2020年8月24日月曜日

2020年8月24日(コリントの信徒への手紙二6)

コリントの信徒への手紙二6
「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」
この聖書の御言葉は私にとってはとても思い出深いものです。家族の病気が重かった頃のことです。当時、私は成瀬教会の伝道師でした。ある方が何かの折に私にしおりをくださった。そこに、この御言葉が書かれていました。「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」私たちキリスト者は、苦しみや悲しみの中ででも神の恵み、神の救いを信じます。だからといって、悲しみや苦しみそれ自体がなくなってしまうということは残念ながらあまりないかも知れません。それでも、今こそ、恵みの時、今こそ、救いの人私たちが信じるのは、私たちの苦しみや悲しみのただ中にキリストが共にいてくださるからです。キリストが私たちと共に苦しんでくださるからです。
その事実がパウロを変えました。パウロは自分がこれまで栄誉を受けたときにも侮辱を受けているときにも、不評を買うときも、好評を博するときも、どのようにして生きてきたのかをここで語ります。曰く、「私たちは人を欺いているようでいて、真実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています。」~のようでいてという部分が、目に見えるパウロの現実であったのだと思います。人を欺いているという中傷を受け、死にかけているようであり、迫害され、無一物で、・・・。しかし、彼はキリストにあって喜んでいる。今や、恵みの時だからです。今こそ、救いの日だからです。キリストが私と共にいてくださる。この苦しみを共に味わっていてくださる。私を、そこから救ってくださる。だから、パウロの心は広くなります。心が縮こまっていないのです。広がりを持っている。四面楚歌であっても、キリストに向かって、上に向かって開いている。だから、悲しんでいるようでいて常に喜んでいる、死にかけているようでいてこのように生きていると言うことができました。
私たちの救いは、ただキリスト。私たち自身に自分を救うことができなかったとしても、キリストはそんな私と共にいてくださいます。私たちが絶望しているときにも、キリストは私たちを見捨てません。今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日。それは、キリストに属する事柄です。私たちが恵みの時、救いの日を造り出すのではない。キリストが私を救う恵みの日。キリストが主語であり、その日をキリストが来たらせてくださる。この約束の中に、私たちの今日一日もおかれています。

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35) イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42) 十字架にかけられた一人の罪人が主イ...