2025年1月20日月曜日

2025年1月20日の聖句

あなたにとって、主がとこしえの光となり、あなたの神があなたの誉れとなる。(イザヤ60:19)
(イエスの言葉)私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。(ヨハネ12:45~46)

主イエス・キリスト。この方こそ私たちの光。私たちを照らす。キリストはご自分を信じる私たちのための光として、この世に来てくださいました。
ブラジル東北部にある姉妹教会、マッタ・デ・サン・ジョアン教会を訪問したことがあります。ジョタカという農村の奥の方にある教会です。周りには畑しかありません。送電の事情が悪く、よく停電になります。夜停電になると、文字通りに真っ暗になります。そうするとやれることがないので、寝るしかありません。しかし、私のようなよそ者は空を見上げて星を眺めます。日本では見ることのできない南半球の星座が見えます。その星の輝きは本当に美しい。星の光に照らされる。そして、次の日の朝になればちゃんと朝日が昇って大地は光に包まれます。
イエス・キリストはそういう暗闇の中に訪れた光です。星の輝きであり、大地を包む朝日です。私たちはキリストという光に照らされて、今日も生きています。このお方こそ私たちの希望です。このお方こそ私たちの救いです。私たちを闇にとどめることのないように、光の方が私たちのところへ来てくださったのです。
「あなたにとって、主がとこしえの光となり、あなたの神があなたの誉れとなる。」キリストという光は、停電になってしまうことがありません。曇っていても輝き続けます。どんな深い闇の中でも、その闇に負けてしまうことがありません。どのようなときにも私たちの希望でいつづけてくださる。この方を私たちはあがめ、今日もこのお方に祈りを献げているのです。

2025年1月19日日曜日

2025年1月19日の聖句

今週の聖句:
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)

今日の聖句:
起きよ、光を放て。
あなたの光が来て
主の栄光があなたの上に昇ったのだから。(イザヤ60:1)
これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79)

一昨日の1月17日に阪神淡路大震災から30年を迎えました。被災された方たちには、言葉に尽くせない日々でいらしたことと思います。今日の御言葉に「暗闇と死の陰に座している者たち」と書いてあります。まさに、この言葉の通りの経験なのではないかと想像します。
しかし、同時に思います。地震があったこと、そのための建物の倒壊や火事のこと。それも本当に大変な暗闇の出来事に違いないですが、さらに過酷なのは、そのような出来事の中での人間の振るまいではないかとも思います。30年を迎えるにあたって放送されていたニュースの中で、当時の避難所で女性への暴行事件があったことが振り返られていました。このような出来事の中で恐ろしい罪が犯されていた。地震は地球の自然環境の中で起こる大変な出来事です。しかし人が人を食い物にするのは、罪が生み出す事柄です。人間の心の中にあるものこそ、本当に暗闇であり、死を生み出す陰ではないでしょうか。
私たちの罪の闇は、神の憐れみによって光が差さなければ救われようがありません。ほかの方法で救われうるほど甘いものではない。もっと深刻で、深く病んでいます。私たちは罪の病気に捉えがたく冒されています。
高い所から訪れてくださる曙の光をただひたすら待ち望みます。それ以外には救いがありません。キリストの憐れみ以外に私たちの望みはありません。

2025年1月18日土曜日

2025年1月18日の聖句

そこで今日あなたがたは、上は天においても下は地においても、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知って、心に留めておきなさい。(申命記4:39)
あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。(フィリピ4:5,7)

