2019年11月16日土曜日

2019年11月16日(エゼキエル書33〜34)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書18:28~40,エゼキエル書33~34

エゼキエル書33~34;
主なる神様の、悲痛な叫びのような言葉です。「人の子よ、あなたはイスラエルの家に言いなさい。あなたがたはこう言った。『我々の背きと罪は我々の上にあり、そのために我々は痩せ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。私は生きているーー主なる神の仰せ。私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよいだろうか」(33:10~11)。
イスラエルの人たちは、もう諦めていました。自分たちのことを。自分たちの破滅と滅亡を前に、もはや疲れ果て、気力を失っていました。「虚脱」と言っても良いかもしれません。どうしてそれほどまでに力を失っていたのか。21節を見ると、「エルサレムから逃れた者が私のところに来て、『都は破壊された』と言った」とあります。ここで報告されているのは、いわゆる第二回バビロン捕囚です。これは、イスラエルの完全な滅亡の知らせです。神殿も破壊され、都も王家も破滅し、国王自身も捕囚の憂き目に遭いました。人々は、これは神の裁きだと受け止めた。だから、もう自分たちは何をしても無駄だ、どうせ救われることなどない。そうやって諦めたのです。
しかし、神様は、エゼキエルになお見張りの役目を果たせと命じます。イスラエルの人々に、今こそ主に立ち帰り、主に従うように言えと命じます。諦めずに、主の御許でもう一度やり直せと主ご自身が招いておられます。
ところが、エゼキエルの言葉は聞かれませんでした。「私の民はあなた(エゼキエルのこと)の前に座り、その言葉を聞く。しかし彼らはそれを行わない。口ではお世辞を言うが、心は自分の利益を追い求めるからだ」(31節)。まるで歌謡曲でも聞いているように聞き流す、ありがたいお言葉だなどと言いながら、ちっともそれに従うために自分を変えようとはしない。この招きは、主なる神様の悲痛な叫びなのではないでしょうか。
第34章には、イスラエルの牧者の話が登場します。ここで言う「牧者」とは、王などのっくにの指導者のことです。彼らは自分の私腹ばかりを肥やして、民を食い物にした。しかし神の前に不義なのは牧者だけではなく、羊も、神が与えてくださった澄んだ水を踏みにじっていると指摘されています。
そこで、神が一人の牧者を立ててくださいます。「私は彼らの上に一人の牧者を立て、彼らを養わせる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。主である私が彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの中で指導者となる。主である私がこれを語った。私は彼らと平和の契約を結ぶ」(34:23~25)。主ご自身が立ててくださる牧者によってしか、私たちは救われません。牧者も羊も不義なる私たちの救いは、神が平和の契約をもって立ててくださる牧者にかかっています。この方は、どんなときにも諦めずに私たちに語り続けてくださいます。「私は悪しき者の死を喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか。」主は、今朝も私たちに呼びかけておられます。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...