水曜日に教会員のIさんの葬儀を行いました。ご家族の他に、友の会でのIさんのご友人が大勢来てくださいました。そして、教会の仲間たちと葬儀ができたことは、慰め深いことでした。大切な人を喪ったとき、その人を愛する者たちにとってのアイデンティティの危機が訪れます。この死の悲しみを乗り越えることができるのか?それで、社葬や学校葬をいたします。教会員の死は、やはり教会にとっての危機です。私たちの葬儀は、いつでも教会葬です。それは復活の信仰に生きる者としての証しの業でもあります。愛する一人の姉妹との別れは教会にとっての大きな慰めです。そして、復活の福音を信じる者として、それはよりよき生へと通じる通路、天の国への凱旋です。そう信じる仲間たちとIさんを葬ることが許されたのですから、慰め深いことです。そこでは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」という御言葉が、現実のものとなっていたと思います。それは、神の奇跡です。
パウロは、教会を体に譬えました。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」教会がキリストの体といったとき、そこでは何が言い表されているのか。「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」体には手があり足があり、目があり耳があります。口は指ではないし、踵は鼻ではありません。しかし、それらはバラバラではなく、全体として一つの体を形づくります。体になっていなければ、手にも足にも、そうである意味が失われてしまいます。一つの体には多くの部分があり、多くの部分が一つの体をつくっている。キリストの場合も同様だ、と言うのです。
教会は体というのは、ある意味ではよく分かるたとえです。たしかに、教会にはいろいろな人がいて、いろいろな事をしている。しかも、全体として一つになっている。実は、こういう体のたとえ事態はパウロのオリジナルものではなかったようです。当時、支配者がその集団を体にたとえながら全体をまとめ上げていた。ところがパウロの言葉はそれと似ているようだが違うところがある。「体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」パウロは、その当時知られていた体のイメージを用いながら、それを換骨奪胎します。他の場合では上に立つ者が自分の支配を正当化するために体のイメージで集団をまとめ上げていた。ところが教会はそうではない。体の中の弱い部分が却って必要なのだと言います。それはキリスト御自身が、弱い部分を尊ばれる方だからです。「一つの部部が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」私たちの実態は、弱い部分を尊ぶどころか、足手纏いだと言って軽んじ、お荷物だと考えてしまうようなところにあります。弱い部分を包摂し、積極的に尊敬して愛することは、自分の実態を考えてみると、理想ではあっても現実にそうなっているとは言えません。私が今回コリントの使徒への手紙一の連続講解説教に取り組んで本当にすばらしいと思ったのは、パウロがこの手紙を十字架の言葉から始めていることです。私たちが一つの体として生きられるのは、私たちが愛に満ちた者だからではない。この罪人を許す十字架のキリストがおられるからなのです。