神さまは本当に私たちには計り知れない、大きくて、偉大なお方です。「あらゆる人知を超えた神の平和」と使徒パウロは言います。神さまの御心は、私たちの持つ浅知恵など遙かに超えて大きく、広い。「そこで今日あなたがたは、上は天においても下は地においても、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知って、心に留めておきなさい。」
ところが、私たちはすぐに神さまを自分の枠に押し込めて、自分の理解しやすいように小さくしてしまいます。自分があらかじめもっている宗教観とか、自分にとって理解しやすいイメージとか、そういう聖書と関係なく自分が持っている理解の中に神さまを押し込めてしまう。「主こそ神であり、ほかに神はいない」という聖書の言葉を真剣に受け止めない。
そうしたときに何が起こるのか。「あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい」と書いてあります。この「寛容」という心が失われる、ということであると思います。このことは意外に感じるかもしれません。「主こそ神であり、ほかに神はいない」などと言っている方が狭くて不寛容だと聞こえがちです。しかし、この世界のすべてを造り、愛をもって支配しておられる神を信じ、この神の手の慈しみを信じてそこにかけることは、真の寛容に開かれた信仰だと私は信じています。この神は、すべての人のためにご自分の独り子をお与えくださったのですから。
「あらゆる人知を超えた神の平和」と聖書は言います。私たちの知恵を超えたお方がくださるのは、平和です。神の平和、キリストの平和によって私たちは生きることが許されている。キリスト・イエスを信じ、このお方に現された神の愛を信じて、寛容に生きたいと願います。

2025年1月17日金曜日

2025年1月17日の聖句

誰の道も主の御前に開かれている。(箴言5:21)
主が来られるときまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。(1コリント4:5)

私たちにとって、人を裁くのは快感です。そもそも人が集まって一番盛り上がるのは人の悪口か噂話です。どちらにしても、私たちの裁きの心を刺激します。その場にいない夫を裁き、妻を裁く。同僚を裁き、部下を裁き、上司を裁く。どのような人間関係であっても、私たちの心の中にはすぐに「裁きの心」がムクムクと頭をもたげてきます。
そういう心をファリサイ根性と言います。ファリサイ派の人々はとても信仰深く、ちゃんと暮らしている人たちで、民衆から尊敬されていました。しかし福音書に記された彼らの言動を見ていくと、そこに隠された裁き心が見え隠れします。ファリサイ主義は私たちのとても近い親戚。私たちの同類です。ファリサイ根性は私たちに深く染みつく罪です。
ところが聖書はそういう私たちの思いに真っ向から挑みかかってきます。「主が来られるときまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。」裁きは主がなさることであって、私たちはそれをしてはならない、と言います。私たちの道は主の前にある。誰の道も。主がそれをご覧になり、裁きを行われる。私たちは主の御前に身を低くし、その裁きを恐れるしかない。
神さまの御前に、ひたすら身を低くする以外に何もないと改めて思わされます。神さまを畏れ、隣人を敬い、誠実に生きる謙遜をお与えください、と祈ります。

2025年1月16日木曜日

2025年1月16日の聖句

人間の高ぶる目は低くされ、人の高慢は卑しめられる。
その日には、主のみが高くされる。(イザヤ2:11)
神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(1コリント1:27~29)

今日の御言葉は、すごく痛い言葉です。心に突き刺さります。でもできれば刺さったままにしたくないので、見なかったことにしてしまいたくなる言葉です。人間の高ぶる目、人の高慢。このように聖書が言う御言葉を耳にし、どうして自分はこんなにも高慢なのかと改めて思わずにおれません。何者でもないのにひとかどの者と思い込み、人が自分を重んじていないと感じれば気を悪くする。そのようにここに書くことも恥ずかしいことです。しかしそれでも、聖書はそんな私の心を見透かしている、と思います。
そのような高慢と戦うために、神は弱い人をお選びになったのだ、と言います。私が弱いと思っている人、いつの間にか見下している人。私たちは神の御前に何者でもない。隣人の前にも、同じです。神は私たちがよいから救ってくださったのではなく、駄目で見所もないから憐れみ、救ってくださいました。神の前に誇るべきことは一つもない。何もない。そのことを繰り返し学ばせてください、とただただ祈るだけです。

2025年1月15日水曜日

2025年1月15日の聖句

姦淫してはならない。(出エジプト記20:14)
夫は妻を蔑ろにしてはならない。妻も夫を蔑ろにしてはならない。(1コリント7:3)

