これは、一人の女の、主イエスとの出会いの物語です。「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と最後にイエスがおっしゃいます。メシア、救い主、それは私だと言われます。一人の女が主イエスに、救い主に出会った。いや、正確に言うならば、主イエスが彼女と出会ってくださったと言うべきかもしれません。長い探求の果てにようやくたどり着いた境地だとか、修行の末に開いた悟りだとかではないのです。主イエスが彼女を探して、見つけて、出会ってくださいました。この物語の始まりは、こうです。「(イエスは)ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。」普通、ユダヤ人は、どんなに遠回りをしてでもサマリアを迂回します。ユダヤ人はサマリア人と決して交際しません。しかし、イエスは「サマリアを通らねばならなかった」。なぜか?彼女を探すためです。彼女と出会うためです。この一人の渇ききった女と出会い、彼女に命の水を飲ませるためです。
聖書を読んですぐに分かることは、彼女がかなり渇いていたようだということです。彼女には五人の夫がいましたが、今連れ添っているのは夫ではありません。恐らく、そういう境遇があってのことでしょう、彼女は一番熱い正午に水汲みという重労働をしています。朝夕の涼しい時間に井戸に来て、井戸端の人々の目にさらされることを避けたのだと思われます。渇いていたのです。この話は、明らかに「渇き」が一つのテーマです。主イエスが汲む物を持たずに井戸で休んでいたとき、一人の女がやってきた。イエスは「飲ませてください」と頼みます。彼女はサマリア人なので、ユダヤ人にそのようなことを言われたことについて訝しく思います。しかし、イエスは構わずに言われます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことだろう。」イエスは生きた水を、永遠の命にいたる水を与えよう、と言われます。抗してみてみると、井戸は彼女の今の象徴だと思います。この昼日中の暑い時間に、人目を避けて、同棲相手のために思い水を汲みに来ました。しかし、この水をいくら飲んでも、この水による生活をどんなに重ねても、またすぐに渇くのです。この渇きを、私たちも知っているのです。私たちが生きている世界は、成果至上主義的であったり、行きすぎた個人主義(孤立主義)によって共同体が壊れていたり、そうかと思えばこの世界の混乱に目をつぶる現実逃避に身を委ねたりしています。しかし、そうしたところで渇きは満たされないのです。
そんな世界で、イエス・キリストは私たちを探して、見つけ出し、私たちに出会ってくださいます。そして「わたしを信じなさい」と言われます。サマリアの女は、思わず、礼拝の話を始めました。神さまを礼拝するときに、私たちの渇きがいやされるからです。「私たちは人間として、欠乏感に迫られて礼拝することを知っている。私たちは自分自身では満ち足りることが出来ないのであり、造り主と出会い、礼拝することによって感性と充足を経験するのである。礼拝するとは、人間が人間になることである。(『礼拝指針』)」キリストが下さる命の水を飲む場所、それが礼拝です。