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2020年12月27日日曜日

2020年12月27日(ルカによる福音書2:41〜52)

ルカによる福音書2:41~52
両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」しかし、両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった。

ヨセフとマリアは毎年、過越祭にはエルサレムへ行っていました。ユダヤ人としての信仰者の義務を果たしていた。イエスが12歳になった年の過越祭にも、やはり一家で旅しました。エルサレムについて礼拝をし、皆と一緒に帰路に就いたとき、イエスは一人エルサレムに残っていました。両親は気づかなかった。イスラエル中の人がエルサレムに集まっていましたから、家路もたくさんの人が連れ立って歩いていました。両親はイエスが一行の中のどこかにいると思い込んでいたのです。三日後になってようやくイエスがいないことに気づきました。イエスを捜しながら戻り、ついにエルサレムまで戻って、神殿で教師たちと話しているのを見つけたのです。
「なぜ、こんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」マリアは息子にいいました。迷子になったのだから、厳しく叱らないといけない。それなのにイエスは「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」と言う。両親がこの言葉の意味が分からなかったのも、当然のように思えます。子育てをしながらこの話を読むと、なんとも身につまされます。ヨセフとマリアがかわいそうな気がしてしまいます。子どもが迷子になれば、両親はどんなに心配することでしょうか!
しかし、きっと本当に迷子だったのはイエスではなく両親の方です。イエスが神の子であるということを見失っていたのです。「私が自分の父の家にいるはずだ」というのは、ただの12歳の息子の言葉として聞けばあまりに生意気ですが、本当に神の子である方の言葉だとすれば、当然のことです。両親は、イエスが神の子だという真実を見失っていたのです。
マリアにすれば自分が産んだ子、ヨセフも父として育ててきた息子です。その相手が神の子だとわきまえるのは大変なことです。私たちは彼らと同じ意味でイエスと接することはないのかもしれませんが、しかし私たちの毎日の営みの中で神さまとの関わりを見出すという意味では、同じ問いを受けているのだと思います。私たちの目の前にいる人も、神さまが愛し、尊んでいる人です。私たちの目の前の人に現れる神の御業を、私たちも目を開いて見つめ直したいと願います。

2020年12月26日土曜日

2020年12月26日(ルカによる福音書2:21〜40)

ルカによる福音書2:21~40
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
私はこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民の前に備えられた救いで
異邦人を照らす啓示の光
あなたの民イスラエルの栄光です。」

ルカによる福音書にはたくさんの賛美歌が収められています。この数日、マリアの参加、ゼカリヤの賛歌を見ました。昨日のところにはクリスマスの夜に天使が歌った賛美歌が記録されていました。今日のところにはシメオンの賛歌があります。これもラテン語から採られた題名がつけられていて、ヌンク・ディミティスと呼ばれています。ヌンク・ディミティスは、一日の中では終課と呼ばれて、一日の終わりの夜寝る前の祈りで用いられてきた伝統があるようです。
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」私はこの賛美歌が大好きです。安心して死ねる、とシメオンは言いました。なぜなら、この目で神の救いを見たから。イエスにお目にかかったから、私はいつでも死ねるとシメオンは言います。シメオンは主イエスと出会ったことで、自分の人生の目標は完成したと悟ったのです。
私たちは何のために生きているのでしょう。何をすることができれば、悔いなく死ぬことができるのでしょう。何か人から尊敬されるようなことをしたのか、何らかのかたちで名を残したのか、人の記憶に残るのか、次世代を育て上げたのか、・・・。それらはどれも尊いことです。しかし、私たちが「する」ことはどんなにすばらしくても私たちを救うことはできません。成果は必ず色あせるし、人は変わります。野に生える草のように移ろうものです。昔の人はそのことをよく知っていたので、日本語にも無常という言葉があるのだと思います。
変わらないのは、神さまだけです。私たちは昨日も、今日も、そして永遠に変わることのないイエス・キリストに出会うときに救われます。これはすべての人のための救いです。キリストは私たちの誰であっても救うために来てくださいました。ヌンク・ディミティスは聖餐の賛美歌として歌う習慣もあります。讃美歌21にも入っていて、礼拝で歌ったこともあります。キリストと出会い、キリストのお体を食べて生きる。私たちの信仰生活がそこにあります。

2020年12月25日金曜日

2020年12月25日(ルカによる福音書2:1~20)

ルカによる福音書2:1~20
「ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。」

主イエス・キリストはお生まれになりました!私たちはこの方を見れば分かるのです。神が生きておられることが。神が今も働いておられることが。神がこの世を愛していることが。飼い葉桶に寝かされた神の御子を見れば、私たちにも分かるのです。
マリアが産んだ子を飼い葉桶に寝かせたのは、宿屋に泊まる所がなかったからです。この「宿屋」という単語には「客間」という意味もあります。旅館業を営んでいる宿屋がどこも満室だったということではなかったのかもしれません。旅の人のために自分の客間に一夜の床を提供する人が一人もいなかったということではないかと思います。そうだとすると、宿屋を営んでいる人だけの問題、あるいは当時人口調査のためにやってきて自分の宿屋の一室を譲らなかった人の問題というには留まらなくなります。自分の住まいのほんの僅かなスペースも、お腹の大きなマリアのために提供することがないという、すべての人の冷たさの話になります。主イエスは愛の冷えた世界に来られたのです。
主イエスは一枚の布を産着にして、静かに飼い葉桶に寝ています。この乳飲み子が私たちのためのしるしです。主イエスは愛が冷えた世界に宿った神の愛そのものです。
今年はコロナの年になってしまいました。こういう大変なことがあると、私たちの心の中にあるものがむき出しになります。私たちの愛が冷えていることがあからさまになってしまったように思います。本当は昔からそうだったのですが、こういうときにはあからさまになります。主イエスが宿ったのは、そういう世界なのだと思います。しかし主イエスが飼い葉桶に寝ているからには、この方を見れば神の愛がここにあると私たちにも分かるのです。
私は今いろいろな人の顔を思い浮かべながら聖書を読んでいます。さがみ野教会の仲間たち。私の近所の人。教会に遊びに来る子どもたち。子どもたちの友達とその家族。他の教会の人たち。海外の人もいます。数限りなく、無数の顔を私たちは思い浮かべるのではないでしょうか。今あなたが思い浮かべたたくさんの顔。その誰一人として例外なく、主イエスはすべての民の救い主です。飼い葉桶に宿った神の愛の対象外という人はいません。私たちの世界が愛に冷え切ってしまったとしても、神の愛が冷えることはありえないのです。キリストがお生まれになったこと、飼い葉桶におられること、それが私たちのための神の愛のしるしなのです。

