2020年9月16日水曜日

2020年9月16日(テサロニケの信徒への手紙一2)

テサロニケの信徒への手紙一2
「きょうだいたち、あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところへ行ったことは無駄ではありませんでした。それどころか、知ってのとおり、私たちは以前フィリピで苦しめられ、辱められましたが、私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中でもあなたがたに神の福音を語ったのでした。私たちの宣教は、迷いや不純な動機から出たものでも、策略によるものでもありません。私たちは神に認められて福音を委ねられたので、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、私たちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。知ってのとおり、私たちは、こびへつらったり、口実を設けて貪ったりはしませんでした。それは、神が証ししてくださいます。」

パウロは、何よりもまず神様との関係の中で物事を判断する人なのだと思います。人からどう思われるか、どう判断されるかということを基準にするのではなく、あるいは自分の達成感や徒労感というところではなく、あくまでも神様が自分をどう御覧になるかという点を大切にしました。
私があなたがたのところへ行ったことは無駄ではありませんでしたと言っています。もしかしたら、外面的に見ると無駄に見えるような事情があったのかも知れません。しかしそれが無駄ではないと断言できるのは、テサロニケに教会が生まれ、福音の言葉を聞いた人がいるからであるのだと思います。どういう事情があるにせよ、神様から御覧になって、福音を聞き信じる者がいるという事実に意味があるということへの確信があったのではないでしょうか。
パウロがテサロニケに神様によって遣わされたように、私たちも、今日私たちが生きる場所へ神様によって遣わされています。それぞれの場所で、私たちは今日、神様が私たちに預けてくださった業をします。私たちはそれを迷いや不純な動機からすることもできますが、人に喜ばれるためではなく、私たちの心を吟味される神に喜んで頂くためにすることもできます。私たちにとって、外面的に見て有利な状況も不利な状況も起こりえます。しかし、それに惑わされることなく、私をここに遣わしてくださったのは神様だということを信じ、それを基準に、今日という日を過ごしてみましょう。私たちがいるのが神に遣わされた場所であるのならば(そして事実そうなのですが)、そこにはキリストが共にいてくださり、私たちが神に喜んで頂くために献げる業を神様ご自身が御心に留めて喜び、神様からの報いを与えてくださることでしょう。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...