2019年6月9日日曜日

コリントの信徒への手紙一12:31b〜13:13、ヨハネによる福音書20:19〜23「愛するということ」


 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 主イエスが弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われました。「聖霊」という言葉は、ギリシア語では「聖なる息」と翻訳することもできる字が当てられています。聖霊、それは主イエスご自身の息です。ヨハネが伝えているこの箇所は、ヨハネによる福音書のペンテコステと言うこともできます。主イエスさまが、弟子たちに、御自分の聖なる息である聖霊を吹きかけてくださいました。イエスの聖なる息によって、弟子たちは、主に与えられた使命に生きることができるのです。
 主はおっしゃいます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」教会に、罪の赦しの福音の言葉を託された。これが主の弟子である私たちの使命です。コリントの信徒への手紙の言葉で言えば、教会の使命は情け深い愛に生きることです。罪の赦しの愛、私たちを罪の悲惨から救ってくださるキリストの愛を、私たちは証しをするのです。
 ヨハネが伝えているペンテコステの言葉は、私にとっては特別な思いを抱いている御言葉です。これは、今から約20年前、私が伝道者として生きるように神様に召されているのではないかと祈っていたときに格闘した御言葉でした。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。主イエスが十字架にかけられて三日目、その日の朝には女たちが主は復活したと言っていた。そんな日の夕方です。彼らは、数日前にイエスを捨てたばかりでした。そういう弟子の姿、そして、イエスを十字架につけた群衆の姿を、私は思い巡らしました。群衆は、イエスの裁判の席でピラトがイエスを指して「見よ、あなたたちの王だ」と言ったときに、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫び、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と絶叫しました。それは、わたし自身の姿です。ところが、イエスを捨てた弟子たちのところへもう一度来られた主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と言って、罪の赦しの福音を彼らに託してくださいました。そのために聖霊を与えてくださいました。それは、ちょうど創世記第2章で、土くれにすぎなかった人の鼻に命の息を吹き込んで、彼を生きる者にしてくださったのと同じです。イエスの命の息である聖霊が、罪に死んでいた私たちを、生きる者にしてくださるのです。
 そうして教会に与えられた言葉は、罪の赦しの福音に他ならない。キリストの愛の言葉を、主は教会に託してくださいました。私たちが出ていってこの福音を宣言し、キリストの御業に仕えるために、主は私たちのところへ再び来てくださっています。私たちのまことの王であるイエス・キリストが、枯れた根のような私たちに命の泉から水を注ぎ、聖霊の風と神の光によって、私たちに聖霊の結ぶ実として、愛の実りを実らせてくださる。神の御業を信じて、教会の営みを主に献げましょう。

2024年12月26日の聖句

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