2020年12月24日木曜日

2020年12月24日(ルカによる福音書1:57〜80)

ルカによる福音書1:57~80
幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え
主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって高い所から曙の光が我らを訪れ
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし
 我らの足を平和の道に導く。

洗礼者ヨハネが生まれたときの父ザカリア祈りの言葉です。これも昨日読んだマリアのマニフィカートと同じように、ラテン語訳の冒頭からベネディクトゥス・ドミヌス・デウスと呼ばれています。例えば修道院などでは一日の祈りのための聖務日課というものが決まっていますが、その中でもベネディクトゥス・ドミヌス・デウスは朝の祈りに分類されています。上で引用した最後の部分が朝のイメージで語られているからなのでしょう。「この憐れみによって高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。」朝にふさわしい、希望に満ちた言葉です。
ベネディクトゥス・ドミヌス・デウス。ラテン語で「主なる神はほめたたえられよ」。なぜ神を賛美するのか。神の救いの御業を賛美しています。ここに生まれた幼子がやがて成長して主イエスのための準備をすることになる。そのために「主の民に罪の赦しによる救いを告げ知らせ」ます。私たちを罪の闇から救うために来てくださるイエス・キリスト。このお方の前に悔い改め、へりくだった心を持って準備をするために、ヨハネは私たちの前に現れました。彼は罪の赦しの福音を宣べ伝えます。これは、神の憐れみの心によって始まりました。私たちがキリストの御許に立ち帰り、神の愛の中を生きることが、神さまの願っていてくださることなのです。
この憐れみによって、高い所から曙の光が私たちを訪れます。暗闇と死の陰に座している私たちを照らします。私はこの聖書の言葉が大好きです。朝の光に私たちは照らされている。主イエスが実際にお生まれになったのが何月何日なのかは、聖書に記録されていないので分かりません。イエスの時代からしばらく経って、教会がそれを祝おうとしたときに、冬至の時期を選びました。暗闇がいちばん深くなるとき、しかし、これから徐々に光に照らされ始めるとき。私たちは曙の光に照らされています。もう朝が来たのです。キリストの光の中に私たちも生かされているのです。

2020年12月23日水曜日

2020年12月23日(ルカによる福音書1:26〜56)

ルカによる福音書1:26~56
私の魂は主を崇め
私の霊は救い主である神を喜びたたえます。
この卑しい仕え女
  目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
  私を幸いな者と言うでしょう。

マリアの賛歌。賛美歌の中ではマニフィカートと呼ばれ、世々のキリスト者たちがマリアのこの言葉に心を合わせ、自身の祈りとして神に献げてきました。マニフィカートというのは、この賛歌のラテン語訳の最初の単語です。日本語では「崇める」と訳されている言葉。直訳すると「大きくする」という意味です。神を崇める、神を賛美するというのは、神さまを大きくするということです。私たちはいつの間にか神さまを小さくし、自分の手のひらに乗る、自分で把握可能な神さまにしてしまいます。しかし、神を賛美する者は、神が大きな方だと知っています。自分が「大きい」と思っているよりもなお大きく、自分の予測を超える方だということを受け入れます。
神さまは、この私にも目を留めてくださる。マリアは自分を「卑しい仕え女」と呼びます。「仕え女」と訳されている言葉は、直訳すれば「女奴隷」です。こういう言葉は、現代ではあまり好まれません。一人の女性に対して「卑しい」だとか「奴隷」だとかいうのはどうなのか、と言うのです。私にはポリティカルコレクトネスのようなものを過剰に気にしすぎているように感じます。マリア自身の言葉なのですから。そしてマリアは神さまの大きさ、偉大さに圧倒されて、自分の小ささを知り、この聖なるお方の前で卑しい私であることを喜んで告白したに違いない。「私は主のはしためです」と言ったマリアの信仰を、私たちの信仰にしたいと願っています。
主が目を留めてくださったのだから私は幸いな者。マリアはそう言いました。これからマリアは実際に出産を迎えるわけで、その時にはもうすでに人口調査のための旅があり、飼い葉桶に乳飲み子を寝かせねばならなかったのであり、あるいは最後には十字架にかけられたイエスを見なければならなかった。マリアは悲しみをたくさん知ることになる。それでも、マリアは幸いな人です。神が目を留めてくださったから。この幸いはマリア一人のものではなく、私たちも同じ幸いに与っていると私は信じています。神はこの私にも目を留めてくださっている。私たちもマリアと共に歌います。「私の魂は主を崇め・・・」と。