姦淫というと、浮気や不倫という言葉とすぐに結びついて考えられます。しかし単にそれだけではなく、聖書はもっと積極的にこのことを考えているように思います。
今日私たちに与えられている新約聖書の御言葉はこのように言っています。「夫は妻を蔑ろにしてはならない。妻も夫を蔑ろにしてはならない。」蔑ろにしない。ここに引用したのは、日本語版ローズンゲンの編集者がドイツ語の聖書から日本語に翻訳したものです。同じ箇所の聖書協会共同訳を見てみると、この「蔑ろにする」というところは「義務を果たす」と訳されていました。「夫は妻に対して、同様に妻も夫に対してその義務を果たしなさい。」前後の脈略を読むと、明らかに、夫婦の肉体的な関係を正当な理由なく減らしてはならない、という意味です。肉体の交わりを一方が自分勝手に減らしてはならない。そのように言うのです。聖書にそんなことまで書いてあるのか、と思うほどの言葉ではないでしょうか。
姦淫ということを考えたときに、浮気や不倫をしなければいい、つまりほかの人と関係を持たなければ良いということだけを考えているのではない。もっと積極的に、夫は妻に対して、妻は夫に対して、その関係を良いものとするというメッセージなのではないでしょうか。それは、神がこの人との関係を与えてくださったということです。神がこの人との間にいてくださる、ということです。肉体も心もすべてを含めたトータルな存在として夫婦が共に生きる。その関係を尊ぶということと神を信じて生きるということとは別々のことではない。そのように言っているのだと思います。

2025年1月14日火曜日

2025年1月14日の聖句

貧しい人を憐れむ者は、神をあがめる。(箴言14:31)
イエスはその若者に向かって言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」(マタイ19:21)

貧しい人への神さまのまなざしは、私たちの想像を遙かに超えて革新的です。「貧しい人を憐れむ者は、神をあがめる。」ここでは、貧しい人を憐れむということと神をあがめることとが一つのこととして語られています。主イエスの言葉は更にすさまじい響きを立てています。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」まず、すべてを貧しい人に与えなさい、それから、私に従いなさい。まず、貧しい人のために。それから、キリストに従う。私たちにとっては、ある意味で意外な言葉ではないでしょうか。
神さまは、ただ単に貧しい人をかわいそうと思いなさいだとか、自分の財布から少しの寄付をしなさいだとか、そういうことはおっしゃいませんでした。貧しい人が貧しくなってしまう根本的な原因を絶ちきれ、とおっしゃっているのだと思います。あなたもそのための痛みを引き受け、貧しい人の仲間になれ、とおっしゃっているのだと思います。
キリストは、高みの見物をさせてはくださいません。自分は自分として守っておく、ということはさせてくださらないのです。しかしこのあまりに厳しい言葉を聞いたとき、それをイエスから聞かされた若者は悩みつつ立ち去りました。正直言って私にも気持ちがよく分かります。金持ちでなくたって、自分の持ち物を捨てろというのはあまりに厳しい要求です。主イエスは、こういう「自分にはできない」と私たちが思うところこそが神さまへの頼りどころだとおっしゃっているのだと思います。私たちの決断ではできないことがある。そこでこそ神に頼ってほしい、とおっしゃっているのではないでしょうか。
神が報いてくださる。そのことを信じて、今日、ほんの少し、自分を捨ててキリストに従ってみましょう。僅かでも自分を十字架にかけて、キリストの後に従ってみませんか。

2025年1月13日月曜日

2025年1月13日の聖句

空しいものを見ないよう、私の目をそらせてください。(詩編119:37)
あなたの目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、目が悪ければ、体も暗い。(ルカ11:34)

目は体の灯なのであって、目が澄んでいれば全身も明るくなる。ところが目が濁っていて見ることができず、光を感じられなくなってしまっていては、体自体が暗くなってしまう、と言っています。
あなたの目は澄んでいますか?あなたの目は見るべきものを見、あなたを照らす光を感じ取っているでしょうか?
今日の旧約の御言葉はとても示唆に富んでいます。「空しいものを見ないよう私の目をそらせてください。」私たちの目はすぐに空しいものに引き寄せられてしまいます。しかしそうやって空しいものに目を向けていると、私たちの目は空しくなってしまう。だから私の目を虜にする誘惑からこの目をそらせてください。そう祈っています。
私たちが澄んだ目を持つために必要なことは、私たちの目を澄み渡らせるものを見続けるということです。私たちの目を清めるものに目を注ぐことです。それは、主イエス・キリスト以外にないのではないでしょうか。キリストに目を注ぎ、神さまの御業を仰ぐとき、私たちの目は澄んで、私たちの全身は明るくなる。
キリストにこの目を注ぐ。それは、やはり何よりも聖書の御言葉に耳を傾けることによります。聖書が伝えるキリストの御業に私たちの心を集中する。神さまはそうやってキリストに目を注ぐ私たちに清い目を授けてくださる。私たちの体は明るく、光り輝くものに変えられるのです。

