2019年3月3日日曜日

コリントの信徒への手紙一9:19-27「どんなことでもします」


 この手紙を読んでいると、牧師パウロの愛を強く感じます。「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人でも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」目の前にいるこの人がキリストと出会い、福音を聞いて信じるためなら、私はどんなことでもしますと言います。情熱的なこの言葉に、パウロの愛が込められています。私も、私のために愛と情熱を込めて福音を聞かせてくれた人がいたから、キリストを信じました。
 ここで、パウロは「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」と言っています。昨日、フレンドシップあさひのNPO法人としての総会があり、出席しました。総会後に鈴木淳牧師の介護福祉の道の導き手でいらっしゃる佐々木炎牧師が講演をしてくださいました。御自身の事業の話をなさったのですが、その中で、職員の不得手なところに注目するのではなく、得意なことをより良く発揮できるようにサポートしているという主旨の話をしてくださいました。先生の事業所では、発達障害や引きこもりだった人などが大勢働いておられるそうです。そんな人たちのよさがどうやって発揮されているかというエピソードを聞きました。そして、自分は職員に対して、利用者に接するのと同じように接する。すると、職員も利用者にそのように接するようになると言っておられました。
 「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」とパウロは言います。弱い人にどう接するかということに、私たちの人間性が出てしまうのかもしれません。パウロが言う「弱い」というのは、何よりも信仰の弱さです。信仰が弱いために、偶像に供えた肉を食べるのに良心の呵責に苦しんでしまう。ところがパウロは、弱い人のために、自分自身弱い人になると言います。彼らを救いに導くために。
 パウロは、情熱的な、しかも自由な愛に生きた人だと思います。ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法に支配されている人にはそのように、律法を持たない人にはそのようになります。何とかして、何人かでも得るために。自分はユダヤ人だとか、これまで律法を大切にしてきたとか、自分はこういう文化で育ってきたとか、それらは全部自分の生き方へのこだわりです。ところがパウロは自分にこだわらないのです。だから、彼は弱い人のために弱くなって、自分も肉を食べず、あるいは無報酬で福音伝道に生きられたのです。そんなパウロの生き方を支えたのは、他の何でもない、キリストの十字架でした。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいモノであることに固執しようとは思わず、…十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2:68)」。キリストがこのように謙ってくださったことが、パウロの生き方を決めたのです。
 ここでパウロは競技場でのスポーツの話を始めます。章を目指して節制しろと言います。ここでの章とは、福音のことでしょう。ですから、ここに集中して生きていけ、ということではないでしょうか。福音に共にあずかるために、私たち生きる道がキリストの愛の道として整えられます。

2024年12月22日の聖句

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