2020年12月22日火曜日

2020年12月22日(ルカによる福音書1:1〜25)

ルカによる福音書1:1~25
ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアと言う人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトと言った。二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人ともすでに年を取っていた。

ルカによる福音書はテオフィロという身分のある人物に主イエスの出来事を伝えるために書かれました。ルカは「順序正しく書いてあなたに献呈する」と言っています。そして、キリストの出来事の始まりとしてルカが最初に報告するのが洗礼者ヨハネの誕生の時のいきさつでした。ここに、福音が始まったのです。
ヨハネの両親の名はザカリアとエリサベト。この二人について、ルカは「二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人ともすでに年を取っていた」と伝えています。私は、今回、この言葉はとても大切なことを伝えているように感じました。二人とも正しい人でした。主の戒めと定めを落ち度なく守っていました。しかし、彼らには子どもがいませんでした。この後の天使とのやりとりを読むと、彼らが子どもが与えられることを望んでいたことが窺われます。しかし彼らはすでに年を取っていましたから、もう何十年も前に諦めたことだったのでしょう。それでも彼らは主の前に正しく生きることをやめませんでした。主なる神様を信じ、神さまが命じた律法を守ることをやめませんでした。ザカリアとエリサベトにとって、神さまを信じることも神さまの戒めを守ることも、自分たちの願いが叶えられることの「代わり」ではなかったのです。
私たちは、自分の祈りが叶えられなかったり厭なことや不幸なことがあったりすると、神さまを信じる価値がないような気がしてしまいます。メリットがないのに神を信じる必要なんてあるのでしょうか?ザカリアとエリサベトにとって、神さまを信じることや従うことは、好いこととのトレードオフではなかったのです。
神さまがザカリアとエリサベトを選びザカリアのところにガブリエルがやって来たのは、彼らがただただ神に従う人であったからなのかもしれません。私たちは神さまがご褒美をくれるから信じるのではなく、報いがあるから従うのでもない。神さまは、もうすでに私たちに贈り物をくださっています。それに私たちが気づいていないだけで。ザカリアとエリサベトに始まる出来事はキリストの出来事の序章です。私たちに神がくださったかけがえのない贈り物、イエス・キリストの福音は、ここに始まっているのです。

2020年5月31日日曜日

2020年5月31日(ルカによる福音書24)

ルカによる福音書24
エマオ村に向かう二人の弟子たち。これは、主イエスが復活した日の午後から夕方にかけての出来事です。暗い顔をして歩いていた二人に、復活のイエスが近づいてきます。二人の顔が暗くなったのは、イエスが十字架につけられたからではありません。もちろんそれもあるでしょうが、それ以上に、「イエスは生きておられる」という天使の知らせを仲間の女たちが墓から持ち帰ったことに戸惑い、顔が暗くなったのです。
「イエスは生きておられる。」この知らせは、私たちを戸惑わせ、私たちの顔を暗くするニュースだ、と聖書は言います。いいニュースのはずが、聞くものを戸惑わせ、顔を暗くさせるニュースになってしまう。それは、「イエスは生きておられる」という知らせが、信仰の性質を変えてしまうからなのだと思います。
私たちにとって、エマオに向かうあの二人にとって、信仰の主体は信じる私です。別の言い方をすれば、自分の人生の主語は「私」です。私はこうしたい、私はこう生きていきたい、私は悲しい、悔しい、うれしい、楽しい。私の人生の主語は「私」以外ではありえない。当然です。しかし、「イエスは生きておられる」という知らせは、私の人生の主語を「私」から「キリスト」に変えてしまいます。今生きておられるキリストと共に歩む人生が始まるからです。あの二人が、エマオに向かってイエスと歩き始めたように。
ここでイエスは、暗い顔をした二人を説得するために「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」。あるいは、この後エルサレムにいる弟子たちのところに現れたときにも、「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する」と言います。主イエスは、聖書からご自分について語っている言葉を私たちに聞かせます。
「イエスは生きておら得る」。この福音を私たちにもたらすのは、聖書の御言葉です。私たちはこの「イエスは生きておられる」という知らせを聞く日として神が定めてくださった主の日、日曜日を迎えました。主の御前に進み出ましょう。エマオへと一緒に歩いて旅をしてくださったキリスト、弟子たちのところに現れて、不信仰に実を埋める彼らを説得するために魚まで召し上がったキリストが、私たちと共にいてくださいます。「イエスは生きておられる」という、この復員船源に私たちが聞き、私たちがこの福音に生きる者となるために。

2020年5月30日土曜日

2020年5月30日(ルカによる福音書23:26~55)

ルカによる福音書23:26~55
そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。

イエスが十字架にかけられたとき、右と左にも十字架が立てられ、それぞれに犯罪人が磔になっていました。イエスさまは犯罪人の一人に数えられて、死刑にされました。そのうちの一人が、イエスに言ったのです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と。主イエスはそれに答えて、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われました。
「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」というのは、私もあなたも今日中に死ぬから、そうしたら極楽にいけるよ、という意味ではありません。ルカによる福音書では「今日」という言葉は独特な響きを持っています。
野宿をしながら羊の群れの版をしていた羊飼いたちに、天使は言いました。「今日ダビデの町に、あなたがたのための救い主がお生まれになった。」ここでの「今日」には確かに今晩という意味もあるでしょうが、それだけではありません。「今まさに」とか、「神さまの機が今こそ満ちて」といった意味があることは明らかです。
主イエスはある安息日に会堂に入り、聖書を朗読しました。「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」そして、主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と告知しました。主が福音を宣言する「今日」というのは、私たちが聖書を読む「今日」のことです。今日、主の恵みの年が告げられ、現実のものとなりました。
徴税人ザアカイの家でも、主は「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。
このように、ルカが「今日」と言うとき、それはイエスの告げる福音が現実のものとなった「今日」、私たちの救いが実現した「今日」のことです。
主イエスは犯罪人に言います。「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」主イエスがおられるところ、そこが楽園です。だから、イエスと共に私たちがおり、そこで福音の宣言を聞くならば、そこが楽園です。苦しみの中にあっても、私たちはキリストを信じて楽園に生きることができる。そのような「今日」が、私たちにも到来しています。

