2020年7月20日月曜日

2020年7月20日(マタイによる福音書23:1~22)

マタイによる福音書23:1~22
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。」
私たちは言葉では簡単に嘘をつくことができますが、行動で嘘をつくことはなかなかできません。主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の言葉に嘘や偽善があることを見抜いておられました。その行動が、本当に心の中に秘められていることを明らかにしてしまっていると主は言われます。何が秘められているのか?褒められたい、人から一目置かれたい、重んじられたい、尊敬されたい。彼らの言葉や見せかけばかりの行いの動機付けはそういうところにある。だから、本当に神を信じ、敬うところで生まれてきた行動ではなくなってしまっている。
こういう言葉に触れると、本当に、心の奥底を見透かされたような気持ちになります。自分の見たくないところ、見せたくないところが、主イエスの前に明らかになってしまっている。主イエスがこのようにして、他ならぬ偽善を指摘しておられるということは、とても厳しい事実です。
具体的に、主イエスはどのように指摘しておられるのか。「神殿にかけて誓っても、それに縛れることはない。だが、神殿の黄金にかけて誓ったら、それを果たさねばならない。」どうしてそういう理屈が通用するのか、外から見るとよく意味が分かりません。しかし、本人たちは大真面目にそう議論して、自分たちの言葉を正当化していたに違いない。私たちには、ごまかすため、自分を正しいと言うためであれば、どんな屁理屈だって生み出すことができてしまいます。
主イエスは、言葉にも行いにも偽りのない方です。社会の中で尊敬されていない人のところへ行って共に食事をし、汚れていると言って排除された者のところに行って手を触れ、罪人と呼ばれる人のところへ行って友になりました。主イエス・キリストの愛は本物です。このお方の愛と真実によって、神様の私たちへの愛と真実が示された。聖書はそう告げます。「私たちが真実でなくても、この方は真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからである(テモテ二2:13)」。キリストの真実が、私の不真実を贖って、こんな私をも救ってくださる。私はそう信じています。

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