2025年1月12日日曜日

2025年1月12日の聖句

今週の聖句:
神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。(ローマ8:14)

今日の聖句:
憎しみはいさかいを引き起こし、愛は背きのすべてを覆い隠す。(箴言10:12)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。(1ヨハネ4:10~11)

「憎しみはいさかいを引き起こし、愛は背きのすべてを覆い隠す。」本当にその通りです。ある意味、誰もが知っていることです。憎しみによっていさかいを引き起こしてしまったり、火に油を注いでしまったり、こじらせてしまったり。そのような苦い経験は誰にでもあるでしょう。憎しみの思いが心にわだかまっているために、上手くいくものもいかなくしてしまったことも、多くの人にあるのではないかと思います。
そんな人生経験や人間関係の痛みは殆どの人が知っているのに、神さまとの間のことになると、途端に鈍感になってしまうのではないでしょうか。私たちが神を憎んでいるために神との関係が壊れていること、私たちが神を蔑ろにしているために神を傷つけていること。そのようなことを私たちは殆ど顧みません。
ところがそんな私たちのために神が愛の手を伸ばしてくださった、と聖書は言います。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださいました。私たちが神に憎しみや諍いしか突きつけないのに、神は愛をもって御子を遣わし、私たちのための愛を貫いてくださいました。神の愛が私たちのすべてです。
だからこそ互いに愛し合おう、と聖書は語りかけます。私たちの愛に生きる理由も根拠も、イエス・キリストにあります。まず神が私たちへの愛を示してくださった。この事実が私たちの前に示されているのです。

2025年1月11日土曜日

2025年1月11日の聖句

私は彼らと平和の契約を結び、これは永遠の契約となる。(エゼキエル37:26)
今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、恵みと平和があなたがたにあるように。(黙示録1:4,5)

聖書は神さまと私たちとの関係を「契約」という言葉で表します。例えば、箱舟を降りたノアに神さまは、虹をご覧になる度に「私は、あなたがたと、またすべての肉なる生き物と立てた契約を思い起こす」とおっしゃっています。あるいは、アブラムとの契約。モーセたち神の民とシナイ山で立てた契約。ダビデとの契約。預言者エレミヤを通して立てられた新しい契約。このように何度も繰り返し更新され、語り直される神の契約は、イエス・キリストという究極のかたちで現されました。神の子が十字架にかけられ、復活した。ここに神の国が来た。神は私たちを神の民としてくださった。神の契約に生きる民としてくださった。
神さまは、そのようにして私たちと結んでくださった関係を「永遠の契約」とおっしゃいます。この場限りだとか、今だけとかではない。あるいは、「私だけ」のプライベートなものでもない。私たちにも、信仰の先輩たちにも、そして子どもやその先の世代にも、神の結んでくださった永遠の契約は力強い神の平和の約束として響き続けます。神さまの御手は私たちの短い命を遙かに超えたスケールです。
神さまの結んでくださる契約のスケールは、神様ご自身のスケールに由来します。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、恵みと平和があなたがたにあるように。」今も、昔も、そして将来にも、神はおられる。永遠のお方が、永遠の恵みと平和をもって私たちと共にいてくださる。私たちは神の国に生きる神の民。神の契約によって生かされている神の民。今日も神の永遠の祝福の中にあなたの一日があります。

2025年1月9日木曜日

2025年1月10日の聖句

(主の言葉)彼らが私を畏れ、私のすべての戒めを守る心をいつも自分の中に持ち続け、彼らもその子孫も、いつまでも幸せであるように。(申命記5:29)
あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。あなたがたの内に愛を宿らせるならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。(ヨハネ13:34~35)