2020年5月29日金曜日

2020年5月29日(ルカによる福音書23:1~25)

ルカによる福音書23:1~25
「私はあなたがたの前で取り調べたが、訴えられているような罪はこの男には見つからなかった。」・・・しかs、人々は一斉に、「その男は連れて行け。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは都で起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。ピラトはイエスを釈放しようと、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「一体、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる罪は何も見つからなかった。」

礼拝になると、使徒信条を唱えます。「(イエス・キリストは)ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ」と私たちは告白しています。主イエス・キリストはポンテオ・ピラトというローマから派遣された総督の権威の下で十字架刑を執行され、殺されました。しかし、そのピラト自身が言うのです。「一体、どんな悪事を働いたのか。この男には死刑に当たる罪は何も見つからなかった」と。
ピラトがどうしようもなく偏った裁判をしたとか、殆ど裁判らしい裁判がなかったというのではありません。イエスを訴える者たちの言い分を聞き、イエスご自身にそれを質しても、ピラトにはイエスを十字架にかけるだけの理由を見つけることができませんでした。その代わり、まったく何の理由も言うことができずに、ただ狂ったように人々が「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ。謂わば、ピラトはその世論に与したのです。イエスの十字架はポピュリズムの成果です。
主イエス・キリストは何の罪も犯していませんでした。それなのに、十字架での磔といういちばんの重罪人のための極刑に処せられました。何の理由がなくともイエスを十字架につけようと大衆が望んだからです。ピラトの取り調べの時に、ピラトはイエスに「お前はユダヤ人の王なのか」と問いました。更に正しくは神の国の王と言うべきでしょう。イエスは、真の王です。しかし、私たち大衆は真の王である方ではなく、暴動と殺人のかどで死刑になるはずだったバラバを生かすことを願いました。神さまが私たちの王であることを拒んで、バラバを選んだのです。
キリストは十字架へと向かっていきます。私たちのために。私たちに代わって。そして、私たちに追い詰められて。十字架にかけられた王キリストを、今日も、私たちは仰ぎます。

2020年5月28日木曜日

2020年5月28日(ルカによる福音書22:47〜71)

ルカによる福音書22:47~71
十二人の一人のユダは、接吻によってイエスを裏切りました。イエスを捕らえようと画策している者たちを連れてきて自分が接吻する者がイエスだと打ち合わせてあったのです。もちろん私たちの文化が持つ接吻の意味と彼らのそれとは全然違います。私たちで言えば、握手して挨拶するということでしょうか。明らかに普通の挨拶よりも、もっと親しい挨拶です。仲間と交わす挨拶です。その最大級の親愛の情をもってすることによって、ユダはイエスを裏切りました。
シモン・ペトロは、捕らえられたイエスの後についていって、イエスが連行された大祭司の家の中庭に入りました。しかしそこで召使いの女から「この人も一緒にいました」と言われ、「あんな人など知らない」と言います。同じようなやりとりを三度も重ねました。そして、三度目にイエスを否んだとき、鶏が鳴き、向こうの方でイエスが振り向いて彼を見つめるのと目があいました。そして、ペトロは主イエスから「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われていたことを思い出し、外に出て、激しく泣きました。
ペトロは自分を守るためにイエスを捨てました。もしかしたら、それは私たちにはありふれたことであるのかも知れません。自分のために仲間を捨てる。大なり小なり、私たちにも身に覚えがある。自分の損得のために、仲間を裏切る。自分が、誰かのために損得を完全に超えた仲間になれるかと言われると、正直に言って怯んでしまいます。
最大級の親愛の挨拶をもってイエスを裏切ったユダ。自分のために仲間であったはずのイエスを切ったペトロ。それは、私自身の姿です。
しかし、主イエス・キリストは、こんな私を捨てないでいてくださいます。マタイが伝えてるところによると、ユダはこの後自殺してしまいました。主イエスが十字架にかけられたのは、その直後のことです。まるでユダを追うようにして陰府に降って行かれます。ペトロに対しては、主イエスはあらかじめ祈っていてくださいました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたがたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:31~32)」。
私たちが主イエスを捨てても、主イエスは私たちを捨てないでいてくださいます。これが、キリストが私たちに告げてくださった福音です。キリストの赦しの中で、私たちは立ち直り、再び隣人・仲間として生きることができるのです。

2020年5月27日水曜日

2020年5月27日(ルカによる福音書22:24〜46)

