2019年6月10日月曜日

2019年6月10日(サムエル記下15)

今日の通読箇所:使徒言行録7:17~60、サムエル記下15、ヨブ記21

サムエル記下15;
ダビデの息子アブシャロムは、「イスラエルの人々の心を盗んだ(6節)」。国民の心を王であり父であるダビデから自分に向くように、時間をかけて国民に根回ししました。争いごとを抱えた人が王の裁定を求めて王宮に来れば、縄文のところで声をかけて、自分は王よりもあなたにとってよい裁きを下すことができると言って見せたのです。「もし誰かが、私をこの地の裁き人にするならば、どんな争い事や申し立てを抱えた者が来ても、その人のために公平な裁きを行ってやれるのに(4節)」。こうして、民衆の中にアブシャロム待望論が広まっていきました。
それから四年後、彼は更なる行動に出ます。イスラエルの全部族に密使を送り、ヘブロンで自ら王に即位すると宣言しました。
ヘブロンは、かつてサウルが戦死した後にダビデが初めて戻って来た場所で、ダビデもこの町で王になりました。ダビデにとっても、今の王家にとっても、意味が深い場所です。この場所で王になると言うことが、アブシャロムにとっては自分の正当性を内外に示す絶好の機会だったのです。
アブシャロムがそのような行動に打って出たと知ったとき、ダビデは彼と戦うのではなく、都を後に逃亡することを選びました。何人かの人々がダビデに同行したいと申し出ます。あるものについてはダビデは同行を許し、他のあるものについては断りました。特筆すべきは、祭司ツァドクがレビ人らと共に神の箱を担いで同行しようとしたときのことです。ダビデは彼らに言いました。「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の目に適うのであれば、主は私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見せてくださるだろう(25節)」。ダビデは、神の箱を自分のためのお守りにはしませんでした。神様の御心がなることを願って、それをあるべき場所に残していきました。神がそう望んでくださるのならば、私は再びここに戻って神の箱を見せて頂けるだろう、と。ダビデは今息子にクーデターを起こされ、命からがら王都を逃れ、とても辛い時期にあります。しかし、ダビデはそれでも神様を利用するのではなく、神様に仕える道を進みます。それは、バト・シェバの件での神の裁きを従順に受け入れるというあり方であったのかもしれません。ダビデはただひたすらに、神の御前に生きたのです。

2024年12月25日の聖句

私はあなたがたを私の民とし、私はあなたがたの神となる。(出エジプト記6:7) 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。(1ヨハネ3:1) クリスマス、おめでとうございます。 主なる神さま...