2019年6月16日日曜日

コリントの信徒への手紙一12:31b〜13:13「愛の喜び」


 ある人が主イエスのもとに来て訪ねます。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」主イエスは彼に律法には何と書いてあるかと尋ね返します。すると、彼は答えました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と。主なる神様への愛、そして隣人への愛が一番大切だと彼は聖書を読んでいた。主イエスは、その通りだと言われます。その通りにしなさい。すると彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。そこでイエスがなさったのが、あの「憐れみ深いサマリア人」の話でした。
 私はこの人が自分を正当化しようとしたタイミングに興味を覚えます。神と隣人とを実際に愛してご覧なさいと言われたときに、彼は私の隣人とは誰かと言ってみせました。愛するということは、実際的で具体的なことです。具体的な隣人を愛するのです。しかもこの主イエスの譬え話でそうであったように、隣人は、必ずしも愛しやすい人とは限りません。サマリア人にとって、ユダヤ人は憎き隣人でした。逆もまた然り。お互いに、できれば隣にはいたくない存在です。しかし、主イエス様は、私たちの愛したい人や愛しやすい人ではなく、あなたの隣人を愛せよとおっしゃったのです。
 「愛は忍耐強い」と言います。今日の説教題を「愛の喜び」としました。喜びと忍耐は、私たちの感覚からしたらほとんど対極に位置しています。忍耐しなければならないような相手を、本当に愛することができるのでしょうか。しかし本当のことを言えば、忍耐がなければ愛ではないのです。もっと言えば、「赦し」と言うべきであるかもしれません。あのサマリア人は、怪我をして半死の状態にあったユダヤ人を、敵かどうかとこだわることなく助けました。彼が敵であるユダヤ人のひとりであることを、忘れました。5節に「(愛は)恨みを抱かない」とあります。この言葉は、直訳すると「悪いことを数えない」という字です。相手の悪いところ、自分には愛し得ない理由を一つひとつ数えていては、愛することはできない。愛の忍耐は、相手の悪を忘れます。赦すとは忘れるということです。キリストこそが私たちの罪を忘れてくださいました。キリストが私たちを愛してくださった時、それは罪人への愛でした。キリストの愛は、赦しです。
 だから、「愛は情け深い」と続きます。この言葉は、柔らかさや弱さを意味する言葉ではありません。もともとは「有能」という意味です。軟弱とは正反対です。本当に自分から、何ものにも妨げられることなく、親切にすることのできる強い力のことです。それは、積極的で豊かな心です。
 この御言葉に触れて思い知らされるのは、これまで愛だと思い込んできたものが、実は愛でも何でもなかったということです。愛しているからねたむ。愛しているから細かな礼など必要のない近さになる。いらだちもまた愛の裏返し。そうやって愛の名のもとに自分を正当化してきたけれど、情け深い愛の強さは、このような狭い心とは両立し得ません。愛と言いながら、利己心のかたまりのような自分。キリストが赦してくださった私の最大の罪は、このような愛の欠如なのではないでしょうか。キリストの愛にすがるだけです。だからこそ愛は信じることであり、望みを抱くことなのです。

2024年12月22日の聖句

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