ルカによる福音書22:24~46
「イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。」
十字架を目前にした主イエスのオリーブ山(マタイやルカは「ゲツセマネの祈り」と呼びます。)での祈り。主イエス・キリストは祈ります、「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」主イエスは苦しみもだえて祈ります。汗が血の滴るように地面に落ちました。ご自分がかけられることになる十字架の苦しみをまだ他の誰も知らないところで悟り、すでにその苦しみが始まったかのようにして祈っておられます。
しかし、主イエスが戻って御覧になると、弟子たちは「心痛のあまり眠り込んでいた」のでした。うっかりすると弟子たちは疲れて寝ていたかのような気がしてしまいますが、聖書をよく読むと「心痛のあまり」と言っています。悲しいから寝ていたというのです。そして、主イエスが祈りはじめる前に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言っておられたことを考えると、ここで主イエスが指摘している「誘惑」というのは、悲しみによって信仰が寝てしまうという誘惑なのではないでしょうか。悲しむこと自体は悪いことではないはずです。しかし、時に悲しみは私たちの心を固くします。主イエスを見えなくさせてしまうことがあるです。
このオリーブ山の祈りの時に寝てしまった弟子たちは、私自身の姿です。そんな私の慰めであり救いであるのは、主イエスがこう言ってくださったことです。「あなたがたは、私が試練に遭ったときも、私と一緒に踏みとどまってくれた人たちである(28節)」。新約聖書が書かれたギリシア語では、「試練」と「誘惑」という言葉は同じ単語です。文脈によって誘惑あるいは試練と訳し分けます。そうとすると、一体いつ、私たちは主イエスが試練や誘惑にあわれたときに一緒に踏みとどまることができたのでしょうか。むしろ、試練や誘惑の中で悲しみに心をかたくなにし、主を見失ってしまう私です。まして主ご自身が誘惑に遭われるようなとき、一体どうして私が主と共に踏みとどまることができたのでしょうか。
この言葉は、主イエスが十字架にかかってご自分の血を流して、その血によって私を赦してくださったという、その赦しの中でしか聞くことのできない言葉なのではないかと思います。主は「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われます。主の赦しに心を向け続けるために、私たちは祈りに向かっていきます。

2020年5月26日火曜日

2020年5月26日(ルカによる福音書22:1〜23)

ルカによる福音書22:1~23
「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれた。使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。』」
主イエスは、苦しみを受ける前、すなわち十字架を前にして使徒たちと共に食事をすることを望んでおられました。一緒に食事をすることの尊さ、かけがえなさは私たちにもよく分かります。特に、このようなときには。しかし、主イエスが弟子たちと囲みたかったのは、ただの会食のテーブルではありませんでした。「この過越の食事をしたい」と主は言われます。他の何でもなく、過越の食事です。
旧約の時代、エジプトで奴隷であったヘブライ人。追い使う者のために苦しみ、呻いていた彼らを救うために、神さまはモーセをお遣わしになりました。モーセはヘブライ人たちを解放するようにファラオと交渉しますが、ファラオはあくまで頑なになって、首を縦に振ることを拒みました。そこで、神さまは10の災いをエジプトの中に引き起こします。ところが、それが重なれば重なるほどにファラオの心はますます頑なになっていきました。その最後が過越の災いでした。エジプトの地にいるありとあらゆる人や家畜の初子を神が討ったのです。ヘブライ人に対しては、羊の初子を殺してその地を家の玄関の鴨居と柱に塗れ、と言います。小羊の血の目印を見て、初子を殺すために使わされた天使はその家を過ぎ越すであろう、と。ヘブライ人たちはこの夜の過越の出来事を記念して、毎年春になると過越の祭りを祝います。主イエスは、その食事を、十字架を前にして弟子たちと共にとりたいと願ったのでした。
過越の出来事は、本当は死ぬべき私のために、小羊の血が身代わりになって命を救うためのしるしになりました。十字架で流されたイエスの血は、同じように、死ぬべき私たちの身代わりになって流された、私たちのための血のしるしです。
主イエス・キリストは、この食卓で、ここで裂かれるパンは私たちのために裂かれるご自分の体であること、ここで飲まれる杯は私たちのために流されるご自分の地であることを明言なさいました。私たちのために、キリストが犠牲になってくださいました。
聖餐の食卓を、みんなで一緒に囲める日を、私たちは心から待ち焦がれています。私たちはこの食卓に思いをはせる度に、私たちのためにご自身を犠牲にしてくださったキリストを思い起こします。キリストが、私たちのために、小羊のように血を流してくださったからです。

2020年5月25日月曜日

2020年5月25日(ルカによる福音書21)

ルカによる福音書21
「その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」
ハンス・ヨアヒム・イーヴァントという牧師がいます。彼は第二次世界大戦下のドイツでナチの支配に抵抗する教会の牧師でした。ナチの弾圧が激しくなる中、彼らは自分たちで牧師の要請を行うべく、牧師補研修所をつくります。イーヴァントは東プロイセンの牧師補研修所の所長でした。1937年頃に彼がそこでした講義の記録が、日本語に翻訳された出版されています。
この本の中で、イーヴァントは、教会が没落してしまうというようなことはありえないと考えるのは、決して褒められたことではないと言います。教会は没落してしまうかも知れない。この世界から消えてしまうかも知れない。イーヴァントは、本当に厳しい肌感覚として、真剣にその危機を感じ取っていたのです。
今日私たちに与えられている聖書の御言葉は、厳しい危機を語ります。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、また、大地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や天から大きなしるしが現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の他のために王や総督の前に引っ張っていく。」しかし、主イエスは、そうだからと言ってこの世界の終わりが来たということではないと言います。「戦争や騒乱があると聞いても、おびえてはならない。こうしたことは、まず起こるに違いないが、それですぐに終わりが来るわけではない。」むしろ、私たちが苦難の日々に迫害されるとしたら、「それは、あなたがたにとって証しをする機会となる」と言います。
イーヴァントは厳しい現実を見ながら言います。教会が没落するということがありえる。だからこそ、私たちは神に与えられた使命に生きねばならない。神に与えられた使命、それは、私たちが福音の言葉を語ること、証しすること。私たちは例えすべての秩序が崩れたとしても、神の命令に従って福音を語り続けるのだ、と。
主イエスが今日語っておられることの急所は、私たちは、戦争や疫病のようなことでこの世界の終わりを測るのではなく、私たちがキリストを待っていること、キリストが来て私たちを救ってくださる日を待っていることです。「あなたがたの救いが近づいている」と主イエスは言われます。
私たちキリスト教会のメッセージは、世紀末的なこの世界の破滅を予見するようなものではありません。キリストが私たちのところに来て、私たちを救ってくださる。そういう希望のメッセージです。この福音を証しする使命を、神は私たちに託してくださいました。望みの言葉、命の言葉は、今この時代に生きる人々にとってもかけがえのない価値を持っているのではないでしょうか。

