2019年6月5日水曜日

2019年6月5日(サムエル記下5〜6)

今日の通読箇所:使徒言行録4:1~22、サムエル記下5~6、ヨブ記16

サムエル記下5~6;
ダビデは全イスラエルの王となります。エブス人やペリシテ人を破り、国の内外はダビデの治世に安定に向かいます。このダビデとその息子ソロモンの時代に、イスラエルの国はその歴史上最も栄えた時代を迎えることになります。聖書は、そのことを端的に言い表します。「ダビデはますます勢力を増し、万軍の神、主が彼と共におられた(5:10)」。「ダビデは、主が自分をイスラエルの王として揺るぎない者とし、その民イスラエルのために、彼の王国を高めてくださったことを知った(12節)」。
ダビデの王国が堅固になったのは、ダビデ自身のためではありません。イスラエルの人々が神を信じ、神に仕えて生きていくためです。神が王として統治するために、ダビデの王国を神は祝福し、高めてくださいました。私たちに与えられているものも、同じではないでしょうか。それは私たち自身のためではなく、隣人のためであり、隣人が神の祝福の中を生きていくためのものに違いないのです。

ダビデはそのしるしとして、神の箱をエルサレムの都に迎え入れました。ダビデとその一行は楽器を鳴らして喜んで箱を運びましたが、途中で事件が起こりました。牛がよろめいて、大切な箱が落ちそうになってしまった。ウザという人が手を伸ばして箱を押さえた。すると神はウザに怒り、彼をその場で殺してしまった。それを知って、ダビデも怒りました。
ウザはどうして死ななければならなかったのか?神の箱は、特にそのために選ばれたものしか触れてはならなかったのです。「彼らは聖なるものに触れてはならない。触れると死ぬであろう(民数記4:15)」。実際にその通りに、ウザは死んだ。しかしそれは、あまりに理不尽に見えます。ウザはいたずらをしたのではなく、落ちそうになっていたのを押さえただけなのですから!
さらにもう一つのことが起こります。結局、ダビデはエルサレムに神の箱を迎え入れました。彼はそのことを喜び、踊って迎え入れた。それを旗から眺めていた妻ミカルは、彼をさげすみました。「今日のイスラエルの王はなんとご立派であったことでしょう。一人の愚か者が恥ずかし気もなく裸になるように、仕え女や家臣の前で裸になられたのですから(6:20)」。
これら二つの出来事は、神様の評価と人間の評価とのギャップを私たちに証ししています。人間的に見れば、ウザのしたことは緊急の場合の必要な行動です。しかし、神の聖なることが優先されました。彼はレビ人ではないのに聖なる箱に触れてしまったのです。あるいは、上野はこの前で踊ったダビデの振る舞いは、人間的に見れば、確かに王としての威厳を欠き、王国の尊厳に傷をつける可能性がありました。しかし、ダビデもまた神の一人の僕に過ぎないのです。神様の基準は私たちとは異なり、神様の思いは私たちとは異なります。私たちの目には不可解に映ることもある。ウザのときには、ダビデもそのギャップに納得がいかず、怒りました。しかしこのような聖書の御言葉に触れるとき、私たちは、神が人間ではなくまさしく神であられるとはいかなることなのか、知らされるのではないでしょうか。

2024年12月23日の聖句

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