2020年8月25日火曜日

2020年8月25日(コリントの信徒への手紙二7)

コリントの信徒への手紙二7
「あの手紙によってあなたがを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔していたとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことであって、私たちから何の害も受けなかったのです。神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします。」
パウロは今では「コリントの信徒への手紙一」と呼ばれている手紙と、今日私たちが読んでいるこの文章との間に何通かの手紙のやりとりをしていたようです。ここで「あの手紙によって」と言っているのは、2:3,4で「涙ながらに手紙を書きました」と言っている手紙のことであると考えられます。コリント教会で起きていたいくつもの間違いを指摘し、厳しく戒める内容だったようです。というのも、この手紙を読んで「あなたがたを悲しませた」とパウロ自身が言っているからです。パウロ自身も涙を流しながら手紙をしたためた。しかし、そのことで私は後悔してはいない。なぜなら、あながたがの悲しみはただの後悔ではなく、神の前での悔い改めになったから。パウロはそう言います。
後悔と悔い改めとは違います。後悔は、自分の中にうずくまることです。自分のへそを見つめながら自分の悲しみの虜になっていく。そこでは悲しみの主人公は私であって、神様は必要なくなってしまいます。しかし、悔い改め、つまり神の御心に適う悲しみは、罪の悲しみの中から神様を見上げます。聖書にはそういう意味での悲しみの言葉がたくさんあります。例えば、哀歌です。「聞いてください、私の呻きを。私には慰めてくれる者がいません。敵は皆、私の災いを聞いて、あなたがそうされたことを喜びました。」悲しみの中で紡がれるこの呻きは、神に向かう祈りの言葉です。自分の中に没入し、自分のへそを見て後悔するのではなく、どん底から神を見上げます。
悲しみには時間がかかります。効率の世界では生産性が認められない感情です。しかし、私たちには神様の前でただただ悲しむ時間が必要です。神様に罪を告白し、救いを求めて祈り、神の慰めに身を浸す、一人の時間が。私たちの魂はそのような祈りの時間によって再生するのです。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...