2019年3月3日日曜日

2019年3月3日(レビ記22〜23)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙3、レビ記22~23、詩編73

レビ記22~23;
献金の祈りをするとき、「あなたのご用のため、清めて用いてください」と祈ることがあります。今日の聖書の御言葉を読んで、果たしてこのような祈りでよかったのだろうかと考えさせられました。
「イスラエルの家に属する者やイスラエルにとどまっている寄留者が請願の献げ物や自発の献げ物を献げる場合、それを焼き尽くすいけにえとして主に献げるなら、受けいられらレルためには、牛や羊や山羊は欠陥のない雄でなければならない。欠陥のあるものを決して献げてはならない(22:17~20)」。
そもそも、清くない物を献げてはならないと言います。今日の箇所を読むと、同じような内容の言葉が何度も繰り返されていました。神様への献げ物にふさわしいのは、自分が欲しいものを取った余り物、必要なものを抜いたいらない部分ではない。欠陥がなく、私たちが心から献げる最上の物なのです。
学習塾で月謝を頂いていますが、中には新札で下さる方もおられます。相手への礼儀を重んじる方には、そういう習慣が身についているのかもしれません。自分の神様への献げ物はどうなのかと、我が身を振り返ります。ここまでレビ記を読んできて気づくことは、捧げ物には牛や羊もありますが、鳩もありました。貧しい人のためには鳩を献げるようにと言われています。私たちの生活のために神様が与えてくださった分に応じて、しかしその中で欠陥や損傷のない、一番よい物をお献げする真心を、神様は望んでおられるのではないでしょうか。

2026年5月15日の聖句

(イスラエルの子らの言葉)さあ、行こう。主に連なろう。永遠の契約が忘れられることはない。(エレミヤ50:5) こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。...