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2019年1月31日木曜日

2019年1月31日(創世記50)

今日の津毒箇所マタイによる福音書24、創世記50、詩編36

創世記50;
父ヤコブが息を引き取り、葬られました。ヨセフの兄弟たちは、父が亡くなった今、かつての悪にヨセフが復讐するのではないかと心配になります。それを知って、ヨセフは彼らに優しく語りかけました。「心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。ですからどうか心配しないでください。(29-21節)」
「私が神に代わることができましょうか。」ヨセフはそう言いました。私たちは、簡単に神に成り代わってしまいます。自分が正義だと信じているときには、特にそうです。そういうつもりがなくても、神に代わって人を裁き、懲らしめたくて仕方なくなります。
新約聖書にこのような言葉があります。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となれるためです。それなのに、なぜあなたは、きょうだいを裁くのですか。また、なぜ、きょうだいを軽んじるのですか。(ローマ14:9-10)
私たちが自ら裁判官になれないのは、キリストが死に、死んでくださったからです。ヨセフも言います。「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」神が働き、キリストをくださったから、私たちはも和解の福音に生きる奇跡が与えられています。

2019年1月30日水曜日

2019年1月30日(創世記49)

今日の通読過疎:マタイによる福音書23:23-39、創世記49、詩編35

創世記49;
おまえを祝福する全能者から
上は天の祝福
下は横たわる深淵の祝福
乳房と胎の祝福があるように。(25節)
「上は天の祝福、下は横たわる深淵の祝福。」一体、どういう祝福なのでしょう。「天の祝福」の方は、なんとなく分かるような気もします。「天にまします我らの父よ」と祈ることを、主イエスは教えてくださいました。主イエスは、復活した後、天に昇って行かれました。このお方がおられるところ、このお方が「父よ」と祈ることを教えてくださった方がおられるところ。それが「天」です。天の祝福。それは、天のすべてを支配しておられる方の祝福、ということなのだろうと思います。
では、「横たわる深淵の祝福」とは?創世記は「闇が深淵の面にあり」と始まっていました。しかし、そこにも神は光を照らしてくださいます。詩編139では、「闇もあなたには闇とならず、夜も昼のように光り輝く」と言います。闇に満たされた深淵というと、渡井たちには恐怖を呼び起こす混沌の象徴のように思います。しかし、神様は闇をも支配しておられます。神様にかかれば、闇も闇ではない。昼と変わるところがないのです。深淵も、神の祝福で覆われています。
私たちは神が臨んでくださった命与えられ、この世に生まれてきました。母の乳房も胎も、神の祝福の中にあります。私たちのまだ生まれない先から墓に葬られるときに至るまで、神の祝福は私たちを離れることがないのです。この方の祝福は、今日も、あなたを覆っています。

2019年1月29日火曜日

2019年1月29日(創世記47-48)

今日の通得箇所:マタイによる福音書23:1-22、創世記47-48、詩編34

創世記47-48;
ヤコブはファラオと会ったときに言いました。「異国の地に身を寄せた年月は130年になります。私の生きた年月は短く、労苦に満ち、先祖たちが異国の地に身を寄せて生きた年月には及びません。(47:9)」これは年末に出たばかりの聖書協会共同訳の新しい翻訳ですが、この「異国の地に身を寄せた」という言葉は、新共同訳では「旅路」と訳していました。
ずいぶんと印象が変わります。もともと、アブラハムは生まれ故郷ウル(現在のイラクのあたり)を離れて、神に言われるままに現在のパレスチナ地方にやってきました。ヤコブはそれから三代目で、生まれたのはパレスチナ地方です。生まれてからずっと異国の地に身を寄せて生きてきました。自分たちが所有する土地は、アブラハムが眠るお墓だけです。ヤコブにあったのは、神様の約束だけです。他には、どこにも身を寄せる場所がありませんでした。
新約聖書のヘブライ人への手紙で、アブラハム、イサク、ヤコブたちのことがこのように言われています。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。彼らはこのように言うことで、自分の故郷を求めていることを表明しているのです。もし出てきた故郷のことを思っていたのなら、帰る機会はあったでしょう。ところが実際は、彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。(ヘブライ11:13-16)」
ヤコブはその最期の時まで、異国を旅する一人の信仰者として生きたのです。私たちも、同じ旅路を歩んでいます。

2019年1月28日月曜日

2019年1月28日(創世記45〜46)