今日の旧約の最後のところに「いつまでも幸せであるように」とあります。神さまは私たちがいつまでも幸せであることを願っていてくださいます。神さまは本当に優しいお方です。私たちの不幸を望んではおられない。幸せを望んでいてくださいます。しかも、今だけ・ここだけの刹那的な幸福感ではなく「いつまでも」と言ってくださる。私たちが神さまの御前に、永遠の幸いにあずかることを主ご自身が望んでくださっている。なんて優しい御心でしょう!
私たちが神を畏れ、神に従って生きること。それこそが私たちの幸せです。神さまを信じたらご褒美として幸せにしてもらえる、というのではない。主を畏れ、信じ、従うこと。それこそが私たちの幸せそのものです。私たちは神に向けて造られ、神の内に憩うのでなければ安らぎを得ることができないからです。
神を信じ、神に従う。神は、私たちが従うべきご自身の御心を主イエス・キリストにあって示してくださいました。だからこそ、聖書は私たちに愛し合うことを求めるのです。キリストに愛して頂いた者として、キリストの愛にまねて、私たちもキリストと隣人を愛する。そこに私たちの幸せがある。しかも、永遠の幸せがある。この福音の知らせが今日私たちに与えられているのです。

2025年1月9日の聖句

あなたの神、主がこの40年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。(申命記8:2)
それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。イエスは40日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。(マルコ1:12~13)

荒れ野を旅する神の民。それは私たちのことです。神さまは私たちを独りぼっちの信者にはせず、一つの民にしてくださいました。私たちは一緒に旅をする「キリストご一行」です。その旅路は、荒れ野の旅です。エジプトを脱出して約束の地を目指した神の民の旅を私たちも歩んでいる。
この旅は荒れ野の旅ですから、苦労の多い旅です。神さまを信じれば何でも悩みが解決されるというわけではなく、むしろ荒れ野の旅路の苦労が生まれてくるのかもしれません。しかしその苦労はむやみな苦労ではない。この旅の中、私たちは神の民として磨かれる。「あなたの神、主がこの40年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」この旅路は、私たちの心にあるものを明らかにします。確かにそうです。苦しいときにこそ、自分が実はどんな人間なのかが明らかになってしまう。しかし同時に私たちが福音として知らされているのは、そんな荒れ野に主イエスさまがいてくださる、という事実です。悪魔の試みまでお受けになって、しかもそれに打ち勝たれたお方がいてくださる。私たちの心にあるものはどうしようもないものばかりですが、キリストが共にこの旅路を歩んで、私たちを守ってくださいます。このお方により頼んで、今日の旅路を歩んでいきましょう。

2025年1月8日水曜日

2025年1月8日の聖句

神よ、私の心は整いました。
私は歌い、奏でよう。
わが魂よ、目覚めよ。(詩編108:2)
脚の不自由な男は跳ね起き、立って歩けるようになって彼らと共に神殿の境内に入り、走り回り跳び回っては、神を賛美した。(使徒3:8)

12月ごろからひどい腰痛に悩まされていました。今はずいぶん回復してきましたが、一時期は朝布団から起き上がるのにずいぶんと時間がかかりましたし、朝の着替えにも苦労しました。ここに登場する「足の不自由な男」の苦労とは比べるべくもありません。ほんの僅か、少しだけ、私も疑似体験しました。
さて、この人は毎日神殿の境内にある「美しい門」に運ばれ、そこで人から施しを受けて生きていました。ある日そこにペトロとヨハネがやって来た。ペトロは彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言います。足の不自由な男は何かもらえると期待して二人に注目しました。ところがペトロは言います。「私には銀や金はない」。彼はどんなにがっかりしたことでしょう。しかしさらに続けてペトロは言うのです。「持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」すると、彼は跳ね起き、立って歩けるようになったのです。
この人は、私たちです。私たちも主イエス・キリストの名で今立っています。足腰が痛むときにも、立つことができないときにも、寝たきりであっても、私たちはキリストにあって生きている。私たちは今キリストが生かしてくださっている命を喜んでいき、この人と一緒に神を賛美します。神が私をも覚え、お取り扱いくださっている。その事実に深く思いをいたし、神への賛美と喜びをもって生きる私たちでありたい、と願います。

