6月19日水曜日

2019年6月19日(列王記上5〜6)

今日の通読箇所:使徒言行録13:1~30、列王記上5~6、ヨブ記31

列王記上5~6;
ソロモンの治世に国は安定し、ついに、ソロモンは父の代からの念願であった主の神殿を建築します。かつて、ダビデは「見なさい。私はレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕の中に置いたままだ(サムエル記下7:2)」と言って、神の家たる神殿を建築しようと志しました。しかし、主は預言者ナタンを通じて「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの末裔、あなたの身から出る者を後に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。その者が私の名のために家を建て、私は彼の父となり、彼は私の子となる(サム下7:13)」と言われたのでした。その言葉が成就し、ついに、ソロモンが神殿を建築するときが来たのです。
彼はまず父の時代から友好関係にあったティルスの王ヒラムに協力を求めて、材料となる木材を調達します。また、荷役と石切工に命じて石材を調達します。ソロモンは準備に準備を重ねて、主の神殿を建てたのです。
ソロモンが主のために建てた神殿は、長さ60アンマ、幅20アンマ、高さ30アンマであったと言います。計算すると、おおよそ長さ27メートル、幅9メートル、高さ9メートルになります。イメージとしては、教会の隣のコミセンの建物くらいだと思います。神殿は三階建てでした。上に行くほど広くなっています。螺旋階段で上ります。石造建築ですが、木材の脇廊がつなげられており、天井も木材で覆われています。また、内装は壁も床も木材で覆われていました。
この神殿の大きさを具体的にイメージしてみて、大きいと思われるか、小さいと思われるか、どちらでしょうか。この神殿は私たちが考える教会堂の機能とは少し違います。皆がその中に集まって礼拝するのではなく、神殿の内陣である至聖所で祭司が主に献げ物をすること、そしてその内陣に神の箱を安置するためのものです。礼拝者は、神殿の庭で礼拝を献げます。
この神殿の一番奥にある至聖所は、神殿の中でも他の部分とは違って、純金で覆われていました。祭壇も純金で覆われています(6:21参照)。今のように簡単に金が手に入る時代ではありません。神様の聖なることをなんとかして人間の最高のものを献げることで示そうとしたのだと思います。礼拝のための建築物が、このようにして完成しました。
ソロモンは、その王政の最初に神殿を建築しました。私たちの業の最初には、何があるのでしょうか?祈りと礼拝のために、私たちの一番良いものを神に献げたい、そう思わされました。

2019年6月18日火曜日

2019年6月18日(列王記上3〜4)

今日の通読箇所:使徒言行録12、列王記上3~4、ヨブ記30

列王記上3~4;
「ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に従って歩んだ(3:2)」。ソロモンは、父が歩んだ道を進みました。主への愛に生き、主とその御言葉に従って生きました。そんなソロモンに主なる神様が夢の中で現れます。「願い事があれば、言いなさい。かなえてあげよう(5節)」と。ソロモンは、自分のための長寿や富、敵の命を願うのではなく、知恵に満ちた聡明な心を求めました。神様はこの願いを喜ばれました。
そうは言っても、もしも自分のために知恵を求めたのなら、神様はその願いをお喜びにはならなかったと思います。ソロモンは言ったのです。「私は未熟な若者で、どのように振る舞えばよいのか分かりません。僕はあなたがお選びになった民の中の一人ですが、民は多く、その多さのゆえに数えることも調べることもできません。どうか、この僕に聞き分ける心を与え、あなたの民を治め、善と悪をわきまえることができるようにしてください。そうでなければ、誰がこの数多くのあなたの民を治めることができるでしょうか(7~9節)」。ソロモンは自分のためではなく、神に与えられた使命を全うし、預けられた民への責任を果たすために必要な知恵を求めたのです。
神様は、私たちにもそれぞれの人生の持ち場を預けてくださっています。その責任を果たすために「どのように振る舞えばよいのか分かりません」というのは、私たち自身の祈りです。しかし神様は、ソロモンに対してそうであったように、私たちにも、その責務のために必要な知恵や力を授けてくださいます。もしも私たちが自分のためではなく、神と隣人とのためにそれを求めるならば。そして、私たちがもしもその責任の一端でも果たすことができたとしたら、それは神が下さった賜物によって仕えることが許された、と言うことではないでしょうか。神様は、私たちに、それぞれの「場」を与えてくださっています。ここに生きるために必要なものをすべて与えることのできる方に、私たちは今日祈りつつ、一日の歩みを初めていきましょう。