2020年5月24日日曜日

2020年5月24日(ルカによる福音書20:20〜47)

ルカによる福音書20:20~47
「死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、明らかにしている。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」
もう20年くらい前になると思いますが、アメリカの教会でWWJDと書いてあるアクセサリーがはやりました。What Would Jesus Do?という言葉の頭文字です。イエスさまはどうなさったのか、イエス様ならどうするのか、といった意味でしょうか。最初にそういう話を聞いたとき、私はああなるほど、それは大切な考え方だなと思いました。迷ったときに、イエスさまだったらどうなさったのかということを自分の行動の指針にできたら良いなと思いました。
しかし、しばらくして私と同じ教会の仲間、彼はアメリカの大学で学んでいて一時帰国をしていたときでしたが、その友達がそのアクセサリーに反論をしていました。イエスさまだったらどうしたのかというのは、まるでイエスさまが過去の世界の住人であるかのようだ。むしろ、あのWWJDという合い言葉は、Walk With Jesus Daily(イエスさまと一緒に日々歩んでいこう)の頭文字だと考えている。そんなことを言っていました。私は、今は彼の言ったことの方が正しいと思っています。主イエス・キリストは2000年前にいた偉人で、この方の模範を意識して、それを再現する。それがイエスを信じて生きるということではありません。今生きておられるキリストと、私たちは共に歩んでいきます。キリストは、今日も生きて働いておられます。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」主イエス・キリストは、そのように言われます。私たちは神によって生きているから、神は死んだ者ではなく生きている者の神!私たちは、今日というこの日を今生きておられる神と共に歩んでいきます。
45節以下に、人から重んじられたい、立派な人だと思われたい、それなのに実のところ弱者を食い物にしている人への厳しい裁きの言葉が語られています。神がここにおられる、今日も私と共にいてくださるということを、本当にリアリティを持って信じていたらできない振る舞いです。しかし、実際にここに指摘されている罪は自分の姿そのものとしか言いようがないと私は自分について思います。だからこそ、今生きて働いておられるキリストの憐れみにすがり、主の御前に進み出て、このお方を礼拝したいと願います。罪の赦しを、今日新しく頂くために。

2020年5月23日土曜日

2020年5月23日(ルカによる福音書20:1〜19)

ルカによる福音書20:1~19
「民衆はこれを聞いて、『そのようなことがあってはなりません』と言った。」
これは、主イエスがなさった譬え話への民衆の反応です。ぶどう園と農夫の譬え。ある人がぶどう園を造った。農夫たちに任せて、長い旅に出ます。収穫の時になったので僕を送りましたが、農夫たちはこの僕を袋叩きにした。別の僕を送っても三人目の僕を送っても、同じ目に遭わされます。主人は最後に自分の息子を送りました。「どうしようか。私の愛する息子を送ろう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」ところが、農夫たちは却ってこの跡取り息子を殺せばぶどう園は自分たちの者になるに違いないと言って、この息子を殺しました。農夫たちは、主人に殺されました。
「そのようなことがあってはなりません」と民衆は言います。もちろん、農夫を裁く主人の仕打ちに対して言ったのではなく、主人の一人息子を殺した農夫たちの残虐な振る舞いのことです。私たちも同じように思うのではないでしょうか。そして、私たちはこの譬えを読んだときに、明らかにこの譬えの主人は神であり、僕は預言者たち、農夫は私たち、主人の息子が主イエスであると分かります。私たちが神さまと主イエスさまに何をしてしまったのかが語られている。そのことは、この譬えを読めばすぐに分かります。
私も、思います。「そのようなことがあってはなりません」と。民衆がそうであったように、まるで人ごとに。この譬えを読むと、私は、自分が神さまの一人息子を殺すほどの極悪な農夫であることを、自分は身にしみてわきまえていないのだと考えないわけにはいかないのです。
主イエス・キリスト。神さまの子です。独り子です。この方が殺されることなんて、本当はあってはならないことです。私も頭ではそう思っています。しかし、実際には、どれだけ自分の骨身に染みて「あってはならない」とわきまえているのかというと・・・言葉がでてきません。神さまの怒りや悲しみにたいする自分の思いの貧しさに、愕然とするより他ない。
だから、私も本当は、あの農夫たちと同じように裁かれるべきです。殺されるべきです。それなのに、神さまは私たちが殺した独り子の血によって私たちを救ってくださいました。あってはならないことを、私たちのための救いの出来事に変えてくださいました。あまりの途方もない神さまの御業に、言葉がでてきません。私は、ただただこのお方の途方もない御業の前に、頭を垂れるだけです。

2020年5月22日金曜日

2020年5月22日(ルカによる福音書19:28〜47)