今日の通読箇所:マタイによる福音書22、創世記45~46、詩編32創世記45~46;神様のなさることはあまりにも大きく、途方もなく、私たちの小さな目ではそのすべてを見ることはできないし、私たちの小さな心ではそのほんのわずかでも受け止めることができない。そう思うことがあります。このヨセフを巡る出来事も、そうだったのではないでしょうか。「私はあなたがたがエジプトへ売ったヨセフです。しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。」「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、この地で生き残る者をあなたがたに与え、あなたがたを生き長らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたがたではなく、神です。」(45:4-5,7-8)兄弟たちは一度カナンの地で待つ父の元へ帰り、ヨセフが生きていたことを伝えました。それを聞いて「父は呆然とした(26)」と言います。あまりのことですから、それ以外にはなかったのでしょう・・・。しかし、一つ問題がありました。ヨセフはエジプトに来てくれるように言います。ヤコブもそれを喜びます。しかし、このカナンの地は、神がアブラハム、イサクに、あなたの子孫にこの地を与えると約束してくださった地です。アブラハムもイサクも、エジプトに下って失敗していました。だから、神ご自身がヤコブに語りかけてくださいました。「私は神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。私はそこであなたを大いなる国民とする。私はあなたと共にエジプトへ下り、また必ずあなたを導き上る。(46:3-4)」神様のご支配は大きく、私たちには途方もなくて呆然とします。しかし、小さな私たちのために、神様はご配慮くださって、その時その時に必要な御言葉を語りかけてくださいます。ですから、毎日聖書に聞くことは、本当に幸いなことです。

2019年1月27日日曜日

2019年1月27日(創世記43~44)

今日の通読箇所:マタイによる福音書21:23~46、創世記43~44、詩編32

創世記43~44;
ついにベニヤミンがヨセフの所へ連れてこられました。兄弟たち、特にユダが父を説得しました。この要求を承知したときのヤコブの言葉が、いかにも彼らしいと思いました。「この地の名産を入れ物に入れて、その方への贈り物として携え、下って生きなさい。少しばかりの香油と蜜、樹脂とシスタス香、ピスタチオとアーモンドなどだ。また、二倍の銀を持って行きなさい。・・・(43:11-12)」かつて、兄エサウを怒らせ、久しぶりに家に帰ったときにも兄のための贈り物をたくさん用意して行きました。舅とも壮大な駆け引きを演じました。いかにもヤコブらしい戦略だと思います。
それに対して、ヨセフも策略を巡らしています。兄弟たちとパーティを楽しんだ後、彼らが帰るときに自分の銀の杯をベニヤミンの袋の中に忍ばせます。後から追いかけてそれを盗んだのは誰だと詰め寄り、持ち物をあらため、見つかったベニヤミンを自分の奴隷にすると言いました。そうやって彼を自分のものにしようとしたのです。これも、ヤコブの舅の守り神をラケルが盗み、荷物をあらためた出来事にそっくりです。ヨセフも父やその舅と同じ策略家でした。
これに対し、ユダは策略を巡らしたのではなく、自分の身を挺して事態を収拾しようとします。「今、私があなたの僕である父のところへ帰っても、この子が一緒でなければ、父の命はこの子の命にかかっていますから、この子がいないと分かれば、父は死んでしまうでしょう。(44:30)」「それでどうか僕をこのこの代わりに、ご主人様の僕としてここにとどめ置き、この子は兄弟と一緒に上らせてください。(44:33)」そして、明日の箇所になりますが、このユダの言葉によってヨセフの心がついに動かされることになります。
私たちはこれまでの物語の推移を見てきました。ユダはどういう人物だったのか?ヨセフを外国人に売り渡してしまおうと言ったのは、ユダです。嫁のタマルを干して辱め、遊女として彼女を買ったのもユダです。はっきり言って、すばらしい人格者ではありません。しかし、そういう一人の人の口を通して、打算や策略を超えた真実な人間の言葉が語られ、その言葉が出来事を動かしていく。不思議なことです。神様は、いろいろな口を通して私たちに語りかけておられるのかもしれません。先入観を持って決めつけずに、虚心坦懐に神様の語りかけに耳を傾けていきたいと思わされます。

2019年1月26日土曜日

2019年1月26日(創世記42)

今日の通読箇所:マタイによる福音書12:1~22、創世記42、詩編31

創世記42;

