今日の通読箇所:マルコによる福音書15、ヨハネによる福音書18:1~27、詩編130
マルコによる福音書15;
「まことに、この人は神の子だった」、主イエスが十字架に掛けられているお姿を一番側で見ていた百人隊長が、そのように言いました。
イエスを十字架につけろと要求し、無理なその言い分を押し通したのは祭司長や律法学者たちであり、民衆の熱狂です。しかし、彼らが実際にイエスに手を下すわけではありません。その死刑を執行する者がいた。それが、この百人隊長でした。この人やその部下らが、イエスを実際に十字架に掛けたのです。彼は、いわばその現場責任者でした。
マルコはその時の彼をこのように言っています。「イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、『まことに、この人は神の子だった』と言った」。彼がイエスを本当に神の子だと感じ入ったのは、イエスが死んでいかれるお姿をまざまざと目撃をして、それでのことでした。
しかし、イエスの十字架のお姿には、「見るべき麗しさも輝きもなく、望ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ(イザヤ53:2~3)」ていた。マルコは十字架に掛けられていくイエスが「王」と呼ばれていたことを繰り返す。「おまえはユダヤ人の王なのか」とピラトは問いました。あるいは彼は民衆に「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と、恩赦を願う意志があるのかと質します。死刑判決が出た後、兵士たちは『ユダヤ人の王、万歳』といってイエスを侮辱しました。紫の衣を着せ、と茨の冠を被らせて、徹底的に馬鹿にしました。十字架につけられたイエスの頭上に張り出された罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれていました。そして、祭司長や律法学者たちもイエスを侮辱して、「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」と言ってのけたのです。イエスは最後の最後まで侮辱され、何一つとして麗しさが残らないように、入念に準備された屈辱的な死の中に放り込まれたのです。
百人隊長は、まさにそのお姿を見て、「まことに、この人は神の子だった」と言いました。私たち人間の悪がどんなに恐ろしく、それが神を殺すほどのものであったとしても、どこまでもへりくだって、神にまで捨てられたお方の真実を覆い隠すことはできないのです。私たちも、この聖なる金曜日に十字架に掛けられたキリストを見つめ、神の子への信仰を新たにして頂きたく願います。
2024年12月22日の聖句
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