2025年1月7日火曜日

2025年1月7日の聖句

主の諭しを拒むな。
主の懲らしめをいとうな。(箴言3:11)
イエスは権威をもって教えられた。(マルコ1:22)

権威ある言葉、というものが世の中にはあります。社会の中で何かの事件や出来事が起こると、テレビにはその道の権威ある人が登場して、何らかのコメントを発します。そうすると、たいていの場合、私たちは「そういうものか」と受け入れ、その人が言っているように物事を解釈します。選挙の結果についてもそうでしょうし、私たちが詳しく知らない海外の情勢や戦争の原因もそうでしょう。それだけではなく、健康についての情報や、自然災害についての解説などでも、同じだと思います。特に、現代社会を生きる私たちにとっては、テレビが言っていることは大きな権威として響きます。テレビが言っているのだからそうなのだろうと、ついつい無批判に受け入れてしまいます。
しかしそういうたくさんの権威は、案外あやふやなのものです。特にテレビは、ここのところずいぶん信用を落としているように思います。「テレビでは言わない(言えない)けど、実は・・・」というような怪しい言説も、ネット空間には溢れています。そうすると今度は逆に、それぞれの個人の感じ方や感情が小さな権威になって、この世にたくさんの権威が乱立します。学問的な研究の成果や丹念な調査と、自分の感じたこととが並列し、混乱してしまいます。一切の権威を認めないという考え方も、それはそれで不健全だと思います。
そんな時代を生きる私たちにとって、今日の御言葉はとても大切なことを伝えています。「イエスは権威をもって教えられた。」主イエスの言葉には権威があります。イエスが神の国を宣言すれば、その福音は実現しています。イエスは神ご自身の権威をもって、私たちに福音を語りかけておられます。
権威について混乱が深まっているこの時代に生きているからこそ、私たちはイエスの言葉の権威を信じ、このお方に服従しましょう。この方が語りかけてくださる御言葉に自分の生き死にがかかっていることを喜んで信じましょう。キリストとその言葉は絶対に地に落ちることはありません。この方が命じ、宣言した言葉は、必ず神の御心を成し遂げます。必ず、イエスが権威をもって宣言なさったとおり、神の国は私たちのところに来ているのです。

2025年1月6日月曜日

2025年1月6日の聖句

主は私に緑の牧場で草を食ませ、
清新な水のもとへと誘われる。
主は私の魂を蘇らせる。(詩編23:2~3)
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。(1ペトロ2:25)

時々、牧場に行くことがあります。羊がいます。羊は羊の囲いに入れられて自由に草を食み、夕方になると羊飼いに連れられて建物の中へ帰って行きます。あの羊たちに、もしも羊飼いがいなかったら一体どうなるでしょう。もしも安心して眠ることのできる羊小屋がなかったら、一体どうなってしまうでしょう。どこに行っても安心できず、さまようしかありません。なんて不確かで、なんてか弱い存在でしょう。
私たちも同じです。私たちも私たちの魂の牧者でいてくださるお方がいてくださらなければ、どうして生きることができるでしょう。私たちは主イエスさまがいなくてどうして平安に生きることできるでしょうか。
「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。」
かつては、私たちもさまよっていたのです。私たちも平安なく生きていたのです。しかし、今や私たちの羊飼いが私たちを守っていてくださいます。私たちはこのお方の御許に立ち帰り、この方の御手の内に憩います。主イエス・キリストの恵みと平和が、今日もあなたにありますように。

2025年1月5日日曜日

2025年1月5日の聖句

今週の聖句:
私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14b)

今日の聖句:
主は恵み深く、危急の時の砦となり、ご自身に信頼を置く者を知っておられる。(ナホム1:7)
自分の確信を捨ててはいけません。(ヘブライ10:35)