世界中を襲った飢饉の時、エジプトはヨセフの指導によって豊かでした。飢饉を予期しておらず、備蓄もなかった周辺諸国に住む者たちは飢え、食料を求めてエジプトにやってきます。ヨセフの家族、ヤコブとその息子たちも例外ではありませんでした。10人の息子たち(ヨセフの弟を除く兄たち)はエジプトへ下り、ヨセフとは知らずに彼の前にひれ伏して食物を分けてくれるようにたのみます。
ここから物語は始まって、ヨセフは自分の水戸とを隠しながら末弟ベニヤミンを連れてくるように要求します。ベニヤミンは、兄弟たちの中で唯一ヨセフと同じ母から生まれた人でした。ヨセフは兄たちにかなり厳しく接しています。
私は今日の御言葉を読んで、少し不思議な気持ちになりました。ヨセフ以外の登場人物たち、父ヤコブや兄たちの気持ちは、分かる気がします。食物がない焦燥感やエジプトでの厳しい仕打ちへの恐れ、一人が人質にされたときの痛み、かつて弟ヨセフを捨てたことへの罪責感、帰り道に支払ったはずの銀が返されているのを見つけたときの恐怖、末息子ベニヤミンを連れて行きたいと言われたときのヤコブの胸を裂くような痛み・・・。ところが、ヨセフの気持ちだけはよく分からなかったのです。彼は、復讐しているのでしょうか?かつての夢が現実になり、優越感に浸っているのでしょうか?家族の姿を懐かしんでいるのか、悲しんでいるのか?どうなのでしょう。もしかしたら、彼自身にもよく分からなかったのではないかとも思います。
ただ一つ確実なことは、ベニヤミンだけは手元に置きたいという願いです。そこにはこの長い年月の孤独や弟を求める思いが入り交じっている。そのためにヨセフが兄たちに命じたことは、父にとっては本当に過酷な要求でした。愛妻の忘れ形見ベニヤミンは父にとっても大事な息子です。
私たちには、時に、自分のしていることや口から出てくる言葉がよく分からなくなってしまうことがあります。特に自分が被害者だと思っているとき、自分の要求はすべて正当だと思い込んでしまいます。そのために悲しむ人がいることに思いが及ばなくなってしまう。ヨセフもそうだったのかもしれません。
このヨセフ物語が伝えているヤコブとその子どもたちを救うための神様の大きな御業は、そういう人間の心の混乱の中で、静かに進んでいるのです。私たちの小さな心を高く上げて、神様を仰ぎたく願います。

2019年1月25日金曜日

2019年1月25日(創世記41)

マタイによる福音書20、創世記41、詩編29~30

創世記41;
ヨセフの人生が、再び大きくうねり出します。ファラオが見た不思議な夢を誰も解き明かすことができなかったとき、もう2年も前に牢獄の中でヨセフに夢を解き明かしてもらった献酌官がヨセフのことを思い出し、ファラオに彼のことを伝えました。ヨセフは牢から出され、ファラオの前に連れてこられ、夢の話を聞かされます。彼は、その夢の意味を見事に説き明かしました。その知恵に感心したらファラオは、彼を宮廷を治める者としました。彼の指導によって、エジプトの国は来る七年に及ぶ飢饉への備えをしたのです。
ここに来るまでのことを思い出すと、神様の不思議な導きを思います。エジプトに連れてこられて、ヨセフは最初ポティファルという男に買われて、彼の家で使えていました。やがて信頼を得て、その家と財産を委ねられました。しかし、ヨセフは主人ポティファルを重んじ、その妻にも終始主人の妻として接します。やがて捕らえられた牢獄でも、彼は牢獄長の目に適い、牢獄にいる囚人を取り仕切ることになります。ここでも、牢獄長がいて、ヨセフは実質的な業務を任せられることになります。そして今回のエジプト全体のことについても、実質的な政治を取り仕切りますが、彼の上にはファラオがいます。
思えば、ヨセフはいつもナンバー2です。しかし、その責任の範囲は、一家のこと、牢にいる囚人全体、そして国家全域と広がっていく。神様が、苦しみの中で彼を育て、やがて来る働きのために成長させてくださったのではないでしょうか。
この神様のご支配について、今朝の聖書の御言葉では、面白いことに、おそらく地の文では特に何も言っていません。ただ、ヨセフとファラオの口を通して、神の御業を語っています。「神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです(28節など)。」「このように神の霊が宿っている人を他に見つけられるだろうか(37節)。」私たちも、同じだと思うのです。私たちの目には神様のご支配やその御業は見えません。ただ信仰の目を開くとき、神様の御業を知ることができます。神様の御手が見えてきたとき私たちが知らされるのは、これまでのどんな紆余曲折にも、意味があったと言うことではないでしょうか。私たちを訓練し、神様のご用に役立つ者にするために、神が練り清めてくださっている。だから、私たちの今の悩みや悲しみにも、見えない神様の御手の中で、尊い意味があるのです。

