2020年6月21日日曜日

2020年6月21日(使徒言行録14)

使徒言行録14
リストラで、足の不自由な男を癒やしたパウロ。群衆はそれを見て驚き、言いました。「神々が人間の姿をとって、私たちのところに降りてこられた」。そして、バルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」と呼んで、二人にいけにえを献げようとしました。バルナバとパウロはそれを見て自分たちの衣を引き裂き、叫んで言いました。「皆さん、なぜ、このようなことをするのですか。私たちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。」
リストラの人々は、足の不自由な男が癒やされたことにさぞびっくりしたのだろうと思います。それはそうです。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった人間が、躍り上がって歩き出したのです。それで、そんなことができるからにはこの人たちは神々に違いないと思い込んでしまった。無理からぬことだ思います。
ゼウスやヘルメスなどと言われると、いかにも2000年前の話であり、いかにもギリシア文化圏の話であるように聞こえるかも知れません。しかし、案外私たちにも身近な出来事なのではないかと思います。自分にとって言い知れぬ恩のある人。あるいは、自分にはないような知恵を持つ人。力がある人。才能がある人。そういう人を前にしたとき、私たちはしばしば依存します。その人の意見が絶対になってしまったり、自分でものを考えることを放棄してその人の言いなりになってしまったりします。それは、事実上、その人を神さまに祭り上げていることに等しいのではないでしょうか。
パウロとバルナバは、リストラの人々の振る舞いに対して「偶像を離れて」ください、と訴えます。この偶像という言葉に、日本聖書協会共同訳では注をつけていて、直訳すると「空しいもの」という意味だと書いています。偶像とは、空しいもの。人を神と祭上げること、誰かに依存すること、言いなりになること、自分で考えることを放棄すること、それはむなしいことです。なぜなら、真の神さまが見えなくなっているからです。
バルナバとパウロはこのようにして各地で伝道し、帰途に就き、シリア州アンティオキアの教会に戻りました。自分たちを送り出してくれた母教会に帰っていきました。そこで神が「異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」のでした。パウロもバルナバも、働いてくださっているのは自分たちではなく神さまだと知っていました。だから、神さまの御業を喜び、自分たちは証人に徹したのです。真の神さまの御業が、明らかにされるために。

2024年4月19日の聖句

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