主なる神さまは、恵みに満ちたお方です。神の恵みはいつ、どのようなときにも変わることがありません。私たちの上手くいかないときや困難のとき、私たちにとって八方塞がりの時であっても、神の恵みは変わることがありません。どのようなことがあったとしても。
「主は恵み深く、危急の時の砦となり、ご自身に信頼を置く者を知っておられる。」危急の時、神は私たちの助けていつづけてくださいます。私たちがどんなに弱く、移ろい、不確かであっても、神は堅固な助け、私たちの強き砦でいらっしゃる。その事実は絶対に変わりません。神を信じましょう。どのようなときにも。変わることなく神を信頼し続けましょう。
「自分の確信を捨ててはいけません。」神さまの確かな語りかけを頂き、神のくださる確信をしっかりと抱いて、今日も私たちは一つの民として、神の御前で共に歩んでいきます。

2025年1月4日土曜日

2025年1月4日の聖句

主よ、まことの神よ。
私の霊を御手に委ねます。
あなたは私を贖われた。(詩編31:6)
それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブライ4:16)

「あなたは私を贖われた。」神が私たちをご自分のものとしてくださいました。私たちは神のもの。神の子どもにして頂きました。だから、詩編作者は祈ります。「私の霊を御手に委ねます」と。私をご自身のものと宣言してくださったから、安心して自分のすべてを神にお任せすることができる。
今日の新約聖書も同じ信仰を言い表しています。「それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。」堂々と、私たちは神の御前に進み出ることができます。神の御前の恵みの座に近づくことができます。神の御前に進み出る私たちに、神さまは必ず時宜に適って助けをお与えくださいます。
新しい年を迎えました。私たちの新しい日々も、神さまの時宜に適った助けを信頼して、神様の御前に生きていきましょう。祈ること、御言葉に聞くことを何よりも大切にし、私たちのすべてを神さまの御手にお委ねして、この年も歩んでいきましょう。主イエス・キリストの恵みと祝福がありますように。

2025年1月3日の聖句

神が仰せられたら、実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。(民数記23:19)
(イエスの言葉)私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(マタイ7:24)

神が語り、その言葉に従ってこの世界は生まれました。神が「光あれ」とおっしゃったから光が生まれ、神が「乾いたところが現れよ」とおっしゃったから乾いた地が生まれました。神が語りかけたから命が生まれ、神がそのようにお命じになったから、私たちが生まれました。「神が仰せられたら、実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。」
そうであれば、神が語られた御言葉に私たちが従うのはごく自然なことです。神のご命令に従い、神がおっしゃった言葉をその通りに実行するのは、道理に適ったことです。ですから主イエスはおっしゃいます。「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」主イエス・キリストがお命じなったとおりに私たちが生きるのは自然なあり方であり、自然な生き方をするときにこそ、私たちは岩の上の家のように固く据えられ、建てられる。
神の言葉に従い、キリストのお命じになったとおりに生きていきたい、と改めて願います。私に命を与えてくださった御言葉に、私の自然な人生を開く言葉に、私も聞き、従いたい。キリストの御言葉は日々私たちに響いているのです。

2025年1月2日木曜日

2025年1月2日の聖句

人を恐れることは破綻を招くが、主に頼る者は守られる。(箴言29:25)
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたに御国をお与えになることを、あなたがたの父はお喜びになったのだから。(ルカ12:32)

新しい年が始まりましたが、だからといって社会が突然よくなったり、明るくなったりするわけではありません。十年ほど前、私の息子が生まれたころのことです。ある方が、この子が大きくなったときには日本の社会は一体どうなっているのだろうととても悲しい顔をなさっていました。10年経って、あのときのあの方の見方は杞憂であってよい方向に向かっている、と言えるのか。残念ながら、そうではないと感じる人の方が多いのではないかと思います。日本は経済的には貧しくなり、新しいかたちの犯罪が生まれ、SNS空間には憎悪と罵詈雑言が溢れています。国際社会の中での日本のプレゼンスは日を追う毎に低下し、観光客が行きやすい適度な観光資源があるお手頃な国になりました。政治からは高邁な倫理観も理想も聞こえてこず、利権にしがみつく与党と批判だけしていれば安泰の野党がかたちばかりの論争を行っています。彼ら彼女らの姿こそ、私たち国民の民度そのものです。私たちの孫子の時代、この社会は一体どうなっているのでしょう。
私たちは、この世界にあって、本気になって神を信じて生きなければなりません。そうでなければ、一体誰がこの地の腐敗を防ぐ塩となり、この世を照らす光となるのでしょうか。私たちには、自分の小ささを嘆いてみせるような余裕はありません。神は私たちに御国をくださっているのですから、私たちは今ここで神の国に生きることに本気でなければならないのです。
「人を恐れることは破綻を招くが、主に頼る者は守られる。」主に頼りましょう。本気で頼って生きていきましょう。この世界で、神の国に生きていきましょう。神はこの世界に新しい民をお作りになりました。人々がバラバラになり、混乱し、不信に溺れるこの世界に、神を信じ、キリストの愛の生きる新しい民を生み出してくださったのです。小さな群れよ、恐れるな!主イエス・キリストは私たちと共にいてくださいます。