2019年1月24日木曜日

2019年1月24日(創世記39〜40)

今日の通読箇所:マタイによる福音書19、創世記39~40、詩編28

創世記39~40;
商人に拾われたヨセフはエジプトへ連れてこられ、ポティファルという役人に買われます。その家で信用を勝ち得たヨセフは、家の財産の管理までするようになりました。ところがヨセフを見初めたポティファルの妻は彼と床を共にしようと、何度も誘惑します。しかし、ヨセフはそれに応じない。ついに無理矢理服を掴んで「私と一緒に寝なさい」と迫る彼女から逃れたヨセフに対して、ポティファルの妻は怒りを燃やします。ヨセフに襲われかけたと嘘をつきます。ポティファルはそれを信じたのか、あるいは信じたことにせざるを得なかったのか、怒りに燃えてヨセフを牢にぶち込みました。
牢の中でも、ヨセフは牢獄長の信用を勝ち得ました。あるとき、ファラオの献酌官と料理長が罪を犯して牢に入れられました。彼らはそれぞれ夢を見た。それぞれの意味を説き明かすヨセフ。牢から解放された献酌官に、自分の身の潔白をファラオに伝えてほしいと頼みましたが、結局は忘れられてしまいました。
ヨセフには苦しみが続きました。ポティファルの家でも、牢の中でも、彼は責任ある人の信用を得ましたが、罪をなすりつけられたり、存在を忘れられたりしてしまいました。しかし、そんな中で聖書が繰り返しているのは、「主がヨセフと共におられた(39:2)」ということです。私は、この事実は、深い真理を私たちに伝えていると思います。主は、牢獄の中でも私たちと共にいてくださいます。ところが、どうでしょう。私たちからしたら、そういう最悪の時、神は私を見捨てたのだ、忘れてしまったのだと簡単につぶやいてしまいます。しかし、まさに罪なきことで罪をなすりつけられ、牢に囚われ、善意を尽くした相手から忘れられるようなとき、まさにそういうときに、神様は共にいてくださるのです。神様は、最悪の時にこそ共におられます。私たちの目にうまくいったと映ろうが映るまいが、神様が守っていてくださると感じられようが感じられまいが、牢屋の中で確かに神は共にいてくださいます。そのことを信じましょう。この神の故に、私たちは希望を抱いていましょう。今日一日も神様の祝福が豊かにありますように。祈りつつ。

2019年1月23日水曜日

2019年1月23日(創世記38)

今日の通読箇所:マタイによる福音書18、創世記38、詩編27

創世記38;
タマルという一人の女性と、ヤコブの息子であるユダ、そしてその息子たちを巡る物語です。タマルは、一人の人間として、ユダとその家族から尊厳ある扱いを受けてはいませんでした。
元々、タマルはユダの息子エルの妻でした。しかしエルは主の目に悪とされることを行い、死んでしまいます。二人の間には子どもがいませんでした。そういう場合、長男の弟が兄の妻の所へ入って子どもを産み、兄の家名を残すように定められていました。レビラート婚と呼ばれる制度です。その定めに従ってエルの弟オナンがタマルの所に入りましたが、彼は生まれた子どもが自分の子どもにならず死んだ兄の子になることが不満で、子種を地に流しました。この行いは主なる神様の御心に背くもので、オナンも死んでしまいました。
それで怖くなったのが父ユダです。続けて二人の息子を失い、三男のシェラをタマルのところへ入らせることをやめたくなったのです。それで、タマルをうまく言いくるめてシェラが成人するまでと家に帰してしまいました。やがてタマルはユダがシェラにその責任を果たさせる気がないことを悟り、一計を案じます。タマルは娼婦のふりをしてユダに近づき、舅と関係を持って身ごもりました。ユダはその相手がタマルであることに気づかなかったので、最初彼女の妊娠を知って激怒しましたが、やがて真実に気づいて言います。「彼女のほうが私よりも正しい。息子のシェラに彼女を与えなかったからだ(26節)」。
タマルは、ユダやその家族から、一人の尊厳ある人間と見なされていなかったと思います。そして、私たちが知っているのは、このタマルが生んだユダの息子が、主イエスの系図に残った、ということです。「ユダはタマルによってペレツとゼラをもうけ・・・(マタイ1:3)」。神様は、尊厳を傷つけられ、名誉をないがしろにされた者に目を留めていてくださいます。
私たちは、私たちの思いを遙かに超えたところで、私たちの受ける理不尽さえもその手におさめておられる方を信じて、今日の日を生きていきたいと思います。主イエスこそ、私たちの間で誰よりも理不尽な目に遭ったお方なのです。