ルカによる福音書19:28~47
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる王に、祝福があるように。天には平和、いと高き所には栄光があるように。」fすると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶだろう。」

エルサレムに入城する主イエス、まだ誰も乗ったことのない子ろばにのっておられます。ルカが伝えるエルサレム入城の話は、主イエスのために喜び、賛美の声を上げるのは、弟子の群れです。12人や、それだけではなくもっと大勢の弟子なのでしょう。一緒にここまでやって来た主イエスの弟子たちがこぞって喜び、賛美の声を上げました。
それを聞いたファリサイ派の人たちは、不適切だからやめるようにとイエスに言います。弟子たちを叱ってくれ、と。これではまるでイエスが神の遣わした救い主のようではないか、とファリサイ派の人々は眉をひそめたのです。
しかし、イエスは答えて言います。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶだろう。」いつの時代でも、主イエスのこの言葉は真実です。今、まだ、私たちは礼拝堂には集まれていません。しかし、主イエス・キリストの救いを賛美する賛美の歌声は、やんでしまったわけではありません。私たちは、今も、それぞれの場所で神を賛美しています。キリストを賛美し、喜んでいます。私たちが黙れば、石が叫び出すことでしょう。キリストを賛美する賛美の歌声がこの地上から止んでしまうことなどありえないのです。
その賛美はこのように言います。「主の名によってこられる王に、祝福があるように。天には平和、いと高き所には栄光があるように。」この言葉を聞けば思い出すのは、主イエスがお生まれになった夜、野宿をする羊飼いたちが聞いた天の大群の賛美です。「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」あの賛美の声は、この晩だけでやんでしまったのではありません。このエルサレム入城の日にも響き続けています。今も響いています。主をお迎えするとき、いつでも私たちは同じように神を賛美します。私たちの今日一日が、主イエス・キリストを喜び、賛美する歩みでありますように。

2020年5月21日木曜日

2020年5月21日(ルカによる福音書19:1〜27)

ルカによる福音書19:1~27
11節以下のムナの譬えは、私たちにはマタイによる福音書が伝えているよく似た譬え話であるタラントンの譬えの方が聞きなじみがあるのではないかと思います。読み比べてみると、よく似ているのに、随分と違う所も目立ちます。
まず、ムナとタラントンというお金の単位が違います。聖書の最後に付いている「度量衡および通過」という表を見てみると、一ムナは100ドラクメに相当する。1ドラクメは一日の賃金に相当します。これに対して、1タラントンは6000ドラクメの価値があります。タラントンはムナに対して60倍の価値がある。更に、マタイが伝えるタラントンの話では5タラントン、2タラントン、1タラントンと預けた額に差がありますが、ルカの伝えるムナの譬えでは「10人の僕を呼んで10ムナの金を渡し」とあり、一人一ムナずつ預けています。
また、ムナの譬えには、預けた主人を巡る世間の評判が書かれています。「その国の市民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王に戴きたくない』と言わせた。」そして物語の最後、マタイでは預けられた一タラントンを活用しなかった人はそのタラントンを取り上げられ、追い出されました。ところが、ムナの譬えでは、この人はムナを取り上げられますが、裁かれるのはこの主人が王になることを望まなかった世間の人たちえです。
そして、ルカはこの譬えを徴税人ザアカイの話の直後に伝えていfます。ザアカイは金にがめつい男でしたが、イエスと出会い「私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します」と言いました。
私はムナの譬えのポイントは、冒頭の「ご自身がエルサレムに近づいてこられたのに、人々は神の国がすぐにも現れると思っていたからである」という言葉だと思います。エルサレムに近づくというのは、主イエスからしたら十字架に近づくということです。人々の神の国待望が、十字架の抜きのそれになっていた。これに対してザアカイは、イエスとの出会いによって生き方が変わった人物です。お金の使い方は生き方そのものです。ムナの譬えも、イエスの十字架を前にしたとき、私たちの生き方が変わるはずだという話ではないかと思います。
私たちの目には持っている物に差があるように感じますが、ここで主イエスは、同じ一ムナを預けたと言われる。差があるかどうかということよりも、むしろイエスを王として受け入れようとしない世界で、預かった物をどう活用するかに関心を持っておられる。イエスを快く思わない世界でイエスに預けられたものによって生きるのは、簡単ではありません。しかしイエスと出会い、イエスを信じて生きる人生に向き合い、その課題に取り組むとき、主イエスは私たちを喜んでくださいます。ザアカイをお喜びになったのと、同じように。

2020年5月20日水曜日

2020年5月20日(ルカによる福音書18:18〜43)

ルカによる福音書18:18~43
「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人を連れてくるように命じられた。

