2020年8月29日土曜日

2020年8月29日(コリントの信徒への手紙二11)

コリントの信徒への手紙二11
「誇る必要があるなら、私の弱さを誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、私が偽りを言っていないことをご存じです。」
この手紙で、パウロはコリント教会の人々に向き合いながら、自分自身とも向き合っています。自分を格好つけずにコリント教会の前にさらけ出していると言っても良いと思います。「格好つけずに」と口で言うのは簡単ですが、実践するとなると難しいことです。つい見栄を張ってしまいたくなるし、相手からはよく思われたい。もっと言えば、なめられたくないのです。
しかも、パウロとコリント教会の関係は良好ではありませんでした。反パウロ派の人がたくさんいました。そういう相手に自分の弱さを見せるというのは、普通はできないことであると思います。しかしパウロは自分の弱さを誇りました。強さを誇ったのではありません。パウロの強さと言えば、イスラエル人であること、割礼を受けていること、すばらしい教育を受けて育ったこと、ローマの市民権を得ていること、その他いくらでもあげられたでしょう。そうやってどこに持っていっても恥ずかしくないような属性を誇ることをしなかったのです。
その代わりに彼があげているのは、死ぬような目に度々遭ってきたこと、鞭打ち、棒で打たれたこと、難船、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難。苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。そのように言って、パウロは、苦労話をして同情を引こうとしているのではないことは明らかです。同情なんてしてくれない人が相手ですから。そうではなく、これらの自分の弱さが、神の永遠の恵みを証ししているから、それを誇っているのです。
パウロの弱さは、コリント教会を含めたキリスト教会を愛するための労苦ですし、まだキリストと出会っていない人に福音を届けるための苦難です。パウロはそれを引き受けた。神を愛し、隣人を愛したからに他ならない。そうなると、もう自分をよくみせるとか、格好つけるなんていうことが入り込む余地はなくなってしまいます。
キリストを愛し、キリストを見つめて生き、隣人にキリストを届けたい。パウロはただそのことだけに専心したのだと思います。私たちの人生のモデルがここにいます。キリストのものとされたとき、私たちは自分自身からも、他人の目からも解放され、キリストと隣人を愛することに自分のすべてを注いで生きることができるのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...