2019年1月22日火曜日

2019年1月22日(創世記37)

今日の通読箇所:マタイによる福音書17、創世記37、詩編26

創世記37;
ヤコブの12人の息子たちの11男、ヨセフの物語が始まります。ただ、このように始まっています。「ヤコブの歴史は次のとおりである。(37:2)」この「歴史」は昨日も見たトーレドートですので、系図や物語、由来といった意味もあります。いずれにしても、ここでは「ヨセフの歴史」とは言っていません。これは、ヤコブの歴史です。つまり、ヤコブとヤコブの家の歴史です。
これからこの物語を読んでいくと、主に登場するのはヨセフですが、しかし物語の結末はヨセフだけではない他の家族たちの救いに関わる話であることに気づきます。つまり、ヨセフに起こった出来事は彼一人にはとどまらずに、周りにいて共に生きるたくさんのものたちにとっての救いであり、彼らの物語でもあったのです。
話はヨセフが見た不思議な夢の話から始まります。兄弟たちで麦を刈っていたら、兄弟たちの刈り取った麦の束がヨセフの麦束にお辞儀をした。あるいは、太陽と月と11の星々がやはりヨセフにひれ伏した。この夢の話をすると、兄たちはヨセフが調子に乗っていると激高し、父にも叱られました。
しかし、この後の話は、不思議とヨセフが見た夢のとおりに進んでいきます。しかしそれは、この章で兄たちにひどい目に遭わされたヨセフがその復讐をして溜飲を下げふために実現していくわけではありません。ヨセフ自身と、ヤコブの家のたくさんのものたちの救いのために、ヨセフが見た夢のとおりに話が進んでいくのです。
私たちにも、今日、予想だにしないことが起こるかもしれません。あるいは、私たちはそれに気づかずに、自分の身に起こっていることに鈍いままであるかもしれません。何があるにしても、ないにしても、それは私たち自身だけではなく、私たちの周囲に生きる多くの人の救いにとっても意味があることです。私はそう信じています。神様は、私たちさえも用いてご自分の救いの歴史を進めてくださるのです。

2019年1月21日月曜日

2019年1月21日(創世記36)

今日の通読箇所:マタイによる福音書16、創世記36、詩編25

創世記36;
「エサウ、すなわちエドムの系図は次の通りである。(36:1)
系図という言葉が出てきます。旧約聖書はヘブル語で書かれています。この系図という単語はヘブル語ではトーレドートと言います。実は創世記の中にはよく登場する単語です。「これが天と地が創造された次第である(2:4)」の「次第」。新共同訳では「由来」と翻訳されていました。あるいは、「ノアの歴史は次のとおりである。(6:9)」の「歴史」も同じ単語です。新共同訳は「物語」と訳しています。今回の箇所と同じような使い方は「アブラハムの子イサクの系図は次のとおりである(25:19)」の「系図」です。他にもいくつも登場していますが、他の所は割愛せざるを得ません。
これらの使われ方を見ても分かるとおり、この系図(トーレドート)という言葉には、次第、由来、歴史、物語、などといった含蓄があるということになります。
「エサウ、すなわちエドムのトーレドートは次のとおりである。」エサウにはエサウの歴史や物語があり、彼の子孫が生きていく上での歴史があります。エサウの系図はこの後の聖書の中ではほとんど話題に上りません。むしろ、エドム人と言えばイスラエルの敵のような存在です。旧約の預言書の一つのオバデヤ書などでは顕著です。しかし、エサウの子孫であるエドム人にも、その物語があります。そして、それもまた聖書の一ページになっている。
私たちにとって、神様は、本来は不倶戴天の仇です。それが私たちが罪人であることの現実です。しかし、その神に敵する私たちの物語も、神様の世界のトーレドートの中に一ページを頂いています。私たち一人一人の小さく浅はかな物語をも、神は覚えて救ってくださいます。「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。だから、恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。(マタイによる福音書10:29,31)」

