2020年7月3日金曜日

2020年7月3日(使徒言行録21:1〜16)

使徒言行録21:1~16
パウロは仲間たちと共に海路でエルサレムに向かいます。しかし、エルサレムのユダヤ教の指導者たちがパウロを激しく憎んでいたことは明白だったので、誰の目から見ても、エルサレム行きが危険であることは明白でした。皆がパウロを止めます。
ティルスでのことです。「私たちは弟子たちを探し出して、そこに七日間滞在した。彼らは霊に促され、エルサレムに行かないようにと、パウロに繰り返して言った。しかし滞在期間が過ぎたとき、私たちはそこをたって旅を続けることにした。」パウロにエルサレム行きを思いとどまらせようとする仲間たちの言葉は、霊に促された言葉、つまり聖霊が語らせた言葉だった、と使徒言行録を書いたルカは伝えています。ここに、このときの出来事の特徴があると思います。
カイサリアでは、アガポというエルサレムから下ってきた預言者と出会います。この人はパウロの帯を手にとって言いました。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す』」と。これを聞くと、ルカたちも「土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ」のでした。ここでもやはり、聖霊なる神様ご自身が、エルサレムに行くと捕らえられると警告していた、と言います。
パウロは聖霊の導きを拒んで、自分勝手な思いでエルサレムに行き、その結果捕らえられたということなのでしょうか?そうだとすると、今の時代精神の言葉で言えば、捕らえられようと何だろうと結局は「自己責任」だということになるのでしょうか。
パウロが見ていたものは、そういう次元ではなかったようです。パウロは言います。「泣いたり、私の心を挫いたり、一体これはどういうことですか。私は、主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか、死ぬことさえも覚悟しているのです。」パウロは、エルサレムに行くことがどんなに危険なのかをよく承知した上で、なおそこへ向かおうと言うのです。これは、十字架へと向かっていく主イエスさまのお姿に重なるのではないかと思います。そのキリストのお名前のために、パウロは同じ道を進みます。
わたしは今朝の使徒パウロの言葉と歩みに触れて、香港の教会の友を思いました。私たちの姉妹教会が香港にあります。教会に行っているからと言う理由ですぐに捕らえられはしないかもしれませんが、そういう日が実際に来てしまう危険性が増しています。今、香港で起こっている出来事について、私たちは今朝特に祈りを献げたいと思います。彼の地のキリスト教会のために。どうか、十字架の主イエスさまが、この地にいる神の民を、今日、そして明日も守っていてくださいますように。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...