今日の通読箇所:テサロニケの信徒への手紙一4、イザヤ書40
イザヤ書40;
イザヤ書は第40章から、捕囚末期から解放期に時代が移ります。これまで、列王記や歴代誌の通読をしましたが、それぞれの下巻の最後のところに少しだけ書いてありました。また、解放の様子はエズラ記とネヘミヤ記に書かれていました。そういう時期に預言者たちがどういう活動をし、何を語ったのか。まずはこのイザヤ書第40章以降から見始めていくことになります。
その冒頭はとても印象深い言葉から始まります。
「慰めよ、慰めよ、私の民を」と、あなたがたの神は言われる。「エルサレムに優しく語りかけ、これに呼びかけよ。その苦役の時は満ち、その過ちは償われた。そのすべての罪に倍するものを、主の手から受けた」と。(1~2節)
エルサレムの苦役。もちろん、捕囚のことです。神の民は崩壊し、神殿は破壊され、人々は遠い国まで連れて行かれました。信仰共同体としても、民族としても、生活者としても、アイデンティティは崩壊しました。彼らの状況を一言で言うなら、それは「虚脱」だと思います。
27節に、このようにあります。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ語るのか。『私の道は主から隠されており、私の訴えは私の神に見過ごされている』と」。誰一人、信じていませんでした。神に、自分たちをこの悲惨から救う力などありはしない、と。神様のことも、信じるということ自体も、完全に諦めていました。
しかし、神は預言者に言います。「高い山に登れ、シオンに良い知らせを伝える者よ。声を上げよ、恐れるな。ユダの各地の町に言え。『見よ、あなたの神を。』見よ、主なる神は力を帯びて来られ、御腕によって統治される。主は羊飼いのようにその群れを飼い、その腕に小羊を集めて、懐に抱き、乳を飲ませる羊を導く(9~11節抜粋)」。神が私たちを救ってくださるなどと、誰にも信じようがありません。しかし、その心に優しく語りかけよ、良い知らせを山の上で告げ知らせよ、と言います。
さらに、『シオンに良い知らせを伝える者よ』という言葉は、文法的には「良い知らせを伝える者、シオンよ』という意味である可能性もあります。」良い知らせを聞いてもう一度立ち上がったシオン自身が、今度は良い知らせを伝える者になる。そういう呼びかけでもあるのだと思います。
神様は、私たちの思いを越えて、良い知らせを告げてくださいます。私たちにはもう無理だと思われるところで、私たちの思いに逆らって、救いの約束を宣言してくださいます。神様から来た約束なのであれば、それは、私たちの感情が逆らったとしても、確かなのです。
イザヤ書40;
イザヤ書は第40章から、捕囚末期から解放期に時代が移ります。これまで、列王記や歴代誌の通読をしましたが、それぞれの下巻の最後のところに少しだけ書いてありました。また、解放の様子はエズラ記とネヘミヤ記に書かれていました。そういう時期に預言者たちがどういう活動をし、何を語ったのか。まずはこのイザヤ書第40章以降から見始めていくことになります。
その冒頭はとても印象深い言葉から始まります。
「慰めよ、慰めよ、私の民を」と、あなたがたの神は言われる。「エルサレムに優しく語りかけ、これに呼びかけよ。その苦役の時は満ち、その過ちは償われた。そのすべての罪に倍するものを、主の手から受けた」と。(1~2節)
エルサレムの苦役。もちろん、捕囚のことです。神の民は崩壊し、神殿は破壊され、人々は遠い国まで連れて行かれました。信仰共同体としても、民族としても、生活者としても、アイデンティティは崩壊しました。彼らの状況を一言で言うなら、それは「虚脱」だと思います。
27節に、このようにあります。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ語るのか。『私の道は主から隠されており、私の訴えは私の神に見過ごされている』と」。誰一人、信じていませんでした。神に、自分たちをこの悲惨から救う力などありはしない、と。神様のことも、信じるということ自体も、完全に諦めていました。
しかし、神は預言者に言います。「高い山に登れ、シオンに良い知らせを伝える者よ。声を上げよ、恐れるな。ユダの各地の町に言え。『見よ、あなたの神を。』見よ、主なる神は力を帯びて来られ、御腕によって統治される。主は羊飼いのようにその群れを飼い、その腕に小羊を集めて、懐に抱き、乳を飲ませる羊を導く(9~11節抜粋)」。神が私たちを救ってくださるなどと、誰にも信じようがありません。しかし、その心に優しく語りかけよ、良い知らせを山の上で告げ知らせよ、と言います。
さらに、『シオンに良い知らせを伝える者よ』という言葉は、文法的には「良い知らせを伝える者、シオンよ』という意味である可能性もあります。」良い知らせを聞いてもう一度立ち上がったシオン自身が、今度は良い知らせを伝える者になる。そういう呼びかけでもあるのだと思います。
神様は、私たちの思いを越えて、良い知らせを告げてくださいます。私たちにはもう無理だと思われるところで、私たちの思いに逆らって、救いの約束を宣言してくださいます。神様から来た約束なのであれば、それは、私たちの感情が逆らったとしても、確かなのです。