2019年1月20日日曜日

2019年1月20日(創世記34〜35)

今日の通読箇所:マタイによる福音書15、創世記34~35、詩編24

創世記34~35;
ヤコブ一家にとって、とりわけ娘のディナにとって、本当に悲しい事件が起こりました。ヒビ人ハモルの息子シェケムという男が、ディナを辱めたのです。決してあってはならないことをしました。同じ母レアから生まれた兄弟のシメオンとレビは、シェケムとその一族に復讐を果たし、皆殺しにしました。父ヤコブは、そこまでの出来事になるとは想像していなかったようです。「厄介なことをしてくれたものだ(34:30)」と言って、戸惑いを隠しきれません。
もう一つのことも起きています。長男のルベン、彼もレアとの間に生まれた息子ですが、彼はビルハという父の側女と関係を持ちました。そのことはヤコブの知るところになった。しかし、それについて咎めたようすはありません。
ヤコブの父としてのあり方は、なんとも情けないものでした。一族のリーダーとして、少し頼りないように感じてしまいます。
もう一つ、ヤコブにとって悲しい出来事がありました。最愛の妻ラケルが、出産に際して死んでしまったのです。ヤコブの13番目の子ども、十二男ベニヤミンを生んだとき、母ラケルは死んでしまいました。彼にとっては、頼るべきものを失ってしまうような経験だったと思います。
これまでヤコブの歩みを見てきました。あまり立派な人ではありません。それだけに、いろいろな場面で自分と重ね合わせてしまうような人です。
そんなヤコブに、やはり、神様が語りかけ続けてくださっています。「神はヤコブに言われた。『さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。あなたが兄エサウの前から逃れて行ったとき、あなたに現れた神のため、そこに祭壇を造りなさい。』(35:1)」ヤコブの迷いや悲しみ、家族の悲しみ、その中でしっかりと立ち得ない、そんなヤコブをそれでも見捨てずに語りかけ続けてくださった神様。最愛の妻を失ったときにも、神様はヤコブを放すことはありませんでした。私たちを同じように掴んでいてくださる神様。この方を、私たちも拝むために、神の家(ベテル)に帰って行きましょう。

2019年1月19日土曜日

2019年1月19日(創世記32〜33)

今日の通読箇所:マタイによる福音書14、創世32~33、詩編23

創世記32~33:
ヤコブが妻たちの実家を離れて、自分の父の家に帰ります。かつてヤコブはエサウを騙してひどい目に遭わせました。母の実家へ逃れたのはもう20年も。しかし、ヤコブはあのときを忘れていません。今でも兄が怒り続けているはずだと確信していました。
その怒りから逃れるための策を講じます。たくさんの贈り物を用意して自分よりも先に行かせ、またたくさんの家族や僕たちと一緒に帰りましたが、その歩く順番も念入りに考えました。「ヤコブは、子どもたちをそれぞれ、レア、ラケル、二人の召使いの女に振り分けた。すなわち、召使いとその子らを先頭に、レアとその子らはその後に、そしてラケルとヨセフを最後に配置した。(33:2)」兄が怒って襲ってきてもいいように、大切なものがより後ろに来るように配置したのです。
ヤコブが実際にエサウに再会したとき、彼は言いました。「私は神の御顔を見るようにあなたの顔を見ております(33:10)」。この言葉をどう受け止めたらいいのか、私はよく分かりませんでした。白々しい、大げさな言葉のようにも聞こえます。
この「神の御顔」というのは、実は大切な言葉です。第32章の後半で、ヤコブは何者かと格闘します。股関節に一撃を食らって足を引きずりながら、ヤコブは「祝福してくださるまでは放しません」としがみつく。この格闘の相手が実は神様ご自身だと気づいたのです。この格闘の後、ヤコブはその場所をペヌエルと名付けました。これは「神の顔」という意味の名前です。この格闘の翌朝、エサウに向かって「私は神の御顔を見るようにあなたの顔を見ております」と言ったとき、ヤコブはどういう気持ちだったのでしょうか。白々しいリップサービスなのか、昨晩格闘し向き合った神の顔をなお見続けていたのか。
そう考えながらここまで読み進めて、気づいたことがあります。格闘の前、32:22では「こうして、贈り物は彼より先に行き、彼自身はその夜、自分の宿営地で一夜を過ごすことにした」と、自分は安全な最後尾に残っています。ところが格闘の後、33:4では「ヤコブは先頭に進み出て、兄に近づくまで、七旅地にひれ伏した」と、一番リスクが高い先頭を進みます。ヤコブの位置が変わっている。やはり、これは神様との格闘によって変わったことなのではないか。そうとしたら、「神の御顔を見るかのように・・・」というのも白々しいでまかせではなく、神との格闘がなお続いている者としての言葉だったのかもしれません。
今朝の御言葉は、私たちの人間関係の悩みの中で、人と向き合うためにはまず神と向き合い、神と格闘すべき事を伝えているように思います。