誰に叱られても、どんなに黙れと言われても、この盲人はイエスに向かって叫び続けました。「ダビデの子よ、私を憐れんでください。」彼のこの叫び、「私を憐れんでください」という叫びは、その後キリスト教会が大切にしてきた祈りの言葉になりました。昨日の箇所にも「憐れんでください」とありました。特に、「主よ、憐れんでください」という祈りは、原文ギリシア語の音をそのままに「キリエ・エレイソン」という祈りの言葉として広く祈られてきた。主の憐れみを求める一筋の心の祈りです。
特に、呼吸に合わせてこの祈りをささげる伝統もあります。吸う息に合わせて「主よ」と唱え、吐く息に合わせて「憐れみたまえ」と心の中で繰り返します。あの盲人の心に合わせて、私たちも祈りましょう。誰に止められても、誰が叱っても、何者も私たちの祈りをやめさせることはできません。そして何より、主はこの祈りに耳を傾けて、立ち止まってくださいます。「イエスは立ち止まって、盲人を連れてくるように命じられた。」
ルカは31から34節の、三度目になるイエスの十字架予告の直後にこの盲人のことを報告しています。それには意味があるのだと思います。主イエスは、もう三度目になる十字架の師の予告を弟子たちになさいました。しかし、「十二人は、これらのことが何一つ分からなかった」と言います。主イエスが繰り返しおっしゃってきたことでしたが、彼らには理解することができませんでした。
しかし、イエスをその目で見ることができなかった一人の盲人が、イエスに憐れみを求めて叫びます。彼の信仰の目は開いていました。一途に憐れみを求めて叫ぶこの声に、主イエスは信仰を見出してくださいます。私たちには、分からないことがたくさんあります。今起きている出来事の意味のすべてを私たちが知ることは、許されていません。神さまがなさることの始めから終わりまでを見極めることは。しかし、私たちには見えなくても、主イエスさまの憐れみを求めて叫ぶことはできます。見えない私を、主よ、憐れんでください、と。主イエス・キリストは必ず足を止めて、私たちに向き合ってくださいます。

2020年5月19日火曜日

2020年5月19日(ルカによる福音書18:1〜17)

ルカによる福音書18:1~17
「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』」
ファリサイ派の人の祈りは、このように読むといかにも傲慢でうぬぼれた祈りのように見えます。しかし、そう思った途端に私たちもこのように祈ってしまうかも知れません。「神様、私がこのファリサイ派の人のようでないことを感謝します」、と・・・。
主イエスはこの譬え話を「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して話されました。自分の正しさへのうぬぼれと、他人を見下すということとは、切っても切れない裏表の関係です。あのファリサイ派の人の祈りは「私は他の人たちのように・・・ではなく」、「また、この徴税人のような者でないことを・・・」と言っている。他の人よりも素晴らしい私であることをありがとうございますと言います。祈りながら、結局自分のことしか見ようとしていない。
もう一人の徴税人は、ただ「神様、罪人の私を憐れんでください」とだけ言っています。自分のことを見ようとしていません。自分が惨めだからです。実際に、徴税人としての権威を笠に着て酷いことをしてきたのでしょう。今、聖書を読む私たちの徴税人のイメージと当時のそれとは相当違ったはずです。反社会的な存在だと見なされていたに違いない。しかし、彼は自分の惨めさに埋没するのでもなく、ただ神様だけを求めます。「神様、罪人の私を憐れんでください」と。
祈りというのは、自分の外を見ることです。自分の立派さや信仰深さ、あるいは惨めさや至らなさについても、そのようなことに目を向けません。他の人と比べてよい自分や悪い自分を見ようとしない。ただ、神様だけを見上げます。いや、見上げることもできず、うずくまったままにただ神様を呼び求める。それが、祈りです。
今朝、私たちも同じように祈りましょう。今朝の祈りはたった一言で良いのです。「神様、罪人の私を憐れんでください。」ただこの一言だけを今朝の私たちの祈りといたしましょう。

2020年5月18日月曜日

2020年5月18日(ルカによる福音書17)

ルカによる福音書17
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。『神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。「ここにある」とか、「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。』」
ファリサイ派の人々が『神の国はいつ来るのか』と尋ねたというのは、神がローマの支配を打ち破って私たちを救ってくださる日はいつ来るのか、この世界の終わりの時、神の裁きの日はいつ来るのか、という意味であると思います。私たちも、同じように聞きたいことではないでしょうか。神様はいつ私たちを救ってくださるのか、いつまで待てばいいのか。私たち自身の問いなのではないでしょうか。
主イエスは言われます。「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。」私たちが創造するようなものとは違う、と主イエスは言われます。ローマが倒されたとか、病気がなくなったとか、そういうような客観的に観察できるしかたで神の国が来るというのではない。「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。」人の子、神の国を実現する救い主は、私たちには思いがけないしかたでやってくる。稲妻の輝きのように。私たちにはそれを支配することはできない。では、どうやって救い主が来て、神の国を実現するのか?
「しかし、人の子はまず多くの苦しみを受け、今の時代から排斥されなければならない。」驚くべき言葉です。ファリサイ派の人が期待していた答え、そして私たちが期待するのは、悪を打ち破り、すべての苦難を解決する力強い救いではないでしょうか。奇跡的にコロナが解決したり、神様を信じていれば病気にならなかったり、そういう救いの証拠を期待してしまいます。ところが、神の国を実現する救い主の到来は、今の時代から排斥され、苦しみを受けるというしかたで起きるのだ、と主イエスは言われます。救い主は、苦しみの中におられるのです。
苦しむ救い主によってもたらされる神の国は、ここにあるとかあそこにあると言えるものではない。「実に、神の国はあなたがたの中にある」と主は言われます。神の国は、私たちの間にある。救い主の苦しみによって救われた私たちの間に、神の国が来ている。それが、教会です。
私たちは今離れています。共同体にいられないことは、孤独なことだと実感します。だからこそ、私たちの救い主が苦しまれた方であるということは本当に福音です。主イエス・キリストは、今私たちの目には見えません。しかし、私たちの間にいてくださり、私たちの間に神の国を実現している。目には見えないキリストの教会につながっていることを信じて、キリストを信じる共同体の一員として、今日の日を歩んでいきましょう。

2026年9月16日の聖句

主よ、あなたの慈しみが 私たちの上にありますように。 私たちはあなたを待ち望みます。(詩編33:22) (イエスの言葉)私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける。(ヨハネ10:9) 今日の詩編の言葉こそ、私たちの祈りの言葉です。 ...