今日の通読箇所:使徒言行録4:1~22、サムエル記下5~6、ヨブ記16
サムエル記下5~6;
ダビデは全イスラエルの王となります。エブス人やペリシテ人を破り、国の内外はダビデの治世に安定に向かいます。このダビデとその息子ソロモンの時代に、イスラエルの国はその歴史上最も栄えた時代を迎えることになります。聖書は、そのことを端的に言い表します。「ダビデはますます勢力を増し、万軍の神、主が彼と共におられた(5:10)」。「ダビデは、主が自分をイスラエルの王として揺るぎない者とし、その民イスラエルのために、彼の王国を高めてくださったことを知った(12節)」。
ダビデの王国が堅固になったのは、ダビデ自身のためではありません。イスラエルの人々が神を信じ、神に仕えて生きていくためです。神が王として統治するために、ダビデの王国を神は祝福し、高めてくださいました。私たちに与えられているものも、同じではないでしょうか。それは私たち自身のためではなく、隣人のためであり、隣人が神の祝福の中を生きていくためのものに違いないのです。
ダビデはそのしるしとして、神の箱をエルサレムの都に迎え入れました。ダビデとその一行は楽器を鳴らして喜んで箱を運びましたが、途中で事件が起こりました。牛がよろめいて、大切な箱が落ちそうになってしまった。ウザという人が手を伸ばして箱を押さえた。すると神はウザに怒り、彼をその場で殺してしまった。それを知って、ダビデも怒りました。
ウザはどうして死ななければならなかったのか?神の箱は、特にそのために選ばれたものしか触れてはならなかったのです。「彼らは聖なるものに触れてはならない。触れると死ぬであろう(民数記4:15)」。実際にその通りに、ウザは死んだ。しかしそれは、あまりに理不尽に見えます。ウザはいたずらをしたのではなく、落ちそうになっていたのを押さえただけなのですから!
さらにもう一つのことが起こります。結局、ダビデはエルサレムに神の箱を迎え入れました。彼はそのことを喜び、踊って迎え入れた。それを旗から眺めていた妻ミカルは、彼をさげすみました。「今日のイスラエルの王はなんとご立派であったことでしょう。一人の愚か者が恥ずかし気もなく裸になるように、仕え女や家臣の前で裸になられたのですから(6:20)」。
これら二つの出来事は、神様の評価と人間の評価とのギャップを私たちに証ししています。人間的に見れば、ウザのしたことは緊急の場合の必要な行動です。しかし、神の聖なることが優先されました。彼はレビ人ではないのに聖なる箱に触れてしまったのです。あるいは、上野はこの前で踊ったダビデの振る舞いは、人間的に見れば、確かに王としての威厳を欠き、王国の尊厳に傷をつける可能性がありました。しかし、ダビデもまた神の一人の僕に過ぎないのです。神様の基準は私たちとは異なり、神様の思いは私たちとは異なります。私たちの目には不可解に映ることもある。ウザのときには、ダビデもそのギャップに納得がいかず、怒りました。しかしこのような聖書の御言葉に触れるとき、私たちは、神が人間ではなくまさしく神であられるとはいかなることなのか、知らされるのではないでしょうか。
2024年12月23日の聖句
私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。(詩編51:5) 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9) クリスマスにお生まれになった救い主は「イエス」と名付けられました。主の天使...
-
神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
-
さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
-
仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...