2019年1月18日金曜日

2019年1月19日(創世記31)

今日の通読箇所:マタイによる福音書13:31~58、創世記31、詩編22

創世記31;
この章は、とても戦闘的な話です。伯父のラバンと駆け引きをし、対決するヤコブという意味でも戦闘的と言えますが、それ以上に主なる神様と異教の神との戦いの物語です。
ラバンは、主なる神様ではない、別の神々を信じていました。テラフィムという守り神の像を持っていた(19節。聖書協会共同訳では「テラフィム」と訳しています。)ことからも、それはよく分かります。しかし、ヤコブと娘たち家族が自分に何も告げずに家を出たことを知ったラバンに夢の中で語りかけたのは、ラバンが信じる神々ではなく、主なる神様です。「ヤコブとは、事の善し悪しを論じないように注意しなさい(24節)」。別の神々を信じる者にも、主なる神様は働きかけます。
それだけではなく、ヤコブはラバンのもとにいた20年間、ずっと神が自分を守っていてくださったことを信じています。「神はお父さんの家畜を取り上げて、私にくださったのだ(9節)」と、神様の守りを確信していました。
彼らがラバンの家を出て行くときに、ヤコブの妻ラケル(つまり、ラバンの次女)は父の守り神であるテラフィムを盗みました。後日ラバンはそのことで怒り、ヤコブ一行の荷物を改めることになります。その時、ラケルはテラフィムをラクダの鞍にしまってその上に座り、月経中であるからと鞍を調べさせないでやり過ごしました。この記述は異教の神をお尻の下に敷くという侮辱として書かれているのだと思います。それに対し、主なる神様は、この出来事の中で終始主導権を握っておられました。
こういう記事は、現代社会の中ではあまり受けがよくないと思います。もっと寛容に、異なる信仰に対する理解と尊敬が求められています。確かにそれはその通りで、自分と違う信仰だからといって頭から否定してかかることはふさわしくないと思います。しかし、他方では、この方こそまことの神であって、世界と歴史を支配しておられるのは確かなことです。確かに、私たち自身も私たちの確信も、相対的で不確かです。私たちはすぐに独善の罪を犯します。しかし、神様は相対的な方ではありません。この世界を造り、歴史を支配しておられ、私たちを救う力を持っておられる。だからこそ、私たちの救いであり、この世界の救いでいてくださいます。それは確かな真理です。

2019年1月17日木曜日

2019年1月17日(創世記30)

今日の通読箇所:マタイによる福音書13:1-30、創世記30、詩編21

創世記30;
人間の思惑がうごめいている章です。ヤコブの二人の妻、レアとラケル。彼女たちの召使いであるジルパとビルハも巻き込まれます。この章の前半で、ヤコブには11人の男の子と一人の女の子が生まれました。そして、片やヤコブ自身です。叔父のラバンとの熾烈な駆け引きが続いています。結婚の時にもすでに駆け引きが始まっていましたが、ここに来てそれが激化していきます。騙し、騙されるような、まさに骨肉の争いです。
いろいろな思惑が動いていますし、そのことでたくさんの人が傷ついているのだろうと思わせる箇所です。人間の混乱が深まっています。
そんな中で、ヤコブにラケルが言います。「私に子どもをください。さもないと、私は死にます。(1節)」このとき、すでに姉のレアはヤコブとの間に4人の子どもを生んでいました。そう言われたヤコブは答えます。「私が神に代われるというのか。あなたの胎に子どもを宿らせないのは神なのだ。(2節)」確かにヤコブにどうすることもできない問題ですが、あまりにも思いやりに欠けています。ラケルは傷ついたと思います。しかし、同時に、この思慮を欠いた言葉はヤコブの意図を超えてこの章の根底にあるものを言い表しているとも思います。
ここでは、人間のたくさんの思惑がぶつかり、混沌としています。しかし、そんな中で生まれてくる子どもたちについては、このように書かれています。「神はレアの願いを聞き届けられたので、彼女はみごもって・・・(17節)」、「神はラケルを忘れず心に留めておられた。神は彼女の願いを聞き入れ、その胎を開かれた(22節)」。人間の混乱と混沌の中で、神様の御業が進んでいます。生まれてくる子どものことも、渡る世間での駆け引きも、そこには人間の思惑が強烈に働いていますが、それでも神のお働きが確かにあり、人間の混乱の中で神の歴史が進んでいるのです。
それは、私たちのことです。私たちの思惑を超える神の御業は、今日も、私たちのところで進んでいます。神が進めてくださっています。

