今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙4、レビ記24~25、詩編74
レビ記24~25;
驚くべき制度の話が登場します。六日に一度の安息日は、すでに出エジプト記第20章の十戒のところでも、さらにその後も何度か言及されてきました。今度は、七年に一度の安息年の話です。その年は、「畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑を剪定してはならない(25:4)」と言うのです。さらに、安息年を七回数えた49年が経過した50年目にはヨベルの年を覚えます。ヨベルというのは「角笛」のことです。「その(50年目の)第七の月の十日に角笛を響かせなさい(9節)」から来ています。
ヨベルの年は単なる安息年ではありません。借金がすべて帳消しになります。借金の形に人手に渡った先祖伝来の土地も自分たち家族の元に戻ってきます。身売りをした者はヨベルの年に自由になることができます。
そんなことをしたら人々の労働意欲がなくなるのではないかと心配になってしまうほどです。ここで繰り返されているのは、例えば23節に書かれているようなことです。「土地は私のものであり、あなたがたは私のもとにいる寄留者か滞在者にすぎない」。あるいは、「イスラエルの人々は私の奴隷である。彼らは、私がエジプトの地から導き出した私の奴隷である。私は主、あなたがたの神である(55節)」と言っているのも、同じことです。すべては、神のものです。土地も、財産も、私自身も。50年に一度巡ってくるこの破格のヨベルの年は、私が私のものではなく、神のものであることを覚えさせます。
しかし、残念ながらこのヨベルの年が実行に移されたという記録は、聖書の中には登場しません。やはり、人間の罪深い強欲さが、それを拒んでしまったのでしょうか。ところが、主イエスは、ご自分のなさる御業をヨベルの年となぞらえて理解しておられたようです。「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである(ルカ4:18~19)」。主の恵みの年。それは、私たちが自由にさえる年のことです。私たちをあらゆる束縛から解放する、キリストの救いの時のことです。キリストが私たちを救ってくださるその時、恵みの年は、もうここに来て、始まっているのです。
2024年12月23日の聖句
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神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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