2019年7月5日金曜日

2019年7月5日(列王記下13〜14)

今日の通読箇所:使徒言行録22、列王記下13~14、箴言3:21~35

列王記下13~14;
イスラエルの王とユダの王が登場します。それぞれ、「ヤロブアムの罪」と「高き所でいけにえを献げ」という言葉がキーフレーズのように登場してきます。今回だけではなく、これまでの王たちについてもそのように言われていました。何を意味しているのでしょうか。
ネバトの子ヤロブアム。それは分裂した北王国イスラエルの最初の王です。ソロモン亡き後混乱した統一イスラエル王国でしたが、その後混乱が深まり、ヤロブアムと10の部族がユダのダビデの家から分裂します。最初はユダの圧政に対する憎しみもあって国はまとまっていましたが、ヤロブアムはすぐに問題に気づきました。ソロモンが建てた主の神殿は南王国の首都エルサレムにある。皆、礼拝をするためにエルサレムに行ってしまえば、やがて人々の心はダビデの家に戻ってしまう。そこで、彼は「二体の金の子牛を造り、そして言った。『あなたがたがエルサレムに上るのは大変である。イスラエルよ、これがあなたを0エジプトの地から導き上った神々である(列上12:28)』」。そして彼はその二体を北王国の南の端のベテルと北の端のダンに設置しました。人々はそこで礼拝をしました。律法は、礼拝は定められた場所でしなければならないとしています。自分勝手に、便利に礼拝所を移してはならないのです。これがヤロブアムの罪。
南のユダ国にについては、高き所で献げるいけにえが問題になっていました。「高き所」はもともとのカナンの土着の宗教の礼拝所です。ですから、これも本質的にはヤロブアムの罪と似ていて、自分たちの都合に合わせて、自分で言いと思う礼拝をしていた、という問題です。律法で規定された礼拝の姿から逸脱していたのです。
今朝の箇所でイスラエルの王ヨアシュなどはエリシャが死の病を患ったときに泣きながらやって来ました。ヨアシュもヤロブアムの罪を離れていませんでしたが、それでもエリシャを慕い、神を求めていたのでしょう。エリシャも彼を見捨てるのではなく、神の御許に立ち帰らせようと、対話を深めています。願わくば、私たちが神の御業に心から期待して、5度も6度も弓矢を放ち続ける信仰の大胆さを戴くことができますように。
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宮井岳彦
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