2025年1月1日水曜日

2025年1月1日の聖句

1月の聖句:
(イエス・キリストの言葉)「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:27~28)

今日の聖句:
まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じることを語れ。(エレミヤ1:7)
(パウロの手紙の言葉)私は福音を恥としません。(ローマ1:16)

預言者エレミヤはまだ若いときに神から預言者になるようにと命じられ、その働きに仕えました。しかし彼はまだ若かったですから、神さまに訴えました。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。」エレミヤの言い訳です。
私はだんだんと「まだ若い」という言い訳ができない年齢になってきて、ひしひしと実感します。それでも言い訳は無限にある、と。若ければ「まだ若い」と言い訳をしたくなるし、若くなくなれば「まだ未熟」と言い訳する。それならもっと年を重ねたときには「年を取り過ぎた」と言い訳をするに違いありません。私たちはどんなことだって言い訳をする理由にするのです。しかし、神はそれを認めてはくださいません。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じることを語れ。」私が若いことも未熟なことも、年をとったことも、神は全てをご存じです。その上で命じておられるのです。「言って、語れ」と。
むしろ、急所はパウロが言うとおりです。「私は福音を恥としません。」私たちはただただ神のくださった福音を恥とせず、福音に仕え、福音を証しする。そのことだけです。それだけです。若ければ若いなりにそれをさせて頂けるでしょうし、年齢を重ねていればその年に応じて、男であっても女であっても、他のどんな個性も神が用いてくださいます。その個性をお造りになったのは神さまですから。
私たちに求められていることは、ただ忠実であることだけです。そのただ一つだけ。私たちはキリストを信じ、キリストを愛し、キリストに仕える。キリストの証し人として。

2025年の聖句

2025年の聖句:
すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。(1テサロニケ5:21)

今年の聖句は、私たちを「吟味」へと導きます。私たちの信仰は「鰯の頭も信心から」ではありません。何でもやたらめったら信じればいい、ということではない。私たちの信仰は吟味と矛盾しません。すべてを吟味し、良いもの、大切にすべきものを識別すること。それが、信じるということです。
この世界には「良い言葉」が溢れています。「もっともらしいこと」もたくさんあります。私たちの心を奪う美しい言葉がいくらでもある。しかし、私たちは事柄を吟味し、本当に尊ぶべきことを尊び、大切にすべきことを大切にする。
その判断の基準は、主イエス・キリストです。キリストが今しておられること。私たちはただそのことだけに心を向け、キリストが喜んでくださることだけに心を砕く。そのためには、虚心坦懐に御言葉に聞き、絶えず祈らなければならないでしょう。だからこそ、私たちは共に祈るし、共に御言葉に聞く。共に献げる礼拝の経験の中で、私たちは事柄を吟味するための識別心を養います。
キリストは、私たち人間の一人になってくださいました。私たちに完全に同情することがおできになる方です。しかしその同じキリストは、独り子なる神ご自身です。この世界に先立って、造られずに生まれた神さまそのものでいらっしゃいます。聖なるお方です。この「まことの神、まことの人」でいらっしゃるキリストこそ、私たちの識別の基準でいらっしゃいます。このお方の聖なる愛に照らされて、私たちのこの年の歩みをはかり、キリストに従う者となることを私たちの願いとしたいのです。

2025年1月20日の聖句

あなたにとって、主がとこしえの光となり、あなたの神があなたの誉れとなる。(イザヤ60:19) (イエスの言葉)私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。(ヨハネ12:45~46) 主イエス・キリ...