今日の聖書箇所:マルコによる福音書14、ヨハネによる福音書17、詩編102
マルコによる福音書14;
この受難週に与えられている詩編の祈りは、150編ある詩編の中でも特に七つの悔い改めの詩編と呼ばれるものです。今日の第102編を読んで、18節が心にとまりました。「主はすべてを失った者の祈りを顧み、その祈りを軽んじられませんでした。」さらに、これに先立つ15節にはこのようにあります。「あなたの僕たちはシオンの石をもいとおしみ、その塵さえ慕います。」この言葉を読んで私がすぐに思ったのは、火事で焼けてしまったパリのノートルダム大聖堂です。長い歴史を経てきた祈りの家が焼けてしまった。そこを信仰の場所としてきた人にとっては、まさにその塵さえもかけがえのないものであると思います。主は、すべてを失った者の祈りを顧みてくださいます。
今日のマルコによる福音書の御言葉はとても長い箇所でした。主イエスが十字架へと向かって行かれる歩みを、細切れにではなく少し長い区切りで通して読むのでなければ気づかないこともあります。主の十字架への歩みは、ユダやペトロに代表される人間の裏切りやつまずきと絡み合うようにして進んでいた、ということです。
主イエスが望まれた過越の食卓。その席上で裏切ろうとしている者がいると主は言われた。そして彼もいる席で主の晩餐が祝われました。さらにオリーブ山に向かっていくときに、ペトロにもつまづきの予告がなされました。彼はそれを否定します。しかしゲツセマネで主が祈っているとき、ペトロたちは眠っていました。その後実際にユダが裏切り、主は引き渡され、弟子たちは皆逃げます。若者も逃げます。主は裁判に掛けられ、その間、ペトロは主がおっしゃったとおりにイエスにつまずいて彼を知らないと言ってしまいました。静かに十字架へ向かって行かれる主のお姿と、心騒ぎ、ざわつきながらイエスから離れていく弟子たちの姿が恐ろしいほど鮮やかな対照になって出来事が進んでいきます。
私たちは、このようにしてイエスを裏切ったのです。ペトロのように。ユダのように。私たちが殺したのは、どんなに歴史があり、多くの人が愛した礼拝堂よりももっと尊いものです。その祈りの場で祈っている相手であられる方を裏切り、この方を十字架につけたのです。
今日、この受難週の木曜日、受難週祈祷会では聖餐を祝いました。裏切り者のために主が用意してくださった食卓に、あずかりました。今度の日曜日、イースターにも同じ食卓を囲みます。私たちのために、主が食卓を準備して、私たちを招いてくださっています。
2024年12月22日の聖句
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