2020年6月27日土曜日

2020年6月27日(使徒言行録17:16〜34)

使徒言行録17:16~34
パウロはアテネに着きました。ギリシアの文明の中心地です。今日の私たちでも知っているとおり、アテネはいろいろな神々を祀る都市です。町中に偶像があるのを見て、パウロは憤りを覚えました。パウロの偉いところは、怒ってその町のことなんて知ったことかと切り捨てなかったところです。「会堂ではユダヤ人や神を崇める人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合った。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、『このおしゃべりは、何を言いたいのか』と言う者もいれば、『彼は外国の神を宣伝する者らしい』と言う者もいた。」
アテネの人々と論じ合っていたパウロ。パウロが伝えたのは、「イエスと復活についての福音」でした。アテネの人たちの多くは、新しいもの好きだったようです。パウロが語る珍しい話に興味を持ち、目新しいことを聞こうと思って集まってきました。それに対して、パウロは、キリストの復活の話をします。「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
ところが、復活の話を聞くと、アテネの人々の反応は激変しました。「死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせたもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。」物珍しい外国人の話、外国の宗教の話、普段聞き慣れない異国の文化習俗の話として聞いていたときには面白がって集まってきていた人たちが、復活の話になると、途端に雲散霧消してしまったのです。
私は、これはとても本質的な出来事だと思います。そして、そのまま私たちの宣教の課題に直結します。聖書からいい話をしている間は耳を貸してもらえても、キリストの復活という福音の核心は聞いてもらえない。怪しまれる。「それについては、いずれまた」といなされてしまう。伝道しようと思ったら、誰もが経験することです。パウロも同じ経験をしました。しかし、それでも、パウロはキリストの復活以外の福音を宣べ伝えませんでした。例え聞いてもらえなくても、これこそ福音だと言って譲らなかったのです。それは、かつてペトロとヨハネが「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言ったのと、同じです。私たちは、キリストの御名以外の福音は持ち合わせていないのです。他のものは預かっていない。神さまが私たちに託してくださったのは、キリストの復活による福音、ただこの一つだけです。私たちも、今、同じ福音に生きています。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...