2019年6月17日月曜日

2019年6月17日(列王記上2)

今日の通読箇所:使徒言行録11、列王記上2、ヨブ記29

列王記上2;
「こうして王国は、ソロモンの手によって確かなものとされた(46節)」と言われているとおり、ダビデ王朝の二代目であるソロモン王がその治世を盤石なものとするプロセスが今日の箇所です。
まず、ダビデがついに最期を迎えたとき、ソロモンに最後の勧告をします。「私は、この世のすべての者がたどる道を行こうとしている。だが、あなたは強く、雄々しくありなさい。あなたの神、主への務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおりに、主の掟と戒め、法と定めを守りなさい。そうすれば、何をしても、どこに行っても成功するだろう(2~3節)」。ヨシュアへの最初の励ましと同じ言葉です。右にも曲がらず、左にもそれず、ただ主の道を強く、雄々しく歩め、と言われます。ダビデはもう死にます。いつまでも次の世代を見守ることはできません。前例をたどるだけでは、難しい局面を打開することはできません。次の世代にダビデが言い残すべきことは、ただ一つでした。主に従え、その御言葉に従え。ただそれだけを、ソロモンは引き継いだのです。
具体的にソロモンが王権を確立するために、反乱の芽となる者たちを粛清しました。兄アドニヤ、祭司エブヤタル、将軍ヨアブ、シムイ。父の時代からの有力者であり、あるいはアドニヤの反乱に手を貸した者たちです。現代日本に生きる私たちの価値観からすると、随分と残酷なようにも映ります。反乱者をどう処遇するか、それは時代の制約を受ける事柄ですから、現代的な評価を下すよりもこれはこれとして受け止めておくのがよいと思います。
しかしその中でも、祭司エブヤタルを蟄居させたことについて、聖書は「こうして、主がシロでエリの家について告げられたことが実現した(27節)」と評価していることは注目すべきです。神の言葉が実現する。それが、申命記から始まって、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記、列王記と続いて一貫してきた歴史観です。
この神の言葉は、ダビデが聞き従い、ソロモンにもそのように生きよと諭した言葉です。私たちも、ダビデと同じ神を信じ、同じ神の言葉に聞き従って、毎日のこの朝の祈りを捧げているのです。

2019年6月16日日曜日

2019年6月16日(列王記上1)

今日の通読箇所:使徒言行録10:24~48、列王記上1、ヨブ記28

列王記上1;
ダビデが老年を迎え、自分の身の回りの世話もすべて人任せにしなければならなくなった頃、ダビデの四男にあたるアドニヤという男が思い上がり、自分が次の王になると宣言しました。将軍ヨアブや祭司エブヤタルといった有力者が彼に組していました。
どうしてこのようなことになってしまったのか。「こうなったのも、彼が生まれてこの方、父親が、『どうしてこのようなことをしたのか』などと言って厳しくしつけることがなく、またアドニヤ自身、容姿端麗で、アブシャロムの次に生まれた子だったからである(6節)」と評価しています。父ダビデは、アブシャロムのこともあって彼を厳しくしつけることができず、彼の過ちを方向修正するという経験をお互いに積んできませんでした。ダビデの親としての弱さが、このような混乱を生んでしまったようです。
しかし、ダビデの次の王は、ソロモンでした。預言者ナタンを中心として、若きソロモンを支える者たちが国の中にいました。ナタンは、ダビデがソロモンの母となったバト・シェバを彼女の夫から奪ったときに、ダビデの所へ来て叱責した預言者です。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ(マタイ1:6)」、彼が新しい王となったのです。
神様のなさることは、本当に不思議だと思います。一体誰がバト・シェバが次の王を産むと想像することができたでしょうか。ダビデがウリヤから妻を奪い、彼を殺したことは、決してあってはならないことです。しかし、神様はそのあってはならない罪深い出来事の先に、新しい出来事を始めてくださいました。やがて、この家系が主イエスにつならなることは、私たちの気が遠くなるような大いなる御業です。私たちの罪さえをもお用いになる神様を仰ぎ、畏れ、今朝の礼拝へ、神の御前へと進み出ていきましょう。

2026年7月30日の聖句

自分の神を知る民は揺るがず行動する。(ダニエル11:32) 聖なる方、真実な方がこう言われる。「あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから試練の時に、私もあなたを守ろう。」(黙示録3:7,10) 今日の御言葉は「忍耐」と言います。必ず試練の時が来る。苦しみの時に忍...