2020年7月1日水曜日

2020年7月1日(使徒言行録20:1〜16)

使徒言行録20:1~16
トロアスでの出来事です。「週の初めの日、私たちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。」何気なく書いてありますが、「週の初めの日」に、彼らは集まっていました。日曜日のことです。そもそもユダヤ教の会堂では安息日に集会がもたれていました。安息日というのは、土曜日のことです。土曜日に仕事を休んで会堂に行き、週の初めの日からは働いていました。しかし、この時すでに、週の初めの日に集まって、パンを裂く礼拝を献げていたようです。「パンを裂く」というのは聖餐を指します。週の初めの日に集まる。そして、パンを裂き、御言葉に耳を傾ける。私たちも献げている礼拝の原型が、この時すでに整っていたことになります。
ここでの問題は説教中に起きました。パウロの話は夜中まで続きました。「私たちが集まっていた階上の部屋には、たくさんの灯がついていた。エウティコと言う青年が、窓に腰をかけていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。」何と言うことか。あまりに長いパウロの説教で居眠りをした青年が、腰掛けていた窓から転落し、死んでしまったというのです。長い説教で人が死んでしまうとは!
しかし、事は先に進みます。「パウロは降りて行き、彼の上にかがみこみ、抱きかかえて言った。『騒がなくてよい。まだ生きている。』そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った若者を連れて帰り、大いに慰められた。」パウロは、この青年の上にかがみ込み、彼はまだ生きていると言います。そして、彼は生き返った。この仕草は、主イエスのなさった振る舞いとよく似ています。主イエスはヤイロの娘が死んだときに言いました。「泣かなくてもよい。娘は死んだのではない。眠っているのだ」と。そして、彼女の手を取って起こしてくださいました。パウロも主イエスのなさったことをなぞるようにして、この若者をもう一度立たせます。
安息日(土曜日)に献げられていた礼拝が、なぜ週の初めの日(日曜日)に変更になったのか。それは、主イエス・キリストが週の初めの日に復活したからです。キリストの命を祝うために、キリスト教会は土曜日ではなく日曜日に礼拝を献げるようになりました。ですから、日曜日の礼拝はキリストの命を祝う祝祭です。パンを裂いて、キリストの十字架を思い起こして献げる礼拝は、キリストの命に与る出来事です。この出来事は、私たちに命を与えます。私たちも、あの青年のように、キリストの命に与っています。それが週の初めの日に集まって礼拝を献げるという出来事が指し示す福音の事実です。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...