2019年1月16日水曜日

2019年1月16日(創世記28〜29)

今日の通読箇所:マタイによる福音12:22-50、創世記28-29、詩編20

創世記28~29;
ヤコブは眠りから覚めて言った。「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。」そして怖くなって言った。「この場所はなんと恐ろしい所だろう。ここはまさに神の家ではないか。ここは天の門だ。」(28:16~17)

ヤコブが主なる神様と出会ったのは、ヤコブにとっては最悪の時でした。兄と父を騙して兄の激しい怒りを買い、もう家にいられなくなり、母リベカの実家へ旅をしました。父からは、リベカの実家で妻を探すようにと言われます。その旅の途上で、石を枕に夜を明かします。そこで、天に伸びる階段の夢を見ました。神が、共にいてくださることを彼は知ったのです。
冒頭の御言葉は、その時のヤコブの言葉です。ヤコブは神が共にいてくださることを知ったとき、怖くなりました。その場所を恐ろしく思いました。神様が共にいてくださるというのは、実は恐ろしいことなのです。
それまでのヤコブは神をも恐れぬ傍若無人な振る舞いをしてきました。長子の権利を奪ったり、祝福をだまし取ったり。神様がしてくださることを自分の力で獲得しようとしてきました。この後も、やはりヤコブはリベカの実家で叔父を相手に抜け目なく生きていきます。しかし、そんなヤコブでしたが、このとき出会った神にしがみつき、すがりついて生きることだけは曲げませんでした。神の臨在に触れることは恐ろしく、そして、恵み深い出来事なのです。

2019年1月15日火曜日

2019年1月15日(創世記27)

今日の通読箇所:マタイによる福音書12:1-21、創世記27、詩編19

創世記27;
今日の創世記の話は、読む者を戸惑わせます。双子の兄弟エサウとヤコブ。双子とは言っても、エサウは長子でヤコブは次男です。古代の世界のことですから、長男と次男では天と地ほどの差があります。しかし、かつてその長子の権利をエサウは弟ヤコブにだまし取られてしまいました。今回は、そればかりか、父による息子のための祝福の祈りをも、ヤコブはだまし取ってしまいました。長子の権利の時は、エサウは空腹のあまりにそれを軽んじたという落ち度があったようにも思いますが、今回はエサウには何の落ち度もありません。ヤコブと母リベカが共謀してだまし取ってしまったのです。エサウはかわいそうですし、ヤコブはずる賢くていやなやつです。
しかし、このヤコブの姿は、私たちそのものではないかと思います。そもそも、生まれながらのふさわしさは、どちらにあったのでしょう。家督を受け継ぎ、家名への責任を果たし、一族を養い、その責任も名誉も、何よりも神との契約も、兄エサウが受け継ぐはずでした。ところが、生まれながらのふさわしさもなく、性格も悪く、道徳的にも問題がある人間が、非倫理的な手段でかすめ取った祝福によって、神様の歴史が動いていくのです。これこそ、私たちの姿ではないでしょうか。私たちは、神様の前で、祝福して頂くのにふさわしい人間ではありません。神の約束の中で生かして頂ける理由があるわけでもありません。道徳的にも倫理的にも、問題を抱えています。しかし、そんな人間を神は祝福し、ご自分の約束にあずからせてくださいました。そのために、本当にふさわしい方を、十字架にかけてくださったのです。
私たちは、ヤコブです。ふさわしくない者です。そのふさわしくない者を選び、ご自分の者とし、祝福をくださったのは、神様です。この方が、私たちの信じる主イエス・キリストの父であるお方です。

2026年7月30日の聖句

自分の神を知る民は揺るがず行動する。(ダニエル11:32) 聖なる方、真実な方がこう言われる。「あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから試練の時に、私もあなたを守ろう。」(黙示録3:7,10) 今日の御言葉は「忍耐」と言います。必ず試練の時が来る。苦しみの時に忍...